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ふたり、この夜と息をして


  まばゆくなくても灯りがある
  照らされている
  足元も見えないくらいかすかに、確かに


  

 潜水艦せんすいかんがゆっくりと浮上するかのように、意識が覚醒し始める。
 夕作ゆさは重いまぶたをこすりながら布団を払い、右手を頭の横で右往左往させてなんとかスマホを探り当てた。アラームが鳴り始める前に目覚ましのアプリを切って、立ち上がり寝室を出る。
 一階で寝ている祖母を起こさないようにゆっくり歩いても、木造の廊下はそんなこと気にも留めずに音を鳴らす。真っ暗な階段を下り、居間を通って洗面所に入ると、窓から差す薄明かりを頼りに蛇口をひねり顔を濡らす。前髪が変な形の束になって、額にくっつくのがいつもストレスになっている。泡立てた洗顔料で顔を包み込
み、洗い流して前髪ごとがしがしと顔をぬぐった。
 ふーっと息を吐いて洗面台の傍にあるスイッチをいれると、繊細にガラスを叩くような音を立てて黄色味がかった明かりが灯る。
 狭い暗がりの中に、ぼんやりとした立ち姿がぽつんと浮かび上がる。確かめるように数回まばたきをし、夕作は洗面台に両手をついて儀式的に自分の姿を見つめた。
 まだ幼さを残す顔立ちに、朱色のあざが浮かぶ。左側の頰から左目にかけてと、額にも少し。生まれつきのそれは、まるで塗り誤った絵の具のように白い肌に定着し、色あせることなくそこにあり続ける。
 小さく息を吐いて、棚に置いた小さな化粧ポーチからファンデーションとコンシーラーを取り出し、慣れた手つきで痣のある場所を丁寧に隠してゆく。
 バイトの制服のポロシャツとジーパンに、紺色のウィンドブレーカーを羽織って家を出た。五月の夜はまだ少し寒い。近くに小さな川が流れているから、早朝になると霧も出る。
 街灯がまばらにアスファルトを照らしている。一つ一つが夜の海に浮かぶ小島のようだ。切れたものから適当に業者が入れ替えているのか、白い色のものとオレンジ色のものが入り交じっていて統一感がなく、どれがいつ消えてもおかしくない。遠くに灯るコンビニの青白い光を、妙に心強く感じる。
 夕作はウィンドブレーカーのファスナーを胸まで引き上げて、ギシギシと大袈裟おおげさきしむ自転車を漕ぎ出した。アパートの前の通りを真っ直ぐ百メートルくらい走って、何度か角を曲がると大通りに出る。つい最近工事があって新しい道が開通したからか、こんな時間でもそれなりに車が走っている。
 それまではこの時間の信号機なんてあってないようなものだったが、車が増えだしてからようやく役割を果たし始めた。
 たまに押しボタン式であることを忘れて五分くらい待ちぼうけしてしまうこともあり、そんな日は信号機の赤い人型にバカにされているように感じて、妙に嫌な気分になる。
 横断歩道を渡って道沿いにしばらく進むと、煌々こうこうと灯りのついた新聞販売所に着いた。従業員用の駐輪場に自転車を止め、磨す りガラスのドアをカラカラと鳴らして中へ入る。
「はよざいます」
「うす」
 先に着いていた先輩たちと、適当な挨拶を交わす。しばらくすると印刷所からトラックが到着し、運びこまれた朝刊にてきぱきとチラシを差し込む。
 仕事中、バイト同士ではあまり会話がない。働き始めてまだ二ヶ月ほどだが、淡々と仕事をする空気は楽で気に入っていた。
「揃ったので出発します」
 年長のバイトが声をかけると、ジャージの腹をパンパンに膨らませた中年の販売所長が、届いたばかりの朝刊に目を落としながら、返事ともうめき声ともつかない低い声でうなる。
 販売所を出て各々がバイクにまたがり、何人かが一斉にエンジンをかける。音だけ聞いているとまるで暴走族のようだ。
 販売所からしばらく走ると、大きな交差点でみんな散り散りになる。一人で、夜の澄んだ空気の中を走るのは好きだ。住宅街に入ると他の車の音も消えて、世界で起きているのは自分だけなんじゃないかという気がしてくる。いっそ、このまま誰も起きなかったらどうなるだろうと、危ないことを考えてみたが、少し妄想して、馬鹿馬鹿しくてすぐに忘れた。

