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偽鰻

 プロローグ

 三十年に一度と言われる大寒波は、滅多に雪が降らない九州南部の海岸線にも記録的な降雪をもたらした。
 一夜明けてもまだ、湾の上空は分厚い雲に覆われている。
 曇天を映した重油のような色の波が、のたりのたりと寄せては返し、コンクリートの岸壁を舐めていた。
 その岸から少し離れた海面に、白衣の裾を広げたむくろがひとつ、内海の緩慢な流れに身を委ねている。
 やがて、黒いウエットスーツにくるまれた頭がふたつ、波間にもこりと浮かび上がった。
 まだ肺に空気を残している骸は水面に浮かんではいるものの、衣類は水を吸って重く張りつき、極寒の海を泳ぎながらの引き揚げ作業は難航した。
 ゴムボートの上に立つ男が無言で遺体にロープをかけ、水中にいるダイバーふたりが黙々と遺体を押し上げる。
 ようやく、ボートの底にごろりと転がされ、仰向けになった中年男性の目は薄く開いていた。
 そして、ぽっかり開いている口の中に、水ぶくれのようなぶよぶよした瘤を持つ、魚類とも両生類ともつかない黒い物体がある。
 深海魚の頭のような不気味な部位から異様に飛び出したふたつの大きな目玉が、小雪を降らせる曇天をギョロリと見上げていた。


 第一章

  

 二〇二〇年六月/大阪
 午前七時の時報がショッピングモール全館に響き渡る。
 開店二時間前。モールの一階フロアの半分以上を占める食品売り場は慌ただしく活気に満ちていた。
 従業員通用口から売り場へと続く銀色のスイングドアはひっきりなしに開閉し、更衣室で白いシャツとズボンの上にグレーのエプロン、髪の毛をしっかり覆う黒いキャップや三角布を身に着けたスタッフたちが次々と現れては売り場に一礼して、自分の持ち場へと散って行く。
「おはようございます!」
 エプロンの紐を背中で結びながら鮮魚コーナーのバックヤードに駆け込んだくらもとの明るい声が、打ちっぱなしのコンクリートの壁に囲まれた室内に響く。
「おう、おはようさん!」
 業務用の巨大な流し台の前に立って仕込みの手を止めないまま挨拶を返したのはチーフのしばうらだ。ここスーパー『ヴィアンモール』北大阪店水産部門の責任者である。
 高校卒業後、この店舗に就職して以来、鮮魚コーナーひと筋二十年のベテランは、豆アジを庖丁も使わず、指だけでさばいていた。
 それは手開きという方法だ。両方のエラと胸ビレを摘んで引っ張ると内臓も一緒に取れる。庖丁を使わなくても腹を開けるのだ。里奈はいつも芝浦の熟練した手さばきに見惚れてしまう。
「それ、南蛮漬けにするヤツですよね?」
「おっ。さすがくらもっちゃん、わかってるねえ」
 惣菜用の魚は種類や大きさによって調理法が変わる。
 南蛮漬けはアジに小麦粉をまぶして骨ごとからっと揚げ、スライスした玉ねぎやパプリカを漬け込んだ甘酢にからめる人気の惣菜だ。少し小ぶりなアジの方が骨も柔らかく、しっかり味が染みて美味しい。
 里奈はさっき結んだサロンエプロンの紐の余り具合で、最近また少し太ったことを気にしながらも、甘酸っぱい惣菜の完成品を想像して口の中に唾が湧く。
 食欲旺盛、物心がついた頃からずっとぽっちゃり体型の彼女は、スーパーでの売場研修に入ってから更に三キロ増量した。仕事が終わって帰宅前の一番空腹な時、食べ物が目に入る職場のせいだ。わかってはいるが、閉店前の半額セールの魅力には抗えない。
「こっちのブリは照り焼き用ですよね? もう、これも調理場に回していいですか?」
 頭から南蛮漬けを追い払った里奈は、既に下ごしらえの終わった魚をさした。一メートルほどの長さがあるまな板の端にブリの切り身が寄せられている。これはきっと調理場で濃厚な砂糖醬油に生姜シロップを混ぜたタレを塗られ、香ばしい照り焼きになって惣菜コーナーに並ぶはずだと予想した。
「うん。それも持って行ったって」
 芝浦の指示を受けた里奈は下処理の終わった魚を種類ごとに分けてトレーに入れ、バックヤードから運び出した。
 ヴィアンモールでは老舗の名店や人気レストランなどから入荷する特別な商品を除き、ほとんどの調理を外部委託せずに完璧に衛生管理された店内で一気に行う。鮮度のよい商品を提供する、いわゆるインストアを売りにしているから、朝の調理場は戦場だ。
 鮮魚だけでなく、精肉や青果などそれぞれのバックヤードで下処理された食材が次々に調理場へ運び込まれ、定番の揚げ物やチャーハン、ハンバーグや餃子など数えきれない種類の惣菜に生まれ変わる。
「蔵もっちゃんはほんまに覚えが早いわ」
「ただ、食いしん坊なだけですよぉ。生の魚を見ただけで料理が勝手に頭に浮かんじゃって涎が出そうです」
 照れ隠しに笑う蔵本里奈はこの春、東京の国立大学を卒業し、『株式会社ヴィアン・リテーリング』に新卒入社したばかりだ。
 東京に本社を置くヴィアン・リテーリングは流通業界では日本最大規模を誇る複合型のスーパー『ヴィアンモールチェーン』の全店舗を束ねている。このヴィアン・リテーリングの前身、『コウムラ商店』創業者であり、九十歳の今も尚、名誉会長として君臨するのは伝説の商人、こうむらしょう。彼が掲げる企業理念は『接客の最前線を知らずして仕事を語るべからず』だ。その社訓どおり社員には、新卒入社、中途採用問わず、入社の翌々週から約一年間の売り場研修が課せられる。
 中でも食品部門でのOJTが重視されており、研修生の最初の配属先は生鮮三品。つまり、青果部門、精肉部門、水産部門である。特に専門的な知識とスキルが必要だと言われている水産部門での研修は三カ月にも及ぶ。
 幸村の企業理念に共感した里奈が、第一希望だったヴィアン・リテーリングに採用された決め手は、意外にも彼女が小学校一年生の時に始め、高校三年生まで続けていた剣道だった。
 採用試験の最終段階で行われたグループディスカッションにおいて、自身のアルバイト経験を発表する場面があった。そこで里奈はバイト先のコンビニで強盗を撃退した顚末を披露して面接官や他の学生を大いに驚かせたのだ。
 売り物のビニール傘を竹刀の代わりにして犯人を打ち据えた武勇伝を、自らも剣道有段者である人事部長がいたく気に入った。それも採用に繫がった理由のひとつだと、里奈は入社後に聞かされた。
「せやけど、蔵もっちゃん。この売り場に配属されてまだ二カ月足らずやんか。歴代の研修生の中でも食へのこだわりっちゅうか、食への情熱っちゅうか、食への執着っちゅうか、とにかく食欲はピカイチやで」
「食欲……。その食欲のせいで、三キロも太ってしまいました。全てはウナギのせいです」
「え? ウナギ?」
「はい。ここのうな丼が美味しすぎてヤバいんです」
 このところ里奈は少なくとも二日に一度、このコーナーで閉店前の半額シールが貼られた売れ残りのうな丼を買っている。
 ヴィアンモールに外国産のウナギは置いていない。
 日向ひゅうがなだに面する漁港、宮崎県町の漁協が出荷するウナギのみを扱っている。
 この小木曽漁港については鮮魚とヴィアンモールへの愛着が凄まじい芝浦チーフからよく聞かされていた。

