1 どんぐり生ハム ──ポインセチア仕立て
十二月の寒い夜、ポストを開けると封印したはずの過去が待ちぶせていた。
写真つきのポストカードは、遠くイギリスからだった。
結婚しました。
イベリコ豚、もう食べましたか?
なつかしい文字に目を見張る。そしてイベリコ豚。まぎれもなく雅輝さんからの葉書だ。
私より五歳年上の二十八歳。明るくて植物が大好きな、かつての恋人だった、あの人。
Merry Christmas の印字の下にはチャペルで寄り添う新郎新婦がたたずんでいる。晴れやかな、それこそ幸せあふれる笑みを浮かべた雅輝さんと、やはりにこやかに笑うイギリス人女性と思われる妻が。
まさか雅輝さんが結婚するなんて。それをわざわざ知らせてくるなんて。
クリスマス・イヴを目前にして、今年最大級のダメージ。胸がつんとした。その、つんとした胸のまま、冷蔵庫のドアへ小鳥の磁石でとめてみた。写真を裏にしたため、呪いの言葉のようなメッセージが見えている。
切れたと思った糸がまたつながろうとしている。蜘蛛の糸のように、か弱そうで強く絡みつく糸が。
造園の仕事に就いていた雅輝さんは去年の初夏、イングリッシュガーデンのガーデナーになるべく渡英した。突然のことだった。
社会人一年目、仕事を覚えるのに精いっぱいの私を置いて、自分の夢を追い求めて。
それでも、いつかまた会えると思っていた。またもとのふたりになれると信じたかった。
気づけばそのまま私たちの関係はフェードアウトしていた。
それが結婚したって? イベリコ豚を食べたかって? 食べられるわけなんかないのに。
近所の公園のベンチに座ってどれくらいが経ったろう。日曜日の午後、北風がごうごう吹いている。出がけに冷蔵庫を見ても、おとといドアに貼ったエアメールは夢ではなかった。
目の前に置かれている、微動だにしない真っ黒のSLをながめる。昼下がりの寒空の下、しかもこの強風の中、ほかに人影はない。
うすぼんやりとした陽が射し、うなる大風が頰に冷たく打ちつけていく。腰まで伸びきった髪がメドゥーサのごとく乱れる。
ひとり暮らしのアパートのほかに、私はここくらいしか休める場所を知らない。会いにいける友人もいない。都心まで電車で四十分ほど、学生時代から住み慣れた街の公園で北風に吹かれている。
よりによってクリスマス時期に、失くした恋を思いだすなんて。
おまけに仕事では、クレーマーともいえる取引先への対応に毎回冷や汗を流し、上司や先輩たちのお小言に反抗せず謝り、処理しても処理しても溜まっていく苦手な事務作業を残業してこなし、殺伐とした社内の雰囲気に押しつぶされつつある。ストレスが生まれるのも当然だ。
私にはなんにもない。自信もない。一寸先は闇、日々を怯えて過ごしている。
マスクの内側で幾度目かのため息をつけば、バタッと音がした。強風の中でもたしかに聞こえた。とっさに前方を見ると、人が倒れている。
駆け寄ると、パンジーの植えられた花壇に横たわるのは、銀髪の若い男性だった。
「あの、どこか痛いんですか? あの、大丈夫ですか?」
目を閉じたまま反応がない。息はしている。そうだ、救急車!
鞄の中のスマートフォンをさがしながら男性を見た。
──どういうことだろう。その人がどんどん小さくなっていく。
そのまま私の薬指ほどのサイズになると、それ以上はもう小さくならなかった。
具合が悪いというよりも、肩の上下からすると熟睡しているようだ。外傷はないらしい。
顔立ちからすると二十歳を過ぎた、私と同じような年ごろ……って、いったい何者!?