 一時間半あまりで新聞を配り終えて、販売所に帰ってくる。仕事が終わった達成感と、もうすぐ夜が終わってしまう寂しさを飲み込む。「上がります」と小さく挨拶して自転車に跨ると、販売所長が「あー、夕作君まってまって」とのそのそ歩いてきた。
「はい」
「ちょっと中戻ってきて」
 スタンドを立て直して所内に戻ると、所長が作業机に地図を広げていた。
「明日から、ちょっと担当区画増えるから。ほら、前に話した、道路通ったせいで色々変わるやつ。覚えてるでしょ」
「ああ」
 所長はソーセージのような指でしゅるしゅると地図の上をなぞった。
「夕作君は隣町の、三丁目から五丁目まで。この辺までよろしくね」
「わかりました」
「新しい道だから、明日は三十分早めに集合でよろしく。終わりの時間ちょっと延びるけど、大丈夫?」
「大丈夫です」
「じゃあ、よろしく。お疲れ様」
「お疲れ様です」
 販売所を出て、自転車のスタンドを上げて走り出す。帰り道に何度か販売所に戻るバイクとすれ違い、首だけで挨拶する。
 コンビニに寄って、パンとハムと牛乳を買った。レジの店員は夜勤シフトの終わり際なのかうとうとしていて、敬語なのかなんなのか判別できない言葉で対応してくる。コンビニを出て空を見上げるともう白み出していた。早朝の光は青くて暗い。
 家に帰り玄関を閉めると、壁にかけられた古い姿見に映る自分と目が合う。祖母が若い頃からこの家にあるらしく、鏡面を縁取る金属の装飾は溝が錆びていてなんだか怖いので、夜中に家を出るときは見ないようにしている。
 夕作はコンビニの袋をテーブルの上に置いて、一旦部屋に上がりウィンドブレーカーを脱いで横になった。祖母が起きてくるまでしばらくあるから、いつもそれまでは寝て過ごそうとするのだが、動いた直後でまともに眠れた例しはない。
 天井を見上げてうつらうつらと時間を過ごしているとだんだん部屋が明るくなってくる。
 一階に下りて、コンビニで買った物をテーブルの上に広げる。冷蔵庫からきゅうりを一本と卵を二つ取り出すと、木製の戸棚から小さなガラスのうつわを出して、生卵を割り入れて細かく溶きほぐしていく。フライパンにバターを伸ばしてスクランブルエッグにする。祖母はもう八十を越えていて、自分では和食しかつくらない。
普段は無口で表情もとぼしいが、パン食を用意すると心なしか喜ぶ。
 トースターでパンを焼きながらきゅうりを切っていると、居間の方で戸を引く音が聞こえた。
「ばあちゃんおはよう」
「んん」
 ぼんやりした無表情で返事をしてくる祖母の頭は、細い白髪がくるくると遊んで鳥の巣のようになっている。
 テーブルに着くとパンの香りに気づいたのか、少し口元が緩む。チンッと気持ちのいい音がしてパンが焼きあがった。
 マグカップに牛乳を注いで、大きめのお皿に焼いた食パンとスクランブルエッグ、ハムときゅうりを盛ってテーブルに二つ並べる。
「食べよう。いただきます」
「いただきます」
 祖母は食事をするとき、家であろうと店であろうと必ず手を合わせる。どうでもいいことなのだけれど、この家に来てからは夕作も真似して手を合わせるようにしている。
 すでに十分日は昇っていて、電気をつけなくても窓から入る光だけで部屋の中は明るく、暖かくなる。テーブルにひだまりをつくる光線の中で舞う小さなほこりを、口を動かしながらなんとはなしに眺めていると、ふと、祖母が不思議そうにスクランブルエッグを見つめているのに気がつく。
「まこと」
 変わった匂いだね、とつぶやくように言って口に含む。すると少し驚いた顔をしてから、美味しそうに目を細める。
「バターで炒めてみたから」
 梅干しのような口をもそもそと動かしながら頷き、親指を立てる。祖母は若者文化に合わせようとしてしばしばずれた行動をとる。ちょっと面白いから訂正したことはない。
 ひとことふたこと会話にも満たないやりとりをすると、あとはパンを嚙む乾いた音と食器の音だけが響く。時たま外から、犬や子供の声が聞こえる。
 祖母が食べ終えるのを待ってごちそうさまをし、食器をまとめて席を立った。部屋に戻りドアの裏に引っ掛けたブレザーをとって着替える。
 鞄を持って一階に下りると祖母が洗い物をしていた。
「ばあちゃん」
「んーん」
 自分がやるからいいと言ってもやってしまうから少し困る。つい最近も腰を痛めたのだからりてほしい。祖母を尻目に洗面所に向かい、軽く化粧をなおす。
 道具をポーチにしまって鞄に入れ、祖母に無理をしないようにと言ってから居間を出る。
 靴を履いて立ち上がると、姿見に向きあって頰をじっと見つめる。胸のあたりをきゅっとつかんで、深呼吸してから祖母に声をかける。
「いってきます」
 食器を洗う水音に混じって祖母の返事が聞こえた。

