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帝都はいから婚物語 女学生は華族の御曹司に求愛されています

 第一章 女学生支配人、誕生す

 時は大正、日は良好。
 麗らかな陽の光を受けるのは、春真っ盛りの荒川あらかわ近くに立つ木造りの校舎。その青々とした垣根の内側で、桔梗や牡丹の花々が揺れるように見え隠れしていた。
 よくよく見ればそれらは着物の染め柄で、花薫る風に吹かれるのはつやめく黒髪。
 耳を澄ませば、風鈴売りの行商を思わせる涼やかな笑い声が響く。
 ここは白椿しろつばき女学校。
 袴姿のあどけない少女たちが通う、慎ましくも穏やかな学舎である。
 人もまばらな昼休みの教室で、机に前のめりになった少女──萩原はぎわらあんは、髪の上半分をまとめて結ったリボンを弾ませた。
「あれは一見の価値ありですわよ。想像してくださいな。美しい貴公子と可憐な令嬢のうっとりするような接吻を!」
 いきなり接吻などと言い出すものだから、親友の多喜たき咲子さきこ は、お弁当の玉子焼きを持ち上げたまま目を丸くする。
「杏ったら。興奮しすぎじゃなくて。口元にお米をくっつけていてよ?」
「あら。わたくしったら。感動を思い出してしまって、つい……」
 杏が慌ててご飯粒を取ると、咲子はほんのりと微笑んだ。
「あちらこちらの舞台に目を通しているあなたが一目で夢中になるなんて、とても魅力があるのね。その帝華ていか歌劇団かげきだんというのは」
「演目は歌劇でしたけれど、帝国ていこく劇場げきじょうでかかるオペラよりも分かりやすくて、華やかで、時間が経つのがあっという間でしたわ」
 杏が帝華歌劇団を見たのは、まったく予期しない巡り合わせによるものだった。
 授業で使う筆を新調するため街に出た折、少しだけ寄り道しようと回った裏道の小さな公会堂に『新作公演中』の看板がかかっていたのだ。
 公演切符チケット代を払って古びた席に潜りこむと、すぐに幕が上がった。
 繰り広げられたのは、色とりどりの花が開くような歌劇だ。
 観客はわずか十人しかおらず、妙齢の女性や杏と同年代の少女の姿が目立っていた。
 それもそのはず、舞台に上がるのは、どれも見目麗しい少年少女ばかりだったのだ。
 まだ小学生だった頃に両親と帝国劇場で観た『カバレリア・ルスチカナ』で歌劇に目覚め、百貨店の客寄せのために作られた白木屋しらきや少女音楽隊や浅草あさくさ六区で旗揚げされた小劇団に足を運ぶ杏ですら、こんな舞台は見たことがなかった。
「みんながあれを見たら、活動写真や歌舞伎に押されて伸び悩む西洋歌劇も人気が出るのではないかしら。団員のなかに、特に目を引くひかる源氏げんじのような青年がいて……。トップスターと呼ばれていたわ。お名前は神坂かみさか真琴まこと様と言いますの」
 団長として最後の挨拶をした彼の、きりりと引き締まった表情と少し幼さのある声は、まだまだ子どもと叱られてばかりの杏の乙女心を刺激した。
「わたくし、あんなに美しい方は物語のなかにしかいないと思っていました。まばたきの音が聞こえそうな長い睫毛と黒曜石のような瞳を思い出すだけで胸が高鳴りますわ。あの方にお会いするためだけに劇場に通いたいぐらい」
「その話、私たちにも聞かせてくださいな」
「トップスターとはなんて洒落た言い回しかしらん」
 杏の話に興味を引かれて、別の机で話し込んでいた同級生も集まり出した。
 女学生が男性の話をしていると「はしたない」と咎められるが、女学校に通学する年代は特に異性への憧れが強いお年頃である。
 絵に描いたように美しい男性ともなれば、又聞きでも知りたいと思うのは当然だ。
 彼女たちの内の何人かは、現実の男性についてよく知らないがゆえに、見目麗しく雄々しい上級生に溺れてエスの関係になっている。
 しかし杏は、女学生同士の親密な擬似姉妹ごっこよりも歌劇の方が好きだった。
 そんな時に、憧れを具現化したような男性を観たのである。
 一目で恋に落ちたのも道理と言えよう。
「杏はいつでも楽しそうね。うらやましいわ」
 感極まる杏とは対照的に、咲子は重い息を吐きながら空になった弁当箱を包み直す。
「そんなに素敵なら、俊信としのぶ様にお話ししてみようかしら。少しでも興味を持ってくださるといいけれど。彼ったら、帝劇でかかったオッフェンバックを見るのも面倒くさそうだったのよ。あんなに評判になったのに、興味がない、腰が重いなどとおっしゃって……」
 咲子が嘆くのは、芸術に無頓着な婚約者のことだ。
 大学の法学部を卒業して銀行員になった二十八歳で、良くいえば堅実、悪くいえば遊び心がない。でも悪い人じゃないのよ、と咲子は評する。
 彼のことを話す時、彼女はとても大人びた表情になる。
 それが、まだ恋も知らず、縁談の影もない杏には眩しかった。
「咲子様、そんなに悲嘆なさることはないわ。婚約者殿に断られたら、わたくしと一緒に劇場へ参りましょう。帝劇でかかる小難しい演劇なんて、すぐに廃れてしまうに違いないわ。これからはハイカラな歌劇団の時代が来るのよ!」
 杏が力強く言い切ったので、咲子は片眉を下げて笑った。
「あらあら。杏が言うとほんとうにそうなる気がするわ」
 教室の扉が開いて、庇髪ひさしがみの女性教諭が顔を覗かせた。
