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死人の口入れ屋

 第一話 嗤う婚約者

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 第一印象は、堂というよりも蔵だった。
 最寄り駅からバスに乗り三十分揺られた後、終点で下車。それから二十分ほど、人通りの少ない坂を上り閑静な住宅街へ進むと、ほどなくして古びた土塀に囲まれた一軒の旧家が姿を現す。見上げるほどある両開きの重厚な門扉を抜けると、敷石が二つの方向に分かれていた。
 正面には三角屋根の古めかしい造りをした母屋があり、よく手入れされた庭の草木が来訪者を迎えているようだった。花壇には色とりどりの花が咲き、池には数匹の鯉が泳いでいる。家主の姿はなく、ここだけ時間が止まってしまったかのような光景であった。敷石を右方向へ進むと、前述したとおりの『蔵』としか思えぬ建物がそびえている。
 もとは手にしたメモ紙に記された名称と、目の前の『蔵』とを見比べる。三角屋根に石造りの壁。破風の少し下、二階に位置する箇所には小さめの窓。その更に下には庇があり、蔵の正面には観音扉があった。扉の脇には縦長の古びた板が立てかけられており、『古物商 堂』の文字が荒々しく躍っていた。重厚な上戸と下戸は開かれたままで、その木の網戸だけは他とは違い真新しかった。恐る恐る近づき、手を伸ばしたところでその網戸はさっと横に開かれる。意外なことに、この戸は自動ドアに変更されているらしい。
 思いがけぬ近代的な造りに驚きながら、開かれた戸口から中を覗き込む。そこそこの広さを有する三和土たたきの踏み石には雪駄が、脇にある下駄箱には真っ赤なハイヒールがそれぞれ一足ずつ置かれていた。今にも崩れてしまいそうな外観とは裏腹に、内装は極めて清潔かつ整然としていて、床板なんて顔が映り込むのではないかと思うほど磨き込まれ輝いている。短い廊下の先には障子で仕切られた部屋があり、すぐ脇には給湯室。さらに隣にはトイレがあって、廊下を挟んだ向かいには藍染めの暖簾がかけられた襖があった。手前と奥で二部屋──あるいは中で繫がっているのかもしれない。
「あのぉ、すみません」
 恐る恐る声をかけてみても反応はない。しかし、襖で仕切られた部屋からは、なんとなく人の気配がするし、時折キーボードを叩くような音も聞こえてくる。
「ごめんください、どなたかいませんか?」
 腕時計を確認すると、午後一時を三分過ぎている。出来ることなら五分前には到着しておきたかったのだが、住宅街のど真ん中にあるこの旧家が古物店を営んでいるなどとは予想もつかず、入ろうかどうしようかと二の足を踏んでいる間に約束の時間を過ぎてしまった。ひょっとすると、ここの店主は時間に厳しい人物で、遅刻してきた面接希望者になど会うつもりはないのかも……。
 悲観しかけた時、すっと音もなく襖が開き、スーツ姿の女性が顔をのぞかせた。
「──何か」
 端的に向けられた言葉は詰問調で、ノンフレームの眼鏡の奥からのぞく鋭い眼光に思わず背筋が伸びる。計算し尽くされたかのように端整な顔立ちをしたその女性は、日本人にしては彫りが深く、大きな瞳は切れ長に研ぎ澄まされているが、薄く整った唇はなんとも言えぬか弱さを醸し出している。市松人形のようなボブスタイルの黒髪と、色素を母親の胎内に忘れてきたのではないかと心配になるほどの白く透き通った肌が絶妙なコントラストを演出していた。体形は細身で、身長は宗子の方が高かったけれど、股下の長さは彼女の方が上だろう。シックなピンストライプのパンツスーツが、嫌みなほどさまになっている。
 突如として現れた女性の不可思議な雰囲気と幻想的ともいえる美貌に見とれ、宗子は自分の名を名乗ることも、ここへやって来た目的をも口にすることができず、しばし呆けたように目をぱちくりさせていた。
「もしかして、面接の方?」
 まごついている宗子を見かねたように、女性が問いかけてきた。
「そ、そうです。私、面接のお約束を──」
「それじゃあ奥にどうぞ。社長がお待ちですから」
 宗子の説明を最後まで聞こうとせず、女性は奥の障子を指差した。それから最小限の動作で部屋に戻り、後ろ手に襖を閉める。すぱぁん、と鋭い音が廊下に響いた。
 女性のあまりにも素っ気ない対応に目を白黒させた宗子は、それから数秒かけて我に返り、靴を脱いでスリッパに履き替えて廊下を進む。突き当りにある障子の前に立ち「ごめんください……」と声をかけると、中からは「あいてるぞ」と応答があった。するすると障子を開き中を覗き込むと、そこはがらんとした倉庫のような空間で、そこかしこに大小さまざまな品物が乱雑に置かれている。四方の壁には見上げるほどの棚が設置され、そこにもまた多くの品が押し込まれていた。すでに六月の半ばを過ぎ、気温も高くなってきたにもかかわらず、特に冷房の類が見当たらないその部屋からは、思わず身震いしてしまうほど冷え切った空気が流れ出してきていた。その部屋の片隅、応接ソファに腰を下ろした着物姿の男性が宗子に気付いて顔を上げる。
「えっと、たしか名前は……久瀬だったな?」
 馴れ馴れしい口調で宗子を呼び捨てにすると、その男性はやや長めの前髪を乱暴にかき上げた。宗子は慌てて背筋を伸ばし一礼する。
「初めまして。久瀬宗子と申し──」
「あー、いい。堅苦しいのは無しだ。そこに座れよ」
 命令口調で自己紹介を遮られ、戸惑いながらも対面に腰を下ろす。用意してきた履歴書をバッグから出してテーブルの上に置くと、男性はそれを手に取り、無言で読み進めていった。
 この人が社長で間違いないのだろうかと内心で自問しながら、宗子は改めて目の前の男性を観察した。社長と言うからにはもっと年配の人物を想像していたけれど、意外に若くて驚いた。見たところ三十代半ばくらいだろうか。しかし、若いからといっていわゆる『やり手の社長』によく見られる軽薄そうな雰囲気は感じられなかった。シックな色合いの着流しという古風な出で立ちのせいもあるだろうが、どこか時代を超越しているというか、世代を意識させない独特の雰囲気が滲み出ている。目鼻立ちもくっきりしており、お世辞抜きにもイケメンと呼んで差し支えない部類。少し伸びた顎髭もきちんと手入れされていた。