  

 午前中は、新聞配達の反動で死んだように眠って過ごす。注意されることもあるが、特別教育熱心な先生がいるわけでもない。今日も昼休みの喧騒けんそうで目を覚ました。
 いつも頰を擦らないように、腕を机とお腹の間に挟み、首をがっくりと前に倒して眠るから起きるとすごく首が痛い。
 寝ぼけまなこを擦ってまわりを眺める。昼休みに教室にいるのは、クラスの半分くらいだ。大半は学食に行ったり、他のクラスに遊びに行ったりしているのだろう。
 周囲の談笑でだんだんと頭が冴えてくる。眠気を覚まそうと、ぎゅうっと力強く目を閉じる。大きく息を吸い込むと、色々な食べ物の匂いが急に鼻から取り込まれて、空っぽの胃が空腹を訴えるようにへこんだ。午前中いっぱい寝ていただけでもさすがにお腹は空いてしまう。財布と午前聞いていなかった英語の教科書を持って、教室の後ろ側の扉から外に出て購買部に向かうことにした。
 校舎の一階、下駄箱を抜けた所に購買がある。柱に寄りかかって、殺し合いのような人だかりが落ち着くのを待ってからカウンターに向かうと、人気の調理パンなどは売り切れていて台風前のコンビニのようなラインナップしか残っていない。カップ麺とおにぎりを買い、お湯を注ぐと屋上に向かった。といっても、屋上のドアは施錠せじょうされているため、その前の踊り場に腰を下ろす。
 こういうところはやんちゃな生徒がたむろしたり、ゲーム機を持ってきて通信対戦するグループが占拠せんきょしたりしそうなものだが、清掃員の手が行き届いておらず埃臭いため、あまり人が寄り付かない場所になっていた。
 窓から差す菱形ひしがたの光の中に座り、持ってきた英語の教科書を開いて眺める。授業中は寝続けて置いていかれている分、休み時間に遅れを取り戻さなければならない。現代文や世界史はいいとして、数学や英語は本気で頑張らないと追いつけなくなる。でも、明日からの新しい配送ルートも覚えなければならない。無表情でそんなことを考えながらカップ麺をすする。
 高校二年生になって一ヶ月が経った。
 三年生になれば受験勉強が本格的に始まる。生徒たちは、今が一番好きなことができる年だ。部活動に熱心な生徒はきっと今が一番打ち込める時期だし、いい大学を狙おうという生徒はこの時期から予備校に通い出したりもしている。
 この高校の偏差値は、おそらく中の上くらいだろうか。強い部活はテニス部と剣道部だが、全国に行けるレベルではない。優等生ばかりでもなければ、飛び抜けた不良もいない。それから、プールがない。夕作にとってはそれが魅力だった。
 大切なのは、とにかく何もないということだ。何事に対しても最低限の関与で済ませ、繫がりを持たないこと。他者や物事と密に関われば関わるほど、平穏が乱されるリスクは高まる。普段特別目立つことのない男子生徒が、化粧をしている。珍妙で話の種にしやすい話題はまたたく間に広まり、好奇の対象になってしまうだろう。それだけならまだいい。もしその化粧の下を見られたらと思うと、足がすくむ。
 入学したての頃は、本当にちょっとしたことで周囲に痣がばれるんじゃないかと、日々綱渡りをするような心境で生活していた。今もそうだが、一年間うまくやれていたという自信があるから心は落ち着いている。
 静かに暮らしたかった。いだ海のようにどこまでも何もない、透明な三年間を送りたい。
 午後の授業が終わればまっすぐに家に帰る。数週間後には中間試験があるので、部屋に上がったら夕飯ができるまでは眠気を我慢して勉強した。
 祖母と夕食をとった後に洗い物を済ませて、スマホで今朝撮った新しい配達区画の地図を見る。
 今回増えた区画と今まで担当していた区画を足すと、だいたい一・二倍ほどになるだろうか。大した量ではないし、夜の時間が増えることは苦ではない。
 シャワーを浴びて歯を磨き、早々に布団に入った。

