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今昔ばけもの奇譚 

 源頼政みなもとのよりまさが京に呼ばれて宇治うじ行きを命じられたのは、天治てんじ二年(一一二五年)の文月(七月)、鈴虫や松虫が鳴き始めた頃のことであった。

「う、宇治へ……でございますか?」

「はい」

 意外な命令に困惑する頼政の正面で、当代の関白かんぱくにして、この屋敷の主である藤原忠通ふじわらのただみちは穏やかに首肯した。忠通の年齢は二十九。二十歳の頼政とは十も違わないのに、その佇まいや物言いは礼儀正しく凜々しく、そしてどこにも隙がなかった。

 後世には平安時代末期や院政期と呼ばれるようになるこの時代、政治的な実権は京都の朝廷から鳥羽とばの法皇へと移っていた。とは言え朝廷の仕組み自体は健在であり、その中で実質的に国を動かしてきた摂関せっかん家こと藤原一族の威信もまた、失われてはいなかった。

 さすがは藤原一門を背負って立つ人物、若いのになんと堂々としていることか。

 初めてまみえた忠通を前に、頼政はしみじみと感服し、ぼんやりしていて頼りない自分とは大違いであるなあ、とも思った。

 武人の血筋のおかげか、体こそ人並み以上に大きいものの、顔つきにはしまりがなく、迫力もなければ凄みもない。後に保元の乱や平治の乱で活躍し、妖怪「鵺」を退治した伝説でも知られることになる頼政だが、この時はまだ自分に自信の持てない一介の若者でしかなかった。おとなしい馬か、あるいは大型の老犬を思わせる容貌の若者は、相手を見下ろす形にならないように首を低くし、おずおずと口を開いた。

拙者せっしゃはてっきり、父や祖父と同じように内裏だいりの護衛を拝命するものとばかり」

「私もそれをお願いするつもりでありました。ですが先日、宇治に隠棲した父から、最近治安が乱れているので頼れる武士を送ってほしいとふみが届きましてね」

「お父上……忠実ただざね様からでございますか?」

 気の抜けたような相槌を打つ頼政である。摂津せっつから出てきたばかりの身であるが、忠通の父である先代関白の忠実が法皇との政争に敗れて宇治に引っ込んだという話くらいは知っている。つまり、その人の護衛と宇治の治安維持のために出向しろということか。頼政は緊張した面持ちで「かしこまりました」と一礼し、顔を上げて尋ねた。

「それで、いかほど連れて行けば……?」

「いかほど? ああ、軍勢の規模ですか。そんなものは不要です。お一人で行っていただければ」

「はっ?」

 思わず大きな声が出た。これは一体何の冗談だ。きょとんと目を丸くした頼政だったが、忠通は大真面目な顔で念を押すようにうなずいた。どうやら本気らしい。

「し、しかし……拙者が一人で行ったところで何の役にも……。あ、いや、無論、拝命した以上手を抜くつもりはございません、ございませんがいやしかし」

「落ち着いてください。近年、寺院の強訴やつわものの反乱が相次いでいることはご存じでしょう? 交通の要所たる宇治に大軍勢を送り込むと、地方の勢力を刺激しかねません。そもそも宇治は古くより、神仏に祈りを捧げ、心を落ち着かせるための離俗の里。そんなところに武装した軍勢を送り込むのは無粋ぶすいではありませんか」

「それは仰る通りでございますが……いや、しかしですね? 武勇に優れた荒武者とその一党ならともかく、拙者一人がのこのこ出向いたところで何の脅しになるものかと」

「なりますとも。貴公はかの源頼光みなもとのよりみつ殿の血を引く武者ではありませんか」

 青ざめる頼政の反論を忠通の声がすかさず遮る。その自信に満ちた断言に、頼政ははっと黙り込み、心の中でだけ大きな溜息を漏らした。

 またそれか、と、頼政の胸の内にげんなりした声が響いた。

 源頼光。今から百年ほど昔、平安文化が華やかなりし時代、藤原道長に仕えた武人であり、頼政にとっては祖父の祖父にあたる。勇猛果敢な武者だったそうで、酒呑童子しゅてんどうじという強大な鬼とその一党を頼光たちが見事に退治した伝説は宮中では有名だ。そのことについては特に異論もないし、先祖を尊敬する気持ちも勿論あるのだが……と頼政は思った。

