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Ⅲ チューリップ

 フゥフフフフフフゥウン、フゥフフフフゥン、フゥフフフンフンフゥン。

 なんの歌だ、これ。

 自分でも知らないうちに鼻歌を唄っていた。だがなんの歌だったか、まるで思いだせない。首を傾げながらアトリエをでる。そして玄関脇に置いた。

 自転車の鍵を外していると、張りがあってきれいな歌声が聞こえてきた。

〽梅ぇは咲いぃぃたぁか

 桜ぁはまだかいぃぃなぁ

 大屋さんにちがいない。アトリエの大家さんは名字が大屋なのだ。気になってアトリエの南側を覗きこんでみる。やはりそうだった。麦わら帽子を被り、長袖シャツにデニムのカーゴパンツで、ゴム長靴を履いた大屋さんが、土に白い粉を撒きながら、横歩きをしていた。

 猫ほど狭くはない、いて言えば虎かライオンの額くらいの庭を、大屋さんは畑として活用している。ここでできた野菜を分けてもらったり、いっしょに収穫したりすることも珍しくなかった。

 二月も残りわずかの今日は、春にむけての土作りで、白い粉は石灰だろう。それにしても四捨五入すれば九十歳とは思えぬ動きだ。手際がよくて無駄がない。空気は冷たくて肌寒いのにもかかわらず、額にはうっすら汗をかいている。

〽柳ぃやなよぉなよぉ風ぇしぃだぁい

 杉は花粉をまきぃ散ぃらぁすぅぅぅ

 花粉と聞いた途端、ミドリは鼻がムズムズしてきた。慌てて左肘の内側で鼻と口をふさごうとしたが、ギリ間に合わず、「ばっくしょん」と派手なくしゃみをしてしまう。

「あら、ミドリちゃん」大屋さんが手を休め、こちらを見ている。「だいじょうぶ? 風邪? それとも花粉症?」

「たぶん花粉症かと。でもだいじょうぶです」

「おでかけ?」

「はい」今日は川原崎花店のバイトの遅番で、午後四時出勤だ。

「急ぎ? すぐいかなきゃ駄目?」

「いえ、べつに」

「昨日、孫夫婦が曾孫を連れて遊びにきてね」

「いちばん年上のお孫さんですか」

「そうそう」

 大屋さんには子ども四人に孫が七人いた。いちばん年上の孫は二十五歳の女性で、一昨年に結婚しながらもコロナ禍のせいで式は挙げなかったという話を、前に聞いている。

「土産のお茶菓子があるのよ。よかったらウチにきて、いっしょに食べない?」

「でしたらぜひ」

 断る理由はない。いまはまだ午後二時前で、住んでいるマンションに寄るつもりではあったが、たいした用ではなかった。それに大屋さんに話しておかねばならないことがあり、ちょうどいい機会と言っていい。

 大屋さんのウチは虎かライオンの額ほどの庭のむこうにある二階建ての一軒家だ。瓦屋根で立派なつくりである。半世紀ほど昔、畑だった隣の土地を購入、そこにこのウチを建てたあと、昭和のおわり近くに旦那さんに先立たれ、二十一世紀を迎えるまでには、四人の子ども達はつぎつぎと家をでていき、大屋さんひとりきりになってしまったらしい。

 元の住まいだった平屋は、取り壊すにもお金がかかるため、ずっと空き家のままだった。美大生にアトリエとして貸したいと思いついたのは大屋さん本人である。ひとり暮らしが不安で、平屋にだれかいたら心強いと考えたものの、身元がはっきりしないひとに貸すのは怖い。ならば近所の美大生に貸そうと思い立った。そして美大の学生課に乗りこみ、相談の結果、アトリエとして活用してもらうことに至ったのだ。かくして不動産屋をあいだに挟まず、大学の学生課の掲示板に入居者募集の紙を掲示し、応募者は大屋さん自身が審査をおこなうようになったという。

 その後の四半世紀近く、平屋は常時、四人の美大生が借りている。いまはミドリに爲田淳平ためだじゅんぺい、彫刻学科三年と日本画学科二年のいずれも男子だった。紅一点だからなのかはわからないが、大屋さんはミドリをちょくちょく自宅に招き入れ、お茶をご馳走してくれた。ミドリもそのお礼を兼ねて、畑の手伝いや食材や日用品の買い出しなどをした。

 なによりよろこばれるのは、川原崎花店の花だった。バイトをはじめた頃、ミドリちゃんは勘所がいいわとか、手先が器用ねとか李多達が褒めてくれたものだが、じつは廃棄処分寸前の売れ残りを持ち帰り、ブーケをつくる練習をしていたのである。一所懸命な自分を見られたくない主義なのだ。時と場合によってはアトリエでも練習していたところを、大屋さんに見つかり、よかったらどうぞと渡すと、殊の外よろこばれた。その笑顔たるや、華やかで神々しく見えることさえあり、ミドリ自身もうれしくてたまらなくなるほどだった。

「このミモザ、花が咲くのはまだ先なんでしょう?」

「三月に入って、しばらくしてからだと思います」

 先週の金曜にあげた花は売れ残りではない。その前日、川原崎花店の店長の李多、バイトの紀久子といかづちとともに、ミドリの実家、〈深作ふかさくミモザ園〉で穫ってきたばかりの、葉っぱが豆のカタチに似たマメバミモザだ。

