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梔子姫は鬼の末裔と番う 七つ屋若月堂と勿忘の質物

 

 闇夜を照らすように、煌々とした炎が揺れている。
 りんの大事なものを呑み込みながら、赤く、赤く燃えあがっている。
 生まれ育った館は、夜中、目を覚ましたときには火の海だった。
 三階にある自室から、果琳は廊下に飛び出した。心細さを堪えながら、階段を降りようとして、眼前に広がった光景に絶望する。
 階下は、すでに火の手がまわっていた。
 足がすくんでしまう。十にも満たない子どもだった果琳は、火の中を駆ける勇気が持てなかった。
 早く逃げなければならない。
 だが、どのように逃げるべきか分からなかった。
 あちらこちらで炎が揺れて、崩れゆく館の中、果琳は座り込んでしまう。
 引き返して、自室の窓から飛び降りるか。
 だが、三階の窓から飛び降りて、無事でいられる自信はなかった。外に出ることはできたとしても、きっと、怪我をして動けなくなる。
 迷っているうちに、どんどん息が苦しくなって、視界がぼやける。周囲の状況さえも、まともに分からなくなった。
 両目から止めどなく涙が溢れた。
 このまま、炎に包まれて死んでしまうのだろうか。
 そう思ったとき、果琳の頭に浮かんだのは、愛情深い両親でも優しい使用人たちでもなかった。
 小さな果琳には、秘密の友人が二人いた。
 館にある梔子くちなしの庭に迷い込んできた、二人の子ども。
 月のように美しいれい、笑顔の可愛い
 館の敷地から出たことのない果琳にとって、外の世界を教えてくれた友人たちは特別な存在だった。
 今日も日が暮れるまで、二人は会いにきてくれていた。
 果琳は祈るように、すがるように、震える手を握りしめる。別れるとき、二人と手を繫いだことを思い出すように。
「また、会いにきてくれますか?」
 外の世界に帰ってゆく二人の背中に、果琳は問いかけてしまった。
 今まで口にすることができなかった問いだった。
 果琳は、いつも二人の訪れを待っているだけだった。
 館から出ることはできず、自分から会いにいくことはできない。だから、二人が庭を訪れなくなったら、二度と会うことはできない。
 ずっと、そのことが怖くて堪らなかった。
「あなたが望むなら、いつまでも会いにくる」
 黎はそう言って、果琳の左手を握った。生白く美しい手は、果琳の不安を優しく拭ってくれる。
 有希也は困ったように笑ってから、何も言わず、果琳の右手を握った。言葉よりも強く果琳の心に寄り添う、あたたかな手だった。
「嬉しいです。ずっと三人で、仲良くしましょうね」
 いつまでも三人でいたかった。
 叶うならば、いつの日か、ひっそりと隠れて会うのではなく、三人で外の世界を歩いてみたかった。
 そんな果琳の願いは、おそらく、もう叶わない。
 黎に感じていた友情は、あの遣り取りを最後に途絶えてしまう。
(有希也さんに会いたい)
 そして、有希也に抱いていた恋心も、叶うことなく炎に呑まれてしまうのだろう。
「果琳!」
 気を失いそうになったとき声がした。
 きっと、最後に会いたい、と望んでいた人の声だと思った。
「有希也さん?」
 果琳が好きになった男の子は、燃えさかる館に飛び込んできた。意識がもうろうとしていた果琳のことを抱きあげて、炎の中から助け出してくれたのだ。
 それは宝石のように、きらきらとした初恋だった。
 十年経った今も、果琳はその恋を抱きしめたままでいる。

 一.傷物の人形

 十七になった果琳のもとに、親友の訃報が届いたのは、秋のことだった。
 木々が真っ赤に染まるような紅葉の季節、いつも心待ちにしていた親友からの手紙は届かなかった。
 手紙の代わりに届いたのは、親友の死を知らせる悲しい報せだった。
「黎ちゃん」
 故郷たる帝都を離れて、十年もの時が流れた。その間、会うことは叶わなくとも、ずっと手紙を交わしていた友人だった。
 火事で両親を亡くして、とおえんの老夫婦に引き取られることになった果琳を、根気よく励まして、支えてくれた人だ。
