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Ⅳ ライラック

 野球のユニフォームを身に着けた女の子達が十数人群がり、だれもがみな、満面の笑みで喜びあっている。いい写真だとミドリは思う。だが喜びを分かち合うことはできなかった。

 三月下旬の一週間、埼玉にある球場で高校女子硬式野球の春の大会があった。四月第一日曜の昨日、決勝戦のみ東京ドームでおこなわれ、いまミドリがスマホで見ている写真は、優勝を決めた瞬間、マウンドに駆け寄った女子野球部なのだ。

 静岡にある寿言じゅごん高校といい、二連覇を目指す強豪校を相手に接戦の末、勝利を獲得した。写真の記事を読むと、寿言高校の女子野球部は四年前に同好会として発足、一昨年、部に昇進したばかりで、高校に入ってから野球をはじめた部員もいるらしい。えらい。素晴らしい。だがやはりおめでとうとは言えなかった。それだけミドリは悔しくてたまらなかった。

 春の大会には馬淵千尋まぶちちひろがキャプテンを務める入鹿いるか女子高校も出場した。一回戦が金曜、順調に勝ち進んでいけば準決勝戦がつぎの木曜までの全五試合を応援するため、ミドリはまるまる一週間、川原崎かわらざき花店のバイトを休ませてもらった。ひとりではない。千尋の祖母の十重とえといっしょに球場がある市内のホテルに宿を取った。

 しかし残念なことに一日早く帰らねばならなかった。優勝候補と言われていたのに入鹿女子高校は四試合目の準々決勝戦で敗退、ベスト8におわってしまったのである。準決勝進出を拒んだ相手チームこそが寿言高校だった。

 これには十重やミドリだけではなく、川原崎花店のスタッフもしょげていた。翌日の準決勝戦は定休日の木曜なので、埼玉の球場に駆けつける気満々だったのだ。

 ネットの記事には寿言高校の投手の写真もあった。決勝戦の最終回、三者凡退に抑えたときを捉えたもので、ヤッターと叫んでいるのがわかるほどだ。長身ではあるが華奢な体つきで、ユニフォーム姿で白球を投げるよりも、キレイに着飾ってピアノを弾いていたほうが似合いそうな見た目だった。

 しかし、入鹿女子高校との試合で、彼女の送球を見ているが、信じ難い速さだった。彼女の速球が勝利に導いたのは間違いない。名前は西と言う。

 西って子も昔のよしみで少しは手加減してくれてもよかったのにねぇ。でもまあ、勝負の世界だから、そうはいかないかぁ。

 ホテルで帰り支度をしている最中、十重はため息まじりにそう言った。昔のよしみとは西は以前、鯨沼くじらぬまの住民だったうえに、地元の女子野球チーム、キラキラヶ丘サンシャインズで、捕手の千尋とバッテリーを組んでいたのだ。ふたりは同学年で、中学二年の夏、西が引っ越してしまった。そんな彼女と千尋はライバルとしてグラウンドで再会したのである。漫画かよとツッコミを入れたくなる展開だ。

 ただしグラウンドで再会は間違っていないものの、引っ越してはなればなれになったあとも友情は途絶えず、ちょくちょく連絡を取りあい、東京と静岡を行き来していたらしい。

 そしてまた、西には鯨沼にカレシがいた。詳細はミドリもよく知らないが、もともとは西の家の近所で、幼なじみの宇田川という男の子だ。商店街にある戸部ボクシングジムに通っており、おなじジムで、試合に出場する選手に渡す花束を買うため、川原崎花店に訪れたことが何度かあった。

「ミドリちゃぁん」

 レジ前に立つ李多りたに名前を呼ばれ、ミドリは危うく手元のスマホを落としそうになった。

「は、はい」

 あと十分もしないうちに川原崎花店は開店する。ミドリは今日のオススメの花を写真に撮って、SNSにアップするつもりで、スマホを取りだした。そしてロックを解除したら、寿言高校女子野球部の写真がでてきた。出勤途中に電車の中で読んでいたスポーツ新聞の記事を閉じないままだったのだ。ふたたび悔しさがこみあげ、あれこれ思いを巡らせてしまったのである。

「これ、お願いできる?」

 李多が差しだす紙をミドリは受け取る。〈花天使〉経由ではなく川原崎花店に直接、注文してきたメールをプリントアウトしたものだ。スタンディングブーケで用途は開店祝い、値段は一万円前後、どの花の何色でという細かな指定に、〈なるべくこんな感じで〉と手描きのイラスト付きだった。スケッチ風の色鉛筆でラフに描かれたものだが、デッサンはしっかりしている。もしかしたら描いたのは、自分とおなじ美大卒かもしれない。

 依頼主は〈凹組〉としか書いていない。凹凸の凹ならばオウグミ、凸凹の凹ならばボクグミだがはたしてどちらだろう。まさかのヘコミグミか。会社か事務所の名前だとしたらどんな業種なのか、まるで見当がつかなかった。受取人は〈素直書店〉で、お届けは今日の正午から午後二時まで、住所は川原崎花店とおなじ町内だった。

「スタンディングブーケをつくるだけじゃなくて、配達までお願いしたいんだけどいい? その本屋さんって、明日、オープンみたいよ。場所、わかる?」

「わかります。元はネイルサロンだったとこですよね」

「そうそう」

 商店街のほぼ真ん中あたりだ。ネイルサロンは一年近く前、吉祥寺に店を移したらしい。閉じられたシャッターに店舗移転のお知らせの紙が貼ってあったのだ。気づけば貼り紙は〈貸店舗募集〉に代わって、しばらくそのままだったのが、先月の中頃には〈素直書店四月上旬オープン〉になっていた。

「配達ってアレでですか?」

「そう、アレよ」

 アレでかぁ。

「悪いんだけど、私、町内会の会合に顔ださなくちゃいけないんだ。昼前には帰ってくるんで、それまでワンオペでお願い。手が足らなくてピンチんなったら、三階のキクちゃんに助けてもらっていいよ」

 三階は李多の自宅で、そのキッチンはスタッフの休憩場だ。ところが最近、バイトの紀久子きくこが自分の作業場として使う回数が増えた。今日も一時間ほど前に訪れ、「キッチン借りますねえ」と李多に言い、三階へあがっていった。

 紀久子の本業はグラフィックデザイナーだ。ワンダフル・フレンドという屋号もある。ただしいまだに川原崎花店のバイト代のほうが稼ぎがいいのが現状だ。自宅でもじゅうぶんできる。しかし撫で肩のカレシと同棲をはじめてから、ウチでひとりでいると寂しくてたまらないという意味不明な理由で、キッチンにノートパソコンをはじめ、スケッチブックに筆記用具、紙見本に色見本などを持ちこんで、本業の仕事に勤しんでいた。