 ──くすくす……

 ふと、押し殺したような笑い声がして、宗子は品定めを中断し我に返った。
 男性が座る応接ソファの背後には、広間の奥とこのスペースとを仕切る衝立がある。磨りガラスのせいで奥の様子ははっきりとは窺えないが、その向こうに誰かいるらしい。
 従業員が仕事でもしているのだろうと納得し、宗子は意識を面接に集中させた。
「俺が社長のだ。仏と同じ阿弥陀。覚えやすいだろ?」
 履歴書を読み終え、顔を上げた男性がにんまりと笑う。宗子は慌てて相槌を打った。
 阿弥陀、というのはこの店の名称であると同時に社長の名でもあるらしい。本名ならば随分とありがたい苗字に思えるが、単に屋号を名乗っているだけという可能性もある。
日下部くさかべさんから話は聞いてる。前の職場じゃあ、かなり優秀だったんだって?」
「いえ、そんなことは……」
「謙遜なんてしなくていい。あのおっさんは下手なおべっかなんて言わないからな。手放すのは惜しい人材だって、ずいぶんと嘆いてたよ」
 日下部というのは、前職で宗子の教育係をしてくれた男性のことである。来年の春には定年退職を控えていて、右も左も分からない新米の宗子に根気よく仕事のイロハをたたき込んでくれた恩人でもあった。昔気質の職人肌というやつで、いつも不機嫌そうに押し黙っていたため楽しくおしゃべりした記憶は数えるほどしかないけれど、仕事を教えてくれる所作には常に後輩を思いやる優しさが滲んでいた。本当なら、その恩は仕事で返すべきだったのだが、その日下部が定年を迎えるより先に、宗子の方が辞めてしまった。
 退職を申し出た事情に鑑みて、日下部さんは宗子を引き留める代わりにこの阿弥陀堂での仕事を紹介してくれたのだった。
「あの……日下部さんとはどういう……?」
 おずおずと訊ねると、阿弥陀は軽く考えるような素振りをしてから、
「前に、ちょっとしたことで縁があってな。それ以来、お互いに気の置けない間柄ってやつさ。うちが人を募集してるって言ったら、ぜひあんたを雇ってやってくれって強く薦められたんだ」
「日下部さんが……」
 不義理を働いて職を辞した自分なんかに、そこまで熱心になってくれる。その優しい心遣いを改めて実感し、宗子は面接中という事も忘れてつい感慨に浸りそうになった。
「それで、あんたはどうして警察を辞めたりしたんだ? 刑事になるのが夢だったんだろ?」
 それも日下部さんに聞いたのだろう。単刀直入に問われ、宗子は思わず身構える。
「私が辞めた理由、日下部さんからは聞いていないんですか?」
「だいたいの話は聞いてるさ。でも俺は、あんたから直接聞きたい」
 阿弥陀はそういうと、軽く身を乗り出すようにして、至近距離から宗子の顔を見つめてきた。迷いのないその眼差しが容赦なくこちらを射すくめる。
「……理由は単純です。私が捜査中にミスをしたからです」
「ほう、具体的に言うとどんな失敗をやらかしたんだ?」
 間髪をいれずに突っ込まれ、宗子は逡巡する。だが、ここで黙っていても何も始まらない。
「愛人問題で妻に離婚を切り出された男が妻を刃物で刺したという通報を受けて、現場に駆け付けた私と先輩刑事が事態の収拾に当たりました──」
 その時の様子をつぶさに思い返し、宗子は息苦しさを覚えた。雨が上がったばかりの湿った空気。埃っぽい室内の不穏な気配。ほのかに漂う血の臭いと絶望を嘆く男の叫び声。どれも強烈に脳裏に焼き付いている。
 短大卒業後に警察学校に入り、警察官になってから四年目。念願かなって刑事になったばかりで、気負っていたのだろう。犯人の男は刃物を手にリビングに立てこもっており、腹部を刺された妻は必死に助けを求めていた。犯人を説得するためリビングに飛び込んでいく先輩に続こうとした宗子は、しかしそこで何者かの視線を感じ、廊下に立ち止まった。辺りを見回すと、一人の男の子が階段の一番上の段に腰を下ろし、じっと宗子を見下ろしていることに気が付いた。
