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花守家に、ただいま。 星合わせの庭先で

  春の式日

 ハナミズキの蕾が今年も紅く色づき始めている。四月十二日。縁側の窓を開け放った座敷で、六本目の瓶ビールの蓋がぽんと開いた。
 座卓を囲った男性陣は、一様に茹でダコのような顔をして、泡の付いたグラスにビールを注ぎ合っている。先ほどまできっちり締められていたネクタイは緩められ、スーツのボタンも外されている。
 庭で蝶々を捕まえていた小学生の兄弟が、お母さんに「食事の前に何してんの」と𠮟られて、しょげながら手を洗いに向かった。小さな手から逃れたルリタテハが、ひらひらと不思議な軌跡を描いて飛んでいった。
 真昼間の陽光を浴びる座敷に、柔らかい海からの風が通る。
 縁側で赤ちゃんをあやしていた女性がわたしに気づき、申し訳なさそうに頭を下げた。わたしは「大丈夫です」と伝わるよう笑い掛け、男性陣の賑やかす卓の真ん中に、色鮮やかなちらし寿司の入った寿司桶を置いた。「おお」と、正面に座っていたのりゆきさんが声を弾ませる。
「美味しそうだねえ。これ、さくらちゃんが作ったの?」
「はい、わたしがひとりで作ったのはこのちらし寿司だけですけどね。他の料理はいつもどおりお義母かあさん作です」
「まあ、料理は五十鈴いすずさんの専売特許だでね」
 則之さんが卓を眺めながらぼてりと丸いお腹を撫でた。すかさず「みんな揃うまで食べちゃ駄目ですよ」と釘を刺す。
「わかっとるってえ」
 下唇を突き出し則之さんが言った。わたしはふふっと声を漏らした。
 座卓にはすでに多くの料理が並んでいる。飾り切りしたにんじんが可愛い筑前煮、いただきものの山菜を使った天ぷらの盛り合わせ、リクエストされた鶏の唐揚げ、おつまみにもぴったりのイカの甘辛焼きに、りんごの入ったポテトサラダ。
 親戚たちが持ち寄ったものもあるが、ほとんどがお義母さんの手料理だった。滅多に会わない遠方の親戚まで十数人の身内が集まる今日のために、昨夜から仕込みをし、手間暇掛けて作り上げたものだ。湿っぽくなるより、お祝い事みたいに楽しい日にしたいじゃん、と、甘い錦糸玉子を作るわたしに、お義母さんは言っていた。
「ねえ、お茶碗ある?」
 横から声が飛んでくる。
「あ、はい、すぐ持ってきますね」
 慌てて返事をし、台所へ戻ろうとした。が、座敷の敷居に仁王立ちした人に行く手を阻まれ足を止めた。
 お気に入りである椿柄の割烹着を着たその人は、唇をへの字に曲げ、のっしのっしと効果音を付けたくなる足取りで座卓のほうへと向かっていく。
「何を偉そうにうちの嫁を顎で使っとんのタコ助共が!」
 重ねたお茶碗が大きな音を立てて卓に置かれた。その場にいた皆がびくりと肩を揺らし、目を丸くして声の主を見上げる。小柄な体が一歩踏み出すと、大柄な人も多い男性陣が、揃って首をすぼめて身を引いた。
「まったく、うちの男連中はほんっとロクに動かんね。せめて自分で茶碗によそうくらいはしんと、ちらし寿司もおかずも何ひとつ食べさせんでね!」
 左手を腰に当て、右手は真っ直ぐに寿司桶を指さし、お義母さんは言い放った。泣いていた赤ちゃんすら泣き止むほど迫力のある声音だった。
「だって、五十鈴さん、やるって言っても料理の手伝いさせてくれんじゃん」
 則之さんが、普段から垂れた目尻をさらに下げつつ反論する。お義母さんの視線がキッと向くと、則之さんは何かを誤魔化すように泡の消えたビールをちびりと飲んだ。
「調理はさせんでも台所から運ぶくらいの手伝いまで禁止した覚えはないわ。ほいでもあんたらは料理が並ぶ前から手伝おうかとも言わんで酒飲むことしかしんし。ほんと呆れるわ。ポン太のほうがお利口やん」
 座敷の端で座布団に座っていたポン太が、名前を呼ばれてしっぽを振る。
 とおやま家の愛犬であるポメラニアンのポン太は、先ほどまではここが我が家であるかのようにのんべんだらりと寛いでいた。が、間もなくごはんの時間と気づいてからは、持参した自分用のお皿を咥えてごはんが来るのを待っている。
