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僕と君の最後の7日間 こんぺいとうと星空の約束

「なあ、これやってみようや!」
 そう言って、少し日焼けした肌の少年が私の顔をのぞき込んでくる。真っ白な世界のなかで、彼の瞳だけがキラキラ輝いて眩しいくらいだ。彼の手には、ハードカバーの児童向け書籍。ポップな色合いで華やかだけれど、端が少しすり切れている。
「ほらこれ。めっちゃいいの見つけてん。一緒にやろうや、な?」
「『こんぺいとうのおまじない』……?」
「そう!『一日一粒、ねがいごとをしてこんぺいとうを食べると、そのねがいごとが叶う』んやって!」
「へえー」
「むつき、こんぺいとう好きやろ? これやったら絶対できそうな気せえへん?」
「でもこれ『一年以上続けること』って書いてあるよ?」
「二人でやってたらそんなん、すぐやって! むつきは何お願いする?」
「ええと……病気が治りますようにとか、こうきとずっと一緒にいられますように、とか?」
「ええ感じやん!」
「こうきは?」
「おれは……もう決めてるけど、ないしょ!」
「ええー? 何それ、ずるいよ」
 不満いっぱいにふくれた私に、彼は笑う。
「叶ったら、教えるわ」


 一月九日 1粒目

 大事な用事を済ませて一息ついていた昼下がり。半年ぶりに帰省した実家のインターホンが鳴った。手が離せないのか、キッチンにいる母が「つきごめん、出て」と声をかけてくる。私は「わかった」と答えて、受話器を取った。朗らかな声が聞こえてくる。
「こんにちは、シロネコ宅配便です。きた睦月さん宛のお荷物をお届けに参りました」
「え?」
 荷物? 私に?
 思い当たる節がまるでないけれど、放っておくわけにはいかない。私は「わかりました」と答えて受話器を置いた。玄関に置いてある印鑑を手に、外に出る。宅配便のお兄さんが笑顔で私に小さめの箱を差し出してきた。
「北野、睦月さんですね。こちらに印鑑お願いします」
「あ、はい……」
 伝票に目を落として、ぎくりとした。見覚えのある文字だったからだ。そんなわけがないと思いながらも、じっとりと汗が滲んでくる。
「あの……?」
 訝しげな様子のお兄さんにハッとして、慌てて印鑑を押した。「ありがとうございます!」と言って彼は一番上の伝票をぎ取り、荷物を私に手渡してくる。笑顔で去っていくその姿を追うこともできず、私の目は伝票に釘付けになっていた。
 忘れもしないその文字は、『彼』のものだ。
 差出人は見知らぬ名前になっているけれど、私にはわかる。見間違えようがない。
 震える手で抱えた荷物は、思いのほか軽かった。隠すように胸に抱き、玄関から自分の部屋まで駆け上がる。私の足音を聞きつけてか、母が階下から声を投げてきた。
「睦月ー? 何だったのー?」
「あ、と、友達から! 何か、送ってくれたみたい!」
 我ながら苦しい言い訳だ。けれど、多少の不自然さは勢いで押し切るしかない。何しろ自分でも、まだこの事態をうまく処理できていないんだから。
 母のリアクションは「そう、お礼言っておきなさいね」なんて明るいものだった。助かったけれど、きっと母にだって私の抱える荷物は予想もつかないだろう。
 自分の部屋に滑り込むと、ふうーっと、詰めていた息を吐き出した。手にある荷物に意識を奪われていたからだろうか。じわじわと、心臓がうるさく主張し始める。
 私が家を出てから誰も使っていないこの部屋は、時が止まっているみたいだ。子どもの頃から使っていた勉強机に収納付きのベッド。少し隙間がある本棚と、無理言って買ってもらった小さめのソファ。その向かい側には小さなクローゼットの扉とスリムな姿見がある。ソファの前には丸いラグを敷いていて、コンパクトな折り畳みテーブルがその上に置いてある。
 荷物をテーブルの上に置いて、部屋のカーテンを開けた。窓の外の景色も、ほとんど変化はない。山につながる木々の隙間から、畑や田んぼが見える。今は寒々しいけれど、あの辺りには稲川に流れ込む小さな小川があった。今でも初夏には、蛍が見られるはずだ。
 ひんやりと冷たい外の空気を吸い込めば、少しは冷静になれるかもしれないと思ったけれど、あんまり効果はなかった。それでも大きく深呼吸を繰り返す。その後、窓を閉めてラグの上に座り込んだ。
 改めて、荷物と向き合う。外の音が耳に入ってこないほど、心臓の音がバクバク響いてうるさいくらいだ。こんなに静かな部屋なのに。
 ……彼のはずがない。だって、彼はもう……。
 そう思うのに気持ちがはやり、小包の包装を乱雑に剝ぎ取ってしまう。包装紙を剝がすと厚紙でできたシンプルな箱が出てきた。開くと、手紙と緩衝剤で包まれた小さなビンが入っていた。外側から見ても何かカラフルなものが入っているとわかる。
 ビンは後にして、手紙を開く。あの頃と変わらない、几帳面な文字が並んでいた。