 最初は早番のあとや遅番の前だったのが、今日のようにバイトが休みの日でもきている。ときにはここに自分の顧客を招き、打ちあわせまでおこない、丸一日いる場合もあった。「場所の使用料を取ったらどう?」と光代さんが李多に冗談まじりで言うのを聞いたことがある。でもだれかがワンオペで手が足りないときに呼びだせるし、自分の仕事の合間に食事の準備もしてくれるので、助かっている面も大きかった。

「素敵だわ」

 間近で声がするのに驚いて、ミドリは慌てて顔をあげる。作業台を挟んだむこうに女性が立っていた。

「ありがとうございます」

 思わず礼を言う。三十代なかばと思しき彼女の視線はミドリが制作中のスタンディングブーケに注がれている。

「赤いのはバラで、ピンクのはガーベラ、オレンジのはトルコキキョウ」

 女性はひとつひとつ指差し、花の名前を挙げていった。小学四年生の常連客、蘭くんとしていることはほぼおなじだ。ミドリはワンオペだし、他に客はいないので、彼女の相手をしなければならなかった。

「この黄色いのは」

「アルストロメリアです」

「やだ、嘘、ほんとに? でも縞模様がありませんよ」

「スポットレスタイプといって、斑点や模様を取り除いた品種なんです」

「いちばんの特徴がないなんて、物足りない感じがしません?」

 言わんとすることはわかる。模様がないとどの花とも相性がよくなる反面、ただの引き立て役になってしまうのはたしかだった。

「でも元を知らなければ、これはこれで可愛らしいかも」そのときになって女性は、作業台の端に置いた紙に気づいた。

「その絵はだれが描いたんです? あなた?」

「いえ。ご依頼主が」

「こうやって絵を描いてくるひとって多いのかしら」

「滅多にいないと思います。私、ここで三年バイトしていますけど、これがはじめてです」

 イラストどおりできるかどうか心配だったが、ビジョンがはっきりしているぶん、いつも以上に捗った。なんなら今後、余裕さえあれば自分でイラストを描いてから、ブーケや花束をつくるのもありだぞと思ったくらいである。

 ミドリは改めて女性を見た。面長で少し逆三角形なシャープな輪郭、切れ長の目にスッと通った鼻、小さくつぼめた口ともともと整った容貌に、しっかり化粧が施され、美しさを際立たせている。肩まで伸びた髪は艶があって、指通りがよさそうだった。しかも内側に巻いたカタチはキレイな左右対称で、よほどじょうずにヘアアイロンを使いこなしているのだろう。それだけ自分に使う時間がたっぷりあるにちがいない。編み目が粗い透かし模様の、いわゆるクロシェ編みで、淡い紫色のワンピースといういでたちは、避暑地に訪れた有閑ゆうかんマダムに見えなくもなかった。

「ブーケはいつもあなたがつくっているんですか」

 女性はなおも訊ねてきた。バイトをはじめたばかりの自分ならば、不貞腐ふてくされて相手をしなかっただろう。だが三年もやっていれば、面倒だなと思いつつも、ミドリはきちんと答えた。

「いつもではありません。他にもスタッフがいますので」

「私、鳥取の貝塚と言いますが、おわかりになります?」

 どこかで会っているだろうか。でもまったく覚えがない。しかしなぜか、鳥取と貝塚が印刷された文字がミドリの脳裏に浮かんできた。さらに花冠を被った天使、フランちゃんがパタパタ飛んでもいる。フランちゃんは生花の宅配会社〈花天使〉のキャラクターだ。

 あっ。

「花天使経由で注文なさった?」

「そうです」貝塚と名乗る女性はにっこり微笑んだ。「この町に住む私の友達のとこに二度、スタンディングブーケを届けていただいて」

「あ、それ、どっちも私がつくりました」

「ほんとに?」貝塚さんは胸の前で両手を組んだ。まるで夢見る乙女だ。「どちらも私の注文どおりのブーケをつくってくれて、ほんとにありがとうございました。カナエもとてもよろこんでいたわ。あ、カナエは友達の名前なんです」

 カナエは叶恵だ。これもまた印刷した文字で思いだす。名字はなんとか澤だ。サワが沢ではなく澤と難しいほうなので覚えていた。前澤? 横澤? いや、越澤こしざわだ。

 一度目は一月の十日過ぎで引っ越し祝い、二度目は二月なかばで誕生日祝いだった。短期間に二度、しかも鳥取からの依頼など他になかったので記憶に残っていた。

 鳥取のどこかしらの花屋で貝塚さんが注文をして、その伝票が花天使経由で、川原崎花店に送られてくる。そして注文どおりのスタンディングブーケをつくり、鯨沼のマンションに住む彼女の知り合いに届けたのだ。

 貝塚さんは注文どおりと言った。しかしいまつくっているブーケの依頼主のように、花の種類や色を具体的に注文してきたのではない。正反対だ。花天使の伝票には「なにかご要望があればご記入ください」という欄がある。引っ越し祝いのときは「新たな門出にふさわしい、元気がでてハッピーになれる花束をぜひお願いします!」と書いてあった。元気もなければハッピーでもないミドリではあるものの、まずはスイートピーと八重咲きのガーベラでスタンディングブーケをつくった。ガーベラをすすめてきたのはいかずちだ。色味は赤とピンクを主に、少し白をまぜてみた。

 誕生日祝いのときは「人生をワンステップあがった我が友人に、シックでエレガントだけど遊び心のある花束をつくってください!」だった。これまた丸投げというよりも無茶ぶりみたいな注文である。ちょうどその日、李多が仕入れてきたカラーを使ってみることにした。すらりとして、真上をむいたラッパみたいなカタチをしたカラーは、白のイメージが強い。だがオレンジやピンク、黄色などもある。その日のは内側が紫で外側が白と、まさにシックでエレガントな色合いだったのだ。ピカソという品種名もかっこよくて、ミドリは気に入っていた。

 このカラーを中心に、紫と白の花でまとめてみた。青みを帯びた紫色で芳しい香りを放つ、ころんと丸いカップ咲きのバラ、ブルドゥパルファムに、宮崎県の花農家のオリジナル品種で、花びらがキラキラと輝いて見えるラナンキュラス、宮沢賢治の小説にでてきた白いチューリップ、そこに遊び心ということで夏白菊なつしろぎくとかすみ草をちりばめた。我ながら快心の作だったとミドリは自負している。李多も褒めてくれたし、翌日に店のSNSにアップしたところ、おなじブーケをつくってくださいと、店を訪れた客が三人もいたほどである。なによりもお届け先の叶恵さんがよろこんでくれたというのだから大成功と言っていいだろう。