どうしよう。このままじゃ凍え死ぬかもしれない。野良猫にやられるかもしれない。あるいはカラスに。
目覚めると、窓の向こうはすでに陽が沈んでいた。冬の夜はいつも思いがけず早くにやってくる。
そうだ、小さな人! アパートに連れ帰りテーブルに寝かせて見張っていたのに、私も眠ってしまった。久しぶりに心地のよい眠りだった。
電気をつけてテーブルの上のひざかけをそうっとめくる。
気持ちよさそうに眠っていた小さな人が、くしゃみをした。起きあがって頭をかきはじめる。身につけているのは細身のブラックジーンズに、グレーのだぼっとしたセーター、黒いコートだった。
彼は大きなあくびをすると身体いっぱいで伸びをした。それからにこりと笑った。
「おはよう、ハニー」
しゃべった、日本語を! しかもハニーって!?
どうしよう、正体不明の生き物を野放しになんてしたくない。しかも、どう見ても男だし。ああ、瓶かなにかに入れておくべきだった。
小さな人はすっくとテーブルの上に立った。ものすごく小さい。
「救ってくれてありがとう。ぐっすり眠って元気百倍!」
にこやかな彼の身体から銀色の光がもれだした。まばゆさに目がくらんで瞬きをした次にはもう、テーブルから下りた彼は私よりも高い背丈になっていた。
身体の線は細く、手足は長い。マッシュウルフというヘアスタイルだろうか。髪の色は暗めのシルバー、眉は黒っぽい。
重たい前髪から見え隠れする黒い瞳は、光の加減で碧みを帯びて見える。その大きなくりくりの目が愛嬌ある眼差しで私を見つめる。
ほがらかで明るく、人なつっこい表情。なんだか子犬に似ている。
甘いマスクとスタイルのよさに見とれていると、彼が微笑んだ。ドキッとして我に返る。
「あ……あの、ちょっと靴! 土足厳禁!」
「ん? ああ、ごめん」
ブーツを脱いで玄関に置いてきた男の足が、冷蔵庫の前で止まった。あのポストカードを裏返して写真をじっと見ている。その横顔ときたら……!
美しいとは世の女性たちではなく、この男のためにある言葉だと思った。
「あ……あなた何者?」
「ナギの使いだよ。人と人との縁えにしを結ぶ、あやかしの親戚みたいなもの」
私に近づき、いたずらっぽく笑ってみせる。そんなの聞いたこともない。
「ナギは植物の一種。葉っぱが丈夫でちぎれにくいから縁が切れないって、縁結びの象徴なんだ。よくご神木として、神社に植えられてるでしょ?」
微笑む彼が憎めない。だけど、得体の知れない相手にはちがいない。
「オレ、感謝してるんだ。きみの役に立ちたい。恩返しがしたいんだ、凪紗のそばで」
私の名前は、冷蔵庫に貼ったあのエアメールで知ったんだろうか。
「ねえ、なんできみは凪紗って名前なの? ナギの木に関係あるの?」
「木? 木には関係ないよ、全然」
「そうなの? あのさ、オレ居場所がないんだ。ここに一緒に住まわせて。お願い!」
「ダメ! それはかなり、かなり困る!」
見ず知らずの奇妙奇天烈な男と、なんで一緒に暮らさなきゃいけないの、図々しい。
「困るって? 彼氏いないし友だちもいない二十三歳、美容室だってもうずっと行ってない、傷みきった髪の寂しい女の子なのに、どうしてひとりで平気なわけ?」
そこまで詳しく知っているとは。これが“ナギの使い”という生き物の力なんだろうか。
そりゃ、ずっと身なりに気を遣えていなかった。恋をするから女はキレイになるのであって浮いた話がない以上、自分磨きなんてやる気も起きない。
「あれっ、言いすぎちゃった? けどさ、ホントのことでしょう?」