「声が廊下まで聞こえていますよ。もっと慎みを持ちなさい。特に萩原杏さんっ」
「はいっ、申し訳ございません」
 杏が飛び上がると、教諭は分厚い鏡面レンズのはまった眼鏡を中指で上げた。
「よろしい。静かに理事長室へおいでなさい。理事長……あなたのお父上がお呼びです」
「お父様が? どんなご用かしら?」
 見当もつかない杏の背を押して、咲子は母親のような口調で言った。
「いってらっしゃい、杏。廊下を走っては駄目よ」

「婚約ですの? 縁談でもお見合いでもなくって?」
 呼び出された理事長室で杏は困惑した。
 父は、理事長の札が立った飴色の机でこくこくと頷いている。
「そう。なんと急に話がまとまったのだよ」
「急にって、今が何月かご存じ?」
 桜の花も満開の四月の良き日。
 良縁を受けるには最高のお日柄だが──。
「まさか進級したばかりで、女学校を中退しろなんておっしゃらないでしょう?」
 十五歳の杏は、この春から高等女学校の三年生になったばかりだ。女学校は四年制が基本で、入学した時にもよるが生徒は十二歳から十七歳くらいの年齢である。
 伸ばした栗色の髪が腰に届き、葡萄えびちゃばかま深靴ブーツを合わせた着こなしや紐で縛った教本の重みに慣れて、ようやく女学生としての誇りを持てたところだというのに。
 父は、悪びれもせずに残酷なことを言う。
「相手方の意向によっては中退ということもありえるね。しかし、これは教養からの逃亡ではなく名誉の棄権だよ。杏、よく考えてごらんなさい。お前のような少女たちが、あどけない額を寄せあって、お裁縫にお行儀にと学んでいるのは何のためだい?」
「良き妻、良き母になるためですわ……」
 答えながらも杏は釈然としなかった。
 咲子の相手のように卒業まで待ってくれる男性もいるが、婚約した相手方に請われて教育課程の半ばで学舎を去る少女もいる。
 女学校とは、良妻賢母となるための教育を受ける場なのだ。娘を思う親からすれば、良縁を優先して勉学をやめさせるのは真っ当な選択だといえる。
「けれど、お父様。わたくしはそんな枠に収まる大人にはなりません」
 時は大正。
 文明開化で雪崩れこんだ西洋式は、今や婦女子の生き方までも変えようとしている。
 明治四十四年に平塚ひらつからいてうが文芸誌『青鞜せいとう』で、日陰で生きることを強いられていた女性の解放を『元始、女性は実に太陽であった』という名文で訴え、与謝野よさの晶子あきこが男尊女卑の時代が終わる予感を『山の動く日来たる』と詠ってから、およそ五年が経つ。
 新しい女という自立した女性像は、杏のなかにも新しい価値観として芽生えつつあった。
「わたくしは、男性に養ってもらわなくても生きてゆける女性になるつもりです。男性がするような管理職に就いて経験を重ね、やがてはお父様のように、この白椿女学校の理事長になりたいと思っております」
「なんだって? 女性が管理職になぞ就ける訳がないだろう。考え直しなさい、杏」
 父が目に見えて慌てる。
 女性の仕事といえば電話交換手や教師、事務員といった少数しか選択肢がない時代。それも結婚までの繫ぎとして就くものだから当然の反応だ。
 しかし、杏も杏とて反対されてあっさり諦めるような少女ではなかった。
「無理だと決めつけないでくださいませ。お父様こそ、生徒の進路について多様性を認める時期にあるのではなくて? 学舎である女学校が、いつまで〝いいお嫁さん養成所〟に甘んじているおつもりですの!」
 大見得を切る勢いで両手を机につくと、父が「ひいっ」と悲鳴を上げた。
「だ、だからって、いつまでも独り身ではいられないだろう!」
「独り身で人生を終えると言っているのではありません。わたくしは、自分の結婚相手を自分で見つけます。だから、縁談なんて重苦しいものはさっさとお断りくださいませ」
「それは無理だ!」
 父は、理事長としての威厳をどこかにやって、傍らにあった大きな壺に飛びついた。
 細首の見事な備前焼で大人の腰ほどの高さがある。
 かなり目立つそれは、杏が一昨日、掃除に来た時にはなかった代物だ。
「その壺、見慣れませんけれど、どうなさったんですか?」
 杏がじいっと睨むと、父はぎくりと肩を上げた。
「こ、これは元からここにあったものだよ。そうさ、ずっと昔からあった!」
「騙されなくてよ。これでも記憶力はいいのですからね。まさか、また骨董品ですの?」
 杏の父は骨董蒐集家だ。古くて貴重な物と聞くと、古書でも焼き物でも手を出さずにいられない。人間が陥る、凝り性という名の病にかかっているのである。
 このせいで萩原家には出自の曖昧な、それでいて高額な品物が陳列されていた。
「そうだ、たしかに骨董品だ。でも、今回はとてもいい品で─」
「購入品の価値は関係ありません。前に雪舟せっしゅうだか無節操だかが書いたといって、何の値打ちもない狸の掛け軸を摑まされた時に約束しましたわよね。もう何があろうと、決して骨董には手を出さないと」
 杏がこんなに怒るのは、萩原家の財布の紐を握っているからだ。
 母はもうこの世にいない。杏が尋常小学校を卒業した春に病気で儚くなった。
 今際の際の一言は「お父様に家計をまかせてはいけません」だった。父の過剰な骨董愛を知っていたからだ。
 それからは杏が、父の給料を預かって家計をやりくりしている。