 親友が亡くなったならば、その死をとむらわなければならない。
 もう、この声は黎には届かないのだとしても、せめて黎の旅路が幸福なものであるよう祈りたい。
 果琳は、困った顔をする養父母に頭を下げて、ひとり帝都行きの列車に飛び乗った。
 大きな音を立てながら走る列車の中、果琳は端の席に腰かけて、掌に爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。
 そうしなければ、身体の震えを止めることができなかった。
(黎ちゃんが亡くなったなんて噓です。そう思いたいのに)
 そうやって現実を否定しようとすればするほど、鞄に入っている訃報が、何度も頭を過った。教本をそっくりそのまま書き写したかのような、温度のない淡々とした文字の並びが、黎の死を突きつけてくる。

 果琳が帝都に着いたときには、空は赤く染まり、日が沈みはじめていた。

 帰り道を急ぐ人々や、反対にこれから街に繰り出そうとする者たちで、帝都の大通りはごった返していた。
 果琳は人混みを縫うように歩いて、目的地の前で足を止めた。
 活気あふれる大通りの一等地に、その店はあった。
 店だと思ったのは、締め切られた扉に《商い中》という札が掛けられていたからだ。何をあつかっている店なのか見当もつかないが、何かしらの商売をしていることだけは分かった。
 異国の建築様式を取り入れた、小洒落た建物であった。
 ほんの少しだけ懐かしさを覚えたのは、果琳の生まれた館も、同じように異国めいた雰囲気があったからかもしれない。
 遠縁の夫婦に引き取られてからは、すっかり縁遠くなってしまったが、かつて果琳の周りには、異国の文化が感じられるものがたくさんあった。
(住所は、ここで合っているのでしょうか? 黎ちゃんの住んでいた家とは、違うみたいですけれど)
 親友の訃報には差出人の名はなく、帝都のとある住所だけが記されていた。
 いつも黎宛の手紙を送っていた住所と違ったので、不思議に思ってはいた。足を運んでみると、黎とは結びつかない謎の店がある。
 果琳は片手を頰に添えて、しばし考え込んでしまう。
 きっと、黎の訃報を送ってくれた人が営んでいる店なのだろう。だが、その人物と黎の関係性が分からなかった。
「果琳?」
 立ち尽くしていた果琳は、男の声に振り返った。
 とても背の高い男性が立っていた。
 太陽の光を知らぬような白いはだが、夕暮れの赤によく映える。
 端整な顔立ちをしている。形の良い眉に、長いまつに縁取られた目、すっと通った鼻筋、薄い唇。何もかもが、これ以上なく、彼にふさわしい形をしていた。
 美しく、美しいからこそ浮世離れした男だ。
 ただ、その顔にある大きな火傷の痕、、、、だけが、彼を人の世に留めるようであった。
 見知らぬ男だと思った。しかし、その火傷から、果琳は彼が誰なのか気づいた。
 十年前、大火事の中、果琳を助け出してくれた子がいた。
「有希也さん、でしょうか?」
 かつての果琳が恋した人は、にっこりと笑う。涼しげな顔立ちに反して、ずいぶん可愛らしい印象を受ける笑顔だった。
「久しぶり。まさか帝都にいるとは思わなかった。どうしたの? 君、遠縁の夫婦に引き取られてから、ずっと帝都には来ていなかっただろう?」
「え、ええ。……有希也さんは、あの、黎ちゃんの」
 黎のことを尋ねようとして、果琳は言葉に詰まった。
 そもそも、黎と有希也は、大きくなってからも親交があったのだろうか。
 十年間、親友である黎とは文通していたが、有希也とは没交渉になっていた。黎との手紙でも、ずっと有希也の近況を尋ねることができなかった。
 果琳は、自分が帝都から離れた十年分、有希也のことを知らない。
「黎が死んだから、帝都まで出てきたの? 君は優しい子だからね」
「いても立ってもいられなかったのです。黎ちゃんは親友ですから。……この前の、お手紙まで元気だったはずなんです。いきなり亡くなるなんて、そんな」
 果琳のまなじりに涙が滲む。
 訃報が届いたとき、目の前が真っ暗になった。帝都に飛び出してきた今ですら、やはり黎が亡くなったとは信じたくなかった。
 有希也は困ったように眉を下げる。
「黎は困ったやつだね、こんな可愛い女の子を泣かせるなんて。君を泣かせるくらいなら、黎の訃報、送らない方が良かったかな?」
「え?」
「差出人の名前も書かずに、ごめんね。俺が送ったんだ。黎の遺品整理をしたとき、君が黎に送っていた手紙を見つけたから。ずっと文通していたんだろう?」
「有希也さんが、黎ちゃんの訃報を」
「良かったら、中に入って。俺の店なんだ」
 有希也はそう言って、果琳を建物の中に招いた。
「七つ屋《わかつきどう》?」
 どうして、今まで気づかなかったのか。
 商い中の札がかかった扉のうえに、店の名前を記している看板があった。
 七つ屋とは、いわゆる質屋のことである。利用したことはないが、どのような商売であるのか、世間知らずの果琳でも知っていた。
 何かしらのものを質にとり、金銭の貸付を行っている店のことだった。
 有希也が扉を開けると、店内の様子が見えてくる。
 そこは、ひとたび足を踏み入れたら、ずっと抜け出せなくなるような魅力のある空間だった。
 広々とした店内は、異国情緒に溢れていた。
 床は板や畳ではなく、輸入ものの華やかなつづれおりじゅうたんが敷かれている。中央には、来客用なのか、座面の高い椅子が何脚かあり、一本脚の優美なテーブルが澄ました顔で置かれていた。
 見上げた天井付近には、丸い窓があり、外から光が降りそそぐ。
 窓にめられたガラスが、不揃いに切り出した色ガラスを組み合わせたものだからだろう。さまざまな色に染まる光が、夢のように美しくて、ほう、と思わず溜息をついてしまう。
 鮮やかな色を宿した光が照らすのは、多種多様な品々だった。
 果琳は、自分の知らない言語で書かれた書籍の並べられた本棚を見た後、いくつも置かれたガラス製の戸棚に視線を遣る。
 空っぽに見える小瓶、舶来と思しき眼鏡や顕微鏡。つばの広い帽子、首飾りや耳飾りなど、たくさんのものが丁寧に収められていた。
 中には、包丁や刀といった刃物まで置かれている。
 また、棚に入らないような品もあり、トルソーに飾られた白いドレスや、こうにかけられた振袖なども並んでいる。
 統一感のないそれらの品々は、有希也の商売を意識させる。
「本当に、質屋さんなんですね。いろんなものがたくさん」
「俺一人で集めたわけではないけどね。家業なんだよ」
 有希也の家は、代々、質屋を営んでいるらしい。そんなことさえも、十年ぶりの再会で知った。
(わたしは何も知りませんでした)
 果琳は、幼い頃の思い出を大事に抱きしめていた。
 しかし、その思い出とは、外から見たら、石ころみたいに価値のないものだったのかもしれない。
 果琳が一方的に、宝石のように価値あるもの、と思っていただけ。
 有希也に対する恋心も同じだった。
 大切な初恋。
 そう思いながらも、この十年間、ずっと帝都を訪ねることはなかった。事情を知らない人間から、所詮その程度の想い、と断じられても仕様がない。
(でも。わたしは有希也さんに会う資格がなかったから)
 十年前、果琳を助けるために、有希也は火傷を負った。その負い目があったから、有希也に合わせる顔がなかった。
 こんな風に、予期せぬ再会をするとは思わなかった。
「有希也さんは、ずっと黎ちゃんと交流があったんですね。仲良しでした?」
 果琳に訃報を送るくらいなのだから、親しい仲だったのだろう。
「仲良しというよりも腐れ縁だよ。しょっちゅう顔を合わせていた。それに、お客様でもあったから」
「黎ちゃんが、有希也さんのお客さん?」
「金を返してくれる前に、ころっと死んでしまったけどね」
 果琳は眉をひそめる。
「黎ちゃんは、何か困っていたのでしょうか?」
 黎は子どもの頃から真面目な人だった。言葉こそ少なかったが、いつも誠実で、果琳の寂しさに寄り添ってくれた。
 黎の気質を考えると、賭博などで身を崩したとは思えない。
 質屋から金を借りるならば、よほどの理由があったのではないか。
「黎が金を借りた理由は秘密。黎との約束だからね。でも、何も言わないのは可哀そうだから、ひとつだけ教えてあげる。黎は自殺ではないよ。借金を苦にして、自分から命を絶ったわけではない」
 有希也は何てことのないように言う。
 だが、その何てことのないことが引っかかっていたので、その点を知ることができたのは良かったのだろう。
 もし、借金を苦に自死を選んだならば、果琳は自分にもできることがあったのではないか、と悔やんだ。
(自殺ではないのなら、どうして? 手紙を読んでいる限り、あんなに元気そうだったのに)
 果琳は小袖の胸元を、ぎゅっと握りしめる。
 死ぬ直前まで、黎は何かを隠していたのだろうか。
 命を失うほどの大病を患っていたのか。それとも、何か恐ろしい出来事に巻き込まれて亡くなったのか。
「黎ちゃんの死因は……」
 果琳の言葉を遮るように、りぃん、と澄んだドアベルの音が鳴った。
「ごめんね。お客さんだ」
 店内に入ってきたのは、中肉中背の男であった。
 いかにも人が良さそうな柔和な顔立ちをしている。若々しく見えるが、おそらく果琳や有希也の親ほどの年齢だろう。まなじりに笑いじわの刻まれた顔は、男が生きてきた歳月を感じさせた。
 男は物珍しそうに店内を見渡したあと、奥にいる有希也と果琳に気づいて、安心し
たように息をついた。
「すみません。七つ屋の看板を見てきたのですが……」
「いらっしゃいませ」
 有希也は優しく微笑んで、男を歓迎する。
 果琳は、ひとまず話の邪魔にならないよう、店の外に出ようとする。
「果琳、そこにいても良いよ。申し訳ありません、うちの従業員が同席しても構いませんか?」
 有希也は、さらり、と果琳のことを従業員と説明した。噓であったが、果琳が訂正する前に、ふたりの話が始まってしまう。
「もちろん。こちらは、お金を貸していただきたい、とお願いに参った身ですから」
 男は恥じ入るように声を小さくした。
「ありがとうございます。どうぞ、おかけになってください。七つ屋《若月堂》は、助けを求める皆様の味方です。きっと、お役に立つことができますよ。お名前をお伺いしても?」
かざと申します」
 男は、ぼそぼそと家名だけを名乗った。有希也は、家名だけでも思い当たる節があったらしく、笑みを深めた。
「もしや繊維業を営んでいらっしゃる? 諸外国とも貿易を行っているような」
「すっかり落ちぶれている家なのに、よくご存じで。儲けていたのはひと昔前の、私の祖父が生きていた時分だ。あなたのようなお若い方は、てっきり知らないかと」
「そう謙遜なさらずに。ご立派なお家ではありませんか。……ただ、そうですね、この頃は諸外国も血の気が多いと聞きます。戦争の影響で、貿易が絡むような商売は厳しい時代が始まっている、という噂がありましたね」
「おっしゃるとおりで。戦争の煽りを受けて、いよいよ首が回らなくなったんですよ。銀行の借金だけなら良かったのですが、亡くなった父が良くない高利貸しからも借金をしていたんです」
「このあたりの良くない高利貸しと言えば、いくつか思い当たるところがあります。昔から、御上の目を搔い潜って、いえ目溢しをしてもらって、いろいろと好き勝手している連中だ。うちのお客さんにも多いんですよ、彼らに借金をして、とても人に言えないようなひどい取り立てをされている方々が」
「はは。そういった輩の手を借りなければならないほど困っていたんです。もうふつうの銀行では門前払いだったので」
「銀行は慈善事業ではありませんからね。返すあてがなければ、追加で金を貸すことはできない。ご尤もでしょう。もちろん、あなた方のお気持ちは察するものがありますが。おつらかったでしょう?」
 有希也は眉をひそめて、風見に寄り添うように優しく問うた。
 途端、風見の両目から、ぽろり、と涙が溢れた。
 有希也や果琳からすると、親ほどの年齢にあたる男性が、まるで小さな子どものように涙を流していた。自分が泣いていることに驚いたのか、風見は慌てて、くたびれたスーツの袖で涙を拭おうとする。
 果琳は鞄からハンカチーフを取り出して、風見に差し出した。
「ありがとう、お嬢さん。情けない姿をお見せして申し訳ない」
「情けないなんて、そんなことは思いません。その、たくさん頑張られたのでしょう? 涙が出るほどに」
