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筋肉を夢見たウサギ

     

 カーテンを開けると、空は明るく晴れ渡っていた。オレは思わず「よっしゃ」と呟く。
 今日は六月十三日。そろそろ梅雨入りという時期だから天気を心配していたのだが、これなら楽しく外出できるだろう。
「おーい、エチカ! 起きろよ、晴れてるぞっ」
 嬉しさを分かち合いたくなって、ベッドの下の段で寝ているルームメイトに声をかけた。だがエチカはまったくの無反応で、すうすうと寝息を立てている。
 ここ(きり)(もり)学院高等部の寮では六時が起床時間と定められていて、時刻はすでに六時五分。日曜日だから、少しだけ大目に見てやることにする。オレは自分の寝床を整えて、洗顔して、筋トレして、着替える――というモーニングルーティンをこなした。
 そんなこんなで二十分ほど過ぎたが、エチカはまだ眠っている。やたら整った顔立ちだから、呑気に寝ているだけなのに()になるのが腹立たしい。
「起きろっ!」
 布団をはぎ取ってみたが、すでに朝から蒸し暑い季節だから効かない。オレは眠り続ける王子様を揺さぶり起こした。まもなくのっそりと上体を起こしたエチカは、切れ長の目で睨むようにこちらを見てくる。
「おはよ、エチカ。とっとと起きろ」
 エチカは口の中で「おはよう」と聞こえなくもない音を発した。オレが毎朝起こしてやっていることには一応感謝しているらしい。寝起きの表情が険しいのは、単に朝が弱いせいだ。
 一分ほどぼんやりしていたエチカは突然起き上がって、部屋の隅までのそのそと歩いていった。そして、床の上に置かれたガラスケースの前にひざまずき――
「おはよう、へっくん、今日も元気だね! 後でごはんをあげるからねぇ」
 と、中にいるハリネズミに愛想よく挨拶した。
 身長百八十五センチの高校生男子が、でれでれしながらペットに話しかける……というこの光景も、さすがに毎朝見ていると、何も感じなくなってきた。もはやこれを眺めるのも、モーニングルーティンである。
 ひと通り甘い声を出し終えたエチカは立ち上がると、
「待たせたな、ヒナ。朝食に行こう」
 と、一気に冷めた声に切り替えて言った。動物に向ける愛想の十分の一くらいでいいから、人間に向けてほしいものだ。
 この寮では朝食はバイキング形式で、六時二十分から七時までの間に各自済ませることになっている。食堂に着くとすでに席は埋まり始めていたが、料理の盛りつけの列は()いていた。全寮制男子校だけに誰も彼も食欲旺盛で、夕食時はちょっとした戦になる日もあるが、朝はメニューも質素だからか比較的平和だ。
 皿に料理を盛り終えて、さてどこに座ろうかと辺りを見回していると、声をかけられた。
「ヒナ先輩、エッチ先輩! こっちこっち!」
 窓際の席で、(しゅん)が両手を振っている。
 大声で「エッチ」などと叫ぶものだから、周囲の生徒たちは驚いたようにこちらに視線を注ぐ。違うんだ、オレは「ヒナ先輩」のほうだから。というか、()(がわ)(ひな)()が「ヒナ先輩」になるのはわかるが、(たか)(みや)()(ちか)を「エッチ先輩」と呼ぶのはやはり無理がないか。
「瞬、おまえ、大声でエッチとか言うな」
 おはようの挨拶を済ませると即座にとがめたが、瞬に反省の色はない。後頭部でちょこんと束ねた髪を涼しい顔でいじりながら、
「だって、エッチ先輩はエッチ先輩ですもん。ねー?」
「ああ」
 エチカは適当に答えて、もそもそとコーンフレークを食べ始めた。瞬の隣にはルームメイトの五月女(さおとめ)が座っていて、にこにこしながらオレたちのやりとりを見守っている。
 なんだか、寮の旧館――あすなろ館に住んでいたときのことを思い出す。
 オレたち四人は、ゴールデンウィーク前まであすなろ館に住んでいた数少ない仲間なのだ。四月に校地内で殺人事件が起きたとき、いわくつきの場所として報道されてしまったあすなろ館は、学院のイメージアップのために閉鎖され、夏休みに取り壊される予定だ。もっとも、経済的に余裕のない生徒の救済措置として残されていたあの旧館は、運営のために余計な予算がかかっていたはずで、学院としては取り壊す大義名分ができたというところなんだろうけど。
 ひと月という短い間ではあったが、あの建物で暮らした時間は濃密で、オレたちの間には特別な絆のようなものができた。そのせいか新館に引っ越してきてからも、気づけば「あすなろ組」と食卓を共にしていることが多い。
「あ、そうだ。ヒナ先輩忘れてないっすよね? 今日出かける計画!」
 瞬が訊いてきた。オレは卵焼きを飲み下してから「当然」と答える。
「オレが発案したんだから。昨日も確認したけど、十時に正門集合な。遅れんなよ」
「わかってまーす」
「瞬くんとヒナ先輩、ふたりでお出かけなんですか?」
 五月女が小首をかしげながら尋ねてきた。女の子めいた綺麗な顔立ちをしているから、こんな仕草も様になっている。
「ふたりでっていうか、空手部の何人かでな」
「へえ、楽しそうですね。じゃあもしかして、(あり)(おか)先輩も一緒なんですか」
「いや、今回は有岡さんには内緒!」瞬が元気よく答えた。「だって、有岡さんへのサプライズプレゼント買いにいくんだからなっ」
「あ、コラ! おバカっ」
 オレが叱ると、瞬は慌てて口の前で指をバッテンにした。
「やばっ。これ内緒なんだった! ユイもエッチ先輩も、有岡さんには秘密にしといてっ」
 エチカが生返事をして、ユイこと五月女(ゆい)()はくすくすと笑う。
「瞬くんはうっかり屋さんだなあ。……でも、そっか。部長さんにプレゼントって素敵ですね。今年はとくに、三年の先輩は大変でしたから」
 察しのいい五月女に、オレは無言で頷く。
 有岡(ゆう)(すけ)さんは、オレと瞬が所属している空手部の部長だ。彼もまた「あすなろ組」のひとりである。あすなろ館では寮長も務めていて、とにかくリーダーの肩書きが似合う、憧れの先輩。その有岡さんが、とうとう部活を引退するときが来てしまった。
 先輩たちの中でも、オレたち空手部員にとって有岡さんは特別な存在だ。
 四月の事件の余波で、霧森学院は運動部も文化部も、おもだった大会は出場辞退せざるをえなくなった。校内で殺人事件が起きたうえ、一年前に校内で起きたいじめのことも明るみに出たのだからやむをえない。空手部も全国大会の県予選を辞退し、体育棟の片隅にある道場で、黙々と稽古に励んできた。
 そんな状況でオレたちが稽古への意欲を保てたのは、有岡さんが欠かさず道場に顔を出して導いてくれたおかげだ。大会に出場できなくなったことで、他の三年生は全員受験モードに切り替えて顔を見せなくなったというのに。そして最後の大会に出られなくなったことは、きっと有岡さん自身がいちばん残念に思っているはずなのに。
 その有岡さんを、ただ見送るだけで終わりたくなかった。他のみんなも同じ思いだったのだろう。オレが一、二年のグループチャットに書いた提案――十五日の部長引き継ぎ式で、有岡さんにサプライズでプレゼントを送るという計画に、全員が乗ってきてくれた。
 なにを贈るかはまだ決まっていないので、今日はオレと瞬を含む四人の部員が代表して、ショッピングモールでプレゼントを選ぶことになっている。五百円ずつの集金で、予算は五千円になった。高校生が使うにはけっこうな額だ。いい買い物をしよう。有岡さんの喜ぶ顔を思い浮かべて――
「おう、おまえらお揃いだな」
 急に声をかけられて、飛び上がりそうになった。トレイを持ってテーブルのそばに立っていたのは、話題の主である我らが部長だった。
「あ、有岡さんっ! おはようございます!」
 オレが姿勢を正して挨拶すると、有岡さんは笑いながら「おはよう」と返してきた。今日も惚れ惚れするほど逞しい身体で、動きはきびきびしている。
「楽しそうに話していたが、なんの話だったんだ」
「いや、へへへ、ちょっと今日、空手部の何人かでショッピングモールまで出かけるんで、そのことっす」
 瞬が馬鹿正直に答えた。有岡さんがついてくると言ったらどうしよう、とオレはハラハラする。
「そうか。息抜きも大切だから、楽しんでこい。だが、駅前のモールは人も多いから、事故や犯罪には気をつけろよ。空手道二十訓に曰く、『男子門を出づれば百万の敵あり』だ」
 オレは真剣に「押忍おす」と答えた。
 有岡さんの忠告も大げさではない。この春、霧森学院の名が悪い意味で知られてしまったせいで、生徒が外出中に他校生から絡まれるという事件があったのだ。
「空手部で出かけるってことなら、俺も本当はついていきたいがな。来週の模試に備えて、今日は丸一日勉強しなきゃならないんだ」
「あっ、それは大丈夫っす! むしろ有岡さんには内緒というか――」
 余計なことを口走りかけた瞬の口を、五月女が横から塞いでくれた。
「大丈夫っすよ、有岡さん!」オレは先輩に向き合って、きっぱりと言った。「これからは、オレたちが空手部を担っていくんですから。霧森学院空手部の名にかけて、変な事件や事故に巻き込まれたりしません!」
「頼もしいな、雛太。……おまえになら、安心して部長を任せられる」
 そうなのだ。オレは恐れ多くも、空手部の次期部長に内定している。先輩の背中は偉大すぎて、追えるかどうか心許こころもとないが。
「それに、仮に事件に巻き込まれても大丈夫っす!」
 五月女から解放された瞬は、眠そうにコーヒーを啜っているエチカを指さした。
「おれたちには、名探偵のエッチ先輩がいますから。ねっ」
 名探偵――その表現は当たっている。エチカは普段の幼児みたいな生活態度からは想像もつかないほど頭がいい。勉強の成績がいいのみならず、日常に潜む不思議な謎をするりと解き明かすセンスも持っている。いや、それどころか四月の殺人事件を解決に導いた人物こそ、他ならぬエチカだったのだ。
「まず」名探偵は気だるげに口を開いた。「事件に巻き込まれないのが一番だろ」