 父は理事長職に見合うような高給は取らずに教師たちへ分配しているので、慎ましい生活を送らねばならないというのに。
「娘との約束を破るなんて。きっとお母様も天国でかんかんに怒ってらっしゃるわ」
 杏が頭から角でも出しそうな剣幕で言うと、父は眉をハの字に下げた。
「すまない。骨董屋のご主人に、今買っておかないと二度と手に入らないと言われて、つい」
「つい、で済むのなら借金取りはおりませんわ。今回はいくらでしたの」
「三千えんです……」
「三千!?」
 あまりの高額に、思わず声が裏返った。
 一般家庭の年収が三百圓に届かない時代である。
 この壺一つで、家が一軒はゆうに建つような値段だ。
「萩原家にそんなお金はありませんわよ。どうやって払うおつもりですの?」
「心配せずとも借金取りは来ないよ。骨董屋で出会った骨董好きの紳士が、金額を聞いて諦めようとするお父様に、購入代金を立て替えましょうと申し出てくれてね」
「見ず知らずの紳士が立て替えですって?」
 いかにも怪しい。
 杏なら裏があるのではないかと疑うが、純真無垢な父は信じこんでしまったらしい。その時の感動を思い出して、目尻に浮かんだ涙をハンケチで押さえる。
「素晴らしい方だったよ。彼は西洋骨董アンティークがご専門らしいが、同じ骨董好きとして見過ごせないとおっしゃってね。お父様は感激してしまって、自分が白椿女学校の理事長を務めていることと、しっかりした一人娘に家計を握られているので、返済は少し時間をいただくかもしれないことをお話しした」
「そんな世間話で、その紳士はこちらを信用してくださったと言うの?」
「そう。さらに話が弾んで、こう申し出てくださったんだ。『うちにも年頃の男子がいるが堅物で困っている。よろしければ、しっかりした娘さんと引き合わせてみませんか。上手くいけば親類のよしみで借金はなかったことに』と──」
「よりによって、娘のわたくしをお売りになったんですの!?」
 青天の霹靂だった。
 江戸が舞台の世話物歌舞伎ならいざ知らず、この大正に、どこにそんな価値があるのか分からない壺と自分が引き換えにされるなんて。
 驚きで目を丸くしていると、父はやたら懸命に首を振る。
「売るなんて人聞きの悪いことを言わないでくれ。良い縁談には違いないんだ。だって、その紳士は貿易王の神楽坂かぐらざか子爵なんだから!」
「お華族様なのですか……」
 華族とは、明治維新後にはじまった日本独自の貴族制度だ。公家など古くから続く血族や御一新の際に武勲をあげた大名など、高貴な身分を与えられた一族をこう呼ぶ。
 萩原家は教育に熱心な家風だが平民なので、本来は華族から縁談が持ちこまれるような立場にはない。
 父が急な縁談を、これ幸いと持ちあげるのも無理はなかった。
「相手は、華族でありながら軍に所属する青年だそうだよ。これからの国を支える一角の人物になるに違いない。愛娘を嫁がせるのに、こんなに良い条件はないはずだ」
 そう言いつつ、父は壺を放さない。
 つまり、骨董も縁談も手放さないつもりなのだ。
「これでは、わたくしに選択肢などないではありませんか……」
 この縁談を受け入れなければ、萩原家には莫大な借金が一度に降りかかる。
 父だけが不幸になるなら自業自得だが、理事長が借金をこしらえて破産したら、白椿女学校にも悪い噂が立つに決まっている。
 杏の脳裏に、咲子をはじめとした級友や先輩後輩の姿が浮かんだ。
 共に学び、励まし合い、喜びを分かち合ってきた少女たちは社会的に弱い。彼女たちの経歴に傷をつけてはいけない。若い内の傷は女性の一生に関わるのだから。
 揺れる気持ちを後押しするように、父が語りかけてくる。
「お父様はお前の幸せを一番に思っているよ。神楽坂子爵からの縁談を受けなさい」
 家長の命は絶対だ。
 杏がどんなに自由主義を掲げていようとも、女性では貫けない常識がある。
「……分かりました。けれど、わたくしが縁談を受け入れるのは、借金に屈したからではありません。この白椿女学校を愛しているからですわ」
 強気なふりで答えると、父は安堵した顔で壺から体を離したのだった。

  *

 週末の午後、杏は帝都ていとホテルの廊下をしずしずと歩いていた。
 木格子の窓から斜めに差す陽光が、振袖の赤をいっそう鮮やかに見せている。
 縁起物の鶴が織られた帯は母から受け継いだものだ。梳いた髪をまとめて花櫛を飾り、口元には紅を差している。
 普段と比べて垢抜けた着こなしなのは、事情を知った咲子の母君が、一人で支度は大変だろうとお手伝いさんを寄こしてくれたおかげだ。
 日常のお転婆を脱ぎ捨てた杏は、どこから見ても良家のご令嬢だった。
「だけど、こんなの、わたくしらしくないわ……」
 杏がまとわされているのは、大口を開けて笑うと崩れてしまうような美だ。
 これから面会する軍人も、こんな風に大人しいだけの女性像を求める人なのだろうか。そうだったら、杏は、もう自分らしく笑うことは出来ないかもしれない。
 暗い未来を想像すると足が重くなった。辿っている赤絨毯あかじゅうたんが、地獄へ向かう荒れ道に見えてきて、自然と進む速度が遅くなる。
「お嬢様? 会場はこの奥ですが……」
 蝶ネクタイを締めた案内係に呼ばれて、杏ははっと顔を上げた。
 いつの間にか、顔合わせ場所となる喫茶部の入り口に着いていた。