男はダイニングに置いてあるテーブル席に腰を下ろすと、足を組んだ。私はその前に立って彼を見下ろす。沈黙だけが私たちのあいだを流れていく。
「もとの世界に帰ったほうがいいんじゃない? あなたが住んでいたところへ」
「やだ」
一蹴される。
「オレはね、人の縁を結ぶ“糸結び”が使命なの。今は疲れてお休み中だけど。ここにたどり着いたのもなにかのご縁でしょ? それを薄情にも見捨てるってわけ?」
すねて口をとがらせる様子は駄々っ子そのものだ。ちょっとかわいくもあるけれど。
「……ごめん。どうかお引き取りください」
「ちょっと待って。凪紗はさ、雅輝との失恋引きずって疲れ切ってるでしょ? 助けてあげたいんだ。オレを助けてくれた恩返し」
上目遣いでこちらを見る。雅輝さんとのことまで知っているとは気味が悪い。
「人のご縁のことなら、読めちゃうんだ。オレ、梛乃菖。菖蒲湯のショウブが誕生花
だからね。ショウって呼んでね、よろしく!」
にっこり笑って首をかしげる仕草が、なんともあざとい。
この人たらし。放っておけないと思わせるなにかを、このショウとやらは持っている。種族の特性なんだろうか、庇護欲をかき立てる。
それに、困っている誰かを無下にできるような、そんな心ない人間ではいたくない。
向こうはこちらに恩があるんだ、危害は加えないだろう。
「わかった、ひと晩だけね。でも条件があるの。この部屋では、さっきみたいに小さくなってて。狭い1DKに背の高いあなたがいたら、さらに狭苦しいから。存在感を消してくれるならいいよ」
「ホントに? なら……はい」
光に包まれた一瞬で、彼は薬指ほどの大きさになった。宙に浮いたあと、テーブルの上に降り立つ。
「ちなみにこっちが本来の大きさ。オレみたいのはね、いるところにはいるんだよ」
「ナギの使いが? 会ったことないけど」
「そりゃ正体明かさないから、わかりっこない。普通にいるよ」
え、いるんだ……口にだしそうになって、あわてた。ここでいちいち驚いていたらショウという男の思うツボだ。だから笑みを浮かべて余裕を演出してみる。
「そのミニサイズいいね。上のロフトなら使っていいよ。ヘンなことしないでね」
「助かるよ、凪紗」
彼はキレイな笑みを浮かべ、ウィンクしてみせた。まったくどこまで軟派な精なんだろう。さっきまで寝こんでいたのに、かなり元気になったようだ。だけど一応、世話を焼いてあげよう。
「喉渇いてない? お腹すいてる?」
「あー、オレもうダメだ、エネルギーチャージしたい!」
「なら、ごはん食べる? でもね、あなたにお料理はつくらないから」
「どうして?」
「手料理って、とっても特別なものだと思う。気を許した誰かにでないと、私にはできない。つくる側にも食べる側にも、信頼関係が必要だからね」
「それって難しく考えすぎじゃない?」
「私はね、愛を持っておいしくつくることは、愛を持っておいしく食べることと同等に尊いって思う」
「食べるのにも愛がいるのか……どうでもいいけどオレ、ごくごく飲みたいんだよね」
そうか、寝起きなんだ。
「お水……っていうより、経口補水液にしとく?」
「は? ちがうし。ポインセチアだよ。オレの主食は花の匂い!」
「ポインセチア?」
「もうすぐクリスマスでしょ? だからポインセチアがいいな。匂いを飲むだけで十分」
ポインセチアの匂いを“飲む”ということがまったく理解できない。あれは観賞するものであってそもそも匂いは飲みものにはならないはずだ。いや、ポインセチアに匂いなんてあっただろうか。しかも主食?
