空から白い雪が、音もなく舞い落ちている。
今年も冬がこの街に訪れた。
心に積もる悲しみは、この雪のように溶けることはない。
もう何年も、冬に閉じこめられているようだ。
暗闇の中でじっと身を潜めて生きてきた。
なにも見ない。なにも聞こえない。
それでいいと思っていた。
そんな僕の前に、ある日君が現れた。
不思議なんだ。
君のためにできることを探している僕がいる。
この冬、いなくなる君のために。
0年目/新しい季節の中で
ふいに、冬のにおいがして立ち止まる。
正確に言えば、懐かしいにおいに足が勝手に止まり、数秒後に「ああ、これは冬のにおいだ」と理解した感じ。
雪が降っているわけじゃないし、今日が特別寒いわけでもない。
熱海駅前の商店街には、温泉饅頭屋や土産物屋がずらりと並び、夕刻というのに観光客がひっきりなしに歩いている。
鼻から空気を吸いこんでも、冬のにおいはもう感じられなかった。
「どうかした?」
無意識に足を止めていたみたい。少し先で半田煉也が不思議そうに首をかしげている。なんでもないよ、と首を横に振ってから煉也に追いつく。
今はこの人ごみから抜けだすことが最優先事項だ。
「なんで今日は商店街を通るの?」
責めているわけじゃなく、純粋に不思議だった。
大学からの帰り道は駅前にある小道を選ぶのが常。商店街が下り坂になっているせいで、こっちに進むと家までの上り坂がひとつ増えることになる。
それ以上に私は人ごみが苦手ですぐ酔ってしまう。煉也だってそんなこと知っているはずなのに。
「もうすぐ陽葵とつき合って一年だからさ」
少年みたいな笑顔で煉也はそう言った。
ゼミが一緒になった時から煉也の印象は変わらない。はちみつ色に染めた私よりも細い髪に、丸い目と薄い唇の持ち主。明るくていつも輪の中心にいるような人。
一方の私は、自分から話すのは得意ではなく、どこにいても『その他大勢』に区分される。まるで真逆なふたりだから、ゼミでもそれほど会話をした記憶はない。
だから、去年のクリスマス・イヴに告白された時は本当に驚いた。
「初めてふたりでここに来た時のこと、覚えてる?」
煉也の言う『初めて』はいつのことだろう。春にゼミでやった歓迎会のあとのことか、それとも暑気払いの時のことだろうか。
「えっと、いつだっけ?」
伸ばしはじめた髪を触りながら尋ねた。
「温泉饅頭を買うのにつき合ってくれたよな」
「ああ、たしかおばあちゃんに買っていくって……」
大量の温泉饅頭を買う煉也のうしろ姿を思いだす。私は近くのベンチに座って待っていたっけ。あれはまだ告白される前のことだ。
「ふたりとも就職が決まったわけだし、饅頭でカンパイしようよ。ばあちゃんにも買っていきたいし」
私の返事も待たず、彼は前回と同じ店に吸いこまれていった。それほど身長が高くない煉也のうしろ姿は、すぐに人の波に見えなくなる。
ああ、そうだ。このベンチに座ったんだ。
今は観光客が座っているので、少し離れた場所で待つことにした。
「就職か……」
気がつけば大学四年生の冬。就職が目前に迫っている。
私たちの住む熱海市は静岡県最東部に位置し、人口は約三万四千人程度。経済の中心は宿泊業や飲食業で、私は製菓会社の事務職に内定をもらっていた。
イヤホンを耳につけてからスマホを開く。動画アプリにあるお気に入りのチャンネルを再生すると、喧騒は一気に遠ざかった。
動画の中では人気配信者がくだらないチャレンジをしている。私が注目するのはどんな編集をしているかについて。
テロップのだし方やBGMのチョイス、なによりすごいのは長時間撮影したであろうに、UPされた動画は惜しみなくカットされ、最適な長さに編集されていること。普通は尺を長く取りたくなるチャレンジの様子も、失敗シーンはバンバン早回ししている。効果音の使い方も秀逸だ。
やっぱりすごいな。このチャンネルが人気なのは、緩急を意識した編集力の賜物だと私は思っている。
「お待たせ」
思ったよりも早く煉也が紙袋を手に戻ってきたので、イヤホンを外した。去年は大量に饅頭を購入しすぎて持ちきれないほどだったのに、今日は二箱しか買っていない。
「また動画見てたの? 陽葵はほんと『ステキムテキチャンネル』が好きだな」
「チャンネルが好きってわけじゃなくて─」
「編集が好きなんだろ? もう百回聞いたし」
パッケージを開けた煉也が笑いながら、薄茶色の饅頭を渡してくる。
「はい、カンパイ」
「カンパイ」
軽く持ちあげながら、また冬のにおいを探してみる。あれはなんだったのだろう。
「さっき冬のにおいがしなかった?」
「冬のにおい? 急に詩人っぽいこと言うね」
「そういうのじゃなくって─」
言うそばから煉也は歩きだしてしまったので坂道を追いかける。
熱海の町はそのほとんどが丘陵地帯。つまり坂だらけだ。高い位置には別荘が並び、眼下には海が広がっている。
私が住んでいる家は商店街を抜けて坂を数分のぼった先にある。駅からのアクセスがいいので気に入っているけれど、内定をもらった会社は車でないと通えない場所。年明けからは自動車教習所に通うことになっている。
商店街を抜けたところで煉也が足を止めた。ここから道が違うので、今日はさようなら。
「ゼミの卒業旅行、陽葵はどうする? もうすぐ締め切りだけど」
行き先が台湾だと聞き、悩みに悩んだ末に諦めることにした。
人酔いだけでなく車酔い、酒酔いなど、酔いに弱いのは昔から。飛行機で酔ったら大変だし、現地の観光地はすごくにぎわうそうだから。
