岩井圭也
くたびれたスーツの男が一人、タクシーから降りてきた。
四十歳前後と思しき彼に、身なりを気にしている様子はない。皺だらけのシャツにくすんだ革靴。後頭部には寝癖が残っていた。ただし胸元につけた弁護士記章だけは綺麗に磨かれている。
弁護士――朧太一は、目の前にそびえる建物を見上げた。三階建てのグレーのビル。それだけであれば何の変哲もないが、四角い無機質な建造物は、古い一軒家が建ち並ぶ住宅街でどこか異様な雰囲気を放っていた。
オボロは入口横の〈土門鑑定所〉というプレートを確認する。この鑑定所の存在を知ったきっかけは、家裁調査官である浦井との会話だった。
――先生、〈最後の鑑定人〉って知ってます?
ベテラン調査官の浦井は、小太りの身体を揺すりながらそう言った。
――初耳です。
――昔、警視庁の科捜研にいた凄腕鑑定人ですよ。今は民間にいるらしいですけど。
――へえ。どうして〈最後〉なんですか。
――その人に鑑定できない証拠なら、他の誰にも鑑定できない。全国から分析困難な検体が送られてくる、警視庁最後の砦だったという話です。
その人物なら、目下オボロが頭を抱えている案件に解決の糸口をもたらしてくれるかもしれない。
警察関係者のツテを使って調べてみると、〈最後の鑑定人〉という異名は土門誠という男につけられていたことがわかった。浦井が言った通り、現在の彼は警察を辞め、民間で鑑定所を営んでいるという。
土門鑑定所のウェブサイトにはこう記載されていた。
〈当鑑定所では、法科学の観点から適切な手法を用いて、中立的に科学鑑定を行います。情報科学、生物学、化学、心理学、人文科学等、多面的な観点からアプローチいたします。刑事・民事にかかわらず、また依頼者の職業等は問いません。料金は別途相談〉
オボロはプレートの下のインターホンを押した。
「はい、土門鑑定所です」
女性の声が返ってきた。
「お約束していた、弁護士のオボロといいますが」
「少々お待ちください」
すぐにドアが開き、愛想のいい女性が顔を見せた。白のシャツに黒のスラックスという、清潔感のある出で立ちだ。
「こちらへどうぞ」
女性の案内で、オボロは奥にある応接スペースへ通された。土門らしき人物はいない。促されるままソファに座ると、天井付近に設置されたカメラと目が合った。
「なんですか、あのカメラ」
「すみません。来客者は皆さん記録させてもらうことになっているんです」
さも当たり前であるかのように説明する。オボロの記憶にある限り、これほどあからさまにカメラが設置されているのは初めてだった。
居心地の悪さを感じながら待っていると、女性が水の入ったグラスを出してくれた。
「よかったら飲んでみてください」
「ありがとうございます」
オボロは礼を言って口に含んだ。瞬間、強烈な青臭さが口のなかに広がる。青汁にエグみを加えたような味である。どうにか飲んだが、反射的にオボロは咳きこんだ。
「なんですか、これ」
「オリジナルブレンドのハーブで味つけしてあるんです。よければ、正直な感想を聞かせてもらえますか?」
女性はまっすぐな目で問いかけてきた。その顔を見ていると、まずい、と断言するのも申し訳ない気がしてくる。オボロはぎこちない笑みを浮かべた。
「……すごく、新鮮な体験でした」
「そうですか。お代わりもありますから」
そう言い残し、軽やかな足取りで部屋の片隅のデスクへと移る。オボロは勝手にお代わりを注がれないよう、警戒しながら土門が来るのを待った。
約束の時刻ちょうど、部屋の奥にあるドアが開いた。
現れたのは、ベージュのジャケットとチノパンに身を包んだ男性だった。オボロと同年代だろうか。身長は高く、痩せ型である。目つきは刃のように鋭い。オボロが立ち上がると、相手は能面のような無表情で正面から見据えた。
「あの、弁護士の朧太一といいます」
「土門です」
地鳴りのように低い声であった。
向かい合ってソファに座る。オボロは会話のきっかけを探し「えーっと」と口走った。
「……ぼくがどういう弁護士かと言いますと。主に少年事件を扱っていまして。付添人という言葉はご存じですか。大人が裁判の被告になれば弁護人がつきますよね。未成年が家庭裁判所に送致された場合は、弁護人ではなく付添人という立場で、少年たちのパートナーとして活動します」
土門は黙ってオボロを見ている。先を促されているのだろうか。
「あ、ここでいう少年というのは性別を問わず、審判時に二十歳未満の男女のことで……」