 そもそも頼光以来の源家は、藤原家に直属し、内裏の警備を務めてきた一族である。ずっと貴族と交わってきたおかげで祖父や父は武人というより歌人だし、そんな家で育った頼政が勇ましい武人に仕上がるはずもない。武芸もたしなんではいるが、自分は弓や刀を手にするより和歌を詠んでいる方が好きで、当然鬼と戦ったこともない。「あの英雄の子孫なのか」と感心された直後に「その割には弱そうだな」と呆れられた経験は数知れず、今ではもう頼光の名を出されるだけで辟易するようになってしまっており、そもそも頼光公と拙者は別人なのですが、云々。声に出せずに心中でぼやく頼政の前で、忠通は上品な微笑を湛えたまま言葉を重ねる。

「頼光殿といえばその名を知らぬものはいない無敵の英雄。その頼光殿の玄孫やしゃごが来たとなれば、不埒な連中は震え上がるに違いありません。期待していますよ」

「え─あ、は、はい……」

 鷹揚ながら有無を言わせぬ忠通の物言いに、頼政はようやく理解した。事を荒立てたくない忠通としては「要請に応じて誰かを派遣した」という既成事実さえ作れればいいのだ。であれば、下手に実績のある武士とその郎党などよりも、高名な先祖を持つ─それ以外に何の取り柄もない─若造あたりが丁度いい、ということだろう。

 先に忠通も言った通り、宇治は寺院と別業(別荘)の多い、政治とは無縁の離俗の地だ。そんなところに一人で行けというのは平たく言えば閑職かんしょくへの左遷させんである。隠居した老人ならまだしも若者が受けるような任務ではなく、噂好きの都人みやこびとに知られれば笑い物になるのは間違いない。いや、この屋敷に大勢が仕え、あるいは出入りしていることを思うと、もう既に笑い物になっている可能性もある。

 都で初めて受けた命令がこれとは、何と情けないことか……。心の中で憂いつつ、「拙者を何だと思っておられるのです?」と反論できない自分の気の弱さに呆れつつ、頼政は姿勢を正して再度頭を下げた。

「……承りました。関白様直々のご指名、この頼政、ありがたく拝命いたします」

「お願いします。父の我儘に付き合わせるようで申し訳ありませんが、今すぐ対応せねばならぬ問題が起きているわけでもなし、骨休めのつもりで行っていただければ」

「もったいないお言葉を……。されど拝命した以上、気を抜くことなく、誠心誠意努めさせていただく所存です」

「助かります。宇治─こと平等院には、もしものことがあってはいけませんから」

「は? 平等院でございますか?」

「ええ。我が藤原家の先祖が作った大事な寺院ですし、あそこの蔵には、朝廷にとっても藤原家にとっても、大事なものが色々と収めてありますのでね」

 穏やかな笑みを湛えたまま忠通が語る。「なるほど」と相槌を打ちながら、頼政は以前に聞いた噂を思い出していた。

 平等院といえば宇治を代表する大寺院であるが、元は藤原家の別業であったこの施設の宝蔵には、古今東西の貴重な文物のみならず、神仏や鬼神に由来する秘宝までもが保管されているとか、いないとか、そんな噂である。

 その真偽はともかくとして、そこまで言われる宝蔵なら、機会があれば中を見学したいものだ。そんなことを思う頼政の前で、忠通は姿勢を正して続けた。

「あちらでは父の屋敷にお住まいください。父への文は改めて源氏のお屋敷にお届けします。では、本日はわざわざ足をお運びいただき、ありがとうございました」

 張りのある声が広々とした応接の間に響く。聞いた者全てが従いたくなるようなその声に、頼政は改めて自分との格の違いを痛感して退室し、屋敷で働く者たちや次の面会者らの嘲笑の声を屛風越しに聞きながら、関白の屋敷を後にしたのだった。

          * * *

 

 忠通との面会の翌日の朝早く、頼政は早速京を発った。

 家族や屋敷の者は従者を付けるよう言ってくれたが、頼政は断った。遠国まで危険な旅をするならともかく、京から宇治までの所要時間は山を越える陸路でおおよそ三時さんとき(約六時間)、遠回りの水路を使っても五時ごとき(約十時間)ほど。健脚な人間なら明るいうちに往復できるほど近い。

 それに前関白の居宅であれば使用人は間違いなくいるから、わざわざ人手を連れて行く必要はないし、第一、忠通には一人で行けと言われているわけで、だったら一人で行った方がいいだろうと思ったのである。頼政にはこういう馬鹿正直なところがあった。

 というわけで頼政はわずかな私物を担ぎ、単身で宇治へと向かった。愛用の折烏帽子おりえぼしを被って弓を背負い、小袖に簡素な藍色の直垂ひたたれを重ね、下半身は歩きやすいように裾を絞った大口袴。もちろん腰には太刀たちいている。

