第1章 私の恋は、いま走り始めた。
暇を持て余していた指先が、画面上に躍った見出しの文字に導かれ、滑る。
目を皿のようにして、ミュートのまま映像を再生する。
そのニュースは、つい先日起きた非日常的な出来事の記憶を呼び覚まして、私を動転させた。
『うちの子が電車で突然、泡吹いて倒れてしまって……。呼吸もなくてどうしようってパニックになってたら、高校生くらいの男の子が来てくれて、心臓マッサージとかいろいろして助けてくれたんです。でも救急隊員さんが来てくれたときには、いつのまにかいなくなっちゃってて……』
インタビューを受けているのは、三十代くらいの女性。その隣には、小さな五歳くらいの男の子。屈託のない笑顔でお母さんを見上げている。
“お手柄男子高校生。名前名乗らず何処へ”
画面左上のテロップにはそう書かれていた。
「それ、うちの学校の生徒らしいよ」
窓際の席でスマホの画面に釘付けになっていた私に、近くにいた女の子が、画面を覗き込みながら興味深そうに声を掛けてくる。すると、その声を聞いたクラスメートが集まってきて、私を中心に小さな人だかりができた。
「そうそう、先輩が言ってた」
「制服見た人から聞いた」
「お母さんの職場の人が居合わせたんだって」
口々に情報を寄せ合うが、どれも断片的で噂の域を出ない。
そして、核心に迫る問いかけが場を賑わせる。
「……誰だと思う?」
私は愛想笑いを浮かべる余裕すらなく、輪の中に浮かんでは消えていく候補者の名前を、ばつの悪い心地で聞いていた。
実は─私がその正体を知っているとしたら。
そして、彼が──ここに戻ってくるのを、今か今かと待っているとしたら。
ふと、斜め前方の誰もいない机に視線を移す。焦りと緊張感で、自ずと鼓動が速まる。次の授業はもうすぐ始まる。
「あっ!」
教室の入り口から、女子の叫び声が聞こえてきた。見ると、外に出ようとして入れ違いに誰かとぶつかりそうになったらしい。
私の視線は、俯き加減で入ってきたぼさぼさ髪で目つきの悪い男子──手島孝士に、釘付けになっていた。
女子の方は謝ろうと上目遣いに会釈をしたが、彼は彼女には一瞥もくれず、つかつかと自分の机へと向かい、腰を下ろした。
「何あれ。感じ悪」
会話の輪の中にいる一人が、不機嫌そうに呟く。
「いつものことじゃん。あたしだって、こないだあいつが落としたシャーペン拾ってあげたのに、お礼のひとつも言われなかったんだよ。マジありえなくない?」
女子たちが同調してうなずく。陰口の標的は、そんな彼女たちなどどこ吹く風といった様子でイヤフォンを耳につけ、スマホをいじり始めた。
「そういえばさ、手島って中学時代にクラスで暴れて出席停止になったらしいよ」
「……マジで?」
「うん。同じ中学だった子から聞いた。あと、万引きの常習犯だったとか、動物いじめてたとか。とにかくやばいやつなんだって」
「え─」
傍で聞き耳を立てていた別の女子たちも思わず反応する。
私は内心焦るが、この空気を変えられない。悪い噂が潤滑油みたいになって、クラス中に浸透していく。
「あいつだけは絶対ないよね」
誰かが言った。本人に聞こえるか聞こえないか、くらいの声量で。
私はどんな顔をしていいか分からず、輪の中心で俯いていた。まるで自分のことを言われたみたいに、胸が痛んでいるのを隠すように。
すると、目の前にいた女子が黒板の方に目をやりながら声を潜めた。
「あのさ……その高校生って、賢太郎っぽくない?」
今度はみんなの視線が、黒板消しで板書を消している田島賢太郎の背中に向く。不意に彼がこちらを振り返ると、「あ、やば。休み時間中にスマホいじってると賢太郎に怒られるよ」とみんなが耳打ちしてきた。
慌ててスマホをポケットにしまう。教壇の向こう側の田島賢太郎と、ぱちりと目が合った。
お洒落な眼鏡が印象的な彼は、身長が高く、足も長い。襟足は刈り上げていてさっぱりしているけど、前髪はちょっと長くて、レンズ越しに切れ長の目で、こちらを覗き込むように視線を向けてくる。