「この花屋さんのことは叶恵に教えてもらったんです。彼女も娘さんとふたりで何回か足を運んでて、お花を買ってるって言ってました」

 だれだろうとは思ったものの、川原崎花店は子ども連れで訪れる女性が多いので、とても特定することはできなかった。

「叶恵とは小学校からの親友なんですよ。彼女の旦那さんが優秀なひとでね。地元の大手企業で働いていたのが今年になって東京支部に異動になったんです」

「そうなんですか」としかミドリは言い様がない。親友の個人情報を見も知らぬ相手に話すのはどうかと思いますよとは意見できない。

「朝七時にコナンくんの空港から飛行機に乗ってきて」羽田には八時過ぎに到着、モノレールと電車を乗り継ぎ、いましがた鯨沼駅に辿り着いたのだという。「いまから叶恵ん家へ遊びにいくんで、花を買っていこうと思って、ここに寄ったんです。ブーケをつくってくれたひとならば心強いわ。いっしょに花を選んでくださらない? あ、でもこれ、完成させてからでもいいんですよ」

「いえ、だいじょうぶです」とミドリは作業台をでた。「どんな花がいいでしょう?」

「そうねぇ。お祝いのではないんで、カジュアルな感じなのでお願いできない? あんまり気負ったのを持っていくと、むこうも困るだろうし。そうそう、叶恵にはこの春、小学生になった娘さんがいて、その子もよろこびそうな、愛らしいのがいいかしら」

 相変わらず具体性を欠いた注文ではある。

「愛らしさで選ぶとしたら、こちらの花なんていかがですか」

「あら、かわいい。コデマリね」

 真っ白な小さな花が二十ほどギュッと丸く集まり、しなった枝に連なって咲いている。

「それとこちらも」

 コデマリと同様、小さな花が集まっていても丸くはなく長さ十数センチの筒状で、花のカタチもちがう。コデマリは花弁が五枚、こちらは四枚だ。ライラックである。この花の色が由来で、薄紫色をライラックと呼ぶことがある。日本名も紫丁香花むらさきはしどいと紫がついている。だが紫以外にも白やピンク、赤もあり、店にはどれも取り揃えていた。

 ミドリはライラックと言えばクロード・モネの絵を思いだす。彼の描いた花で、もっとも有名なのは睡蓮だろう。なにせ五十代から晩年となる八十代まで描きつづけ、その数は二百以上にのぼるらしい。ライラックを描いたのは三十代前半だ。おなじ場所のおなじライラックの木々で、晴れの日と曇りの日の二バージョンあった。いまは晴れの日をモスクワ、曇りの日をパリ、べつべつの美術館が所蔵している。晴れの日のほうだけが数年前、東京都美術館に展示され、ミドリは観にいっていた。

「やっぱ、ピンクがいいかしらねぇ。叶恵の娘さん、ピンクが好きで、ランドセルの色もピンクにしたって言ってたし。いいわよね、いまの子は。ランドセルの色が選べて。私の頃は男の子は黒、女の子は赤って決まっていたからなぁ」

「私もピンクのを背負ってました」

「え、そうなの? ごめんなさい、あなた、おいくつ?」

「今年で二十三歳になります」

「だったら十数年も前からランドセルの色は選べてたの? 最近の流行だと思ってた。なんかショック」

 貝塚さんはキレイに整えた眉をへの字にして、そのあいだに皺を寄せていた。どうやらほんとにショックを受けたようだった。

 デンマークは世界一のサスティナブル先進国でね。首都のコペンハーゲンではふたりにひとりは自転車通いなんだって。ミドリちゃん、知ってた?

 李多に訊かれ、ミドリは首を横に振った。

 先月末、そんなデンマークの自転車を李多が購入したときである。ふつうの自転車ではない。ハンドルの前に車輪がふたつ横並びにあって、そのあいだにあるスペースに箱を置き、荷物を載せることができるというカーゴバイクと呼ばれる代物だった。ただしデンマークから個人輸入したのではない。ネットのフリマサービスで、鯨沼の隣町のひとから買い求めた中古品だった。なんでも以前の持ち主はこのカーゴバイクで、移動式のコーヒー販売をしていたそうだ。

 これだったら免許がないミドリちゃんでも、近所へ配達にいけるでしょ?

 まさかデンマークの話が、そこに繋がるとは思ってもみなかったので、ミドリは少なからず驚いた。今朝、李多にむかって、配達ってアレでですかと言ったアレとはコレのことなのだ。

 川原崎花店の近所で花を配達する先は、飲屋街のスナックやバーが主だった。店に飾る花をお届けするのだ。飲屋街ぜんたいはそれほど広くはなく、五十軒ほどの飲食店がギュッと詰まっているため、道は路地と呼ぶのがピッタリなほど細くて狭かった。当然、全面車両通行禁止で、ラヴィアンローズだと四方の出入口に停めて、店まで歩いて運ばねばならず、いささか面倒ではあった。

 なのでこれまでは川原崎花店のママチャリで配達する場合も珍しくなく、ミドリも月に何度かいったことがあった。それで事足りていたのだ。にもかかわらず李多はデンマークのカーゴバイクを購入した。パートの光代さんに聞いた話だと、中古でも二十万円は下らない金額だったらしい。けっこうな高額だ。しかし李多が欲しくなる気持ちが、ミドリにはわからないでもなかった。見た目がしゃれててかっこいいのだ。

 でも乗るとなるとなぁ。

 正直、恥ずかしかった。

 ミドリがカーゴバイクで配達にいくのは、今日で五回目になる。これまでの届け先は飲屋街のスナックやバーだった。たいがい店が開く前、ママやマスターなどが出勤する夕方なので、人影はなきに等しかった。

 先週はイタリア料理店、〈みふね〉へ配達にいった。東京の西のはずれの町、鯨沼にありながらも、最高級のイタリア料理を提供すると評判のレストランだ。廃墟同然の洋館をきれいに改装し、オープンして七、八年程度にもかかわらず、三ヶ月前に予約が取れればラッキーという人気ぶりだ。当然、ミドリは生憎と食べたことは一度もない。この先もあるかどうか疑わしい。なにしろランチでさえ一日のバイト代が吹き飛ぶほどの値段なのだ。それだけ高級なのだ。