「でもさ、男連中って言うけどさ、このみだって何もしんでさっきからずっとビール飲んどるよ」
 則之さんが座卓の端にいるこのみちゃんを顎で示した。お義母さんはふんっと鼻を鳴らす。
「このみは昨日買い出し手伝ってくれたで許してんの。あんたらの飲んどるビールだってあの子が買って運んでくれただに」
「何っ、このみ、おまえこっそり点数稼ぎしとったのか!」
 ひとりで静かにビールを飲んでいたこのみちゃんが、右手でジョッキを持ち上げ、左手で可愛くピースサインをした。すでに空いている瓶のいくつかは彼女が飲んだものだが、男性陣と違いこのみちゃんの顔色はわずかも変わっていない。彼女は父親の則之さんではなく、母親のはるさんに似てザル、、なのだ。
 悔しがりながら立ち上がろうとする則之さんに、しかしお義母さんは埃でも払うかのように右手を軽く振った。
「いらんいらん、酔っ払いにうろうろされても邪魔なだけだわ」
「あ、そう?」
「てかもう準備ほとんど終わっとるし、大人しく座っとれ」
「うへえ」
 しおれた則之さんが座り直したタイミングで、美晴さんが座敷へと入ってくる。
「ごめんねえお義姉さん、うちの役立たずが」
 則之さんに負けず劣らずの豊満な体を華麗に揺らしながら、美晴さんは持ってきたドッグフードの袋を開けた。千切れんばかりに尻尾を振っているポン太のお皿にごはんを盛りつつ、美晴さんは則之さんにじっとりとした視線を送っている。
「ちょっとあんた、そのコップに入っとるのでもうビール終わりだでね」
「ええ? ごはんこれからなのに?」
「仕方ないから麦茶か水なら飲ませてあげるわ」
「うへえ。ポンちゃぁん」
 則之さんは愛犬の名を呼んだが、ポン太はすでにドッグフードに夢中だった。
 わたしは卓に戻り、お義母さんの持ってきた茶碗を各々の席に並べた。寿司桶に入れていたしゃもじの柄は、着席している男性たちのほうへ向けておいた。
「セルフサービスみたいなので、それぞれお好きにどうぞ。おかわりもありますからね」
 はあい、と返事が戻ってきて、皆自由に自分の分を取り分けていく。
 部屋の外にいた人たちも集まり、女性陣や子どもたち、わたしとお義母さんも席に着いた。人数分の飲み物を配り終えたところで、お義母さんの掛け声に合わせ全員で「いただきます」と手を合わせる。
 賑やかな昼食が始まる。いつもは広いと感じている座敷が狭く思えるほど、今日この日、人が集まり、同じ食卓を囲んでいる。
 親戚一同が揃ったのは一年振りだ。よく顔を合わせる人も、滅多に会えない人も、積もる話をしながら、笑い合ってお酒を飲み、皆で美味しいごはんを頰張る。
 喪服に染みついた白檀の香りが、料理の匂いに搔き消されていく。
 四月十二日。春うららかな明るい陽気の今日は、花は な守もり透とおるの命日。
 わたしの夫、透が死んで、ちょうど一年が経った日。
「やあ、しかし、こんなやかましい姑を遺されて桜子さんも大変だ」
 誰かが言った。わたしが「そんなことないですよ」と言う前に、お義母さんが「あんたんとこのばあさんのほうが千倍やかましかったし意地クソ悪かったわ」と言い返していた。奥さんが「確かに」と続け、笑いが起こる。わたしもごはん粒を噴き出さないように控えめに笑う。
「今年も綺麗に咲きそうだねえ」
 また誰かが言った。その言葉につられ数人が庭に視線を向けた。
 背の高い石塀を優に超える高さの木には、多くの蕾が膨らんでいる。三十年前にこの家に植えられたというハナミズキ。毎年この時期になると枝いっぱいに薄紅色の花を咲かせていた。近くまた一輪目が咲き、すぐに満開になるだろう。
 今年もまた、この庭に、春がやって来る。

  *

 愛知県南部、あつ半島に位置するはら市に暮らし始めて、この春で丸三年になる。