私の机を囲む女子たちの視線が、彼の動きに集まる。
緊張した空気を和ませるかのように彼が微笑む。手についた粉を軽く叩いて払い、優雅な所作で廊下側の自分の席へと戻っていった。
黙ったまま彼に見とれている女子。かたや、眉を顰めている子も。賢太郎に対しては、イケメンだって言う声もあるが、好みは分かれるらしい。
予鈴が鳴り響く。教室のあちこちに散っていたクラスメートたちが自分の席へと戻り、五限目の数学のテキストと問題集、ノートを机の上に準備する。
私の右斜め前──手島孝士は、まだイヤフォンを外さない。机の上には何も出ていない。
休み時間の余韻で、まだざわついている教室。みんなが授業という閉鎖された空間に入りつつあるなか、彼だけがまだ、違う世界に身を置いたまま。
一番前の席だし、もしかして、気づいていないのかもしれない。
そう思った私は、彼の背中に触れようと腰を浮かせる。手を伸ばせば、届く距離。そう意識すると、逆に躊ちゆう躇ちよした。
さっきの女子に対する態度を見るに、うっとうしがられるに違いない。ほとんど話したこともない、仲良くもない、彼にとって何者でもない私なんて。
中腰のままぎこちなく動きを止めていると、教室の扉が開き、授業道具を手にした先生が入ってきた。慌てて私は椅子に身を戻し、「はい、始めましょう」という先生の声を聞いた。
「起立」
号令当番が声を上げる。一斉に椅子を引いて立ち上がるクラスメートたち。
手島孝士は、立ち上がりながらイヤフォンを片手で雑に外し、ブレザーの内ポケットの中へと突っ込む。表情はずっと気だるげで、授業に対する意欲は感じられない。
「礼、着席」
生徒たちが座り、先生が黒板に向かって板書をし始める。
私は、やっぱり手島孝士の背中を見ていた。
一週間前の──通学の電車の中の光景を思い浮かべながら。
あの日──横川駅のホームは、梅雨に入って三日連続の雨に濡れて、湿気と、石が発酵したみたいなあの独特の匂いが立ち込めていた。
いつもと同じ朝。いつもと同じ時間に、いつものように入線してきた宮島口・岩国方面行きの電車に乗り込む。周囲には、通勤客が多い。優先席に腰を下ろすお年寄りとか、背の高い外国人もちらほら見かける。
私はドアに背中を預けると、朝の小テストに備え、ノートを鞄から取り出した。
決して優等生だから、ではない。いつもは周りの人たちと同じようにスマホを取り出して時間を潰している。だけど昨夜は寝落ちしてしまって、まるで勉強していないし、焦っていた。真面目ではないけど、悪目立ちはしたくない。ある意味健全なプレッシャーに追われ、私はいつもと同じ朝に、少しだけ違う行動をとって、空気が破裂したみたいなドアが閉まる大きな音と、電車が動き出すガコン、という揺れを感じた。
それから数分、私は静かに頭の中のノートにテストに出るであろう語句をタイピングしていった。
大事件が起きたのは間もなくだった。
「ゆうくん、ゆうくん」
会話の少ない朝の電車内で、母親が子供の名前を呼ぶ声が聞こえた。
私はノートに落としていた視線を上げ、周囲を見回す。同じ車両のボックス席のあたりで、幼稚園児くらいの男の子を胸に抱えた母親が、悲痛な声を上げている。
すぐに駆け寄って助けなきゃ──とノートを鞄にしまったが、既に近くにいた人が何人か心配そうに母親のもとに集まっており、「自分が行ったところで何ができるのか……」と二の足を踏んだ。
「車掌を呼べ」「誰か医者か、医療従事者はいないか」
母親の周囲にいる人は、青白い顔をしてぐったりしている子供を見てパニックになり、「誰か、誰か」と叫ぶばかり。母親の後ろにいる会社員らしき人は、ただ腕を組んで心配そうなまなざしを送るばかり。
どうしよう──。戸惑いが連鎖し、騒然とする車内。
次の駅に着くまでまだ数分はかかる。その間に子供の命は──。
すると、中年くらいの男性二人組が「そのボタンを押せ!」と電車内にあるボタンに駆け寄った。その瞬間──。
「押すな! 電車が止まる!」