この部屋には植物ひとつ、ドライフラワーさえ置いていない。じゃあ、お花屋さんに行くしかないのか。
「ねえ、もう元気だよね? お金渡すからお花屋さん、ひとりで行けるでしょ?」
ショウはじっと私の目を見ていたかと思うと、左耳の碧いピアスに触れた。それから「どうして行きたくないの、花屋」、そう訊いてきた。
「花は、植物はね、ガーデナーをしている雅輝さんにつながるものなの。雅輝さんを忘れたくて、いつのまにか私は植物を遠ざけるようになったの。もともと草花は好きだったのに、見ないように、避けるように、心がけるようになって……」
「それで花屋も避けてきたのか。だったらさ、なおさら行こう。買わないでもさ、連れてってくれたら、こっそり飲めるから。一緒に行こう?」
澄んだ碧い瞳で首をかしげる。
「……うん」
心の中をさぐるような眼差しに、嫌だとは言えなかった。コートを着てマフラーを巻き、白い使い捨てマスクを装着する。
マフラーに埋もれたショウを右肩に乗せ、駅の近くの三日月通り商店街にやってきた。
「今日は風巻がすごかったけど、さすがにやんだね」
肩の上で小さな声が聞こえた。
「しまき?」
「激しく吹き荒れる風のこと。でもさ“北風は日いっぱい”っていうんだ。夜にはたいてい、こうしてやむんだよね」
言われてみればあの大風がやんでいる。なにやら物知りなナギの使いだ。
歩いていくとお花屋さんが見えてきた。
丁字路の角、クリーム色の三階建てビルの一階。正面に大きなガラス窓のあるお店はお花屋さんで、右側に小さな窓のあるカフェバーを併設している。アパートからは徒歩十分、駅からは徒歩五分ほどの立地だ。
この“Flower Shop Petal”は、ショウを拾ったSL公園の近くにある。オープンしたのは去年の冬で、ペタルとは花びらの意味だという。
気になっていたものの入ったことはない。植物を遠ざけていたせいもあるけれど、おしゃれでキラキラしていて、私にはほど遠いお店だと感じていたから。
だけど今はポインセチアという立派な目的がある。それに、私ひとりじゃない。
シンボルツリーのオリーブやミモザの大きな鉢植えが飾られたお店の前には、電飾の光るクリスマスツリーもたたずんでいる。右側のカフェバーのBGMのジャズとお客さんの笑い声が、少し開いた窓から漏れてくる。
立ち止まり、深呼吸をひとつ。それから咳払いをして肩に声をかける。
「ちゃんと隠れててね」
「任せて」
お花屋さんのドアを開けると、店内にはたくさんの花が鮮やかに咲き誇っていた。台の上にはシクラメンや胡蝶蘭にオンシジウムが並び、壁にはクリスマスリースやスワッグ、鹿のツノのようなビカクシダも飾られていて華やかだ。
「いらっしゃいませ」
男性店員さんが声をかけてくれたものの、花を選んで束ねながら、先客のカップルの応対をしている。
さすがはクリスマスシーズン。クリスマスなんて恋人や夫婦、家族のあいだにある幸せの象徴じゃないか。おまけに店内の植物たちがかなりのエネルギーを放っているように感じ、圧倒されてしまう。
くらくらしながらゆっくりと店内を見回す。お花屋さんとカフェバーには壁がなく、一体化した造りになっている。背の高いウンベラータ──ハート型をした大きな葉が特徴の観葉植物──が等間隔に配置されて、自由に行き来ができるような仕組みだ。
BGMは共通で、どちらにも静かにジャズが流れている。
「いらっしゃいませ、お待たせしました」
奥からでてきた、べつの男性店員さんが迎えてくれた。三十代前半くらいだろうか。パーマがかった黒髪に黒縁メガネをかけた、おしゃれな人。
緊張して顔を見られず、視線を落とす。店員さんは黒いタートルネックセーターに黒い胸当てエプロン姿で、首にかけた緑のストラップの先に“NARUMIYA・成宮”と書かれたネームプレートをぶら下げていた。
「ごゆっくりご覧ください」
「あ、あの、ポ……ポインセチアを、見せてください」
そう言ったところで気がついた。見せてと言ったからには買わないとならなくなってしまった。やっぱりいいです、なんて言えるタイプではない。植物を身近に置きたくなんかないのに。
「こちらにあります。昔は赤が主流でしたけれど、今はピンクや白もよくでますね」
店員の成宮さんが示した台を見る。茂る緑の葉の上は赤やピンクに白と、それぞれが着飾っている。