 川原崎花店では李多の祖父が生前、〈深作ミモザ園〉からじかにミモザを入荷していた。それが縁でミドリの兄の誠が川原崎花店にバイトで入った経緯がある。誠が就職後、おなじ大学でおなじ学年でありながら、大学院に進んだ芳賀泰斗がバイトを引き継ぎ、毎年いま時分になると、〈深作ミモザ園〉を李多とミモザを穫りに訪れるのが恒例だった。ミドリが中高生の頃には、いっしょになって作業をおこなったものだった。ただし去年一昨年はコロナ禍で中止、今回はじめて川原崎花店のバイトとして、実家のミモザを収穫しにいった。

 アトリエを借りる面接の際、〈深作ミモザ園〉の夕暮れどきを描いた油絵を持参し、大屋さんが大いに気に入ってくれたので、いつか実家のミモザをプレゼントしたいという思いが、ようやく果たせた。いまは天然木が素材と思しき和風の下駄箱の上にこじゃれた陶器製の花瓶に生けて、飾ってあった。

「こんなふうに黄色くて丸い蕾が枝にたくさんついているだけでも、じゅうぶん愛らしくって、見応えがあるけど、花が咲けば、さぞかしきれいだろうねぇ。いまから楽しみでしょうがないよ」そう話しながら、大屋さんは長靴を脱いで、中にあがっていく。「私、ちょっと着替えてくるからさ、いつもの部屋で、コタツに入って待っててちょうだい」

 いつもの部屋とは床の間がある八畳で、玄関をあがって廊下をまっすぐにいき、左側ふたつめの襖だ。美大の行き帰りはどでかいリュックサックを背負っていたが、最近はトートバッグひとつだけが多い。今日もそうだ。一眼レフもあまり持ち歩かなくなった。

 部屋に入ると、トートバッグを置いて、短めな丈でうぐいす色のウールコートを脱ぎ、ハンガーにかけ、鴨居に付いたフックに下げる。そしてコタツに入り、コードの途中にあるスイッチをオンにした。

 実家に帰ったときと変わらぬ寛ぎを感じる。まさに勝手知ったる他人の家だ。とは言っても二階はあがったことはない。なんでも四人の子ども達各々の部屋があって、住んでいた頃のままの状態で、いまでも週一は掃除をしているという。いつ帰ってきてもいいようにと昔は思っていたんだけど、今日の今日までだれひとり帰ってこなくて、いまはただの習慣だよと笑いながらも、少し寂しそうに大屋さんが話すのを聞いたことがある。

 部屋の中はひんやりしているものの、コタツのおかげで腰から下がだいぶ温まってきた。五分もすると眠気を催し、ウトウトと船を漕ぎだしてしまった。なんなら横になって寝たいくらいだ。じつは過去に何度かヤラカしており、大屋さんはそのまま寝かしておいてくれた。だが今日はこのあとバイトなのでそうはいかない。

「お待たせしてごめんなさいねぇ」

 睡魔と闘っていると、ようやく大屋さんがあらわれた。上下ともグレーのスエットに赤い格子柄の半纏という部屋着に着替え、お茶とお菓子を載せたお盆をコタツまで運んでくる。

「あっ」

「なぁに?」ミドリの斜向いに座ると、大屋さんが心配そうに訊ねてきた。「でかける時間になっちゃった?」

「いえ、このお菓子」

「かわいいでしょ。一個ずつ、指輪ケースみたいな箱に入ってて」

 箱はぜんたいに薄い紫色で、〈風信子ヒヤシンス〉というお菓子の名前が、金色の箔押しで入っている。老舗の和菓子メーカー、〈長春花ちょうしゅうか〉の商品だ。

「この箱、バイト先のひとがデザインしたんです」

「それって、あなたの大学の先輩の?」

「はい。君名さんです」

 君名紀久子は美大の数年先輩だが、デザイン科だ。卒業後に勤めた一般企業があまりにブラックだったために逃げだし、店長の李多に拾ってもらい、川原崎花店でアルバイトをしつつ、グラフィックデザイナーとして個人で仕事をしている話を、以前、大屋さんにしてあった。川原崎花店のロゴマークや包装紙、ショップカードなどを手がけ、他にも洋服屋にコーヒーショップ、ペットショップ、温泉旅館などの仕事をしていることもである。

「そのひと、お菓子屋さんの仕事もしてるって言ってたけど、〈長春花〉だったのね」

「三年前に〈長春花〉の創業百五十周年記念のお菓子のパッケージデザインをコンペで勝ち取って、それから新製品のはすべて任されているみたいです」

 紀久子のデザインは奇をてらっておらず、素直でわかりやすい。利便性にもけている。それでいて見た瞬間、「おっ」と思わせるものがあった。

「このお菓子の箱は日本なんとかかんとか協会のコンクールで賞をもらったそうで」

「凄いじゃない。なんでそんなひとがまだ花屋でバイトしているの?」

「とは言っても一年のうちの仕事量はデザイナーが三分の一、川原崎花店が三分の二だとグチってました。デザイン料が安いので、収入となるとデザイナーが四分の一、川原崎花店が四分の三だとも」

「好きを商売にできたとしても、それでメシが食えるかは難しいってわけだ。大変だねぇ」

 そう言いつつ、大屋さんは箱を開き、〈風信子〉と名付けられた和菓子を取りだして口に運ぶ。

「大変そうですけど、仲いいカレシがいて、毎日、楽しそうにはしてますよ」

 紀久子のカレシはときどき川原崎花店を訪れていた。彼の特徴を訊かれた場合、九割方のひとが撫で肩と答えるだろう。三十路のオジサンだが腰が低く、だれに対しても敬語で話す。十歳ほど若いミドリやさらに年下の雷どころか、小学三年生の常連、蘭くんまでにもだ。ただあまりにも自然なので違和感はなかった。〈国立研究開発法人〉からはじまり、やたらと長い名前の研究所だか技術機構だかで働く研究員である。なんでもビームを植物に当てて、突然変異を引き起こし、新品種をつくりだす研究をしているという。すでに流通している菊もあり、秋になれば川原崎花店の店頭に並んでいた。