     

 朝食のあと、しばらく部屋で時間を潰した。外出の理由を知られてしまったことだし、エチカも買い物に付き合わないかと誘ってみたが――
「空手部の仲間と行くなら、おれは邪魔になるだろう。それに、今日はへっくんと一緒に過ごすと決めていた。ねっ」
 という返事だった。やたら愛想がいい「ねっ」が、ガラスケースの中に向けられていたことは言うまでもない。
 オレは早めに部屋を出て、集合時間より十分早く正門前に着いたが、予想に反して一番乗りではなかった。
「おはよ、(そう)()。早いな」
 声をかけると、(おお)(しろ)宗吾は眺めていたスマホを律儀にズボンのポケットにしまった。
「雛太、おはよう。つい、部屋で時間を持て余してしまってな。話し相手もいないし」
「あ……、そうだったな」
 これも、四月の事件の悲しい余波のひとつだ。霧森学院に嫌気がさして、この学びを去った生徒が数人いたらしい。宗吾のルームメイトは地元の九州に帰って、予備校に通いながら高卒認定試験を受けることにしたと聞く。人生、いろいろだ。
「寮生活だとたまにはひとりになりたいと思うが、いざルームメイトがいなくなると寂しいもんだな」
「んじゃ、オレがたまには遊びにいってやるよ」
「はは、ありがとな、新部長」
「ストップ。その肩書きはオレにはまだ早い。正式に引き継ぐまで、部長は有岡さんだ」
 そんなふうに話していると、時間があっというまに過ぎた。
 宗吾は同じ空手部二年の中でも、とくに話していると落ち着くやつだ。趣味などの個人的な話をあまりしない堅物だが、それゆえに信頼が置ける。大柄な体躯たいくでかなりの強面こわもてだから、初めて彼を見る相手は萎縮しがちなのだが、宗吾の心根はとても優しい。
 正直、見た目の貫禄も含めて、宗吾のほうが部長に向いている気がする。この間の部長投票で、オレ自身は宗吾に票を入れたくらいだ。オレは小柄なのと、昔は女の子によく間違えられていたこの顔立ちのせいで、後輩からも「可愛い」などと舐めたことを言われがちである。まさか悪ふざけでオレに投票したやつはいないと信じたいが。
 約束の十時になって、残るふたり――瞬と()()が連れ立ってやってきた。元気いっぱいの瞬と対照的に、仁木はいつもどおりの眠そうな目で、ふわふわした髪を気だるげにいじっている。
「あっ、ヒナ先輩もシロ先輩も早い!」
「早くねーよ、十時ジャストなんだから。まあ、瞬は間に合っただけでも及第点か」
「わー、ひどいなぁヒナ先輩。おれ、そんなに遅刻魔じゃないっすよ。ね、ニッキー先輩」
「あは、(もと)(むら)はわりと遅刻しがちじゃない?」
 ニッキー先輩こと仁木(りょう)()(ろう)は、意地悪そうににやりと笑う。
「部屋に道着忘れて取りに戻ってましたー、とかよくやってるじゃん」
「『よく』じゃないっす。三回くらいっす!」
 オレは「三か月で三回は多いわ」とツッコミを入れた。
「にしても、兎川と大城はなんで揃ってスポーツバッグ? 私服で出かけるのにさ」
 仁木に指摘されて、オレと宗吾はお互いのバッグを見た。肩から提げるタイプの、角ばったエナメルのスポーツバッグ。学校指定のものだからお揃いだ。
「俺のは空だ」宗吾は自分のバッグを押して、ぺちゃんこにへこませてみせた。「有岡さんへの贈り物を入れるバッグが必要だと思ってな。どれくらいの大きさのものを買うかわからないが、見えないように持ち帰らなきゃいけないだろう」
 オレも、まったく同じ理由でバッグを空にしてきたので驚いた。そう言うと、仁木は「あは」と笑う。
「さすが、ふたりとも気が利くねー。おれなんか、ウェストポーチだけで来ちゃった」
 仁木は小さくあくびをする。ショッピングモールでついでに自分の買い物がしたい、という不純な理由でついてくるやつだから、やる気はなさそうだ。まあ、来てくれるだけありがたいか。オレは、瞬が背負っているやたらでかいリュックに視線を流す。
「瞬ももしかして、プレゼント入れるために……」
「いや、普通にこれしかリュック持ってないだけっす!」
「……あ、そう」
 いつまでもここで駄弁だべっていても仕方ない。というわけで、オレたちは門を出て出発した。すぐそばにあるバス停の前で待つ。ぼんやり佇んでいるうち、仁木が大あくびをした。
「仁木、眠そうだな。遅くまで勉強か」
「おれがそんなお利口に見える? 夜、彼女と通話してたらつい二時ごろまで盛り上がっちゃっただけ」
 すかさず、瞬が「惚気のろけだ惚気!」とはやし立てた。
 オレには不思議なこととしか思えないのだが、全寮制男子校である霧森学院にも、校外の女子と付き合っているやつがいる。あすなろ館にもそんなやつがいた。仁木の場合、彼女とは校外模試の会場で出会って仲良くなったのだとか。漫画みたいだ。
 瞬が彼女の話を聞きだそうとするのを仁木がのらりくらりとかわすうち、バスがやってきた。車内はがらがらだったので、四人で奥のほうに並んで座る。
 両側に木々が立ち並ぶ坂道をバスがゆっくり下り始めると、なんだかわくわくしてきた。六月の晴れた日、がら空きのバスに友達と乗って、賑やかな街へ向かう。単調な寮生活を送っていると、こんな何気ないことが不思議と新鮮に感じる。
「有岡さんになに買うか、みんな考えてきたか?」
 オレが切り出すと、瞬が勢いよく挙手した。
「はい! おれ、正解見つけたっす。運動部の男子高校生がもらって嬉しいもの第一位……それは、プロテイン!」
「プロテインなぁ。そりゃ嬉しいけど、日用品っぽすぎて、贈り物にするのは違くないか」
「待って、ヒナ先輩。おれたち五千円の予算があるんすよ。それだけお金があれば、一キロ入りのでっかい袋買えるじゃないっすか。それにリボンかけたら超スペシャルっすよ!」
 たしかに大袋を思い浮かべると、悪くない気がしてきた。プロテインというやつは、地味に高いのだ。オレもお小遣いの関係上、毎日は飲めていない。一キロのプロテインをもらったら、絶対に嬉しい。
「けっこう有力候補かも。ただ、なにか形に残るものも贈りたいよなあ。筆立てとか、置き時計とかさ。宗吾と仁木はなんかある?」
 宗吾は「ちょっといいボールペン」と、いかにも堅物な彼らしい案を出した。仁木は「現地で見てフィーリングで決めればいいんじゃない」などといい加減なことを言う。
 平和に話すうちバスは走り続け、いくつかの停留所で客を拾った。
 坂を下るにつれ窓の外の木々はまばらになり、替わりに住宅が多くなる。(あら)(かわ)を渡ると、コンビニや飲食店も増え始めて、ビルの切れ間に霧森駅の姿が現れた。
「あー、おれ、駅前来るの久々かもっ! 最近、遠征もできてなかったしなあ」
 瞬がそわそわと身体を揺すり始めたので、肘でつついてやる。
「いいか、はしゃぎすぎるなよ。霧森学院空手部として恥ずかしくない行動をしろよ」
 霧森駅南口でバスを降りると、オレたち四人は大きく伸びをした。
 駅のこちら側は比較的静かで、大きな施設といえばプラネタリウム付きの図書館があるくらいだ。目当てのショッピングモールを含めて、人が集まる建物はだいたい北口のほうにある。
「さっ、行きましょ行きましょ!」
 オレの注意をもう忘れたのか、飛び跳ねるような元気さで瞬が先陣を切った。
 瞬の気持ちもわかる。本屋やラーメン屋が入っている駅のコンコースを歩き始めただけで、すでに心が浮き立ってきていた。だから連絡通路を渡ってモールの二階に足を踏み入れたとき、オレの心はほとんどお祭り状態だった。
 眩しくてカラフルな世界!
 明るいモールの中には、色と音が満ちていた。入ったところはアパレル系の区画。大人っぽい服屋のブルーの看板と、靴屋の赤と黄色のロゴが、コントラストを演出していて胸が躍る。十代女子向けっぽい服が並んでいるあの店には、きっとオレは一生足を踏み入れないんだろうけど、その空間に満ちているパステルカラーの色彩は目に心地いい。
 要は「いろんな店がある!」って目移りする感じが、すでに楽しいのだ。廊下の吹き抜けの下はフードコートで、覗き込むとアイスクリーム屋の前に行列ができている。あちこちから小さい子のはしゃぐ声が聞こえてきて、ああ、日曜日だな、と感じる。
「なー! モールってやっぱ楽しいな!」
 つい声が弾んでしまった。瞬がにやりとして「はしゃぎすぎっすよ、ヒナ先輩」とやり返してきた。オレはごほんと咳払いをする。
「そ……、そうだな。よしおまえら、ここからは霧森生の名に恥じない行動をしよう。間違っても、変な事件には巻き込まれないように――」
 オレの言葉をかき消すように、女の人の叫び声が聞こえてきた。