 はままつ市から続く半島の太平洋沿岸部沿いを走る国道42号線のすぐそばにわたしの住む花守家はある。焦げ茶色の外壁に砂埃をかぶった瓦屋根の母屋は、木造の二階建てで、昭和の香りの見た目のとおり、すでに築四十年を超えている。道路から生垣で隔てられた玄関前の前庭は、外から見て左側には駐車場が、右手側には物置代わりに使っている質素な離れがあり、ぐるりと母屋を裏に回ると、ハナミズキとお義母さんの家庭菜園が彩る庭に出る。
 敷地は広く、建物もそれなりに大きいが、別段裕福というわけではない。昔からこの土地に暮らしているというだけで、周囲を見れば同じような規模、同じような古さの民家ばかりが並んでいる。
 透の実家であるこの家へ引っ越してきたのは、透と結婚したときだった。当時はわたしも透も名古屋市に住んでいたのだが、透の浜松への転勤が決まり、結婚のタイミングを合わせて一緒に名古屋を離れることにしたのだ。浜松市内や近隣の市で家を探しながらも、最終的には透の育ったこの渥美半島の家に暮らすことを、夫婦ふたりと、お義母さんとで決めた。
 スーパーが近くにないのが不便だけれど、車があればそこまで困ることはない。のんびりと静かで、且つ少し歩いて浜に出れば、サーフィンをしにやってくる人たちの賑やかさも感じられる。
 三方を海に囲まれ、山地も眺められ、平野には田畑やビニールハウスの広がるこの土地は、わたしが十年以上暮らした名古屋の街とは随分と空気感が違った。ただ、この穏やかさがわたしには合っていたようで、この土地を離れたいと思ったことは越して来てから一度もなかった。
 透が交通事故で亡くなってからも、わたしはこの花守家に、花守桜子の名前のまま、義母である花守五十鈴とふたりきりで暮らしている。

「桜子ちゃん、朝ごはんできとるよ」
 台所から聞こえた声に「はぁい」と返事をして、洗濯機の蓋を閉じスタートボタンを押した。買い替え時をとうに過ぎている洗濯機は、ごうんごうんと不安になる音を立て、やや間を空けてから思い出したように水を溜め始めた。きちんと動いているのを確認し、わたしは洗面所から廊下に出る。
 空腹を刺激する味噌や醬油の匂いが漂っていた。台所へ入ると、割烹着姿のお義母さんがテーブルに二杯のお味噌汁を置いているところだった。
 今日の朝ごはんは雑穀米のおにぎりと、たけのこのお味噌汁、カレイの煮付けにほうれん草のおひたし。お義母さんの得意な和食で揃えられている。
 我が家の食事当番は基本的にお義母さんが担当している。わたしも料理をしないわけではないが、もっぱらお義母さんの手伝いが仕事で、代わりに掃除や洗濯などの家事を進んで受け持つようにしている。料理が好きで、それ以外が苦手だったお義母さんに合わせ、自然とそういう役割分担になった。わたしは料理があまり上手ではなかったから、やはり自然に自分の仕事を受け入れた。
「お味噌汁のたけのこって昨日貰ったやつですか?」
「そうそう。さっきつまみ食いしたけど、やらかくて美味しいよ」
「つまみ食いしないでくださいよ」
「うふふ」
 冷蔵庫から冷やしていた麦茶を、食器棚からコップをふたつ取り出した。それぞれ薄いグリーンとオレンジ色をしたコップに麦茶を注ぐ。グリーンはわたしのほうに、オレンジはお義母さんの席に置く。
 四人掛けのダイニングテーブルの、シンク側の席がお義母さん、その向かいがわたしの定位置だ。朝はこの台所のテーブルで、夜は庭に面した座敷の卓で食事をとるのが花守家の習慣となっている。
 箸の準備も整ったところで席に着き、ふたりで両手を合わせた。午前六時五十分。いつもどおりの食事の時間だった。
「洗濯機ってまだ生きとる?」
 お味噌汁の味を自画自賛していたお義母さんが思い出したように言った。わたしはカレイを口に入れたまま無作法に「はい、何とか」ともごもご答える。
「でも、もうだいぶ瀕死です」
「まあ相当古いでねえ。はよ買わんと」
「わたし今度の休みに電器屋さん行ってみますよ」
「電器屋さんって駅んとこの?」
「大きいとこってそこら辺じゃないとなくないですか?」
「ないけど、そっちじゃなくてはらさんとこで買えばいいで。あたしが話つけとくわ」