「『子供がいます』と先輩に声をかけ、私は階段を上ろうとしました。その子の保護が最優先だと判断したからです。しかし、先輩はすでにリビング内で説得に応じようとしなかった犯人ともみ合いになっていました。私が打ち合わせ通りに動かなかったせいで、先輩は一人で凶器を持った犯人に立ち向かう形になったんです」
 話すうち、幾度となく繰り返した後悔の念が再び押し寄せてきて、宗子は下唇を強くかんだ。
「それで、どうなったんだ?」
「幸いにも先輩は腕と脚に軽傷を負うだけで済みましたが、犯人は死亡しました。格闘の末に転倒し、はずみでナイフが胸に刺さってしまったんです」
「その責任を取って辞職ってわけか?」
 阿弥陀に問われ、宗子は頭をふった。
「もちろんその責任も大いにあります。でも、問題は私が先輩の命令に背いた理由でした」
「子供を救うためだったんだろ?」
「はい。しかし、私がリビングでのことに気を取られて目を離した隙に、少年の姿は消えていたんです。先輩の無事を確認後に急いで二階の部屋を調べてみたら、真っ赤に染まったカーペットの上に、少年の遺体が転がっていました」
 阿弥陀の表情に、ほんのわずかながら険が混じる。
「その子供、死んでいたのか?」
「私たちが駆けつける前に、実の父親である犯人によって殺害されていました」
「それじゃあ、あんたが見た子供ってのは?」
「……見間違い、ということになっています」
 ぎこちなく応じて、宗子は押し黙った。
 監察医の見解によると、少年が殺害されたのは母親よりも先で、宗子たちが駆けつけるよりも一時間近く前だったという。つまり宗子があのタイミングで少年の姿を見る──しかも傷一つない姿を──ことは、不可能だという結論に至った。犯人の死亡と先輩刑事の負傷は、現場で的確な判断を欠き、相棒を危険にさらした宗子のミスとされた。
 先輩刑事は「気にするな」と言って許してくれたが、宗子にとってはそんな簡単な話ではなかった。自分を許す気にはなれなかったのはもちろん、同じようなことがあって同僚を危険にさらすわけにはいかないという気持ちが日増しに募り、それから一週間もしないうちに辞表を提出した。
「ふむ、なるほどな」
 どこか訳知り顔で阿弥陀はうなずいた。それから何事か考え込むような表情をして宗子をじっと見据えている。まるで、こちらの発言の真偽をはかるかのような目つきに、宗子は居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
「──話はだいたいわかった。それで、うちの仕事がどんなのかは聞いているか?」
 阿弥陀は不意に表情を和らげ、話題を切り替えた。
「古物店ということは聞いていますが、詳しいことは何も」
「そうか、まあ間違っちゃあいないが……。とりあえずこれを渡しておく」
 どこか意味深に首をひねった阿弥陀が差し出したのは、名刺サイズの一枚の紙だった。黒い紙に金の箔押しで『古物商 阿弥陀堂 いみものの引き取り・貸し出し承ります』とある。
 ──忌物?
 見たことのない単語を怪訝に感じて顔を上げると、宗子の不審を感じ取ったように、阿弥陀は片方の眉を吊り上げ、口の端を持ち上げた。
「言っておくが誤植じゃないぞ。この阿弥陀堂が取り扱うのは、単なる古いがらくたなんかじゃあない。書いて字のごとく、人々に忌み嫌われた物品、、、、、、、、だ」
「忌み嫌われた……?」
「平たく言うとそうだな……遺品、形見、よすがの品ってところか」

 ──くすくす、くすくす……

 阿弥陀の言葉に同調するようなタイミングで、またしても衝立の向こうから押し殺したような笑いが聞こえてきた。宗子が磨りガラスに視線を向けると、笑い声はぴたりとおさまる。
「どうかしたか?」
「あ、いえ、なんでも……」
 不可解だったのは、それが幼い子供の声だったことだ。場違いに悪いたずら戯めいている無邪気な笑い声。だからこそ余計に気味が悪かった。
 どうしてこんなところに子供がいるのか。阿弥陀か、あのボブカットの女性の子供だろうか。それとも……。
「──そういった品を買い取ったり引き取ったりするのがうちの主な仕事だ。必要とあらば海外から引き取ってくることもある」
 内心で自問を繰り返す宗子をよそに、阿弥陀は話を先へと進めていく。
「だが、集めた品を売ることはしない。うちが大々的に店を構えていないのも、そういう理由からだ」
「一般のお客様を相手には販売しないということですか?」
「いいや、そうじゃない。あくまで相手にするのは一般のお客さ。だが販売はしない。物品を買い取るか、買い取ったものを他の客に貸し出すか、だ」
「貸し出す……?」
 おうむがえしにした宗子に一つうなずいてから、阿弥陀は腕組みをして、何故か誇らしげにソファにふんぞり返った。
「貸し出す。貸し付ける。レンタルする。言い方は何でもいい。客の要望に応え、最適かつ最善の商品を相応の価格で提供する。それが『阿弥陀堂』の仕事だ」
「はぁ……」
 応じたはいいが、さっぱり要領を得なかった。困惑する宗子を、阿弥陀はどこか満足そうに見据えている。こちらがこういう反応をするのは予測済みだったらしい。
 再びずい、と身を乗り出し、阿弥陀は何かを見出そうとするみたいに、宗子を凝視した。
「忌物ってのは俗物的な表現をすれば『いわくつきの品』。つまり霊魂が取り憑いた物品だ。俺たちはそれを買い取り、保存し、必要な相手に貸し出している」
「霊の取り憑いた品を……貸し出す?」
 改めて口にした瞬間、ぞわぞわと背中があわった。