 このホテルに来るのは、春休みにあった帝都教育者会議なる集会に父に連れられて参加して以来だから、一カ月と経っていない。
 それなのに、西洋式の彫刻にも絵画が飾られた廊下にも、天井から下がる飾り照明にも見覚えがなく、まるで見知らぬ土地で迷子になったような気分だった。
「もう案内は結構ですわ。ここまで、どうもありがとう」
 杏は、ふくら雀の形に締めた帯が崩れないよう、慎重に一礼して案内を離れた。
 橙色の明かりが温かみのある喫茶部には、ゆったりとしたピアノの生演奏が流れている。
 客層は穏やかに談笑する大人が中心だが、通路に面した席では小さな女の子が駄々をこねて母親らしき女性を困らせていた。
(お好きなだけ泣きなさい。あなたは泣ける立場にあるんだし、慰めてくれる母親もいるのだから)
 どちらも持たない杏は、まっすぐに通路を渡った。
 最奥の一角を区切る衝立の前に、普段は樟脳箱にしまっている紋付き袴を身につけた父がいて、落ち着かない顔でうろうろしている。
「お父様」
「おお……杏。見違えたよ。ずいぶんと綺麗になって」
 着飾ることになったのは他でもない父のせいなのだが、本音を吐きだす元気もなく、杏は目を潤ませる父から視線を外した。
「お礼なら咲子様のご母堂になさって。お相手はこの向こうにいらっしゃるの?」
「そうだが、少しばかり行き違いがあって……」
 立ち止まっていると足がすくみそうで、父を押しのけて衝立の向こうに踏み入った。相手の姿が見えるか否かのところまで近づいて、九十度より深く頭を下げる。
「先日は父がご迷惑をかけまして申し訳ございません。萩原杏です」
 すると、しばしの間を置いてクスリと笑むのが聞こえた。
「元気なお嬢さんだ。どうぞ顔を上げて」
 艶っぽい声に促されて視線を上げると、褐色がかった髪をゆるくセットした男性が、ステンド硝子グラスの窓を背に一人で微笑んでいた。
 品のいい毛織物モヘアの洋服に、幅広の襟締スカーフネクタイを合わせた着こなしは、はるか遠い西洋の香りがする。
 洗練された大人が醸しだす雰囲気に、杏はあっけに取られてしまった。
「あなたが……わたくしの夫となる方?」
 そろりと問いかけるなり彼は俯いた。すくめた肩が小刻みに揺れるのを不思議に思っていると、顔を上げて堪えきれないといった風に笑い出す。
「はははっ、そんなに若く見えたかい? 残念ながら私は保護者の方。神楽坂子爵家当主の神楽坂空太郎くうたろうという者ですよ、お嬢さん。君の相手は少々遅れているのでしばらく私で我慢してもらえるかな?」
「遅刻されているのですか。わたくしは、てっきり──」
「こら、杏。私語は慎みなさい。申し訳ありません子爵。お転婆な娘でして」
「かまいませんよ。お嬢さんが、仲人もなしに婚約相手と面会させられると不安がっていたならば、謝罪しなくてはなりません。どうして私が相手だと思ったのかな?」
 華族なだけあって、柔らかに問う空太郎にはどこか人の上に立つ者の気品がある。
 杏は、今度は失礼のないように気を引き締めて答えた。
「謝罪は必要ありません。わたくしの推理が外れただけですもの。相手は子爵様のもとにいらっしゃる若者のはず。縁談がまとまったら親類のよしみで借金はなしという条件から言って、近親者であることは間違いありません」
 杏の見立てでは、空太郎はせいぜい三十代前半。
 一般的には結婚して子どもが二、三人いてもおかしくない年齢だが、華族らしく独身を謳歌している可能性も高いと踏んだ。
 明治に行われた民法改正により、男性は十七歳、女性は十五歳になれば結婚出来る。
 家同士の繫がりを重要視する華族の若君は、親に決められた許嫁と早くに結ばれる場合もあれば、三十近くになってから好みの令嬢を迎えることも少なくない。
 女学校では、日頃から嫁探しをする紳士や名家のご夫人が授業参観するのは当たり前なので、杏もその辺りの事情には詳しい。
「神楽坂子爵は、三千圓もの大金をぽんと貸せる紳士と聞いていたので、初老くらいの品の良い男性を思い浮かべておりました。ですから、お若い空太郎様が子爵その人ではなくご令息だと思って、縁談相手と勘違いしてしまったのです。お許しくださいませ」
 流暢な返事を聞いていた空太郎は、ほうと感心した。
「驚いたな。伺っていたよりも利発な娘さんのようだ。勘違いさせてすまないね。君を待たせている縁談相手は、私の弟だ。二十歳になったばかりだから、こんなおじさん相手だと落ち込まなくてもいい。暇つぶしに話でもしていようか」
「では、私はお相手を待っています」
 父は衝立の前に戻った。
 空太郎は近づく給仕を手で下がらせると、自ら立ち上がって椅子を引いた。
「立ち話ではあじけない。さあ、どうぞ」
「あ、ありがとう……ございます?」
 素直に座ると、大きな手が肩に置かれた。
 びくりとした杏は、息をつく間もなく慣れた手つきで顔を上げさせられる。白粉おしろいを刷いた頰に落ちてくる空太郎の視線は、無色透明でいて粘着質な熱を帯びていた。
「君は愛らしいね。シンにあげるのが勿体なくなってしまった」
「しん?」
「これから来る君の相手さ」
 ちらり、と衝立の向こうに瞳をやった空太郎は身を屈めた。
 垂れぎみの目が伏せられたのを間近に見て、杏はようやく気づく。
(接吻されそう……?)