 佐々原さんとは、近所にある佐々原電器商会のことだ。個人経営の町の電器屋さんとして長年地域に愛されている店である。創業者は先代店主、現在は二代目の長男夫婦が跡を継いでいる。長男のゆうへいさんは透の同級生で、子どもの頃から仲がよかったという話を幾度と聞いたことがある。
「けど、佐々原さんのとこで買うより量販店のが安いと思いますよ」
「いいのいいの、安いったってどうせ大差ないら。それにあっこで買っとけば設置も修理も安心して任せれるし、呼んだらいつでも来てくれるもんで」
「なるほど。やっぱりそういう部分も考えなきゃ駄目ですよね」
「だら? こっちとしても何かあったときのために、繫がりとか義理みたいなもんはちゃんと大事にしとかんとかんでね」
 それに高かったら値切れば大丈夫、とお義母さんは箸を持った右手で力強く親指を立てた。わたしは去年の夏に悠平さんが「この家だけだに、こんな価格でやってあげてんの」とぼやきながらエアコンの修理をしに来てくれたことを思い出した。
「ほいじゃ、洗濯機代稼ぐために今日も働かんとねえ」
 お米のひと粒すら残さず食べ終わったところでふたたび手を合わせ、空の食器をシンクに運んだ。ふたりで分担し洗い物をしたあとは、わたしは風呂場の掃除を始め、お義母さんは出掛けるための身支度を整える時間になる。
 午前七時半。風呂掃除に続き庭で洗濯物を干していると、座敷の縁側にお義母さんがやってきた。こだわりのショートボブを綺麗にセットし、服は動きやすいラフなものを選んでいる。仕事へ行くお義母さんのいつものスタイルだ。
「行ってくるわ。桜子ちゃんも気をつけて行きんよ」
「はい、いってらっしゃい」
「お弁当台所に置いとるで」
 ひらひらと手を振り、お義母さんは玄関から出て行った。
 行き先は我が家から自転車で五分ほどの場所にある『まるも食堂』。お義母さんが長年パートタイマーとして勤めている大衆食堂で、週に四日、午前八時から昼過ぎまで働いている。地元民に人気の『まるも食堂』において、お義母さんは自称看板娘であるらしく、「常連のジジイ共は全員あたしのファン」とよく言っているが、真相はいまだに不明である。
 門扉のほうで自転車のスタンドを蹴る音がした。耳に馴染んだ鼻歌を遠くに聞きながら、わたしは最後の一枚をお日様の下に干し、家の中に戻った。
 一階から順に適当に掃除機を掛けていく。庭に続く縁側のある広い座敷と、お義母さんの私室も含めた和室が三部屋に、ダイニングも兼ねた台所。二階は洋室で揃えられていて、わたしの自室、その隣に作業部屋、廊下を挟んで透の書斎と空き部屋がひとつ。
 朝の家事は掃除で最後だ。ひととおり終えたところで自室へ行き、クローゼットの扉を開ける。
 はじめはワンピースを手に取ったが、何となく気分に合わず、ライトブルーのシャツと細身のジーンズを選んだ。部屋着から着替え、鏡と向き合ってメイクをし、すっかり伸びた髪を低い位置でお団子にする。透明なリップだけを塗っていた唇に仕上げの口紅を置くと、鏡の中にはいつもどおりの自分がいた。花守桜子、三十二歳。今日も何事もなく一日が始まる。
 午前八時二十分。仕事用のバッグを持って部屋を出た。台所にお弁当を取りに行き、勝手口と家中の窓の鍵を閉め、最後に仏間のある一階の和室に向かい、仏壇の前に腰を下ろす。
 黒檀の立派な仏壇には、八年前に病気で他界したという義父の写真と、透の写真、そして赤色の紙で折られた小さな鶴が飾られていた。
 奥二重の丸い目が、笑うと細くなってしまうのがコンプレックスだと透は言っていた。でもわたしは、目尻いっぱいに皺を寄せて顔中で笑っているかのような彼の笑い方が好きだった。わたしの好きな、その表情をしている写真の中の透を見つめる。
 両手を合わせ目を閉じる。
 透が死んで一年。突然の別れを受け入れられず、心が追いつかないままあっという間に時間が過ぎた。一周忌の法要も無事に済ませ、今ようやく、少しずつ心の整理を付けられるようになってきた気がしている。
 一年前にわたしの体から抜け落ちた大きなものは、おそらく一生をかけても元に戻ることはないけれど。それでもまるで何事もなかったかのように日々を生きていくことはできるようになった。
 ─人間ってのは、生きてけないって思っても、生きてけるようにできてんの。
 いつかお義母さんが言っていたとおりだ。一時は息すらできないと思っていたのに、今のわたしは毎朝起きて、きちんと食事をして、身の回りのことをして、仕事をして、次の日まで眠って、また目覚めている。お義母さんとふたりでの生活にも慣れた。これから先のことはわからないけれど、今はただ、積み重ねるように、一日一日を過ごしている。
「いってきます」
 顔を上げて立ち上がる。バッグを肩に掛け玄関に向かい、二年以上愛用しているローヒールのパンプスを履いた。外に出ると途端に春の強い風が吹きつける。
 午前八時半。予定どおりの時間に、わたしは引き戸の鍵を閉めた。

 仕事場である『BeautyGarden・MOMO』は、家から車を走らせ二十分ほどの場所、とよはし鉄道渥美線かわはら駅の近くにある。まつげパーマやネイルに脱毛など、美容関連の施術を複数提供しているサロンで、わたしは半年前からこの店にネイリストとして所属している。正社員ではなく、産休中のネイリストが復帰するまでという期間限定の契約ではあるが、スタッフの人間関係にも恵まれ、それなりにやりがいを持ちながら楽しく働くことができている。
 この店に勤めるきっかけをくれたのは義父の妹である美晴さんだ。『MOMO』のオーナーと知り合いだった美晴さんは、産休に入るスタッフの代理を探していたオーナーに、名古屋でネイリストとして働いていた経験のあるわたしを推薦した。
 話を貰ったとき、すぐには答えを出せなかった。外に働きに出ることを考えていたタイミングではあったが、サロンに勤めるとなるとやはり二年半のブランクに不安があったのだ。二の足を踏むわたしの背中を押したのは「とりあえずやってみりんよ。合わんかったら辞めたらいいだけやん」というお義母さんの気の抜ける言葉だった。
 それもそうだ、と働き始め、結果として今まで続いている。休んでいるスタッフが戻ってくる日までは、続けてみようと思っている。
「もうそれで、昨日は娘と大喧嘩よ。お隣にまで声が聞こえてたみたいで、ゴミ捨てで顔を合わせたとき笑われちゃったわ」
 柔らかな木目の家具と白い壁紙で揃えられた一室の中、ネイルテーブルを挟んで座っているお客さんが、お手本のような溜め息を吐いた。
 四十代の女性客で、確か娘さんは今年の春に中学三年生になったはずだ。この方の施術を担当するのは初めてだが、以前他のスタッフとの会話で「長女が受験生になるんだわ」と話していたのを覚えている。曰く、娘さんが勉強をせずスマートフォンをいじってばかりいたため𠮟ったところ、盾突かれ、ご近所に響き渡る言い争いに発展したという。
「ほんっと最近は今まで以上に言うこと聞かなくて。もう何言っても駄目。腹立つわあ」
「中学生というと多感な時期ですもんねえ」
「そりゃね、そういう年頃だってのはわかってるけどさ」
 お客さんは渋柿でも食べたかのような顔をする。
 ジェルを硬化するためのライトにお客さんの右手を当てた。交替で左手を差し出してもらい、透明のベースジェルのみを塗っている爪に色を重ねていく。まずは親指から。ライトが当たりにくくジェルも垂れやすい親指は、他の四本とは別に、一本だけ塗って先に硬化する。
「子どもの反抗期って親も結構しんどいよ? まあ大体は気にしちゃいないんだけど」
「ふふ。でも自然と落ち着いていくでしょうから。今は見守ってあげるしかないんじゃないでしょうか」
「まあねえ、でもやっぱりこっちも余裕持てないときってあるじゃん」
「わかる!」
 と声を上げたのは、隣のテーブルでオーダー用のチップを作っていた鹿か
島しまさんだ。四十歳でデビューしたネイリスト歴一年の彼女には、もうすぐ二十歳になる娘さんと、高校二年生の息子さんがいる。