     

「泥棒! 泥棒!」
 声は吹き抜けを挟んで、モールの対角線上から聞こえた。黒いジャンパーを着た男が、明らかに彼のものではないハンドバッグを小脇に抱えて、猛然と廊下を駆けていく。その男の背中をまっすぐ指さしている女の人が、声の主だろう。そばにあるベビーカーを見て、彼女が男を追えない理由もわかった。
「瞬、持ってろ!」
「元村、頼む!」
 オレと宗吾が、同時にスポーツバッグを放り出した。背後で、瞬が「ぐえ」とうめく声が聞こえたが、構わず駆け出す。
「雛太は後ろから回れ、挟み撃ちだ!」
「っ……! 気をつけろよ宗吾!」
 本当はオレが犯人に立ち向かいたいところだったが、体格からして宗吾が適任なのは確実だ。宗吾はモールの反対側へ突っ走り、オレは吹き抜けのこちら側を走った。
 男は脇目もふらず駆けていく。おばさんがきゃあと声を上げて飛びのく。小学生男子の集団が、怯えたように壁際に逃げる。
 横目で見ながら、エスカレーターに辿り着かれたらまずい、と思ったが、競争に勝ったのは宗吾だった。昇降口の横を通り過ぎて、勢いを殺さずに男のほうへと向かっている。黒いジャンパーの男は宗吾の強面にひるんだようで、たたらを踏んで立ち止まると、身を翻して逆方向へ走った。そのときには、オレも回り込みを終えていた。
 廊下の真ん中に脚を広げて立つオレを見ても、男の勢いは止まらない。目を血走らせた男は、獲物のバッグを肩にひっかけて、反対側の手を拳にした。
「どけ、チビ!」
 ご挨拶だな。オレは深呼吸をして、息を整えた。
 リズムを崩すな。指先まで意識を集中して、いつもどおりに。
 男はまっすぐオレのほうを目指している。距離が縮まる。十メートル、五メートル。男が腕を引いて拳を振りかぶった、その刹那せつな
 間合いを詰めて、オレは爪先蹴りを放った。ひゅんと風を切った脚の先が、男の胸許を突く。軽い蹴りだったが、全力で駆けていた彼自身のスピードが反作用となり、男はえずくような声を上げて尻餅をついた。すかさず、その後ろから宗吾がのしかかり、両腕をねじ上げる。
 しばらくすると、何人かの男性が宗吾に加勢してきた。ひったくり男は抵抗をやめて、うなだれる。
「すげえ、すげえ、ヒナ先輩! シロ先輩も、カッコいいっ! あ、はい、これ」
 瞬が興奮してまくし立てながら、オレと宗吾にスポーツバッグを押しつけてきた。それを肩にかけていると、被害者の女性がベビーカーを押しながら走ってくるのが見えた。そうだ、もっと大事なバッグがあった。オレは、床に落ちていたハンドバッグを拾ってあげる。
()られたの、これっすよね?」
「はいっ。ありがとうございます、本当に、ありがとう……」
 周囲で、わっと歓声が上がった。いつのまにか、フロアのあちこちから人が集まってきている。まもなく仁木が警備員三人を連れて現れた。部下たちが犯人を引き立てるかたわら、警備主任のおじさんがオレたちに向き直る。
「高校生のおふたりが犯人を追いかけたそうですね。怪我は? ……それはよかった。しかしお客様自身で捕まえるというのは危険ですからね、今後は我々に任せてください」
 咎めるような口調だった。それを聞いて、そばにいたおじいさんが口を挟む。
「まず褒めてやってもいいんじゃないかな、あなた。そこの若者たちは立派だったよ。おい君たち、いったいどこの学校だい」
 名乗るほどの者じゃありません、と言おうとしたが、瞬が「霧森学院空手部です!」と大声で宣言した。ふたたびフロアがわっと沸いて、あちこちで拍手が上がる。瞬は、にこにこと片手を上げて拍手を受けた。おまえ捕まえてないだろ。
「霧森学院かい」おじいさんが目を細めた。「春の事件でいろいろ言われていたけど、やっぱり君たちみたいな立派な子らもちゃあんといるんだね。わしら地元のもんはずっと応援していたけど、今の捕物を見たら、もっと応援せにゃいかんと思ったよ」
 いろいろな思いが込みあげて、目頭が熱くなった。オレは他の三人と目を見交わしてから、「ありがとうございます!」と声を揃えた。

 その後、オレたちはバックヤードの部屋に連れていかれた。
 駆けつけてきた霧森警察署の刑事に事情聴取されることになったのだが、驚いたことに、オレたちの聴取を担当したのは春の事件で顔見知りになった(むろ)刑事だった。
「今日の犯人は、お母さんが赤ちゃんをあやしてる隙をついて、そばのベンチに置いてたバッグに手を伸ばしたんだってね。財布だけ盗ろうとしたら見咎められて、やけくそでひったくったんだとか。最近、市内で似たような置き引きが多発してたから、余罪を調べてみるよ」
 若くて情熱に溢れ、でもちょっと口が軽いところは相変わらずだ。
「そんなわけで、君たちは大手柄だよ。感謝状を出せるんじゃないかな」
「いや、そんなたいしたことしたわけじゃないので。……室さんたちも、頑張ってください」
 春の事件の余波で大変な思いをした者同士だ。オレは室刑事とがっしり握手をした。
 聴取が終わると正午を過ぎていたので、オレたちは一階のフードコートへ向かって、ハンバーガーで腹を満たすことにする。普段ならもったいぶってポテトを食べながら雑談を楽しむところだけど、今日はてきぱきと食べ終えて、すぐに上のフロアに戻った。今日ここへ来た大事な目的は、まだ果たされていないのだ。
 まず文房具店を見たが、思いのほかしっくりくる価格帯の商品がなかった。宗吾が出した「ちょっといいボールペン」という案は魅力的だったけど、実際にガラスケースの中にある高級品を目にすると、オレたち高校生は値段にびびってしまった。とりあえず、寄せ書きを書くための色紙だけを購入する。これは、折れにくいクリアホルダーを持っているという瞬に託した。
 続いて雑貨屋に向かう。店舗に足を踏み入れるとすぐ、仁木が「あっ!」と声を上げて、目立つところに並んでいたマグカップの箱を持ち上げた。
「それ、『ねむうさ』じゃん」
 さほど流行に敏感ではないオレでも知っている。『ねむうさ』は、いつも眠そうにしているウサギの「ねむうさ」と、その愉快な仲間たちを描いたゆるい漫画だ。最近では、街を歩けば必ず見かけると言っていいほどの人気ぶりである。
「有岡さんに買うのか? 『ねむうさ』好きなイメージねーけど……」
 オレが指摘すると、仁木は苦笑して「違う違う」と手を振った。
「有岡さんのいかつさでこのグッズ持ってたら面白すぎでしょ。彼女が好きだから、今度会うときプレゼントしようと思って。これ今日発売なんだよ。売り切れてなくてよかった」
 仁木の個人的な買い物というのは、このことだったのか。彼はいそいそとレジへ向かう。
「……仁木はほっといて、有岡さんへの贈り物を見繕おう」
 いささか不機嫌そうに、宗吾が言った。というわけで、オレたちは雑貨屋の中を見て回る。『ねむうさ』グッズはやはり多くて、でっかいぬいぐるみがワゴンに積まれているのが目を引いた。他にもそんなファンシー系商品が多い。つまり、有岡さんのプレゼントに相応ふさわしいと思えるものは、あまりない。
「お待たせー」紙袋を提げた仁木がレジから戻ってきた。「なんか見つかった? ああ、やっぱ、いいのはない? そうだよね。次、行こうか」
 雑貨屋を出て歩き出したとき、瞬が突然まじめな顔で口を開く。
「でもさ、ニッキー先輩。男だから可愛いの似合わないとか、今はそういう時代じゃないっすよ。おれと同室の子も『ねむうさ』めっちゃ好きですし」
「あー、元村の同室って、吹奏楽部の可愛い子でしょ? 一年生のお姫様代表って噂の」
「そうっす。ヒナ先輩の後継者にあたる……痛い痛い! ヒナ先輩、『空手に先手なし』っすよ!」
 そんな馬鹿なやりとりをしつつ、オレたちはさらにあちこち見て回った。しかし、プレゼント選びは予想以上に難航した。服や靴は、本人が試着しないと合わない可能性があるから買えない。本屋やCD屋も見てみたが、「これは」というものが見つからなかった。
 というわけで、最終的にオレたちはスポーツ用品店のプロテイン棚の前に流れ着いた。
「ね? ね? だからおれ言ったじゃないっすかーっ」
 たしかに瞬の言ったとおりだ。運動部の男子高校生で、プロテインをもらって嬉しくないやつはいない。筋肉はすべての始まりにして到達点。皆の憧れの的だ。
 この店にはメーカーや味の違いを含めれば、二十種類ほどもプロテインがあって、それを見ているだけでわくわくしてくる。試しに一キログラム入りのでっかい袋を持ってみると、その重みはさながら宝石袋のように甘美だった。
「ぶっちゃけ、これがいちばん嬉しいかも……」オレは認めざるをえなかった。
「異議なし」と、仁木。
「これに勝るものなし」と、宗吾も続いた。
 というわけで、きわめて現実的なチョイスとなってしまったが、我らが大将への贈り物は一キロのプロテインと決まった。味は、有岡さんが好きなココア。税込四千八百四十円也。さっき買った色紙と合わせて、しくも予算の五千円ぴったりだった。
 お金を預かっていたオレが代表して会計をする。三千円以上の買い物ならプレゼント用の包装が無料ということだったので、ありがたくお願いした。オレは買ったものをスポーツバッグに収めて、店の外に出た。待っていた三人に向かって、ぐっと親指を立ててみせる。
 本当にいい買い物ができた。変な事件には巻き込まれてしまったけど、最高の日曜日になったんじゃないか。
 そう思っていた。

     

「ただいまーっ、エチカ」
 寮の部屋に戻ると、エチカは勉強机の前に座って本を読んでいた。ちらりと横目でオレを見て「おかえり」と返してくる。
 時刻は午後五時近くになっていた。窓の外も、夕暮れの色に染まりかけている。
「ふへーっ、疲れた疲れた。おっ、ただいまへっくん。いい子にしてたかー?」
 ガラスケースの中のハリネズミに声をかけると、「していた」と飼い主が答える。
「有岡先輩へのプレゼントは買えたのか」
「おお、ばっちりな。有岡さん、きっと泣いて喜ぶぜ。そうだエチカ。なに買ってきたか当ててみろよ、おまえの推理力で」
 提げているスポーツバッグを、ぽんと叩いてみせる。エチカは、その中身を透視しようとするかのように、長い睫毛に縁どられた目を細めた。
「……さすがに、この少ない情報で当てろと言われても無理があるな。ヒナは出かけるときそのバッグを空にしていたから、大きなものでも入りそうだ」
「じゃあヒント。重さは一キロです」
「プロテインか」
「え!? すごっ、なんでわかった」
「すごくもなんともない。商品を買うときに、わざわざ重さを測定するわけないだろう。つまりあらかじめ内容量が記されたものだ。その条件に当てはまり、かつ運動部部長へのプレゼントとくれば察しがつく」
 まあ、言われてみればそうか。オレのヒントの出しかたが悪かった。
 そういえば、プロテインを買って中に入れて以来、一度もバッグを開いていなかった。あの後けっこう歩き回ったから、包み紙が破れたりしてしまっていないか、一応確認しておこう。
 オレはスポーツバッグを床に置いて、チャックを開けた。
 そして――
 眠たげなウサギと目が合った。
「え……?」
 思わず固まってしまった。あまりの事態に、言葉も出なくなる。
「……プロテインではなく、ウサギのぬいぐるみに見えるんだが」
 エチカに後ろから声をかけられて、硬直が解けた。こわごわと、バッグの中に入っていた物体を引きずり出す。それはあの大人気漫画の主人公――「ねむうさ」のぬいぐるみであった。
「な、な、なんじゃこりゃあ!? 買ってないぞオレこんなの。え、待ってなんでっ?」
 どこかで誰かの荷物と取り違えたのか――と思い、バッグをひっくり返して底を確認してみたが、間違いなく自分の文字で「トガワ」と書いてある。考えてみればつい今しがた、食堂に一旦バッグを置いたあと、この文字を見て自分の持ち物であることを確認したのだった。
「ど、どっかの店で間違ってバッグに入れちゃったのかな。無自覚に万引きしてた?」
 両手で「ねむうさ」をね回してみたが、幻ではなくたしかな感触を伴っていた。抱き枕のような寝そべりポーズの、けっこうでかいぬいぐるみだ。長さ四十センチ、厚さ十五センチってところだろうか。布はすべすべの素材で、ボディは弾力がある。垂れた両耳がふわふわと揺れる。
 ぬいぐるみは綺麗で、商品説明のタグもついているから、新品と見て間違いないだろう。「無自覚の万引き」という不吉な予感が強まったが、ひとまず「ねむうさ」を床に置いてバッグのチャックをめいっぱい開けたところで、オレはさらなる異状に気づいた。
「……ていうか。プロテインがない!」
 バッグの中は空っぽだった。
 外側についている小物入れも開けてみたが、いつも入れっぱなしのポケットティッシュと絆創膏、後はこの部屋の鍵があるだけだ。そもそも今日は外出中にここを開けていないし、こんな小さいところにプロテインが入るはずもないが。
 五千円近くした、一キログラムのプロテイン――有岡さんへの贈り物。それがいつのまにか、ウサギのぬいぐるみに化けてしまっていた。動揺のあまり、額に汗が滲む。
「エチカ……。いったいどういうことなんだろう、これ。たしかにオレ、プロテインを買って、このバッグに入れたんだぞ。しかも、バッグはほとんど肌身離さず持ってた。なんでこんなことになったのかわからない」
 エチカもオレの慌てぶりを見て、事態の異様さがわかってきたらしい。眉間に皺を刻んで、ぬいぐるみを見つめている。
「ヒナは、これを買った覚えはないんだな?」
「まったく。そりゃ『ねむうさ』は大人気だから、今日も雑貨屋とゲーセンで見たけど、触ってもないしオレは捕獲してない」
「その言いかただと、他の誰かが捕獲したということか」
「瞬がゲーセンで獲ってた。でも、それはもっと小さいサイズだったし……そもそも、プロテインと入れ替わるタイミングなんてなかった」
 エチカはぬいぐるみから、オレの顔に視線を移した。
「ヒナが最後にバッグの中を確認したのはいつだ」
 ここ数時間の記憶を頭に呼び起こしてみる。結論はすぐに出た。
「スポーツ用品店で、買ったプロテインをバッグにしまったのが最後だった。それからは開けてない」
「スマホや財布を取り出す機会はなかったのか」
「どっちも上着のポケットに入れてたんだ。すぐ取り出せるように」
「どこかでバッグの重さが変わった感じはしなかったのか。このぬいぐるみは大きいが、それでも一キロはないだろう」
 少し考えてみてから、オレはかぶりを振った。
「全然気づかなかった。そりゃ一キロって手で持つと重いけど、バッグに入れて肩にひっかけてると、多少の違いはわかんねーんだよ。バッグは肩当てもついてるし……」
「中で物が動いたときの感触や音はどうだ。ずっと同じだったか」
「エナメルのスポーツバッグって硬いから、あまり感触は伝わってこないんだ。音もそんなに聞こえない」
 エチカの質問は途切れた。黙って、なにかを考えているような顔になる。オレは、すがるようにその顔を見つめるしかなかった。やがてエチカが口を開く。
「とりあえず――今日一緒にいたメンバーに尋ねてみたらどうだ。ひょっとしたら、誰かが事情を説明できるかもしれない」

 さっき廊下で別れたばかりの三人――瞬、宗吾、仁木に、LINEで連絡を取った。
「プロテインがウサギに化けたから来てほしい」と説明すると、宗吾が真っ先に血相変えて飛んできて、瞬も半笑いで現れた。最後に、仁木が面倒くさそうにやってくる。
 全員揃ったところで、オレは事情を説明した。エチカは少し離れたところで、椅子に座ってこちらを見守っている。
「……ってわけなんだけど。誰か、プロテインが『ねむうさ』に化けた理由を説明できねーか?」
 皆一様に、首を横に振った。
「知らないっす。『ねむうさ』がプロテイン食っちゃったんじゃないっすか。筋肉ムキムキになることを夢見て」
「ふざけてる場合じゃねーぞ、瞬。有岡さんへのプレゼントがなくなっちまってんだ」
「えー、でもそれは、兎川くんの責任だと思いまーす」
 ふてくされたような声で仁木が指摘した。オレは責任という言葉の重さにひるむ。
「……ごめん。でも、本当にオレ、いつどうしてこんなことになったのかわかんなくて。なあ宗吾、なにかわかんねーか?」
 頼れる男に訴えてみた。宗吾もこの事態によほど驚いたらしく、呆然とぬいぐるみを見ていたが、はっと顔を上げた。
「俺は……すまんが、わからん。この『ねむうさ』なるキャラクターにも詳しくないからな。今日、仁木が話していたんだから、わかるなら仁木だろう」
「いやいや、おれが買ったのマグカップだけだから。ていうかさ、それで言うなら、プロテイン買った後に元村がゲーセンでゲットしてたじゃん。あれと同じやつじゃない?」
 仁木に視線を向けられて、瞬はぱたぱたと手を振る。
「待ってくださいよ、ニッキー先輩。ゲーセンで捕まえたの、これの半分くらいのサイズだったじゃないっすか。それはもう、お土産でルームメイトにあげちゃったし」
「ああ、そういえばあれは小さかったね。……それよりこれって、おれがマグカップ買った雑貨屋に並んでたやつじゃない?」
 オレは「そう思う」と、仁木に同意を示した。あの店のワゴンに積まれていたものと同じ商品だろう。
「しかし――」
 と、エチカが部屋の向こうから口を挟んだ。全員がそちらを向く。
「今日、その店でぬいぐるみを購入した人間は、この中にいないということだな」
 オレたち全員が、ぎこちなく頷いた。
「そうだ、エッチ先輩!」瞬がぴょこんと飛び上がる。「プロテインがウサギになっちゃった謎、解き明かしてみてくださいよっ」
 きょとんとしている宗吾と仁木に向かって、瞬は慌ただしく説明する。
「四月の、生徒会長が殺されちゃった事件があったじゃないっすか。あれ、じつはこのエッチ先輩が解決してくれたんすよ!」
「は? いやいや……。鷹宮くんは頭いいとは聞いてるけど、いくらなんでもおれたちと同じ高校生が――」
「いや、マジなんだよ仁木」オレも言葉を添えた。「エチカが犯人を言い当てたんだ。だから、瞬の言うように……エチカに今日起きたこと話して、推理してもらってもいいか?」
 宗吾と仁木はちらっと視線を交わしてから、同時に頷いた。
「雛太がそう言うなら、話してみてもいいんじゃないか」
「ま、減るもんじゃないしね」
 同意を得たところで、オレは隣の椅子に座っているエチカに、頭を下げた。
「頼む、エチカ! 有岡さんへのプレゼントを取り戻すために、この事件の謎、解き明かしてくれっ!」
「……解ける、と確約はできないが」
 エチカは目を閉じてから、ゆっくりと開いた。眼光が、いつにも増して鋭くなったように思えたのは、オレの錯覚だろうか。
「多少の知恵は出せるかもしれない。ヒナがプロテインを買った後の、全員の行動を話してみてくれ。必ずどこかに、バッグの中身をすり替えられるタイミングがあったはずだ」

     

 プロテインを買ってスポーツ用品店を出たのは、たしか二時半ごろのことだ。
 空手部一、二年生のLINEグループに「プレゼントはプロテイン」という一報を入れたところで、さて、どうしようか、と四人で顔を見合わせた。用事は済んだが、せっかく駅前まで出てきたのだからモール内で少しだけ遊ぼう、という流れになった。
「あっ! おれ、ゲーセン寄りたいっす!」
 と、瞬が提案した。他に思いつく場所もなかったので、オレたちは後輩の言うことを聞いてやった。
 スポーツ用品店は、アパレル系がひしめいている二階にあった。オレたちは三階に上がり、文具店、雑貨屋、本屋など、さっき見た店の前を通り過ぎて、フロアのいちばん奥にあるゲームセンターに向かった。
 騒がしい店内をしばらくあちこち眺めていると、瞬が「ねむうさ」のぬいぐるみが獲れるクレーンゲーム機を見つけた。ぬいぐるみは二十センチくらいの小ぶりなやつだが、一回百円でプレイできる良心的な価格設定だった。

「……で、瞬が『これなら獲れそう!』って言って、プレイし始めた」
 オレの説明を、エチカは黙って聴いていた。
「その間ももちろん、オレはずーっとバッグを離さず持ってた。ただ、ゲーセンの狭い通路内だと邪魔になるから、足の間に挟んでたけど」

 瞬がプレイを始めてすぐ、宗吾が「ちょっと便所」と言ってその場を離れた。オレと仁木は、瞬の奮闘を横から見守っていた。五百円を費やしてもまだ「ねむうさ」がゲットできず、瞬が泥沼にハマりかけたとき、仁木が首筋を掻きながら進み出た。
「見てらんないなぁ、ちょっと替わって。……元村、予算は?」
「う……、あと三プレイくらいなら」
「オーケー、じゅうぶん。負けたら返金するね」
 仁木は瞬から百円玉を受け取ると、慣れた手つきで投入口に押し込んだ。普段に似ぬ真剣な眼差しで、仁木はアームを注視する。小気味よい音を立ててボタンが押され、クレーンが降下した。アームは、瞬が狙っていた胴体の細い部分ではなく、「ねむうさ」のお尻寄りを摘まみ上げた。見当外れの場所かと思えたが、宙に浮きかけたぬいぐるみがアームから離れたとき、わずかに尻が落下口に近づいた。
「すごっ」
 オレは思わず興奮の声を上げた。瞬も目を輝かせて、次の百円玉を仁木に渡した。二回目で、またぬいぐるみは穴に近づき、もうほとんど落ちかけていた。そこで、仁木は前線を退いた。
「最後は自分でゲットしたいでしょ。どーぞ」
 そして瞬は仁木のお膳立てにより、ラストプレイで「ねむうさ」を捕獲したのだった。瞬は目を輝かせて、仁木に礼を述べた。
 筐体きょうたいの横に備え付けられていたビニール袋に瞬が景品を入れたとき、宗吾が戻ってきた。

「とにかく、オレはゲーセンにいる間ずっと、バッグを足の間に置いててチャックも開けなかった。だから、誰かが中身を出し入れすることは不可能だった」
 瞬と仁木もオレの証言を裏付けた。エチカは頷いて、続きを促す。

 ゲーセンを出ると、オレたちはふたたびフードコートに向かった。仁木がアイスクリームを食べたいと言い出して、瞬がそれに乗っかったのだ。
 仁木と瞬は豪華な三段重ねアイスを食べていたが、オレは財政的に厳しかったので小さなカップアイスを頼んだ。宗吾もオレの注文を真似した。
 みんなで雑談しながらちまちまアイスを食べていると、ちょっとした事件が起きた。物凄い勢いで完食した瞬が、さっと席を立ったのだ。
「す、すんません……。おれ、トイレ……」
 お腹が冷えてしまったらしい。そこで、ベンチシートに並んで座っていたオレが、瞬の荷物を手近に引き寄せた。

「もうっ、そんな恥ずかしい話しなくていいっすよヒナ先輩。お腹すぐによくなりましたし」
 瞬が空中にパンチを繰り出して抗議したが、エチカは真顔で「大事なことだ」と言った。
「ヒナは元村が置いていった荷物を『手近に引き寄せた』んだな。なぜだ」
「そりゃ、午前中の事件があったからな」
「なんだそれは」
「あ、まだ話してなかったな」今日一番の土産話だったのに、ウサギの出現で忘れてしまっていた。「モール内でひったくり犯捕まえたんだよ」
「ひったくり? ……どうしておまえはそう危ないことに首を突っこむんだ。大丈夫だったのか」
「大げさだな、全然平気だって。その話は後でするから。で、えーと、そのとき『最近置き引きが多い』って聞いてさ。だから瞬が離れてる間に盗られないように、って思ったんだ。でも、オレのバッグはチャック閉めっぱなしだったから、瞬のぬいぐるみが入り込む余地はなかったぞ」
「それに、サイズもこいつとは違うんですってば」
 瞬が、床に置いてある「ねむうさ」をつんつんとつついた。宗吾がその手を摑む。
「よせ、元村。どこから紛れ込んだかわからんぬいぐるみなんだから、後で返品するような事態になるかもしれんだろ。……話を続けよう」

 その後は、たいした事件は起きなかった。
 瞬がトイレから戻り、しばらくしてオレたちはフードコートを出た。時刻は四時になっていて、もう他に見たいところもなかったので、じゃあ帰ろう、という流れになる。そこで、オレも一回トイレに寄った。宗吾と、さっき用を足したばかりの瞬も「もう一回」とついてきた。
 そのとき、オレだけ仁木にバッグを預けた。大事なプレゼントが入っているので、万が一にも汚したくなかったのだ。トイレは三人とも、一分ちょっとで済んだ。
 それからモールを発った。来たときと同様、二階の連絡通路から駅へ戻り、南口に出た。ちょうどいい時間のバスがあったので、五分と待たずに乗り込めた。
 帰りのバスは多少混んでいたが、停留所を五つほど過ぎたところで全員座れた。そして、霧森学院前まで辿り着いた。

「今の話を聞いていると、仁木はヒナのバッグをひとりで預かったタイミングがあるようだな」
 エチカに視線を向けられて、仁木は唇を尖らせた。
「ひどいなー、鷹宮くん。おれがプロテイン盗んでぬいぐるみを詰めたとでも言うの? そんなの無理だって。おれの持ち物はウェストポーチと、マグカップが入った紙袋だけだったからね。プロテインもぬいぐるみもでかすぎて、隠し持つなんて無理だって」
「そうだぞエチカ。仁木がひとりになった時間、せいぜい一分くらいだし」
 エチカは表情を変えず、軽く頷く。
「わかっている。ただ、事実を確認しているだけだ。仁木がひとりになっている間、ヒナのバッグに不審人物が近づいたことはなかったか」
「全然。ベンチに座ってスマホ見てたから、ずっと監視してたわけじゃないけどね。でも、さすがに誰かが接近してチャックを開けたりしたら絶対に気づくよ」
 エチカは少し考え込むような間を置いてから、もう一度頷いた。
「ここまでの流れでは、プロテインとウサギが入れ替わる機会はなさそうだな。となると、残る機会は寮に着いた後だけだ。バスを降りてからヒナがこの部屋に戻ってくるまでのどこかで、そういうタイミングはなかったか」
「うーん。順番に振り返ってみるぞ。まず、バスを降りてまっすぐ、寮まで帰り着いた」
「そうすると、玄関で(まさ)()が待ち構えてたんだよね」
 仁木の言葉に、エチカは小さく首をかしげる。
「マサシとは誰だ」
「仁木、おまえその呼び方やめろ」オレは同級生を叱ってから説明する。「空手部顧問の(おお)()(わら)先生のことだよ。大河原将司」
「ああ……。竹刀を持っている生徒指導部の教師か」
「そう、前にエチカも叱られたことあるだろ。最近はちょっと丸くなってきたけどな」
 春の事件のあと、鬼のように厳しかった大河原先生の態度も心なしか軟化した。怒りっぽい面のほうが虚勢で、もしかしたら地の性格は案外優しいんじゃないか、と最近は感じる。
「玄関で大河原先生に『話がある』って言われて、靴履き替えたらすぐに食堂まで連れてかれた。オレたちがひったくり犯を捕まえたって連絡が先生まで行って、帰りを待ってたらしい。で……。『帰るのが遅い』とか、『危険なことをするな』とか説教された後、『でもお手柄だった』って褒められた」
「そうか。で、その話の間、ヒナはバッグをどこに置いていた?」
 大河原先生の人情味に興味はないようで、エチカは淡々と尋ねた。
「えーと。先生にかなり急かされてたから、全員大慌てで食堂に入って……。で、入ってすぐの壁際のところに、みんなで放り出すように荷物を置いたな」
「先生の話には、どれくらい時間がかかった」
「三分……くらい?」
 オレが同意を求めると、他の三人が頷きを返した。
「ただ、荷物を放置してたっていっても、廊下じゃなくて食堂の中に置いてたからなあ。食事の時間帯じゃないから、食堂は無人だったし。誰か入ってきたら気づいたはずだ」
「そうっすね」瞬が頷いた。「あのとき、おれたちは廊下側に背を向けてたから荷物は視界から外れてたっすけど……大河原先生は廊下側を向いてたんで、忍び込んできたやつがおれたちの荷物に手を伸ばしたら絶対見えてたはずっすよ」
 それを視界に捉えていて、先生が黙っていたはずはない。
 つまり、オレたちが食堂にいたとき、バッグに触れた者はいなかった。
「後はもう、ほとんど話すことない。大河原先生の話が終わったら、オレたちは自分の荷物を持って、それぞれの部屋に戻った。で……ついさっき、エチカの前でバッグを開けたとき、オレは初めて中身がウサギになってることに気づいたんだ」
 オレが口を閉ざすと、場がしんと静まり返った。
「ど……どうだ、エチカ。ここまでの話で、事件の真相はわかったか?」
 エチカは、しばらく黙っていた。考え込むように口許に当てていた手を外して、こちらを見た。オレは期待に胸を膨らませたが――名探偵は、ゆっくりと首を横に振った。
「すまないヒナ。おれも、真相には辿り着けなかった。――今まで聞いた話だけでは、プロテインとぬいぐるみが入れ替わるチャンスはなかったとしか思えない」

     

