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ほたるいしマジカルランド

 月曜日 萩原紗英

 朝は白い。いつもそうだ。空だけでなく、目にうつるすべてのものが淡い。すれ違う人の顔も、遠くに見える建物も、すべての輪郭がぼやける。でもそれは、ただ目が完全に覚めきっていないせいかもしれない。電車のつりかわにつかまりながら、紗英はそんなことを考えている。
 朝はつらい。いつもそうだ。紗英は目が覚めてから布団を出るまで、十数分かかる。布団の中でゆっくりと手首や足首を動かしてからでないと起き上がることもできない。どうにかこうにか布団からい出てからも、身体からだはしばらくだるい。頭がぼうっとして、なにか話しかけられても内容の半分も理解できない。
 そんなふうだから、朝食はいつも、ただの「作業」でしかなかった。苦行と言ってもいいぐらいだ。味のわからないパンやらサラダやらをただ機械的に口に運び、む回数を数えて飲みこんでいる。食べない、という選択肢はない。それは母が許さない。「まっとうな人間は朝食をしっかりとるものだ」とかたくなに思いこんでいる母は、家族の誰かが朝食を抜こうとすると相手が紗英でも父でも弟でも「ひとくちぐらい食べていきなさい」とこわい顔で迫ってくる。
「紗英は昔からごはんを食べるのが遅い」
 も母はため息をついていた。彼女にほめられたことは、ほとんどない。子どもの頃はもとより、社会人になってからも小言を言われてばかりいる。休みの日にずっと寝ていることについて苦言をていされることもある。「うるせえな」と思うが、食事の用意も洗濯も母に任せきりの現状、口答えもしづらい。
 母は「食べるのが遅い人間は出世しない」ともよく口にする。紗英は社長にはなられへんね、と真顔で言う。しかし母の言うことが真実ならばマーク・ザッカーバーグやジェフ・ベゾスもみんな早食い王だということになるので、いくらなんでも無茶な理屈ではなかろうか。
 電車のアナウンスが紗英の降車駅の名を告げる。ふしゅう、という音とともにドアが開いて、ホームに押し出される。『ほたるいしマジカルランドまであと529歩』という巨大な看板を横目に、改札を通り抜けた。
 紗英の視界はあいかわらず白い。かつて友人から「夜通し遊んだ朝は太陽が黄色く見える」と聞かされた時、意味がわからなかった。黄色い、とはどういうことか。夜通し遊ぶ、の詳細もなぞだった。いったい、朝までなにをして遊ぶというのか。夜を徹して踊ったりするのか。『ダンシング・オールナイト』というタイトルの古い曲があるぐらいだから、世間的にはさほどめずらしいことではないのだろうか。紗英は睡眠時間が不足するとすぐに体調を崩すので、夜更かしはしないことにしている。
「紗英はまじめやから」
 友人たちはそう言って笑うが、ただ体質が羽目をはずすことに向いていないだけだ。不良になるにも体力が要る。
 大阪北部に位置するこのほたるいし市は、古い住宅と真新しいマンションが混在する街で、駅を背にして角を曲がるともう観覧車が見えてくる。紗英たちは観覧車ではなく『サファイアドリーム』という名称で呼んでいる。アトラクションのほとんどにサファイアだとかルビーだとかの石の名前がついている。「市の名前にちなんで」ということになっているが、おそらくは社長の趣味なのだろう。社長の石好きは有名で、自宅には鉱物標本のコレクションを保管するためだけの部屋があると聞く。
 社長の両手の指十本のうち八本には、常に石のついた指輪がぎらぎら輝いている。しかも毎日違う指輪だ。いったいどれだけの数の指輪を所有しているのか、想像もつかない。成金って感じ、と陰口をたたく人もいるが、「この新しい指輪なんぼやったと思う? 二千八百円!」と従業員に自慢する人は、成金ではない気がする。
 今日もまた一日がはじまる。朝に思い浮かべる「一日」は永遠と錯覚するほど、たっぷりと長い。ひとたびはじまってしまえば、あっというまに終わるのだが。
 紗英がほたるいしマジカルランドという遊園地に勤めはじめてもう五年になる。アルバイトの期間を加えると、もっと長い。社員になってからはずっとインフォメーションにいる。業務内容は迷子の預かり、落としものの受付、その他諸々。諸々、としか言いようのない細かな業務を日々こなしている。大学に入った年に、ほたるいしマジカルランドでアルバイトをはじめた。その頃はインフォメーションではなくアトラクションの担当で、ジェットコースターやらおばけ屋敷やら、いろいろ任された。そろそろ就職活動をはじめなければというタイミングで、総務部長から社員登用試験を受けないかと誘われ、社員になった。
 大学生の頃、演劇サークルに所属していた。先輩から「役者を目指す人なら遊園地とかテーマパークでバイトするの、おすすめ。人前に出るトレーニングにもなるし、いろんな人が来るから人間観察にもいいよ」と熱弁をふるわれ、じゃあためしに応募してみようかな程度の軽い気持ちで『ほたるいしマジカルランド』の面接を受けた。「軽い気持ち」で足を踏み入れた場所に、今もまだ留まっている。
 通用口を抜けたら、菊のさわやかな香りが鼻をくすぐった。「ほたるいしマジカルランドの特徴を挙げよ」と言われたら、紗英は「季節の花が楽しめること」と答える。山を切り開いてつくった遊園地だ。園内のあちこちに傾斜と木々が残っている。アトラクションではなく花見を目的に来る客もいる。春には桜。梅もいい。今はあきと菊の時季で、園内の英国風のローズガーデン目当ての客が連日訪れる。
 約六百種の異なるかたちと色合いの薔薇が競い合うように咲くローズガーデンに立ち、薔薇ごしに『サファイアドリーム』やメリーゴーラウンドの『フローライト・スターダスト』を眺めていると、異世界に迷いこんだような錯覚をおこす。
 インフォメーションの脇には巨大なかぼちゃと組み合わせた菊のアレンジメントが飾られている。白い菊はゴーストのかたちに、紫の菊は角の生えた小鬼のようなかたちに整えられていて、紗英は「ああそうか、ハロウィンか」と最近、毎朝思うことを今朝もまた思っている自分に気づく。
 今や確実に日本に浸透した感のあるハロウィンだが、紗英自身にはあまり縁がない。SNSなどに投稿された友人の仮装を見かけたら「いいね」を押し、実際「いいね(楽しんでるね)」と思うが、自分はやりたいと思わない。「この時季になると、角のついたカチューシャをしたり魔女の帽子をかぶったりしてほたるいしマジカルランドにやって来るお客さんが多くて華やかになるんよなー」という程度の認識だった。ハロウィンよりはむしろ、現在園内で開催中の菊人形展のほうが気になる。
 菊人形展はほたるいしマジカルランドがまだ「蛍石公園」と呼ばれていた頃、つまり昭和初期から現在にいたるまで連綿と続いている。紗英も、子どもの頃祖母に連れられて見に行ったことがあった。「犬神家の一族やで、紗英。こわいなあキヒヒ」とひとりで盛り上がる祖母の隣で、紗英はなるべく菊人形を見ないように下を向いていた。「イヌガミケ」の語感が、意味がわからないのにやけに不穏だった。
 近年の菊人形展はプロジェクションマッピングと組み合わせるなどの趣向が凝らされ、展示にもストーリー性が感じられる。紗英も初日に見に行った。もう人形をむやみに不気味がる年齢ではなくなったし、自分の職場で開かれているイベントについてきちんと内容を把握しておきたかった。たとえ好きな職場でなくても、好きな仕事でなくても。
 制服に着替え、手早く髪をひとつにまとめた。あと十五分で朝礼がはじまる。
 鏡の中の自分の背中が丸まっていることに気づいて、ため息をつきながら姿勢を正した。年齢を重ねるごとに、確実に姿勢が悪くなっている。みっともないなと反省しつつも、気を抜くとまた猫背になってしまう。
 朝礼は毎日おこなわれる。本部の事務所はインフォメーションのわきに、アトラクション部門の事務所は園内の中ほどに位置しているため、べつべつに朝礼をおこなう。社長はそのどちらにも毎朝出席するため、開始時間が異なる。従業員の顔を毎朝見ておきたいのだそうだ。
 社長のトレードマークである白いフリルつきのワンピースとつばの広い帽子のことを思い出すと、むりやり詰めこんできた朝食が胃の中でずしりと重くなる。胃もたれをおこさせるにじゅうぶんなあくの強さをもつおばさん。それが紗英にとっての社長だ。彼女のことを慕う従業員は意外にも多いのだが、紗英はその中に含まれていない。嫌いではないが、けして慕ってはいない。
