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本のない、絵本屋クッタラ おいしいスープ、置いてます。

 どこまでも続く真っ白な大地を一歩一歩踏み締める。
 足首の上まで分厚いブーツで覆われているのに、積もったばかりの柔らかい雪に踏み入れると、足首どころかふくらはぎのあたりまで埋もれてしまった。
 ずぶっ、ずぶっ、と用心深く進んでいくと、彼方に仄かに瞬く明かりが見えた。辿り着いたインクブルーの三角屋根の建物から振り返ると、自分が歩いた足跡が、小動物のそれのように規則正しく並んでいた。
 空は澄み、月明かりが雪に反射し、あたりを白く照らしていた。

「綺麗だ」

 吐いた息が白く煙った。


 お月様のスープ

 この地の春は遅い。
 とはいえ、俺はうまれも育ちもこの北の大地だから、他の場所のことはわからない。
 テレビや新聞では、花見のニュースが報じられているが、ここの桜はまだ蕾すら見当たらない。ところどころに溶け残った雪は、この先消える気配すらないままに、地面にへばりついている。
 そんな浅い春のある日のことから、この物語は始まる。
 自己紹介が遅れた。俺の名前は八木やぎという。
 友人とともに、ちっぽけな店を運営している。札幌市内を南北にわたって流れる豊平川を取水する創成川。そのほとりから東に一本入ったところにあるインクブルーの掘っ立て小屋のような建物が、その店『絵本屋クッタラ』だ。
 かなり年季の入った木造二階建ては細長く、てっぺんには尖った三角の屋根が載っかっている。これは雪の重みから家を守るための伝統的な造りだ。角度のある屋根なら、雪が積もることなく滑り落ちてくれるからだ。
 通りからはわからないけれど、建物の裏には、公園というには小さく、庭と呼ぶには広い程度の敷地がある。しかし花壇や手入れの行き届いた芝があるでもなく、ただ雑草がぼうぼうと生い茂っただけの原っぱだ。
 ここへは店の勝手口から出入りができる。
 一階が店舗、二階は俺の住まいになっているが、外階段を使えば客と顔を合わさずに出入りできるのはありがたい。
 繰り返しになるが、『クッタラ』は絵本屋だ。
 ただし、絵本の店と言いながら、店内に本は置いていない。ここは本を置かない本屋だ。なぜかって? それはおいおい説明するとして、お、共同経営者の友人、広田ひろたかなでが出勤してきたようだ。
 俺も店に向かうとするか。

「何だよおまえ寝起きかよ。さっさと顔洗ってこい」
 階段から下りてきた俺を、奏が憮然とした表情で見る。外は晴れ渡った気持ちのいい朝だというのに、開口一番がこれとはうんざりする。
 奏は市内中心部のマンションで一人暮らしをしている。路肩に積もった雪の山がようやく溶けはじめ、歩道のアスファルトが出現してくるこの季節から、こいつは自転車で出勤してくる。
 気分だけは春を感じたいのか、上着こそネイビーのブルゾンだけれども、首元はローゲージのタートルで覆われている。
 分厚い手袋を外しながら吐く息は、さすがにもう白くはないけれど、それでも店内はまだひんやりとしている。
 一年中出しっぱなしのストーブに点火する奏に、俺はしょぼつく細い目をこすりながら声をかけた。
 起きて最初に出した声は、妙にしゃがれていて、俺は喉の奥で咳払いをした。

 本を置かないかわりに、置いているものがある。スープだ。併設しているカフェで提供しているスープは、旬の地元野菜を使っていて、なかなか旨いと評判だ。
 ペパーミント色のエコバッグが、奏の肩からキッチンカウンターへと移動する。どうやら出勤ついでに買い出しも済ませてきたようだ。ガサッと音をたて、巾着型のバッグが崩れた。店の奥からほうきを出し、コンクリートの床を掃きながら奏が俺に言う。
「今日から新メニューだぞ」
 エコバッグの持ち手のあたりから、青々とした葉が顔を覗かせているのがさっきから気になっていたところだ。近付いて顔を突っ込むと、緑の葉の先に、野球ボール大の白い球体が付いているのが見えた。
 カブのようだ。
 俺が首を傾げていると、奏がにやりと笑った。
「おまえ、カブは冬だけのものだって思い込んでいるだろ」
 図星だ。カブといえば、でっかい鍋でコトコト煮込んだものが冬の定番料理だろう。季節のスープを売りにしているこの店だというのに、春の食材にカブはないだろう、と訝しんだのだ。
 すると、
「春の七草って知ってるか?」
 知らないはずがない。そんなのは生きていく上での常識だ。だというのに、奏の鼻がぷっと膨らんでいる。おそらく自慢の知識をひけらかしたいのだろう。伝統芸能の師匠かなんかにでもなった気分なのだろうが、こういう時は、従うに限る。
「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ。スズナ、スズシロ、春の七草」
 節をつけながら奏がすらすらと暗唱する。シメのところは俺も「スズナ、スズシロ」と、かろうじて口調を合わせてみた。
「そのスズナ」
 師匠風情の奏がほれっ、とエコバッグを指差すが、俺はぽかんとするばかりだ。
「スズナはカブの別名、スズシロは大根のことだ」
 つまりカブは春の野菜。ここ北海道では四月から六月くらいが旬だそうだ。
「とはいっても、秋に収穫されるカブもあるし、大根の旬は冬だから、春の七草イコール春の野菜っていうわけでもないんだけどな。むしろ縁起ものってところの意味あいのほうが強いか」
 寒い季節をじっとこらえて生き延びた草花の強さにあやかって、愛でるのだという。奏が説明を続ける。
「ちなみにナズナっていうのはペンペン草のこと。菜の花と同じアブラナ科の野菜だ」
 呪文のようだった「七草」の節に意味が付いた。
 こんな草花だったら裏の原っぱにも生えていそうだ。今度探してみるか、と俺は裏庭に続く勝手口に目をやった。

 約五坪、つまり三メートル四方が縦にふたつ並んだくらいの店内には、三脚の椅子が並ぶカウンター席と、二人がけのテーブル席がひとつあるだけだ。この店をはじめる際に、古い建物をリノベーションしているから、味のある古材と現代的なアイアンがほどよくミックスされている。
 キッチンはカウンターの奥だ。
 掃除を終えた奏に従って、俺もすかさず調理場に向かう。俺と奏がこうやって揃って入ると窮屈なくらいだが、このくらいの規模が俺たちにはちょうどいい。
 麻素材で出来た濃いグレーのエプロンを腰でキュッと結び、バッグから食材を取り出し、奏が手際よく準備を進めていった。
 調理はもっぱらこいつの担当だ。
 まずは春の七草でいうところのスズナ、つまりカブをおろし器ですりおろす。もっとも『クッタラ』のキッチンで使っているのは、昔ながらの金属製のではなくて、セラミック製のすりおろし器だ。カブのすりおろしは、大根おろしよりも水っぽさがなく、ふんわりとしている。それを鍋に入れ、コンソメで取ったスープを月桂樹の葉と一緒に煮立たせたら火を弱める。
「よし」
 頷いたかと思うと、冷蔵庫から出した豆乳を加えて温める。塩と胡椒で味を整えると、キッチン内に甘い香りが漂ってきた。
 わりとすぐに出来るもんなんだな、と俺が感心していると、
「煮すぎるとカブの食感がぐだぐだになっちゃうだろ。それに豆乳を入れた後は沸騰させないのが大事なんだ」
 奏がレードルでゆっくりと混ぜながら言う。
 俺は自分で考えるよりも相手に答えをせっついてしまうタイプだ。奏の脇腹を突っつきながら返事を待っていると、
「分離しちゃうんだよ。乳成分の中のタンパク質が」
 なるほど、加熱変性のことだ。タンパク質を高熱で加熱すると形が変わる。卵が熱を加えることで固まって、ゆで卵になったり、目玉焼きになったりするのはこの原理を利用している。俺が軽く頷いていると、
「さすが、そのあたりは八木なら理解できるか」
 褒められているのかよくわからない。まあこれも生きていくための常識として、備わっているだけのことだ。
 鍋の中ではとろりとしたスープが、柔らかな湯気をたゆたわせている。鉛白のような尖った白ではなく、アイボリーがかった暖かみのある白色だ。眺めているうちに、ようやく目覚めてきたというのに、俺までとろんとしてきた。
 陶器のボウルによそい、飾りに小口切りした茹でたカブの葉を載せる。スープに淡いグリーンが映え、なかなか春らしい。最後に胡麻油をまわしかけ、いよいよ完成となった。
「それにしても、おまえ、顎髭伸びすぎじゃないか? 客によっては嫌がる人もいるから気を付けろよ」
 少し前の言葉でいえば「ちょいワル」ってやつを気取っているわけではないけれど、髭は俺のアイデンティティーだ。むさ苦しいといわれようと、剃るつもりはない。舌打ちをする奏を一瞥する。
 たしかにこいつは、柔らかそうな栗色がかった短めの髪の毛をオイルやらワックスやらでこざっぱりと整え、髭も毎朝きちんと剃ってくる。ひょろっと背が高く、あっさりめの顔立ちも悪くない。ただ清潔感はあるが、特別どうこうっていうほどでもない。まあ、シュッとしている、といえばそうなのかもしれない。訪れる客がたまにそんなことを話しているから、あながち間違ってもいないのだろう。
 俺がじろじろと奏の横顔を観察していると、目の前にあしらいに使ったカブの葉が置かれた。偏食の俺だが、これはもちろん好物だ。
「ほい、まかない」
 っていうか試食だろ、と文句を言いたいところだが、旨そうな匂いに、つい、鼻を近付けてしまう。
「うめえ」
 口に入れ、声を上げてしまった。
「八木がそう言うんなら、食材選びは間違いなかったな」
 スープを啜って味の最終チェックをしている奏が、湯気の向こうから言う。俺の舌に信頼が置かれているのは嬉しい。おかわりをねだろうとしたところで、入り口のドアが開いた。
 同時に奏が後ろ手で、キッチン裏の勝手口を開けた。

「いらっしゃいませ」
 明るく声をかけた奏に、おそるおそる入ってきた客が、ホッとしたように顔を綻ばせた。
 ベージュのショート丈のトレンチコートの下は、丸襟の白いシャツに紺と白の水玉模様のギャザースカート。足元のブーツを除けば軽やかな装いだ。
 冬と春が混在したような格好は、この時期致し方ない。店内の室温に安心したのか、ぐるぐる巻きにしたマフラーをほどいてバッグの中にしまった。それから顔を上げて、店内をぐるりと見回した。
 やがてとまどうように目を泳がせた。
 客がこうした仕草を見せるのはいつものことだ。奏も慣れたもので、
「スープですか? それとも本ですか?」
 とすかさず声をかける。
「あ、絵本屋って書いてあったので……」
 困惑するのも無理もない。店の軒先からぷらんと吊している看板には『絵本屋』とあるのに、店内には本は一冊も置かれていないからだ。
 あちこちにやっていた客の目が店の奥で止まる。二階に続く階段に足を向けながら、
「本は二階ですか?」
 と、三十代半ばと見られるその客が奏に尋ねた。
「以前はそうだったんですが」
 と言いながら、奏が勝手口にちらりと目をやり、
「住み込みの相方がいるので、いまは二階は彼の住まいになっているんです」
 と説明をする。
「相方さん? お二人で経営されているんですか?」
 俺の姿が見えないのを不審がっているのか、奏の説明に半信半疑といった様子だ。
「すみません。彼、極度の人見知りで。店頭には立たないんです。ですが、本を探す力は並大抵ではないのでご安心ください。もしお探しのものがあったら、何なりとお申し付けください」
 とだけ言って奏が口を閉じ、にっこり微笑んだ。
 俺の前では饒舌なくせに、客に対すると、自分がしゃべるよりも相手の口数のほうが増える。人当たりのよさがこいつの特徴だ。まあそんなところが客商売には向いているのだろう。
 この店『絵本屋クッタラ』には本が置かれていない。
 しかし客が望んだ本を、俺と奏が見繕う。話を聞いて、客の求めているものにぴったりと合う本を手渡すのが俺たちの仕事だ。いわばオーダーメイドの本屋だ。
 商品を揃えるのは古書を奏が商売仲間から仕入れてくるので訳はない。ただし本を決めるまでが、なかなか困難なのだ。
 なにせ客の要望はさまざまだ。
 かつて読んだ内容だけを覚えていて、タイトルがわからない本や、希望の絵の雰囲気だけを伝えてきたり、あるいはプレゼント用に探してほしい、と一任されることもある。
 もっとも、俺が住み込みになった当初は、二階に書棚を並べ、客に自由に選んでもらう、ごく普通の書店のスタイルだったのだが。

 奏の説明に納得したのか、客があらためて店内を見回した。剝き出しになっているアイアンの柱に手をかけ、
「おしゃれなお店ですね。リノベーションですか?」
 と尋ねる。
「DIYも多いんですよ。ほら、このカウンターも」
 木の板を使ったカウンターテーブルに手を置いて、
「本当はもっと短くするつもりだったんですけど、寸法間違えちゃって」
 奏が肩を竦める。Do It Yourself、つまりプロに頼まずに自分で作業したという意味だ。
「でも、まあいいかって、そのままにしているんです」
「言われてみれば、ちょっと長いですかねえ」
 客が眉を下げ、
「はい、三人で並ぶには広すぎ、四人席にしては狭い、中途半端なカウンターになっちゃいまして」
 俺には滅多に見せない気さくな笑みを、容易に差し出す。
 初めての客なのに、まるで古くからの馴染みのような振る舞いに、客がすっかり和んだのを合図に、
「よかったらスープを飲みながら、お話を伺いましょうか」
 カウンター席を勧め、注文を取る。
 温めなおしたスープをサーブすると、真ん中に載っかったカブの葉を見て、
「わ、綺麗」
 と、客が小さな歓声を上げた。
「さて、どんな御本をお探しでしょう」
 奏の柔らかな声が客の背中を押した。
「ずっと曇り空なんです」
 スープを一口飲んだ客が顔を伏せたままぽつりとそう言った。
 俺はくいっと頭を持ち上げ、空を見る。曇り空のはずがなく、一面に真っ青な空が広がっている。昼も近いいまごろなら、店の中まで日差しが届いているはずだ。
 客はひとこと呟いたかと思うと、また黙りこくり、焼きたてのトーストをちぎって、スープに浸して口に入れた。
『クッタラ』のカフェメニューはドリップコーヒー以外は季節のスープセットのみだ。選ぶ余地はない。
 スープはぽってりと厚いボウルになみなみと注がれていて、トーストが一枚添えられている。ちなみにトーストに使っている食パンは近所のベーカリーで仕入れる。奏と俺の散歩コースのほど近くだから、一緒に寄ることもある。
「おいしいです。カブって淡泊な味だと思っていたのですが、ほんのりと甘みも感じます」
「豆乳のまろやかさにくるまれているせいでしょう。月桂樹が味に深みを出してくれるんです」
 と、調味に使ったハーブの名を出す。
「上にかかっているのは胡麻油ですよね」
「ええ。オリーブオイルをかけるレシピが多いのですが、カブの甘みとの相性を考えて、今回はコクのある胡麻油を使いました」
「舌に残る食感があるんですけど、これは煮込んだカブですか?」
 これがほどよいアクセントになっている、と客が頷く。
「すりおろしを加えているんです。飽きがこないように、食感にもこだわりました」
 と、説明をする。
「こうすると、すっかり春らしいスープになりますね。カブって冬のイメージしかなかったので驚きました」
 客が感心したように言うと、奏が春の七草の説明をはじめようと、息を吸い込む音が聞こえた。ここでそんな小難しい話をしても客が迷惑がるだけだ。俺が小さく咳払いすると、奏は何も言わずにスープの鍋の前に戻った。
 やれやれ。スープ自慢も良し悪しだ。それをセーブさせるのも、相方である俺の仕事だ。
 すると、ようやく本題に入るようで、奏は声のトーンをすっと下げた。
「いつまでも寒いですよね」
 客の放った言葉「曇り空」の意味を探っているのか、弱火にかけた鍋をレードルでゆっくりと混ぜている。店内に静かな空気が充満した。やがて、
「そうですね。今年の冬は本当に雪が多くて……」
 客が顔を上げ遠くを見る目をし、視線をそこに置いたまま続けた。
「私、この冬に親友を亡くしたんです。重い病気だったので覚悟はしていたんですが、悲しみからいつまでも抜け出せなくて。困り果ててしまいました」
「寂しいですね」
 奏の声は、何とも心に染み入る柔らかさがある。男性ではあるけれど、どこか母性を感じるような、と表現すればいいだろうか。客も小さく頷いてから、顔をくしゃっとさせた。
「彼女、未弥みやって言うんですけど、この通りの向こうの病院に入院していたんです。お見舞いに行く時に、いつもお店の前を通りかかっていたんですよ。素敵なお店だなって気になっていたのですが、なかなか時間が合わなくて」
『クッタラ』の営業時間は十一時から十八時までだ。仕事をしていれば、平日に寄るのは難しい。休日に友人を見舞っていたのだとしたら、その前後に時間を作るのも大変だろう。
「今日はお休みなんですか?」
 奏がさりげなく様子を窺う。
「有休が溜まっていて、会社から使うように言われているので仕方なく。でも、時間があればあるで、余計に未弥のことを思い出して塞ぎ込んじゃって。いけませんね」
 無理に笑顔を作ったせいか、顔が僅かに歪む。むしろ忙しくしていたほうがいい、と、これまでは休みもなく働いていたんだと話す。
「お休みを貰ってもやりたいことも特にすることもなくて。散歩でもしようかと歩いているうちに、自然と足が病院のほうに向いていたんです。習慣ってすごいですね」
 苦笑いをして一呼吸置く。
「それで店に入ってくださったんですか」
 病院に行ったところで彼女に会えるはずもない。絵本でも眺めていたら、少しはリラックスできるのでは、と通りがかりに寄ってみたという。
「それに店頭の言葉を読んだら」
 なるほど、話が早いわけだ。
『クッタラ』の看板の下には、実はこんな言葉が添えられている。