「宇治と言えば、『我が庵は都のたつみしかぞすむ、世を宇治山と人はいふなり』だな」

 六歌仙の一人、喜撰法師きせんほうしの歌が口からこぼれる。閑静な山里の生活を詠んだ、宇治を扱った和歌の代表格だ。それを思い出したのをきっかけに、頼政は改めて考えた。

 昨日は左遷されたと落ち込んでしまったが、案外悪い話でもないのかもしれない。宇治橋を始めとした宇治の光景は和歌では定番のお題だし、かの地は紫式部が著した名作「源氏物語」の最終章、通称「宇治十帖」の舞台でもある。和歌や物語の愛好者としては悪くない任地だ。骨休めのつもりで行けと言うのならそうすればいいではないか。古来文人が好んだ風情のある景色の中で、ゆっくり和歌を捻るのも悪くない。

「うむ、そうだな。悪い方にばかり考えていても仕方ない」

 自分で自分に言い聞かせてみると、気持ちが切り替わったのか、街道を進む足が少しだけだが軽くなる。頼政は現金な己に苦笑しつつ歩を進め、特に何事もないまま昼前に宇治に到着した。

「ほほう……これはまた……」

 宇治川のほとりで足を止め、頼政はしげしげとあたりを見回した。

 どうも思っていたのとは違うぞ。それが頼政が受けた第一印象だった。

 緑豊かで風情があって閑静な土地だと思っていたが、実際の宇治は意外に活気に満ちていた。勢いよく流れる大河・宇治川には荷を満載した船が行き交い、川辺の広場で開かれている市からは値引き交渉の声が響いている。

 それに建物の数も多い。川と山の間に細長く延びる平地には大小さまざまな規模の京風の屋敷がそびえ、その周囲には土地の者の暮らす簡素な家や田畑が広がっていた。立派な屋敷の大半は貴族の別業のようで、人が暮らしている気配は薄い。

「これはまた、何ともちぐはぐな町であるなあ。賑やかでもあり、静かでもあり……」

 川辺の道を物珍しげに歩きつつ、住み込み先である忠実の屋敷を探しつつ、独り言ちる頼政である。

 意外と言えば、宇治橋が損壊していたのもまた予想外であった。歌や物語の世界では宇治と言えば宇治橋だ。古来あれだけ歌に詠まれているのだからさぞ堅牢で立派な橋なのだろうと思いこんでいたが、行ってみれば、残っているのは橋脚とたもとの一部だけだったのだ。

通りかかった土地の者が言うには「大水の度に流されておりますからね。その都度直されたり直されなかったりで、ちゃんと架かっている時の方が珍しいくらいで」とのことで、それを聞いた頼政はかなり落ち込んだ。

 橋の─正確には「橋だったもの」の─袂では、鍔の広い市女笠いちめがさを被り、ゆったりとしたうちきを纏った女が、二十人ほどに囲まれて何事かを説いていた。

 十歳前後の女児を連れ、傍らには二尺(約六十センチメートル)ほどの長さの木箱が置かれている。集まっているのは粗末な身なりの農民や、寺や屋敷の使用人などで、大半は女性である。いずれも両手をすり合わせ、市女笠の女を拝んでいる。道端で説法をする宗教者は京や摂津でも見たが、女というのは珍しい。

「格好からして尼僧というわけでもなさそうだが……」

 そんなことをつぶやいた後、頼政は改めてあたりをぐるりと見回した。いつまでも物見遊山しているわけにはいかないが、何せ初めて来た町なので土地勘がない。

 と、ちょうどその時、立派な文箱を手にした白髪の老人が頼政の前を通りかかった。着古した麻の着物に擦り切れた笠という粗末な身なりではあるけれど、手にした文箱からすると格のある屋敷か寺に仕えているようだ。そう判断した頼政は、通り過ぎようとした老人を呼び止めた。藤原忠実殿の屋敷はどこだろうかと尋ねると、気の良さそうな老人は「藤原?」と首を捻ったが、すぐに「ああ」と声を発した。

富家殿ふけどのどのでございますな」

「ふけどの?」

「富の家と書いて『富家ふけ』と読むのでございます。平等院にも並ぶ立派で壮麗なお屋敷でございますれば、宇治の者は皆そう呼んでおりまして、あのお屋敷の主様も富家殿と呼ばれております。近くですのでご案内いたしましょう」