 ──ねえ、はやく……

 嫌な予感を後押しするかのように、聞こえてくる少女の声は、どんどん明瞭になっていく。もはや衝立の向こうではなく、耳元で囁かれているような感覚。部屋に入った時から感じていた冷気が一段と強まった気がして、宗子は無意識に二の腕をさすっていた。
「そんな品物を、借りたがる人なんているんですか?」
「もちろんだ。もっとも、客が求めてるのは品物の方じゃなく、取り憑いている霊の方だがな」
「霊を……?」
 噓でしょ、という言葉が喉まで出かかった。表情や態度、口調にまで、それは表れていたことだろう。だが阿弥陀はいたって真剣な表情のまま平然としている。
「信じられないか?」
「はい、当たり前です。だってそんな……霊を貸し出すだなんて……」
 口を突いて出た言葉に、しかし宗子はかすかな抵抗を覚えた。対する阿弥陀の顔には、そんな宗子の心中を見透かすかのような笑みが浮いている。
「どうしてそんなものを借りたがる人がいるんですか? まさか、自殺志願者とかそういう……?」
「はは、まあそういう奴も中にはいるが、大半はそうじゃあない」
 阿弥陀はそこで一旦言葉を切り、呼吸を整えるように間をおいてから先を続けた。
「必要だからだよ。平々凡々に生きて、誰も恨まず誰からも恨まれずにいられるような人間はうちには来ない。誰かを殺したいほどに憎み、復讐を果たさなきゃ前に進めない。あるいは尋常ならざるものに寄り掛からなければ生きていられない。そんな切羽詰まった奴が、よすがを求めてやってくる。それがこの『阿弥陀堂』だ」
 やや大げさに、両手を広げた阿弥陀が広間をぐるりと示す。つられて広間を見回した宗子は、そこに収められた数々の品に視線を定めては言い知れぬ悪寒にその身を震わせた。
 霊の取り憑いた物品を必要な人間に貸し出す。阿弥陀の説明は理解できる。だが、そんな商売が本当に存在するのか。必要とする人などいるのか。それについては未だ半信半疑のままだった。ただ一つ言えることは、自分はとんでもないところに面接に来てしまったということ。そして多分、目の前にいるこの得体の知れない男は、きっとまともじゃないということだった。
「あ、えっと……私その……そろそろ……」
 自分でもわざとらしく感じられる口調で言いながら腰を浮かしかけた時、再び衝立の向こうから誰かが呼びかけてきた。