母親である風子ちゃんからも「陽葵は酔いやすいから長時間の飛行機は無理。海外旅行はダメよ」と洗脳のようにことあるごとに言われ続けている。
スカートのポケットでスマホがぶるんと震えた。誰からの着信かは分かっているけれど、そのまま放置した。
「やっぱりやめておこうかな、って。自動車学校も卒業できるか分からないし」
煉也が饅頭を食べながら「そっか」と言った。
「じゃあさ、車校を卒業したらふたりで旅行に行こうよ。北海道なんてどう?」
「北海道? え……春休みなんて絶対混んでるよ。混んでるところはちょっとね」
人ごみが苦手なことをつき合う時に伝えたはずなのに、彼の記憶からは抹消されているらしい。だから今日も商店街を通ったってことか……。
「混んでるところのほうが楽しいよ。はぐれないように手をつなぐからさ」
やっぱり忘れてしまっているみたい。
スマホがまた震えだした。母親─風子ちゃんからの着信なのは間違いない。
「考えておくね。もう帰らなきゃ」
「分かった。またな」
軽く手を挙げ、煉也は坂道を下りていく。でも、私には登山とも呼ぶべき急勾配の坂道が待っている。
気合いを入れて歩けばどんどん店の数は減っていく。さびれた郵便局の前を左に曲がり、その先を右。しばらく進むと二階建ての家が見えてくる。何度塗り直しても外壁がすぐにくすんだ色になってしまうのは、潮風のせいだろうか。
ああ、またスマホが着信を知らせている。
小さな門を抜けてから玄関のドアを開けると、
「え、陽葵ちゃん!?」
素っ頓狂な声がして、バタバタと足音を鳴らして風子ちゃんが走ってきた。
母親のことを風子ちゃんと呼んでいるのは昔から。
小学生の時に、友だちから『お母さんのこと、名前で呼ぶなんておかしい』とからかわれ、呼び方を変えようとしたこともあった。が、風子ちゃんが許してくれなかったのだ。理由はたしか、『この呼び方のほうが友だち親子って感じがするから』だったと思う。
「ああ、やっぱり陽葵ちゃん! 電話にでないからすっごくすっごく心配してたんだよ」
半泣きの風子ちゃんが両手を伸ばして抱きついてこようとするのを、すんでのところでかわした。
「ゼミの友だちと会う、って言ったじゃん」
「それでも遅いんだもん。なにかあったんじゃないかって心配で心配で。これ食べたら探しにいこうかと思ってたんだから」
右手には、かじりかけのアンパンが握られている。
北織風子、四十八歳。前髪を直線に切ったボブカットスタイルは昔から変わらない。小柄なのに最後に聞いた時の体重は三桁間近。こちらは日々進化しているようだ。
洗面所で手を洗いリビングに向かう間も、
「寒くなかった?」「お腹空いてる?」「なにかあったかい飲み物いる?」
と、矢継ぎ早に問われ、引っつき虫のように離れてくれない。
「お父さん、助けて」
ソファでテレビを見ている父に助けを求めるが、ニコニコとこちらを見ているだけ。長年の夫婦生活で、こうなった時の風子ちゃんが止まらないことを理解しているらしい。
「すぐにご飯にしようね。今夜はちゃんこ鍋。あたしにピッタリでしょ」
ガハハと笑い、風子ちゃんはアンパンを口にくわえたまま鍋をセットしていく。
ちゃんこ鍋は風子ちゃんの丸いフォルムにあまりにも似合いすぎている。けれどここで同意してはいけない。気分の落差がジェットコースターみたいに激しい風子ちゃんだから、『ピッタリだね』なんて言ってしまったら最低三日は落ちこむことは目に見えている。
キッチンの角に腰をぶつけたり、洗った白菜の水気を切ろうとして水しぶきをまき散らしたり、風子ちゃんはいつでも大胆な動きをする。悪く言えば、大雑把だ。
すべての具材を一気に煮こむのも定番。それなのに、風子ちゃんが作る料理は、例外なく美味しく仕あがるのが不思議。
「じゃあ早く食べましょう。すっごくお腹空いちゃった」
気づくとアンパンは姿を消していた。
食事がはじまるとしばらくは食べることに夢中になる風子ちゃん。ある程度お腹が満たされたところで「ねえねえ」と、向かい側に座る私を上目遣いで見てきた。
「来週がクリスマスなんて早いわよねえ。それで、ゼミのほうは断れたの?」
「ゼミ?」
「ゼミでのクリスマスパーティのこと。楽しそうだとは思うけど、やっぱりあたしもお父さんも、陽葵ちゃんと一緒にクリスマスを祝いたいのよ」
まだ諦めてなかったんだ、とガッカリする。
ゼミのメンバーとクリスマスパーティをする予定なんてない。イヴは煉也とデートする約束をしている。
煉也とつき合っていることはふたりには内緒だ。特に風子ちゃんは要注意。一回生の時にうっかり喋ってしまったら、季節を越えないほどつき合いは短かったにもかかわらず、最初から最後まで反対され続けた。
なので今年の二十四日はゼミのクリスマスパーティという架空の予定を伝えてある。が、どうやらそれもダメらしい。
「イヴがダメなだけだから。二十五日は空いてるよ」
代替案を提示しても風子ちゃんはぶうと頰を膨らませてしまう。
「クリスマスって言ったらイヴが大事なんだもん。そうだ、いいこと思いついた! ゼミの人とは昼間に遊べばいいじゃない。それなら夜は一緒だもんね」
「昼間から飲み会なんてしないでしょ」
「じゃあ家にお呼びしたら? あたし張りきってたくさんお料理作るから」
「風子ちゃん、あのね──」
「ダメ! お願いだから今すぐに『家族で過ごす』って言って。陽葵ちゃんが『いいよ』って言うまで三秒前、二秒前──」