 そう言って老人はきびすを返し、頼政を先導しながら歩き出した。頼政は「すまぬな」と礼を言い、老人の後に続いた。

 老人に案内されてたどり着いた藤原忠実の屋敷、通称「富家殿」は、宇治川の北岸、川幅が広くなるあたりにそびえる大邸宅であった。最近改築したようで、屋根も塀も壁も皆新しく立派である。

 屋敷の主である藤原忠実は太った中年男性で、京都から派遣されたのが頼政一人だけと知ると不満そうな顔になったが、頼政が源頼光の子孫と聞くや目を輝かせた。

「ほう! お主、あの鬼殺しの英雄の五代目とな。それは凄いが……しかし、その割にはどうも頼りなさそうじゃのう。本当に頼光公の末裔まつえいか?」

 さかずきを手にした忠実が呂律の回らない口調で問う。相当酒が回っているのだろう、目つきはとろんとしており、顔は赤く、立派に仕立てられた立烏帽子は歪み、古式ゆかしい狩衣も乱れている。前関白とは思えないそのだらしなさと、初対面の相手に頼りなく思わせてしまう自分の見すぼらしさに呆れながら、頼政は頭を下げたまま声を発した。

「……未熟者にはございますが、先祖の名に恥じぬよう精進する覚悟にございます」

「まあ頼むぞ。最近の宇治は無法地帯じゃからな。しっかり目を光らせてもらいたい」

「無法地帯?」

 穏やかではない言葉に顔を上げる頼政である。何かあったのですかと頼政が問うと、忠実は開き直るように笑った。

「起こりっぱなしじゃわい。素性の分からぬ連中が跋扈ばっこし、物取りや火付けの類もなかなか絶えることがない。何せ取り締まる者がおらんからな」

「取り締まる者がいない? お待ちください。郡衙ぐんがは……朝廷の定めた役所は何をしているのです? まさか不在というわけでは」

「そりゃあ役所はあるし役人もおる。じゃが、役人が口を出せるのは公領のみで、この宇治はお前さんも知っておると思うが私領だらけ。元より別業が多い上、各地の貴族や寺社の荘園も増えておるし、山野の空閑地を勝手に私領にしてしまう連中も多い。そんな土地柄じゃからな、不届き者が何かをやらかしたとしても、隣の領地に逃げ込んでしまえば、理屈の上ではもう追えんわけじゃよ。不埒な連中がはびこるに決まっておろう」

「な、なるほど」

「いっそう厄介なことに、この宇治では、そういう面倒ごとは大体平等院かここに持ち込まれるんじゃなあ。しかも平等院に来た問題も結局こっちに回ってくる」

「それは……そうなるのも当然かと思われますが……」

 法皇に権力が集中している時代とは言え、藤原家は国の要職を独占してきた家柄で、この宇治の象徴たる平等院も藤原家が建てたものだ。役人が当てにならない以上、もっと強い権力を持っていそうなところが頼られるのは至極当然の流れである。だが忠実はそんな頼政の気持ちをよそに、「頼られても困るんじゃよなあ!」と無責任に言い放った。

は隠居した身じゃぞ? ここが京で余が関白じゃったなら、一声掛ければ検非違使けびいしを動かせたが、宇治には動かせる兵隊もおらん。私兵を雇うのも面倒じゃし、野蛮な連中を屋敷に入れたくもないし、しばらく無視し続けてきたが、とは言え、宇治が乱れすぎるのは困る。何せ自分の住んでおるところじゃからな。分かるな?」

「は、はあ……」

 忠実の語る自分勝手極まりない理屈に、頼政が弱気な声で相槌を打つ。全くもって息子の忠通とはえらい違いだと頼政は呆れ、そして同時に青ざめた。

 忠通は骨休めとか言っていたが、今の話によると、この宇治は思っていた以上に厄介な土地で、自分は思っていた以上に厄介な任務を押し付けられてしまったらしい。あからさまに不安な面持ちになった頼政を、忠実は面白そうに見やり、盃の酒をちびりと飲んだ。

