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夏休みの空欄探し

  1

 キィン、とひときわ小気味よい音がして、ボールが高く打ち上がった。こういう時は「白球」という言い方をするんだっけ、と思う。実際に自分で投げたり捕ったりしていれば実感は「ボール」なのだろうが、こうして打ち上げられたりするのを遠くから見ているとやはり「白球」がふさわしく、つまり「白球」という言い回しははたから見ている人のものなのだろう。まぶしい日差しと青空に、白はよく映える。野球部員たちの掛け声を燃料にするように、白球は高く弧を描いて舞い上がり、入道雲に溶け込んで一瞬だけ見えなくなる。小走りにそれを追っていたレフトが軽くキャッチし、ひと続きの動作で振りかぶってピッチャーに投げる。オイ、ともホイ、ともつかない文字変換困難な掛け声を常に誰かがあげている。じりじりと照りつける真夏の日差しと、それを音声に翻訳して歌い上げるアブラゼミの合唱。バックコーラスにミンミンゼミ。日差しの中で白く光る野球部員たちのユニフォーム。彼ら自身は自分が夏の情景の一部を構成していることにはおそらく無自覚で、白球だけを見て走り、構え、声を張りあげているのだろう。なるほど青春だな、と思う。あっちは。
 僕の方は別に野球部関係者でも何でもなく、ざらざらにびて茶色い地肌をのぞかせるフェンス越しに、ぼけっとそれを眺めているのだった。別に野球部員の中に憧れの先輩がいるとか、昔はエースだったのに重い心臓の病で野球ができなくなって感慨にふけっているとか、そういう事情はない。というかそもそも、元々は野球部自体見るつもりはなかった。僕が見ていたのはフェンスについているゴマフカミキリである。いや、ナガゴマフカミキリだろうか。あのあたりの区別はよく覚えていない。携帯を出してまず写真を撮り、ついでに検索してみる。おそらくナガゴマフカミキリの方だ。体長約二センチ。沖縄を除く日本全域に生息し、サクラや柑橘類の樹皮が好き。本人も全身、樹皮のような色をしており、これは保護色なのだが、それを自覚していないのか緑の葉っぱの上とか、こうしてフェンスなんかにくっついていて逆に目立ってしまっている奴もいる。見慣れないやつだなと思ったがやはりどちらかといえば珍しい種であるらしい。こんな街中の学校内で見られるというのは、それなりに貴重なようだ。
 これは得をしたぞ、と思っていたら、背後から話し声が聞こえてきた。かがんでいた背筋を伸ばして振り返ると同時に、僕の方に声が飛んできた。
「あ、虫博士じゃん」
 こちらを見ているのは同じクラスのキヨことなりきよはる。その隣にクラス委員のしおざわさん。やっぱりかわいいな、と思い、それが成田清春と一緒にやってきたことに軽く胸がうずく。そりゃそうだ。彼女はあっち側の人だ。
「博士、何やってんの? なんか面白い虫見つけた?」
 成田清春は笑顔であり、隣の塩沢さんも「えっ、いつもそうやって虫、見てんの?」と笑っている。僕は「いや、別に」などともごもご答える。別にそんなに熱心に見ていたわけではないし、いつも虫を探しているわけではないし、僕は虫博士ではない。だがそれらの言葉を成田清春相手にするすると出せないし、出したところで彼らは「は?」と首をかしげるだけだろう。そうしているうちに二人は笑いながら去っていってしまう。塩沢さんは親しげに成田清春の腕に触れている。ああ触っている、と思う一方で別にどうでもいいことだろう、と自分に言い聞かせている。二人は今、僕のことをあれこれ言って笑っているのだろうか。いや、そこまで明確に性格の悪い二人ではない。クラスで一番人気のある男子と一番人気のある女子なのだ。そういう人はいちいち地味な奴をわらって自己の優越を確かめたりしない。それとも僕のことなんてすでに忘れているだろうか。あの手の人たちにとっては、僕のようなタイプはそこらの木や電柱と同じ「風景」に過ぎず、たとえ会話をしても「電柱」が「自動音声を流す電柱」になったに過ぎないはずだから。たとえば彼らの目の前でいきなり手首を切ったらどう反応するだろうか、と考えてみる。電柱が手首を切った、と驚くのか。手首を切る電柱、と面白がるのか。
 どうにも性格が悪かったな、と思い、ずり落ちていた鞄をかけ直して歩き出す。彼らに悪意はない。頭の中でそう繰り返すが、どうしても引っかかっているものが一つ、喉の どの上あたりにあった。五月のある日、成田清春から言われたことだ。

 ──それ、何か役に立つの?

