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エヴァーグリーン・ゲーム

 縦横四列に組まれた、十六のテーブル。
 席に着いた者たちは静かにそのときを待っている。
 腕組みをしてうつむく青年、頰杖をついて周囲を眺める少年。
 微笑を浮かべる女、大あくびをする男。
 手元の駒を整える少女、整え終えた駒をじっと見下ろす若者。
 簡素なアームチェアに腰掛けた彼らは、テーブル越しに相手と向き合う。
 一辺がおよそ五十センチの木製ボードに、知恵と技量のすべてを込める。
 願いを、野心を、誇りを、命を懸けて勝負に挑む。
「決勝大会、第一回戦、一ラウンドを開始いたします」
 数千に上る出場者から、予選の末に絞り込まれたのは、三十二人。
 日本一を決する大会が今宵、佳境に入ろうとしている。
 アナウンスが流れ、選手たちは居住まいを正す。
 ボードの上で握手を交わせば、それがスタートの合図だ。
 対局時計のボタンが押される。デジタル表示がカウントを始める。
 白の尖兵が動き出せば、黒の前衛がこれに応ずる。
 選手自らがを書き留める。ペンを走らせる音が立つ。
 双方が思惑を絡ませ合い、複雑な陣形が組まれていく。
 戦略は多様だ。打って出るか、様子を窺うか、正攻法か、奇襲か。
 盤面が大型モニターに映される。観客たちは息を殺して展開を見届ける。
 中継カメラは選手の姿を、順々に捉えていく──。

 ある者は言う。それはただのゲームだと。
 ある者は言う。ただし、この世で最高のゲームだと。
 ある者は言う。頭脳の浪費に過ぎないと。
 ある者は言う。一生を費やしても惜しくはないと。
 どう捉えてもいい。
 ボードに救いを求めた者には、駒たちがきっと応えてくれる。
 人はその戦いゲームを、──チェスと呼ぶ。


 第一章 メイトスレット

 チェスは人生のようなものだ。 
 ──ボリス・ヴァシーリエヴィッチ・スパスキー

 窓のむこうは青空だった。気持ちのいい五月晴れの日が続くでしょう、と天気予報のお姉さんが朝のテレビで言っていた。のどがかあっと熱くなった。くちびるがふるえた。手もふるえた。広い面会ルームで、ぼくは泣いた。
「今週中、には、退院できるって、い、言ったのに、お母さん、ん、うそついた」
 涙が止まらない。しゃっくりも止まらない。車いすのそばでお母さんがひざをつく。
 ぼくを抱いて、「ごめんね、ごめんね」とささやくように何度も言う。
「なんとかなりませんか、先生」
 ぼくの背中をさすりながら言う。「一日だけでも」
「そうですねえ」
 先生はおでこに手を当てて困り顔をしていた。お母さんと同じ三十八歳で、肩までの短い髪もお母さんと同じ。体形が細いのも似ている。前に入院したときはすごく大好きだった。ついさっきまで大好きだった。
 なのに、今は大きらいだ。きれいな白衣をしわくちゃにしてやりたい。
とおるくん、先生もね、透くんのこと、遠足に行かせてあげたい」
 遠足、ということばでまた呼吸が苦しくなる。目がおかしくなったのかと思うくらい、熱い涙が出る。ウー、ウーと自分じゃないような声がのどの奥からもれてくる。
 先生が白いハンカチを取り出した。けれど、受け取る気にはならない。
「先生も中学校のとき、シューガク旅行の日に熱が出ちゃって行けなかったの。だから、透くんが残念に思うのはすっごくわかる」
 中学校のことなんか知らない。ぼくは小学生だ。
 五年生は三日後に遠足に行くのだ。バスに乗って自然博物館に行って、太平洋が見える海浜公園でバーベキューをするのだ。
 ぼくは手ににぎった遠足のしおりを差し出した。ピンクの厚紙でできたしおりだ。こういう楽しいことがあるのに退院を許さないなんてあまりにもひどい。気持ちをこめて見せつけても、しおりをながめる先生の口からは、ほしいことばは出てこなかった。
「……くやしいよね、うん、わかる、わかるんだけど」
 羽田先生はぼくの体についてあれこれ説明した。ぜんぜん聞く気になれなかった。
 セーミツ検査の結果、病院を出るのは危険とわかった。アンセーにしていないと悪化してしまうかもしれない。そんな内容だけが理解できた。
 体が健康でないのはわかっている。今だって両足が動かない。
 本当なら車いすから跳び上がって、先生を引っかきたいくらいなのに。
「透っ、だめっ、だめだってば、体をいじめちゃだめ」
 ぼくは自分のももを思いきりなぐってやった。この足がいけないんだ。動かないから遠足にも行けないんだ。足が痛い。どうだ。痛いだろう。痛いなら動いてみろ。バカ。
 お母さんがぼくの手首をつかむ。先生がももをなでる。
 こんな足なら無くたっていい。一週間前の学校で事件は起きた。ドッジボールをするため、ぼくは昼休みに友だちと体育館へ走った。その途中でいきなり、足がまったく動かなくなった。廊下で転んだ。友だちはぼくを笑ったけれど、立ち上がれずにいるのがわかるとその場は大騒ぎになった。救急車で運ばれるまで、先生やほかの子に囲まれ、恥ずかしくて仕方なかった。足はジンジン熱く、チクチクさすような痛みとしびれが夜まで消えなくて、次の日には三十九度も熱が出た。寝ていることしかできなかった。
「退院したら好きなとこ行こ? ね?」
 お母さんが指でぼくの涙をふく。ほっぺがグイッと伸ばされるのがイヤだ。
「海外旅行とかしちゃおうか? 今のうちに行きたいところ考えて」
「お母さんのせいだ!」
 ぼくはその手を払いのけた。羽田先生から遠足のしおりをひったくった。やけくそな気分だった。しおりをクシャクシャに丸めて、力いっぱい、お母さんにぶつけた。
「こんな体に生まれたくなかった!」
 ぼくが叫ぶと、お母さんの目が大きく開いた。くちびるがふるえた。口を押さえてうつむいたお母さんの黒い髪に、白いのが何本か見えた。
 白髪がある。なぜかそんなことにハッとして、とんでもないことを言ったと気づく。
「透くん、今のはよくないよ」
 羽田先生がぼくの肩をつかむ。「あやまりなさい」
 ふり払う気にはなれない。顔を見る勇気もない。「ごめんね」とお母さんがつぶやく。
 丸まったしおりが白い床に落ちている。しおりじゃない。ぼくがぶつけたのは石だ。
 かたくてゴツゴツした石を、ぼくはぶつけてしまったのだ。
 お母さんがぼくをどれほど心配しているか、大切に思っているかを先生は話した。ぼくはあやまろうと思ったけれど、声に出せなかった。お母さんを傷つけてしまった事実は、どうやっても消えない気がした。「いいんです」とお母さんが先生に言った。
 ぼくは最低なことを言った。遠足に行く資格はない。
 そうやって、自分にみとめさせるしかなかった。

  *

 全身型特発性神経不全症。
 ぼくが知っている中でいちばん長く、漢字の多いことばだ。
 そして、いちばんきらいなことばだ。それが、ぼくの病気の名前だった。
 この病気にかかるのは、二百万人に一人らしい。
 体が突然に動かなくなる難病で、治すにはとても長い時間がかかると教わった。
「今回は足だけでよかった」とお父さんは言った。全身が固まるときもあったし、意識がなくなったこともある。急に高熱が出たりすごくだるくなったり、起き上がれなくなったりもする。神経キノーが働かなくなるのが原因だそうだけど、細かいしくみはよくわからない。肺とかの内臓が動かなくなった人もいて、その場合は命に関わるらしい。家でも病院でも、しき布団の下にはセンサーがある。もともとは赤ちゃんの突然死を防ぐためにつくられたものらしく、呼吸が止まったらアラームが鳴るしかけだという。鳴ったことはないけれど、可能性があると思わされるだけでもイヤなものだ。
「初めて発作が起きたのは、幼稚園の年少のころだ」とお父さんに聞いた。
 自分ではよく覚えていない。