「これは雑談ですか、本題ですか」
「……はい?」
「雑談なら省略していただけますか。回りくどい話は結構です。知っていますから」
他人を寄せ付けない、氷のような冷たさを帯びていた。オボロは直感的に理解する。
――この人とは、絶対仲良くなれない。
ただし、オボロはあくまで依頼人としてここに来ている。友人ではないのだから、仲良くする必要はないのだ。落ち着け、と言い聞かせる。
「わかりました。では説明します」
オボロは数日前、少年鑑別所の一室で交わした会話を思い出す。
目の前に座る、ジャージを着た十四歳の少女――長島結衣は、両手で顔を覆って涙を流し、嗚咽を漏らしている。先ほど結衣の口から発せられた言葉が信じられず、オボロは唖然としていた。
「すみません。もう一度、お願いできますか」
「……やってないです、私。殺してなんかない」
結衣の泣き声が一層大きくなる。
警察の取り調べではAだと言っていた少年が、家裁送致後に鑑別所でBと証言するのはよくあることだ。逮捕された直後は誰でも動揺する。まして、未成年となれば大人たちに囲まれるだけで萎縮してもおかしくない。そのためオボロは、無理に話の整合性を取るようなことはしない。論理的に一貫していないからといって、嘘をついているとは限らないからだ。
取り乱す結衣に、オボロはやわらかな声で言う。
「結衣さん。ぼくはあなたの味方です。あなたの権利を守り、代弁するパートナーとして活動することを約束します。だから落ち着いて、ゆっくりでいいので、知っていることを正直に話してもらえますか」
結衣はこくりと頷いたが、口を開く気配はない。オボロは「質問していきますね」と前置きしたうえで問いかける。
「あらためて、結衣さんがなぜ鑑別所にいるか、それは理解していますか?」
「……おばあちゃんを死なせたって、言ったから」
認識に相違はなかった。
結衣の祖母が亡くなったのは先月。日中のことだった。
その時間、自宅には結衣と祖母の二人しかいなかった。結衣の家には父親がおらず、母親は会社勤めで多忙であり、特別養護老人ホームは入居待ちだった。通院の付き添いなどはヘルパーに依頼しているが、毎日はカバーしきれない。そのため、結衣は中学校に通いながら認知症の祖母を介護していた。
当初は事件性のない自然死とみられていたが、死亡当時に自宅にいた結衣がこう言い出したのである。
結衣は、水に溶かした睡眠薬を過剰に摂取させることで祖母を殺したと証言した。事実、祖母の部屋に残されていた水筒の水を分析したところ、睡眠導入剤のエチゾラムが高濃度、検出された。祖母は長年不眠症状に悩んでおり、定期的に医師から睡眠導入剤を処方されていたため、その薬を密かに溜めこんでいたのだと結衣は話した。
――おばあちゃんの介護に追われ続けるのがいやだった。
結衣は動機についてそう話した。
本人の自白と分析結果が合致したことから、結衣は殺人の疑いで逮捕され、家庭裁判所へ送致された。
そして今、結衣は真逆の証言をしている。
「取り調べ時の弁護人の先生には、話した?」
「いいえ。初めて話します」
「確認だけど、おばあちゃんを殺したのは結衣さんではないんだよね?」
「はい。私じゃないです」
「……なるほど」
オボロは結衣の言葉を受け入れた。筋が通っていないことがあっても、目の前にいる子どもの言葉を否定してはいけない。結衣を責めたり怒ったりしても、謎が解きほぐされることはない。
「じゃあ、おばあちゃんが亡くなったのはどうしてだろう」
結衣の答えはない。難しかっただろうか。具体的な質問に切り替える。
「睡眠薬が水筒に入っていると知っていたのは、なぜかな」
「……いつもそうやって飲んでるから」
結衣いわく、高齢の祖母は錠剤の睡眠薬をそのまま服用するとむせてしまうことがあるため、砕いてから水筒の水に溶かして飲んでいたという。辻褄が合っているようにも思えるが、よく考えると不自然な点がある。
「でも、検出された睡眠薬も高濃度だったみたいだ。故意に過剰摂取したとしか思えない。夜ではなく日中に飲んでいたのも気になるし」
オボロの言葉に、結衣はうつむいたまま沈黙を守る。以後、その日の面会で結衣が発言することは二度となかった。
「……本人がやっていないと言う以上、ぼくは信じます」
「非行事実はなかった、と主張するのですね」
オボロの説明を聞き届けた土門は、平板な口調で言った。