こうなったらもう買うしかない。それにやっぱり、ただ飲みはよくない気もするから仕方がない。
「ちなみにポインセチアの赤って、花じゃないんですよね」
成宮さんのいきなりの説明に、びっくりした。
「え……は、花じゃないんですか?」
「葉が変形したもので、苞葉っていうんです。花はこの赤の真ん中の、黄色い小さい粒みたいなやつですね」
「ほ、ほうよう……」
その言葉を覚えようと思った。仕事以外のことを覚えようなんて、めったにない。
「それから、花言葉は“祝福”です」
唐突にあの写真が頭に浮かぶ。雅輝さんと新婦のツーショット。
祝福、されたいんだろうか。祝福、できるんだろうか。
結婚だなんて、彼が果てしなく遠くへいってしまったんだと身にしみる。どうして結婚したの。どうして今ごろ連絡なんかを。考えていると涙がにじんでくる。
あわてて洟をすすって、声をかける。
「……あ……あの、赤いのください、このポインセチア」
「ありがとうございます。プレゼントですか?」
「い、いえ自宅用です。あ……あのやっぱりプレゼント用で、すみません」
緊張して早口になってしまう私に、成宮さんは「かしこまりました」と、破顔する。
やんわりとした声にほっとしてお代を渡した。このポインセチアは自分へのプレゼントでもあると思いながら。
ラッピングしてくれるのを見るともなしに見る。三十センチほどの高さのポインセチアの鉢がタオルで拭かれた。
「は……花言葉、お詳しいですね……」
思っていたことが自然と口をついてでた。
「いや、ホントにちょっとだけですよ。でも花言葉って訳し方によってもちがうんですよね。日本独自のもあったりして。だからこのポインセチアにも、ちがった花言葉があるかもしれません」
説明しながらポインセチアの鉢を透明セロハン、そしてシックなこげ茶色のラッピングペーパーで飾りつけていく。
「なーんて言っても、僕としては花言葉にはこだわらないんですけどね。いい意味の花言葉じゃなくても、花はキレイですから」
たしかにそうだ、花がキレイなことに変わりはない。
「あの……お花……お、お好きなんですね」
「はい、好きですねえ」
そのとき、男性のお客さんが隣のカフェバーからお花屋さんに入ってきた。ウンベラータのわきをすり抜けて。
「いらっしゃいませ」
成宮さんが声をかけると、お客さんは「ちょっと見せてください」とおじぎをした。
「ごゆっくり」、そう返した成宮さんはふたたびポインセチアに向きあい、リボンを結ぶ。
「こんなふうにカフェバーの隣に花屋があれば、ふだん花屋に行かない人も花が身近になるかなって。それで知り合いがカフェバーを、僕が花屋を営む、花屋カフェになったんです」
「そ、それじゃあ、こ、こちらの……」
「ええ、花屋のほうの店長です……はい、できました。お待たせしました」
「あ、ありがとうございます」
ポインセチアには深紅のサテンリボンが結ばれている。もうラッピングは終わってしまったけれど、もう少しだけ花に囲まれていたい。
「あ、あの、ちょっと店内、見せていただいても、いいですか?」
「もちろんです、どうぞ」
ぺこりとおじぎをしてから店内をながめると、台の上に小さなフライヤーを見つけた。”フラワーアレンジメント教室”とある。ここで習えるんだ。
それからゆっくりと鉢物やアレンジメント、切り花を見て回った。
色とりどりの花たちにあらためて感じ入る。心がふんわりと華やいでくる。
今日を境に花とまた近しくなってもいい。自分が好きだったものまで封印することはない。それは人生をマイナスに受け止めるだけの愚かな行為だ。
もっと自由にできたらいい。気持ちをラクにして植物と向きあえたら。
「花って、しゃべらないのになにかを語ってくれる。だから僕は花が好きです」
成宮さんのほうを向けば、私を見ていた。
「ほら。あなたをやわらかい表情にしてくれる。マスクの上の目が明るくなった」
とたんに顔が赤くなっていくのがわかった。成宮さんは続ける。
「花は心をやわらかくしてくれるんですよね」
「こ、心を、やわらかく……」
「実際の花屋の仕事はキレイなだけじゃなくて、なかなかの体力勝負ですけど……って、中の人の情報はいらないですね」
照れたように成宮さんが後頭部に手を当てた。その仕草が年上なのに子どもっぽくて、親近感を覚える。