 年長のときと、三年生のときに入院したのは覚えている。
 年少のころは二ヶ月、年長では三ヶ月。三年生のときは、半年入院した。
 だんだんと期間が長くなっている。そのことについてはあまり考えたくない。
 今回の入院も、前と同じ大学病院で、同じ四階の小児病棟。
 四人部屋、二人部屋、一人部屋。病室がいくつもある。赤ちゃんから中学生までが入院していて、ぼくは四人部屋だ。クリーム色のかべの退屈な病室には、中学生の人と六年生の人、ぼくと同じ五年生の人がいた。みんな男子だ。知らない顔ばかりだった。
 何年も病院ですごす子供もいるそうだけど、前に仲良くなった子はみんないなくなっていた。あの子は退院した、この子は別の病院に移ったと、羽田先生はいろいろ教えてくれたけれど、本当かどうかわからない。
「ザンコクな真実」みたいなものをかくしているのかもしれない。
 何かを期待するのはやめよう、とぼくは思う。
 いつ退院できるのかを尋ねても、先生もお母さんもお父さんもはっきり答えてくれないし、教えられても喜ぶ気にはなれない。三年生のとき、はじめは一ヶ月の入院と聞いていたのにずるずる長くなって、結局半年になった。
 今回も数日だけのはずだったのだ。遠足に行けるはずだったのだ。
 ぼくは裏切られた。裏切られるくらいなら、期待なんかしないほうがいい。
 家出みたいに「病院出」を考えてみるけれど、無理だ。家からここまでは車で三十分かかるし、近くに何があるのかもわからない。お母さんとお父さんは毎日、交替で面会に来る。「ゲームでもマンガでもほしいものは何でも言え」と言うけれど、何もほしくない。「健康な体がほしい」と言いそうになるのをぼくはがまんする。お母さんは友だちからの手紙を持ってくる。でも、あまり読みたくない。遠足のようすが細かく書かれていたら最悪だ。どうせなら雨になってしまえと空をながめたけれど、お天気お姉さんの言ったとおり、当日は晴れだった。自分がイヤなやつみたいだと思ってさらにイヤな気分になった。お父さんもお母さんも「友だちはできたか」と尋ねてくる。そのたび、ぼくは首を横にふる。「同じ部屋にいるんだから仲良くすればいいのに」とお母さんは言う。「別に仲良くしたくない」とぼくは答える。「どんどん話しかけてみろ」とお父さんは言う。「話したいことは何もない」とぼくは答える。食堂で食事をするときも、院内学級で授業を受けるときも、質問されたことに答える以外、話をするつもりはない。
 忘れられない、悲しい出来事がある。
 二年前に入院したとき、仲良くなった子がいた。部屋は別々だったけど、同い年のその男の子とは気が合った。消灯時間のあともおたがいの病室にこっそり入った。看護師さんに見つかって大激怒をくらうまで、ベッドの中でおしゃべりをした。好きなゲームやアニメについていつまでも話していたかった。その子といるあいだは入院の辛さも考えなくてすんだ。
 けれど、その子は死んだ。
 病院で仲良くなれば、その分悲しい思いをすると、ぼくは学んだ。
 退院するときも、自分だけ自由になるのが悪い気がした。
 誰かが先に退院したら、それはそれで取り残された感じがした。
 だから、周りとなじもうなんて思わない。
 なじめば、ずっとここにいなくてはいけないような気持ちになる。
「でも、それじゃあ面白くないだろ?」
 面会ルームの長いソファで、お父さんはぼくの肩にぽんと手を置いた。モジャモジャ頭でヒョロッとした体格のお父さんは、高校の頃にバスケットボールでインターハイに出たらしい。うらやましかった。ぼくもそんな体に生まれたかった。「ふさぎ込んでたらよくないぞ。人と会話して、脳を刺激しろよ」
 ぼくの頭にてのひらを乗せて、ふざけるようになで回す。
「治ってきてるよ。とっくに歩けるし」ぼくは顔をそむけて言った。
 入院して三週間がたった。もう車いすは必要ない。足のしびれもないし、五十メートル走をすれば七秒台を出す自信がある。「退院できるよ」
「だけど、昨日は一日、ベッドの上だろ?」
 病院での状況はすべてつつぬけだ。ため息をつく。ため息はやめろと言われるけれど、不自由なのだからせめて、ため息の自由くらいほしいものだ。
 昨日の朝、ぼくが味わったのはゼツボウという感情だ。
 金しばりみたいに全身が動かなくて、目がさえたらおなかが痛くなった。胸とみぞおちのあたりも痛くなって、うでも首も腰も痛くなった。痛みはまるでいじめっ子の集団みたいに、ぼくの体のあっちこっちをつついては笑っているのだ。一日のごはんは三回とも、看護師のお姉さんの持つはしとスプーンで口に運ばれた。立ち上がることもできないし、おむつをはかされる恥ずかしさも消えない。
 注射をされて痛みはだんだん治まったものの、テレビを見るくらいしかやることがなかった。大人向けのニュースを見ながら、同級生より世の中にくわしくなっているのだと自分に言い聞かせた。
「そういうときは特に、話し相手がいたほうがいいじゃないか」
「看護師さんが来てくれるよ」
「それで満足できるか?」
 できるよ、とぼくはつぶやいた。口の中で、うそのにおいがした。
 痛切に、ということばを、ニュースで覚えた。昨日のぼくは、痛切に、話してみたいと感じていた。むかいのベッドの子。同じ五年生の男子だ。よくわからないものをベッドテーブルに置いて、それをいじくっていた。かと思えば、白い紙をにらんだまま長いこと固まり、「そっか!」と叫んでまたテーブルのものをいじくった。
 アキラ、という名前だ。看護師さんと羽田先生がそう呼んでいた。
 だれとも仲良くなる気はない。
 そう思っているはずなのに、胸の中でムズムズと、話したい気持ちがふくらんだ。
「ねえお父さん、ああいうのって、なんていうのかな」
 ぼくは四角い形を手で描いた。「平らなしょうばんみたいなのがあって、人形みたいなのがたくさ
んあって、でも将棋じゃなくて」
 アキラはときどき、本を片手に持ったまま、もう片方の手でその人形を動かした。
「ゲームかもしれない。人形をいっぱい動かしてたし」
「ああ、もしかしたらそれは」
 お父さんが何かを言いかけたとき、面会ルームのドアが開いた。ぼくはドキッとした。
 横開きのドアから姿を見せたのは、アキラだった。
 あの平らな板を両手で持ち、板の上には小さな人形みたいなものが並んでいた。横にはお父さんらしき人がいた。アキラと並ぶと、とても背が高く見えた。
「こんにちは」とぼくのお父さんが言った。むこうのお父さんもあいさつを返した。
「知り合いなの」と小声で尋ねると、「知らないよ」とさらりと答えた。大人はどうして知らない人に、簡単にあいさつできるのかとふしぎでならない。
 テーブルに板を置いて、二人は向かい合わせでいすに腰かけた。
「あれだよ、あれ」
 少しはなれた場所から、ようすを観察する。やっぱりゲームにちがいない。白い人形とこげ茶色の人形をかわりばんこで動かしている。「なんていうの? あれ」
「直接きいてみろよ」
 せっかくささやき声で言ったのに、お父さんはむこうに聞こえるくらいの声を出した。
 アキラがちらっとこっちを見た。ぼくはあわてて下を向いた。
「いいよ。あとで看護師さんにきくもん」
「気になったらすぐに解決しろ。気分がすっきりして体にもいい」
 お父さんは立ち上がり、二人のそばに近寄った。
「お楽しみのところ、すみません」
 テーブルを指さし、ぼくのほうをふり返る。「息子が、これに興味があるみたいで」
 アキラたちもぼくを見た。緊張で背筋が伸びた。お父さんの手招きで、ぼくはおそるおそる三人のところに近づいた。間近で見たそれは木でできた板だった。白とこげ茶のチェックもようが描かれていて、三十個くらいの人形がのっている。きっとこの板はゲーム盤で、人形のひとつひとつは将棋でいう駒だ。
「ほら、きいてみろ」とお父さんがぼくの背中をたたいた。
「こ、これは、何ですか」