「うちも両方反抗期酷くて、中学生くらいの頃は毎日喧嘩してましたよ」
「やっぱり? うちだけじゃないのねえ。ちょっとほっとするわ」
「どこも同じようなもんですって。子どもはそりゃ可愛いけど、こっちだって人間だし我慢できないこともあるんだから、感情抑え込むよりは言いたいこと言って喧嘩しちゃったほうがいいと思いますよ」
 鼻息荒く言う鹿島さんに、お客さんはうんうんと頷いた。親指を硬化し終わった右手に、人差し指から順に色を付けていく。筆を押して根元を塗り、さっと爪の先までジェルを引く。皮膚に付かないギリギリのラインまで綺麗にジェルが載るよう、筆の先に集中して形を整える。
「それに、花守さんの言うとおり、知らない間に落ち着くもんですし。うちも今じゃ娘とも息子とも仲良しですから」
「そう? でも言われてみれば自分が子どものときもそうだったなあ。一時はアホみたいに親に反抗してたのに、いつの間にか反抗するほうがアホらしくなって」
「ね。わたしも昔はえっぐい反抗期やってましたわ」
「娘たちの反抗が可愛く思えるくらいのね」
「そうそうそう」
 ネイルルームに笑い声が響いた。何だかんだと明るいふたりにつられてわたしも少し声を漏らす。
「そういえば、花守さんって反抗期とかあった?」
 鹿島さんに話を振られ手を止めた。ちょうど右手の小指までを塗り終えたところだった。
「反抗期ですか? そうですねえ、言われてみればなかったかもしれないです」
「やっぱり。花守さんって真っ直ぐ育ってそうだもん」
「ね、悪いことはしてなさそう」
「いえ、そういうわけじゃなくて。あ、悪いことはしてないですけど」
 ライトに右手を入れてもらい、次に左手の四本の指に取り掛かる。プレートに載ったジェルを筆で掬い、こちらも根元から際、形を整えた爪の先まで、丁寧に色を付けていく。
「うちは実の親との関係がよくなくて、会話もほとんどなかったから、口喧嘩をすることすらなかったんですよね。だからおふたりの話を聞いてると、親子で喧嘩するほど仲がいいんだなって微笑ましく感じちゃって」
 口に出してからはっとした。反応しづらいことを言ってしまった気がする。見れば、やはりふたり共困惑した顔をしている。
「すみません。変なこと言っちゃいましたね」
 慌てて筆を持った手を振る。
「そんな気にすることじゃないんですよ。もう昔のことですから」
「なら、もうご両親とは仲直りしてるの?」
「えっと、社会に出てからは一度も会ってないし、連絡も取ってないんです。でも下手に縁が続いているよりはずっと気楽だと思ってます」
「ああ、まあ、そうだよねえ」
 鹿島さんたちは目を合わせ、ぎこちなくも表情を緩めた。
「ま、人間誰にだって色々あるよねってことだね」
 お客さんが言い、鹿島さんが頷いた。
 ライトがピピッと音を鳴らして消える。硬化時間が終わった合図だ。お客さんが右手を取り出して眼前に掲げる。
「それにしてもこの色、ほんと素敵だわあ」
 自分の手を眺め、しみじみとお客さんは言った。わたしは「ええ」と相槌を打つ。
「お客様のお肌の色にもよく合っていますね。この色にして正解でした」
「ね。オレンジっぽいピンクって初めてで、ちょっと子どもっぽくなるんじゃないかとも思ったけど、全然そんなことなくていい感じ」
 このお客さんはいつもデザインの明確な指示はしない。今日も「春らしい感じで」との希望だけ受けており、あとは施術者であるわたしに任された。わたしは少し悩んでから、柔らかなピーチピンクに、軽くベージュを混ぜたカラーを選んだ。華やかでありつつ可愛すぎない、落ち着いた大人の春色だ。既存のものではなく、数色のジェルを混ぜ合わせて作ったオリジナルのものだった。まだこれからアートを施す予定ではあるが、ワンカラーの状態でも十分に指先が春めいていた。
「これ、わたしも好きな色で、自分用にもよくやるんですよ。ちょうど次の付け替えでその色にしようかなって思っていたところで」
「あら、じゃあお揃いになるね」