『一日一粒、食べて。食べ終わったら、約束の場所に来て欲しい。』

 ぶわっ、と。言いようのない感情が溢れ出した。激しい波が心を飲み込んでいく。
 メッセージとともに記されていた差出人の名前は、やはり『はやこう』とあった。懐かしい。心から離れない、大切な名前だ。その彼からの、贈りもの……。
「……なんで……?」
 言いながら、涙が出そうになった。もう、いないはずの光輝が、どうやって私に贈りものをしてくるっていうんだろう。
 思い切り剝がした包み紙を手繰り寄せ、宅配便の伝票を確認した。送付の指定日は今日。受付日は一昨日になっている。 
 光輝の書いた文字を目で追うだけで、『睦月』と……たった今、呼びかけられたみたいに感じる。彼の笑顔が鮮やかに浮かんでくるみたい。まるで私の強がりや虚勢を剝がしてほどいていくかのよう。思いがけず彼の欠片に触れてしまうだけで、こんなにもたやすく引き戻されてしまう。昔から今もずっと、私の心をこんな風に揺さぶるのは彼しかいないことを、今更ながらに実感した。
 滲みはじめた視界のなかで、手紙の文字が躍る。懐かしい、几帳面な文字をなぞりながらも、思考はめぐっていた。
 約束って、何のこと? それに……一日一粒って?
 疑問に思ったところでハッとして、同梱されていたビンの包みを剝がす。かわいらしいビンのなかには、金平糖が七粒入っていた。ふいに、過去のやりとりを思い出す。
「まさか……あのおまじないの、こと?」
 でもあれは子ども騙しの、本当に願いが叶うなんて到底思えない類いのまじないだ。それに一年以上続けるのが条件だったはず。でもビンのなかには七日分しかない。どうして七日分なんだろう……と考えて、気がついた。
 六日後は、私の誕生日だ。わざわざ誕生日に約束の場所に来て欲しい、なんて……何か、理由があるとしか思えない。
 それとも夢は夢で、おまじないの期間も一週間の間違いだったとか……? もう十年も前のことだ、思い出せるはずがない。確かめるすべもない。それでも私は何かに導かれるようにビンのふたを開けていた。
 光輝がくれた最後のメッセージ。その『約束』が何のことを指すのか、どこに行けばいいのか、全然心当たりがない。でも彼が言うからには何かあるはずだ。私が、忘れているだけで。
 知りたい。どうしても思い出したい。ううん、思い出さなくちゃ。
 だって、光輝が残してくれた『約束』だ。彼を失って後悔しかなかった私に、チャンスが与えられたみたい。もう光輝のことで後悔なんて、何一つしたくない。私と彼にとって、『約束』は絶対だった。光輝がいない今、私がちゃんと……その『約束』を、果たさなくちゃならない。
 使命感に駆られて、小さな金平糖を一つ、指でつまんだ。
 窓に向けて金平糖をかざしてみる。小さく微かな影が顔に落ちるだけの、何の変哲もない金平糖だ。口にするのは、いつぶりだろう。
 一日一粒、光輝の言う通りに食べれば……彼の『願いごと』が叶うんだろうか。そして秘密だと笑っていたその内容が、わかるんだろうか。
 今の私には、彼が残したこの金平糖だけが頼りだ。それに、このさかきざかで過ごしていれば、彼との日々をもっとちゃんと思い出すことができるはず。そうして記憶と向き合っていけば、最後の日……私の誕生日には、きっと『約束』の意味もわかるに違いない。今は、そんなわずかな可能性に賭けるしかない。
 ドキドキしながら、金平糖を口に入れた。嚙まずに舌の上に転がすと、ほどけるような砂糖の甘味が広がって、溶けていく。
 瞬間、視界がぐらりと、大きく揺れた。