 歩きながら植え込みの木を見る。コナラ、スダジイ、タブノキ。世界的にも珍しい日本の照葉樹林をさりげなく再現するラインナップで四季も感じられるから、生物の授業を校内ですることもある。この学校を設計した人か、造園業者にセンスがあったのだろう。飛んできた小鳥を見る。シジュウカラ♂、夏羽。見分け方のポイントは白いお腹にまっすぐに一筋走る黒の「ネクタイ」であり、これがすごく可愛い。その上の空を見る。入道雲または立ち雲。関東での言い方はばんどうろうだが信濃・越前地方では信濃しなの太郎。奈良ではろう、四国ではこくさぶろう。気象学上は積乱雲。その上空に高層雲。小さく巻雲。風向きからして夕立は来ない。じゅうせっで言うとたいしょ、の日差し。
 はいはい役になんか立たねーよ、とふてくされ気味に呟いてみる。

 成田清春はいつもクラスの中心にいた。何をもってクラスの「中心」とするのか、そもそもクラスなどという抽象概念に中心も周辺もあるのかという面倒臭くてまっとうな話はさておき、なんとなく「空気」で判断される「中心」に彼は常にいた。というより彼のいる座標が中心だった。いつも一番大きな声で盛り上がっている人たち。そのグループのさらに中心。面白いことに、観察していると立ち位置で彼の地位が分かるのだ。成田清春自身は誰の方も向いておらず、対して周囲の友人たちは全員が体を彼の方に向けている。周囲の皆は基本的に彼に向かって話し、時折自分たち同士でもやりとりをするが、成田清春はその時々で好きな方に向かって、あるいは皆を見回しながら話をする。関東の道路・鉄道網がすべて東京に向き、その周囲を申し訳程度に武蔵野線やら南武線が走っているのと、概念的には似ている。僕はそのはるか外周で、クラスでは唯一言葉を交わすあおはら君と、言うなれば都心に直結しないりょうもう線*1とかのぶ線*2の位置でやりとりをしている。まあそんな状態だったから、成田清春とその一味にはこれまで特に関わってはこなかった。ちなみに僕の姓も「成田」なのだが、彼らからは「じゃない方」と呼ばれているのを知っている。彼らからすれば当然の言い方なのかもしれないが、その「当然」こそが残酷なのである。そういったこともあったので、僕の方でも彼らに興味を持たないようにしていた。
 だがそれでも、偶発的に接触が発生してしまうことがある。あの日、移動教室から戻ると、半分くらい人のいた教室が少しだけざわついていたのだ。成田清春と、塩沢さん他数名の女子がなぜか窓ガラスに注目していて、「何これ」「怖い」「どうする?」と騒いでいた。見ると、窓ガラスに黒い虫がとまっていたのだった。平べったい体に長いこうふんのサシガメ。どこにでもよくいるヨコヅナサシガメというやつだ。僕は特に興味もなかったのでさっさと自分の席についたのだが、その近くで成田清春たちがあまりに騒ぐので困った。「刺される」「なんとかしてよ」と女子たちが騒いでいるのはいいとして、「見たことない虫」「新種じゃない?」とまで言っているのが聞こえると、さすがに何か言いたくなった。僕は立ち上がって適度に距離を取りつつ言った。
「それ、ただのサシガメだけど。ヨコヅナサシガメ。どこにでもよくいる。……手で摑んだりしなければ刺さないけど」
 情報だけ与えて撤退するつもりだったがそうはいかず、成田清春と女子たちは目を丸くしてこちらを振り返った。サシガメの情報にではなく、「じゃない方」が喋ったことに驚いているのだと分かった。
「えっ。そうなの? ええと」塩沢さんは明らかに僕を何と呼ぼうか迷った様子だった。さすがに「じゃない方」とは呼べない。だが名前でも呼べない。「知ってるの?」「別に」たまたま知っていただけ、という部分は省略する。この話し方はよくない、と自分でも分かっていた。「でも、別に刺さないから。大丈夫」
「詳しいの?」もう一人の女子が訊いた。
「別に。……サシガメっていって、カメムシに近い種類。公園とかによくいるけど」
「えっ、これよくいるの? 気持ち悪い。ていうかカメムシって何?」
 そこからか、とがくぜんとしたが、一応塩沢さんが「洗濯物についてる臭い虫」という的確な説明をしてくれ、その女子もなんとなく思い当たったらしく、成田清春ともども「知ってる」「見たことある」と盛り上がった。だが女子たちが「詳しいね」と褒ほ めてくれる空気になると、成田清春が僕を「虫博士じゃん」と言った。いや別に虫だけじゃないんだけど、と口から出かけたが、これは口に出したらとんでもなく偉そうな言葉になると気付いて黙った。その数秒の隙で、僕は虫博士という称号を受け容れる形になってしまった。
 詳しいんだね。ねー、すごいよね、と盛り上がる女子に調子を合わせるように、成田清春は笑顔で言った。「すげーわ。でもそれ、何か役に立つの?」
 確かに、などと笑う女子たちの手前もあって、僕は「何かの役には立つと思うけど」と言った。
 だが成田清春は笑いながら、気軽に言ってきた。「あ、じゃあ虫得意ならさ。これ外に捨てて? 俺、虫とか苦手だし」
「いや、それは」摑むと刺す、と言ったはずなのだが。別に虫博士ではないので経験したことはないのだが、刺されるとかなり痛いらしい。
 僕が困っていると成田清春は「役、立ってねーじゃん」と笑い、周囲の女子を笑わせた後、自分で窓をバンバンと叩いてサシガメを追い出した。