「そのつもりです」
無茶は承知である。同じことは調査官の浦井にも話したが、苦言を呈されていた。
――本人の証言だけで、非行事実がなかったという意見書を書くつもりですか。無謀ですよ。そんなことしたら、裁判官の心証が悪くなるだけだ。
その見解はもっともである。だからこそ、客観的な事実を盛り込むため、土門鑑定所に足を運んだのだった。
「それで、何を依頼されたいんです?」
問われたオボロは、すかさず身を乗り出した。
「水筒の水の分析を、やり直してもらいたいんです」
水中の睡眠薬を分析したのは科捜研だが、その分析結果が誤っていたのではないか、というのがオボロの見立てだった。睡眠薬の濃度が通常の服用の範囲であれば、死の直接の理由が睡眠薬ではないと主張できる。
「つまり、科捜研が分析でミスをしたとお考えですか?」
「可能性が低いことはわかっています。でも、本人の証言が正しいのだと仮定すれば、それしか考えられないんです」
土門はそれには答えず「司法解剖は?」と尋ねた。
「未実施です」
今回の案件は事件性があるため、警察は司法解剖を予定している。ただし結衣の自白があったため、睡眠薬の過剰摂取による呼吸停止が死因だと判断され、後回しにされているのが現状だった。遺体はまだ警察が保管している。
ここぞとばかりにオボロはまくしたてる。
「司法解剖がなされていない以上、自然死の可能性だって残されているはずなんです。鑑別所で会った結衣さんが嘘をついているとは、どうしても思えない。少なくとも付添人であるぼくは彼女の意思を……」
「あなたの意見はわかりました」
熱っぽく語るオボロを、土門は平然と遮った。
「遺体が保管されているなら、毛髪を入手できますか」
「何のために?」
土門は哀れむように、わずかに眉尻を下げた。
「科捜研の分析手技に問題がある可能性は否定しません。ただ、エチゾラムの定量分析は基礎中の基礎であり、通常、失敗するとは考えにくい。端から分析ミスに期待するのは、楽観的すぎると言わざるを得ません」
オボロは反論しようとしたが、専門家よりも説得力のある言葉は思いつかなかった。土門は淡々と続ける。
「仮に、水のなかに高濃度のエチゾラムが含まれており、かつ、結衣さんに殺意がなかったのだとしたら、考え得る事実は一つしかありません。あなたもその可能性は考えたのではないですか?」
図星だった。
むしろ真っ先に思いついたのがその可能性だった。だが、立証のしようがないため諦めていた。遺体が証言してくれるならともかく。
土門は能面のような無表情に戻り、オボロの目を正面から見据えた。
「オボロさん。私に任せてもらえますか」
面会室に現れた結衣は、放心状態だった。顔色は白く、眼の下に隈ができている。
「食事はとれている?」
オボロの問いかけに、かすかに首を横に振った。
家裁送致された少年が鑑別所に収容される観護措置期間は原則二週間とされているが、四週間まで延長されることが多い。今回のケースでもすでに期間は延長され、三週目に入っている。
祖母を殺したのは自分ではない。結衣はそう話していたが、以後の面会ではほとんど言葉を発していない。自白を否定したことを悔いるように、心を閉ざしてしまった。おそらく彼女自身、どう振る舞うべきなのかわからなくなっている。
「今日はこれから、大事な話をしようと思う」
その途端、結衣の顔に怯えが浮かぶ。怖がらせてはいけない。オボロはあえて微笑を浮かべた。
「土門さんという科学鑑定の専門家にお願いして、水筒の水をもう一度分析してもらった。睡眠薬のエチゾラムは、やっぱり警察が分析した通り過剰量が含まれていたらしい」
電話でその分析結果を聞いた時、わかってはいたものの、オボロは落胆を隠すことができなかった。だが土門の報告はそれだけではなかった。
「話は変わるんだけどね。睡眠薬の錠剤は、有効成分だけでできているわけではないって知ってた?」
「……えっ?」
結衣の顔に困惑が滲む。
「薬を錠剤にするためには、いろんな成分が必要らしいんだ。錠剤になるよう結合させる成分とか、うまく胃の中で崩壊させる成分とか。医薬品添加物というらしいんだけどね。エチゾラムという有効成分は同じでも、添加物の成分や配合量はメーカーによって違っている。土門さんはそれも分析してくれた」
オボロは結衣の顔をまっすぐ見ながら語る。
「そこからわかったことがある。どうも水筒の水に入っていた睡眠薬は、病院で処方されていたものとは違う製薬会社のものらしいんだよ」