 地方都市のよくある地味な遊園地だったほたるいしマジカルランドがふたたび注目を浴びたきっかけとして、社長の名を挙げる人は多い。名物社長と呼ぶ人もいる。ほたるいしマジカルランドのテレビコマーシャルに自ら出演しているせいだ。フリフリのワンピースを着たおばさんがジェットコースターで絶叫したりコーヒーカップではしゃいだりするだけのコマーシャルなのだが、なぜかこれがやたらと受けた、らしい。受けに受けて、社長は一時期大阪のローカル番組にひっぱりだこだった。『マジカルおばさん』などと呼ばれて一躍有名になり、今でもまだほたるいしマジカルランドの公式キャラクターのように扱われている節がある。国村いちという彼女の名を聞いてもピンとこない人も、マジカルおばさんと聞けば「ああ、あの」とうなずく。
「あの」のあとに(笑)がつくこともある。このあたりで育った人間の多くは「マジカマジカのマジカルランド〜♪」という間の抜けたテーマソングをごく自然に口ずさむことができるはずだ。
 もともと、ほたるいしマジカルランドのおみやげ売り場のパートタイマーだったという。ただのパートタイマーから社長にまでのぼりつめた、という経歴もある種の人びとを強く惹きつけた。
 現在のほたるいしマジカルランドにはオリジナルキャラクターのグッズを豊富にそろえたショップが設置されているが、国村社長がパートで働いていた頃は子ども向けのおもちゃやぬいぐるみを雑然と並べているだけで、売り上げもかんばしくなかった。彼女は表紙に「改善案」と油性ペンで書いた大学ノートを当時の社長に持っていったという。ノートには「オリジナルキャラクターの必要性」や「店内の動線」についての案が手書きでびっしりと書き連ねてあった。前社長はそれを読んでひどくおもしろがり、国村市子はパートから社員へと昇格し、きょくせつを経て社長までのぼりつめた。「きみ、つぎは社長やってみたら」「あ、はい」というやりとりののちに、という話だったがそれはさすがにうそだろう。前社長の愛人だったなどと根拠のない陰口を叩く人もいたが、会社の業績が黒字に転じたあとは誰もなにも言わなくなった、と聞いている。
 社長はこれまでに何度か「ほたるいしマジカルランドを再生させた女性」として、ビジネス誌の取材を受けている。雑誌は朝礼の際に回覧されたため、紗英もその記事を読んだ。
「ほたるいしマジカルランドはあくまで遊園地なんです。世界観をつくりこんだテーマパークではなく」とまじめなことを語る記事に添えられた写真の社長は大口を開けて笑っていて、記事に書かれていた「有能な経営者」のようには見えなかった。すくなくとも紗英の目には。
 社長自身の経歴のせいか、ほたるいしマジカルランドのスタッフは中途採用やパートからの登用が多い。社長が人をスカウトしてくることもある。スカウトされてやってくる人々の前歴はさまざまだ。さまざま過ぎて、なかには「一度も働いたことがない」という人もいたぐらいだ。遊園地で遊んだことがない、という人も。
 ふしぎなことに、数年もすると彼らはずっと前からほたるいしマジカルランドのスタッフの一員だったかのようにしっくりと職場に馴染む。企画チームの主任もそうした一人だった。よくわからないが、社長には「人を見る目」のようなものがあるらしい。
 その社長に最近ふたつの気になるうわさが立っている。ほたるいしマジカルランドの広告出演をとりやめる、ということ。後釜として、俳優のむらみきが起用されるかもしれないということ。噂の出所はわからないが、木村幹の出身地は蛍石市であり、なおかつ本人が「全国の遊園地めぐりが趣味」と公言し、自身のSNSに日本全国(時には海外)の遊園地で自撮りした写真をアップしていることなどを考えると「なくはない」という気もする。マジカルおばさんからマジカルおねえさんに変わるんかな、と同僚のすみたちが話していた。「なくはない」と思うたび紗英の心はざわつく。俳優が広告に起用されることではなく、その俳優が木村幹である、ということにざわつきまくる。なぜなら木村幹は、紗英にとって特別な存在だからだ。