「アトリエでなにしてたの?」大屋さんがちがう話題を振ってきた。「新しい絵でも描いていた?」

「いえ、とくにはなにも」

 卒業制作に全身全霊を注ぎこみ過ぎて、一月末に描きおえてもうじきひと月が経つのに、ミドリは空っぽのままだった。アトリエには毎日通いながらも、二、三時間ぼんやりしているだけである。

「卒展で見たけど、ミドリちゃんの絵、ほんと素晴らしかったわ」

 平屋を美大生に貸してからずっと、大屋さんは美大の卒業制作展に毎年かかさず足を運んでいるのだ。ちなみに去年一昨年は新型コロナウイルス感染拡大防止、および学生・来場者の感染リスクを鑑みて中止、今年は二年振りの開催だった。

「ふだんは控えめでおとなしいあなたみたいな子が、あれほどまでに情熱的で躍動感があって、力強い絵を描くとは思ってもみなかった。モデルの女の子のパワーが溢れでていて、こんなおばあちゃんでもまだまだ頑張れるって勇気がもらえたわ」

「あ、ありがとうございます」

 大屋さんに気圧され、ミドリはたじろいでしまう。それでも礼は言った。

「比べるのもなんだけど、爲田くんの絵よりもずっとよかった。どうしてあの子が最優秀賞で、ミドリちゃんが優秀賞だったわけ?」

 卒業制作は各学部の各学科から最優秀賞と優秀賞が選ばれる。ミドリにとって入魂の一作ではあった。しかし優秀賞に決まったと言われても、他のだれかと間違えていませんかと問い返してしまった。それだけ自信がなかったのだ。

「爲田くんの絵のどこがいいの?」大屋さんは鼻息を荒くしてなおも言う。「私にはひび割れてボロボロになった壁にしか見えなかったわ。上下ひっくり返しにしてたって、だれも気づかないわよ、きっと」

 あまりの手厳しさにミドリは笑ってしまう。爲田の作品は抽象画なのだ。何十色という色の絵の具を何重にも重ねあわせ、己のイメージへ次第に近づけていくらしい。爲田本人はさておき、彼の描く絵をミドリは好きだった。とくに今回の作品はすっかり圧倒された。制作中にいき詰まって、滝行をしてきただけの甲斐があったと言えるだろう。

 大屋さんの意見もあながち間違ってはいなかった。爲田はときおり廃墟スポットにでかけ、その場で描いたスケッチや撮影してきた写真をアトリエのそこらじゅうに貼って、絵を描く参考にしているからだ。

「爲田くん、大学院進むんだってね」

「え?」

「あら、やだ。ミドリちゃん、知らなかったの」

「はい」いまはじめて知った。

「それはそうか。昨日、合格が決まったって、私んとこに言いにきたんだからね」

 大学院に進学を希望する場合、十二月には出願しているはずだ。そんな話を爲田はおくびにもださなかった。

「ついてはアトリエも引きつづき貸してほしいって。ミドリちゃんはどうなの? 就職しなかったのよね。大学でたらどうするつもり?」

「それはあの」核心をつかれ、ミドリはしどろもどろになる。「しばらくは花屋のバイトをしていようかと」

「絵はつづけるの?」

「そのつもりではいるのですが」

「つづけなさいな」大屋さんは前のめりになり、自分の顔をミドリの顔にぐいと寄せてきた。「私、ミドリちゃんの絵をもっと見たいんだ。なんならアトリエもそのまま使っていいわよ。どう?」

 話さなくてはと思っていたのは、まさにこのことだった。大屋さんのほうから言いだしてくれて、ミドリは大いに助かった。

「ぜひお願いします」

 卒業制作展が開催されたのはバレンタインデーからの一週間だった。油絵や日本画といった絵画をはじめ、イラストレーション、グラフィック、インテリアデザインなどあらゆるジャンルの作品が、構内の展示室はもちろん、階段や廊下、体育館、屋外の広場など東京郊外の広いキャンパスのあらゆる場所に展示された。油絵学科は地下展示室の一角だった。

 来場者は出展する学生の家族や知りあい、在学生に受験生、美術関係者や一般企業の人事部やデザイン部署のひと達なども多い。大屋さんのように美大周辺の地域住民も相当な数にのぼるらしい。

 ミドリの作品も南房総の両親はもちろん、思った以上に大勢のひとが見にきてくれた。絵のモデルである馬淵千尋まぶちちひろなどは入鹿いるか女子高の硬式野球部の部員を引き連れてきた。一〇〇号のFサイズに千尋をほぼ等身大に描いたのだが、彼女はその真横に立ち、絵とおなじポーズを構え、野球部の子達に写真を撮ってもらっていた。千尋の祖母と母親はべつの日に訪れた。華道の先生である祖母は、ミドリの右手を両手でがっしり掴み、孫娘をこんな立派に描いてくださって、感謝の言葉もありませんといささか大仰な礼を言った。ミドリとしてはどう応じていいものか、まごつくばかりだ。