 ──あなたの悩みに効く御本をお探しします──

「ええ。曇り空の心が少しでも晴れるような本が探せるのかしら、と。でも……」
「すみません。ご自分でゆっくり本を見ながら選びたかったんですよね」
 奏が頭を下げると、
「とんでもないです。おかげでおいしいスープも飲め、話も聞いてもらえ、少し元気になりました」
 と、さほど元気そうでもないのに、そんなことを言った。
「つい話しやすくて、色々としゃべってしまいました」
 恥ずかしそうに笑う客に、
「わかりました。お望みは『曇っている心が晴れやかになる本』ですね」
 と、奏が確かめるようにゆっくり繰り返した。
「そんな本が本当にあるんですか?」
 客が目を見開く。
「お探しします。それが我々の仕事ですから」
 見つかったら連絡する旨を伝え、連絡先をノートに書き留める。スープセットの代金を頂戴し、客を送り出した。
 外の冷たい風がぴゅーと店内に吹き込んできて、奏は慌てて入り口のドアを閉めた。
 でもその風は真冬のそれとは違うことを奏も俺もよく知っている。新しい季節の匂いが運ばれてきたような清々しさに、奏は安心したような笑みを浮かべ、その空気を思いっきり吸い込んだ。
「もう大丈夫だ」
 そう、自らに言い聞かすように呟いて、力強く二度ほど頷いた。そんな奏を見た俺も、春の訪れにホッとする。