 アラームの一音目で起きた。いつもより三十分早いとさすがに眠い。布団から這い出してフラフラと立ち上がり、冷たい水道水で顔を洗うと段々意識がはっきりしてくる。軽く寝癖がついているが、直していたら遅刻しそうだ。
 ポロシャツとジーパンに、紺色のウィンドブレーカー。いつもの格好で家を出る。
 大通りに出ると、普段より車の通りが少ない。赤く光って仁王立ちする信号を無視してやると、ちょっと気分が良かった。
 少し早いだけでこんなに違うんだな、とどうでもいいことを考えながら販売所に向かう。
 自転車を止めて所内に入ると、もうほとんどの配達員が集まっていた。スマホをいじって時間を潰していると、残りの配達員たちも揃い、「じゃあ、真ん中の机集まってー」という所長の号令で全員で机を囲み、地図を見下ろす。
「昨日軽く説明したけど、今日から担当してもらう配達区画が増えるので。道に迷わないようにね。とりあえず今日一日やってみて」
 所長がこれ回して、と言い、地図のコピーが回される。
「それぞれの担当の場所、マーカーで囲んであるから。間違えないように」
「皆もし朝の予定とか昼の職場に影響があるようだったら、配置を考え直したりもするので。随時ずいじ言ってください。うん。それじゃあ今日もよろしく」
 自分のバイクに新聞を詰め終わった人から順にバルバルとエンジンをふかして出発していく。区画が増えて回り方を変えたのか、同じ方向へ走る台数が今までより少ない。夕作は一旦普段通りの順路で回ることにした。
 もともと担当していたエリアを配り終えると、新しい担当区画のほうに入る。どうやらこの辺りは一軒家が多いようで、マンションやアパートのように一旦降りて建物に入るという手間がなくて楽だ。
 加えて、広さの割りに新聞をとっている家は少ない。新築に見える、綺麗な装いの家はあまりとっていないようだ。地図を見ながら回ってたどり着くのは、築年数でいうと二十は越えていそうな、郵便受けの名前の部分が日に焼けすぎて読めなくなっている家ばかりだ。ただのアルバイトだし、新聞社の業績なんて気にならないが、少しだけ寂しい気分にもなる。特に難しいこともなく、点々と散らばる目的の郵便受けに新聞を放り込んでいく。思ったよりも早く終わりそうだ。

 最後の配達を終えて販売所への帰路につく。なんてことない。意外とすぐに慣れそうだ。
 ぼんやりと思いながらバイクを走らせる。この辺りは夕作の家の周りと比べると道沿いがきちんと整備されていて、街灯も全て白い蛍光灯で統一されている。
 小さな公園の前を横切ろうとしたそのとき、視界の端に、赤く光る何かが入った。
 目を向けると、微かな光源はどうやらタバコの火のようだった。
 砂場とベンチ、それから誰が管理しているのかもわからない花壇。それだけしかない。両脇は民家に挟まれていて、空き地をなんとか公園らしくしたというような見た目だ。
 深夜の公園とタバコ。よくある光景だ。
 けれど、その人影は思いのほか線が細い。女の人だ。ゆっくり走っていたせいで、ふと、吸い込まれるように目が合ってしまった。
 驚いて、思わずブレーキをかける。反動で少しよろけた。
 目が合ったから驚いたのではない。相手の顔に、見覚えがあったからだ。長い髪を胸のあたりまで下ろしていて、いまは制服のブレザーではなくグレーのパーカーを着ていたがなんとなくわかった。彼女はクラスメイトだ。

 名前は、たしか──槙野まきの、だったか。

 話したことはないが、不良、非行というイメージはなかった。向こうもこちらに気づいて驚いているようで、タバコをくわえたまま微動だにしないが目を丸くしている。
 何か悪いことをしているわけでもないのに、お互い胸の中で「見つかった」と言っているような気がした。いや、向こうは、悪いことをしているといえば、しているのだが。
 友達でもなんでもないから挨拶をするでもなく、なんともいえない気まずい空気が流れだして、夕作はすぐにバイクを発進させた。
 こんな時間に人に、ましてやクラスメイトに会うだなんて想像してもいなかった。もしかして、槙野は毎日あそこで人に見つからないようにタバコを吸っているのだろうか。帰り道を変えればいいが、あの辺りで他の道を選ぶと地図的にはかなり遠回りになる。
 一気に憂鬱な気分になった。人と必要以上の接点ができるのは避けたい。大きくため息をついて、販売所を目指した。

  *

続きは発売中の『ふたり、この夜と息をして』で、ぜひお楽しみください!

プロフィール
著者:北原一(きたはら・いち)
1995年、東京生まれ。武蔵野美術大学卒。グラフィックデザイナー。2019年、本作にて第9回ポプラ社小説新人賞特別賞を受賞し、デビュー。

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