  *

「……んん……?」
 くらっと、めまいがした。どうしてだろう。金平糖を食べただけなのに。
 不思議だなあと思いながら頭を振る。気分は、悪くない。気のせいだったのかな……と目を開けたところで固まった。
 ここ、どこ?
 目の前が真っ白だった。違う。白い壁と、白いカーテン。白いベッドに、白いシーツ……すべてに見覚えがある。ううん、覚えている。ここは、私が……子どもの頃入院していた病院……。
「むつき!」
「っ!?」
 私の名前を呼びながら、駆け込んできたのは。
おそなってごめんな、日直やったから」
「……こう、き……!?」
『彼』だった。ランドセルを、背負った姿の。
 状況を把握できなくて、呆然とするしかない私に向かって、光輝は嬉しそうに笑った。
「今日の給食のパンな、黒糖パンやってん。めっちゃ人気やったけど、じゃんけん勝ったからむつきにおみやげ。ないしょやで?」
 誇らしげにパンを差し出してくる彼を、見つめ返すことしかできない。だって、悪戯っぽく笑う光輝の姿はどう見たって小学生そのものだ。話の内容だってそう。子どもの頃にあった出来事と同じで。
 いったい、何がどうなっているの……?
 目の前の光景を受け止められないくらい混乱の最中にいても……私の心は、喜びを抑えきれなかった。
 光輝がいる。笑っている。私を呼んで、笑いかけてくれている。もう二度と会えないと思っていた彼が……目の前に、いてくれる。
「むつき?」
「……っ、ううっ……!」
 自然と、涙が溢れてきた。これは光輝だけれど光輝じゃない。きっと私の願望が形作った夢なんだ。それでも、光輝とこうしてまた会えた。嬉しくないはずがない。
 泣き出してしまった私の顔を、彼が覗き込んでくる。
「むつき? どうした? しんどいんか?」
「う、うーっ……光輝ぃっ……!」
 違うの。ここに、光輝がいてくれることが嬉しくて勝手に涙が出てくるんだよ。
 泣きながら、その姿に手を伸ばす。驚いた表情をしながらも、光輝は私を受け止めてくれた。彼の小さな体を引き寄せるようにぎゅっとしがみつく。
「光輝っ……光輝ぃ……!」
「むつき? ほんまどうしたん?」
 うろたえている光輝の小さな手が、私の額に触れてくる。額いっぱいに温かい感触が広がった。
「熱はなさそうやねんけどな……。どっかいたいん? 先生かかんごしさんか、呼んでこよか?」
 首をひねる彼の顔が近い。いつもこんな風に心配してくれたことが不意に思い出されて……懐かしさで胸が熱くなる。小さな光輝の心配そうな眼差しが、成長後のそれと重なってまた涙が溢れた。
「だい、じょうぶ……っ、だから……」
「ええ? ほんまに?」
「うん……っ、だから、もうちょっとだけ……っ」
 ぎゅうっと、彼の体を抱きしめる。こんな大胆なことができるのは、夢のなかだからだと思う。温かいぬくもりが伝わるのと同時に彼の微かな息遣いも感じられて、ますます“今ここにいる”光輝を実感する。
 ごめんね光輝。こんな小さな頃からずっと、こうして私のそばにいてくれて、本当にありがとう……。
 心のなかで謝罪と感謝を繰り返す。光輝は私をなだめるようにそっと背中を撫でてくれている。私の手は光輝の背中にしがみついているような形だ。彼のