第1話 至福のクリームパン
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おれの命運はクリームパンによって尽きた。
丸焦げのトーストみたいにお先真っ暗で、がぶりとやったらこぼれそうなくらい詰まったツナマヨみたいにぎゅうぎゅうの八方塞がり。とどめにクリームパンで丸裸なんてあんまりじゃないか。
いきなりなんの話だって思われそうだけど、順を追って説明したい。
パンが好きな人、おいしいものや、変わった店に興味がある人。そんな人なら、この噂を耳にしたことがあるはずだ。
札幌には謎のパン屋がある。
〈ベーカリー エウレカ〉
出店場所も営業時間も非公開の、神出鬼没のベーカリー。なんでも三つ揃いのスーツを着た英国紳士が営んでいる、らしい。
まれにSNSに目撃情報があるけど、投稿を見てから行っても店はない。〈エウレカ〉に行き着けた人は幸せになるとさえいわれている。
なんというか、噓っぽい。うさんくさい。でも、妙に気になる。
だから札幌市時計台の向かいに立つビルの軒下に〈エウレカ〉を見つけたときは、本当に驚いた。
──あの瞬間のことを思い出すたび、願わずにはいられない。
もし時間を巻き戻すことができるなら、やりなおしたい。あのときは考えもしなかったんだ。
おれの人生がめちゃくちゃになるなんて。
§
五月のよく晴れた日だった。仕事明けでクタクタだったけど、気持ちのいい陽気に誘われて大通駅から地上に出た。
北海道は一年の半分が冬だ。だから春は特別、どの季節より春が好きっていう道民は多い。でもうっかり寒波が戻ってくるから油断できない季節でもある。
その点、五月はいい。ぽかぽか陽気で、ぶ厚いコートはもういらない。ライラックも咲く。夏へと続く、わくわくするような季節だ。そう感じるのは、きっとおれだけじゃない。落とし物やら置き引きやら、そういう隙が増えるからさ──って、物騒なたとえになった。
今やっている仕事がちょっとアレで。感覚がどんどん一般からズレていく。やばいとは聞いていたけど、ここまでとは思わなかった。
急な呼び出し。終わらないノルマ。昼も夜もなくて寝不足。怒鳴られるわ、腰は痛いわ、痣は増えるばっかりで……正直、もう辞めたい。毎日ぎりぎりのおれには気分転換が必要だった。
そこでパンの食べ歩きだ。
子どもの頃から好きなんだ、パン。昔、ばあちゃんが『フクマルパン』っていうパン屋を営んでいて、おやつといえばパンだった。今の仕事はきついけど、好きなだけパンが買えるようになったのは嬉しい。
さて、今日はどこに行こう。『BOUL’ANGE』のクロワッサンから始めるか。『どんぐり』も浴びたいな。豊富な種類のパンと賑やかなポップが躍る、あの空間。つい手が伸びて、あれこれ買っちゃうんだよな。新作もチェックしたい。いや、ここまで来たら、いっそ『PAUL』? ふんぱつして、あったかいクロワッサン・アマンドを店内で優雅に。
なんてことを考えながらサツエキ方面に進んでいると、ビルの間に白い建物が見えた。小さな木造建築で、赤い屋根の上に時計台がのっている。
札幌市時計台だ。
北海道を訪れたことのない人もきっと知っているはずだ。その小ささからがっかり名所なんていわれることがあるけど、とんでもない。現存する日本最古の時計台で、百四十年以上札幌の空に鐘の音を響かせている。昔は四、五キロ離れたところでも聞こえたという。
高層ビルの間に埋もれるように立つ姿がまたいいんだ。時計台の周囲の時間が止まっているみたいで、建物がタイムスリップしてきたかのような不思議な空気感がある。
この雰囲気が人を惹きつけるんだろう。時計台は今日も世界中からやってきた観光客で賑わって、異国の言葉が飛び交っていた。
道行く観光客を眺めていたとき、ふと、向かいのビルの軒下に空色のバンを見つけた。車両の手前に置かれた看板を見て、おれはぎょっとした。
〈ベーカリー エウレカ〉
木製の小さな看板には、たしかにそう書かれていた。
どんなに探しても行き着けなかった幻のベーカリーが、目の前にあった。
こんなことあるか? ニセモノか見間違いか。半信半疑で近づいたけど、店は消えずちゃんとそこにある。