 李多に光代みつよさん、紀久子、雷といった川原崎花店の面々、さらにはスナック〈つれなのふりや〉のママ、母親に連れられて蘭くんもやってきた。その中でだれよりも熱心に鑑賞していたのは雷だった。二十分以上は見ていただろう。

 ミドリの作品を楽しみにしてますと雷が言ってくれたのを思いだしたものの、それとはべつに、川原崎花店にあらわれた千尋に、仕事そっちのけで雷が見とれていたことがあった。絵を丹念に見ていたのは後者が理由のように思えなくもない。だがどちらなのかと雷本人に訊くような真似はしなかった。

 卒展の中日には公開講評会がおこなわれた。特別客員教授で、パリ在住で日本に一時帰国中の高名な洋画家を招き、展示会場で油絵学科の卒業制作を講評してもらうのだ。

 齢七十だという洋画家はゴワゴワで硬そうな髪を耳が隠れるまで伸ばし、もみあげが鼻下と顎に生やしたヒゲとつながっているため、顔の地肌がほとんど見えず、まん丸で大きな眼が異様に光っていた。しかもずんぐりむっくりな体型で、グレーのタートルネックに焦茶色のジャケット、黒のズボンを穿いたそのいでたちから、まるで森の奥に潜むふくろうのようだった。

 パリ在住だからか、たぶんフランス語と思しき横文字を要所要所に交ぜて話すので、理解できない部分も多かったが、基本はどの作品に対しても、ですます調なのに容赦ない意見を浴びせていった。おかげでミドリなどは自分の番までのあいだ、呼吸が乱れ、立っているのもやっとの状態に陥ってしまった。どうにか気を紛らわせようと、梟の瞼が三つあるとか、三百六十度まわると思われる首の可動域は二百七十度だとか、SNSで得た知識を思いだしてもいた。それでもあまりの辛辣さに会場の空気は凍りつき、どうにか和ませようと主任教授がフォローをしようものなら、だから日本は駄目なんだと火に油を注ぐ結果となった。

 ところが大屋さんが言うところの〈ひび割れてボロボロになった壁〉みたいな爲田の作品だけはベタ褒めだった。やはり意味不明な横文字を並べつつ、世界に通じる作品だと断言したうえで、ブラボーと高らかに言うと、爲田にむかって手を叩きはじめた。それだけではない。なにをぼんやりしているのだと言わんばかりの表情で、その場にいたひと達を見回すので、みんな慌てていっしょに手を叩いた。爲田は戸惑いながらも満更ではない面持ちで、ガッツポーズを取ってみせた。

 アホか。

 そう思ったミドリがつぎだった。梟は等身大の千尋を前にするなりこう言った。

 グチョクですな。

 グチョクが愚直だとわかるまで、ミドリはやや時間がかかった。一瞬、グッジョブとお褒めいただいたのかと思ってしまったのである。梟は力の限り白球を打つ千尋を見つめながら、話をつづけた。

 たぶんあなたは大学の授業は無遅刻無欠席で、成績もいいのでしょう。

 おっしゃるとおりだ。でも就職活動にはまったく役立たなかった。理由はさだかではない。あんなに頑張ってきたのに内定のひとつももらえないなんてと心が折れただけだった。

 この大学で習得したすべてが、このキャンバスに発揮されています。そういった意味ではとても好感が持てる作品です。しかし残念ながら絵としての面白味は皆無で、才能のかけらも感じられません。

 ヒドい。あんまりだ。才能がないのは自分自身よくわかっている。でもこうもはっきりと面とむかって言われたのははじめてだった。梟は一〇〇号のFサイズのキャンバスからミドリに視線を移していた。間近で見るといよいよもって梟そのもので、瞼が三つあっても首が二百七十度回っても、不思議ではなさそうだった。

 才能がないことは恥じる必要はありません。あなたは地道にコツコツと日々、努力を重ねることによって徐々に上達していく大器晩成のタイプなのです。絵を描きつづけていけば必ずモノになるでしょう。ただしそのためにはこの先、長くて辛い茨の道を歩まねばならない。きみにはその覚悟がありますか。

 コートのポケットでスマホが震えた。各停の電車の中、あと二駅で鯨沼駅だった。窓の外はそれまで快晴だったのが、雲が多くなってきている。天気予報アプリによれば夕方から雨が降るらしい。

〈ごめん、帰りが午後六時になりそう。光代さんか雷くん、どっちかそれまで残っててくんない?〉

 川原崎花店のグループLINEで、李多の書き込みだった。

〈私は無理。雷くんはいま配達中〉

 これは光代さんだ。雷も駄目ならミドリのワンオペになる。六時までならできなくもない。そう思っていると、雷の返信があった。

〈俺はオッケーです〉

〈ありがと、雷くん〉

〈こういうことはもっと早くに連絡してもらわないと困りますよ〉

 光代さんが注意する。遅番の入り時間まであと四十分もないので当然だ。パートだがいちばんの年長者で、店長の李多よりも長く川原崎花店で働いている彼女は、礼儀や規則には厳しいのだ。

〈ごめんなさい。今度から気をつけます〉

 李多が素直に謝った。そのやりとりを見ているうちに、鯨沼駅に辿り着いた。

 改札口を抜けて南口をでると、ロータリーを挟んだむこう側に川原崎花店が見えた。今日、店先に並んでいるのは色とりどりのチューリップで、そこだけ春を先取りしているようだ。八重咲きやユリ咲き、パーロット咲きにフリンジ咲き、王冠咲きなどあらゆる品種を李多は入荷してきた。ただやはりいちばん売れるのはスタンダードな一重咲きだった。