 宗吾、仁木、瞬の三人は自分の部屋に戻った。
 オレとエチカは、無言のまま椅子に座っている。エチカが考え込んでいる顔なので、話しかけるのはやめておいた。手持ち無沙汰になってガラスケースの中を覗き込むと、へっくんがわら製の隠れ家からちらっと顔を出してくれる。だが、鼻をひくつかせると「なんだ、ごはんをくれるわけじゃないのか」とでもいうように、すぐ引っ込んでしまった。
「ヒナ」
 エチカが突然口を開いたので、オレは椅子ごと振り向く。
「モールから帰る直前におまえたちが寄ったトイレのそばに、コインロッカーかなにかなかったか」
「ロッカー? ……どうだったかなあ。多分、なかったと思うけど」
 エチカは「そうか」と言って、また黙った。それから、ふと思いついたように立ち上がって、ぬいぐるみのそばに跪いた。つきっぱなしになっていた商品タグを見る。
「……三千七百円」
「けっこうするな。まあ、でかいもんな」
 エチカはなにを考えているのだろう? プロテインが「ねむうさ」に化けてしまったことは、値段となにか関係しているのか?
 疑問に思ったところで、ひとつ気がついた。エチカがロッカーの件について尋ねた意図だ。
「もしかして、仁木がウサギとプロテインをすり替えたと思ってんのか」
 エチカは「ねむうさ」を両手で持って観察しながら、ゆっくりと答える。
「少なくとも、ヒナの手荷物をひとりで持った瞬間があるのは、仁木だけだ」
「うーん、そりゃそうだけど。さっきも言ったみたいに、ほんの一分の間のできごとだったからな。仁木は大きなものが入るバッグ類は持ってなかったし。それでロッカーって思いついたんだろうけど……。でも、多分ロッカーはなかったと思う」
「いや、念のため訊いてみただけだ。仮にロッカーが近くにあったとして、仁木がそこですり替えをおこなったと考えるのは馬鹿げている。なぜなら、すり替えるためには事前にこの――」
 と、エチカはオレの鼻先に「ねむうさ」を突きつける。
「ぬいぐるみをロッカーに入れておく必要がある。ヒナ以外のふたりも同時にトイレに立ったのは偶然に過ぎない。ヒナの荷物を持ってひとりになるタイミングがあるとは限らないのに、そんな事前準備をするのは不自然だ」
「たしかに」
「それに、もっと不自然なこともある」
 エチカは小さく呟いたが、その先の言葉は続けない。
 じれったくなってエチカの考えを吐き出させようとしたとき、ドアがノックされた。出てみると、瞬と五月女が心配そうな顔で部屋を覗き込んでくる。
「もう六時半っすよ。夕食行きません?」
「ああ、もうそんな時間か……。行こうぜ、エチカ」
 オレたちは部屋を出て、食堂に向かった。
 夕食は、六時半からの一時間の間にセルフサービスで済ませることになっている。今日のメインは、鍋いっぱいの酢豚。賑わっている列に並んで盛りつけを済ませると、隅のほうのテーブルに落ち着いた。朝と同じメンバーで食事を取る。
「ヒナ先輩、大丈夫ですか? なくしちゃったプレゼント、きっとすぐ見つかりますよ」
 五月女が声をかけてくれた。瞬から事情を聞いているらしい。
「ありがとな、五月女。……そういえば、瞬がおまえにぬいぐるみあげたんだって?」
「はい。ぼくが『ねむうさ』好きなこと、瞬くんが憶えててくれて」
「あーっ、もしかしてヒナ先輩、おれの証言が嘘じゃないこと確認したんすか?」
 瞬が騒ぎ出した。面倒なやつだ、と思いながら「ちげーよ」となだめる。
「おまえが獲ったぬいぐるみはもともとサイズ違うってわかってるんだから」
「あの、ぼくちょっと考えたんですけど」五月女が小さく挙手した。「モールに着いたとき、ひったくり犯がいたんですよね。もしかしたら同じようなプロの()()がいて、ヒナ先輩が気づかないうちにバッグの中身を盗んだんじゃ」
「うーん。財布を掏られたならまだしも、掏摸がプロテイン盗むかなあ。それにぬいぐるみが紛れ込んでた謎に説明がつかないし」
「そういえば」
 エチカがお椀を置いて、突然口を開いた。
「ヒナたちが午前に遭遇したという事件について、まだ聞いていなかったな。いったい、どういう経緯でひったくりを捕まえることになったんだ」
「俺も興味があるな」
 と声をかけてきたのは、有岡さんだった。オレは思わず、ぎくりと背筋を伸ばす。
「ここ、座ってもいいか?」
「も、もちろんっす。どうぞ」
「はは、この面子めんつに俺がお邪魔するっていうのは、朝とまったく同じだな」
 オレは思わず目を伏せた。状況は同じでも、オレの心は朝と比べて何倍も沈んでしまっていた。
 せっかく、有岡さんにプレゼントを用意したのに。それも、空手部のみんなからお金を預かって買ったのに。どういうわけだか、それがぬいぐるみになってしまった。原因はわからないけれど、管理していたのはオレだ。有岡さんにもみんなにも、申し訳が立たない。
「どうした、雛太。黙りこくって」有岡さんが、隣の席から顔を覗き込んできた。「おまえたちがモールでひったくりを捕まえたって噂が広まってたから、心配してたんだが。まさか、怪我でもしたのか」
 胸が詰まってしまって、上手く答えられなかった。瞬が割り込んでくる。
「違うっすよ、有岡さん。ヒナ先輩は、酢豚にパイナップルが入ってるからテンション下がってるだけです。ヒナ先輩も自分の武勇伝語るのは恥ずかしいと思うんで、おれが代わりにお話ししますね」
 まったく、普段は困らされることも多いけど、こいつはときどき妙に気が利くからずるい。ありがたく、瞬が語るに任せておいた。どうでもいいけど、オレは酢豚に入ってるパイナップルはわりと好きだ。
 瞬が事件の顛末をいささか大げさに語っていると、近くのテーブルにいた連中が椅子を寄せてきた。ギャラリーが増えたことに気をよくした瞬は、オレの爪先蹴りを再現しようとして「お行儀悪いよ」と五月女に叱られた。
「なるほどな。やるじゃないか、雛太」
 有岡さんは、わしわしとオレの髪を掻きまぜた。
「空手道二十訓には『形は正しく、実戦は別物』とあるが、実戦で普段の形がそのまま出せたというのは、翻って応用力が身に付いているということだ。やはりおまえになら、部を任せられる」
 優しい言葉が今はつらい。オレはどうにか「押忍」とだけ返した。
 食欲があまり出なかったが、とにかく皿に盛った分は食べ終える。小食のエチカはすでに完食して、オレを待っていてくれた。瞬たちはまだ食事していたが、先に部屋に戻ることにする。
 やたら明るくて綺麗な廊下を歩いていると、なんだか妙に心細くなってきた。夜はふと、こういう気分に襲われることがある。心配事があるこんな日は、とくに。
「ヒナ」
 隣を歩くエチカが、ふと口を開いた。その声が妙に優しくて、オレは隣を見上げた。
「そんな顔をするな。ようやく、光が見えてきた」
「え……。プロテインのありかがわかったのか!?」
「まだ確言はできない。ただ、さっきの元村の話に気になる点があった。いくつか、ヒナに確認したいことがある」
 エチカの「確認」は簡単なことだった。オレは、知っているとおりに答えた。
「でも……どういう意味だよ、その質問。まさか、あいつがすり替えたって考えてるのか? それは無理だろ」
「ああ、『すり替えた』と考えると無理がある。――続きは中で話そう」
 いつのまにか、オレたちは部屋の前まで辿り着いていた。
 室内に入ると、エチカは椅子に、オレはベッドに座る。
「それじゃあ、今からおれの考えを話す」
 エチカは自分の推理を語った。とても簡潔な推理だった。
 それが答えだ、とオレは思った。

     