「それって、どういうことですか」
にわかに結衣の声が生気を帯びてきた。
「結衣さんが、処方された睡眠薬を溜めこんでおばあちゃんを殺すために使ったという証言は成立しないってこと。中学生の結衣さんが、その他のルートで睡眠薬を入手したとも考えにくい。だからこのデータがあれば、非行事実はなかったと主張することができる」
付添人は審判の前に、家庭裁判所へ意見書を提出することができる。意見書が主観に頼った独りよがりのものであれば裁判官は不信感を抱くし、客観的なデータに基づいた論が展開されていれば心証はよくなる。
オボロは経験上、土門の分析データを掲載した意見書であれば、非行事実を争うことは十分にできると確信していた。
「でも、当然ながらもう一つの疑問が出てくる」
言うまでもない。水筒の水に睡眠薬を溶かしたのは誰か、という疑問。その答えを、オボロは一息で言った。
「……おばあちゃんは自殺したんだね?」
それこそが、真っ先に思いついた可能性だった。自宅にいたのは二人だけ。睡眠薬を混入したのが結衣でなければ、祖母が自分でやったとしか考えられない。
結衣は狼狽することなく、静かに目を閉じる。オボロはその反応を肯定と受け取った。
「土門さんは、おばあちゃんの髪の毛に含まれる睡眠薬を分析してくれた」
「髪の毛?」
「科学鑑定というのはすごいね。髪の毛に含まれるわずかな成分を分析すれば、いつ頃から、どんな種類の睡眠薬を服用していたかわかることがあるらしい。もちろん、土門さんが凄腕だから、というのもあるだろうけど」
土門の分析によれば、結衣の祖母は数か月前から睡眠薬の量を増やしていた可能性が高いという。
「これは想像だけど。おばあちゃんは数か月前から、睡眠薬による自殺を試みていたんじゃないかな。死のうと思って定められた量よりも多く飲んでみたけれど、なかなか死ねない。もっとたくさんの睡眠薬が必要だと考えたおばあちゃんは、ヘルパーさんをごまかして、かかりつけ医とは別の病院で睡眠薬を大量に入手した。そして結衣さんの目を盗み、睡眠薬を一気に飲んで亡くなった」
それが、オボロの推測する真相であった。
結衣の瞼の隙間から、一筋の涙が流れた。こみ上げるものを堪えるように下唇を噛むが、やがて嗚咽が口から漏れ出る。
「私、おばあちゃんのこと……」
そこから先は言葉にならなかった。大声をあげて泣き続ける結衣を、オボロはただ見守ることしかできなかった。
オボロはソファで土門を待っていた。
土門鑑定所に来たのはおよそひと月ぶりだ。テーブルに置かれたハーブ水には手をつけていない。助手の女性はデスクからじっとこちらの様子を窺っているが、オボロは気が付かないふりをしていた。
やがて奥のドアから土門が現れた。前回と同じ、ベージュの上下を着ている。
「何の用ですか」
対面に座った土門は顔色を変えない。
「例の件、おかげさまで不処分になりました」
土門の瞼がわずかに動いた。
「結衣さんは、生前のおばあちゃんについ暴言を吐いてしまったことを深く悔いていました。睡眠薬自殺をしたのは自分のせいだと考え、警察の取り調べに対して〈おばあちゃんを死なせたのは私です〉と証言してしまったようです」
最初から、結衣は殺したとは言っていなかった。そこには微妙なニュアンスの違いが潜んでいたのだ。
オボロから鑑定結果を聞かされた彼女は、経緯を訥々と語った。
中学二年生の結衣にとって、認知症を患う祖母の世話は重荷だった。放課後は同級生のように部活に励んだり、遊びに行ったりすることもできず、自宅へ帰って祖母の面倒を見る毎日。認知症の症状には波があり、結衣に辛く当たることもあれば、泣きながら謝ることもあったという。
家庭の事情とはいえ、長引く介護に結衣は疲弊しきっていた。ストレスがピークに達したある日、彼女はつい、祖母に向かって怒鳴っていた。
――おばあちゃんなんか、いなければいいのに。
祖母が亡くなったのはその半年後。
最初に遺体を発見したのは結衣だった。外傷はなく、手の届く場所に口の開いた水筒があった。その状況から祖母が睡眠薬を使って自殺したのだと察した。同時に、自殺したのは自分の暴言のせいだと思いこんだ。
――おばあちゃんを死なせた私は、罰を受けなければいけないと思ったんです。