 動転する気持ちに反して、体は動かなかった。
 下手に振り払ったりして子爵の機嫌を損ねたら、借金の肩代わりの話がなくなってしまうかもしれない。そうなれば、萩原家、ひいては白椿女学校の破滅だ。
 けれど、こんな形で初めてを奪われるなんて不本意だった。
 責任感と嫌悪感という相対する小波の上を、いつ沈むかも分からない泥船で揺られている気分だ。
 どこにも助けを求められない。誰も味方にはなってくれない。
 こんな時に思い浮かぶのは、歌劇団の貴公子、神坂真琴の神々しい姿だった──。
「何をやってる、馬鹿兄貴!」
 怒気をはらんだ声と共に気配が離れた。
 砂糖を煮詰めたような甘い香りに薄目を開けると、茶褐カーキ色の洋装の腕が、空太郎の肩を押しのけていた。
(え?)
 腕の主を見た瞬間、杏の視界に花吹雪が舞った。
 そこにいたのが、たった今、脳裏に描いた帝華歌劇団のトップスターだったからだ。
 黒々とした目は意思が強そうで、鼻梁は高く、横一文字に引かれた唇はきりりとしていて、身の丈はすらりと長い。いかにも舞台映えしそうな容姿だ。
 しかし、杏が舞台上で見た神坂真琴とは大きな違いがある。
 彼が身に着けているのは、金の飾緒かざりおを垂らした陸軍の軍服なのだ。
 立ち姿は堂々として、後ろで戸惑う父を霞ませた。
「遅かったじゃないか、シン。職業軍人というのは、よほど融通の利かない立場にあると見える」
 空太郎に意地悪く笑われて、真琴ではなくシンと呼ばれた彼は苛立った。
「話をはぐらかすな。あんたの手の早さを叱っているところだ」
「入り口から急いで走ってくるお前を見たら、からかいたくなっただけさ」
「そのひねくれた性根では、いつか痛い目を見るぞ」
 子爵に対するには敬意のない言葉遣いだった。
 しかし、空太郎は怒るでもなく当たり前のように受け入れている。
 旧知の仲というよりは、勝手知ったる家族のようだ。
「あの、あなたは?」
 杏が声をかけると、軍人は空太郎から手を引いて姿勢を正した。
「兄が失礼した。俺は神楽坂しんと言う」
「あなたが……!」
 まさか、神坂真琴が子爵の弟で、この場に現れるとは思っていなかった。
 天の悪戯としか思えない巡り合わせに杏が圧倒されていると、真は怪訝そうな顔をする。
「どうかされたか?」
 何か言わなければ。
 焦った杏は、すっくと立ち上がった勢いで想いを吐きだしていた。
「わたくし、あなたが好きですっ!」
「は?」
「ええっ!」
「おや」
 真が静止し、父が驚き、空太郎が面白そうに微笑むなか、杏はぼんっと真っ赤になった。
「順序を間違えました! ですが好きなのはほんとうです。実は先日、帝華歌劇団の舞台を拝見しましたの。とても素晴らしい舞台でしたわ。特に神坂真琴様には、恋に落ちそうなくらい魅了されました」
 真は喜ぶ様子はなく、早口になる杏を冷ややかに見る。
「お前は、神坂真琴に好意を持っているのか?」
「はい」
 杏は素直に答えた。
 彼は憧れのトップスターだ。嫌いになる理由がない。
 しかし、屈託のない笑顔を見せられた真は、親の仇にでも向き合っているかのように剣呑だった。
「そうか。悪いが人違いだ。俺は神坂真琴ではない」
「同じお顔つきなのに?」
「似ているだけだ。普段から、舞台に上がるような軟弱者と誤解されて迷惑している。ついでに明かせば、俺は女が嫌いだ。兄貴が話を持ってこなければ、誰とも結婚なんてするつもりはなかった。形式的に縁組みはするが、お前を愛すつもりはない」
「愛すつもりはないって……。わたくしたち結婚しますのよ。家族になるのですから、お互いを愛し慈しむ心は必要ですわ」
 杏にとって、家というのは温かな空気で満たされている場所だ。
 女学校で嫌なことがあっても帰り着けば安らげる。
 その場所を作る家族というのは、お互いを想う気持ちが自然に湧き上がってくるような、愛に包まれた優しい関係だと思う。
 だが、真がそう思っていないことは、杏を煙たがる態度からして明白だった。
「結婚に心なんか必要ない。お前は俺にとって、神楽坂の血筋を受け継ぐ子どもをもうける相手でしかない。子どもが産める健康な体を持つ女であれば誰だっていい」
「何てことを言うのですか、あなたはっ!」
 頭にカッと血が上って、気づけば杏は怒声を浴びせていた。
 子どもを産み、働きに出る夫を支えるのが、女の幸せだと女学校で教育を受けた。
 けれど女性は、出産と家事のためだけに嫁ぐのではない。
 家庭という形をした幸せな人生を紡ぎ出すためである。
 男に従属するために学んでいる女学生は、杏の知る限り一人もいない。
「誰でもいいだなんて非常識だと思いませんこと!」
「俺と一緒になるのが嫌なら、この縁談を反故にすればいい。借金は自分たちで働いて返せ。人を頼るな」
「借金が萩原家だけの問題ならば、わたくしだってそうします。けれど、父は白椿女学校の理事長です。多額の借金があると醜聞が流れれば、通う女学生の名前に傷がついてしまうのですわ!」
「お前は、学友のために望まない結婚をしようとしているのか?」
「当たり前でしょう。そうでなければ、誰が見ず知らずの殿方との婚約を受け入れたりするものですか」
「そういうところが気に入らない」
 はっとして見上げると、高い位置にある真の顔に嫌悪がありありと浮かんでいた。
「顔合わせだの婚約だの結納だのと、どれだけ正式な手順を踏んでいようが、借金のかたに差しだされたお前は花街に身売りされる娘と変わらない。父親の操り人形にされているのに反抗せず、現状を変えようと努力もしない。そんな人間のどこを愛せばいいんだ?」
「それは……」
 杏は、ぎゅっと袖口を握りしめて口ごもった。
 真が言うように、借金取りに身売りされたも同然の立場にいる。
 自分の意志に関係なく、身の置き場を決められそうになっている。
 嫌だと言いながらも、結局、父の言いなりだ。
「で、ですが、わたくしだって努力はしてきました。女学校では勉学に励んでおりましたし、将来は男性と同じように働き、社会に認めてもらうつもりでしたわ」
「女学校でするお遊び程度の勉学が、男社会で通用するとでも?」
「わたくしたちが受けている座学は、政府の教育要綱にのっとった内容です。家政やお作法の時間が多いのは事実ですけれど、男性とだってちゃんと渡り合えますわ!」
「それは、世間知らずの希望的観測だな」
 真はあくまで杏を下に見ていた。
 どれだけ本気か認めてもらいたいが、この場では自分の情熱を見せる機会がない。
 はからずも、杏が父の言い分を受け入れてこの場に来たことが、甘えを象徴していた。
(わたくしは、甘えたつもりなんてなかったのに)
 真の目には、杏は華族との縁談に気合いを入れてめかしこんできた軽薄な娘としか映っていない。どれだけ葛藤して喫茶部に来たかも、着付けた振袖より重たい責任を背負っているかも、考慮してもらえない。
(わたくしが女だから?)