車内に響き渡ったのは若い男性の声だった。
啞然とする周囲をよそに、見慣れた制服姿の男子が人波を搔き分け、母親のもとへ歩いていく。
私は目を丸くした。その男子が──いつも教室の隅で誰とも関わらず、イヤフォンをつけて自分の世界に閉じこもっているクラスメート──手島孝士だったからだ。
彼は母親に声を掛けると、子供を母親の手から受け取り抱っこして様子を観察する。何かを耳元で呼びかけ、肩を軽く叩く。その動きには、微塵の躊躇もない。
彼は傍で腕組みをしていた会社員らしき男に何やら声を掛ける。そしてすぐさま子供を床に横たえて、胸のあたりを確認し、肘を伸ばしながらそこに手を置いて心臓マッサージを始めた。
速いテンポで、断続的に。その顔に焦りの色はなく、私の目には驚くほど冷静に映った。
やがて乗客の一人が車掌を連れてきたが、手島孝士はマッサージを続けた。子供の顎を上げて鼻をつまみ、人工呼吸へと移る。息を吹き込み、胸のあたりを確認し、もう一度息を吹き込む。そして再び心臓マッサージを始めた──そのとき。
子供の顔が歪み、手が動いた。彼はすぐに心臓マッサージをやめ、子供の膝を曲げて顎の下に手を差し込み、その様子を見守る。
「呼吸が戻ったぞ!」
沸き立つ車内。しかしまだ予断を許さない状況だ。
子供の母親はもちろん、車掌を含め、乗客たちは彼の動きを固唾をのんで見守っていた。中には祈るような仕草をしているお年寄りもいる。
間もなく駅に電車が入線し、通報を受けた駅員がAEDらしき赤い箱を持って駆け込んできた。手島孝士は駅員と何やら言葉を交わしている。数分後に今度は救急車のサイレンが聞こえてきて、救急隊員が車内に入ってきた。
それから子供は運び出され、いろんな人が入り乱れ──無事を祈る会話が車内に飛び交う中、いつの間にかその中心にいた手島孝士の姿はなかった。
コツコツ、と教室内に響くチョークの音。
先生が黒板に刻む数式を追いかけて、ノートをこするシャーペンの音。
その音をどれだけかき集めても、私の頭の中でずっと鳴り響いている疑問は消えない。
あなたは──どうして何も言わずに去ったの?
いつの間にか先のページへと進んでいて、慌てて隣の生徒の机の上をチラ見しながら、テキストをめくる。
恨めしさを含んだ視線を、やや丸まった手島孝士の背中に向ける。
不公平だ。どうして私ばかりが、こうして悶々としなければいけないのか。あなたは以前と変わらず、淡々と、何も気にすることなく授業を受けているというのに。
全国ニュースになるようなセンセーショナルな話題があっという間に学校中を駆け巡っているのをよそに、その中心となるべき人物は、授業中も、休み時間も、ずっと自分の世界に閉じこもっている。誰に自慢するわけでもなく。ちやほやされるどころか、陰口を叩かれて。
この学校の中で──目撃者は、私だけ。
悩ましいため息でペン先を蒸らしながら、私はあの電車での状況を何度も思い返していた。
逆に手島孝士は──私がいたことに気が付いているのだろうか。話してはいないし、視線も合っていない。しかし、私がいた場所的に視界に入っている可能性はある。通学で同じ電車を使っているということはあちらも認識しているはずで、ホームで同じ列に並んで電車を待ったこともある。
もし気が付いていたとしたら、私のことをどう思っているのだろう。誰にも知られたくないと思っているとしたら、言いふらしたりしないか、不安に思っていないだろうか。
「起立!」
いつの間にかチャイムが鳴り始めて、ワンテンポ遅れて椅子を引いて立ち上がる。礼をしながら、私はほとんど真っ白なノートを見つめる。決して成績は良いとは言えないけど……きちんとノートを取ることだけが取り柄みたいな私が、今日はこの有様だ。
放課後。私は一人で教室を出て廊下を歩き、ほかの生徒が部室やグラウンドへと散っていくのを横目に、まっすぐに校門へと歩いていく。この時間に帰宅する生徒はいないことはないが、割と少数派だ。