罪の意識に追い詰められた結衣は、〈睡眠薬によって祖母を殺した〉という警察の見解を否定しなかった。だが時間が経つにつれて、徐々に殺人者として扱われることが恐ろしくなってきた。少年鑑別所に移送され、オボロと接見した時には思わず「やってないです」と主張した。
「おばあちゃんに対する罪の意識と、裁かれることへの恐怖の狭間で、結衣さんはずっと苦しんでいた。その混乱のせいで二度目の接見以降、ほとんど話さなくなってしまったようです」
事実を見抜かれた結衣はその後、正式に警察での証言を撤回した。家裁調査官の浦井は困惑していたが、データを見せ、結衣自身の話を聞くと納得してくれた。土門の取得した鑑定データは、警察や家裁への説明にも大いに役立った。
審判廷で、結衣は生まれ変わったようにすっきりした顔をしていた。
――私は睡眠薬なんか混入していません。でも、おばあちゃんにひどいことを言ってしまったのは事実です。やっと、その事実と向き合う覚悟ができました。
少なくともオボロには、結衣の暴言を責めることはできなかった。十四歳という未成熟な年齢で祖母の介護を担うのは、過酷なことだ。見直すべきは結衣の性格ではなく、その負担を少女に強いた社会状況そのものである。
裁判官は長島結衣に非行事実はないと判断し、不処分とすることを決定した。
「不処分に漕ぎつけられたのは土門さんのおかげです」
オボロはソファから立ち上がり、深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
「私は依頼を受け、報酬に対する成果を出したまでです」
土門はあくまで表情を崩さない。
「それに、付添人を務めたのは私ではない。子どもの未来を守ったのはオボロさん、あなたです。あなたが結衣さんの言葉を信じ抜いたからこそ、この結末にたどり着くことができたのではないですか」
オボロの胸に、温かなものが広がっていく。
互いに依頼人と鑑定人という立場で出会ったが、もしかすると、これからはいい友人になれるかもしれない。愛想の悪さも、慣れれば照れ隠しに見えなくもない。
「ただ、非論理的なところはいかがなものかと思いますが」
土門の冷淡な一言に、胸の温もりがすっと消えていった。
「……えっと?」
「最初から、自殺の可能性も念頭にあったのですよね。それなのに、結衣さんの祖母は自然死である、科捜研が分析ミスをしたはずだ、などという無謀な仮説を立てるのはまったく非論理的です」
「いや、だって自殺の立証ができるなんて思わないじゃないですか!」
「立証できそうなことからやる、というのは愚の骨頂です。目先の簡単そうな課題に飛びつけば、真相解明が先送りにされる。そのような思考回路では、今後の付添人活動にもいささか不安が残りますね」
――言わせておけば……
オボロの頭に血が上る。
「ぼくに言わせれば、土門さんのやり方もどうかと思いますけどね。毛髪鑑定の意図も明らかにせず、とにかく髪の毛取ってこいなんて無茶苦茶ですよ。検体入手するのにどれだけ苦労したか」
「確定していないことは口にしないだけです」
「目的くらいは言えって話ですよ。だいたい、あなたは社交性がなさすぎる!」
「鑑定人に社交性が必要だとは、寡聞にして知りませんでした」
土門の皮肉が、さらに怒りをかきたてる。
それからしばらく不毛な口論が続き、最後は土門が「もうよろしいですか」と言い残して去っていった。一瞬でも、土門の言葉に温もりを覚えたことを後悔する。
帰り際、助手の女性からは「すみませんでした」と謝られた。
「いえ。あなたが謝罪することではありません」
「弁解すると、あれも土門さんなりの愛情表現なんだと思います。ああいう挑発的なこと言うのって、すごく珍しいですから」
「……二度と言わないでもらって結構です」
「まあそう言わず。これからも仲良くしてください。私から見れば、お二人は似ていると思いますし」
心の底から驚いて「どこがですか」と問い返した。
「たとえば、諦めの悪いところとか」
どう答えていいかわからず、オボロは無言で頭を掻いた。
土門鑑定所を出ると、雲一つない青天が待ち受けていた。心地いい風が頬に当たる。
人間性はさておき、鑑定人としての土門の実力は本物だ。もしかしたら今後、複雑な子どもたちの内心を、彼の技術が代弁してくれるかもしれない。付添人としての使命を全うできるなら、プライドなどいくらでも捨ててやる。
――いずれ、また来ます。
胸のうちで愛想のない鑑定人に呼びかけてから、オボロは次の少年のもとへと向かった。
(了)