 それから五分後。
 部屋には、オレとエチカ――そしてひとりの来客がいた。オレがLINEで「確認したいことがある」と言って、呼び出したのだ。
 オレはベッド、エチカは椅子に座ったままで、客人は黙って立っていた。
「あの、さ」
 オレは少しためらったが、意を決して切り出した。先延ばしにしても仕方がない。
「もし、違ってたら悪いんだけど……。もしかしたら、プロテインはおまえの手許に渡ってるんじゃないかな、って思ってさ。どうなんだ?」
 尋ねると、彼は黙ったまま目を閉じた。それから、ふーっと長い息を吐く。
「そうだ」
 宗吾は、少し掠れた低い声で認めた。
「有岡さんへの贈り物は、俺が持っている。……なぜわかった?」
「エチカが推理してくれたんだ」
 視線を向けて促すと、エチカは面倒くさそうな目でこちらを見たが、話してくれた。
「最初は難問に思えた。ぬいぐるみとプロテインをすり替える機会はほぼなかった。仁木だけにそのチャンスがあったが、彼はプロテインを隠せるバッグ類を持っていなかった。となると、実質的にすり替えができた人間はいないということになる。……だが、さっき夕食のとき、元村が気になることを言った」
 瞬はひったくり事件の顛末を話した際、オレと宗吾のスポーツバッグを預かる役目だった、ということも漏らさず語ったのだ。
「正直、ヒナには早くそのことを教えてほしかったが、おれも迂闊だった。ヒナと同じバッグを持っていた人間がその場にいたのなら、バッグの中身ではなくバッグそのものがすり替えられた可能性がある。スポーツバッグは学校共通なんだから、これくらい思いついて然るべきだった」
 そう、オレも宗吾もスポーツバッグを持っていた。しかも、有岡さんへのプレゼントを入れるために、どちらも中身を空っぽにしていたのだ。もっとも、エチカがこれに思い至れなかったのも無理はない。そもそも宗吾にはオレのバッグに触れられる瞬間がなかったから、彼の持ち物を云々する必要はなかった――と思えた――のだ。
「ふたりが同じバッグを持っていたと聞いて、おれはヒナと大城のスポーツバッグが入れ替わったのだ、と考えた。ヒナがプロテインを買った後でそれが起きうるタイミングが、一度だけあった。寮の食堂で」
 大河原先生の招集で、全員が大慌てで荷物を壁際に置いた。そのとき、オレと宗吾のバッグがごちゃごちゃになったのだ。
「しかし、ヒナが部屋に持ち帰ったバッグ――つまりウサギが入っていたバッグは、ヒナ自身のものだった。底に名前が書いてあるという」
「そう。そもそも食堂で自分のバッグを回収するとき、それを目印にしたし」
 逆に言えばあのとき、たしかにオレと宗吾のバッグは見分けがつかなかったのだ。だからこそオレは、バッグの底の名前を確認する必要があった。
「……そのときちゃんと確認したために、かえってヒナにはバッグの入れ替わりが盲点になっていたんだろうな。だが、ここにはひとつの見落としがある。今朝、ヒナが自分のバッグを持って部屋を出た後に、なにかの弾みでふたりのバッグがすでに入れ替わっていたというケースだ。この答えも、元村の話の中にあった」
「やっぱり、そうか。あのときだったか」
 宗吾が、泣き笑いのような表情を浮かべて言った。
 オレと宗吾がひったくりを追いかけて駆け出したあの瞬間。ふたり同時に、瞬にバッグを任せた――というか投げつけた。そして犯人を確保した直後、瞬はオレたちを褒めつつ、それぞれにバッグを押しつけてきた。
 あのとき、瞬はオレに宗吾の、宗吾にオレのバッグを渡してしまったのだ。今朝、五月女が瞬を「うっかり屋さん」と評していたことを思い出す。
「まあ、瞬ばかりを責めるわけにはいかねーよな。あのときはオレたちも興奮してて、ろくに確認しなかったから」
 オレの言葉に、宗吾も頷く。
「……じつは、俺もバッグの底にはイニシャルを書いていたんだがな。たしかにあのときは、確認しなかった」
 その後、オレたちはバッグの入れ替わりに気づかず過ごした。バッグは空にして出かけてきたし、手回り品は身に付けていたのだから仕方ない。今朝最初に会ったとき、宗吾はスマホをズボンのポケットに入れていたっけ。
「というわけで、ヒナがプロテインを購入した時点でバッグは大城のものだった。ゲームセンターにいたときも、アイスを食べているときも、帰りのバスの中でも、ヒナはプロテインが入った大城のバッグを持っていた。そして最後に寮の食堂で、バッグが正しい持ち主の手許に戻ったというだけのことだったんだ」
 エチカが話を締めくくった。
 それを聞き終えると、宗吾はゆっくりと床に膝をついて、土下座の体勢になった。
「……すまん、雛太! 俺が言い出せなかったせいで、不必要におまえを悩ませることになった。すぐに言い出せば、単にバッグを取り違えていた、というだけの話で済んだんだ。本当に……申し訳ない!」
「いいって。やめてくれよ宗吾。やめろったら!」
 オレは、床に額をぶつける宗吾を止めた。のろのろと上げられた顔は、悲しげに歪んでいた。
「……オレも、さ。反省してるんだ。空手部の仲間として、おまえの友達として、オレは駄目なやつだったんじゃないかって」
「そこまで、深刻に考えてくれなくていい」宗吾は自嘲的な笑みを浮かべた。「雛太は、人の趣味を笑うような人間じゃないと、わかっている。単に、俺が自意識過剰だったんだ」
 そう――バッグの入れ替わりは実に単純な事件だった。
 しかし、宗吾はどうしても言い出せなかったのだ。言い出したら、自分が「ねむうさ」のぬいぐるみを購入したことがわかってしまうから。
「そもそも、犯人がプロテインを盗むためにぬいぐるみとすり替えた、と考えるのはおかしなことだった」
 エチカは感情の籠らない声のままだった。
「単に重石として使うには、ぬいぐるみは高価すぎたからな」
「そう。これは、俺が個人的に買ったものだったんだ。雛太と元村と仁木がゲーセンにいる間に、俺は便所に行くと言って雑貨屋に引き返して……これを買った」
 ようやく、宗吾は床に置きっぱなしになっていた「ねむうさ」を拾い上げた。
「好きなのか? 『ねむうさ』」
「……ああ。恥ずかしながらな」
「恥ずかしくねーと思うけど」
「『ねむうさ』だけじゃない。昔から、俺はこういう……愛らしいぬいぐるみやキャラクターが好きなんだ。しかし男であるうえに、このご面相だからな。小学校高学年にもなると、家の外じゃ絶対にこんな話はできなかった」
 オレは、ただ「そっか」と返す。変な慰めを言うと、余計に宗吾の心を傷つける気がした。
 人はみんな、自分が好きなものを、胸を張って好きだと言っていい。
 それはきっと、誰にも否定する権利がない正論だ。でも――似合うか、似合わないかという残酷な物差しは、オレたちみんなの心の中に備わっている。物差しの目盛りは、ただ世の中で生きていくうちに、知らず知らずのうちに書き込まれてしまっている。
 その物差しを人の見た目に当てるのは、とくに残酷だけど、覚えがないと言える人がこの世にいるだろうか。オレだって、生まれ持った顔のせいで「可愛い」と言われがちで、何度も悔しい思いをしてきた。「恰好いい」のほうが嬉しいのに。オレには似合わない「恰好いい」ものが、世の中にはいっぱいある。
 オレとは反対に「可愛い」に憧れるやつだっているだろう。可愛い仕草や可愛いグッズが自然と似合ってしまうやつがこの世にはいる。たとえば五月女――瞬と同室の美少年がそうだ。愛らしいものが好きな宗吾にとっては、ひょっとしたら、五月女のような容姿はとても羨ましいものなのかもしれない。
「全寮制男子校で暮らすうちに、柄じゃない趣味は忘れちまうもんだと思ったんだが……。駄目だな。やっぱり、好きなものはそう簡単に変わらない。同室のやつがいなくなったことで、大きめのぬいぐるみを買いたいという誘惑に抗えなくなった」
「べつに、反社会的な趣味じゃないだろう」エチカは不思議そうな口調だった。「好きなものは好きだと言えばいい」
「エチカ! それは……。それは、ちょっと違うかも、って思う」
 今日のモールでの会話を思い出す。
 仁木は何気なく、有岡さんの厳つさで「ねむうさ」のグッズを持ってたら面白すぎる、などと言っていた。瞬は「そういう時代じゃない」と反論したけど、その例として挙げたのは、同室の可愛い男の子も「ねむうさ」が好きだという事実だった。
「似合わないよ」とわらわれることは、いつだって怖い。そんなふうに言われるなら、好きという気持ちをしまい込んだほうがマシだ、と思ってしまう。嘲笑や失笑を買ったら、大切な自分の「好き」って気持ちまで、傷つけられてしまう気がするから。
「好きって気持ちを、はっきり言えるのは恰好いいけど……。大切にしまっときたいって思うのも、否定しちゃ駄目かも……って、思う」
 どれくらい伝わったかはわからない。でもエチカは、じっとオレの目を見つめて「わかった」と言った。
「雛太」
 宗吾は「ねむうさ」のぬいぐるみを抱きしめながら、立ち上がった。
「やっぱり、おまえが部長でよかったと思うよ」
「な、なんだよいきなり」
「……おまえ、最高にカッコいいわ」
 そのとき、部屋の隅でガサガサという音が聞こえた。へっくんがガラスケースの中でうごめいているのだ。すかさずエチカが立ち上がり、飛んでいく。
「ああっ! へっくんごめんね! ごはんあげてなかったね。おれとしたことが……。大切な大切なへっくんのごはんを忘れるなんて、どうかしてた。ゆるしてくれる? こんなおれを……」
 エチカは冷蔵庫からミルワームを取り出すと、手で摘まんでへっくんに与えた。元気よく食べ始めたへっくんを見て、無闇に整ったエチカの顔がだらしなく緩む。
「ああ、いい子だね、へっくん。いっぱい食べて、可愛いね……」
 その様子を、宗吾はぽかんとした顔で見つめていた。なぜだかオレが恥ずかしくなってしまって、思わず咳払いをする。
「そ、宗吾……。世の中にはな、好きなものへの愛情をこれくらい隠さない人間もいるぞ」
「……ああ。意外だったな、正直」
 エチカはいつだって、自分の好きなように動物を愛する。誰がどう思うかなんて関係なく。そんな姿を見ながら、宗吾はふっと笑った。
「やっぱり俺は、自意識過剰だったみたいだ」

     

 ぬいぐるみ事件の真相は、瞬と仁木にも知らせることになった。
 宗吾自身が申し出たことで、顛末を語ったのも宗吾だった。
「じゃ、じゃあ……おれがバッグを取り違えちゃってたってことっすか! すみませんっ」
 腰を折る瞬に続いて、仁木も首筋に手をやりながら「ごめん」と言った。
「おれ雑貨屋で、厳つい男が『ねむうさ』好きなの変でしょ、みたいなこと言っちゃったよね。それで言い出しにくくなっちゃったんだよね、きっと……」
 じつはね、と言いにくそうに仁木が言葉を継いだ。
「ほんとはおれも、めちゃくちゃ『ねむうさ』好き……。最初は興味なかったんだけど、彼女の影響でハマっちゃってさ。それが恥ずかしくて、照れ隠しで言葉強くなっちゃったんだ」
 思わぬ「ねむうさ」好き同盟ができて、宗吾は嬉しそうにしていた。

 一日挟んで、十五日火曜日。
 空手部の引き継ぎ式がおこなわれて、オレは正式に空手部部長に就任した。
「空手道二十訓に曰く! 『空手の修業は一生である』!」
 最後の挨拶のとき、そう語る有岡さんはすでに涙声であった。
「俺はこれで霧森学院空手部を引退するが、これからも空手道に邁進まいしんする。いつかまた、どこかの道場で、おまえたちと相まみえる日が来ることを願っているっ!」
 有岡さんの話が終わると、オレと副部長の宗吾が前に進み出た。宗吾の手には、プロテインが入った包み、そしてオレの手には、昨日のうちにみんながメッセージを寄せた色紙があった。
「有岡さん、ありがとうございました!」オレは深々と頭を下げて、色紙を差し出した。「有岡さんはオレたちの、最高の――最っ高の部長でした!」
 有岡さんの涙腺がとうとう決壊したことは言うまでもない。
 鬼の大河原先生を含む、オレたち全員がつられて泣いたことも。

 

*END*

 

エチカと雛太、同室の凸凹コンビが謎を解く
全寮制男子校×本格ミステリ『ルームメイトと謎解きを』は大好評発売中です!

☆☆☆月刊コミックゼロサムにてコミカライズ決定!!☆☆☆

ゼロサム7月号(5月28日発売)より連載スタート!

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「ルームメイトと謎解きを」

漫画:そうかはるひ 原作:楠谷佑(ポプラ社刊) キャラクターデザイン原案:中村ユミ

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