 豊平川沿いを奏と並んで歩く。ここは俺たちの定番の散歩コースだ。時折、足を止め、芝生や草っぱらに佇んだりもしながら、だいたい三十分くらいぶらつくのが、閉店後のルーティンだ。
 川幅が狭くなったあたりで足を止める。この間まで雑草が生い茂っていたのに、と目を泳がせていると、奏が、
「雑草がなくなったのはおまえのおかげだな」
 などと妙なことを言った。
 俺はさっきの客の要望が気になって、奏の顔を覗く。普段なら、客の話を上手いこと引き出すのに、今回はほとんどと言っていいくらい、聞き出せていない。いつもに比べるとあまりに情報が少なすぎやしないか、と心配になったのだ。あれだけのことで果たして客の納得する本が選べるのだろうか。
「色々聞き出してもよかったんだけど、そうするとまた亡くなった未弥さんのことを思い出して、悲しみが増しても可哀想だろ」
 こいつはとことん優しいやつだ。まあ、だから俺みたいなのとも一緒に仕事が出来るんだろうけれど。
「親友が亡くなった。その悲しみから抜け出したい。でも気の持ちようだけでいきなり元気になんてなれない。時間がかかるのは当たり前なんだけどな」
 奏の話に、俺も同意し、こくりと頷く。
「だからって、時が解決してくれることが描かれた絵本を渡したところで仕方ないだろ。心が軽くなる手助けをしてやれる何かじゃなくっちゃ」
 それはそうだけど、と、俺が口を尖らせていると、奏が要点をまとめはじめた。
「重い病だったっていうんだから、告知をしていないにしても、本人も薄々は気付いていただろうな。そういう場合、友達だったら何をする?」
 俺は頭を捻る。会いに行って、とりとめもない話でもして、気を紛らわせてやるだろう。奏も俺の意見に賛同するかのように、続ける。
「きっと寂しがっているだろうから、って頻繁に見舞いに行っていただろうな」
 俺は控えめに首肯する。
 さっきの客は「病院に行くたびにこの店の前を通りかかっていた」と話していた。頻度は高かっただろう。いまだに休みの日につい足が向いてしまうくらい病院通いが習慣になっていたのだ。
 ならば別の楽しみでも見つけて、そっちに目を向けさせるしかないのだろうか。気分がスカッとするようなストーリーや、興味を惹きそうな凝った絵本なんかが有効だろうか。
 奏が口をつぐむ。会話のないまま、俺たちはとぼとぼと川っぺりを歩く。どこかでアカゲラが鳴いていた。

 店に戻ると、俺は一目散に二階の自室に向かった。その後を奏がゆっくりと階段をのぼってきた。
 二階はかつての名残で、書棚がずらりと並んでいる。本を読んだり作業をするための机や椅子も置かれたままだ。からっぽの図書室のような雰囲気は、厳かで悪くない。
 俺は椅子に飛び乗って、用心しながら机に足をかけた。
「窓、開けるか?」
 道路に面した小窓は、俺の背では机に乗らなくては開けられないが、長身の奏なら背伸びをすれば容易だ。
 開けた窓から、新鮮な空気が入ってきて、俺は深呼吸をした。
「気持ちいいな」
 俺の心情を代弁した奏が、
「おまえ、本当に高いところが好きだなあ」
 と、机の上に乗っかったまま外を眺める俺を可笑しそうに見る。そりゃそうだ。高いところからなら、色んなものがいっぺんに見られるからな、と、胸を張ってみせてから、窓の外に目を向ける。空には出たばかりの三日月が顔を覗かせている。
「気持ちいいな」
 奏は同じ言葉を繰り返しながら、外の景色に夢中になっている俺をしげしげと眺める。そしてふと、
「そうか。窓か」
 と呟いたかと思うと、足早に一階に下りていく。
 どうやら本選びの方針が決まったようだ。

 その客が再び店を訪れたのは、それから二週間くらいたってからのことだ。
 二日ほど前に、取引している古書問屋から、注文していた本が届けられていた。その本をテーブルに置いてみたり、手に持って掲げてみたりと、奏は店のあちこちを徘徊していた。そのたびに、大きく頷いたりしていたので、どうやら客に満足してもらえるものを選べたのだろう、と、俺は眺めていた。
 納得がいったのか、昨晩、所望の本が用意できたと客に連絡をしていた。
「早速、ご足労いただきありがとうございます」
 足首まである白いワンピースを纏った客の顔色は、やっぱり芳しくない。このままでは、友人を亡くした本人までもが病気になってしまいそうだ。
 奏もそれが気になるのか、
「大丈夫ですか?」
 と声をかけながら、カウンターの椅子を引いた。
「カブのスープもいただけますか? 温まりたいので」
 客が消え入るような声で注文する。
 今日も朝から晴れ渡っている。真夏になるとこの庭いちばんの高さに茂る植物も、庭の真ん中あたりでぐんぐんと新芽を伸ばしている。俺は筍に似たその芽に目をやり、新しい季節の到来を実感する。
 一方の客は提供されたスープを見て、
「あっ」
 と声を上げた。奏がかすかに鼻を鳴らす。
「春とはいえ、まだ寒いですからね。こうすると栄養的にもタンパク質が加わりますし、味わいもまったりするのでいいんじゃないかな、と思いまして」
 なるほど、今日のスープに、カブの葉のかわりにウズラの卵が割り入れられていたのにはそういう理由があったのだ。
 温かいスープを口にし、多少は落ち着いたのか、客の強ばっていた肩の力が抜けたように見えた。
「今日もお一人なんですね。相方さんはどこか他のところで作業されているんですか?」
 俺はまかないを食べるのに夢中ながらも、この後の展開が気になって、勝手口の隙間から店の様子を窺っているところだった。それが見えていたのか、
「ああ、あいつはいま食事中ですよ」
 と奏が答えた。