 汗でぺたりと張りついてはぷくりと離れるシャツの背中に気持ち悪さを覚えながら、僕はいつの間にか下を向いている。
 それだけのことだった。別に真っ向から馬鹿にされたわけでもないし恥をかかされたというほどでもない。それまで認識されていなかった「じゃない方」が、「虫博士」という形でクラスの中心人物たちに覚えてもらえたのだから得だろう──と、彼らなら考えるのかもしれなかったが。
 ──何か役に立つの?
 そう言われたのがずっと残っている。実際に僕の知識は役には立たなかった。僕は横からあれこれ言っただけで、サシガメを追い出したのは成田清春の方だ。
 裏門から公道に出て、信号で立ち止まる。
 小さい頃から知ることが好きだった。昆虫。自動車の車種。電車の車両。世界の国旗。他言語の挨拶。日本と世界の歴史。ジャンルはそれほど偏りがなく、ただ知らないことを知るのが好きだった。知らなかったことを調べて知識を得ると、また一つポイントが上がった、と嬉しかったし、親たちは僕のものりを褒めてくれた。ただ名前を知るだけでなく、それがどんなもので、それの属する体系の中でどんな地位を占めるか。そういうことまで知るようにすると、その体系における「常識」がなんとなく分かるようになって、未知の話でも推測ができるようになる。知識というものは、体系化すると無敵になるのだ。「理解」したという実感があり、世界の解像度が少しだけ上がる。その感覚が好きだった。だから中学でも、授業と関係ない知識ばかり食べ歩いていた。国産ロケットの開発史、昔の映画のスターたち、イヌイットのことわざ、経済学の基本。知ることは楽しく、何かの役に立てようなどとは思っていなかった。
 それでも内心では、自分はすごいのだ、強いのだ、と思っていた。自分は普通の人より「よく見えている」と。
 だが実際にはあんなものだった。成田清春の言う通りだ。僕の知識は役に立たない。そしてそれほど勉強ができるわけではなく、友達も少なく、会話が苦手で、運動もできない僕はその「役に立たない知識」に特化してしまっている。つまり僕は全人的に「役に立たない」人間なのである。
 もちろん、違う、と言ってくれる人もいる。クイズ・パズル研究同好会副会長(会員は二人だけで、会長は僕)のかざ君などは、あいつらなんて流行を追いかけているだけで何も考えていない、と言う。すぐに古くなる芸能だのファッションだのの知識しかない人種。今この場の、高校生という時期にしか通用しない「友達が多い」ことなんて、それこそ長い人生の中では何の役にも立たない。そもそも役に立つか立たないかを今の自分の価値観だけで決めるのは浅はかだ。電話の発明からmRNAワクチンまで、およそ当初は「何の役に立つのか」と言われていたものが世界を支えているではないか、と。
 たぶん、風羽君はいい奴なのだと思う。彼はもともと成田清春を嫌っていたが、その感情自体が「僕が彼らに見下されている」と思ってのことかもしれないからだ。
 信号が変わる。横断歩道を渡る。駅まで歩いて、本屋に寄って帰るつもりだった。来週から夏休みだ。だが特に予定はない。それが悪いことなのかどうかは分からないけど、これでいいのだろうか、とは思っている。十七歳の夏休みは、少なくとも世間ではもっと特別視されているのではないか。青春礼賛若さ盲信のメディアに毒されている。風羽君ならそう言うだろうか。
 学校を振り返ると、塀と校舎のさらにむこうから、キン、というバットの音がここまでかすかに聞こえた。