 ぼくは駒の群れを見つめたまま、どちらにともなく尋ねた。
「チェスだけど」
 と答えたのはアキラだった。顔も上げず、あごにこぶしを当てて盤をにらんでいる。赤いトレーナーには、大きな白い王冠が描かれていた。
「やったことないかい?」
 無愛想な感じのアキラとちがって、お父さんのほうはやさしく言った。丸いめがねにあごひげを生やし、短い髪は頭のてっぺんでピンととがっている。どんぐりみたいだと少し思う。チェスということばを、ぼくは口の中でくり返してみた。
「ないでしょ、名前知らないんだから」アキラはぶっきらぼうな言い方だった。
「ぶすっとした声出すなよ。いくら俺に二十連敗中だからって」
「うるさい、引き分けもあったっつうの」
 アキラは前髪を乱暴にかきまわす。「いい手が浮かびそうだったんだよ、このビショップさえどかせれば、タクティクスが決まるんだ」
「そうだな、だけど、クイーンサイドに気を取られてると、こうなるぞ」
 アキラのお父さんがこげ茶の駒を動かした。白い駒を盤から出した。
 すると、アキラは「うう」とうめき声を出して頭を抱えた。
「ルーク取られた」
 いすにもたれ、ぼくのほうをジロリと見る。「おまえが話しかけるからだ」
 ぼくはビクッとした。アキラはため息をつき、うすいまゆ毛を八の字にした。
 あやまったほうがいいのかとアキラのお父さんを見たら、目を丸くしていた。
「何だ、友だちだったのか」
「友だちじゃない。同じ部屋の子。しゃべったことない」
「それなら、おまえなんて言い方は失礼だろ。ごめんね、申し訳ありません」
 アキラのお父さんは立ち上がって、ぼくたちに頭を下げた。ぼくのお父さんはいえいえと手をふった。キョウシュク、というやつだ。アキラのお父さんは座り直すとテーブルにひじをつき、低い声で言った。「ほら、ちゃんとあやまれ」
 アキラはふてくされたようにくちびるを閉じていた。
 そんなアキラを見て、ぼくは二週間前の自分を思い出した。この面会ルームで、お母さんを傷つけたときの自分だ。ぼくはなんだかアキラがかわいそうに思えた。
「あやまらなくていいよ。その代わり」
 勇気をふりしぼって、続けた。「ルールを、教えてくれない?」
 アキラはパッと顔を上げた。おどろいたような表情だった。
 すぐに目をそらして白い駒を動かす。こげ茶の駒をつまんで手元に置く。
「あとでね。今日はパパに勝つまでやめないって決めてるから」
「おいおい、じゃあ俺は泊まり込みになるなあ」
 アキラパパの笑顔は、チョウハツ的だった。こげ茶の駒を動かして、「負けだぞ、サンテメイト」と言った。アキラはうなだれて、背の高い駒をコツンと倒した。
「いいじゃないか、教えてやれ。ちゃんと教えたら、再対局だ」

  *

 アキラパパの体温が残るいすに、ぼくは座った。大人二人はソファで話し始めていた。アキラは駒をひとつひとつつまみ、白とこげ茶をきれいに並べ直した。目の前に並ぶこげ茶の二列を見つめながら、ドキドキが高まる。ぼくは姿勢をただし、両うでをテーブルにのせた。ウキウキとドキドキの混じり合う、新鮮な気分だった。
「将棋は知ってる?」
 アキラは言った。ぼくがうなずくと、「じゃあすぐわかるよ」と明るい声を出した。
 四年生のころ、担任の先生が将棋好きだった。物事を考える練習になるからと、教室に駒と盤のセットを置き、生徒が休み時間に遊ぶのを許したのだ。いっときは男子のあいだで流行して、ぼくもルールを覚えた。うで前はまったくのへぼだけれど。
「白番と黒番に分かれてやるんだ。そっちのが黒番ね」
「こげ茶色だけど、黒なの?」
「こげ茶番だと、なんか格好悪いじゃん」
 ぼくの前の「黒」の駒は横に八個、縦に二個。手の指くらいのたけの駒が合計十六個あり、白
も同じ数だけある。マスは八×八で将棋より少ないから意外と簡単かもしれない。盤の左右両はじには数字が縦に、奥と手前のはじにはアルファベットが横に並んでいた。