JR横川駅に到着し、改札を出て路面電車乗り場のある駅前を通り過ぎて、近くのスーパーマーケットに寄る。
風除室を通り抜けて買い物かごを取ると、小さな子供連れのお母さんたちに交じって、青果コーナーのプライスカードを確認し、野菜を手に取りながら店内を巡っていく。
制服姿で、一人で買いものをしている私は少しだけ浮いている。でもそんなのはとっくに慣れっこだ。
毎週火曜日はお肉の割引セールをしている。豚のひき肉と、豆腐を買って……今夜は麻婆豆腐かな。ついでにお弁当用のウィンナーも買っておこう。
そういえば片栗粉のストックがなかったと思い出し、迷いなく取りに向かう。最後に牛乳と、明日の朝ご飯用の食パンも忘れずに……。
通いなれた店内のレイアウトは、店員さんに尋ねなくても、どこに何があるのか大体把握している。あっという間に買い回りを終えて、レジへと向かう。
「いらっしゃいませー。あら、紗季ちゃん」
「こんにちはー」
レジ係のおばちゃんは私だと気づくと、スキャンしながら笑顔を見せてくれる。店員さんとも顔なじみで、いつも他愛のない話をしてくれる。
「はい、千百円ねー。あら、そういえば蒲田高校って、ニュースになってたわよね。生徒の男の子が、電車で子供の命助けたって!」
「あー……そうなんですよ」
またタイムリーな話題を提供してくれるなあ。私は苦笑いをしながらお店のポイントカードを出し、千円札と小銭をトレーに置く。
「もしかして、お友達?」
おばちゃんがトレーの小銭をレジの釣銭機に流し込みながら、興味深そうに私の顔を見つめてくる。
「いえ、みんな知らないんです。誰なのか」
「え~そうなの? 不思議ねえ。もしうちの子なら目立ちたがりだから、みんなに言いふらしそうだけどねえ、アハハ」
「あ、あはは」
乾いた笑いを返しながら、「ありがとうございます」と会釈をして買い物かごをサッカー台へと置く。鞄からエコバッグを取り出して広げながら、ふう、とため息をついた。
言えるわけがない。実は私もその場に居合わせて、私だけがその正体を知っているって。そして、商品を固い物から底に詰めながら、ふと考えを巡らせた。
もし私が学校でみんなに言いふらしたら……どうなるんだろう。
教室の隅っこで仏頂面をしながらイヤフォンを耳につけている手島孝士の顔を思い浮かべる。
嫌がるだろうなあ。ていうか、怒るに違いない。でも、どうだろう。みんなの彼に対する見方が変わって、人気者になって、私に感謝するって線は……ないか。
それこそ、私の思い上がりだ。彼が望んでいないことを正義漢ぶって勝手にお節介でやったところで、結局誰も幸せにはなれない。
買い物かごを戻し、エコバッグを肘に掛けて、店を出る。人通りの多い横断歩道を渡って、歩道をひたすら歩く。家への道中は、暑かった。日差しが強く、風もなく、夏服の制服にじんわりと汗が滲む。
団地の敷地内を歩き、角を曲がるとわが家が見えてくる。庭を通り抜け、玄関ドアを開けて「ただいま」と言うと、玄関ホールから廊下、奥のリビングまで声が反響する。
「あら、おかえりなさい。少し遅かったわね」
靴を脱いで洗面所で手を洗っていると、母が一階の和室からゆっくりと歩いてくる。
「あ、無理しないで。寝てていいから」
それでも私が買い物してきたものをキッチンへと運び冷蔵庫にしまおうとするので、捕まえて、「はいはい、病人は大人しくしておくのが仕事。いい?」とエコバッグを渡すように促すと、母はてきぱきと片付けや着替えをする私を困った顔をしながら見つめる。
「ソファーに座ってテレビでも見てて。晩御飯作るから」
キッチンの横で立ち尽くしている母の背中を優しく叩くと、母は言われた通りにソファーへと向かい、緩やかな動きで腰を下ろして、テレビをつけた。
エプロンを着けて、手を洗う。豆腐を下茹でするためのお湯を沸かしながら、まな板、包丁、必要な調味料を出して並べていく。
「さっちゃん。このドラマ見たことある?」
テレビを見ながら、母が尋ねてくる。画面を見ると、何かの恋愛ドラマのようだった。
「ドラマ見てないから分かんないよ」