 ──はやくはやく……

 同時に、とととと、と床を走る足音がして、宗子は思わず身を固めた。

 ──あそぼ……

「おいメグミ、あまりはしゃぐんじゃあねえよ」
 不意に声を上げ、阿弥陀は立ち上がった。驚いて顔を上げた宗子を一瞥し、彼は衝立へと歩み寄る。その言葉に反応するみたいに、笑い声と足音が再び響いた。
「──聞こえるんだな?」
 宗子は否定するのを忘れてうなずいていた。それを確認した阿弥陀は手を伸ばし、衝立をすっと横にずらす。雑然と物であふれる広間には、子供の姿などどこにもなかった。その代わりに、一枚の油絵が、古びた家具に立てかけられてある。
 その絵には幼い少女が一人、野原を駆けまわる姿が描かれ、その子を遠目に見つめる母親らしき人物の姿もある。仲睦まじい母娘の様子を切り取った温かな絵画だった。
 ──さっきの声と足音は、この油絵から……?
 自問する宗子の心中を見透かしたように、阿弥陀は油絵に歩み寄り、しげしげと眺めながら説明を始めた。
「この絵画に取り憑いているのはメグミって名前の子供でな。二人の子供を同時に失った母親は後を追うように自殺して、行き場を無くしたこの忌物を俺が引き取った」
 さっきも口にした名前だった。おそらく、あの笑い声や足音の主がメグミという少女なのだろう。そう理解しながら、絵に描かれた青いワンピースの少女を見つめる。注意して耳をすませば、今にも足音が聞こえてきそうな気がして、宗子はどこか切ない気持ちになった。
「これは一種のデモンストレーションだ。まずはお前が忌物という存在を正しく認識できるかを見せてもらう必要があったからな」
 阿弥陀は喋りながら指先をパチンと鳴らす。その瞬間、広間全体を覆っていた重苦しい空気が霧散した。身を縮めるほど感じていた寒気が瞬時に消え失せ、まばゆい日差しに照らされてでもいるかのように、身体の内側から温かくなってくる。
「いま、何をしたんですか?」
 戸惑いながら問いかけると、阿弥陀は得意げな顔をして鼻を鳴らした。
「少し大人しくさせただけだ。放っておいたらこいつは、絶対に絵の中に戻ろうとしないからな」
 そう言って阿弥陀が絵画を指差した瞬間、宗子はひゅっと息を吸い込んだ。
「絵が……変わってる……?」
 ついさっきまで──いや、今の今まで絵の中には青いワンピースの少女しかいなかったはずなのに、気がつけばその隣に、赤いワンピースを着たおかっぱ頭の少女が並んでいる。少女が一人で野原を駆ける絵は一瞬にして、二人の少女が追いかけっこをする絵に変貌していたのだった。
「こっちの赤いのがメグミだ。慣れるまでは俺以外の人間の前には姿を現さないがな。とにかくこれでわかったろ。ここにあるすべての忌物には、何かしらの霊が取り憑いている」
 そう言って、阿弥陀は広間を見回した。
 油絵のまわりには西洋の壺やワイングラス、食器などが置かれ、その奥の棚には書物、絵画や水墨画に木彫りの置物、白鞘の日本刀や具足がある。そうかと思えば別の区画にはアジア諸国伝来の民族衣装があったりと、バラエティ豊かな品々が収められていた。細かい貴金属類はショーケースにひとまとめにされ、最奥にはたんやテーブル、椅子などという家具の類もある。そのほかにも古びたブリキのおもちゃや電話機、携帯電話、扇風機なんかもあった。
 ──このすべてに霊が取り憑いて……。
 阿弥陀の言葉を脳内ではんすうした瞬間、この部屋が──いや、巨大な土蔵そのものが、ひどく恐ろしいものに感じられた。多くの霊を一か所に集め、ひとまとめにして押し込んでいるという事実そのものに対する恐怖が、改めて宗子の背筋を冷やした。
 ふと見上げると、広間の天井の梁にはしめ縄が張られ、古びたお札がびっしりと柱を埋め尽くしている。宗子の目にはそれが、まさしくこの世と異界を隔てる境目に映った。
「うちには様々な事情を抱えた依頼人たちがやってくる。そいつらの話を聞いて、俺たちは最適な霊を貸し出す。そのためには、ある程度の在庫は抱えておかなくちゃならないんだよ。店を構える以上、在庫がなければ売り上げは立たないからな。貸し出した忌物をどう使うかは依頼人の自由だが、貸し出す際のルールは存在する」
 阿弥陀は人差し指から順に立てながら説明していく。

一 貸し出す忌物は阿弥陀が選ぶ。依頼人はその忌物に相応の対価を支払い、一定期間借り受ける。
二 忌物を誰に使うか、どう使うかは借りた人間の自由。ただし、最適な霊を貸し出すために、目的はあらかじめ説明してもらう。
三 忌物を貸し出している間、店の人間が依頼人の行動を観察する。これは返却せずに逃げることを防止するのと、霊が暴走するなどという不測の事態を防止する目的がある。
四 期間内に忌物が返却されない場合、延滞料金が加算される。金を払えない場合は、『別のもの』を対価にする。

 以上の四つが、阿弥陀堂を利用する上でのルールだという。
「そうは言っても、あまり堅苦しいことは言わねえのが俺の主義だ。ある程度は許容するようにしてる。繰り返すが、借りた霊を何にどう使うかを決めるのはすべて依頼人だからな。俺たちは最低限、その手伝いをするだけさ」
 そう言って、阿弥陀は未だ状況を飲み込めていない宗子を鋭く見据えた。
「なんにしても、お前は合格だ。久瀬宗子」
「ご、合格って……何が?」
 言葉の意味が分からずに問い返すと、阿弥陀は軽く肩をすくめ、
「お前を採用してやるって言ってんだ」
「あ、いやちょっとそれは……」
「なんだ、不満か?」
 怪訝そうに問われ、宗子は言葉を彷徨わせた。
「いえ、私はその……ちょっとついていけないというか……」
「心配するな。多少なりとも霊の存在を感知したり、姿を見たり声を聞いたりができれば、こいつらの管理をするのに難しいことはない。基本的に俺の支配下にいるうちは、ほとんどが無害だ」
 まるで家畜を手懐ける畜産家のような物言いである。
「それに、お前にはそこそこの耐性があるようだからな」
「耐性?」
「そうだ。霊を前にしてビビっちまうような臆病者にはこの仕事は務まらねえってことさ。だからといって好奇心ばかりが強くても困る。なんと言っても相手は霊だからな。人を騙しもするし、欺きもする。下手に同情してとり殺されるようなことがあっちゃ困るだろ?」
 さらりと恐ろしいことを言われ、背筋が凍った。
「だがお前はそのどちらでもなかった。俺の言葉を頭から疑うでも、鵜吞みにするでもなく、自分で考えて忌物を理解した。お前は、ずっと前から霊に接している。その姿を見ることに耐性がある──というより、当たり前に見えちまうんじゃねえか? だからすでに死んだはずの子供が階段に座っているのを見て、保護しなきゃと思ったんだろ?」
 図星だった。あまりに図星を指され過ぎて、否定する気にならないほどに。
「日下部さんがお前を俺に紹介したのも、そういう理由からだ。その素質のせいでお前の相棒は死にかけた。お前が罪の意識を感じているのは、警官としての判断不足でも力量不足でもなく、その部分だったんだろうよ」
 思い出したくもない苦痛が脳裏をよぎり、宗子は無意識に胸に下げたペンダントに手をやっていた。ひんやりとした透明な石の感触を指先に確かめつつ、そっとうなずく。
「……たしかにその通りです。小さい頃から、幽霊……みたいなものが視えました。でも人に話したら不気味がられるだけだし、信じてもらえない。警官を辞めた理由も、あなたがおっしゃる通りです。そのことを日下部さんに話したのは、ほとんど勢いっていうか……お世話になった人に噓をつきたくなかっただけで、信じてもらえるとは思っていませんでした」
 宗子の話をじっと聞きながら、阿弥陀は何かを見定めようとするみたいに無言を貫いていた。獲物を狙う猛もう禽き んのように獰猛な眼差しが宗子を捉えている。
 二人の間に、息苦しささえ感じさせる沈黙がおりた。
「──社長、お話のところ失礼します」
 呼びかける声がして、宗子は詰めていた息を吐きだした。
 障子がするすると開き、先程のボブカットの女性が顔を覗かせた。
「どうしたほうしょう?」
「依頼人がお見えです」
 宝生、と呼ばれた女性が感情の欠片も籠らぬような声で連絡事項を伝達する。
「そうか、じゃあ通してくれ。俺とこいつで話を聞く」
 さも当然のように、阿弥陀は宗子を指差した。
「え、ちょっと待ってください。私まだ働くとは……」
 当惑する宗子をよそに、阿弥陀は宝生へと目配せをする。宝生は軽く一礼して廊下に身を引き、入れ替わりに一人の女性が広間に足を踏み入れた。
「ようこそ阿弥陀堂へ。さあ、そこにかけてくれ」
 大仰な口調で阿弥陀が宗子の座っていたソファを示したので、とっさに荷物を抱えた宗子が踵を返そうとすると、
「どこ行くんだ。お前はこっちに座れ」
「いや、でも私……」
「いいから座れ。この愚図」
 ──なんて強引な……。
 命令口調に不満を感じながらも、依頼人の手前それ以上抵抗するのは躊躇われた。結局、宗子は彼の隣に腰を下ろし、依頼人と向かい合う。
「あの、ここに来れば霊を貸してくれるっていうのは本当なんですか……?」
 二十代前半の、端整な顔に疲れを滲ませたショートカットの女性が開口一番に訊ねた。
「もちろんだ。依頼人の要望に従い、最適で最良の霊を貸し出すのがうちのモットーでね」
 彼女の不安や疑惑にみちた眼差しを真正面から受け止めつつ、阿弥陀は大げさな身振り手振りを添えて調子よく言い放つ。それからぐっと身を乗り出すようにして、質問してきた女性の顔を至近距離から見つめた。
「──それであんた、どんな霊を探してるんだ?」


  *

続きは発売中の『死人の口入れ屋』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
阿泉来堂(あずみ・らいどう)
北海道在住。第40回横溝正史ミステリ&ホラー大賞読者賞を受賞した『ナキメサマ』でデビュー。著書に『ぬばたまの黒女』『忌木のマジナイ』『贋物霊媒師 櫛備十三のうろんな除霊譚』『バベルの古書 猟奇犯罪プロファイル BOOK1《変身》 BOOK2《怪物》』など。

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