「ふふ、そうですね」
 両手にベースカラーを塗り終えたら、上品なシャンパンゴールドのラメと細かなシェルで爪の先を飾った。仕上げにトップジェルを施し、細部を確認してから、指先にケアのためのオイルを塗り込む。
 お客さんの手が、店に来たときとはまったく違う雰囲気に変わった。少女のような瞳で自分の両手を見つめる表情に、わたしは心の中で「よかった」と呟いた。気に入ってもらえてよかった。このネイルが彼女の毎日を、きっとほんの少しだけ明るいものにしてくれるはずだ。
「次回の予約も今日お願いできる?」
「かしこまりました」
 お会計を済ませてから、店のタブレットを開きスケジュールを確認した。常連さんは来店時に次の予約を取る人が多く、来月の予定もすでに埋まり始めている。
「いつもは……三週から四週のペースでご予約をいただいていますね。今回も同じくらいなら来月の十日前後になりますが」
「そうだねえ」
 お客さんが自分のスマートフォンを取り出し、画面を操作する。
「十日って、花守さん出勤してる?」
「ええ、オープンから十八時まででしたら」
「じゃあ今日と同じ時間、花守さん指名でお願い」
「はい、ありがとうございます。ご予約承ります」
 五月十日のわたしのスケジュールにお客さんの名前を入れた。店の外まで見送りを済ませ、ネイルルームに戻ると、チップ作りを続けている鹿島さんが顔を上げてにいっと笑った。
「やるねえ花守さん。今の方、ネイリスト指名したこと一回もなかったんだよ」
「そうなんですか?」
「花守さん上手いし、施術ペースも速いもんねえ。見習わなきゃ」
 裏表のない鹿島さんの褒め言葉は素直に受け取ることができる。わたしは少々気恥ずかしく思いつつも「ありがとうございます」と頭をいた。
 テーブルの上を片づけながら時計を確認する。次の予約時間までにはまだいくらか余裕がある。片づけを終えたらサンプルのチップでも作ろうか。ブライダル用のデザインを新しくしたいし、夏向けのデザインも考えたい。
「ねえ、花守さんってさ、確か前は名古屋のサロンで働いてたんだよね」
 ふと鹿島さんが言う。鹿島さんのテーブルのライトがピピッと音を鳴らす。
「はい、最寄りはめい駅じゃなくてさかえですけどね。店は駅から結構近いところにありました」
「栄とか都会じゃん。そんなところからよくこんな田舎に来れたよね」
「べつにこの辺りだって田舎ってほど田舎じゃないじゃないですか」
「名古屋の中心部に比べたらだいぶ不便でしょ」
「そりゃ、多少はそう感じないこともないですけど、慣れですかね。そんなに困ることはないですよ」
 ふうん、と呟きつつも疑いの目を向けてくる鹿島さんに苦笑を返した。
 生活面での利便性を考えれば、愛知の片隅のこの土地よりも、名古屋市内のほうが暮らしやすいと感じる人は確かに多いだろう。わたしも、賑やかで華やかなあの場所が決して嫌いだったわけではない。
「わたしは渥美半島ののんびりした感じ、好きですよ」
 透が死んだあと、自分の生まれ育った町に行くことは一度だって考えなかったけれど、名古屋に戻ることなら幾度か頭をぎった。
 それでも、この小さな半島に残ることを選んだ。
 ──この家を桜子の居場所にしてよ。
 いつか透がそう言ってくれたから。許される限り、あの家にいようと思ったのだ。
 透と暮らした場所が、いつの間にか、唯一のわたしの居場所になっていた。

 予約時間がずれ込まない限り定時には店を出ることができる。今日も時間どおりに作業を終わらせ、十八時ちょうどにタイムカードへ打刻した。
 家に帰ると、お義母さんが夕飯の支度をしていた。今日は炊き込みごはんのようだ、ほんのり甘みのあるいい匂いがすでに家中に溢れている。
「お、桜子ちゃんおかえりぃ」
 台所に顔を出すと、気づいたお義母さんが振り返った。多めの味見をしていたところらしく、口がもぐもぐと動いていた。
「ただいまです。何か手伝いましょうか」
「ほんじゃ庭からさやえんどう採ってきて。朝採るの忘れちゃって」