 けっしてファンなわけではない。ただ、はじめて木村幹の映画を観た時の衝撃を紗英はまだ鮮明に記憶している。木村幹も紗英も二十歳はたちだった。ベストセラーになった小説が原作で、かつてカンヌ国際映画祭での受賞経験もある映画監督が撮る、ということで話題になっていた。無名の、しかも新人の女の子がオーディションで数千人の中から主役の座を勝ち取ったという話だった。同い年で、なおかつ蛍石市出身だと知ってがぜん興味を持ち、公開初日に観に行った。
 さほど難解ではなかったはずだが、退屈な映画ではあった。二十歳の紗英はあくびを嚙み殺しつつ、家族の日常風景がひたすら淡々と描かれ続ける薄暗い映像を眺めていた。他の客も退屈そうな顔をしていたが、木村幹が出てくる場面だけは違った。彼女が笑うと他の観客も笑い、彼女が涙ぐむ場面ではあちこちからはなをすする音が聞こえた。
 木村幹は一躍有名俳優になった。その映画でも後の出演作品でも、数多くの賞をもらっている。
 もう一度鏡の前で身だしなみをたしかめ、事務所に足を踏み入れる。いつもならそこで仁王立ちしているはずの社長の姿が、今日は見えない。
「社長は? 出張?」
 香澄にたずねても、さあ、と首をかしげるだけだ。事務所の脇の会議室から営業チームの社員がわらわらと出てきて、そのまま朝礼がはじまる。
 社長がいないということの他は、いたっていつもどおりの内容だった。十月も下旬にさしかかって、朝晩冷えこむようになってきました、体調管理をしっかりとうんぬん。インフルエンザの予防接種について云々。来週の日曜日からはじまるイベントについて云々、の話の時だけ、紗英はメモをとった。イルミネーションイベントの時は営業時間も変わるから、しっかりと内容を把握しておかねばならない。
 年々規模が大きくなっているイベントでもある。営業チームはその準備に大わらわだ。すでに園内のあちこちに電飾の準備が施されている。今日は月曜日だからもう、あと実質六日しかない。
 諸注意が済むと、今度は三分間スピーチの時間だった。毎日順繰りにひとりずつ前に出て、なにかしゃべらなければならないことになっている。今日は営業チームの主任だ。
 スピーチのテーマは「自分が好きなもの、もしくは今はまっていること」だと決まっている。好きなものについて話す時、人は自然と笑顔になる。「一日のはじまりに最高の笑顔を引き出すために」らしいのだが、紗英は毎回喋る内容に苦労する。好きなものだとか夢中になれるようなことは、そう次から次へと生まれてくるものではない。
 このスピーチ廃止にならへんかなあ、とうんざりしている紗英の目には「五歳の娘とお絵描きをしている時、娘が観覧車の絵を描いていた」と語る主任の笑みすらうっとうしい。三分間スピーチなのに四分以上喋らないで。話、長すぎます。
「ああ、それと最後に報告があります」
 主任の口調ががらりと変わる。いつのまにか、顔からも笑みが消えていた。
「本日よりしばらく、社長が休養に入られます」
「休養?」
 事務所に集まった三十名ほどの従業員がめいめい顔を見合わせる。さっき会議室から出てきた営業チームの数名だけが先に聞かされていたのだろう。彼らは一様にきゅっと唇を引きしめて黙ったままだ。
「どういうことですかー」
 香澄が間延びした問いを発する。
「入院中なんです」
 ざわめきが広がって、また香澄が声を上げた。
「社長、ご病気なんですか?」


   *

続きは発売中の『ほたるいしマジカルランド』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
寺地はるな(てらち・はるな)
1977年、佐賀県生まれ。大阪府在住。2014年、『ビオレタ』で第4回ポプラ社小説新人賞を受賞し、翌年デビュー。20年、咲くやこの花賞(文芸その他部門)を受賞。21年、『水を縫う』で、第9回河合隼雄物語賞を受賞。他の著書に、『ミナトホテルの裏庭には』『月のぶどう』『今日のハチミツ、あしたの私』『大人は泣かないと思っていた』『夜が暗いとはかぎらない』『カレーの時間』『川のほとりに立つ者は』『白ゆき紅ばら』など多数。

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