 ロータリーに沿って歩いていくと、左手から黄色い声が聞こえてきた。そちらに目をむけると、五十メートルほど先、商店街へむかう道の路肩にラヴィアンローズが見えた。そのまわりを制服姿の女の子数人が取り囲み、人目を憚らずに、きゃあきゃあとはしゃいでいる。

 川原崎花店が花の配達にも使う電気三輪自動車だ。ぜんたいにバラのラッピングが施されているので、どこを走っていても目につく。するとミドリがバイトをはじめる前から、近隣の女子中高生のあいだで、ラヴィアンローズを写真に撮ってスマホの待ち受け画面にすれば恋愛が成就するという噂が浸透していた。

「お願いです。あと一枚だけ撮っていいですか」

「え、あ、うん。一枚だけだったら」

 女の子のひとりに手を合わせて拝まれているのは雷だった。世田谷の花卉かき市場内にある仲卸店『フルール・ド・トネール』のひとり息子で、この春に高校を卒業予定の十八歳男子だ。去年の夏に自動車免許を取得しており、紀久子に代わり、花の配達にでかける回数が多くなっていた。いまはその帰りにちがいない。午後四時までまだ余裕があったので、ミドリは足を止め、しばらく様子を窺うことにした。

「ありがとうございます」

 女の子は礼を言うと、友達に自分のスマホを渡し、ラヴィアンローズの前に立ち、運転席に座る雷にできるだけ寄り添おうとした。

「き、きみとツーショットなの?」

「はい」女の子は少しも悪怯わるびれずに返事をする。清々すがすがしいくらいだ。

「いや、あの、いままでこういうのなかったんで」

「やだ、嘘、私がはじめてなんですねっ。うれしぃぃ。光栄ですっ」

「よかったじゃん、マキ」「おめでとぉ」「では早速、記念すべき一枚目を」

「ちょ、ちょっと待って」

 テンションが爆上がりの女子高生を前に、鼻の下を伸ばしたり、やに下がったりなどはせず、雷は滑稽なくらいに困り果てていた。

 ここはひとつ、助け舟をだしてやるか。

「雷くぅぅん、なにやってんのぉぉっ」ミドリは声を張りあげる。大屋さんに言わせれば控えめでおとなしい、要するに陰キャで、こんな大きな声をだすことはほとんどない。「まだ仕事あるから、早く戻ってきてくんないと困るんだけどぉ」

 雷のみならず女子高生達も一斉にこちらを見た。

「すみません、いまいきまぁす」

「いっちゃうんですかぁ」

「ごめん、仕事があるんで。また今度」

 早口でそう言い残すと、雷はラヴィアンローズを走らせ、川原崎花店へとむかった。

「ちょうどよかった、ミドリちゃん」

 階段をかけのぼって、李多の自宅である三階のドアを開いた途端だ。キッチンにいた君名紀久子が、挨拶もそこそこに声をかけてきた。今日は休みのはずなのに食卓でノートパソコンを広げており、そのまわりはスケッチブックや紙の見本帳、色見本、色鉛筆にハサミ、セロハンテープなどで雑多に散らばっている。

「なにやってんですか」

 そう訊ねたものの、なにをしているのか、ミドリにはわかっていた。十八歳で上京して十年近く、紀久子はひとり暮らしをしていたくせに、撫で肩のカレシと同棲をはじめたら、ウチでひとりでいると寂しくてたまらないんだよねと、ときどきここでグラフィックデザイナーの仕事をするようになったのだ。ただのノロケ話に聞こえなくもなかったが、羨ましがっているように思われるのが癪なので、だれにも言わなかった。

「いいからこれ見てくんない?」

 紀久子が手招きをする。ミドリは椅子にトートバッグを置き、その中からだしたエプロンを身に着け、そのポケットにスマホを入れてから、紀久子に近寄り、ノートパソコンを覗きこむ。そこにあったのは帆船をモチーフにしたロゴマークで、その下にはちょっと気取った書体で〈折敷出航法律事務所〉とあった。

「これって李多さんの元カレの?」

「そうそう」

 祖父母の川原崎花店を引き継ぐ前、李多は〈鷹橋法律事務所〉でパラリーガルとして働いていた。その頃に交際していたのが、おなじ事務所で弁護士の折敷出航なのだ。年齢は彼のほうが二、三歳下らしい。

 去年の晩秋、いきなり川原崎花店に客として訪れ、紀久子と蘭くんで対応した。その際に折敷出は川原崎花店のショップカードが素敵だと褒めたらしい。紀久子は私のデザインなんですと言っただけでなく、蘭くんに促され、グラフィックデザイナーとしての名刺を渡すと、折敷出がこう言ったそうだ。

 さきほどお渡しした名刺の事務所を近々やめて、来年の春には自分の事務所をかまえることになりましてね。そこのロゴと名刺、それにパンフレットをつくってもらえればと。

「このロゴどう?」

「悪くないと思います」

「ミドリちゃんがそう言うんだから間違いないな」

 紀久子が無邪気に言う。その屈託のなさがミドリは苦手で、ちょっと苛立ちもする。それでも話をしているうちに、彼女のペースに巻きこまれてしまうのが、毎度のパターンだった。