私がそう答えると、母が教えてくれた。
「視聴率凄いんだって。今度映画にもなるらしいし。何万人に一人の奇病に罹った恋人のお話みたい」
「奇病?」
「うん。不治の病で、発症するきっかけになるのが、“恋”なんだって。このドラマは実話を基にしてるらしくって、患者さんの生涯を描いたドキュメンタリーとか本も凄く話題になってるよ」
それを聞いて、私は心がざわめくのを感じた。
「それ、聞いたことある。確か……」
クラスでも誰かが話していたし、インスタとかネットニュースとかでも見かけた記憶がある。名前は……と思い出そうとすると、テレビの中のヒロインが、そっと口にした。
恋滅症──。
そうだ。その病気は、恋をしたら死ぬ。誰かを好きになると発症してしまう、恐ろしい病気だって。
「かわいそうにねえ。でも、周りで支える人だって大変よ。お母さんも病気で体調悪くしてさっちゃんに迷惑かけてるし」
母が画面を見つめながら呟く。
「私は……何とも思ってないよ。一番大変なのはお母さんなんだから」
キッチンでせかせかと調理しながら、申し訳なさげな母に向けてそう答えた。
「……ごめんね」
「何? しょうがないじゃん、病気なんだから」
「そうだけど……さっちゃんだって部活とかしたかったでしょうに。家のことさせちゃってるのが情けなくってね」
「もういいって。私がやるって決めたことなんだから」
私が中学生になったくらいのときに、母が病気になって手術をした。
以来数年にわたって入退院を繰り返し、今は自宅で療養している。
父は帰りが遅い仕事をしているから、当初は母がふらふらになりながら家事をずっとこなしていたのだが、このままだと母の病気がよくならないと思って、私が家事全般をするようになった。
とはいえ、父も自分のことは自分でするし、休日は掃除したり色々とやってくれるから、辛いと思ったことはない。
「私、お母さんに元気になってもらいたいからやってるんだよ。だから気にしないで」
切り分けた豆腐を、まな板の上から崩れないように片手鍋に沸かしたお湯に投入する。こうすることで豆腐が崩れにくくなるって教えてくれたのは母だ。
「ねえ、さっちゃん」
「なに?」
フライパンにサラダ油をひいて、豚ひき肉を炒める。ジュワーッと肉から滲み出た肉汁が撥ね始めたら、チューブのニンニク、豆板醤、豆鼓醬、甜麺醬を加えていく。辛みと苦みが入り交じったような匂いが立ち込めたところで、火を止めた。
「お母さんのことや家のことを心配してくれるのは嬉しいんだけどね。お母さんとしては、さっちゃんには今しかできないことをやってほしいなって思うの。お料理なんか……ほら、お弁当買ってきたりとか、チンするだけとかいろいろあるし。お洗濯とかも、乾燥機に掛けちゃえば干さなくたって済むし……」
私はフライパンの粗熱が取れるのを待ちながら、母に向かって精一杯の笑顔を向けた。
「私にとって“今しかできないこと”は、病気のお母さんや仕事で忙しいお父さんの役に立つことなんだから。別に何か他にやりたいことがあったりとか、犠牲にしてるとかないし。ほんっとに気にしなくていいって」
湯切りした豆腐をフライパンの中に入れると、ウェイパァーやオイスターソースなどを調合したスープを入れて煮込む。
「さっちゃん……ごめんね」
「謝らなくていいから」
私がそうたしなめると、母は「ありがとうね」と言って目じりをくしゃっとさせた。
母は優しい。小さい頃はよく病気をして熱を出した私の面倒を、付きっ切りで見てくれた。どれだけわがままを言っても、怒ったりせず、私の気が済むまでずっと見守ってくれた。そんな母が、私は大好きだ。だからこそ私は、母の為になるなら、自分のことなんてどうでもよくなる。
それが好き、ということなのかなとふと考える。もしもたくさんの人に好かれたなら、友達がたくさんできて、困ったときに助けてくれる人がいて、それは幸せなことなのだろうと。
だからこそ、ここのところ胸の奥に潜んでいる疑問がまたもくもくと湧いてきて、頭を支配する。