「はぁい」
 ざるをひとつ持って座敷に行き、縁側から庭に下りていく。
 庭の半分ほどを占めているお義母さんの家庭菜園には、常にたくさんの野菜が育っている。今は、ちょうど収穫できるタイミングのものと、夏や秋に向けて最近植えたものとが半々くらい。先週植えたばかりのナスの苗の様子を見つつ、支柱とネットに沿って生長したさやえんどうの前にしゃがみ込む。
 さやえんどうの収穫タイミングは、さやが五センチ程度、中の豆が大きくなり過ぎないくらいがベストだ。すでに日の沈んだ薄闇の中、座敷の灯りを頼りにほどよく育ったさやえんどうを選び、付け根を爪先でつまんで採っていく。
 お義母さんの畑仕事を手伝っているうちに、わたしも植物を育てることに多少詳しくなった。ひとり暮らしをしていたときはまともに野菜を食べることすら少なかったのに、この家に越してきてから、日々が大きく変わった。
「このくらいでいいかな」
 ざるが半分埋まるほど収穫したところで立ち上がる。ぐっと伸びをして振り返ると、家を眺めるように立っているハナミズキの木が目に映る。
 枝の蕾はすでに大きく膨らんでいて、すぐにでも花を咲かせそうだ。一輪目はきっと明日にでも見られるだろう。
 毎年、鮮やかで可愛らしい桃色の花を咲かせ続けるこのハナミズキは、花守家にとってもうひとりの家族とも言える木だった。
 三十年前。透がこの家に来たときに小さな苗を植えたと聞いた。
 透の実の両親は、彼が六歳のときに事故で亡くなったそうだ。家族のいなくなった透を引き取ったのが、透にとって母方の叔父にあたる義父と、お義母さんだった。
 突然両親を失った悲しみの中、親戚とはいえ余所の家で暮らさなければならなくなった透は、しばらくの間落ち込んだ日々を過ごしていた。そんな彼を元気づけるために植えられたのがこのハナミズキだという。鮮やかな花で心が明るくなるように、そして透と一緒に成長してくれるように、願いを込めてこの家の庭に植えられた。
 不思議だけれど本当に元気になれたんだよね、とは、透本人から聞いたことだ。ハナミズキの苗がこの家の庭にやって来たその日、両親が亡くなってから初めてごはんが美味しく感じたのだと、彼が言っていたことを覚えている。六歳の子どもより小さかった細い木は、そのときからずっとこの花守家を見守ってきたのだ。
 お義母さんと透に血の繫がりはない。でもふたりは確かに親子だった。そしてわたしと透も、夫婦で、家族だった。
 透がいたからわたしはこの花守家に来て、透がいたからお義母さんはわたしを家族として受け入れた。
 わたしたちを繫ぐ存在である透がいなくなった今、わたしとふたりきりで暮らしていることを、お義母さんはどう感じているのだろうか。気になりはしても、訊ねたところで「べつに何とも」なんて気の抜ける答えが予想できるから訊かずにいる。
 いつまでこうしていられるだろうか、そう自分に問うたことならばこの一年で何度もあるのだけれど。そちらの問いは答えがわからないままだ。
 見上げるハナミズキも答えをくれないまま、色づいた蕾を開かせようとしている。

  *

続きは7月3日ごろ発売の『花守家に、ただいま。 星合わせの庭先で』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
沖田 円(おきた・えん)
愛知県安城市出身。2012年『一瞬の永遠をキミと』で作家デビュー。2015年に刊行した『僕は何度でも、きみに初めての恋をする。』は累計25万部を突破し、2022年に単行本化(全てスターツ出版)。2018年、ポプラ社ピュアフル小説大賞で金賞を受賞し、2019年に『千年桜の奇跡を、きみに 〜神様の棲む咲久良町〜』を刊行。その他著書に『喫茶とまり木で待ち合わせ』(実業之日本社)、『丘の上の洋食屋オリオン』(KADOKAWA)など多数。

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