「だけどなんでロゴが帆船なんですか」

「弁護士事務所のロゴは天秤をモチーフにしたのが多いんで、ちがうものにしてくれないかって、折敷出さんに頼まれてさ。それでまあ、いろいろ考えた末、折敷出の出までが名字だとわかっていても、フルネームで書いてあると折敷おりしき出航しゅっこうと読んじゃうでしょ。ならばいっそのこと出航のイメージから、風を受けて力強く大海原を進んでいく帆船をロゴにするのがいいかもと思って提案したの。そしたら折敷出さん、私がその理由を話す前に、ぼくの趣味を李多に聞いたんですねって」

「どんな趣味です?」

「私も訊こうとしたのよ。でも折敷出さんがあまりにうれしそうに言うんで、はい、そうですってうっかり答えちゃったんだ。あとで李多さんに訊ねたらさ、折敷出さんの趣味、なんだったと思う?」

 めんどくさいなぁと思いつつ、ミドリは考える。

「船が関係してるとなると釣りですか」

「ブッブー」紀久子は口で不正解のブザーを鳴らす。これはいきつけのスナック、〈つれなのふりや〉のひとみママの真似にちがいない。

「弁護士だとお金持ってそうだし、ヨットを持っていたり」

「ブッブー。そういうアウトドア系じゃなくて」

「インドア系で船に関する趣味ってあります?」

「降参?」

「ちょっと待ってください」こうなると当てたくなる。「船の模型をつくるとか?」

「惜しい。っていうかほぼ正解なんだけどもう一声。船の模型をどこにつくる?」

「どこって」あ、そっか。「瓶の中?」

「ピンポォォン」紀久子はうれしそうに言う。ひとみママならば、店に常備しているラッパを吹き鳴らしているところだ。「それってボトルシップって言うらしいんだけどさ。休みの日には日がな一日、ピンセットを駆使して、瓶の中に細かいパーツを配置して、組み立てているのが、折敷出さんのいちばんの息抜きなんだって」

 折敷出は自分がつくったボトルシップを、もといた事務所に飾ってもいたらしい。

「このロゴの最終確認とパンフレットのレイアウトを見るために、三十分後には折敷出さんがここにくるのよ」

「先週の火曜にもきてませんでした?」

「今月は今日で五回目」

 週イチのペースだ。いくらなんでも多すぎる。

「くれば必ず五千円分の花を買ってくんで、川原崎花店としてもいいお客さんではあるんだけどさ。だいたいは直に会わなくても、ズームやメールのやりとりで事足りることばっかなんだ」

 ならばどうしてそんなに足繁く訪れてくるのか。

「もしかして李多さんに会うために?」

「としか考えられないよねぇ」紀久子はニヤつきながら言う。「でもそれがなかなか叶わなくてさ。折敷出さんがくるときにかぎって、李多さん、いないんだ。今日もそうでしょ?」

 紀久子も川原崎花店のグループLINEを見たにちがいない。

「折敷出さんがくる話、李多さんにしたんですか」

「してないよ」

「だったら今日、李多さんが出先からの帰りが遅くなるのは偶然?」

「そうなんだよ」紀久子は腕組みをして首を傾げる。「折敷出さんがいついつきますよって、前は李多さんには言ってたんだ。でもわざわざ私に知らせなくていいって言われちゃってね。今月は一度もしてないの。なのに五回とも李多さんは姿をくらましちゃうのって不思議じゃない?」

 五回とも偶然となると、不思議としか言い様がない。それにしてもだ。

「そんなに元カレと会いたくないんですかね、李多さんは?」

「そこがまた微妙なの。折敷出さんがきたとわかると、彼についてあれこれ訊ねてきて、私の答えに一喜一憂するんだ。そういうとこは昔と変わんないなとか、ひとりでやっていけるのかなとか、だったら会ってたしかめろって、何度も言いそうになったね」

 できれば李多と折敷出の話をもう少し聞いていたい。だがそうもしていられなかった。四時まで二分だったのだ。

「それじゃ私、いってきます」

 キッチンをでていこうとするときになって、勝手口のすぐ横に、ここでは見慣れないものが立てかけてあるのに気づく。ギターかベースのと思しきハードケースだ。

「これ、だれのです?」

「私がきたときにはもうあったよ。たぶん雷くんのじゃないかなぁ」

 天気予報アプリどおり、午後五時前には雨がパラつきだした。雷とふたりで表に飾ったチューリップを店内に運びこむ。立て看板も入れ、ミドリはバックヤードから傘立てを持ってきて、出入口の脇に置いた。

〈それにあの白い小さな花は何か不思議な合図を空に送っているようにあなたには思われませんか。(宮沢賢治 『チュウリップの幻術』)〉

 今日は宮沢賢治か。

 立て看板には光代さんの達筆な文字で、花にまつわる言葉が書いてあった。よくもまあ、ネタが尽きないものだ。元は国語教師だったとはいえ感心する。

 宮沢賢治と言えば、ミドリが知っているのは『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』くらいだが、どちらもまともに読んでいない。有名な雨ニモマケズの詩も、東西南北四方向にいって、なにをするんだかわからない。当然ながら『チュウリップの幻術』はまったく知らなかった。

 それにしても興味がそそられる一文だ。〈あの白い小さな花〉とはチューリップだろう。言われてみれば空にむかってまっすぐ上に花を広げる姿は、〈何か不思議な合図を空に送っているように〉見えなくもない。どんな話なのか、ミドリは読みたくなってきた。

 これまでも光代さんがこの看板に書いた言葉をきっかけに、いままで手に取らずにいた本を何冊か読んでいた。ひと月ほど前、看板に書いてあったのは〈木瓜ぼけ咲くや漱石せつを守るべく〉という夏目漱石の俳句で、この〈拙を守る〉の意味を知るために彼の『草枕』を読んだ。