「うそだろ、本物だ」
思わず声がもれた。おれはバンに駆け寄って、ぐるりとまわりを歩いた。
レトロな雰囲気の外国車は、春の空みたいなきれいな空色をしていた。側面にカウンター、両開きのリア一面がショーケースになっている。木製の棚にパンがずらりと並んでいて、黒い紙のしゃれたポップが目を引いた。
商品のラインナップはクロワッサン、クリームパン、あんパン、コーンパンなどの定番から、デニッシュ系とハード系の総菜パンがいくつか。種類は多くないけど、どのパンもつやつやのカリカリで、食べたときの食感を想像させた。
あ~~、うまそう。
「気になるものがあれば、お申しつけください」
いきなり後ろから声がした。
びっくりして振り返ると、紳士が立っていた。
四、五十代男性。身長百七十二、三センチ、やや細身。とにかく姿勢がいい。濃いグレーのスーツはベストも上着も体にフィットしている。おそらくオーダーメイドだ。長い足と優雅な佇まいは、英国紳士を思わせた。
その顔立ちは整っていて、女の子がきゃあきゃあいいそうな甘さがある。落ち着きのあるナイスミドルだ。
それにしても、パン屋で三つ揃いスーツって……。噂は本当だったんだな。
紳士と目が合うと、バチッと音がするみたいだった。甘くて穏やかそうな顔をして、目の奥に鋭さがある。熟練の職人が持つ凄みだ。
この人、ただ者じゃないぞ。
おれは気を引き締めて、ショーケースのパンの顔つきを眺めた。
よく、その店の実力を知るにはこれを食え、といわれるメニューがある。中華ならチャーハン、そば屋ならざるそば。だけどパンはちょっと難しい。
以前はバゲットだといわれていたけど、ハード系は機材に投資すればそれなりにうまいパンが焼ける。材料がシンプルなパンを探せとか、クロワッサンの出来が大事っていう人がいれば、焼き色、パンのサイズの統一感、種類の豊富さが重要だという人もいる。要は、人それぞれだ。
だからおれは店の『顔』を選ぶことにしている。この店の『顔』はどれだろう。店主の自信作、内側からおいしいぞ!って叫んでいるパンは。
じっくり考えて、これだと思うものを見つけた。
よし、お手並み拝見だ。
「すみません、このクランベリーとクリームチーズのパンをください」
「お目が高い」
甘い顔立ちの紳士はにこりともしないで、うなずいた。
会計をして商品を受け取った。パンはほんのりと温かかった。焼き立てじゃないけど、そんなに時間は経ってなさそうだ。
紙袋から小麦のいい匂いがした。フルーツの甘酸っぱい香りが溶けていて、急に腹が減ってきた。考えてみたら昨日の夜からなにも食べてない。
パリッと焼けた生地の間からクランベリーの赤が宝石みたいに光っている。それに、このうっとりするような甘い香り。天然酵母だ。
さすが英国紳士、こだわりが詰まってる。フィリングのクリームチーズもこだわり抜いたものに違いない。おいしいぞ、絶対おいしいぞってパンが叫んでいる。
だめだ、家まで待てない。
おれは袋を開けて、がぶりとパンを頰張った。
はあ……最初の一口って、どうしてこんなに幸せなんだろ。ザクザクした食感が弾けて、もっちりした生地のほのかな甘みが追いかけてくる。そこにクランベリーの酸味となめらかなクリームチーズが広がって────こ、このパンは!
「ふつう」
なんだこれ。びっくりだわ、声出ちゃったわ。
「あっ、すみません……」
おれは頭を下げた。
紳士がこっちを睨んでいた。
店先で大声を出すのは失礼だった。でもさ、こんな思わせぶりなパンある?
店はかっこいい外国車で、ポップはしゃれた手書き。店主は英国紳士を思わせる寡黙な職人風で、パンからもこだわりが伝わってくる。しかも『あの幻の』って噂になるくらい評判の店。期待するなっていうほうがむりっしょ。
はー、なんだかなあ。びっくりするくらい、ふつうだなあ。
食べかけのパンを見て首をひねったとき、端整な顔が視界に割り込んだ。
「うわっ」
首を傾げた英国紳士が、無表情におれの視界を占拠した。
「ふつう、とは?」
「え?」
ずいっ、と紳士が距離を詰める。
「ふつうとは」
「さっきのは独り言で……その、ですね、えーと」
ごにょごにょと濁すと、紳士がさらに近寄ってきた。近い近い、近いって!