「そ、それじゃ……あ、あの、ありがとうございます」
ポインセチアの入った袋を受け取り、店主より先にお礼を言ったのは私だった。素直に感謝を伝えたかった。
「こちらこそ、ありがとうございます。これ、オープン一周年記念の、隣の花屋カフェのクーポンです。よかったらどうぞ」
1ドリンク無料券だった。それを受け取りもう一度「ありがとうございます」、今度はゆっくりきちんと発音した。
「あの、すいませーん」
さっきの男性のお客さんの声がする。もうひとりの店員さんは、まだカップルの相手をしている。
「あ、じゃあ僕はこれで失礼します。ありがとうございました、お気をつけて!」
成宮さんはほがらかに言い残して去っていった。
ドアを開け、とりあえず歩きだす。行くあてもなく、なんだかぽおっとした頭のまま、駅前へと向かった。
おとなしくしていたショウは、闇にまぎれて肩からポインセチアの上に舞い降りた。
「匂いでお腹いっぱいになるなんて不可解。そもそもポインセチアって香るんだっけ?」
「オレにはちゃーんと香るんだよね。でも、人間にはポインセチアは毒だから食べたりしちゃダメだよ? 触るくらいなら平気だけど樹液は注意してね」
「そうなの? 知らなかった」、つぶやいて返す。
「凪紗は初対面の人と話すの緊張するの? 花屋で、声がおっかなびっくりだった」
「うん。ここ一年くらいでひどくなっちゃった。自分に自信がないからかな。うまく話せなくて、よけいに緊張する。人と接するのは、かなり大変」
「オレとは遠慮なくしゃべるのに」
「そうだよね。人とはちがうって思うから、安心できるみたい」
「ふうん。緊張するからマスクして、顔隠してるんだね」
痛いところを突かれた。マスクは私と外界とを隔ててくれる、最後の砦。
大流行したウイルスによる感染症対策で、一時期は世の中、マスクをつけないことが非常識となった。やがてウイルスが落ち着いても、私はマスクを外せなくなっていた。これは風邪予防でも、ウイルスへの恐怖でもない。
マスク越しに見える外界は心なしかこぢんまりとしていて、すべての物事と、ほどよいソーシャルディスタンスを保てる気がする。その中でずっとずっと穏やかに暮らしたい。
「マスクってね、安心するの。柱の陰から世の中を見ているみたいで」
「そっか。ね、凪紗の夕食はどうする? つきあうよ」
小声が、真っ赤なポインセチアから聞こえてくる。
「ショウって花の香りだけじゃなくて、ごはんも食べられるの?」
「食べることはできるよ。基本、花の匂いだけでいいってところ。けど凪紗はちゃんと食べなきゃダメだよ。部屋にサプリメントの瓶、いっぱいあったよね?」
そんなところまでチェック済みなのか。ビタミンCと鉄、カルシウムだけなのに。
「あのね、ハニー。食べることは、生きることなんだよ?」
食べることは、生きること──もっともらしい言葉だけれど。
「べつに私、食べたいものないし食欲もないよ。あんなエアメールが来ちゃったんだもん、なおさら」
ショウの返事はない。まさか消えてしまったんだろうか。
気づけば私のかたわらに誰かがたたずんでいる。
「人間サイズのほうが、ちゃんと凪紗と話せるからね」
背が高く、すらっとした手足に銀の髪。まるで海外のモデルのようだ。そんなショウがくりくりの瞳で話しかける。
「今夜は冷えるよね。早く店に入ろう。飲食店さがすよりさ、さっきの花屋の隣、カフェバーに行かない?」
「実は気になってたの。だけど私なんかがひとりで入るなんて、勇気が出なくて……」
「私なんかって言わないの。じゃ、行くよ」
やさしい声をだしたショウと、クリーム色の雑居ビルに戻る。三階建てで、上のテナントには歯科医院や企業が入っているのがわかった。
店の前のクリスマスツリーはやっぱりきらびやかで、雅輝さんと出会ったクリスマスのころを思いだしてしまう。ツリーのてっぺんのベツレヘムの星も、聖なるイメージより焦りと孤独を私に押しつける。
あの笑顔も香りもぬくもりも、まだこんなに覚えているのに。どうしてもう会えないんだろう。手を伸ばせばあたりまえにつなぎ返してくれたのに、どうして私はひとりになってしまったんだろう。
涙のにじむ瞳でお花屋さんの右隣を見る。入り口の壁には“花屋カフェ Lune”とロゴがある。ルーン? リューン? なんて読むんだろう。