「何から言えばいいかな、あ、これがキング。将棋でいう王将」
 アキラは背の高い白駒を持ち上げた。ぼくは黒のキングを持ってみた。駒の頭に十字の目印があった。「それが追い詰められたら負け。このルークがしゃで、ビショップがかく。ナイトはけいみたいなものだけど、桂馬とちがって後ろとか横のほうにも行ける」
 アキラはそれぞれの駒をあちこちに動かしてみせた。
「飛車と角が二つずつあるの?」
 はしっこからルーク、ナイト、ビショップ。それらが左右対称に並んでいる。
 駒には細かな木目があった。木でできているようだ。
「金と銀はないけどね。きょうしゃもない。で、いちばん強いのはクイーン」
 クイーンはキングのとなりにいた。キングの次に背が高い。頭はかんむりのような形だ。
「飛車と角を合体させた駒なんだよ。縦、横、ななめ、どこまでも動ける」
 アキラは白いクイーンを持ち、盤の上で大きく動かした。
 最強だ。最強すぎて反則みたいな駒だと、思わず笑ってしまった。
「ポーンは将棋の歩よりも、ちょっとややこしいんだけど」
 前の列に八個、ずらりと並ぶのがポーン。歩と同じく、一マスずつ前に進める。一度目は二マス進んでもいい。歩とはちがって、ほかの駒に正面をふさがれると進めなくなってしまう。動きを再開できるのは、ななめ前に相手の駒が来たときだ。
 敵のすきをつく兵士みたいに、ななめから切りかかることでポーンは前進していく。
 アキラはスラスラと説明し、ぼくは駒を動かしながら決まりを覚えていった。
「成りはあるの? 歩がと金、、になるみたいな」
「と金どころじゃないよ。ポーンはクイーンになれる。キング以外なら、何にでも」
 ウキウキと、ドキドキ。そこにワクワクが加わる。弱っちいポーンが、攻撃をかいくぐっていちばん奥まで切りこめれば、最強の駒に生まれ変わる。なんて大胆なんだろう。
「キャスリングってのもあってね、あとはアンパッサンも」
 アキラはルールをくわしく教えてくれた。忘れてしまわないか不安だったけれど、全体的には将棋より簡単に思えた。
「一回やってみようぜ。白番でやっていいよ。白のほうが少し有利だから」
 盤の向きを反対にするアキラを見て、ぼくはきょとんとしてしまった。
「いいの?」
「別にいいよ。それとも黒のほうがいい?」
「そうじゃなくて」
 ぼくにルールを教えたら再対局だとアキラパパは言っていた。そのアキラパパはお父さんと話しこんでいた。アキラは二人のほうに目をやって、「あとでいいや」と笑った。
 ぼくはうれしくなって、前のめりにチェス盤を見つめた。
「どれでもいいんだよね、最初に動かすの」
「ふつうはポーンかな、っていうか、ポーンかナイトしか動かせないよ」
 じゃあ適当に、とぼくは右から三列目のポーンを二マス分、前に出した。するとアキラは、キングの正面にある黒ポーンを二マス、前進させた。ぼくが動かした白ポーンの、左ななめ前に来た形だ。この場合は。ええと。
「いいんだよね、取っても」
「ななめだから取れるよ」
 ぼくは黒ポーンをマスからどかし、盤の横に置いた。突き進むぼくのポーンの三マス先に、黒いキングがいる。正面はがら空き。アキラは次にナイトを動かす。ポーンがねらわれていると気づいたけれど、逃げようもないし、先に進めばただで取られてしまう。先頭を走るポーンをあきらめて、今度は右から二列目のポーンを動かそうと決めた。
 丸っこい頭をつまみ、二マス分、前に進めた。
「あちゃー」
 アキラは大きく笑った。白い奥歯がはっきり見えた。笑いの意味がわからずにいるぼくを差し置いて、アキラは黒いクイーンをななめにギュンと動かした。クイーンがはじの列に来る。ぼくのキングにねらいを定める。チェック。将棋の王手と同じ状態だ。
 キングを守らねばならない。もしくは、逃がしてやらなければ。
「あれ?」