 客の食事が一段落したのを見計らって奏が二冊の絵本をカウンターに置く。客は差し出されるままにそれを受け取った。
「どうぞ。ご所望の『心が晴れやかになる本』です」
 渡された本を手に、客は一瞬がっかりしたように肩を落とした。期待通りではなかったのだろうか。
「これ、ですか。こっちの絵本は昔、見たことがありますね」
 と、イブ・スパング・オルセンの『つきのぼうや』の表紙を奏に見せ、中も開かず置いた。
 鮮やかな水色の表紙を見て、俺は奏がこの本を選んだ理由を推測する。「曇り空」という客の気持ちを晴らすべく明るい空の絵本を用意したに違いない。それにしてもこれは随分と細くて縦長の本だ。奏が渡したもう一冊の絵本は、真四角に近い形だったが、客はこちらも数ページをめくったきり、カウンターに戻してしまう。
「そうですか」
 納得のいっていない客を余所に、奏は表情を変えないままキッチンから出てくる。カウンターに置かれた二冊の本を手に、壁の前に立った。
 どうかしたのか、と客が振り向くと、奏が細長い本をかざすように壁に近付けた。問屋から本が届いた後、度々やっては満足げに頷いていた、あの行動だ。
「ほら、こうすると……」
 客がはっとした顔で、
「窓だ」
 と言った。
 それを聞いて、俺は、そういえば奏が二階の俺の部屋で「窓」と呟いていたことを思い出す。
 その水色の本は、店内の白い壁を背景に、鮮やかに映えていた。
 脇に挟んでいたもう一冊の本と差し替える。淡いブルーの空に白い蝶が描かれた絵本だ。
「わ、真四角の窓」
 客の声が少しだけ明るくなった。
 あたかもそこに窓がくり抜かれたかのように見える。絵本にこんな見方があったなんてと俺が裏庭で驚いていると、奏が客に話しかけた。
「あなたがいつも未弥さんの病室から見ていた空は、こんな風ではなかったですか?」
 客は息を吞み、それからもう一度、壁に当てられた本に目をやった。窓に見立てたそれは、白い壁にあまりにフィットしていた。
 そして静かに頷いた。
「そうですね。二人でよく窓越しの風景を眺めていました。桜が咲いたね、新緑が綺麗だね、紅葉の赤が鮮やかだね、って話したものです。真昼の月を見つけて感激したこともありました」
 裏庭からその様子を窺いながら、俺は、あの時に奏と一緒に窓から眺めた三日月を思い出していた。
 客は懐かしそうに目を細め、
「窓の向こう側……」
 と言ったきり、口をつぐんだ。
 店内はしんと静まり返り、客が啜り上げる音が、スープなのかそれとも涙なのかわからなくなった。そうやってしばらくの時が過ぎた。
 奏は絵本をカウンターに戻し、キッチンの片付けを続ける。食器がカチャカチャと遠慮がちな音をたてていた。やがて客が口を開いた。
「私がいけなかったんです」


  *

続きは発売中の『本のない、絵本屋クッタラ おいしいスープ、置いてます。』で、ぜひお楽しみください !

著者プロフィール
標野凪(しめの・なぎ)
静岡県浜松市出身。2019年、「終電前のちょいごはん」(ポプラ社)でデビュー。ほか、「今宵も喫茶ドードーのキッチンで。」(双葉社)や「伝言猫がカフェにいます」(PHP研究所)などを手掛け、人気を博している。東京、福岡、札幌と移り住む。福岡で開業し、現在は都内で小さなお店を切り盛りする現役カフェ店主でもある。

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