 果琳のような小娘の言葉は、薄っぺらに聞こえてしまうかもしれない。
 だが、本心からの言葉だった。今まで力を尽くしてきたであろう人の涙を、情けないなどとは思わなかった。
 涙が出るほど、風見はこれまで事業を守ろうと努力してきたのだろう。
「お優しいお嬢さんだ。すみません、店主。このような厳しい状況で、恥を忍んで、お頼み申し上げます。どうか、お力をお借りできないでしょうか?」
 風見は深々と頭を下げる。
「お顔をあげてください。きっとお役に立てます、と言ったでしょう? ぜひ、お力添えさせてください。うちはね、こう見えて良心的な質屋のつもりです。利子も取りませんから」
 風見は顔をあげて、目を丸くした。
「利子を取らない?」
「取りません。返済は毎年一回。質入れしていただくのも、たったひとつで結構ですよ。それだけで、いくらでもお貸ししましょう」
「あまりにも、私どもに都合が良いのでは?」
「いいえ。こちらにとって都合が良いのです。──質入れしていただくものは、あなたにとって大切なもの、俗世間の価値ではかることができないもの」
 有希也は微笑んだ。
 薄く、形の良い唇が弧を描く。透きとおるような白いはだをしているからか、その唇の赤が、まぶたの裏に焼きつくようだった。
 有希也は上から覗き込むように、風見と視線を合わせる。
 真っ黒だと思っていた有希也の瞳は、よく見ると紫がかっていた。まるで宝石のように美しい瞳だった。
 有希也は風見の目を、否、その奥にある頭の中を覗き込むかのように、じっと見つめている。
「あなたの大切な《お姉様》を質入れしてください」
「姉? 私は一人息子ですから、姉などおりません。そもそも、人間を質入れするなど……」
「お心当たりがあるでしょう? あなたが、姉様、と呼んでいる人形ですよ」
 風見が息を呑む音が、店の中に響いた。
「どうして、あの人形のことを?」
「家業として、代々こういう商売をしていると分かってしまうのですよ。お客様が何を大事になさっているのか」
 こうとうけいな話だった。その人が大事にしているものなど、初対面で分かるはずもない。
 それこそ頭の中でも覗き込まない限り。
「あの人形に価値はないかと思います」
「可愛い顔が、つぶれているから?」
「……そんな、そんなことまで、お分かりで? 店主は、何かじんつうりきのようなものをお持ちなんですか」
「神通力! そんなたいそうな力はありません」
 有希也は芝居がかった仕草で両手を広げる。
 風見は青ざめた顔のまま、考え込むように口元に手をあてる。有希也の言う人形に思い当たる節があっても、その人形を質入れすることをためらっている。
 人形ひとつで、破格の条件で金を借りることができる。
 そう分かっても決断できないほど、彼にとって思い入れのある人形なのだ。
 有希也の言ったとおり、風見にとって大切なもの、俗世間の価値ではかることができないもの。
「少し! 少し、考えさせていただいても?」
「もちろん。いつでもお待ちしております。とはいえ、答えは決まっていらっしゃると思いますが」
 風見は、慌てて頭を下げると、まるで逃げるように若月堂を出ていった。
 店内には、果琳と有希也だけが残される。
「驚いた?」
「有希也さんには不思議な力があるのですね」
「こういう商売を家業として続けるには、これくらいの力がないと。気味が悪いと思った?」
「いいえ! 気味が悪いなんて思いません」
「ふつうは気味が悪いと思うんだけどね。さて、果琳。積もる話でも、と思ったところだけど、もう日が沈んでしまった。こんな遅くまで外にいて大丈夫なのかな?」
 有希也は、引き止めた俺が言うことではないけど、と苦笑する。
「その……大丈夫では、ないです」
「帝都にいる間、何処に泊まるの? まさか日帰りということはないだろう」
「知り合いの経営している宿に、お世話になる予定だったんです。実は、日が暮れる前に、そちらに行くように言いつけられていて」
「なるほど、君を引き取ってくれた遠縁のご夫婦と約束したんだね。日が暮れる前に、必ず宿に行くように、と。若い娘が、暗くなってから出歩くものではないよ。宿まで送っていく」