こんなふうに風子ちゃんはいつも強引にものごとを決めようとする。そのキラキラした目を見ていると、ふといい考えが頭に浮かんだ。
「クリスマスの前に私の誕生日があるでしょ。その日にクリスマスパーティも一緒にやるのはどう?」
「ひい」とヘンな声がした。見ると風子ちゃんはもう半泣きになっている。
「二十日の誕生日会は誕生日会、クリスマスはクリスマス。ずっとそうやってきたのに、なんでそんなことを言うの? あたし、イベントをまとめてやるのが嫌なの。陽葵ちゃんが生まれた日とキリストが生まれた日は一緒じゃないのよ。そんなこと言われたら──」
「分かったよ。ごめん。誕生日とクリスマスは別だもんね」
二十四日はイヴだけどね、と思いつつフォローするけれど、よほどショックだったのか洟を啜っている。
ひとりっ子だから仕方ないけれど、いくらなんでも過保護すぎる。だけど、こうなった時の風子ちゃんが絶対に譲らないことも身に染みて分かっている。
煉也との約束は二十五日に変更してもらえばいいか……。
「分かったよ。じゃあ、イヴの夜は家族でパーティしよう」
「うれしい! 陽葵ちゃんありがとう」
テーブル越しに抱き着こうと手を伸ばしてくるけれど、リーチが長くないので届かない。エアで抱きしめたあと、風子ちゃんは鍋にうどんを投入しだした。
「これは締めじゃないからね。このあとには雑炊が控えているのです」
鼻歌をうたいながら火加減を調整している。父と目が合うと、申し訳なさそうに肩をすくめていた。そう思うなら助けてくれてもいいのに。
「ゼミの卒業旅行も行かないんだよね?」
「さすがに飛行機は怖すぎる。酔っても逃げ場所がないし」
「現地もすごい人だしね」
ゼミの台湾旅行について相談したところ、風子ちゃんがスマホで現地の様子を調べてくれた。故宮博物館や夜市、九份などの観光地はもれなくたくさんの観光客でごったがえしていることが分かり、諦めることにした。
「私に海外旅行はハードルが高すぎるってことだね」
「あたしも苦手。でも、国内にもいいところはたくさんあるから大丈夫よ。海外旅行は我が家では禁止にします」
なんて、真面目な顔でまた宣言している。
ぐつぐつと鍋が再び沸騰しはじめた。うどんに卵を落とし煮こんでいた風子ちゃんが、
「そうそう、また手紙を書いたのよ」
と、唐突にスカートに挟んだ黄色の封筒を取りだした。お腹にポケットがついているかと疑っていたのは遠い昔。大事な物はいつだってそこにしまっておくくせがあるみたい。
「ありがとう」
たまにくれる手紙には、普段はしゃべりすぎる風子ちゃんの本音が書かれている。なにかにつけてもらうこの手紙を実は楽しみにしている私。おそらくこれまで五十通以上はもらっただろう。
うどんの入った器を受け取ると同時に、また冬のにおいがした。今度はさっきよりも強く季節を感じる。
風子ちゃんが鼻をヒクヒクと動かした。
「冬のにおいがするわね」
「え、風子ちゃんも思ってたの?」
驚く私に風子ちゃんは「うん」とうなずき、体に似合わない小さすぎる指で、鍋で躍る具材を指さした。
「磯揚げって冬にしか買わないからね」
磯揚げとは、海の幸を練り物と一緒に揚げたもので、練り天とか揚げ天とも呼ばれている。熱海の名産ではないけれど、我が家では鍋に欠かせない一品だ。
なるほど、と内心膝を打つ。さっき、磯揚げの店の前を通った時に鍋を連想し、冬を感じたってことか。分かってみればなんて単純な真相だろう。
「商店街で買ってきたの?」
「陽葵ちゃんと一緒であたしも人ごみが苦手じゃない? というか、この体型のせいで迷惑かけちゃうから行かないのよね。隣の山本さんが商店街に行くって言ったからお願いして買ってきてもらったの」
「そっか、私も滅多に商店街を通らないからそう感じたんだ」
納得する私に、風子ちゃんは頰の肉をもりっと上げて笑った。
「同じにおいに冬を感じるなんて、あたしたちって本当に親子なのね。すごくうれしい」
「そこまで感動すること?」
「だって陽葵ちゃんはどんどんかわいくなっていくのに、あたしはどんどん丸くなっていくんだもん。でも今ので確信した。あたしたちのDNAはまぎれもなく一緒なの!」
風子ちゃんはうどんをズズーッと深呼吸するように吸いこんでいる。
父はそんな風子ちゃんをやさしい目で見ている。
うどんはあっという間になくなり、風子ちゃんは雑炊を作りはじめた。いつもそうだけど、ご飯の量が多すぎて雑炊ではなくおじやになってしまう。
「今日はね、ご飯のあとにデザートがあるのよ」
卵を流しこみながら風子ちゃんが言った。『今日は』じゃなくて『今日も』だと思ったけれどツッコむのはやめておいた。
「なんと熱海第二製菓さんの『あたみん饅頭』。そう、陽葵ちゃんが就職する会社の人気商品なのです!」
「そうなんだ……」
反応の悪い私を気にする様子もなく、風子ちゃんはキッチンから箱を手に戻ってきた。
『あたみん饅頭』と書かれた箱には、ミカンサイズの饅頭が本物のミカンそっくりに描かれている。『だいだい』と呼ばれる熱海の特産品である柑橘類のジャムが入った饅頭は、熱海第二製菓が販売しているお菓子の中でもいちばん人気で新幹線の駅の売店でも売られている。
「でね、これが『あたみん』のキャラクターなの。かわいいでしょう?」
だいだいに丸い目と口がついたキャラクターグッズを渡された。小さなぬいぐるみで、だいだい色のストラップがつけてある。