「……ふう。まあ適当に見回って、びしばし取り締まるなり追い払うなりしてくれ。何かあれば余の名前を出せばよい。頼光殿のお力、頼りにしておるぞ」

「え? いやあの、拙者は頼政でして、頼光ではございませんので……。そもそも、取り締まれ、追い払えと言われましても、一体誰を」

「それを調べるのもお前さんの仕事じゃが、まああれじゃな。最近巷の噂になっている奴と言えば、あいつじゃな。橋姫はしひめじゃ」

「はしひめ? あの宇治橋の神でございますか? 『源氏物語』にもその名を引かれた、思い人を待ち続けるという健気な女神……?」

「武人のくせに詳しいのう。そうじゃが違う。かの神の名前を名乗る女がおるんじゃ」

 面倒そうに後頭部を搔きながら、忠実は頼政に「橋姫」のことを説明した。

 語り口はだらだらと要領を得なかったが、要するに、平等院を始めとした寺が、自称橋姫に手を焼いているという話であった。

半月ほど前に宇治に現れた橋姫は、自分は不老で不思議な力を持っていると語って耳目じもくを集め、辻々で人を集めては説法のようなことを繰り返しているらしい。仏道の教理に反するような内容も堂々と語り、寄進、すなわち金銭的な寄付を集めたりもしているので、寺としては見過ごせないが、寺の者が出てくるとしれっと隣の領地や山などに逃げ込んで姿を消してしまい、次の日にはまた別の場所で人を集めるのだそうだ。

「火付けや盗みを働くわけでなし、放っておいても良かろうと思うんじゃが、坊主共にせっつかれておってな。最近は宇治橋の袂あたりによく現れるそうじゃ」

「宇治橋ですか? あ、もしかして、こちらに参る途中に見かけた女でございましょうか。市女笠を被った女で、童女を連れ、傍らには木箱を置いて……」

「おう、おそらくそれじゃ。なら頼むぞ、頼光……ではない、頼政」

「は? ええとその『頼む』とは? 拙者は具体的に何をすれば」

「飲み込みの悪いやつじゃのう。素性を暴くなり何なりして適当に追い払えと言うておるんじゃ。何せお主は鬼を斬り伏せた頼光の五代目、偽橋姫の一人くらいどうとでもなる

じゃろう? なあ?」

 そう言って忠実は無責任に笑ったが、頼政は笑いを返すことはできなかった。

          * * *

 忠実の屋敷を出た頼政は、とりあえず再度宇治橋へ向かうことにした。橋姫なる女の素性を暴く方法も追い払う手段も思いついていないが、忠実の話はかなりあやふやであったし、まず相手のことを自分で確かめるところから始めようと考えたのである。

 橋姫はもうどこかへ移動している可能性もあったが、実際に現地に着いてみると、子連れの市女笠の女はまだ壊れた橋の袂にいた。

 手を合わせている面々は先ほどとは違う顔ぶれだけれど、ほとんどが女性であることには変わりない。ひとまず語りを聞くべく、頼政が取り巻きから少し離れた場所で足を止めたところ、橋姫の傍らで退屈していた十歳ほどの童女がそれに気付いて声を上げた。

「あ。さっきも来たお侍様だ!」

 いかにもやんちゃそうな明るい声に聴衆が頼政へと振り返る。大勢に見つめられた頼政が面食らうのと同時に、橋姫は語りを止め、頼政を指差す童女を「これ」と叱った。

「なりません、おしら、、、。お武家様を指差す子がありますか。誠に申し訳ございません、お武家様。この子が無礼な振る舞いを……」

「いや、お気になさらぬように……もとい、気にするな。拙者も幼子のすることを咎めるつもりはないが……」

 深々と頭を下げられた頼政が口調に迷いながら応じる。信心深い頼政としては宗教者には敬意を払いたいが、目の前の女性は追い払えと言われた相手でもあるわけで、どの程度丁寧に接すればよいのかがよく分からない。一方、おしら」と呼ばれた童女は腰に揺れる刀が気になるようで、ひょいひょいと頼政に近づき、あどけない顔で問いかけた。

「ねえねえお侍様、この刀、本物?」

「何だいきなり。当然であろう」

「へー。じゃあさ、人斬ったことある?」

「何!?」

「あるの? ないの? お侍ってすぐ刀抜くんでしょ?」

「いや、そういう侍がいるのは確かだが、そうでない侍もおるし……。というか、子供がそんなことを聞くものではない」

「なんで? 言えない理由があるの?」

「理由? そ、そういうわけではないが、人前で話すようなことでもなかろうし」

「お止めなさい、おしら。お武家様が困っておられるではありませんか。お武家様も、子供の言うことですので……。真剣に取り合っていただかなくても結構ですのに」

 おしらを制した橋姫が顔を上げ、頼政に優しく微笑みかけた。大人の武士が子供相手にたじろぐ様子に呆れたのだろう、観衆たちからは嘲笑の声が漏れている。こういう場で堂々と振る舞えない自分の情けなさを痛感し、頼政は改めて橋姫と向き合った。