おれ、体鍛えてるし、身長も百八十五センチあるけど、立派な紳士に詰め寄られるとかなり怖い。しかも無表情。首傾けっぱなし。
沈黙が落ちた。
十分。五分……うそ、一分だったかも。
無言の圧力と距離の近さに耐えきれなくなって、おれは白状した。
「だっ、だからふつうです。特徴がないとかじゃなくて、生地とフィリングの一体感がないんです。これ天然酵母ですよね? 小麦の味がしっかりしておいしいけど、クリームチーズが負けてるっていうか、味がぼんやりして生地の邪魔してますよ」
紳士がくわっと眼を見開いた。
やばい、怒られる。
「こんにちはー」
野太い声が響いたのはそのときだ。男が二人、こちらへやってくる。
助かった、お客さんだ。
ほっとしたのも束の間、違和感を覚えた。一人は二十代半ばの長身、メガネにジャケット姿。もう一人は三十代後半、ずんぐりした体格でスーツを着ている。表情はにこやかだけど、心がこもっていないような嫌なかんじがした。
ずんぐりした男が太い声で紳士に話しかけた。
「おいしそうなパンですね。昨日もこちらで?」
「いえ、藻岩山です。出店場所は毎回違います」
「そうでしたか。お仕事中すみません、私たちは大通警察署のものでして」
でこぼこコンビが警察手帳を開くのを見て、思わず目をそらした。
げえっ、やっぱり警察か。関わりたくないな。
そわそわするおれを後目に、刑事と紳士は話を続けていた。
「ご商売はいかがですか。なにかお困りのことなどありませんか」
「特には。強いて挙げるなら、窃盗が増えたというニュースが気になりますね」
「ああ、観光スポットや繁華街で置き引きやスリが増えてますね。我々も見回りをしてるんですが。暖かくなって人出が増えると、どうしても後手にまわりがちで」
「あなた方もその見回りで?」
「いえ。じつは昨晩、ここで観光客がケガをしまして。なにかご存じの方はいないか聞き込みしてるんですよ。夜八時頃なんですが、どうですかね、パンを買いに来たお客さんで、そういう話をする人はいませんでしたか」
おれは気配を消した。空気になれたらもっといい。ゆっくり、さりげなく、怪しまれないようにその場から離れる。
と、メガネの刑事がおれの進路を塞いだ。
「どんな事件だったんですか?」
紳士の問いにずんぐり刑事が答える。
「若者が観光客にケガをさせたんです。肩がぶつかったとか、些細なことがきっかけです。観光客は三人、若者は一人で分が悪いと思ったんでしょうな。いったんは引き下がったらしいですが、少し離れるとカラーボールを投げつけたんです」
「おもちゃのボールをですか」
「防犯用のです。金融機関やらコンビニのレジやらに置いてあるやつですよ。軽い衝撃で割れて、中身の蛍光塗料が弾けるんです。ほら、あそこのオレンジ色」
ずんぐり刑事が車道の端を指差した。
道路と街路樹に、蛍光オレンジのしぶきが付着している。
「特殊なインクだから洗っても落ちないし、悪臭がすごいんですよ。それを道路のあちら側──時計台のほうからこっちに向かって投げて。観光客に直撃こそしなかったんですが、弾けた液体が目に入って、転んでケガを」
「なるほど、そうでしたか」
「まったくひどい話です。──あなたもそう思うでしょ?」
いきなり、ずんぐり刑事が首をめぐらせておれを見た。
「そう、ですね」
「あなたは昨日ここに来ませんでしたか」
「来ませんね」
「そうですか……ちょっとお話いいですかね?」
「えっ? い、忙しいのでこれで失礼します」
回れ右をして逃げようとしたら、メガネの若い刑事がまた進路を塞いだ。前後を刑事に挟まれて逃げ道がない。
なんでだ……おれ、怪しまれてる?