 どの駒を動かすべきか、真剣に考える。戦える駒を探して知らないうちに手が泳ぐ。ナイトかルークか、ビショップか、何でもいい。守らないと。
「あれ? えっと」
 ぼくのようすがおかしかったのか、アキラは「くふふっ」と笑い声をもらした。
 その理由がわかった。
 キングを守れる駒がない。逃がせる場所もない。
 味方の駒に邪魔されて行き先がなく、ルークは動けず、キングのそばにいるビショップもナイトも、黒いクイーンの攻撃を止めることができないのだ。
「チェックメイトだよ」アキラは言った。将棋でいえば、詰みだ。
「三回しか動かしてないのに!」
 思わず叫んだぼくに、「最短なら二回で詰める」とアキラは言った。ぼくはのけぞりそうになった。あらためてチェス盤を見直しても、やっぱりキングに助かる道はない。
 ほとんどの駒が、まだ何もしていないのに。
「こんなに早く終わるものなの?」
「ふつうは何十手もやるよ。けど、指し方が下手くそだとすぐ終わる、あ、ごめん」
 失礼なことを言っちゃったとばかりに、アキラは両手で口を押さえた。
 へぼなうで前の将棋でも、これほどあっさり負けたことはない。
 ポーンとナイトとクイーン。アキラはそれらを一度ずつ動かしただけなのだ。
 自分の負けっぷりにぼくはコーフンしていた。感動、というのかもしれない。
 負けたのに、なぜかとても気持ちいい。よくわからない感情だ。
 もっとうまくやって、相手を攻略してみたい。
「もう一回やりたい」素直な気持ちがポロッとことばになる。
「いいよ、今のじゃ短すぎるもんね」
 いすであぐらをかくアキラはとても楽しそうだった。パパに負け続けていた分、勝てる喜びにうえている感じだった。
「そろそろパパ、帰るぞ」「お父さんも行くけど」
 お父さんたちに声をかけられても、ぼくたちはかまわずチェス盤を見つめ合った。病室に戻って、アキラのベッドでチェスを指した。夕食の時間になっても続けていたら、「いい加減にしなさい」と看護師さんから怒られた。チャチャッとごはんを食べて、またチェスに戻った。何時間も、何局も指し続けた。
 ぼくは一度も勝てなかったけれど、楽しくて仕方なかった。
 チェスのセットがほしい。
 病棟の電話で、ぼくはお父さんにお願いした。

  *

「うまくなるにはね、ジョーセキを覚えて、タクティクス問題をいっぱい解くといいよ」
 あきら(病室の名札で漢字を覚えた)には、ほかにもチェス仲間がいた。
「タクティク?」
「今、輝がやってるこれ」
 お昼ごはんのあとで、ぼくたち三人はラウンジのテーブルを囲んだ。マンガを読んだりケータイゲーム機で遊んだりする子たちにまぎれ、チェス盤を見下ろす。輝は黙りこんだまま駒の動かし方を考え、輝のむかいではめがねの男子がうで組みしていた。
「手筋のパズルっていうかな。決められた状況で、正解の手を探す」
「詰め将棋みたいなやつ?」
「似てるけどちょっとちがう。別にメイトにしなくてもいいの」
「わかったぁ!」と輝が大声を上げ、目を輝かせた。「これがこうなると、こうで、これがこうで、こうこうこう」とつぶやきながらチョコチョコと駒を動かした。問題を出しためがねの男子が「正解」と言うと、「よっしゃあ」と輝はガッツポーズをした。ぼくには何が何だかわからなかったけれど、チェスをしているときの輝は本当に楽しそうだ。
「ルイはこれ、何分で解いた?」
「五分くらいかな」
「勝ったわ。こいつね、すげえ頭いいんだぜ」
 輝に指さされ、ほめことばにまんざらでもなさそうな男子。同じ五年生のルイ。水色のニット帽でレンズの厚いめがねをかけ、赤らんだほっぺがふっくらしている。
「授業のときも、難しい問題集解いてるよね」
 その頭のよさは院内学級で感じていた。教科書で勉強するぼくや輝とちがい、まだ学校では習っていない歴史の本を読んだり、複雑な図形の問題を解いたりしている。
「カイカ中学目指すんだってさ」
 クラスにも何人か、中学受験用の塾に行っている子がいる。
 輝によると、カイカは東大合格者を毎年何十人も出す、中高イッカンの有名校。ルイは入院中も塾の課題に取り組み、通信テンサクの勉強もこなすという。
 すごいやつがいたものだ。平凡な脳みそのぼくにはとてもできそうにない。
「カイカにはチェス部があるんだよ」
 ルイは言った。「チェス部って、ほかの学校にはほとんどなくて」
「それを聞くとおれも入りたいって思うけど、さすがに勉強づけはなあ」
「輝はチェス教室があるじゃん」
 輝の強さの秘密は、チェス教室にあった。検査結果が良ければ月に一回は外出を許され、地元の教室へ行くのだという。「タイミングが合ったらいっしょに行こう」と輝は言った。ぼくの場合、なかなか許可は下りないので、行けるかどうかわからない。
「勉強がイヤだったことは一度もないな、おれ」
 ルイのことばにぼくはおどろいた。「こういうやつなんだ」と輝は笑った。
「ほんとだよ」と駒を並べ直しながらルイは言った。
「コーガンザイで頭がボーッとして、呼吸器とかしてるときは何もできなくなるんだよ、体も痛いし、苦しいし。勉強できるのは、脳が活発に動いてる証拠でしょ」
 ルイの話を聞きながら、ぼくはどんな顔をすればいいかわからなかった。
 さらっと口にした「コーガンザイ」ということばにドキッとしたのだ。
 二年前を思い出す。ルイの見た目はあの友だちに似ている。ニット帽は髪のぬけた頭を隠すため。ふくらんだほっぺは薬のせいだろう。確か、ムーンフェイスというのだ。
 病気の話をされると反応に困ってしまう。でも、ルイは平気そうな顔で続けた。
「おれ白血病なの。ここじゃめずらしくもないよ」
 長期入院の子供には小児がん、中でも白血病の子が多くいるとお父さんから聞いた。そのひびきには不吉なものを感じた。死んだ友だちも白血病だったのだ。
「透くんの病気は何?」ときかれ、ぼくは正直に打ち明けた。症状を説明して、「二百万人に一人の難病なんだ」と付け加えると、ルイは笑った。
「すごい、超レアじゃん」
 からかうような反応にぼくはムッとした。
「何もうれしくないよ、カードじゃないんだから」
「だいじょぶ。きっと治るよ」
「わかんないじゃん、そんなの」
 きっと治る。学校の同級生や大人に言われてきたはげましだ。やさしさだとはわかっていても、何度も聞かされると、無責任な言い方に思えた。とりあえずそう言っておけば、はげましになる。そんな軽い気持ちで言っているんだろうと。
「治るって信じなきゃ、失礼だよ」
 ルイの口から出たのは、思いがけないことば。ぼくをじっと見る目は真剣だった。
「先生も看護師さんも、親とかもさ、みんな、おれたちが治るって信じて世話してくれるんだよ。なのに、治るって自分で信じないのは、失礼だよ」
 ぼくは言い返せなかった。感心してしまった。確かに頭のいい子だ。
「おれのも治る?」
 輝の病気は、ジェフビッチ症候群という、聞いたことのないものだった。体の中を流れる血の成分が正しくつくれず、血管の中に余分なものがたまってしまい、そのせいで体が苦しくなる病気だそうだ。輝はぼくが入院する一ヶ月前からこの病院にいて、ぼくと同じように、いつ退院できるかわからないらしい。ときどきとてもだるくなったり、高熱が出たりするというのは、ぼくの症状とよく似ていた。
「治るよ」
 ルイより先に、ぼくは答えた。急に照れくさい感じになったけれど、笑顔の輝を見て、言ってよかったと思った。


  *

続きは、10月30日ごろ発売の『エヴァーグリーン・ゲーム』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
石井仁蔵(いしい・じんぞう)
1984年生まれ、新潟県出身。東京大学文学部卒業。本作にて第12回ポプラ社小説新人賞を受賞。

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