 笠は縁が広くて深く、左右に分けて下ろした前髪は長く、纏っている上衣はゆったりした袿。顔も体形も分かりにくいが、声の調子は若々しく、指や手首の肌には張りがあって姿勢も良い。案外若い娘なのかと訝る頼政に、橋姫は嬉しそうに語りかけた。

「それにしても、ありがとうございます。お武家様が私のようなものの話を聞きに来てくださるとは」

「何? 違う。そうではない。拙者は話を聞きに来たわけではなく……と言うか、その逆なのだ。もったいぶった物言いが苦手なので直に言うがな、お主を宇治より追い払えと命を受けておる。怪しい話で人を集めて寄進させるなどもってのほかだと─」

 頼政がそう言った途端、橋姫を取り囲んでいた女たちの表情がさっと変わった。口にこそ出さないものの、目にあからさまな敵意が宿り、頼政をたじろがせる。橋姫は一同に落ち着きなさいと手ぶりで示し、静かに頼政に歩み寄った。橋姫と頼政の身長差はちょうど頭一つ分ほど。女性にしては長身である。

「お武家様にお尋ねしますが、私は何か、してはいけないことをしたのでしょうか? 私はただ天下の往来で立っているだけ……集まってこられる方がおられるので、見聞きした話をお聞かせしているだけでございます」

「それは……いやしかし、寄進を集めていると聞いたぞ」

「ご寄進をいただくことはありますけれど、それはいずれも、私の話に耳を傾けてくださった方が自主的にお恵みくださったもの。私から求めたことは一度もございません」

 しれっと橋姫が言い返し、そうだそうだと取り巻きがうなずく。この線で攻めるのは難しそうだが、さりとて別の切り口も思いつかない。弱った頼政がとりあえず話を変えるべくあたりを見回すと、退屈そうに木箱に腰かける童女と目が合った。「あの子……『おしら』と呼んでおったが、あれはお主の娘か?」

「いいえ、おしらは孤児みなしごでございます。この橋姫は、年を取らぬ……いや、取れぬ身。人のことわりから外れてしまった不老の体なれど、せめて世のため人のため尽くそうと、旅の最中に巡り合った孤児を引き取り育てているのでございます」

「なるほど、それはご立派な……いや、待った!」

 釣り込まれて感心しそうになった自分を頼政は慌てて押し止めた。相手の調子に流されてどうする。

「それよ。年を取らないと言ったが、そのような生き物がいるはずがない。それに橋姫というのは宇治川に伝わる女神の名であろう? 神の名を勝手に名乗った上、流言飛語りゅうげんひごで人心をたぶらかすのは」

「流言飛語とは心外でございます。『橋姫』とは元来、私の名なのですから」

 穏やかな反論が頼政の問いをそっと遮る。頼政が「お主の名?」と問い返すと、橋姫は奥ゆかしく首肯し、ゆっくりと身の上を語り始めた。

 現在一般的に知られている橋姫は、思い人を待ち続ける健気で不憫な女神である。二百年前の「古今和歌集」や百年ほど前の「源氏物語」など、古来、和歌や文学作品の題材としてもよく用いられる神であるが、この伝説の由来となったのがそもそも自分なのだ、というのが橋姫の主張であった。

 自分は年を取らない体質で、今は漂泊の身の上だが、何百年も前に宇治に住んでいたことがあり、その後も数回宇治を訪れている。この地の老人たちの中には若い頃に自分を見た者もいるが、その人たちに言わせると─ここで橋姫は実際に聴衆の中の老人に証言を求めた─その容姿は数十年前から変わっていない。そうやって何度かこの地を再訪しているうちに、いつの間にか「誰かを待ち続ける健気な女神」という伝説ができてしまっていたようだ……。

 穏やかな口調でそう語った後、橋姫は「以上です」と言いたげに軽く一礼し、口をつぐんだ。聞き入っていた女たちがありがたがって手を合わせる中、頼政は大きく眉をひそめた。一応理屈は通っているようにも聞こえるが、素直に納得できるわけもない。

「にわかには信じがたい話であるな……。第一、お主が本当に不老の身だとして、一体、どうしてそのようなこと?」

「それを今からお話しするつもりでした。人魚の肉を食ろうた報いにございます」

「にんぎょ……?」

 聞き慣れない言葉を頼政は思わず問い返していた。はい、と橋姫がうなずく。

「人の魚と書いて人魚。水界の異類にございます。その名の通り、人と魚を合わせたような姿をしており、その血肉を食ろうた者は老いることのない体となる……。かの厩戸皇子うまやどのおうじ、いわゆる聖徳太子様の御代にこれが出たというお話は、お武家様であればご存じかと」