〈みふね〉にはエントランスホールとフロアとの間仕切りの棚に、比較的大きめの生け花が飾ってある。その花材は川原崎花店から購入したもので、月に二回、十重が生け込みにいく。そして先週はじめてラヴィアンローズの代わりに、ミドリがカーゴバイクで花材を運んだ。店内に入ったのも、そのときがはじめてだった。〈みふね〉までそこそこの距離だが、閑静な住宅街なので、人通りは少ないうえに道も広かったので走りやすかった。

 今日はちがう。ミドリがいま、カーゴバイクを漕いで走っているのは鯨沼商店街なのだ。

 ピンク色のライラックをお買い上げいただいた鳥取の貝塚さんと入れ替わりに、李多が戻ってきた。そしてこのスタンディングブーケを完成させると、ガレージからカーゴバイクを店前までだしてきて、二輪のあいだの箱に載せて出発した。

 キンコンカンコン。

 鐘の音が聞こえてきた。商店街の入口にある門の真ん中に、鳩時計ならぬ鯨時計が備え付けられており、日中は一時間毎にクジラの背中からシオを吹きだし鐘を鳴らす。いまのは正午のだ。

 このご時世で、駅前には大手スーパーがあるのにもかかわらず、鯨沼商店街は地元民に支えられ、平日の昼間でも行き交うひとは多く賑わっていた。そんな中をカーゴバイクで走っていくのは恥ずかしいし、勇気がいる行動でもあった。

 しかも二輪のあいだの箱にはスタンディングブーケが載せてある。依頼主のイラストどおり、赤いバラにピンクのガーベラ、オレンジのトルコキキョウ、黄色のアルストロメリアと色とりどりで、春めいた華やかなものに仕上がり、その出来にミドリも満足はしている。しかしなにせ目を引く。遠慮なくスマホをむけてくるひともいた。うっかりひとにぶつかったところを動画で撮られ、SNSにでもアップされようものなら大事おおごとになりかねない。ネガティブ思考を頭の中で巡らせながら、慎重にペダルを漕ぎつづけていく。

 このあたりの桜は花をすべて散らしおえ、初夏を思わせる陽気で、ミドリは全身から汗が滲みでているのを感じていた。

 美大を卒業して十日近くが経つ。一応、社会人ではある。だがまるで実感がない。いまだに美大のそばのマンションに暮らして、アトリエにほぼ毎日通い、川原崎花店でバイトをつづけており、変わったことと言えば、大学に通わなくてよくなっただけに過ぎないからだろう。

 こんなことでいいのかな。

 いいはずがない。今後について考えねばならないのに、できないままだった。卒業制作でF一〇〇号キャンバスに馬淵千尋を描きおえたあと、魂が抜けたような状態がつづき、しばらく筆を握っていなかった。

 この先、長くて辛い茨の道を歩まねばならない。きみにはその覚悟がありますか。

 卒展の公開講評会で、特別客員教授の洋画家に言われた言葉だ。絵を描こうとすると、ふくろうに似た彼の顔が白いキャンバスに浮かびあがり、大きな瞳で瞬きせずにミドリを凝視してくることもあった。

 あれ?

 ミドリはカーゴバイクを停めた。気づいたら商店街の端っこにあるはんこ屋の前にいたのだ。考え事をしているうちに、目的地を通り過ぎてしまったらしい。

 いかんいかん。

 ミドリは慌てて引き返す。

 明日にオープンを控えた素直書店を見た途端、ミドリは海外の本屋さんみたいだなと思った。なぜそう思ったのか、カーゴバイクを下りてすぐに気づいた。店先にショーウインドウがあるからだ。こういうつくりの本屋さんを洋画で何度か見たことがあり、自然と刷りこまれていたのだろう。

 そのショーウインドウに、本を並べている男性がいた。年齢はたぶん二十代前半で、寝癖なのかパーマなのか、さだかではないモジャモジャ頭で、銀縁眼鏡をかけている。彼はミドリに気づくと、その場に本を置いて店からでてくるなり、こう言った。

「そこに自転車、置かないでもらえますか」

 は?

「いえ、あの、ちがうんです」

「なにがちがうんです? 実際、そうやって自転車を置いているじゃないですか」

 なんだ、コイツ。

「どうした、ヒガシサンジョウくん」

 店の奥から男性があらわれた。漫画ならば、その足音にノシノシと効果音がつきそうな、大柄でイカツいオジサンだ。

「このひとが店の前に自転車を停めたんで注意をしたんですが、どけてくれなくて」

「用事が済めばすぐにどけます」

「用事ってどんな」モジャモジャ頭が問い詰めてくる。

「開店祝いの花をお届けにあがりました」

 怒りを抑えつつ、ミドリは箱からスタンディングブーケを取りだす。

「それはそれはどうも」

 見た目とは裏腹にオジサンはとても腰が低く、ペコペコ頭を下げながら、ブーケを受け取った。

「こりゃまたえらく華やかでキレイだな。置いてあるだけで、店が明るくなりそうだ。うれしいなぁ。これは鉢じゃないですよね」

「はい。保水ゼリーを入れた使い捨てのカップに生けてあるので、とくに手入れをしなくても一週間は持ちます」

「そうなんだ。もしかして駅前の花屋さん?」

「よくおわかりで」

「その自転車があの前に停まっているのを、何回かお見かけしてましてね。わざわざ届けてくれて申し訳ない。ありがとう」

「とんでもありません。これが仕事ですので」

「それならそうと、さっさと言えばよかったのに」

 独り言にしては大きな声で、モジャモジャ頭が言った。口を尖らせてもいる。

 おまえはガキんちょか。

「ヒガシサンジョウくんっ。そうやってだれかれとなく、つっかかるのはよくないと注意しただろ」

 やぁい、怒られてやんの。

「すみません」口では詫びた。しかしモジャモジャ頭は納得がいかないという顔つきだった。

 カーゴバイクをガレージに入れたあと、バックヤードから店に顔をだし、素直書店への配達をしてきたことを李多に報告した。遅番の雷がすでにいて、接客をしている。

「ご苦労様」作業台で花束をつくる手を休めずに、李多が言った。「そんじゃ昼休みに入っていいよ」

「はいっ」

 バックヤードを引き返し、階段を一段飛ばしで駆けあがる。すると二階の囲碁倶楽部あたりから、カレーの匂いが漂ってきた。家庭の食卓にあがるのとはちがう、スパイシーな香りだ。それに反応して、お腹が鳴ってしまう。

 三階に着いてドアを開くと君名紀久子がいた。ガスコンロの前に立ち、寸胴鍋の中をおたまでかき混ぜている。カレーの匂いはそこから漂っていたのだ。

「ミドリちゃん、グッドタイミング。いまちょうどカレーができたところ」

「ありがとうございます」思わず礼を言ってしまう。それだけお腹が減っていたのだ。

「ご飯は自分でよそって」

 カレーは、以前ここでアルバイトをしていた芳賀はがの得意料理だった。彼がやめるときにカレーのスパイスと手書きのレシピを、こう言って紀久子に譲ったそうだ。

 君名さんがだれよりもウマそうに食べてたからさ。好きこそ物の上手なれって言うでしょ?

 たしかに紀久子はカレーをウマそうに食べる。ときどき食べ過ぎて、配達の最中などに気持ちが悪くなったり、脇腹が痛くなったりしているらしい。そもそも食いしん坊で、なにを食べているときもウマそうではあった。

 ご飯をよそった皿を渡すと、紀久子はカレーのルーをたっぷりかけた。それを見るだけで生唾を飲みこんでしまう。食卓に着くと手を合わせて「いただきます」と言い、すぐさま食べはじめた。

「どう?」自分のぶんをテーブルに置き、真向かいに座った紀久子が訊ねてくる。

「つくるごとにおいしくなっています」

「ミドリちゃんが言うからにはほんとだなぁ」と言って、紀久子も一口頬張る。「うん。我ながらいい出来だ。でも芳賀さんのに比べたらまだまだだな。ミドリちゃんって彼のカレー、食べたことあるっけ?」

「ありますよ」

 ミドリは芳賀の後釜だが、ひと月ほど重なった時期のあいだに、芳賀のカレーを三回食べていた。芳賀は兄の友達だったので、それ以前にも、千葉の自宅を訪れた芳賀が、手作りのカレーを持ってきたことが何度かあった。紀久子のカレーは悪くない。じゅうぶん及第点だ。しかし言われてみれば芳賀のカレーのほうが味に奥行きがあるように思える。

「屋上から見てたんだけど、ミドリちゃん、カーゴバイクでどこに配達いってたの? 商店街のほうへむかってったよね」

「なんで屋上にいたんです?」

「天気がいいからに決まっているじゃない」

 当然でしょと言わんばかりの口調だが、あまり答えになっていない。

「商店街に本屋さんができるの、知ってます?」

「ボクシングジムがあるビルの一階でしょ。元はネイルサロンだったとこ」

「そうです。明日がオープンで、その開店祝いの花をお届けにいってきました」

「中、入った?」

「いえ、表で花を渡しただけなんで」

「ショーウインドウがあって、オシャレな感じだからさ。オープンしたらいこうって楽しみにしてたんだよね。そっか、明日なんだ。それで思いだした。ミドリちゃん、〈聖ゲオルギオスと竜〉ってわかる?」

「わかりますよ」なんで本屋さんの話をしてて、その話になるのだと面食らったものの、ミドリはうなずいた。「必修科目の西洋美術史概論で習いました」

「私もだよ」

「デザイン科でも、その授業あったんですか」

「あった。先生はヒゲなしダリじゃなかった?」

「ああ、そうです」

 西洋美術史概論の先生は二十世紀を代表する芸術家、サルバドール・ダリに容貌が似ていたのだ。ただしダリのトレードマークであるひげは生やしておらず、このあだ名がついていた。

 ゲオルギオスは古代ローマの実在した人物だ。ときのローマ皇帝がキリスト教徒をすべて逮捕、棄教を強要した。ゲオルギオスはこれは拒否、死を選んだそうだ。このことからキリスト教の聖人のひとりとして知られている。そんな彼には竜を退治した伝説がある。悪い竜が町を荒らすのを防ぐために、羊だけでなく人間を毎日、生け贄として捧げていた。その順番が王様の娘にまわってきたとき、偶然あらわれたゲオルギオスが竜を退治し、王女を助け、町は救われる。

「退治した竜の血からバラが咲き乱れて、ゲオルギオスはその中でいちばん美しいバラを王女様に贈り、ふたりは結婚して末永く幸せに暮らしました、めでたしめでたしっておわるんでしたよね」

「この伝説の結末はいくつかバージョンがあって、中でもいまのがいちばんお伽噺っぽいロマンチックなヤツだね」紀久子はニヤつきながら指摘する。「ミドリちゃんってクールな割には案外、そういうのが好きなんだ」

 んぐぐ。

 ムカついたものの返す言葉がない。実際、覚えているのはそのハッピーエンドだけだったからだ。

〈聖ゲオルギオスと竜〉をモチーフとした絵画が十三世紀後半から描かれるようになり、ルネサンス期以降の画家の多くが手がけていた。馬に乗ったゲオルギオスが竜に挑む姿を王女様が見守る場面を描くのだ。授業ではヒゲなしダリがチョイスした絵画十数枚を並べたテキストが配られたが、おなじモチーフでもこうまでちがうのかと驚いたのはよく覚えている。時代によっての描き方の相違やおなじ画家の他の絵画との比較などといった、学術的なことを勉強するだけには留まらず、いちばん怖そうな竜やいちばんイケメンなゲオルギオスはどの絵だとみんなで討論するのも面白かった。

「それがなにか?」

「あれ、描いてくんない?」

「はい?」

 皿に残っていたカレーや米粒をかき集め、最後の一口を乗っけたスプーンを、ミドリは口の手前で止めた。

「油絵じゃなくて、B5サイズ程度のイラストを描いてほしいんだ」

「なにに使うつもりですか」

 ミドリは当然の質問を口にする。

「今月の二十三日がサン・ジョルディの日といって、本をプレゼントする日なんだけどさ。その日に絡めたフラワーアレンジメントを考えたんでつくってほしいって、昨日の夜、李多さんに言われたんだ」

 質問の答えになっていない。ミドリはムッとするものの、スプーンに乗った最後の一口を食べてから「どんなアレンジメントです?」と訊ねた。

「フラワーボックスってあるでしょ」

 プレゼント用のおしゃれな箱の底にセロハンを敷き、その上に水を含ませた吸水スポンジを置いて、茎を短く切った花を隙間なく挿していく。これがフラワーボックスだ。川原崎花店では多少手間暇がかかるため、基本は前日までの予約限定で、誕生日や結婚記念日のお祝いが多い。

