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ゆったりと流れる時間とともに描かれる、家族の歴史

 いいなあ、これ。時間がゆったりと流れていくのだ。

 たとえば、「一九七五年 処暑」と題された二番目の章は、家庭教師光野昇の側からある家庭を描く章だ。この「家庭」こそ、本書の中心となっている藤巻家である。中学三年の和也は「タワーリング・インフェルノ、先生も観た?」と屈託なく話しかけてくる少年だが、勉学にはそれほど熱心ではない。あの教授の息子なのに勉強が嫌いとは信じられない、と光野昇は思う。

 光野は藤巻教授の教え子なので、研究一筋の父親の変人ぶりをよく知っているのだ。気象学の教授である藤巻昭彦は、朝起きたらまず空を観察するのが日課で、晴れていれば庭に出て、雨の日には窓越しに、とっくりと眺める。一つのことを思いつくと自分の考えに夢中になって、他のことを忘れてしまうのもこの教授の特徴だ。息子の和也の空の絵はうまい、と母親が言い、珍しく藤巻教授も「あれはなかなかたいしたものだよ」と言うので、和也が絵を部屋に取りにいったことがある。その息子が戻ってくる前に、超音波風速温度計の話が出ると、この教授、息子のことはさっぱり忘れてその話に夢中になり、和也が絵を持って戻ってきても、その絵を見ようともしない。はらはらしながら光野昇はこの父子を見ている。

 その間、光野昇の生い立ちが短く語られることもここに並べておく。彼の家は父親が働かず、パチンコ屋と競馬場に出入りするような男であったので、家計は母親が支えていた。その父が出奔し、中学を出たら自分が働くしかないと考えていたら、母の再婚相手が現れて、高校に行きなさいと言う。そのおかげで教育を受けることが出来ていまがあると思うと義父には感謝している。しかし、善良な人であったと思うが、最後まで義父に馴染めなかった。そういうわき筋のドラマがさりげなくメインを支えていることにも留意。

 藤巻家で花火をすることになったとき、藤巻教授がすいと手を伸ばしてもっとも長い花火を4本つかみ、皆に一本ずつ手渡す光景がこの章の最後に出てくる。「花火奉行なんだ」と和也が昇の耳元で囁く。これに続くラスト4行がいい。

 僕と奥さんも火をもらった。四本の花火で、真っ暗だった庭がほのかに明るんでいる。昼間はあんなに暑かったのに、夜風はめっきり涼しい。虫がさかんに鳴いている。
 ゆるやかな放物線を描いて、火花が地面に降り注ぐ。軽やかにはじける光を神妙に見つめる父と息子の横顔は、よく似ている。

 どうということもない花火の光景だが、妙に胸に残るのは、作者がその光景を描くだけで、ぽんと突き放しているからだろう。そのために、この光景がくっきりと残り続ける。

 本書『博士の長靴』は、一九五八年から二〇二二年までの藤巻家を、六つの短編を積み重ねて描く連作小説である。語り手は、藤巻家の隣に住む主婦を始め、次々に入れ代わっていくが、その語り手の日々を描くなかに、藤巻家の人間の変化がさりげなく語られたりする。たとえば、光野昇は「二〇一〇年 穀雨」という章にふたたび登場している。この章の語り手は、役所の防災課に勤務する榎本で、気象の専門家として登場するのが、光野昇だ。「一九七五年 処暑」から三五年も経っているので、もう教授になっている。助手として連れているのは、藤巻和也の娘。彼女が中学生のときに父親の浮気が発覚し(ちなみに和也は画家になっている)、それ以来、父親との仲は気まずくなっているが、それを除けば、家族との関係は良好である。母と弟と、父方の祖父母と同居。この祖父が藤巻昭彦で、和也の娘は祖父に憧れて気象学を志したという。この章は、役所の防災課に勤務する榎本の生活と意見が中心の章ではあるのだが、こうしてさりげなく藤巻家の動静が描かれているから、目を離せない。

 ちなみに「穀雨」というのは、二十四節気の一つで、四月二十日ごろ。この時期に雨が降ると穀物を育ててくれる、という意味である。藤巻家では二十四節気のそれぞれに決まりごとがあり、それをずっと守っている。たとえば立春にはすき焼きと赤飯を食べるのが藤巻家の習慣だ。その習慣をずっと守っているというのは、この一族ならではの絆といっていい。もっとも、時代が下るとすき焼きではなく、焼肉を食べに行ったりして、その話を聞くと一族の老人のなかには面白くないと思う者もいたりする。しかしいちばんの長老は(冒頭に出てきた藤巻昭彦だ)、「どっちも、肉だ」と言うのだ。

 この最後の「二〇二二年 立春」は、和也の娘が未婚の母となり、その仕事の関係で幼い息子玲の面倒を見ることが出来ず、父和也の家に預ける一編だが、「ひいおじいちゃん」(つまり、藤巻昭彦だ)と玲が、雨上がりの空を見上げるラストシーンが余韻たっぷりで美しい。ここでも時間がゆったりと流れている。


プロフィール
北上次郎(きたがみ・じろう)
1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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