「何? 聖徳太子? いや、初めて聞いたが」

「あらあら。これは失礼いたしました」

うっかり素直に答えてしまった頼政に橋姫が大仰に頭を下げると、周りから呆れる声や失笑が漏れた。そんな話があるものか、作り話だろうと頼政は思ったが、聖徳太子にまつわる逸話を熟知しているわけでもないので否定もできない。笑われて赤面する頼政に、橋姫がおっとり優しく語りかける。

推古帝すいこていの御代、近江おうみの国司より、蒲生河がもうがわに、人のようで人でなく、魚のようで魚でないものが現れたと上奏があったのでございます。その報告を聞かれた太子様は、それは人魚だと評されたとか」

「そういう話があるのか……? いや、あるとして、それだけではお主の話の裏付けにはなるまい。そもそも人魚なるものが実際にいるとは拙者には思えぬし」

「本当に疑り深いお武家様で……。であれば─おしら」

 頼政がぼそぼそ漏らす反論を受け、橋姫が木箱に腰かけてあくびをしていた童女に呼びかける。名を呼ばれたおしらは「うん!」とうなずき、箱から飛び降りた。「御開帳ごかいちょうだ!」と誰かが声を漏らし、橋姫たちを取り囲んでいた一同が強く手を合わせて拝む。そんな中でおしらは二尺ほどの長さの木箱を頼政の前に寝かせ、自慢げに蓋を開けた。

「さあお侍様、ごらんください!」

「何を見ろと─うおわっ!」

 観音開きの蓋の中を見るなり、頼政は声を上げて飛び退いていた。

 縦長の箱の中に収められていたのは、カラカラに干からびた、人とも魚ともつかないものの死骸であった。長さはおおよそ二尺弱。上半身は人か猿のような形状で、短い牙の並んだ口を開け、掌を前に向けている。鱗に覆われた下半身は魚そのもので、先端や背中にはひれがあった。下半身の一部には肉がこそげとられた跡もある。

「こっ、これは……なんとも面妖な……!」

 存在するはずのない、だが実際に目の前に確かに存在する異様な死骸に頼政が絶句する。

その表情が面白かったのだろう、おしらは「くふふ」と微笑み、蓋を閉めてしまった。

「なぜ閉めるのだ」

「あまり外気に晒すと傷んでしまいますもので」

 頼政の問いに答えたのは橋姫だった。橋姫はおしらに微笑みかけた上で、頼政へと向き直り「ですが」と続けた。

「もう充分でございましょう? 今ご覧になったものが人魚にございます。一部が欠けておりますのは、何百年も前に私が食らってしまった故。私の生まれた海辺の村には、人魚を口にしてはならぬという禁忌があったのです。その理由は古老すら知りませんでしたが、私は身をもってそれを知りました。一度、この肉を口にすれば」

「と……年を取らなくなってしまう……」

「左様にございます。生き仏などと言って拝んでくださる方もおられますが、今の私は人の理から外れた外道。村を追われた私は、自分の過ちを忘れぬよう、人魚の遺骸をこうして箱に収め、呪われた体を抱えたまま、諸国を旅しておるのでございます」

「呪われたというのは、老いぬ体のことか」

「それだけではございませぬ。寄る辺も帰る家もない女が、いかように一人で生きてこられたとお思いです? 我が身には、人魚の呪いが掛かっているのでございます。現世で永劫に生き続けろという厳しい呪いが……。故にこそ、これまで私に仇を為そうとしたものは、どなたも不幸な死を遂げてまいりました」

 ふいに橋姫が語調を強めた。前髪越しの視線を向けられ、頼政の背中に悪寒が走る。青ざめた頼政が何も言えないでいると、橋姫は人魚の入った木箱を抱え、もう片方の手でおしらの手を取った。

「……されど、お武家様の手を煩わせるのは本意ではございませんので、本日はこれにて失礼いたします。では皆様、ご息災で」

 そう言ってぺこりと頭を下げ、橋姫はおしらの手を引いて川上へと歩き去った。その後ろ姿を頼政は呆然と見送り─なぜか跡を追う気になれなかった─ややあって、周りの農民たちに問いかけた。

「あの女はどこに住んでいるのだ?」

「誰も知らないのですよ」

「いつも、どこからともなく来なさるのですわ」

 そう答える女たちの口ぶりや表情には、「せっかく功徳を授かれるところだったのに」「余計なことをしやがって」という怒りが確かに滲んでおり、頼政をいっそう弱らせた。

あーあ、と誰かが小声でぼやき、帰るか、と別の誰かが応じる。それをきっかけに、一同はいかにも残念そうに解散していき、いたたまれない顔の頼政だけが残された。

「むう……」

 頼政の肩が自然と落ちる。結果だけを見れば橋姫の説法を止めたと言えなくもないが、自分は完全に空気に呑まれて押し負けていたし、あの調子では橋姫が宇治を去ることもないだろう。初日からこの体たらくでは先が思いやられる。

「はてさて、どんな顔で帰ればよいものか……」

 壊れた橋の袂に佇んだままの頼政が溜息を吐く。と、しょんぼりと丸めたその背中に、気遣うような声が投げかけられた。

「お疲れ様でございます」

「ん? ……おお、先ほどの」

 慌てて背筋を伸ばした頼政が振り返った先にいたのは、先刻、忠実の屋敷まで案内してくれた老人であった。一部始終を見られてしまっていたようだ。「恥ずかしいところを見せたな」と頼政が苦笑すると、老人は愛想のいい笑みを返し、歩み寄って一礼した。

「先程は申し損ねましたが、白川村の弥三郎やさぶろうと申します。今は平等院で下働きをさせていただいておりまして」

「そう言えば拙者も名乗っておらなんだな。源頼政だ。知っての通り、富家殿に厄介になっておる身だ。お主は平等院の者であったか」

「平等院の者だなど恐れ多い。賤院に住まわせていただいている、ただの下働きでございます。若い頃は『白川座』で田楽でんがく法師をやっておりましたが、引退した後、ご縁があって平等院にご厄介になっております」

「白川座? ああ、あの田楽舞の!」

 宇治の白川で生まれた白川座は、この時代に広く知られた芸能集団であった。各地の祭礼などで舞や音楽を披露することを生業にした田楽法師の集まりで、課役や課税を免除されており、平安京のみならず南都などからも招かれていたという。

「なるほど。言われてみれば年の割に身のこなしが軽やかだ」

「いえいえ、もうめっきり老いぼれてしまいまして……。年寄りなので力仕事も出来ぬ故、文の受け渡しなどを承ることが多く」

 そう言って手短に自己紹介を済ませると、弥三郎と名乗った老人は橋姫の立ち去った方向を見やって言った。

「しかしあの橋姫という女人、なかなか口の達者なお方のようで」

「それよ。体よく追い払えと言われたのだが、拙者はどうも交渉事が苦手でなあ。宇治に来たばかりでは、頼れるの当てもなく……。お主、平等院で使いをしているのであれば、市中の事情には明るかろう? お知恵を拝借できそうな方はおらぬか」

 肩をすくめた頼政が困った顔で問いかける。弥三郎は反射的に「私めなどには」と首を横に振りかけたが、ふと押し黙った。灰色の眉がぐっと寄り、独り言がぼそりと響く。

「……平等院の、あの陰陽師おんみょうじ様ならばもしかして」

「陰陽師とな?」

 弥三郎が漏らした言葉を頼政は繰り返していた。陰陽師とは、要するに朝廷直属で公認の呪術師だ。鬼神を操ったりものを祓ったりするという噂は頼政も聞いているし、書かれたものを読んでもいる。人魚に呪われた怪人を相手取るには格好の人材ではあるが。

「しかし、なぜ陰陽師が寺院にいるのだ? 陰陽道と仏道は別物であろう」

「私に聞かれましても……。高貴な方のご事情は存じませんし、詮索せぬよう言われております故に。申し訳ございません」

「いや、謝ることではない。それで、その陰陽師殿はどういった方なのだ」

「それはもう、大変に博識な方でございます……! しばらく前に都より平等院においでになったのですが、夜毎よごとに月や星を眺める一方、昼間は経蔵に籠って古今の文書を読み漁っておられます。かように物知りで雄弁な方、私は見たことがございません。気難しいところもあるので、寺では良く言わない方もおられますが、私には良くしてくださいますし」

「ほほう」

 弥三郎の誇らしげな説明に、頼政は興味深げな声を漏らした。そこまで言うのであれば信用してみて良さそうだ。断られたとしても駄目元である。

「弥三郎。すまぬが、その方に会わせてはもらえぬだろうか」

「今からお寺に帰るところですので、ご案内ならいくらでも」

 * * *

※このつづきは『今昔ばけもの奇譚 五代目晴明と五代目頼光、宇治にて怪事変事に挑むこと』にて

お楽しみください!

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