「あの箱を本のカタチにしてみたらどうだろうって。ハードカバーの洋書っぽいのが、李多さんのイメージなんだ。ネットで調べてみたらそういう箱って、市販でいくらでもあるんだ。でもそれをそのまんま使うのも芸がないでしょ。そこで川原崎花店オリジナルのカバーをつくって、貼り付けてみたらどうかって考えててね。フラワーボックスならぬフラワーブックってわけ」

 話をしつつも紀久子はカレーを瞬く間に食べおえ、空になった皿を持って立ちあがり、おかわりをよそって戻ってきた。一杯目よりカレーもご飯も多い。いつも食べ過ぎて、ヒイヒイ言っているのに懲りないというか、学習能力がないひとだ。

「その表紙をミドリちゃんの絵で飾れたらなあって」

 ようやくミドリの質問の答えに辿り着いた。しかしまだ疑問が残る。

「でもどうして聖ゲオルギオスと竜なんですか」

「やだな、ミドリちゃん。ヒゲなしダリの授業、ちゃんと聞いてた?」

「無遅刻無欠席のAでした」

 ついムキになって言い返してしまう。しかしそれがどうしたという顔つきで、紀久子はカレーを頬張りつつ、こう言った。

「聖ゲオルギオスはカタルーニャ語で言うと、サン・ジョルディだってヒゲなしダリが言ってたの忘れちゃった?」

 言われた途端、思いだした。

「そう言えば四月二十三日って、ゲオルギオスの命日じゃありませんでしたっけ?」

「そうそう。覚えているじゃん」

「でもどうして本の日かまでは」

「そのへんのことはヒゲなしダリも話していなかったと思うなぁ。李多さんに言われて、いまさっきネットで調べてわかったんだけどね。聖ゲオルギオスことサン・ジョルディはカタルーニャでは守護聖人として敬われていて、命日の四月二十三日は祝日でさ。竜の血でできたと言われる赤いバラを男女で贈りあっていたらしいの。それが一九二〇年代頃から、その日に贈り物として買った本にバラを添えるようになったのがはじまりみたい」

 そこまで話すと、紀久子は二杯目のカレーを食べおえ、空になった皿を持って、腰を浮かせた。三杯目を食べるつもりだ。またお腹が痛くなりますよと言いかけたとき、テーブルの上で、紀久子のスマホが鳴った。

「どうしたがね、ミズホちゃん。うん、だいじょうぶ。ミドリちゃんと昼ご飯食べてただけやさかい。うん、うん」

 椅子にふたたび座り、スマホを耳にあてるなり、紀久子は国の訛りで話しだした。ミズホちゃんとは彼女の高校時代からの親友、片岡瑞穂かたおかみずほにちがいない。地元ではトップクラスの優良企業だという練り物製品の会社、一八十いわとに勤めている。二、三ヶ月に一回は東京に出張で訪れ、その際は必ず紀久子に会う。そこまで知っているのは本人に聞いたからだ。

 瑞穂は川原崎花店にくることもあって、紀久子の誘いで、三人で〈つれなのふりや〉へいき、カラオケをしたこともあって、きのこ帝国を唄う紀久子と瑞穂に、ミドリがゆらゆら帝国を唄って対抗する、帝国歌合戦を繰り広げ、大いに盛りあがった。

 国の訛りをしゃべる紀久子の表情はとても和やかだ。長年の親友と話すことで、素に戻れるからだろう。そしてミドリは今朝訪れた鳥取の貝塚さんを思いだす。彼女もいま頃は越澤叶恵と、こんなふうに国の訛りでおしゃべりしているのだろうか。

 敵だ。

 いや、いくらなんでもそれは大袈裟すぎる。だが宇田川が店を訪れた瞬間、ミドリはそんな必要はまったくないのに身構えてしまう。

 午後三時半過ぎ、李多は遅めの昼食を摂るため、三階にいる。それまでけっこうな数の客が訪れ立てこんでいたのが、一気に引いていき、いまは雷とふたり、作業台で廃棄寸前の花を使ったSDGsブーケをつくっているところだった。

 宇田川と言えば寿言高校女子野球部の投手、西のカレシである。推しの入鹿女子高校野球部を準々決勝戦で負かした、ミドリにとってにっくき相手だ。ところが目の前で信じ難いことが起きた。

「よぉ」

 宇田川に気づくなり、雷が親しげに声をかけたのだ。

「こんちは、雷先輩」

「先輩はよせよ」

「でも一学年上だから先輩でしょ」

「そりゃそうだけど。で、なんの用?」

「ウチのジムに今夜、デビュー戦の女性がいるんです。そのひとに渡す花束を買いにきました」

「あのさ」紀久子は作業の手を止め、ふたりに訊ねる。「きみたち、いつからそこまでフレンドリーになった?」

「昨日からです」雷がすんなり答える。

「昨日になにがあった?」

「高校女子硬式野球の春の大会の決勝戦を見にいったんです。深作ふかさくさん、知ってますよね。宇田川くんのカノジョが、優勝した寿言高校の投手だってこと」

「西さんでしょ。それは知ってる」宇田川が応援にいくのはわかる。しかしだ。「どうして雷くんも?」

「それはあの」雷は少なからず動揺していた。

「千尋に誘われたんでしょ、雷先輩」ニヤつきながら宇田川が言う。

「誘われたというか、LINEでやりとりしてたら、自然とそういう流れになって」

「きみ、千尋ちゃんとLINE交換してたんだ」

「あ、はい」と返事をしつつ、雷の目は泳いでいる。

 やるときはやるんだね、きみは。

「それじゃあ、千尋ちゃんも東京ドームに?」

「彼女ひとりじゃなくて、入鹿女子高校の野球部は全員揃って、寿言高校を応援してました」雷は言い訳をするように言う。

「自分達を負かしたのに?」とミドリ。

「だからこそですよ」宇田川がしたり顔で言った。「自分達を負かしたチームには勝ってもらいたいもんです。あんだけ強いチームならば、負けても悔いはないと思うだろうし」

 そういうものかな。

 ミドリは自分に置き換えて考えてみた。

 通っていた美大では各学科ごと、卒業制作に最優秀賞と優秀賞が授けられる。ミドリはF一〇〇号に描いた千尋の絵で優秀賞だった。最優秀賞はおなじ平屋のアトリエをシェアする爲田だ。彼は年内には個展を開く予定で、できるだけ多くの新作を展示したいと、卒展直後から取りかかり、ミドリがアトリエにいついっても、自分の部屋に籠っていた。洩れ聞こえる音から、絵を描いているのは間違いない。偉い。感心もする。だけど応援する気にはなれなかった。