どきっとして、無意識に服の上から胸ポケットを押さえていた。そこになにもないことは自分がよくわかっている。
ずんぐり刑事はのんびりした口調でいった。
「いえね、事件の目撃者が被疑者の服装を覚えてまして。被疑者が着ていたのは、黒地にピンクや黄色の恐竜がちりばめられた派手なパーカーだったと」
ははあ、なるほど。犯人はプテラノドンやTレックスがプリントされた、ポップでセンスのいいパーカーを着ていたと。なるほどなるほど、今おれが着てるやつだよ。
「違います人違いです、たまたま同じ服ってだけで」
早口で否定すると、メガネ刑事がぼそっと声をかぶせた。
「そんな服どこに売ってるんだよ」
「狸小路の古着屋だ。ひどいぞ、センスがいいだけで疑うなんて」
「犯人は現場に戻るというだろ」
なんだと、といいかえそうとしたとき、ずんぐり刑事が詫びた。
「うちのがすみません。服が似てるからって疑うのは失礼ですよね。あなたは事件と無関係だ。ただ我々も仕事でして、似た服装の人を見つけて、そのままにはできんのですよ。申し訳ないんですがちょっと伺えませんか。昨夜八時頃はどちらに?」
ぶすっとした顔にならないように気をつけたけど、おれは焦っていた。
やばい。どうしよう。あのことは絶対知られるわけにいかない。だけど黙ってたらそれこそ怪しい。
「ほ、北海きたえーる。道立総合体育センターです」
「そちらでなにを?」
「試合見てました。レバンガ北海道の。七時から九時すぎまで」
「バスケットボールですか、いいですね、うちも娘がやってまして。どっちが勝ちました?」
「そりゃあレバンガですよ」
「おお、圧勝ですか。点数は?」
「八十二対七十七……いや、七十九だったかな」
メガネ氏がすっとスマホを手にした。やめろ調べるな、お願いやめて。
「時間ないんで、もういいですか」
おれが二人の間から抜け出そうとしたとき、メガネ氏がずんぐり刑事にスマホを見せた。とたんに、ずんぐり刑事は顔中で笑った。
「スーパープレイじゃないですか。第三クォーター盛り上がったでしょう」
「ああ、そりゃもう」
「失礼、第一クォーターでした。最近目が悪くていけない」
このオヤジ、かまかけたな。
なんて叫ぶわけにはいかず、おれは慌てていいつくろった。
「じ、じつはずっと試合を見てたわけじゃなくて。仕事の呼び出しがあって、何度か会場の外に行ったりで、やあ、残念だな、しっかり観戦したかったなー」
沈黙が流れた。
噓っぽいよな、うん。おれでも疑うわ。
ずんぐり刑事の目はもう笑っていなかった。
「チケットか購入記録はお持ちですか」
「それは」
捨てた。なくした。それらしい言い訳を口にしたところで余計に疑われる。
黙っていると、刑事たちが視線を交わした。
「詳しい話、いいですかね。ここではなんですから、場所を変えて」
じりじりと二人が距離を詰めてくる。背中に冷や汗が浮いた。
どうする、逃げるか。そんなことしたら犯人だって認めたようなもんだ、でも捕まりたくない。どうする、どうする!? くっ、こうなったら。
おれは、ばっと両腕を天に突き上げた。
「試合見てましたホントに、おれは北海きたえーるにいた!」
全身全霊をかけて無害のアピールだ。武器もアヤシイものも持ってない、抵抗する気もない。見てくれ、この全力の降伏ホールドアップ。信じてくれ頼む!
「まあ、ゆっくり聞きますよ」
効果は一ミリもなかった。
「いやいや本当ですって」
「いいから。一緒に来なさい」
「警察は困りますまじで、お願いです信じてくださいよお」
おれが情けない声をあげたときだった。
「美しい」
唐突に、場違いな言葉が響いた。
すったもんだするおれたちから少し離れたところで、パン屋の紳士が感銘を受けた様子でこちらを見つめていた。
「じつに美しい。まるでクリームパンのように華麗な仕事ぶり」
なにいってんだ、この人。
おれどころか、刑事たちもそういいたそうな顔をしている。しかし紳士は感じ入った様子で深くうなずいて、おれを見た。
「そしてあなたはパンに対して深い造詣をお持ちのようだ。先程の意見を詳しく拝聴したいものです。もしあなたがパンを改良するアイデアを授けてくれるなら、あなたに代わって、その難題に答えることもやぶさかではありません」
「……えーと、つまり?」
「身に覚えのない罪に問われてお困りなのでは? 無実であるなら、証明すればいいだけのこと。手をお貸ししますよ」
無実。その言葉におれは目をみはった。
「そうです、おれ、なにもやってません」
「交渉成立ですね」
紳士の目が理知的に輝く。そして、甘い顔立ちの店主は高らかに宣言した。
「あなたが犯人ではないという解を持つことを示しましょう」
*
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■ 著者プロフィール
近江泉美(おうみ・いずみ)
東京都出身。2012年デビュー。『オーダーは探偵に』が大ヒットシリーズに。近著に『午前0時の司書見習い』など。