「入社初日にそれをつけて行けば目立つと思うの。『あたみん』はこれからもっと人気がでるだろうし、会社の宣伝にもなるしね」
「あ、うん……」
小さなぬいぐるみを眺めると、胸が少し痛くなった。
ふたりに話さなくてはいけないことがある。何度も話をしようとしては、そのたびに躊躇してしまって今日まで来た。
顔を上げると同時に風子ちゃんと目が合った。
これから風子ちゃんを傷つけるかもしれない。そう思うと、なかなか言葉がでてこない。
ちょっとした変化でも見逃さない風子ちゃんだから、心配性が発動したら大変だ。濃厚こってり味で質問を浴びせてくるだろう。
その前にちゃんと……話さなくちゃ。
「あの、ね……」
言いかけた私に、案の定、風子ちゃんは眉をひそめてしまう。
「待って。あたし、分かった」
「え……」
戸惑う私に風子ちゃんは首をかしげたポーズで口を開いた。
「ひょっとして、まだお腹空いているの?」
「え? あ……うん」
無邪気すぎる問いに気勢が削がれて湯気に隠れるようにうなずいてしまう。また胸が痛くなった。
夏帆さんに電話をするのはいつも、二階の部屋でベッドにもぐってから。
耳のいい風子ちゃんを警戒して、だ。
『そっかぁ。やっぱり言いだすのは難しいよね』
夏帆さんの声を聞くたびに、心が浄化されたような気になる。
北織夏帆さんは、父の兄の娘。つまり私にとっては父方の従姉にあたる。私より三歳年上の夏帆さんはやさしくて穏やかで、まるで澄んだ水のようなイメージ。ひとりっ子の私にとっては、昔から姉のような存在だった。
東京に住む夏帆さんは、父親である紘一さんが経営している映像制作会社で主任をしている。
「どのタイミングで伝えていいか分からないの」
『でも春には東京に来るわけだし、内定先だって早めに断らなきゃいけないよね。社長から陽葵パパに話をしてもらう? 男同士のほうが分かり合えるかもしれないよ』
「お父さんがOKしても、風子ちゃんがダメならそれは絶対にNGってことだから」
掛け布団で作った基地から部屋の外に耳を澄ませる。風子ちゃんがテレビを見て笑い転げる声が一階から聞こえている。
あれは熱海第二製菓から内定をもらった頃のこと。夏帆さんとのなにげない会話の中で、動画配信サイトの『ステキムテキチャンネル』の話題がでた。
男子大学生ふたりがやっていて、よくある〝やってみた系〟の動画をアップしているチャンネルだ。
チャンネルのファンであることを告白した私に夏帆さんが言ったのだ。『あの動画の編集、うちの会社でやってるんだよ』と。もともと、動画編集に興味のある私が飛びつかないはずがない。
それ以来、紘一さんの会社に就職する計画が秘密裏に進んだ。東京にも何度か足を運び、紘一さんに面接もしてもらった。
口が軽いことで有名な紘一さんも、今回ばかりは協力してくれ、今のところ情報漏洩はされていない。
『でもほんとにうちでいいの? 家族経営に毛が生えたみたいな小さな会社なのに。それに入社してしばらくは事務系の仕事ばかりになっちゃうよ』
「大丈夫だよ。いつか動画編集をさせてもらえるように勉強するから。専門学校をでているわけじゃないのに採用してもらえるだけでうれしすぎる」
動画編集ソフトを使って勉強はしているけれど、急に芽生えた夢にスキルが追いついていないのは自覚している。東京に住んだら、働きながら通信講座とか教室に通うつもりだ。
『私も陽葵ちゃんと一緒に働けるなんてすごくうれしい』
そんなことを言ってくれる夏帆さんの声がくすぐったい。
「私も早く夏帆さんと一緒に働きたい。そのためにもがんばるからね」
何度も口にした決意は実行できないまま、今年も最後の月に突入している。
東京で住む部屋も決めなくちゃいけないし、引っ越しだってある。残された猶予が少ない中、まずは風子ちゃんに話をしなくてはならない。
反応は分かりきっている。きっと号泣して反対するんだろうな……。
夏帆さんとの通話を終えると、さっき風子ちゃんからもらった手紙を取りだす。黄色い封筒には淡い水色の便箋が入っていた。
風子ちゃんの特技のひとつは手紙を書く時の文字だと思う。美しい文字で書かれた手紙を読むのが、私は好きだった。
私は便箋をそっと開いた。
陽葵へ
今年も冬が訪れましたね。
熱海の冬は雪もそれほど降らないし温暖な地域です。
それでも海風だけは別です。
一瞬で体温を奪うほどの冷たさには何年住んでも慣れません。
陽葵ももうすぐ二十二歳の誕生日を迎えますね。
大学生活もいよいよあと数か月。
社会にでる前に好きなことをしておく最後のチャンスです。
なにか勉強をしてもいいし、アルバイトに精をだしてもいいし、友だちと旅行に行くのもいいでしょう。
体を冷やさないように気をつけながら、陽葵のやりたいことにチャレンジしてください。
母より
誕生日の思い出は毎年更新されていく。
うちではケーキと料理とプレゼントというシンプルな会だけど、家族のことをいちばんに思う風子ちゃんだから、誕生日会は毎年必ず開かれてきた。
その中でも特に記憶に残っているのは、私が五歳になった日のことだ。
まず父が出張で不在だったこと。父が予定を告げた時の風子ちゃんはすごかった。台風が巻き起こるんじゃないかと思うくらいの怒りと悲しみ、舞台女優も真っ青な嘆きのくだりは今でも覚えている。
父にもトラウマとして刻まれたのだろう、その年以降、十二月二十日は早めに帰宅している。