 それだけ私の心が狭いってことなのか。

 そんな自分にミドリは少し落ちこんでしまう。

「でも馬淵さんの場合、西さんが親友だからっていうのが大きいんじゃないかな」雷が言った。「声を張りあげて応援しつづけて、最終回、ツーアウト満塁で逆転のピンチだったのに、西さんが最後の最後、ストレートで三振を取ったときは馬淵さん、うれしさのあまり、泣いていたし」

「隣にいた雷先輩に抱きついてもいましたよね」

 宇田川が冷やかすように言う。つまり千尋と雷は並んで座っていたのか。ミドリが思った以上に、ふたりの仲は縮まっているようだ。

「深作さん、コイツの注文の花束、俺がつくりますね」

 作業台からそそくさとでると、雷は狭い店内を一回りして、つぎつぎと花を抜き取っていく。コイツ呼ばわりされた宇田川は反省気味の表情になっている。調子に乗って、余計なことを言い過ぎたかなとでも思っているのだろう。

 ミドリがSDGsブーケのつづきにとりかかろうとしたときだ。飛びこむようにして、店に入ってきた女性がいた。鳥取の貝塚さんだった。えらい勢いで、ミドリのほうに迫ってくる。

「ちょっといい?」

「は、はい」朝の花束になにか問題があったのかと思いきや、そうではなかった。

「ここは何時まで?」

「四時までですが」

「そのあとなにか用があります?」

「いえ、べつに」すっかり気圧され、ミドリは正直に答えてしまう。

「いまから私、あなたに妙なお願いをするけど、変に思わないで、できれば引き受けてほしいんです。いい?」

「はい」いや、全然よくない。

「〈みふね〉というイタリア料理店、ご存じ?」

「知ってます」

「午後五時にいっしょにいってくださらない?」

 なるほど、妙なお願いだ。

「どうして私と?」

「叶恵とふたりでいこうと予約したのに、彼女が駄目んなっちゃったんです。食事予約のキャンセルは前日までで、当日だと料理代を全額払わなければいけなくて、それだともったいないでしょう? この町で知りあいはあなたひとりだけなので」

 知りあいになった覚えはない。そもそもあなたは私の名前さえ知らないではないか。

 そう思っていると、貝塚さんもそれに気づいたのか、名前を訊ねてきた。

「深作です」

「深作さん、お願い。助けると思って引き受けて。私の奢りだから」

「そんな」

「遠慮しないで。もともと叶恵に奢るつもりだったんです。だから、ね?」

 知らないひとについていってはいけません。

 小さい頃、両親によく注意されたものだ。その教えを守り、ミドリは町中でナンパされたときは、きっちり断ってきた。両手で数える程度しかなかったにせよだ。

 貝塚さんとは今朝、会ったばかりで、会話を交わしたのは十分程度、鳥取に住んでいて、友達の叶恵さんが鯨沼在住の二点しか知らない。九割九分九厘、知らないひとだ。

 欲しいものをあげるからと言われても駄目だからね。

 両親にはこうも言われた。にもかかわらず〈みふね〉で奢ってくれるという話に心が動き、貝塚さんの誘いに応じてしまったのである。それとはべつに、貝塚さんと叶恵さんのあいだになにがあったのかが知りたい気持ちも強かった。

 念のため、李多と紀久子にはこの話をした。貝塚さんにはスマホの番号を訊いておいたので、どちらか一方にでも止められたら、断るつもりだったのだ。ところがふたりは反対するどころか、こんな機会は滅多にない、いったほうがいい、何事も経験だと大いに勧めてきた。

 長袖シャツにチノパンじゃマズくない? と紀久子が言いだし、だったら私の服を貸してあげると李多が自宅の奥からだしてきたのは、淡い黄色のワンピースだった。ちょうどミドリくらいの年の頃に着ていたものだという。身につけると、ひらひらと波打つ裾が膝くらいまでしかなかった。さらに李多には黒いショートブーツまで借りた。

 いいよ、いいよ。似合ってる。

 なんならその服、あげてもいいわ。

 ミドリをよそに、ふたりは大はしゃぎだった。面白がっているとしか思えなかったが、ともかくその恰好で、〈みふね〉にむかった。約束の時間の五分前に辿り着くと貝塚さんはすでにいた。会うなりミドリの服装を歯が浮くくらい褒めてくれた。

「いつもはそういうガーリーなファッションなの?」「ちがいます」ミドリは反射的に否定する。「これは店長が若い頃に着ていたのを借りてきまして」

「さすが花屋さんの店長ね。センスがいいわ」

 貝塚さんの口調はぐっとくだけている。そのほうがミドリとしても気が楽でいい。

 なんにせよそのミニワンピを借りてきてよかった。〈みふね〉は二階建てで一階はオープン席なのだが、貝塚さんとミドリは二階の個室へ通されたのである。廃墟になる前は、イギリス人貿易商の家族が住んでいたそうで、リニューアルしながらも当時の面影を残した造りだった。天井にはシャンデリア、窓はステンドグラス、壁際には大理石の暖炉がある。その上に飾ってある絵を見て、ミドリはちょっと驚いた。なんとクロード・モネが描いた晴れの日のライラックだったのだ。奇跡とまでいかずとも、よくできた偶然と言っていい。もちろん本物はロシアの美術館にあるはずなので複製だ。

 背もたれにもクッションが付いた椅子に腰かけたはいいが、なんとも落ち着かない。猫脚のテーブルを挟んで、正面に座る貝塚さんもおなじらしい。頬を強張らせ、はっきり口にだしてこう言った。

「こんなに立派なところだとは思ってもみなかったわ。緊張してきちゃった」

「私もです」

 ミドリが同意すると、お互い顔を見合わせ笑う。

 そこにウェイターがあらわれ、食前酒とオリーブオイルを塗って焼いたバゲットを運んできた。食前酒はどうやら柑橘系の果汁で割ったカクテルらしい。らしいというのはウェイターが説明したものの、いまいちよくわからなかったのだ。

「ほんと、無理言ってごめんなさい。食事がくる前に改めて自己紹介をさせていただくわね」そう言ってから、貝塚さんは姿勢を正すと、背筋を伸ばし、鳩尾に両手をそっとあてがった。「鳥取らくだテレビアナウンサー、貝塚芙美子ふみこです。趣味は食べ歩き、特技はバク転、休日の過ごし方は夏はウインドサーフィン、冬はスノーボードです」

「貝塚さん、アナウンサーなんですか」

「ええ。これでも鳥取ではそこそこの有名人で、二十代の頃は県内で五年連続お嫁さんにしたい女性ベストワンだったんだから。いまだ独身だけどね。さあ、つぎは深作さんの番」