  2

 当然のことながら、もともと何も書いていなかったカレンダーが、夏休みに入ったからといって突然埋まるはずがなかった。それでも本を読んだり適当に勉強したり、部屋のベッドで寝転んでゲームをしたり、部屋のベッドで寝転んで一度読んだ漫画をまた読んだりしていると(これが一番後悔した……)、いつのまにか一日が過ぎた。バイトでもすればいいのだがうちの学校では禁止で、それを破ってまでする動機はないし、どうせそろそろ受験の準備で忙しくなるからすぐ辞めることになりかねないし、社会の末端に飛び込む勇気を出せるほど切羽詰まっていなかったのだ。本とゲーム以外にお金を使わないので小遣いがそれなりに貯まっている。今みたいに一人で出かけ、本屋で文庫本を買い、国分寺駅前のモスバーガーでオニポテをつまみながら読む、といった程度の贅沢は何の躊躇ためらいもなく可能だった。店内はぽつぽつと客がいるが、すごく「夜」という感じのジャズが流れていて落ち着いた雰囲気である。一人そこに座って本を読んでいるのは優雅に見えなくはないが、心の底ではずっと「これでいいのか。これが正しい高校二年の夏休みなのか」という気持ちがわだかまっていた。
 結果、本にもあまり集中できず、だからこそ、隣のテーブルにいる女性二人組の話が、ちらちらと耳に入ってきたのだった。
 二人が席に着いた時から意識してはいた。片方は大学生、もう片方は僕と同じくらいに見えたが、ちらりと見たところでは何やら二人ともえらく綺麗で、いやそうだったか、本当にそんなに可愛かったか、と確かめるため、その後も何度かちらちら見ていたのである。むこうからしたら気持ち悪いに決まっているので、見ていることを気取られないようぎりぎり最低限しか視線を向けていないのだが。二人は姉妹のようで、「お姉ちゃん」「なな」と呼びあっていた。なるほど美人姉妹。世界は広いし東京は人が多いから、そういうのもいるだろう。だが落ち着かなかった。別に何か期待していたわけではないが、変なふうに見られたらどうしようと思い、小説の内容が頭に入ってこない。これはさっさと出よう、と思った時、姉の方の言葉が聞こえた。
「……これ、分からないよ。こんなの解ける人いるのかな?」
 何が? ととっさに反応してしまうのが僕の性分だった。「分からない」「解けない」なんていうのは、その単語だけで十中八九、僕のテリトリー内の話である。
「でも、ここにヒントあったらむしろつまらなくない? 情報がこれだけしかない、っていうのがポイントなんだと思うけど」
 妹らしき七輝さんが言う。姉の方がふうん、とうなり、かけている眼鏡をちょっと直す。今、横目でしっかり見たが確実に美人だった。まっすぐな長い髪。図書室の先生といった雰囲気で、しっとりと落ち着いた声だ。一言ずつしか聞いていないが、よくようのつけ方などから「たぶん頭のいい人の話し方だ」と分かった。
「むー……確かにこれしか言っていないなら、答えは『これしかない』っていうものになるはずなんだけど」姉の方が腕を組む。「これが最初の問題っていうことは、この出題者がフェアであるっていう証拠がまだ、ないわけだよね? 解く側からすれば。つまり『何それ?』っていう答えになる可能性も考えられるわけでしょ」
「言われてみれば」姉妹だからなのか、妹の方も全く同じ仕草で腕を組んだ。毛先がくるんと巻いたボブのせいか姉より活発そうに見えるが、顔だちは似ている。
「……全く知らない人、なんだよね」
 これ以上観察すると目が合いかねないな、と思ってやめたが、二人のいるテーブルの方に体の中心から吸引されているような感覚があった。僕にとって存在感のありすぎる姉妹だ。しかもこの二人はどうやら、何かを「出題」され、それが解けなくて悩んでいるらしい。受験勉強などではない。パズル、というか暗号だ。
 ──すいません。それ得意なんですけど。
 無音の声が体から勝手に出る。もちろん態度には出さない。ファストフードの店内で隣のテーブルにいる人などというのはそれこそ「風景」であって、風景が突然動いて話しかけてきたら驚くに決まっている。相手は女性だし。
 だが。
 見えてしまったのである。いや、ちらちら見ていたから半ば意図的なのだが。姉妹のトレーの間、テーブルの中央に、文字通り場の中心でござい、という存在感で置かれているA4判の紙に、不可解な文字列がほんの数行、大きく書かれていた。