「……人に好かれたくない人って、いるのかな」
水溶き片栗粉を準備しながら、思わず言葉が零れる。
母は興味深そうに首を傾げ、私の顔を覗き込んだ。
「そうね。みんなに好かれるってことは、みんなの期待に応えなきゃいけないってことだからね。“良い人”になるって大変なのよ。それに、人に興味を持たれたくないって人もいるんじゃない? ほら、自分の時間を大切にしたいとか、人づきあいが苦手とか」
「ああ……なるほどね」
正直、身に覚えがあるというか……クラスで好かれるように、というより“嫌われないように”振舞っていると自分で思うことがあって、ぎくりとした。
「そうだよね……人に期待されていない状況って楽だもんね。いつも成績がいい子だと、テストの点のハードルも上がるし。みんなに嫌われないように振舞うのって、それだけで何だか疲れるもんね」
「クラスで浮いている子がいるの?」
母が心配そうに尋ねてくる。私の頭には、くっきりと手島孝士の顔が浮かんでいた。
「まあ……そんな感じ。周りとの関わりを避けているというか。自分の殻に閉じこもっているというか」
「だったら、話しかけてみたら?」
「うーん、でも好きでそうしているのに、邪魔するのも悪いかなって」
私が眉を顰めると、母は優しく言葉を添えた。
「あなたが話すんじゃなくて、話を聞いてあげるの。そうしたら、その人のことも分かるかもしれないし、あなたのことも分かってもらえるかもしれないでしょ?」
その人のことが分かる……か。確かに、私は彼のことを何も知らない。
ふと思う。もし彼が人との関わりを避けたいと思っていたとしたら……そもそも電車で子供が倒れたって素知らぬ顔をするんじゃないか。本当に人に興味がないなら迷わずそうするだろう。
でも、手島孝士は違った。彼がとった行動からは、むしろ人に対しての強い想いが感じられる気がするからだ。
スープの水かさが減ってきた。一度火を止め、水溶き片栗粉をゆっくりと回し入れる。冷蔵庫から刻み葱のパックを取り出してフライパンに加えると強火にして、底が焦げ付かないように揺すりながら豆腐を焼く。
料理ができるころには、母はソファーで寝息を立てていた。
起こしてしまわないように、シンクで静かに洗い物を先に済ませる。
もしかしたら、あの日電車であの場面に居合わせたのは……彼について知る貴重なきっかけだったのかもしれない。
決して頭の中で渦巻いている考えがまとまったわけではないけど。もう少しだけ勇気を出してみる価値はきっとあると、私は背中を押してもらえた気がした。
「ねえねえ紗季ちゃん。一緒に更衣室行こー」
クラスメートの轟七海が笑顔で声を掛けてくる。背が高くて、おっとりしていて、ちょっと天然。入学して最初に仲良くなったのは彼女で、一緒に行動することも多い。
「ねえ、七海って、手島くんと同じ学校だった?」
廊下を歩きながら尋ねると、彼女は目をぱっちりと見開いて首を横に振る。
「私は違うけど、同じ学校だった子なら隣のクラスにいるよ。あの眼鏡かけて髪結んでる……富田自由って子」
富田さん、か。話したことはないけど……顔は知っている。
「どんな子?」
「すごく大人しくて、真面目そうな感じかなあ。あんまり話したことはないんだけど」
「そうなんだ」
次の授業は体育で……男女別でいくつかのクラスと合同で、たまたまその子と一緒だ。
これは彼のことを知るチャンスかもしれない。更衣室で着替えた後、体育館への移動中に、彼女に思い切って話しかけてみた。
「ねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
一人で歩いていた富田さんは一瞬びくっと肩を震わせて、私の方へと振り向いた。
「……なに?」
警戒するように、怪訝そうな視線を向けてくる。
「手島くんって、中学のとき同じ学校だったんだよね?」
じっくり話す時間はなさそうだし、単刀直入に聞いていた。
すると彼女の表情がみるみる険しくなり、鋭い目つきで私のことを睨みつけながら吐き捨てるように言った。
「彼にはずっといじめられてたの。あのときのことは、思い出したくもない。その名前……二度と私の前で口にしないで」
そのまま彼女は、早足で私のもとから離れていった。
体育の時間。七海とペアを組んで準備運動をしながら、私の心は沈んでいた。
「どうしたの? 顔……死んでるけど、大丈夫?」
心配そうな七海に、私は「大丈夫」と力なく答えるだけ。
彼のことを、知りたい。
そんな私の気持ちが、激しく揺らいでいる。
でもそれは、やっぱり私に勇気が足りないだけだ。
首をぶんぶんと振って、気を引き締める。
今日は絶対に、彼に話しかける。そう自分に言い聞かせながら、私は助走をつけ、跳び箱を跳んだ。
昼休み。みんながいる前ではやっぱり話しかけづらく、授業の合間や教室移動の際にチャンスを窺ったのだけれども、なかなかタイミングが合わず。
お弁当を食べ終わって、七海と一緒にトイレに行って。外で彼女が出てくるのを待っていると、廊下を手島孝士が歩いてくるのが見えた。
──来た。今ならイヤフォンもしていないし──周りに誰もいない。この機会を逃してなるものか。
彼が近づくにつれ、だんだんと高まっていく鼓動。私がもじもじしていると、彼がちらりと顔を上げてこちらを見た気がした。
気づかれた? と思った瞬間。彼の足取りが速くなり、窓際へと進路を変えた。
えっ? 明らかに避けられてない? と戸惑ったのと同時に、「おまたせー」と七海が背中を叩いた。
「あ……うん、じゃあ戻ろっか」
その隙に、手島孝士はさらにペースを上げて私たちの横を通過し、トイレの中へと消えていった。
やっぱり駄目か……。
落胆した私は、視線を落としながら廊下を歩き、教室の前に来る。
開いた窓越しに、教室の様子が視界に入った。
委員長──田島賢太郎が、男子生徒と会話している。というより、一方的に話しかけている。なんだろうと思いながらドアを開くと、彼がその男子に何かを断られたところで──間が悪いことに、ちょうど教室に入ってきた私に、彼の視線が向いた。
「あ、塚本さん。ちょうどいいところに」
何だろうと思い、どぎまぎする。
「え……うん。なに?」
手招きする彼の近くに行くと、私の顔をじろじろと見つめてくる。
「君は……咬まれたことはあるかい?」
「……ん?」
「人でも、動物でも。一年以内に。咬まれたことはある?」
「ない……けど」
「そう。じゃあ、ピアスの穴は?」
「開けてないです」
「うんうん。最近怪我をしたことは?」
「特には」
「じゃあ最後に……誕生日はいつ?」
「……四月だけど」
すると彼は深く頷いて、私の肩を叩き、改めて笑顔で告げた。
「合格だね。献血に行こう」
「……はい?」
彼は待ってましたとばかりにパンフレットを取り出して、私に見せてきた。
……生徒会主催、校内献血の案内、と記載がある。献血ができない人、という項目に、先ほど私が聞かれた内容が書かれていた。
「えーと……これって、勧誘かな?」
「違うよ。仲間を集めているだけさ」
屈託なく微笑む彼を見て、同じクラスの男子の誰かさんと全然違うな……とつい思ってしまった。
「行きたいのはやまやまなんだけど、私、注射がすごく苦手で」
献血の理念はすごくいいと思うんだけど。注射はもちろん、血を抜かれるという行為にかなり苦手意識がある。
「大丈夫。刺すときと抜くときはちょっと痛いかもしれないし、血を抜かれているときもちょっと落ち着かないけど、とにかく大丈夫だから」
それを聞いて余計に怖くなった。どうやらこの人は上手に噓をつくのが苦手らしい。
「う~ん……」
私が悩んでいると、田島くんが「よし、分かった」と言って自分の腕を叩いた。
「献血に参加してくれたら、何でもひとつ、君の言うことを聞くよ。それならいい?」
いきなりとんでもないことを言い出した。
「いやいや、そんなことでき……うーん」
待てよ、とふと私は思い立った。このコミュ力を備えている委員長なら……もしかしたら彼に対して何かしらのアプローチができるかもしれない……と。
「じゃあ……」
「いいよ。なんでも言って」
彼は私の机の横にしゃがんで、耳を傾ける素振りをした。
「手島くんと……仲良くなってくれないかな……」
「……ん?」
冗談を言っていると思ったのか、私の顔を二度見する田島くん。
「もちろん構わないけど……なんで?」
「いや、その……だって、クラスで孤立しているというか。何とかしてあげたいなって思ってて」
思わず顔が赤くなってしまう。いや、そういうんじゃないんだけど。明らかに動転している様子の私を見て、「ははあ」と田島くんがにやりとする。
「いや、違うから」
「何も言ってないけど」
「ホントに。みんなに悪く言われてるのが、見ていられなくて」
「そんなに悪く言われてるかなあ」
「……女子の間では」
へえ、と意外そうな顔をする田島くん。「そういうやつ、手島くんのほかにも何人かいるけど」とちらちらと教室を見回す。
「何かあったの? 彼と」
「えっ。別に……」
「あったんだね。良かったら、聞かせてくれない?」
軽く話したことはあれど、特にこれまで交流があったわけでもない田島くんに対し、どこまで打ち明けて大丈夫なのか躊躇った。その様子を見た田島くんが優しく微笑みかけてくる。
「無理にとは言わないよ。でも、君が困っているようなら力になりたいからさ。彼に関することならもちろん、協力する。君が一人で背負い込む必要はないと思うよ」
その言葉を聞いて、悩んでいた気持ちが少し楽になった。同時に、委員長なら……手島くんの秘密を打ち明けてもいいのではないかと思い、思い切って話を切り出した。
「先々週くらいかな。通学中の電車の中で、突然子供が倒れて。偶然居合わせた手島くんが、心臓マッサージとかして助けたのを目撃しちゃって」
田島くんはそれを聞いて、ちらりと周囲を見渡す。そして、腕組みをしながら目を細めた。
「あー、ニュースになったやつか。男子高校生が、誰にも名乗らずに立ち去ったっていう。へえ……あいつだったのか。凄いじゃん。たいしたもんだよ。僕でもそこまで的確に処置できるかどうか自信ないな」
「え? 驚かないの?」
「別に。だってあいつ、芯がありそうなやつだから」
芯がありそうか……。そういえばもともと男子はそんなに手島孝士のことを疎んではいないようだった。
「で。彼の方は、君がその場にいたってことに気づいているの?」
「うーん……」
「もしかしたら、君がいたことを知っているからこそ警戒しているのかもよ。ばらされたくないんでしょ? どんな理由があるのか知らないけど」
田島くんはワクワクした様子で私に目配せをする。
「はあ……。あのさ。分かると思うけど……絶対にみんなには言わないでね」
「そりゃもちろん」
そして、そこを探ってくればいいんでしょ? と田島くんは不敵な笑みを見せた。
「約束だからね。紗季ちゃんの頼みなら、僕はなんだってしますよ」
「そういうこと言わないで。私が恨まれるから」
言った傍から、田島親衛隊の一人が私の席に寄ってきて大きな咳ばらいをする。ああ、やばい、と怖くなって、慌てて田島くんの背中を押した。
「ほら、もう行って」
「はいはい。また後でね」
背中を向ける田島くん。しかし私は彼をもう一度だけ呼び止めて、尋ねた。
「ねえ。ちなみに委員長ならどうする?」
「ん? 何が」
「もし……電車で子供を助けたら、自分だって名乗り出る?」
田島くんは私の目を見つめながら、真顔でこう答えた。
「当たり前でしょ。その方が僕の株が上がる。人気者になる。むしろ、自分から言いふらして回りたいくらいだね」
でしょうね、と私は苦笑いした。
*
続きは7月3日ごろ発売の『この恋が君を殺すまで』で、ぜひお楽しみください!
■ 著者プロフィール
高梨愉人(たかなし・ゆじん)
「エブリスタ」に投稿していた作品『二度目の過去は君のいない未来』(集英社文庫)でデビュー。そのほかの著作に『余命一年、夫婦始めます』(ポプラ文庫ピュアフル)がある。