 主人公が洋画家だったせいか、妙に共感できて、面白く読めた。彼が十九世紀のイギリスの画家、ミレイの作品、〈オフィーリア〉を「風流な土左衛門」と評するところには声をあげて笑ってしまったくらいである。

〈拙を守る〉の意味は〈目先の利に走らず不器用でも愚直に生きる〉だった。なんのことはない、ミドリの生き方がまさにそうだった。好きでしているのではなく、自然とそうなってしまうのだ。そう言った意味では特別客員教授の梟の講評は的を射ていたのだ。

 私は愚直そのものだもんな。

 才能がないと言われたのはショックだった。しかしこの先、長くて辛い茨の道を歩まねばならないと言われても、そうだろうなと納得してしまった。いままでもずっと茨の道を歩いていたからだ。とは言え、きみにはその覚悟がありますかと梟に訊かれたときはだまりこくってしまった。

 覚悟だなんて言われたら、ビビっちゃったじゃんかよ、まったく。

 先週の木曜、ミモザの収穫に実家へ戻ったときには、卒業後もしばらくは絵を描きつづけたい、生活費は川原崎花店のアルバイトでどうにかすると両親に話した。反対どころか小言も言われず、すんなり受け入れられてしまい、ほんとにいいの? と念押しをしたくらいだ。ただし感触としては信用されているのではなく、腫れ物に触るようとまでいかずとも、いまは好きにさせておこうと気を遣われているようだった。

 画家になりたいのかなぁ、私は。

 しかし一説によると、画業のみで生活できている画家は日本に五十人程度らしい。狭き門というより、それが現実なのだ。

「深作さんっ」

 雷に名前を呼ばれ、ミドリは我に返った。店内に置いた看板の前で、自分の将来を考えながら、突っ立ったままだったのだ。その照れ隠しもあって、つい強い口調で聞き返す。

「なんか用?」

「あ、あの、お礼が言いたくて」

 雷は左手に霧吹きを握っていた。観葉植物の葉っぱに水を吹きかける、いわゆる葉水をしようとしていたらしい。

「お礼? 私に?」

「女の子達から救ってくれたじゃないですか。マジ助かりました。ありがとうございます」

 丁重に礼を言われ、ミドリはどう応じたらいいものか、戸惑ってしまう。

「あんなのどうってことないわよ」

 そう言ってミドリは作業台へむかう。雨が降る前、昼間にメールで注文があった花束をつくるための準備中だったのだ。奥さんへの誕生日プレゼントで、帰宅途中に旦那さんが受け取りにくる予定だ。実家で穫ってきたミモザに、ピンクと白のグラデーションで花びらの縁に細かな切れこみが入ったフリンジ咲きのチューリップ、淡いグリーンで花びらの内側に網目模様があるバイモユリをひとまず揃え、作業台に並べてあった。もっと華やかにするためにスイートピーかスプレーバラを加えるのもいいかもしれない。

 なんだかんだ言って花束やブーケなどをつくるのは面白い。キャンバスに筆を走らせるときと似た味わいがある。油絵は一枚描きおえるのに果てしない日数がかかるが、花を束ねるのは十五分程度で事足りる。働いたぶん、お金にもなる。

「桃なんかどうです?」

 雷が言った。ミドリは顔をあげて彼のほうを見ると観葉植物に葉水をしていた。葉を軽く持ちあげ、裏側にも水を吹きかけている。

「この花束に?」

「はい。あとコデマリも入れて、和っぽくするのもありなんじゃないかなと」

 悪くない。

「そうしてみるわ」

 こんな具合に雷はときどき助言してきた。ミドリにだけではなく、李多や紀久子、光代さんにまでするらしい。いまのように小声でも、はっきりと相手の耳に届くように言う。ただ単に思いついたことが口からこぼれでてしまっただけなのかもしれない。なんにせよ適切なアドバイスなのはたしかだった。

 ミドリの返事を聞くと、雷は桃とコデマリを選んで、作業台まで持ってきてくれた。そのときになって、ミドリは三階に置いてあったケースを思いだす。

「雷くんってさぁ」

 その件について訊ねようとしたときだ。傘をつぼめて、傘立てに入れ、ひとが入ってきた。背丈は百七十五センチは優にあるだろう。スタイルがよくて姿勢もいい。トレンチコートを身にまとい、中折れ帽を被ったその姿は、往年のハリウッド映画を抜けでてきたようだった。

「折敷出さん、いらっしゃい」雷がごく自然に挨拶をする。「君名さんとの打ちあわせ、おわったんですか」

「はい。素敵なロゴマークをつくっていただきました」

 李多の元カレは丁寧に答えた。立て看板をじっと見つめているのは、宮沢賢治の文章を読んでいるのだろう。

「〈あの白い小さな花〉とはやはりチューリップなのでしょうか」

「そうです」と答えたのは雷だった。「その白いチューリップの花びらから湧きでてきた光の酒を、洋傘直しの職人と農園の園丁が呑むと、目の前の景色が妙なものに見えてくるっていう話なんですよ」

「雷くんはこの話を読んだことがあるのですか」

「今朝、光代さんにどんな話か訊ねたら、ネットに無料でアップされているって教えてもらいまして、昼休みにスマホで読んだんです。短い話だったんで、十分もかかりませんでした」

「チューリップのお酒というのは面白いですね。以前、バラのお酒ならば呑んだことはありますが」

「それがネットで検索したらあったんです、チューリップのお酒。さすがに花びらから湧きでてはきていませんが、チューリップの花から採った酵母を使った日本酒があるそうで」