 だから、必死の想いを汲み取ってもらえないのだろうか。
 杏が声を出さなかったので、真は侮蔑より落胆が色濃い表情になった。
「縁談は決裂だな、操り人形。次はマシな相手と見合い出来るように祈っている」
「シン、彼女に失礼だろう。待ちなさい」
 歩き出した真は、空太郎の呼びかけにも振り返らなかった。
 うろたえる父の横を通りすぎ、迷うことなく喫茶部の出入り口へと向かっていく。
 広い背中を杏は呆然と見送ることしか出来ない。
 耳がきんとして、楽団の演奏が中断するように周囲の音が遠くなる。
 視界は舞台照明の出力が落ちるように黒く霞んでいく。
 まるで夜の海に突き落とされたように心細い。
 怖いし寒い。どうやって足の着く場所に戻ればいいのか分からない。
 分かるのは、取り巻く世界の全てに取り残されたということだけ──。
「うわあああああんっ!」
「!」
 杏を正気に戻したのは、幼い女の子の泣き声だった。
 空気を裂くような甲高い声に真の足も止まる。
「なんだ?」
 鬱陶しげに振り返った彼は、通りすぎた座席を見た。
 そこでは、女の子が足をばたつかせて母親を困らせている。
「いやったら、いやなの!」
「さっちゃん、わがまま言わないの。これしかないのよ」
「だめなの、足りないのっ」
「何が足りないの?」
 歩み寄った杏が声をかけると、女の子は不満げに西洋卓テーブルの上を指さした。
「これ!」
 ふっくらした指が示したのは、散らばった四角い蠟引きパラフィン紙包みだった。
 黄色の外箱で有名なミルクキヤラメルだ。
 大正三年に大正博覧会の特設会場で大々的に売り出されて以降、愛されている携行洋菓子である。巷では偽物が出回るほど大人気の品で、父は煙草の代用品にしているし、杏も好きでよく食べている。
「うちで働いている助造すけぞうたちにあげたいの。でも足りないのよ」
「わたくしの目には、たくさんあるように見えるけれど……」
 杏が目で数えると、西洋卓の上のキヤラメルは十七個もある。
 配る人数がそれよりも多いということだろうか。
 しかし、さっちゃんは思いもよらない事情を打ち明けた。
「助造は働き者だから、毎日食べられるように半分あげるの。お手伝いのおはちは、よく虫歯が出来るから三分の一。いつもお昼寝ばかりしている弥彦やひこは九分の一よ。でも、十七個しかないんだもん」
「奇数を半分には出来ないわ。キヤラメルって意外と硬いし、割るのも難しそう……」
 母親は困り顔をしている。
 幼い子どもの我がままだろうと気軽に聞いてしまったが、なかなかの難問だった。
 悩む杏の振袖を見て、母親が頭を下げた。
「お二人はお見合いですか。申し訳ありません。大切な場をお騒がせして……」
「いいのですわ。もう、破談になってしまいましたから」
 杏が答えると、隣の真が身じろいだ。けれど悪いとは思っていないだろう。
 はじめから上下のはっきりした関係だった。
 借金を作った側の杏に拒否権はないけれど、話を持ちかけてきた神楽坂家ならいくら断ろうと問題ない。これは、そういう縁談だったのだ。
 取りすがってもどうにもならない。それならみっともない真似はやめよう。女は結婚しなければ幸せになれないなんてのは噓八百だと、自分の身で証明してやればいい。
 仕事に生きる覚悟を決めた杏は、にじむ涙を引っこめて晴れやかな笑顔を作った。
「結婚なんてしなくても平気ですわ。だからといって、未来にはばたく女学生の一人として、女性を馬鹿にされて黙っている訳にはいきません。神楽坂様」
 杏は、真の行く手を塞ぐように仁王立ちになって、整いすぎた顔に先制した。
「あなたは、世の女性が全て無能で、努力を知らず、男より出来が悪く、養われるだけの愚か者と思いこんでいらっしゃるようね。けれど、女だって何も出来ない訳ではありませんことよ。それを、わたくしがこの場で証明してみせます」
「証明だと?」
「ええ。このキヤラメルを、さっちゃんの望み通りに分けられるか勝負いたしましょう。わたくしが勝ったら──」
 真の鼻先に、杏は立てた人差し指をびしりと突きつけた。
「先ほどの侮蔑の数々、謝罪していただきますわ」
「……いいだろう」
 勝負を受け入れた真は、キヤラメルを見下ろして腕を組む。
「普通の数式では、十七個を半分、三分の一、九分の一には分けられない。一つ食べると十六個。それだと半分の八個には分けられるが三分の一には出来ないな。さっちゃんと言ったか。配る人間の取り分を変えてくれないか?」
「だめ!」
 さっちゃんは、そう言ってつんと横を向く。ご機嫌斜めの彼女を説得するのは、懐柔なんて頭の片隅にもなさそうな真には無理だろう。
「もうよろしいでしょう。次はわたくしの番」
 杏は、真の肩をぽんぽんと押しのけ、さっちゃんと向かい合ってしゃがみこんだ。
 幼い子に心を開いてもらうコツは、目線を同じ高さにすることなのである。
「キヤラメルを等分するのは難しいわね、さっちゃん」
「そうなの、困ってるの。お姉ちゃんは出来そう?」
「まかせてくださいな。わたくし、素敵な解決法を考えるのが大得意ですのよ」
 杏はそう言って目蓋を閉じた。
 意識を集中して、四角いキヤラメルを脳裏に描き出してみる。
 砂糖とミルクを煮詰めて作った甘い匂いが記憶から流れ出してきて、小さな鼻がひくひくした。
(先ほど、同じ匂いをどこかで嗅いだような?)