「そんな! 申し訳ないです。一人でも平気ですよ」
「言い方を変えるよ。君のことが心配なんだ。俺を安心させると思って、宿まで一緒に行ってほしい」
 優しくて、とびきりずるい言い方は、会わなかった十年の歳月を思わせた。太陽のようにまぶしい笑みを浮かべていた子ども時代とは違う、洗練された優しさの見せ方である。
「有希也さんがよろしいのなら、送ってくださいますか?」
 遠慮がちに答えた果琳に、有希也は手を差し出してきた。血管が透けるような白い手は、大人の男の人のものだった。
「お手をどうぞ。はぐれたら怖いから」
 幼い子どもではないのだから、はぐれたりしない、と断れば良かった。だが、果琳は何も言わずに、有希也の手を取ってしまった。

 日が沈んだというのに、夜の帝都は真っ暗ではなかった。繁華街の光が、ぽつり、ぽつり、と蛍火のように浮かんで、薄明かりを灯している。
 こういったところは、果琳の暮らしている高原地帯とは違う。
「珍しい? そんなにきょろきょろして」
「はじめて見るものばかりだったので」
(あの火事が起きる前、帝都で暮らしていた頃も、生まれ育った館の敷地から出たことはなかった。だから、こんな風に、帝都の夜には明かりがあることも知りませんでした)
「ここに黎がいたら、きっと嫉妬してしまうだろうな。生きていたら、果琳と一緒に帝都を歩きたかったと思うよ。黎は、いつも果琳のことを心配していたから」
 果琳のまなざしは、自然と空っぽの左手に向かった。
 十年前ならば、果琳の両手は埋まっていた。それぞれの手を、有希也と黎が握ってくれたからだ。
「黎ちゃんは、たくさん心配してくれました。離れていても、黎ちゃんからの手紙が心の支えでした。だから、まだ受け止めることができないのだと思います。黎ちゃんが亡くなったことを。黎ちゃんは……っ」
 そこまで口にして、果琳は言葉を詰まらせた。隣を歩く有希也の横顔が、ひどく寂しげに見えたのだ。
 黎の死を悲しんでいるのは、きっと、果琳だけではない。
 二人は言葉もなく歩いた。やがて、果琳が泊まる予定の宿の前まで着くと、有希也はそっと繫いでいた手を放した。
 有希也は、またね、とも、さようなら、とも言ってくれなかった。あっという間に、彼の姿は雑踏にまぎれてしまった。
「果琳さん! 到着が遅いから心配したのよ」
 宿に入ると、かっぷくの良い女性が駆け寄ってくる。
女将おかみさん。遅くなって申し訳ありません。しばらく、お世話になります」
 きっちり化粧をした年配の女性は、果琳を引き取ってくれた遠縁の老夫婦の友人である。
 帝都でたくさんの宿を営んでいる一族の奥方だ。遠縁の老夫婦にならって、果琳は彼女のことを《女将さん》と呼んでいた。
 十年前の火事のあと、果琳は喧騒から離れた高原地帯に引き取られた。避暑地として有名な土地であり、果琳を引き取ってくれた老夫婦は、そこで大きな旅館を営んでいる。
 同業のよしみなのか、女将は、時折、老夫婦のもとを訪ねてきた。その際、果琳のこともよく気に掛けてくれた。
 女将の経営している宿に泊まることが、果琳が帝都に行くにあたって、遠縁の老夫婦が出した条件のひとつであった。
「怖いことに巻き込まれていなくて良かった。……果琳さん、ずいぶん娘さんらしくなったのね。一人で帝都にやるなんて、あの人たちも心配になって当然だわ」
「そんなに変わりましたか? この前お会いしたときから、一年も経っていないのに」
「変わったわ。そのくらいの年齢だと、本当に、ちょっと見ないうちに綺麗になるんだから。……事情は聞いているの。仲良しのご友人が亡くなったのでしょう? 帝都にいた頃のご友人かしら?」
「はい。わたしの両親が、まだ生きていた頃、お友達になりました」
「そう。果琳さんのご両親。《づきおか》の大火事ね。よく憶おぼえているわ」
 卯月ヶ丘は、帝都の外れにある小高い丘である。その丘一帯を、果琳の生家が所有していた。
 丘の上に、果琳の生まれ育った館は構えられていた。
 あとから知ったのだが、帝都の人々の間では有名な資産家だったらしい。
 両親から話を聞く前に、彼らは亡くなってしまったので、幼かった果琳は詳しいことは何も知らなかったが。