 明治から昭和初期にかけて、小木曽は良質な天然の『藍ウナギ』の産地として名を馳せた。
 普通のニホンウナギの背中は黒または濃いグレーだが、小木曽で水揚げされるウナギの背中は光の加減で濃い青色に見えることからこの名が付いたと言われる。
 さすがに今は国産の天然ものは激減してしまい、入手は困難だ。稀に獲れた場合、藍ウナギはその日のうちに都内の有名な鰻店に空輸されるらしい。
 だが、現在の小木曽ではウナギの養殖、いわゆるようまん業が盛んであり、五十年以上の歴史を持つ養鰻業者が十軒以上あるという。これは全国的に見てもかなりの規模だ。
 ヴィアン・リテーリングが日本国内に展開する郊外型の直営店、ヴィアンモールおよそ二百店舗に国産ウナギを安定供給できているのは、この小木曽漁協との専売契約によるものだ、と芝浦は胸を張っていた。
 養殖ものとはいえ、気候や水質のいい南九州の養鰻場で、実績ある業者の手で育てられたウナギだ。肉厚で上質な甘い脂が乗っている。味も歯触りも国内トップクラスだと定評がある。
 それでも価格は通常の国産養殖ウナギより二割ほど安い。近年、ウナギの漁獲量は減り、市価が年々高騰しているというのに。それはチェーン店で販売する全てのウナギを提携漁協から一括で仕入れるスケールメリットによるものだと里奈は教えられた。
 その大半が既に出荷元の漁協で串打ちして素焼きされ、瞬間冷凍の状態でコンテナに詰めて納入されるというスタイルも、店舗内での工数削減に寄与している。
 あとは店内で甘辛い秘伝のタレを二度付けし、香ばしく焼き上げるだけ。
 ──皮はかりっと、身はふっくら。
 里奈はその食感を思い出すだけでもうっとりしてしまう。
 が、いくらよそのスーパーより安く、そのまたセール品とはいえ、新卒の給料で買えるものは限られていた。同じ国産の養殖ものでも惣菜の種類によって最終値下げ率が違うからだ。
 その理由は調理される前のウナギの買い付け価格が違うせいだ、と芝浦から聞いている。小木曽にある養鰻場の中でも餌や環境にこだわって養殖されるウナギは成育にかかるコストが高く、仕入れ値もそれに比例して高くなるからだ、と。それなら仕方ない、と里奈は肩を落とした。
 そんな里奈はウナギのコーナーを見る度に、今日も一番安いうな丼が残りますようにと念じてしまうのだった。
「こっちはラップしますねー」
 下ごしらえが終わった惣菜用の魚介類を調理場に運び終えた里奈は、生のまま販売する商品を発泡スチロールのトレーに載せてラップをかけ、値付けを行ってから鮮魚コーナーに並べる、いわゆる品出しに入った。
 昨日品出ししたマグロの短冊を片手に里奈がバックヤードを覗き込んだ。
「チーフ、これ、結構ドリップが出てますけど、どうします?」
 ドリップとは切り身から出る血や汁のことだ。劣化によって流出するのだが、ドリップには旨みも含まれている。つまり、鮮度にこだわる目利きの客はけっして手を出さない。
「半額にしといて。それでも売れんかったら廃棄で」
「はーい」
 店によってはブロック肉や赤身の魚から出る汁を、ドラキュラシートと呼ばれる白い紙を敷いて吸収させる所もある。見た目の悪さや鮮度が落ちていることを隠すためだ。ひどいスーパーになると、汁を吸ったシートの重みまで量り売りの対象とする。
 里奈はそういう小細工をしないヴィアン・リテーリングを誇らしく思っている。売れ残りの商品の値下げや廃棄は利益を圧迫する。それでも、顧客が納得する誠実なマニュアルに基づく店舗経営によって、ヴィアンモールは年々業績を伸ばしているのだ。
「安全、新鮮、美味しい食品をどこよりも安く」
 全ての店舗の入口に掲げられているこの看板にも、里奈は会社の自信とプライドを感じていた。ヴィアン・リテーリングに就職を決めた一番の理由は、消費者に対して真摯に向き合う姿勢だった。
 里奈の両親は検察庁で働く事務官だ。彼女自身もルールから逸脱しない、正義感の強い子になるようにと育てられた。
 そのせいだろう、小学生の頃には掃除をさぼる子や、ゲームやスポーツでもルールを守らない子を厳しく注意し、煙たがられることもあった。
 が、中学に上がると教師の覚えもめでたく、毎年、学級委員か風紀委員を任されるようになった。
 クラスメイトの生活態度や校則違反を指摘するのだから、自分自身はもちろん清廉潔白でなければならない。ルールに縛られる生活を窮屈に感じる時期もあった。
 だが、いつしか「正しいこと」が里奈の行動基準になっていた。将来は警察官か検事になったらどうだ、と周囲は勧めてくれた。それらの職業は自分に合っているような気もしたが、両親と同じような将来にはあまり面白みが感じられなかった。そして、美味しい食材を求めて国内のみならず海外まで飛び回ってリサーチする食品バイヤーの魅力には敵わなかった。
「蔵もっちゃん。こっちのは丸ごとアイスの上に並べといて」
「はい!」
『チーフのイチオシ』はクラッシュアイスを敷き詰めた売り場の中央に、丸ごと一匹の状態で並べて販売する。
 真鯛や黒ムツを並べて、手書きの値札を添える里奈の手元が不意にパッと明るくなった。
 と同時に店内の照度が増して、軽快なポルカのような音楽とともにアナウンスが流れ始める。
 ──開店十分前です。開店十分前です。お客様をお迎えする準備は整っていますか?
 この時間に毎日、ヴィアンモールのテーマソングと録音された女性の声が天井に響く。
 すぐに品出しの手を止めた里奈は小走りに入口へ向かい、既に自動ドアの両脇に並んでいる他のスタッフたちの最後尾に付いた。
 店舗の前で開店を待ち、入口が開くのと同時に入って来るのは、朝刊の折り込みチラシ持参のヘビーユーザーたちだ。
「いらっしゃいませ!」
「おはようございます!」
 スタッフ全員が深々と頭を下げて常連客を迎え入れる。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お使いください」
 先頭に並ぶキャリア社員である店長と副店長が買い物カゴを持ち上げて客へ手渡す。
 彼らの後には正社員、パートやアルバイトといった雇用スタイルに関係なく入社年次の順に並ぶ。決められているわけではないが、自然とそんな風に並んでいる。
「これ、開きにしてくれへん?」
 お客様の出迎えを終えて売り場に戻った里奈に、年配の女性客がアイスの上の鮮魚を指さしながら声をかけてきた。いつも開店と同時に来店する中年の女性だ。自宅の庭にでも出るような感覚なのか、色の抜けたスエットを着て、浅黒い顔はノーメイク。髪には寝癖が残っている。
「はい。こちらの真アジですね?」
 丸ごと一匹の状態で売られている魚を買うのは自分でさばける人なのかと思いきや、半数以上がバックヤードでの下ごしらえを頼む。
 意外とこのサービスを知らずに、魚を丸ごと買うのを敬遠する客は多いのだが。
「はい。お待たせしました!」
 芝浦の手で芸術的なまでに美しく三枚におろされたアジをパックして手渡すと、その女性客がそれをカゴに入れながら尋ねた。
「ねえ。今日は『』の西京焼き、ないのん?」
 女性客が金沢にある老舗料亭の惣菜を指名する。地方の名店から入荷するブランド商品は、日によって品薄になることがある。
「すみません。石川県の方、このところ天候が悪いみたいで今朝は『入荷なし』でした」
「えー? そうなん? ほんなら、これも要らんわ」
 頭を下げている里奈の目の前に、三枚におろしたばかりのアジのパックが突き返された。「は?」と里奈は客の顔を見る。
「せやかて、このアジを塩焼きにして鰆の西京焼きと一緒に夕飯に食べるつもりやってんもん。甘いのんと辛いのん、両方食べたかったんよ。ええわ、今日はお肉にするわ」
「ええ!? そんな……」
 既に三枚おろしにしたアジを返品され、里奈は途方に暮れる。
「あ。じゃあ、京都の老舗料亭のカレイの味醂焼きと一緒に召し上がってはいかがですか? 今の時期、脂が乗ってて、甘くて美味しいんですよー」
「そうなん? どれ?」
 相手も嫌がらせで言っているわけではないので、里奈の代替案に乗ってくる。
「これです! 味噌の甘さとは違いますけど、焼くと上質な味醂がちょっぴり焦げて香ばしいんですよ」
「ふーん。美味しそうやね。ほな、これと一緒にもろとくわ」
 無事に三枚おろしのアジも引き取ってもらえそうだ。
「ねえ、お姉さん。これ、どうやって食べるんが美味しい?」
 今度は白いポロシャツの襟元にループタイをした上品な老人が、マグロの赤身を切り落としにしたお徳用パックを片手に聞いてくる。
「私はよくけ丼にしますよー。醬油と味醂を混ぜて、そこに大葉とネギを刻み込んで、少しだけワサビを溶かした中にマグロを一晩、漬け込むんですよ。アツアツの御飯に載せたらもう最高です!」
「ええなぁ、うまそうや」
 こうやって調理方法を聞かれたり、今日のオススメ品をアドバイスしたりすることも多いのが、鮮魚コーナーの特徴だ。
 ここでは客の本音をストレートに感じることができる。将来は食品バイヤーとして世界中を飛び回ることを夢見ている里奈には、この売り場での経験がきっと役に立つという確信があった。国内外のどこで買い付けをしていても、手に取った食品の向こうにお客様の顔が見えるようになるために。
 ──接客の最前線を知らずして仕事を語るべからずだ。

  

 一九九〇年六月/東京
 これは政治資金規正法が改正される少し前、俺が進学のために南九州の漁村を離れて十年目の話だ。
 バブル景気に沸き立つ日本列島の上空に梅雨前線が停滞していたあの日、議員会館の中にあるかたしょうぞう事務所に一本の電話が入った。
「港北リアルエステートのなかですが」
 当時、片瀬の政策秘書だった俺は相手が口にした社名に緊張した。
 港北リアルエステートは間もなく東証一部に上場を予定している不動産会社だ。
 そして港北リアルエステート代表取締役社長のやまじゅんは、片瀬昭三の大学時代の同級生である。
 それまで専務取締役だった山田順次が社長になった去年の中旬辺りから、港北リアルエステート名義で片瀬代議士の口座に多額の寄付が入金されるようになった。
 事務所の主要な収入源であるパーティー券の購入額も群を抜いている。
 入金の事前連絡をしてくるのは決まってこの中根という男で、山田社長の金庫番であり、裏社会とも繫がりがある懐刀だと専らの噂だ。
 片瀬事務所の最古参、といっても俺より七歳年上のまだ三十代前半の第一秘書、とみながからは「中根は執念深い毒虫みたいな男だ。絶対に機嫌を損ねないように」と言い含められている。
「いつもお世話になっております。秘書の西にしおかでございます」
 壁に向かって頭を下げながら丁寧に挨拶を述べた俺に、中根は一方的に押しつけるような口調で言った。
「片瀬先生がこれ以上の現金による献金は受け取れないと言われるんで、今後はそちらの事務所への貸し付けの形でお渡しするとお伝えください」
「え? 貸し付けですか? それは片瀬が承知している案件でしょうか?」
「当たり前じゃないですか」
 中根の声に苛立ちのようなものを感じた瞬間、俺は第一秘書の忠告を思い出した。
「わ、わかりました。片瀬に申し伝えます」
「では、書類は西岡さん宛てに親展で送らせてもらいますんで、よろしく」
 なぜ片瀬本人ではなく自分宛てなのか疑問に思ったが、これ以上質問できるような空気ではない。
 山田社長が片瀬代議士に心酔していることは熟知している。
 パーティーでの来賓挨拶では毎回、同じ大学のラガーマンだった頃の逸話を披露し、「片瀬を総理にするためなら、僕は何でもします。それだけの男です」と涙ぐむ。
 ふたりの絆が強いことはわかっているが、本人に確認せずに金額もわからない借用書を自分宛てに送らせていいものだろうか。
「あの……」
「それじゃ」
 せめて金額を確認しようとしたが、短い言葉で遮られ、電話を切られた。
 何とも言えない嫌な余韻だけが胸に残った。

  

 二〇二〇年六月/大阪
 その日の午後、里奈の職場であるヴィアンモールの鮮魚コーナーでちょっとした事件が起きた。
 若い男が売り場にぶらっと寄って来て、いきなり写真を撮り始めたのだ。
 洗いざらしのデニムに白いTシャツ。その上に羽織っている黒いフード付きのベストにはイタリアンハイブランドのロゴ。足許はいかにもプレミアがついていそうな底の厚いバスケットシューズ。
 カジュアルな装いの中にも、どこか洒落た空気が漂う。
 バックヤードと売り場を仕切るスイングドアの丸窓から何気なく売り場を見た里奈だったが、男が構えているカメラが本格的な一眼レフであることが気になった。
「チーフ。あの人、何を撮ってるんですかね?」
「うん?」
 庖丁を持ったまま里奈の方へ寄って来た芝浦も丸窓から売り場を覗く。
「何やろ……。売り場を撮ってインスタにでも上げるんやろか」
「映バ えるとは思えないんですけど、鮮魚コーナーの写真。しかも、一眼レフですよ?」
「せやなあ。何にしても店内は許可なく撮影禁止やねんけど」
 それは店内ルールだが、実際には客が売り場で写真を撮る姿は珍しくない。
 菓子を片手に笑顔を見せる我が子の成長記録だったり、商品の最安値を比較するための備忘録だったり。
 が、使っているのがスマホや一般的なデジカメではなく、プロが使うような一眼レフとなると、目的は他にありそうだと里奈は訝る。
「ちょっと注意してこよか」
「チーフ。庖丁は置いてってください」
「せやな」
 軽く笑った芝浦が、まな板の前まで戻って大きな出刃庖丁を置いた。
「私も行きます!」
 男が悪意のある企みを持って撮影しているのなら自分も文句を言ってやろうと、里奈も芝浦の後から勢いよく売り場へ出る。
 カシャカシャカシャッ。
 連写の後、ゆっくりとカメラを下ろした男の顔に、里奈は見覚えがあった。
「あれ? はる?」
「え? 蔵本?」
 驚く男の様子を見た芝浦は、拍子抜けしたような顔で里奈を振り返る。
「もしかして、知り合いなん?」
「すみません、チーフ。よく見たら、大学の同級生でした」
「なんやぁ。ほな、あとは蔵もっちゃんに任せるわ」
「お騒がせして、すみませんでした。私からよく注意しときます」
 再びバックヤードへと戻って行く芝浦の後ろ姿にペコリと頭を下げる里奈に、春樹がぽかんとした表情で尋ねる。
「注意って?」
「店内の撮影には許可が必要なの。最近は不衛生な画像や動画をSNSに流す輩もいるし……ていうか、春樹、なんで大阪にいるの? ていうか、なんでウチの店にいるの? 就職先、都内だったよね?」
 矢継ぎ早に聞かれた春樹は言葉に詰まったように一瞬沈黙した。
 里奈は大学時代から口数が少なかった男の顔を見ながら、卒業式の日のことを思い出していた。
 がわ春樹は釣りが趣味で、里奈と同じ釣りサークルに所属するメンバーのひとりだった。
 釣りサークルの活動はゆるく、週末や長期連休中に集まれるメンバーで四季折々、旬の魚を求めて近場から関東圏以遠の釣り場にまで足を延ばす。
 サークルの公式ホームページには活動の釣果だけでなく、大学周辺の美味しい魚介類を食べさせる店の紹介や、メンバーたちの自慢の魚料理の写真やレシピがアップされている。
 基本的に自由参加のサークル活動だったが、里奈と春樹は特に熱心だった。
 春樹は少し気が弱いところはあるものの、慎重派で心根の優しい男だ。冗談のネタになりやすかった里奈の少し太めの外見についても、けっして口に出さなかった。
 本人は見た目もすらりとして端整な容貌をしているが、里奈は春樹を異性として意識したことはなかった。
 その理由は当時、彼には近隣の女子大に通う一歳年下の可愛い彼女がいたこと、それ以上に彼の顔が弟に似ているせいだと里奈は自己分析している。
 弟に似ている限り、自分にとっての恋愛対象にはなりえないと。
 春樹が卒業間際に彼女と別れたと聞いた後もそれは変わらなかった。
 結局、何でも言い合える家族のような存在になった同級生は、卒業式の日、里奈にとって最も別れがたい相手になっていた。
「駅まで送るわ」
 一緒にキャンパスから出た時に春樹が口にしたその言葉は、お互いに誤解を生まない、それでいて離れがたいクラスメイトとの時間をもう少しだけ共有できる最善の申し出だった。
 そのひと言で、里奈は彼が自分と同じ気持ちでいてくれたことを確信し、驚くほど嬉しかったのを覚えている。
 ふたり並んで学舎から駅へと続く坂道を歩きながら、里奈は次に春樹と会うための口実を探した。
 前日の雨に叩き落とされた桜の花びらや蕾を無残に敷き詰めたようなアスファルトに視線を落としながら考えてみたが、恋人でも家族でもないふたりにはどんな「約束」も似つかわしくなかった。
 駅の改札を抜けた後、里奈は笑顔で言った。
「何かあったらLINEして」
 それが四年間、性別を超えて友情を育んだふたりの門出にぴったりの「さよなら」だと里奈は思った。
 何か相談したいことがあれば連絡を取るし、連絡がなければ順調な証拠だ。
 あれから約三カ月、春樹からメッセージが届くことはなかった。
 里奈自身も大阪への転居や研修、日々の生活に忙殺され、春樹のことを思い出す暇もなかった。
 ──まさか、こんな所で会うとは……。
 大手流通企業のバイヤーになると宣言した自分がエプロンに長靴姿で鮮魚コーナーの売り場に立っている理由を説明したい気持ちに駆られたが、先に春樹の方が「研修?」と察した。
「うん。そっちは?」
 軽く返しながら、売り場撮影の核心に踏み込むと、春樹はまた言葉に詰まった。無理に笑おうとするぎこちない表情に里奈は嫌な予感を覚える。
「そういえば、春樹の会社、みつ出版だったよね?」
 常々「普通のサラリーマンにはなりたくない」と言っていた春樹は新聞記者を志していた。
 そして大手三紙の最終面接までいったものの、どの新聞社も採用されるに至らなかった彼が選んだのは出版社だった。
 三井出版は大手出版社のひとつで主に新書や社会派の雑誌を手掛けている。十年前に創刊した『チェイサー』というスクープ雑誌が大当たりし、業績を牽引している右肩上がりの出版社だ。
 つい先だっても、全国展開しているファストフード店が一度廃棄した食材を回収して再加熱、再加工して販売していたことをすっぱ抜き、そのチェーン店は売上を大きく落としている。
「まさかウチのスーパーのこと悪く書く気じゃないでしょうね?」
 里奈は半ば詰め寄るように確認した。
「あ、いや……。えっと……。グルメ雑誌の特集で……。大手のスーパーが扱ってる鮮魚についてそれぞれの産地を調べてて、まずは売り場の写真を……」
 里奈の勢いに圧されるように、春樹はしどろもどろになった。
「春樹、もしかして『チェイサー』の記者になったの?」
「は? 『チェイサー』? まさか。あんな所、新入社員が入れるわけないだろ」
 春樹の口からようやく感情のこもった言葉が返ってきた。
 あの過激な記事を作る編集部は三井出版の中でも一目置かれているらしい。
 春樹の頰が上気するのを見て、そこに噓はなさそうだと里奈は胸を撫で下ろす。
 噓を吐いている後ろめたさを隠しながら逆ギレするというような高度な芸当ができる男ではないことを里奈は知っていた。
「とにかく、変なこと書いたら承知しないからね!」
 今度は笑いながら凄み、念を押したが、春樹は真顔のままだ。
「だから各スーパーの産地調査だって」
 そこに偽りはないらしい。断言する口調の強さと、彼の人間性を里奈は信用した。
「ふーん。それなら存分に見てちょうだい。ウチはどの魚介類も産地にこだわってるの。安全、新鮮、美味しい食品をどこよりも安く、をモットーにね。そこんところ、しっかり記事にしてよ! ただし撮影許可を取ってからね!」
 里奈は自分の手のひらが痛くなるほど強い力で春樹の背中を叩いた。背は高いが胸板に厚みのない同級生は、それだけで前のめりに重心を崩す。
「で、春樹、いつまで大阪にいるの?」
「週末はこっちでブラブラして、明後日の夜、最終の新幹線で東京帰る予定」
 と彼はカメラをショルダーバッグに収めながら答える。
「マジで? 奇遇! 私、明日と明後日休みなんだけど! じゃあ、久しぶりに釣り、行かない? せっかく大阪にいるんだから南紀の方、行こうよ」
 里奈の父方の祖父、蔵本しょうすけは南紀の漁村に住んでいる。大学時代、釣りサークルの有志を五人ほど連れて祖父宅に押しかけたことがあった。そのひとりが春樹だ。
「ああ、蔵本のおじいちゃん、元気か?」
 五年前に祖母が他界し、里奈の両親は祖父を東京に引き取ろうとしたが、頑として応じなかった。さすがに漁師は引退したものの、八十を目前にして、いまだに漁業組合の世話役を務めている。
「元気よ。年金暮らしになっても漁業権返納しないで、気が向けば素潜りでアワビやらウニを獲ったり、小さな釣り船で沖に出たりしてるみたい」
 マジか……と呟く春樹の目が、里奈にはもう大海原を眺めているように見える。
「行こうよ、明日から一泊で。明後日の夕方までに大阪に帰ればいいじゃん」
 相変わらずいきなりだなぁ、と言いながらも悩んでいる。それは心が傾いている証拠だと里奈はほくそ笑む。
「いいじゃん。前に春樹がでっかいイシダイ釣った所、また行ってみようよ」
 だめ押しのひと言を加えると、春樹は「わかった。電車の時間決めたらLINEくれ。新大阪で待ち合わせよう」と、財布から一万円札を抜いて指定席でよろしくと言って渡した。
「やった! じゃ、明日の朝、在来線の改札前で!」
 と売り場から遠ざかって行く春樹の背中に声をかけたが、飲料が入荷したことを売り場チーフに告げる「なかさん、五番です! 田中さん、五番です!」というアナウンスに搔き消された。
 同級生の後ろ姿を見送った里奈は品出しに戻ろうと売り場を振り返る。
 そしてふと、春樹は何を撮影していたのだろうかと気になった。
「ウナギ?」
 彼がレンズを向けていた辺りはウナギ売り場だ。
 一本丸ごと濃厚なタレを付けて香ばしく焼いた蒲焼き、薄口醬油であっさり柔らかく焼いた白焼き、焼いた切り身をご飯の上に載せたうな重にひつまぶし、うな丼。他にも、刻んだ蒲焼きを玉子焼で巻いたう巻きに、キュウリやわかめと一緒に三杯酢で和えたうざく。
 これらバラエティに富んだ商品のパッケージには「国産」もしくは「国産ウナギ使用」と表記されている。もちろん、全て小木曽漁協から出荷されたものだ。
 ──ま、ウチのウナギなら、どこをどう記事にされても問題ないか。
 安心した里奈は何げなく売り場の上に飾られたディスプレイ用の水槽に目をやった。
 水槽の中では一匹のウナギがにょろにょろと身をくねらせている。青みがかった背中と純白の腹を交互に見せて。
 それはチェーンの中でも各地方の核となる店舗、基幹店の水槽でだけ飼われている小木曽漁港のシンボル。──かつては小木曽漁港で大量に水揚げされていた幻の『天然藍ウナギ』だった。

  

 一九九〇年六月/東京
「なんだ。さわのヤツ、もう捕まったのか」
 俺は電話番をしていた議員事務所で、夕刊の一面に載っているかつての同級生の写真を眺めた。
 モノクロの紙面でも派手な柄だとわかるアロハシャツに膝が破れたダメージジーンズ。
 手錠をかけられていると思われる手首の辺りは大判のハンカチで隠されている。
 最後に小木曽で見た学ラン姿の沢木と全くと言っていいほど変わっていない。
 すらりとした体形と自信に満ち溢れた表情には嫉妬を覚えるというよりも呆れ果てた。
「二十八にもなって」
 外見もそれなりに落ち着いてきたという自覚がある自分と、紙面の男が同い年とは到底思えなかった。
 この男、沢木りゅういちと俺は同じ年に宮崎県の漁村、小木曽村で生まれた。
 沢木は小学生の頃から手の付けられない悪童で、対照的に俺は神童と呼ばれて育った。
 といっても、小木曽には小学校から高校までそれぞれ一校ずつしかなく、沢木とはずっと一緒だった。
 しかし、接点があったわけではない。
 全国模試で小木曽開村以来という優秀な成績を修めた俺が東京の国立大学を目指して勉強に励んでいた頃、沢木は隣町のヤクザがスカウトに来るような立派な不良になっていた。目を合わせたことすらなかったが、「沢木の学生鞄には鉄板が仕込まれている」とか「隆一のロッカーにコンクリートブロックが入っていた」とかいう噂は俺の耳にも入ってきた。鉄板やブロックを何に使うのか想像するのも恐ろしかった。
 君子危うきに近寄らず。
 親から言われるまでもなく、沢木とは距離を置いていた。
 だが、沢木はヤクザの組事務所に入ることはなく、高校三年に上がってすぐ村から消えた。
 その後、どうやら大阪辺りにいるらしいという噂だけが風の便りに聞こえてきた。
 次に俺が沢木の名前を聞いたのは五年前、衆議院議員である片瀬昭三の政策秘書になったばかりの頃だ。
 ある週刊誌のスクープで、西日本最大の都銀である『大淀銀行』が沢木の作ったペーパーカンパニーに二百億以上の金を不正融資しているという疑惑が報道され、世間は大騒ぎになった。
 ヤツはヤクザではなく、「総会屋」になっていたのだ。不祥事で荒れることが予想される企業や銀行と手を組み、他の総会屋や物言う株主を時には撃退し、時にはこれを取り込んで収め、株主総会をしゃんしゃんと無事に終わらせることを条件に金を受け取る、いわゆる「与党総会屋」に。それも沢木が仕切る総会にはヤクザも手を出さないと言われるような武闘派の総会屋に、だ。
 そんな沢木の足許には死屍累々、敵対した人間が数えきれないほど埋められているという噂だ。相手が堅気だろうがヤクザだろうが歯向かえば容赦はしない。風のように人を攫い、飯を食うように人を殺す。そんな話がまことしやかに囁かれている。だが、沢木が殺したという証拠はどこにもないらしい。ただ、ヤツに不都合な人間はいつの間にか蒸発している……。
 週刊誌には沢木が大淀銀行からだけでなく、銀行の口利きで他の企業からも融資という名の謝礼を引き出している疑惑があると書かれていた。そしてその全てが、数億から数十億単位だと。
 ──あれから五年か。沢木のヤツ、この五年で一体どんだけの金を手に入れたんだよ。
 もちろん、恐喝まがいの方法で銀行や企業を食い物にし、最後には刑務所にぶちこまれるような輩など軽蔑の対象でしかない。
 だが、株主総会を穏便に終わらせるだけで数百億もの金を手に入れる男に日本中が驚愕したのは事実だ。
 それに引き換え俺は……。同じ小木曽村で生まれ育ち、神童と呼ばれていた俺は……。政治家の秘書といっても、ごく一部の関係者に名前を知られるだけの存在だ。
 ──俺はまだ何者でもない。

  

 二〇二〇年六月/大阪
「春樹! こっちこっち!」
 翌日、新大阪駅の東口改札前で里奈は春樹の姿を見つけて二枚の切符を握った右手を振った。
「なんだ。もう来てたんだ、早いな」
 自分が一番乗りだと思っていたのか、リュックを背負った春樹は意外そうな表情を見せる。
「久しぶりの磯釣りだと思うと眠れなくって」
「小学生か」
 笑いながら言う春樹の顔も、里奈の目には期待に満ちているように見えた。
 海岸線をドライブしたいという春樹のリクエストを受け、とりあえず特急でしらはま駅まで行き、そこからレンタカーを借りることにした。もう少し南下した辺りからの海岸線が雄大で見事なのだが、和歌山県きっての観光地白浜に比べると寂れていてレンタカーの手配が難しい。
 三番線のホームは、『はるか』が出発した途端、ひとがなくなり、閑散とする。
 それでも、新宮行きの『くろしお』が入線する頃には徐々に乗客が増えてきた。同じホームでも電車の種類によって乗車位置が異なる。慣れていない乗客は迷って駅員に尋ねたり、ホームの上に吊るされた札を見たりしながら列を作り始める。
「窓側、座っていいよ」
「サンキュー。ほんと言うと俺も久しぶりの太平洋が楽しみで、朝早く目が覚めたんだ」
 里奈は「小学生か」と春樹に言われたセリフをそのまま返す。ふたり分の荷物を網棚に載せた春樹は溜息交じりに呟いた。
「俺も実家が和歌山ぐらいなら、しょっちゅう帰省すんだけどさ。やっぱ九州は遠いわ」
 春樹の実家も太平洋に面した風光明媚な場所にあると聞いたことがあった。が、県内には九州新幹線の停車駅がなく、実家は空港へのアクセスも悪いという。帰省するとなると東京の下宿から一日がかりだと言っていたのを里奈は懐かしく思い出す。
 春樹が電車の窓にかかっているカーテンを開けた。都内にある全寮制の高校に進学して以来、九州の実家には数えるほどしか帰っていない、と嘆きながら。
 まだ朝日が眩しかった。
「思えば、大学に入ってからは一回も田舎に帰ってないんだよな、俺。マジでいい所なんだけどさ」
「春樹の所よりはマシかも知れないけど、うちのおじいちゃんちも東京からだと半日がかりだよ。小さい頃は電車に乗ってる時間がひどく長く感じてさあ。お母さんが持たせてくれたお弁当とかおやつとか、電車に乗って一時間もしないうちに食べちゃって。そしたら、することなくなって退屈で」
 幼い頃の里奈は夏休みなどの長期休暇には、ひとりだけ父方の実家である南紀の漁村に預けられ、そこで過ごすことが多かった。
 両親が弟の世話にかかりきりだったせいだ。弟のまさは自閉スペクトラム症という障がいを持って生まれてきた。
 幼少期、口さがない親戚が「姉と顔が入れ替わればよかったのに」と言ったほど、正登はとても綺麗な顔をしていた。が、異常なほど変化を嫌い、口数が少なく、コミュニケーションを取るのが難しかった。
 里奈の母親は弟のために一時、休職していた。が、生来の完璧主義が災いした。小学校に上がるまでに息子を何とか普通学級で勉強できるまでに教育しなければという焦りと、目が離せない息子の面倒を見ながらもちゃんと家事をこなさなければならないという責任感とで、精神的に追い詰められたのだった。
 どうしても里奈のことがなおざりになり、夫婦で話し合った結果、父の実家の力を借りることになった。
 保育園の頃は父親が実家まで里奈を送ってくれた。しかし、彼女が小学校に上がるのと同時に父親の職位も上がり、多忙となった。結果、両親のどちらかが東京から名古屋まで同行し、名古屋からはひとりで関西本線に乗せられた。そこから四時間、三重県回りの特急『南紀』で祖父の実家の最寄り駅まで行く。すると、到着時刻に合わせて祖母がホームで出迎えてくれる。
 車中では、和歌山に着いたらいっぱい泳ごう、磯で蟹を捕まえよう、という楽しみが半分、祖母がホームにいなかったらどうしよう、電車が停まったらどうしよう、という不安が半分。自宅や東京の友達が恋しくなって半泣きで電車に揺られることもあった。
 それでも、東京の狭いマンションで忙しい両親が弟のことばかりを気にかける生活から抜け出し、太平洋に面した入り江の田舎町で祖父母の愛情をたっぷり注がれる日々には何とも言えない解放感と充足感があった。休みが終わる頃には東京へ帰りたくない、と思うほどに。
 そんなことを思い出しながら、ふと隣の座席を見る。
 まだ和歌山市内にも入っていない。車窓に映るのは線路脇の雑草や住宅地だけだが、それでも春樹はずっと外を眺めている。
「仕事、どう?」
 と里奈は新大阪駅のホームで買った麦茶のペットボトルを差し出しながら声をかけた。
「え? あ、ありがと。ああ。仕事、面白いよ」
 質問が唐突だったのか、虚を突かれたようにハッとした顔を見せたわりには素っ気なくシンプルな返事だった。
「今の仕事に何か悩みでもある感じ?」
 そう思わせるような表情だった。
「いや、別に。そっちは?」
 春樹が不自然なほどすぐさま切り返してきた。
「え? 私? うん。マジ面白いよ。ますます食品バイヤーになりたくなってきた。当たり前のことなんだけど、日本列島は縦に長いから同じ野菜とか魚でも獲れる時期と場所が違うでしょ? カメラマンや養蜂家が桜の花を追いかけて九州から北海道まで北上して行くみたいに、バイヤーもベストな食品を追いかけるの。例えば、同じ春菊でも西に行くほど茎が柔らかいのよ。ジャガイモも玉ねぎも産地によって全然味が違うし、旬の時期も違う。サンマなんて同じ漁港でも、年によって漁獲量も違えば、脂の乗り具合も全然違うのよ。一番美味しい産地と時期を頭に入れておくのは当然で、災害やら不漁に備えて、第二、第三の収穫候補地を探さないといけないし」
 春樹の近況を尋ねようと思っていた里奈だったが、食品の話を始めると止まらなくなった。実際、スーパーでの研修で、食品流通の奥深さを思い知ったからだ。
「ああ、早くバイヤーになって日本中、いや、世界中の美味しいものを求めて飛び回りたい。良品廉価をモットーに」
「蔵本は食い意地が張ってるからな」
 言われるまでもない。里奈には自分自身が食いしん坊だという自覚がある。
「そもそも私が魚釣りを始めた理由は、美味しくて新鮮な魚を安く食べるためだからね」
「ははは。釣りサークルの最初の自己紹介でも同じこと言ってたよな」
 結局、春樹が自分の仕事について触れることはなかった。
 南紀を走る在来線特有の横揺れのせいで、里奈はやがて眠り込んでしまい、気が付いたら電車は白浜に着いていた。

  

 一九九〇年六月/東京
 沢木は証拠不十分であっけなく釈放された。夕刊に逮捕の第一報が載ってから一カ月も経たないうちにだ。
 大淀銀行から二百億といわれる金を供与され、あちこちの企業からも大金をせしめておいて、ひとつの証拠も出ないなんてことがあるんだろうか。その記事を読んだ時、首を傾げながらも、心のどこかでホッとしている自分に気付いた。
 新聞記事を読み進めると、多額の金を沢木に対して不正に供与したとされる大淀銀行側は、「その現金は総会屋への不正融資などではなく、若い行員ひとりが着服したものであると発表した」と書いてある。
 しかもその行員は、全て自分がやったことだという遺書を残し、自殺してしまった。一瞬、自殺に見せかけて沢木が殺したのではないか、とも思ったが、その行員が死んだ時、沢木本人は勾留されていた。これ以上のアリバイはない。
 沢木が釈放されたと知った時に俺が抱いた微かな安堵は、何とも不思議な感覚だった。何しろ俺は学生時代、沢木とはほとんど会話らしい会話をしたことがない。むしろ、関わりを避けていた。
 ただ、沢木のことで忘れられない出来事がある。この不甲斐ない検察への失望感と個人的な安堵が混ざり合う複雑な感情には、その時の記憶が大きく影響しているような気がした。
 それは高校二年の秋のことだ。
 文部省の役人が調査のために小木曽村を訪れ、当時、村長を務めていた俺の父親が一行を案内することになった。
 その日の朝、父は珍しく緊張した面持ちでいつにも増して神経質に身なりを整えていた。
 文部省の一行が小木曽村を訪れた目的は、都会の子供たちを夏休みの間、農村や漁村に滞在させ、自然の素晴らしさ、田舎暮らしのよさを体験させる『里村留学』という学習プロジェクトの下見だったと記憶している。
 ついぞ見たことがないような立派な車が連なって校庭に入って来た。俺はその光景に興奮した。
 だがその直後、いつも堂々としている父親が文部省の役人に対して米つきバッタのようにペコペコしながら接しているのを見て衝撃を受けた。省庁の職員とはそれほど権威があるものなのかと驚いた。
 さんざん町をあげての接待を受けた後、退屈そうな顔で高校をさらっと見学した帰り際、一行の代表が周囲にも聞こえるような声で、
「ここはないな。あまりにも寂れすぎだ。都会の子供たちが田舎暮らしに失望しては無意味だ」
 と言い放った。
 それを聞いた父親は悔しそうに唇を嚙みしめていた。が、一言も反論することなく一行の後ろをとぼとぼと歩いて行く。
 ──なんで何も言い返さないんだ。自分が村長を務める村が馬鹿にされたというのに。
 家の中ではもちろん、村でも一番偉いと思っていた父親がひどくちっぽけな存在に見えて失望した。
 だがその直後、尊大な一行が校舎を出た瞬間を狙うように、上から何かが降ってきた。
「わっ!」
 と声を上げて頭のてっぺんを押さえた調査団代表の足許に、汚れて雑巾のような色に染まった上履きが転がっている。
「誰だー!」
 教頭が怒鳴り、校庭にいた全員が二階建ての校舎を見上げた。
 窓という窓から野次馬の生徒たちが顔を覗かせている。
 これでは犯人を特定するのは困難だと思われた。
 が、俺は気付いた。教頭に怒鳴られて全員が顔を強張らせた中、ひとりだけ窓枠に肘をついたまま薄く笑っている生徒がいることに。
 ──沢木……。
 その顔は「村長だろうが役人だろうが関係ない。不快な人間には不快だということを知らせてやる」と言っているかのようだった。
 文部省から来た役人の代表は忌々しげな顔をして校舎の窓を睨み回していた。が、やがて髪を手で払いながら、そのまま足早に車へと乗り込んだ。
 褒められたことではない。だが、わけもなく気持ちが晴れた。
 俺は辛うじて「沢木」と読める文字が書かれた上履きをこっそり拾い、彼の下駄箱にそっと返した。俺にはとても真似できない、と思いながら。
 その時、俺は偉大な父親の呪縛から解き放たれた気がした。
 世界で一番偉いと思っていた父親を圧倒する中央の役人。その代表に、こんな田舎の不良ごときが天誅を下した。方法はどうであれ、一日で俺の頭の中のヒエラルキーがぐちゃぐちゃに壊れたのは事実だ。
 今でも父親のことは尊敬している。だが、あの日、父親は俺の中で一番ではなくなった。あの時初めて、心のどこかでけっして超えられないと思い込んでいた父親をこの先自分は抜き去ることができるような気がした。──いや、超えなければ、生まれてきた意味がない。
 世界が一変したような気分で教室に戻り、何気なく窓枠に肘をついている沢木の手を見てぎょっとした。
 指のつけ根の関節が全て固まったように大きなタコができていたのだ。
 ──どんだけ人を殴ればあんなことになるのか……。

  

 二〇二〇年六月/南紀
 地図アプリを立ち上げるまでもなく、改札を抜けるのと同時にレンタカー店の緑の看板が目に入る。
「お。意外といい車じゃん」
 駅のすぐそばにあるレンタカー店に用意されていたSUVを見て、春樹が目を輝かせた。
 それは最近よく見かける人気の小型車で、車内の匂いからして思いがけず新車のようだ。
 春樹がプレハブの事務所に入って手続きをしている間に、里奈は自分と春樹の荷物をトランクに積み込んだ。
 その時ふと、里奈は積み込んだ春樹のリュックのジッパーの引き手に「小木曽」のロゴと青いウナギのイラストが入った小さな和柄のキーホルダーが揺れていることに気付いた。
 彼が九州出身だということは聞いていた。が、詳しい住所までは尋ねたことがない。
「春樹、小木曽町に行ったことがあるの? 実家、南九州だよね? 近いの?」
 里奈は助手席に座ってシートベルトを締めながら、運転席に乗り込む春樹に聞いた。
 う、うん……、となぜか歯切れの悪い返事をした後で、彼は続けた。
「前に言わなかったっけ? 俺の実家はその小木曽にあるんだよ。俺が住んでた頃は日向郡小木曽村だったけど、何年か前に『町』に格上げになった」
「へええ! 奇遇! 私、小木曽のウナギが大好物なんだ。いつもヴィアンモールで閉店前に半額になったうな丼、買って帰るの!」
 思わず里奈は声を弾ませたが、なぜか春樹は顔を強張らせて押し黙る。
「どうかした?」
 訝る里奈に、春樹はハッと我に返ったような表情になった。そして、
「あ、いや。まあ、小木曽の名産品は養殖ウナギぐらいしかないしな。俺はあんまりウナギは好きじゃないけど。蔵本に大好物認定されたらあっという間に絶滅しそうだな、小木曽のウナギ」
 と冗談めかして笑い、SUVのエンジンをかける。
「よし。出発!」
 里奈は春樹が見せた動揺を隠すような態度が気になったが、話したければ祖父の家で打ち明けてくれるだろうと気楽に構え、助手席のシートにもたれた。
 車はリゾートホテルや旅館が立ち並ぶ白浜の市街地を抜けた。
 四十二号線に出て、高速よりもはるかに時間のかかる海岸沿いの道路をわざわざ走ると決めていた春樹は、湾岸線に出ると同時に感嘆の声を上げる。
「うおー。天気がいいうえに風が強い。最高じゃん」
 いくら天気がよくても、波のない海はつまらない。
 真っ青な波がごつごつした黒い岩に当たって砕け、純白の飛沫を撒き散らす景色が太平洋の醍醐味だと、春樹はハンドルを握って前を向いたまま主張する。
「運転、私がした方がよかったんじゃない? 景色、見られないでしょ」
「湾岸線をペーパードライバーの運転なんてこええわ」
 里奈が免許を取って以来、ほとんど運転したことがないのを春樹は知っている。
「あ。噓……。なか商店、閉まってるじゃん」
 観光地を過ぎた国道沿いにはコンビニもなく、里奈が小さい頃に日用品を売っていた個人商店の雨戸も固く閉ざされていた。
 そのすたれ具合からして定休日という雰囲気ではない。
「ヤバいな。ガソリンスタンド見つけるのも難しくなってきたぞ」
 二時間ほど走って国道から海岸沿いの細い県道へ入ると、その辺りには珍しくない過疎の漁村ばかりが目立ち始める。
 河口や入り江に係留されているぼろぼろの小さな漁船は、現役なのか放置されているのかさえわからない。沿道の食事処や商店も、下ろされたシャッターが錆びている。
「たしか、ここを左に入るんだったよな? 蔵本のおじいちゃんち」
 県道を一時間以上走り、民家も途切れた辺りで、春樹が次の小さな信号を顎でさす。
「そう。よく覚えてるね」
 二年ほど前に一度来たきりなのに、と里奈は彼の記憶力に感心する。
 春樹が示した交差点を左折し、ふたりが乗った車は県道よりも更に細い入り江に面した道をゆるゆると徐行した。対向車が来たら、どこか広い所までバックせざるをえないような道だ。
 その狭い道路に沿って海側に、高さ一メートルほどの防波堤が続いており、等間隔に空いている出入口から漁船が見える。
 右手は背後から山がせり出しているため、一戸一戸の土地は狭く、こぢんまりした集落が続く。
 道端を歩いたり、海を眺めたりしているのは腰の曲った老人ばかり。
「俺の実家も十年ぐらい前までは、ここと同じで限界集落みたいな雰囲気だったんだけどさ」
「小木曽はウナギの養殖で復活したんだよね?」
 五十年ほど前からニホンウナギの稚魚、シラスウナギの漁獲量が激減し、養鰻業者は養殖用にヨーロッパウナギの稚魚を輸入してきた。
 だが、約十年ほど前にこのヨーロッパウナギが絶滅危惧種に指定され、ワシントン条約により輸入が許可制になった。
 結果、現在もアジア全体でシラスウナギの争奪戦が繰り広げられている。
 ところが、不思議なことに小木曽港に注ぐ小木曽川の河口にだけは、いまだに大量のニホンウナギの稚魚が戻って来るという。
 早くからこの小木曽漁港に目を付けて漁協と専売契約を取りつけたヴィアン・リテーリングは先見の明があった、という話を里奈はチーフの芝浦から聞いたことがある。
「強いよねえ、高級な特産品のある町は」
 里奈は声を弾ませ、小木曽とヴィアン・リテーリングとのWin-Winの関係を語りながら春樹の横顔を見た。
 しかし、彼は何かに気を取られている様子で「そうだな」とおざなりに短く答えただけだった。
 仕事のことといい、故郷のことといい、今日は盛り上がる話題がない。
 仕方なく里奈が黙ると、今度は春樹が「あれ?」と声を上げた。
 二年前にレンタカーを停めた場所を記憶しているのか春樹は、いつも里奈の祖父が軽トラックを停めている空き地を見て首を傾げている。
 駐車場と呼ぶにはあまりにも粗末な、砂利を敷いただけのスペース。端の方には雑草が生えているような場所だ。
 里奈が生まれた頃までは、そこに工場があったのだと里奈は祖父から聞いていた。
 近海で獲れるアジやサンマを干物に加工する会社の建屋で、かつては大勢の村人を雇って活気もあったそうだ。が、工場主が経営に行き詰まって社長一家は夜逃げし、今は工場も解体されて更地になっているのだという。
 跡地は転売されたのか、元の所有者のままなのかはわからない。が、車を停めても文句を言う者はなく、地元の人間や、盆や正月に都会から帰って来る人たちが勝手に利用している。
 だから、そこに古びた軽トラック以外の車があってもおかしくはないのだが、里奈も「あれ?」と春樹と同じように目が釘付けになった理由はその車種だ。
 こんなうらぶれた漁村には似つかわしくないパールホワイトの高級外車が停まっている。それほど車に詳しくない里奈でも知っている、ドイツのメーカーのエンブレムが見えた。
「すげえ。マイバッハだ」
 車に詳しい春樹が、高級車の中でもひときわハイグレードな車種だと感嘆の声を洩らす。
 里奈は首を傾げた。
「観光地の白浜ならともかく、こんな田舎にあんな車が走ってるの、見たことないんだけど」
「たしかに似合わないな」
 やがて、重厚なセダンのタイヤがゆっくりと回り始め、白い花をつけている地面の雑草を踏み潰しながら方向を変えた。
「あ、動いた」
 慎重に切り返しながら滑らかに走り出す大きな車体。
「道を間違えて入って来たヤクザか大富豪かな」
 里奈の口からそんな言葉がひとりでに洩れたのは、高級車だったこと、そして横を走り抜けた車の運転席でハンドルを握っている男と、助手席に座った男の両方がサングラスをかけていたからだ。ふたりはまるで用心棒かSPのような精悍な雰囲気を醸し出していた。
 残念ながら、リアウインドウには後部座席の人間の姿が全く見えないほど濃いスモークフィルムが貼られている。
 その時、不意に「え?」と声を上げた春樹の目が、走り去る車をサイドミラーの中で追う。
「どうかした?」
「いや、今の……。後部座席にいた男……」
「バックシート、見えたの? 知ってる人?」
 里奈の位置からはフロントシートしか見えなかった。
「いや。気のせいだと思うけど……沢木隆一に似てる気がした」
 そう呟くように言った春樹の顔が青ざめている。


  *

続きは4月4日ごろ発売の『偽鰻』で、ぜひお楽しみください!
「ひろゆき氏推薦!!」の特別全面帯で登場です!

■著者プロフィール
保坂 祐希(ほさか・ゆうき)
2018年、『リコール』(ポプラ社)でデビュー。社会への鋭い視点と柔らかなタッチを兼ね備えた、社会派エンターテインメント注目の書き手。大手自動車会社グループでの勤務経験がある。著書に『大変、申し訳ありませんでした』(講談社タイガ)、『黒いサカナ』(ポプラ社)、『「死ね、クソババア!」と言った息子が55歳になって帰ってきました』(講談社)ほか。

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