 自己紹介は苦手だ。しかし貝塚さんは身を乗りだして待ち望んでいる。こうなったらやむを得ない。

「川原崎花店でアルバイトをしています深作ミドリです。趣味も特技も絵を描くことで、美大の油絵学科に四年間通い、休日も絵を描いて過ごしていました。ただし先月、美大を卒業したばかりなのですが、なにを描いていいのかわからなくなり、いまは絵を描いていません」

 だれにも言えずにいた余計なことまで、うっかり口走ってしまう。

「芸術家ゆえの苦しみをいままさに、味わっているところなのね」

 貝塚さんは神妙な顔つきで、同情するように言い、コクコクと頷いていた。その仕草がアナウンサーっぽいなとミドリは思う。

「芸術家だなんてそんな。就職できなかったんで、大学には進路未定者と登録されてますし、世間からすればただのプータローに過ぎません」

「でもあなたはひとを喜ばせる素敵なブーケをつくることができる」貝塚さんは自明の理とばかりに言い切る。「そこに芸術家としての片鱗がすでにあらわれていると、私は思うわ」

 モノは言い様だ。でも褒められれば嫌な気はしない。

「ありがとうございます」とミドリは礼を言った。

「それがですね。千尋ちゃんだけじゃなくて、入鹿女子高校野球部全員が、自分達を負かした寿言高校女子野球部の応援をするために、東京ドームにいってたんですよ。しかも寿言高校が勝利を決めた瞬間、千尋ちゃんはうれしさのあまり泣いていたって」

 なんで私はこんな話をしているのだろう。

 ミドリはそう思わないでもなかった。貝塚さんが頼んだ赤ワインを彼女と呑み、つぎつぎ運ばれてくる食事を堪能しているあいだ、いつしかミドリは自分について語っていた。就職活動をあきらめ、卒業制作に専念しようとしたが題材が見つからず、悩んだ末に千尋を描いたという話の流れで、F100号のその絵の写真を見せもした。おなじ平屋のアトリエをシェアする二枚目気取りのイケすかない野郎が最優秀賞で、私が優秀賞なのは当然の結果だとは思うもののやはり悔しい、梟に似た有名な画家にはきみには才能がないが、大器晩成型でこの先は茨の道だと言われたと不平不満を洩らし、つぎの作品の題材が見つからないともボヤいた。今月の二十三日がサン・ジョルディの日で、フラワーブックをつくるため、その表紙に〈聖ゲオルギオスと竜〉を描いてほしいと、紀久子に頼まれた話だけでなく、サン・ジョルディが聖ゲオルギオスであること、竜退治の顛末まで説明した。話はふたたび千尋に戻り、先月末、入鹿女子高校野球部を応援するため、埼玉に一週間泊まりがけでいったことから、昨日の東京ドームでおこなわれた決勝戦の話になったのだ。

「寿言高校には千尋ちゃんの親友がいるって、私、言いました?」

「聞いたわよ。中学の頃はバッテリーを組んでいた西さんでしょ」

「そうです。昨日の友は今日の敵だったけど、やっぱり友だったわけです」

「素敵なふたりね」

「私もそう思います」

 ミドリには友達がいない。ずっと絵を描きつづけてきたからだ。後悔しないものの、寂しくはある。

「じつを言うとね」少しの沈黙のあと、貝塚さんは口を開いた。「私、十二年務めてきた帯番組のキャスターを先月末に下ろされて、けっこう落ちこんでいたんだ。身体の調子を崩したくらい」

 突然の告白にミドリは面食らう。どう応じたらいいかわからず、なにも言えなかった。

「地元だとどこでだれが聞いているかわからないんで、東京まででてきて、叶恵に会社の悪口や愚痴を話すつもりでいたのよ。だけどあの子、私の顔を見るなり、大粒の涙を流して、わんわん泣きだしたの。きてくれてありがとう、うれしいって抱きついてもきたわ。気丈夫で弱音なんか吐いたことがない子なのに、びっくりしちゃった。でもよくよく考えたら、知り合いがひとりもいない東京にでてきて、旦那さんは会社で、娘さんの面倒を見なきゃいけない、あの子もいろいろ悩みを抱えこんで辛いのは当然だったんだよね。それに気づかなかった自分が恥ずかしくてたまらなかった」

 貝塚さんは小さなため息をつく。憂いに満ちたその表情を見て、なにか慰めの言葉をかけてあげたいとは思う。だが進路未定者のプータローにはあまりに荷が重すぎる。

「五分は泣いていたけど、あとはケロッとして、いつもの叶恵だった。しばらくして娘さんも帰ってきて、三人でゲームとかして遊んでいたら、旦那さんから連絡があってね。ほんとは早引きして、夕方には帰ってくるはずだったのよ。ところがトラブルが生じてクライアントのところへいかないとマズい、帰りが夕方どころか深夜になるって」

「それで私が代打に?」

「あなたを勧めたのは叶恵だったのよ」

「な、なんでですか」

「素敵なブーケをつくってくれたからに決まっているじゃない。お礼を言おうと思って、あの花屋さんに何度か足を運んではいるものの、なかなか言いだせないでいたんだって」

「あ、あの、私でよければ会社の悪口や愚痴をお話しいただいてもかまいませんが」

「やあね、いいわよ、べつに」貝塚さんは声をあげて笑った。

「だけどすみません。私ばっかしゃべっちゃって」

「とんでもない。どれも面白い話だったし、パワーをもらえたわ」

「パワーですか」

「うん。深作さんって、どんな困難が立ちはだかっても、きちんとむきあって挑もうとする姿勢が素晴らしいわ。私も見倣みならおうと思う」

「見倣うだなんて、とんでもない。いくらなんでも買いかぶりすぎです」

 ミドリの反論を貝塚さんは聞いていなかった。無視したわけではない。彼女の視線は暖炉の上に飾られたモネの絵画に注がれていた。

「あの絵の木って、もしかしてライラック?」

「あ、はい。そうです。印象派の画家、クロード・モネが描いたものです。もちろん複製ですけど」

「さすが美大卒」貝塚さんが冷やかすように言う。「深作さんが選んでくれたライラック、叶恵も娘さんも、とっても喜んでくれたわ」

「よかったです」

 ふたりしてしばらくモネの絵を見つめていた。

 今朝、愛らしさで選ぶとしたらとコデマリとライラックを貝塚さんに薦めた。

 じつは他にも理由がある。

 ふたつの花には共通の花言葉があった。

 友情。

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