 いま思うと、異国の様式を取り入れた大きな館も、たくさんの使用人たちも、果琳の家の富を象徴するものだった。小さい頃の果琳に自覚はなかったが、ずいぶん恵まれていたのだろう。
「亡くなったのは、わたしが帝都を出てからも、ずっと手紙で励ましてくれた親友なんです。まだ実感が湧きません。黎ちゃんが死んだなんて」
「大事なご友人だったのね。お葬式は、もう終わったの? 終わっているとしても、せめて、お墓参りくらいは行きたいでしょう」
「お葬式も、お墓も。何も分からないというのが、正直なところなんです。亡くなったことはたしかだと思うのですが」
 有希也が送ってくれた訃報や、彼の言葉に噓があるとは思えない。そもそも、噓をつく理由もないだろう。
 果琳の親友は、此の世を去ったのだ。
 死因も何もかも、果琳には分からないことばかりだったが。
(明日、いつも黎ちゃんの手紙にあった住所にも行ってみましょう)
 有希也の話ぶりでは、有希也が黎の遺品整理を行ったようだが、黎の住んでいた家自体がなくなったわけではないだろう。
「……? 訃報は誰が送ってくれたの? 亡くなったご友人のご親族? その方にお聞きになったら、何か分かるでしょう?」
「訃報を送ってくれたのは、ご親族ではなく、わたしと友人の共通の知り合いなんです。彼からも、まだ詳しいことは何も聞けていません」
 本来ならば、女将の言うとおり、黎の親族が訃報を送ってくるべきだ。
 しかし、実際、訃報を送ってきたのは有希也である。
 黎には親族がいなかったのだろうか。あるいは、何かしら事情があって、親族とは疎遠になっていたのか。
(やっぱり。有希也さんの店にも、もう一度)
 寂しげな有希也の表情を思い出すと、黎について尋ねることが正しいのか分からなくなる。
 それでも、有希也から話を聞かなければならない。有希也は腐れ縁と言ったが、果琳よりもずっと黎の近くにいた人だ。
「彼。その方は男性なのね。昔からのお知り合い? どちらの方?」
 女将は眉をひそめた。好奇心で口にしているのではなく、単純に、果琳のことを心配してくれているのだろう。
「大通りに質屋さんがあるでしょう? いまは、そちらの店主をしている人です。女将さんも、きっとご存じだと思います」
 果琳は訃報に書かれていた住所を女将に見せる。有希也の営んでいる《若月堂》の住所である。
 女将は不思議そうに首を傾げた。
「あのあたりには質屋なんてなかったと思うけど」
(あんな大通りの一等地に構えられているのに?)
 女将は、帝都でいくつもの宿を経営している。ふつうの人間よりも、よほど帝都の事情や地理に詳しい人だ。
 そんな彼女が、どうして有希也の質屋について知らないのか。
 不安げな果琳に気づいたのか、女将は思い出したように言葉を続ける。
「ああ、でも、何か建物があったような気がするわ。それが、果琳さんの言う質屋のことか分からないけど。……お節介かもしれないけど、気をつけてね。あなたは年頃のお嬢さんなのだから」
 女将の心配を無下にもできず、果琳は曖昧な笑みを浮かべる。
(有希也さんは、わたしに怖いことをしたりしません)
 誰かに話したら、十年も顔を合わせていなかったのに、と嗤わらわれるかもしれない。だが、果琳は心の底からそう思っていた。
 十年前、自分の命すらも顧みず、火の中に飛び込んできてくれた男の子がいた。
 そんな人が、どうして、果琳に怖いことをするだろうか。

  *

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■ 著者プロフィール
東堂燦(とうどう・さん)
1月21日生まれ。新潟県出身。『薔薇に雨』で、2013年度ノベル大賞佳作受賞。集英社オレンジ文庫に『十番様の縁結び 神在花嫁綺譚』シリーズ、『百番様の花嫁御寮 神在片恋祈譚』、『それは春に散りゆく恋だった』『海月館水葬夜話』『ガーデン・オブ・フェアリーテイル 造園家と緑を枯らす少女』がある。

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