でも、もっとイレギュラーだったのは、誕生日当日、風子ちゃんが夜になっても帰ってこなかったことだ。
当時の風子ちゃんは保険の外交員をしていた。大口のお客さんからのクレームがあり、その対応に追われたのが原因だったらしい。
風子ちゃんの従妹の文ちゃんが来てくれふたりで風子ちゃんの帰りを待っていたけれど、ひどく不安だったことを覚えている。
夜遅くに戻ってきた風子ちゃんは号泣しながら何度も謝ってくれた。不安で仕方なかったのだろう、私も涙が止まらなかった。泣きながら食べたケーキがしょっぱかったことは今でも舌が覚えている。
そのせいもあり、誕生日会にはほんのりと悲しいイメージがこびりついている。
今もケーキのろうそくを吹き消した瞬間に、ふわりと過去の記憶がよみがえった気がした。風子ちゃんが悲しげにほほ笑んでいるように見えたのもきっとそのせいだろう。
テーブルには唐揚げのほかにもマカロニサラダやハンバーグ、主役のケーキがところせましと並んでいる。この子どもが喜びそうなメニューは毎年変わらない。ひょっとしたら風子ちゃんは私が大人になっていくのを悲しんでいるのかもしれない。
だとしたら、これから話さなくてはならない内容は受け入れがたいだろう。
誕生日当日に話をすると決めたのは、内定辞退の期限が迫っていたから。辞退する前に、ふたりにはきちんと話をしようと決めた。
そのことを考えると胃が痛くて食欲もわかない。
「本当にプレゼントはいらないの?」
唐揚げをほおばったあと、風子ちゃんが困ったように尋ねた。
「うん」
「クリスマスと合わせて豪華なプレゼントにするのもいいよなあ」
ほのぼのとビールを飲む父にも、
「そうかもね」
と、あいまいに返事を濁した。
ジンジャーエールで喉をリセットしてから向かい側に座るふたりを見る。
どうしようか。せっかくの雰囲気を壊すより、誕生日会が終わってから言うべきかもしれない。
ううん、そうやって先延ばしにしてきたからギリギリになってしまったんだ。
私は覚悟を決めると、背筋を伸ばして「あのね」とふたりの顔を交互に見た。
「内定を断ろうと思ってるの」
息を吸って一息に言う。最初に反応したのは父のほうだった。目を丸くしたあと、そっとテーブルにグラスを置いた。
「熱海第二製菓を断るってこと?」
「……うん」
「ああ、なるほど。もっといい就職先が見つかったってことかあ」
目じりを下げた父に罪悪感が大きくなる。風子ちゃんに視線を移すと、フォークを握り締めたままフリーズしていた。さすがは風子ちゃん。そんな単純な話ではないことをすばやく察知した様子。
「映像制作に関わる仕事に就きたいの。いずれ動画の撮影や編集をしてみたいと思ってる。……紘一伯父さんの会社に入ることになったの」
「紘一の? あ、そうか。あいつそういう仕事を──」
やっと話の内容を理解したのだろう、そう言った途端に父もフリーズしてしまった。
「夏帆さんが主任で、実質ナンバー2なんだって。職場の近くに安いアパートも見つかりそうなの。そこで一から学んでみたい。だからお願いします。東京に行かせてください」
早口で言ってから頭を下げた。
しんとした時間がしばらく流れた。
「ふ」と笑い声がして顔を上げると、風子ちゃんは意外にも笑みを浮かべていた。
「もう陽葵ちゃんったら冗談ばっかり。誕生日ドッキリとかやめてよね」
「冗談でこんなこと言わないよ」
「はいはい。あーもう驚いちゃった。この話はもうしたくない」
「風子ちゃん──」
身を乗りだす私から逃げるように「トイレ!」と叫んで風子ちゃんはリビングをでていってしまった。
「陽葵」
父が静かな声で視線を戻した。
「今の話、本気ってこと?」
「うん」
「紘一兄さんも承諾してるんだよね?」
「黙っててごめんなさい」
父はしばらくテーブルに並ぶおかずを見ていたけれど、やがて深いため息をついた。
「そんなことを考えていたなんて驚いたよ。さみしくなるなあ」
てっきり大反対されるものだと覚悟していただけに、父の意外な反応に戸惑ってしまう。
「東京に行っても……いいの?」
「人ごみが苦手な陽葵が東京行きを決めたんだから、よほどの覚悟なんだろう。それに昔から、一度決めたら譲らないことも知っているからね」
グラスのビールをあおったあと、父はトイレのほうへ目をやった。
「ただし、風子ちゃんにはもう少しだけ時間をあげてくれる? 今だって必死で冷静さを保っていただろうし」
トイレから鼻歌が聞こえてくる。無理して明るく振る舞っていることが伝わってくる。
「風子ちゃん、大丈夫かな……」
「落ち着けば自分から話をしてくれるよ。それまでは待ってあげてほしい。熱海第二製菓さんには誠意をもって対応しなさい」
「内定を辞退してもいいの?」
「風子ちゃんには折を見てお父さんからも言っておくから」
父のやさしさに胸が熱くなる。これまでも本当に困った時は手を差し伸べてくれた。
「分かった。ありがとう」
罪悪感が洪水のように押し寄せてくるのを感じながらもう一度頭を下げた。
「お待たせ! さあ、誕生日会を続けましょう」
勢いよく戻ってきた風子ちゃんはニコニコしているけれど、私には分かってしまう。
笑みも言葉も指先も、小刻みに震えていることを。
「別れよう」
煉也がそう言った時、私はバスターミナルに並ぶ人たちをぼんやり見ていた。この数日で冬はこの町の気温をどんどん下げている。
別れよう? ……別れるって言ったの?