 ふたりはなおもチューリップのお酒で盛り上がっていた。ミドリが知らぬ間に折敷出と雷はなかよくなっていたらしい。二十歳以上の歳の差をまるで感じさせないくらいである。チューリップのお酒の話が一段落すると、折敷出がべつの話題を振った。

「三階にギターが置いてありましたが、あれは雷くんの?」

 まさにミドリが訊きたかった質問だ。

「ちがいます」

「きみのではない?」

「あ、すみません、俺んです。ちがうと言ったのはギターじゃなくてベースでして」

「ベース?」折敷出が意外そうに言う。ミドリもおなじだった。「いつから弾きはじめたんですか」

「中二の夏でした。五歳上のイトコにバンドをやろうって、誘われてというよりも無理矢理引きずりこまれて、やる羽目になったんです。でも性にあってたのか、やっているうちに楽しくなって。最初のうちはひとのを借りてて、あのベースは高校にあがるときの春、実家で働いてたバイト代で買いました」

「このあとどこかで弾くのですか」

「国分寺のライブハウスでちょっとだけ」

 なんとまあ。そこまで本格的だとは。

「イトコのバンドで?」と折敷出。

「そのバンドは俺以外、イトコとおなじ大学のおなじ学年で、去年の春、卒業とともに解散してしまったんです。そのあとは人手が足らないバンドの助っ人で弾くようになって、今日のも昨日の夜中一時過ぎに急遽、頼まれたんです。ほんと困っちゃいますよ」

 全然困っていない。それどころか雷は顔を綻ばせている。

 他にやりたいことはあるのに、仕方がなくここで働いているって気がするんだ。

 雷について李多がそう言ったのは、あながち間違っていなかったのではないか。

 フゥフフフフフゥウンフゥフフフフゥン、フゥフフフンフンフゥン。

 箒で床を掃いていると、また例の鼻歌を唄っていた。あいかわらず曲名が思いだせないまま、サビと思しき部分を繰り返してしまう。するとレジ締めをしていた李多が、ミドリの鼻歌にあわせ、唄いだした。そこでようやくこの歌が、間寛平の『ひらけ!チューリップ』だとわかった。

 ミドリどころか李多だって生まれていない遥か昔の歌を、どうして知っているかと言えばだ。〈つれなのふりや〉でタイトルに花がついている歌しばりのカラオケ合戦をときどき開催するのだが、光代さんが必ず唄うのだ。

「はぁああぁああっ」唄いおえると、李多が大きなため息をついた。「雨って何時に降りだした?」

「五時前後でした」

 その後、雨の勢いは強まる一方だった。十分ほど前に閉めたシャッターのむこうから、激しい雨の音が聞こえている。

「あと二時間遅れていれば、帰宅途中のひとがウチに寄ってくれただろうになぁ」

 李多は本気で悔しがっている。雨が降ると売上げは極端に落ちてしまう。実際、五時以降の客は両手の指で足りる程度だった。

 花屋は雨に負けちゃうんですよ、賢治さん。

「午後五時十七分に五千五百円も買ってったお客さんがいるんだけど」李多はタブレットに視線を落としていた。今日の売上げデータを見ているにちがいない。「このひと、常連さん?」

「折敷出さんです」

「アイツ、今日、きてたんだ」元カレをアイツ呼ばわりするのはどうなんだろう。「キクちゃんと打ちあわせ?」

「そうです。その帰りにここに寄って」

「先週もきてたよね」

「紀久子さんが言うには今月は今日で五回目だと」

「そんなにきてるのに、なんで一度も会えないんだろ。アイツがくるときって、必ず用事ができるんだよね」

 その口調からトボケたり、嘘をついたりしているのではないのがわかった。いつも偶然なのだ。だとしたら神様のいたずらとしか言い様がない。

「李多さんだったら六時に戻ってきます、なんでしたら三階でお待ちになっていたらどうですかとまで言ったんですよ」

 折敷出は少し迷っていながらも、六時半にリモート会議があるので、それまでには家に帰らないといけません、外島さんによろしくお伝えくださいと、雨の中を去ってしまったのだ。

「私のこと、避けてるのかな」

「それはないと思いますよ」ミドリは思わず励ますように言った。「だったらわざわざここまで足を運びませんよ」

「それはそうか」と言いながらも李多は釈然としない表情だった。「どんな花、買っていった?」

「白いチューリップとミモザ、水仙に葉物を加えた花束をご購入いただきました」

「白いチューリップって」李多の視線が立て看板のほうをむく。「それを読んだから?」

「はい。宮沢賢治のその小説、ネットに無料でアップされていて、昼休みに雷くんはスマホで読んだそうです。白いチューリップからお酒が湧きでてくる話だとかで、そしたら折敷出さんが、バラのお酒ならば呑んだことがあるって」

「あった、あった。つきあっていた頃、銀座のバーで勧められて、ふたりで呑んだんだ。懐かしいなぁ。覚えていたのか、アイツ」

 李多はしみじみと言い、ふふふと笑う。

 お互い憎からず思っているのは間違いない。それならそれで、きちんと連絡を取りあって会えばいい。復縁の可能性だってじゅうぶんありそうだ。そうはいかない、なにか理由があるのだろうか。

 チューリップは色によって花言葉がちがう。

 赤は愛の告白、ピンクは誠実な愛、黄色は報われない愛、紫は不滅の愛。そして白は。

 待ちわびて。

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