この数字が表す2桁の数字をつなげた場所に向かった

0305
2224
2224
8082
2224

 書いてあるのはそれだけだった。書きぶりは明らかに「暗号を解け」という指示だが、これでは情報が少なすぎて混乱するのも無理はない。そもそも日本語として意味が分かりにくい。「この数字が表す2桁の数字」とはどういうことだろうか。「つなげた」と書いてある以上、「0305」や「2224」のひとかたまりずつをそれぞれ「2桁の数字」に変換できて、変換後の2桁の数どうしをつなげていくと「何か」が出てくるのだろう。だが、設問がシンプルすぎて逆に分からない。4桁の数字が表す2桁の数字、、、、、、、、、、、、、とは何だろう。しかも暗号である以上、答えは「思いついた瞬間、『それ以外にない』とはっきり分かるもの」にならなくてはいけない。
 確かに、これは難しい。
 だが僕は、一瞬で分かってしまった。いや、別に僕がすごいわけではなくて、分かる人は一瞬で分かるのだ。
 最初は約数だろうと思った。4桁の数字が特定の2桁の数字に変換できるなら、これらの数が何かの二乗なのだろう、と誰でも考える。あるいはこの数の平方根か何かに、特定の2つの数字が繰り返す循環小数が出てくるとか。だが違う。最初にくるのは「0305」だ。「305」ではなく。つまり示された4桁の数字は「整数」ではなく「番号」なのだ。そして並べられた4桁の数字にははっきりとした、露骨な共通点がある。「03」「05」。「22」「24」。「80」「82」。上2桁の数字に2を足すと下2桁の数字になる。これが偶然のはずがない。
 そこに着目すればすぐに分かるのだ。他には何の情報もなく、数字そのものしかないのなら、「03、、05、、の二つが表す2桁の数字は、、、、、、、、、、、、04、、しかない、、、、。「22/24」なら「23」。「80/82」なら「81」。これらをつなげると、04、23 、23、81、23。
 042-323-8123。
 僕は携帯を出し、電話番号検索をしてみた。見事にヒットした。つい「っし!」と声が出てガッツポーズしてしまうが、隣の姉妹は気付いていないようだ。
 武蔵国分寺公園サービスセンター。この近所だ。
 頭の中で乾いた小気味よい音が鳴り、胸の中を涼風が吹き抜ける。突然ぶわっと空に舞い上がり、地平線の彼方まで見渡したかのような快感。こんなことがあるなんて、と思った。僕が最も得意なのはクイズやパズル。役に立たない能力だった。料理なら時々披露する機会がある。ピアノでも突然弾く機会があるだろう。だがクイズやパズルの能力というのは、クイズやパズルを自分から解きにいった時しか使えないはずのものだった。周囲を見回す。昼時を過ぎて半分くらい席の空いたモスバーガーの二階席。こんな日常的な場所で自分の得意分野と遭遇戦になり、しかも見事に勝利できるなんて。
 こんな体験はそうそうない。どういう事情か知らないが、僕は出題者に感謝した。そしてこの姉妹を隣に座らせてくれた神様にも。
 だが無言のかいさいの後、僕は全身がそわそわうずうずと勝手に震えるのを自覚した。教えたいのだ。隣の二人に。
 問題の紙を挟んでそれぞれのポテトをつまんでいる二人を視界のぎりぎり端に入れる。答えを教えたい。だが真剣に取り組んでいる暗号の答えを横からいきなり言うのはお節介を通り越して迷惑行為だろう。それどころか初対面の、爽やかとは言いがたい空気をまとったオタクに突然話しかけられたら、言う内容以前に気持ち悪いだろう。いつ周囲から話しかけられるか分からない、となってしまえば今後、二人はこの店でリラックスできなくなるかもしれない。そもそもこの店に来られなくなるかもしれない。となると店にも悪い。そこまでして得られるものは何か。僕一人の満足感だけではないか。呪文のように頭の中で「いかんいかん。いかんぞいかん」と繰り返した。
 ここはもう席を立って帰るべきだと思った。そろそろ挙動も不審になり始めている頃だろう。挙動不審者は自分の挙動を不審だと気付いていないものだ。つまり自分ですら気付き始めている今の僕は「超挙動不審者」ということになる。