隣を見ると自分から別れを告げたのに、煉也はフラれたみたいに苦悶の表情を浮かべている。
「え……待って。二十五日に会えないって言っただけなんだけど……」
もともとの二十四日の約束を、家族とのクリスマスパーティのため翌日に延ばしてもらっていた。しかし、紘一さんに紹介してもらった不動産屋が二十六日から休みに入ることが分かり、急遽、二十五日から東京へ行くことになったのだ。
部屋を選ぶのをあと回しにしてもよかったけれど、職場から近くて家賃の安い物件が今度いつでるか分からない。さらに、紘一さんにも年内にきちんと挨拶をしたいこともあり、そう決めたのだった。
煉也と駅で待ち合わせをしたのが十八時。そして今は十八時十分。まだ会って十分しか経っていないのにまさかフラれるとは想像していなかった。
白色のマフラーをあごまで上げた煉也が「まあ」と言葉を濁した。
「前からずっと思っていた。陽葵って俺のこと、好きじゃないよね?」
「え?」
「予定をずらすのはぜんぜん構わない。だけど、その理由が東京で就職するためなんだ
ろ? そんな話、これまで一度もでてないよな?」
「ごめん……」
「陽葵はなんでも自分でぜんぶ決めてしまう。俺はいつだって決定事項として報告を受けるだけ。東京で就職するなんて、そんな大事なことまでひとりで決めるんなら、俺、いらなくね?」
「……ごめんなさい」
冷たい風が切りつけるように頰をかすめ、夜へと消えていく。
風の行方を探すように見渡したあと、煉也はコートのポケットに手を突っこんだ。
「今までだって一度も好きだと思われている自信がなかった。ごまかしてきたけれど、遠距離になったら、こういうことはもっと増えていくと思う。だから、もう別れよう」
「…………」
不思議と心は落ち着いていた。煉也の言うことはもっともだと思うから。
内定をもらった会社のことですら、煉也には聞かれるまで言わなかった。煉也を好きな気持ちがなかったわけじゃないけれど、じゃあ好きってどんな感情か、自分が煉也に感じている思いはどのくらいか、と聞かれたらよく分からない。
謝るのも違う気がするし、かと言ってほかの言葉も見つからない。
別れるのは悲しいけれど─そこまで考えて、あまり悲しいと思っていないことに驚いた。自分がひどく冷たい人のように思えてしまう。
私の気持ちはすでに東京での生活に向いている。あとは、風子ちゃんへどう話すか、に。
「じゃあ、元気で」
なにも言えない私を置いて、商店街に向かう彼の姿は、すぐに人の波に呑まれて見えなくなった。
我が家のクリスマスパーティは特異だ。
二十四日にクリスマスツリーを皆でセットし、翌日の朝には撤収する。
『長くだしておくと縁起が悪いのよ』と風子ちゃんは毎年力説するけれど、ひな祭りと混同しているのは間違いない。
誕生日会と同じようなメニューがテーブルに並び、そこで一年の振り返りを家族でする。これは忘年会との混同だろう。
昔からそうだから慣れてしまったけれど、今年はちょっと違った。ツリーや料理はでているけれど、風子ちゃんの様子がおかしいのだ。
「十歳の時に陽葵ちゃんがくれたカードがこれ。こっちは十一歳の時のね。このイラストを見てよ。サンタさんのヒゲを青で塗ってる。この頃って服も青色じゃなきゃ着ないって言い張っていた時期よねえ」
はしゃぎながらカードを見せてくる。
「そんなこともあったね」
「この写真懐かしい! 陽葵ちゃん、海に入るのが怖くてずっと砂浜にいたのよ。浮き輪をつけているから大丈夫、って言ってもかたくなに入らなかったのよねえ」
なつかしそうにアルバムを開く風子ちゃん。テーブルの料理は端っこに追いやられ、さっきからずっと家族の歴史を振り返っている。
父が目で合図を送ってくるので、風子ちゃんに気づかれぬようにうなずいた。
昔から風子ちゃんはなにかあると昔の思い出を共有したがる。おじいちゃんが入院した時も、私が友だちとケンカをした時も、父が食中毒になった時もだ。
私が東京で就職すると伝えた日から、風子ちゃんはずっと思い出話ばかりしている。家族の団結をアピールしているんだろうけれど私の決意は変わらない。
早々に部屋に切りあげ、明日からの準備をすることにした。
一泊二日でアパートの内見と契約、そして会社と雇用契約書を交わすところまで済ませる予定だ。保証人は紘一さんがなってくれる。
明日は紘一さんの家に泊まらせてもらうことになっているのでホテルの心配はいらない。夏帆さんがいるおかげでドライヤーなどの大物を持参しなくていいのも大きい。
この予定は父を通じて風子ちゃんにも伝わっているはず。が、今のところ口だししてくる気配はない。
煉也のことが雪のようにちらつく。逆に、つき合っている期間はあまり考えてこなかったことを実感する。
昔からそうだ。意思がはっきりしている風子ちゃんに洗脳され、知らないうちに自分の思考回路が寸断されている。
煉也のことは好きだったけれど、本気だったかと尋ねられると自信がない。あるのは、傷つけてしまった罪悪感で、それだってきっとすぐに消えてしまうだろう。
あんなふうに感情豊かな風子ちゃんに育てられたら情熱的に生きられるはずなのに、私の心の底には冷たい水が流れているような感覚がずっとある。