考えていると、ショウが店先の黒板をながめはじめた。隣に行って私ものぞきこむと、前菜やクリスマスチキンに交ざって“イベリコ豚・ベジョータの生ハム入りました!”とチョークで書かれている。
雅輝さんのポストカードの言葉、頭の中にこびりついたキレイな文字を思う。
食べたことのないイベリコ豚は、花たちと同じく、私が避けてきたものだ。
だけど、それは今食べるべきだろうか。このまま一生イベリコ豚を食べることがなくても困りはしないだろう。雅輝さんのイギリスからの挑発に乗る必要もない。ないのだけれど、イベリコ豚・ベジョータの生ハム──白いチョークで書かれたそれが気になる。
「入ろっか」
ポインセチアをひょいと持ってくれたショウが、店のドアを開けようとしてふり向いた。
「いい? 食べたら、ちゃんと自分の身体の一部として生まれ変わる。食べることは明日の自分をつくるってこと。凪紗は今、明日の自分のためにあいつを食べなきゃならないんじゃないの?」
「明日の、自分?」
「そうだよ。避けて、逃げ続けるのもひとつの方法だよ。それをオレは否定しない。でもね、正面から喰らいつく方法もあるってこと。食べて喰らって栄養つければ昨日までの自分より、明日の自分は大きくなってる」
「それって太るってことじゃん」
「茶化さないの」
ちょっと怒ったようなその声に、私はふうっとため息をついてからショウを見あげた。
「無理に喰らいつかなくてもいいのに。逃げるが勝ちって言葉もあるよね? 弱ってるときは喰らいつくなんて、とてもできないよ」
「できるよ? 凪紗はひとりじゃない。オレが一緒にいるから」
やさしげな笑みを見せて、ショウが店のドアを開ける。
「ほら」、背中を押され、私は花屋カフェに足を踏み入れた。
店内は賑やかで活気がある。
なんとなく一歩が踏みだせず、入り口に立ちつくしていると、鼻の下にヒゲを生やしたおじさん店員が、にこやかに対応してくれた。黒いエプロンの下の小花柄のシャツが似合っている。
L字型のカウンター席に案内された私たちは、隣同士に座った。目の前はオープンキッチンだ。カウンターには白いバラ一輪が、ヘデラを添えて生けられていた。
「なんにする? お酒頼む?」
メニューを私に広げてくれたショウが訊く。ドリンクの種類が豊富なようだ。
「お酒ってショウ、いくつなの?」
「二十二歳かな、たしか」
私よりも年下なのか。ここは私がしっかりしないと。メニューをじっくり見る。
「あなたは寝起きなんだから、特別にブラッドオレンジジュースね。ちょっぴり大人の味」
「えーっ? 病み上がりでもなんでもないのにー。元気なのにー」
口をとがらせるショウのことは無視して、食べ物のリストに集中する。
「トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼと、サーモンのマリネにしようかな。あとはショウが食べたいもの注文していいよ。ごちそうするからね」
メニューに見入った彼は店員さんを呼んで、私が決めた料理を注文してくれた。
「あと、イベリコ豚の生ハムお願いします。表の黒板に書いてあったやつ、ベジョータ」
あろうことか最後にそうつけ加えると、髪をひとつに束ねたかわいい系の女性の店員さんは、注文を復唱して去っていった。
*
続きは発売中の『花屋カフェLuneのスペシャリテ 人の縁を結ぶわんこ系男子との不思議でおいしい4ヶ月』で、ぜひお楽しみください! 期間限定・クリスマスバージョンの全面帯も展開中です!
白井カナコ(しらい・かなこ)
2005年、白井かなこ名義で講談社F文庫より『真夏の風船』でデビュー。その後も『Starlet』(主婦の友社すこし不思議文庫)、『ほんとはずっと好きだった』(共著、ポプラ社)などオリジナル小説を出版。「OtoBon ソングノベルズ大賞」佳作受賞作『青の障壁』を電子書籍で配信中。漫画「君に届け」シリーズや映画「アオハライド」のノベライズ(集英社みらい文庫)のほか、『小説 映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』、『小説 映画ドラえもん のび太と奇跡の島』(小学館ジュニア文庫)といったノベライズも手掛ける。