 だが立ち上がろうと鞄を摑むと、姉妹の方が先に立ち上がった。「シェイク」「私も」というやりとりが一瞬聞こえた。僕はまだ腰を浮かす前だったので、ちょっと鞄を取っただけですよ、というふりをして動きを止める。姉妹は階段を下りていった。テーブルには席取りのために残しておいたのであろうトレーと妹のものらしきネイビーのペンケース、それに暗号の紙が残された。とっさに紙を盗み見る。問題に読み違えはなかった。やはり正解だ。
 本人たちがいなくなったことでプレッシャーがなくなり、かえって思考が図々しくなった。話しかけてみたらどうか。「たまたま目に入ったんですけど」でおかしくはないだろう。やりとりは断片的にしか聞こえなかったものの、二人ともまだ解けてはいない様子で、しかも「難しい」と困り顔をしていた。それなら、先方の意向を確認した上で答えを話すのは迷惑ではないのではないか。
 感謝されたいとは思っていない。「すごい」と言われたい、という気持ちは否定しきれないが、正直なところなくてもいい。それより何より、自分のクイズ能力が他人の役に立つかもしれないチャンスを逃したくなかった。それに、普段は風羽君ただ一人としかできない(親は中学くらいから相手をしてくれなくなった)クイズやパズルの話をできるかもしれないのだ。別にそれであの美人姉妹と仲良くなろうなどとまで期待するほど強欲ではない。ただ、もしかしたら、風羽君以外の、こういったものを面白いと思ってくれる人と話ができるかもしれないのだ。
 当然、無理に決まっていた。見ず知らずの、しかも女性にいきなり話しかける度胸など自分にないことは、最初から分かっていた。謎解き以外の面では僕はまぎれもなく「じゃない方」レベルだ。成田清春なら造作もないことだろうし、姉妹に好感を持たれて連絡先を交換するところまで自由自在なのかもしれない。そう考えるとのレベル差が絶壁に感じられる。
 だが、それでも諦めきれない僕は、偶然ある数字を見つけた。自分のレシートの中に。
 当然のことながらレシートには店舗の電話番号が書いてあり、その市外局番は「042」である。つまりこれは暗号の解答、最初の3桁と一致する。それならば、と思いレシートをすみずみまで見ると、奇跡のような偶然が起こっていた。存在したのだ。「伝票番号」に「32」が。「端末認識番号」に「38」が。「WEBオーダーID」に「12」が。当然最後の「3」もある。
 筆記用具は持ち歩いている。僕は赤ボールペンを出し、目をひくようにくっきりとそれらの番号を囲み、そのレシートを隣のテーブルに残した。それから、姉妹が戻ってくる前に急いで席を立ち、階段を早足で下りて出口の自動ドアを開けた。ちらりと見たが、姉妹はシェイクを受け取って階段を上っていくところだった。
 棚にもんを置いて丸善を出るかじもとろうはこんな気分だったのだろうか。いや、こんなにこそこそとしてはいなかっただろう。姉妹は僕のメッセージに気付くだろうか。心当たりのないゴミが置かれているだけ、で終わるかもしれない。
 でもそれでいいのだ。僕は確かに爆弾を仕掛けた。


*1 栃木県小山市と群馬県前橋市を結ぶローカル線。自転車を押して乗り込んでくる人もいる。
*2 静岡県富士市と山梨県甲府市を結ぶローカル線。やたらのんびり走る。

  *

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■ 著者プロフィール
似鳥鶏(にたどり・けい)
一九八一年千葉県生まれ。二〇〇六年、「理由あって冬に出る』で第十六回鮎川哲也賞に佳作入選し、デビュー。同作品を含む<市立高校>シリーズ、<楓ヶ丘動物園>シリーズ、<戦力外捜査官>シリーズ、<育休刑事>シリーズがいずれもロングセラーに。その他『名探偵誕生』『彼女の色に届くまで』『叙述トリック短編集』『刑事王子』『唐木田探偵社の物理的対応』など多数。

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