東京に行けば少しは変われるかな……。
その時、ドタドタと階段をのぼってくる重低音が響いた。
「陽葵ちゃ〜ん」
ノックの音が大きくて毎回、ドアが割れるんじゃないかと心配になる。私が返事をするまで勝手にドアを開けないのはえらいとは思うけれど。
「どうぞ」
ドアからぬっと顔だけをだした風子ちゃんの顔がさらに丸くなったように感じる。
「入ってもいい?」
「うん。明日の準備してるところ」
「ふうん」
鼻歌をうたいながら入ってきた風子ちゃんが、しばらくウロウロしてからベッドに腰を下ろした。ベッドが悲鳴を上げるのもお構いなしに、「あーあ」と唇を尖らせた。
「もう今年も終わっちゃうのねえ。毎年、一年がどんどん早く終わっていく気がする」
「子どもの頃って新しいことばかり体験するから、脳裏に刻まれるんだって。そのせいで時間の流れがゆっくりに感じるみたい。大人になるとそうそう刺激もないもんね」
一泊二日なのにトランクがすでにいっぱいになっている。着替えと文庫本、お菓子の一部を減らし、メーク道具を優先した。
風子ちゃんは唇を尖らせたまま部屋を見回した。
「この部屋もすっかり大人っぽくなっちゃったね。陽葵ちゃんが小ちゃい頃は、自分の部屋を怖がって、寝る寸前まであたしたちといたのよ」
あ、ヤバい。また思い出話がはじまってしまう……。
「そうだっけ? もう忘れちゃった」
忙しいフリでクローゼットを開いてコートを選ぶ。派手な色は好きじゃない私。オセロみたいな色ばかり並ぶ中から、グレーのハーフコートをハンガーごと取りだした。
「なるべくひとりにしないように、保険の仕事も短時間勤務に切り替えたんだから」
「ああ、五歳の時だよね。結局そのあとに辞めたんじゃなかった?」
また誕生日会のことが頭に浮かぶ。ひとりで風子ちゃんの帰りを待っていた時の怖さは今でも覚えている。
「五歳? そんなことあったっけ?」
首をかしげる風子ちゃん。その時の記憶は抜け落ちているらしく、これまで何度聞いても同じ返事だった。
そんなことはどうでもいい。このまま居座られると大変困るのだ。が、私の心配などどこ吹く風で、風子ちゃんは成人式の日の話をしている。
しょうがない、とトランクを閉じてから風子ちゃんの前の絨毯に座る。
「あのね……明日、早いんだよね」
「うわ、そうなの? 早起きするの大変ねえ」
「始発の新幹線で行くことになってるから今日は──」
「新幹線って言えば、初めて乗った時のこと覚えてる?」
──ダメだ。
核心部分はお互い見えているはずなのに、このままじゃ埒が明かない。
自分から就職の話をしないように父から言われているけれどしょうがない。
「風子ちゃん……東京に行くことを勝手に決めてごめんね」
「新幹線が想像以上に大きくて、陽葵ちゃんギャン泣きしたんだよ。乗るのも嫌がって、せっかく指定席取ったのに次の新幹線まで待って自由席に乗ったんだから」
あはは、と笑う風子ちゃんの瞳がせわしなく揺れている。
「ちゃんと聞いて」と、身を乗りだす。
「相談すべきだったと思う。でも、絶対に反対されると思って言えなかった」
以前はなんでも話せていたはずなのに、いつの間にか動画編集に興味があることや東京で就職することを言えずにいた。この数年、どんどん自分で決めて行動していたことに改めて気づいた。
……煉也の言ったとおりだ。事後報告だけされたら誰だって怒るに決まっている。
「ダメ」
案の定、風子ちゃんは声のトーンを落としてうつむいてしまった。
ああ、これは泣いちゃうパターンだ。感情豊かな風子ちゃんは、笑うのと同じくらい泣く。その合図がこの声色。
「せっかく就職が決まったのにダメだよ」
「通える範囲で映像制作に関わる仕事がないかも探したんだよ。でも、このあたりに私が入れそうな会社はなかったの」
熱海にも映像制作会社はあった。でも新卒の採用予定がなかったり、専門知識の乏しい私にはそもそも応募資格がなかったりで諦めざるを得なかった。
不思議だったのは、熱海第二製菓から内定がでた瞬間に『違う』と感じたこと。自分のやりたいことを見ないフリしたまま就職することに違和感を覚えたのだ。
夏帆さんに相談したところ、紘一さんが社長を務める会社を見学させてもらえることになった。
小さな会社だけど、映像制作を専門におこなっていることが分かってからは、どんどん働きたい気持ちが大きくなっていった。いつか動画編集をやりたいという夢も持てた──。
「東京は人が多いんだよ。陽葵ちゃんには無理だよ」
「伯父さんの会社は江戸川区にあるの。何度か行ってるけど、そこまで人は多くは──」
「それでもダメなの!」
顔を真っ赤にした風子ちゃんの小さな瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「陽葵ちゃんはここにいるの。ずっとそうしてきたし、これからも変わらない。一緒じゃなきゃダメなんだからぁ」
うわーん、と天井に顔を向けて泣く風子ちゃん。
「東京なんて近いよ。在来線でも行ける距離だし、しょっちゅう帰ってくるから。ね?」
肩に手を置いてなだめても、風子ちゃんはいやいやと首を横に振っている。
「近くないもん。『踊り子』に乗っても八十分、東海道線だと二時間近くかかるんだからっ」
「新幹線ならすぐだって。三十分もあれば行けるし」
「最低でも三十七分。それも滅多に停まらない〝ひかり〟での時間だもん。〝こだま〟だと五十分もかかるんだからぁ。うおーん!」
狼が遠吠えしているような泣き方に変わってしまった。
たしかに熱海駅から新幹線に乗るなら〝こだま〟がメインになる。妙に詳しいのは、そんなこととっくにネットで調べていたからだろう。
と、急にピタリと泣きやんだ風子ちゃんが、「あ」と目を輝かせた。
「分かった。新幹線で通勤すればいいんだ。ここからなら駅も近いし、五十分の通勤時間ならそれほど長くない。寝て行けるからラッキーじゃない。ねえ、そうしましょうよ」
自分のアイデアにうなずいているけれど……。
「紘一さんの家に行ったことあるよね?」
「あるある。大きな家よねえ。でも、紘一さんってお父さんの兄弟とは思えないくらい性格が違わない? ぶっきらぼうでたまに口を開いたかと思えば嫌みばっかり。あたしはお父さんのほうがやさしくて愛嬌があって──」
「東京駅から江戸川駅に行く方法って知ってる?」
長くなりそうなので割りこむことにした。風子ちゃんは「ん?」とまるで分かっていない様子。
「新幹線を使うなら東京駅で乗り換えて、さらに日暮里駅で京成本線に乗り換え。それだけで四十分かかるんだって。合計すると乗り継ぎも合わせて二時間は見ておかなくちゃいけないの」
ここから通勤することも考えなかったわけじゃない。けれど、実際に行ってみて不可能だと身を以もつて体験した。
「そんな……。それじゃあどうするのよ。嫌よ。そんなの絶対に嫌なんだから!」
風子ちゃんはまた顔をくしゃくしゃにして泣いてしまう。
そうだよね……。
強い気持ちで決めた東京行きが揺らぐのは、風子ちゃんのせいだけじゃない。煉也に言われたことが尾を引いている。相談もしないで勝手に決めることで、私は気づかないうちに人を傷つけてきたのかもしれない。
だとしたら、ぜんぶなかったことにして内定をもらった会社に入るのがベストなのかも……。親を泣かせているという罪悪感にこっちまで泣きたくなる。
やっぱり無謀だったのかもしれない。
「あのね、風子ちゃん……」
ぜんぶやめるから。そう言いたいのに口がフリーズしたように動かない。
私……やっぱり東京に行きたい。どうしてもあの会社に入りたいの。
つぐんだ口から本音が漏れてしまいそうで、うつむいて耐えるしかなかった。
「ちょっといいかな」
その時、父がドアから顔を見せた。
「お父さあん、ウグッ、陽葵ちゃんがどうじても……ウグッ、東京に行ぐっで……」
すがるように足もとに這っていった風子ちゃんの前に、父はあぐらをかいて座った。
「そうだよ。陽葵は春になったら東京で就職するんだよ」
「嫌なの。あたし、どうしても嫌なのよぉ」
大きな体を揺さぶり、いやいやをする風子ちゃん。
「風子ちゃん」
父が風子ちゃんの顔を下から覗きこんだ。
「これまで陽葵は本当にいい子だったよね。反抗期らしい反抗期もなく、素直ないい子に育ってくれた」
「やだ……。お父さんまであたしを説得しようと……」
「説得じゃない。分かってほしいんだよ」
目が合うと、父はやさしくほほ笑んでくれた。
「親として風子ちゃんは陽葵を大切に育ててきたよね。すごい努力だったと思う。たくさん手紙も渡したよね」
「でも……でもっ!」
「陽葵にもやっと夢ができたんだ。母親である風子ちゃんがその芽を摘んでしまってもいいのかな?」
「お父さん……嫌い」
オイオイと声を上げて泣く風子ちゃんの頭に、父がそっと手を当てた。
「大事な娘の夢をかなえてあげるのが本当の親の務めだと思う。だよね?」
子どもに諭すように話す父に、
「……うん」
震える声で風子ちゃんが言ってくれた。
「よし。それでこそ風子ちゃんだ」
父は私のほうへ体ごと向くと、人差し指を二本立てた。
「陽葵にもふたつ約束してもらいたい。ひとつは、今後大事なことを決める時はできるだけ前もって相談すること。ふたつ目は、紘一兄さんの会社をもし辞めることになったなら、必ず一旦はここに戻ってくること」
やさしい言葉ほど胸にグッと突き刺さる。
「分かりました。風子ちゃん、ごめんね」
「知らない」
プイと横を向いてしまったけれど、もう風子ちゃんは泣いていなかった。
ホッとする分、罪悪感がまた波のように襲ってきた。
*
続きは2月6日発売の『この冬、いなくなる君へ 長い嘘が終わる日に』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
いぬじゅん
奈良県出身、静岡県在住。2014年、「いつか、眠りにつく日」(スターツ出版)で毎日新聞社&スターツ出版共催の第8回日本ケータイ小説大賞を受賞し、デビュー。「奈良まちはじまり朝ごはん」シリーズ(スターツ出版)や「この恋が、かなうなら」(集英社)ほかヒット作を多数手がける。「この冬、いなくなる君へ」をはじめ4作の「冬」シリーズ(いずれもポプラ社)は累計25万部を突破した。