 改めて記憶を掘り起こす。
 あれは……つい先ほど、空太郎に接吻されそうになった刹那だ。
 陽に当てた布団のような優しい匂いと一緒に、甘い香りを嗅いだのだった。
 香りが薄いので数は多くない。
 もしかしたら、たったの一粒かもしれない。
(けれど、それを足すことが出来たなら)
 杏の脳裏で、ふわりと浮かんだキヤラメルの粒たちが一斉にきらめいた。
「わたくし、ひらめきましたわ!」
 目を開けてそう言うなり、杏は勢いよく振り返った。
「神楽坂様。あなた、キヤラメルをお持ちでないかしら?」
「俺が?」
 真は「そんなものある訳ない」とポケットを探ったが─ぎょっとした顔で、包装がくたびれたキヤラメルを一粒取り出した。
「なぜ俺が持っていると分かった?」
「甘い匂いがしたもの」
「お前は犬か……」
 悪態をつく真の手を、杏は両手で握りしめる。
「忘れていた物なら、わたくしがいただいてもよろしいでしょう?」
「かまわないが口にしない方がいいぞ。いつからここに入っていたか分からない。これを混ぜて分けても、取り分には数えられないからな」
「平気よ。食べないって約束しますわ」
「?」
 真は不思議そうに眉をひそめたが、杏の勢いに押されてしぶしぶ包みを渡してくれた。
 杏がそれを西洋卓に載せると、キヤラメルは全部で十八個になった。
「さっちゃん。お兄さんが一つくれたから、試しに分けてみましょうか」
「うん!」
 杏に促されたさっちゃんは、まず半分の九個を西洋卓の右に集めた。
「これが助造の分。お八は、十八個の三分の一だから六個よ」
 残りを三個ずつに分けて、六個を左へ。
 中央には、杏が足した分を含めて三個ある。
「弥彦が十八個の九分の一だから、ええと、二個!」
 さっちゃんは新しい二個を取り分けた。
 西洋卓の中央に残ったのは、真のポケットから出てきたあの一粒だけ。
 これで彼女の望み通りの配分が完了した。古いキヤラメルは誰の手にも渡ることなく。
「残りはお姉さんに返してもらってもいいかしら?」
「うん、手伝ってくれてありがとう!」
 杏は、残った一つを摘まみ上げると、得意げに真の前に突きだした。
「これはお返ししますわ」
「……どうなってるんだ……」
 手の平を広げて受け取った真は、納得のいかない顔でキヤラメルを見下ろす。
「簡単な算術ですわ。女学生の柔軟な頭を舐めないでくださいな」
 立ち上がって杏が胸を張ると、周囲から拍手喝采が沸き起こった。
 いつの間にか人だかりが出来ていて、他の西洋卓で珈琲を飲んでいた客や給仕人が手を打ち鳴らす。
 そのなかで父も誇らしげにしていた。女学校の教育も捨てたものではないと娘が立証したからだ。
 先頭にいた空太郎は、面白そうな顔で西洋卓を覗きこんだ。
「この急場で小さなお嬢さんの願いを叶えるなんて。君は魔法使いのようだね」
「ありがとうございます。わたくし、とっておきの案をひらめくのは得意なのですわ」
 すると父が「裁縫は不得手ですが……」と要らぬことを言う。
「いや、家政は数をこなせば身についていきますが、算術は元来の素養が大きく出るものですよ。娘さんは素晴らしい才能をお持ちだ」
 そこまで言って、空太郎はふと何かを思いついたらしく口角を上げた。
「君は将来、男と肩を並べて働きたいそうだね?」
「ええ。いずれは、父と同じように女学校の運営に携わりたいと思っています。社会と時代が許してくれるかは分かりませんけれど」
 いつか女性が当たり前に社会進出して、男性と変わらない活躍を期待される時代が来たら、それに応えられるような女性になりたい。
 たとえ今は無理でも。
「それなら君、神楽坂の事業を一つ経営してみないかい?」
「事業といいますと?」
 訳も分からずに目を瞬かせる杏に、空太郎は含みのある顔で持ちかける。
「私では持てあましていてね。君は『帝華』という歌劇団をご存じなのだろう?」
 それは、真に瓜二つの神坂真琴がトップスターを務める、あの歌劇団のことだ。
「知っています! というか、拝見したばかりですわ」
「その運営をお願い出来るかな。立場は歌劇団の支配人になる。給料は弾めないが、代わりに借金は帳消しということでどうだろう?」
「なんて素敵なお話。喜んでお受けしますわ」
 両手を合わせて喜ぶ杏を、期待に満ちた表情で空太郎が見つめる。
 心配そうな顔をした父は二人とも目に入らなかった。
 縁談は立ち消えてしまったけれど、思いがけず管理職に就けるきっかけを得られた。
 男性に使われるのではなく男性と肩を並べて働ける、ただの職業婦人になっただけでは手が届かない立場に、杏の胸はどうしようもなく高鳴った。
 しかも神楽坂子爵家の事業を引き継ぐという好条件だ。
 借金まで帳消しだなんて。まさに捨てる神あれば拾う神ありである。
「兄貴、いい加減にしろ。女子どもに経営を託すなんてどうなることか。あの歌劇団はもう、誰かに託してどうなる状態じゃないだろう!」
 真の訴えを聞いて、杏は眉をひそめた。
 必死な様子は、杏の輝かしい未来を妨害しているようには見えない。
 むしろ窮地から助けようとしているかのようだ。
「どういうことですの? まるで歌劇団の経営がすでに傾いているように聞こえますわ」
「実は、すでに昨年、不渡りを出している。今年も立て直せないと廃業だね」
 昨日の天気を話すように明かした空太郎に、杏は青ざめた。
「まあ、危機的状況ではないですか!」
 ただでさえ他に例のない少女経営者になろうというのに、初っ端から潰れかけの事業を押しつけられそうになっていたとは。
 社会人経験のない女学生でも分かる。これは非常にまずい状況であると。
 父を見ると、やはり難しい顔で首を横に振っていた。
「困りましたわ……。少し考える時間をいただけませんか……」
 首を傾ける杏に対して、空太郎は飄々としている。
「危機的だからこそいいこともあるさ。『帝華少年歌劇団』は、その名の通り十代の若手を中心に構成されている。おじさんばかりの会社を立て直すより、よほど面白いよ」
「たしかに面白そうではありますわ。すごく魅力のある歌劇でしたから……あら、わたくしが見た歌劇団に〝少年〟なんて単語は入っていたかしら?」
 杏が歌劇団の公演を観劇したのは、つい先日のことだ。
 紹介冊子パンフレットを買って熟読したので、肝心の劇団名を間違えるはずはないのだが──。
「先日は正式名を伏せて公演したんだ。あまり受けないみたいだからね」
「受けないって何がですの?」
 きょとんとする杏に、空太郎が大きく口を開いて笑う。
「君が見た舞台に上がっていた役者は、全て男性なのさ」
「全員、男性? ですが、舞台には可憐な少女たちの姿もありましたわよ?」
「少女に見えるのも少年たちさ。帝華少年歌劇団は、凜々しい男役から淑やかな娘役まで全て男性だけで演じるという、革新的舞台構成に挑戦している」
「そんな劇団が存在しましたの?」
 杏は口をぽかんと開けて驚いた。
 革新的という表現は間違っていない。舞台に上がるのが男性のみなのは、伝統芸能の歌舞伎や能くらいだ。
 帝劇でかかる本格オペラの類もそうだが、出演する役者は、演技力のある重鎮やこれから花開く若手まで、男女取り混ぜて公演するのが常識である。
 当然、男役は男性がやるし、女役は女性がやる。
 西の宝塚たからづかには少女だけで編制された少女歌劇団が誕生したというが、ほとんど東京とうきょう市から出ずに育った杏は、一つの性だけで構成された劇団は見たことがなかった。
「革新的だからこそ君に託したいのさ。君には、無理難題の解決方法を考えだす才能と、急場でそれを実行する度胸がある。支配人になった暁には、公演の企画から宣伝まで全て君の自由にしていい。費用も出来る限り都合しよう。おお博打ばくちに違いないがやる価値はある。どうだい?」
 問われて、杏の胸から迷いが消えた。
 空太郎は杏の素質を高く買ってくれている。
 これは、女学生から才覚溢れた大人の女性になるための試練。そんな気がした。
「そのお仕事、お引き受けいたします。わたくし、帝華少年歌劇団の支配人として、必ずや世間にあの魅力を知らしめてみせますわ!」
 高らかに宣言すると、空太郎は「そうこなくては」と満足げに拍手を送った。
「いきなり全権を預けられても困るだろう。まずは名目上の支配人となってもらい、君の経営方針に従って私が資金を動かすよ。劇団を立て直す期限は一年でどうかな。その間は、全力で仕事に当たってほしいので休学してもらわなければならないが、経営が上向いたら復学してもかまわない」
 女学校の中退も覚悟していた杏は安堵した。
 空太郎のもとでなら、結婚までの繫ぎとしての職業婦人ではなく、ほんとうの意味で働く女性の生き方を模索出来るかもしれない。
「ありがとうございます。そういうことでよろしいですわね、お父様?」
「どうでしょうか、萩原殿」
「か、神楽坂子爵がおっしゃるのであれば……」
 父は呆けた様子で生返事をした。
 愉しげな空太郎を横目に、真はこれからの多難を想像して溜め息をついたが、すでに未来を見据えている杏の耳にはついぞ届かなかった。


  *

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著者プロフィール
来栖千依(くるす・ちい)
秋田県出身在住。えんため大賞ビーズログ文庫部門の優秀賞を受賞し、2018年にデビュー。少女向けライトノベル、キャラクター文芸を中心に活動。著書に『天国へのドレス 早月葬儀社被服部の奇跡』などがある。第11回ポプラ社小説新人賞にて本作がピュアフル部門賞を受賞した。

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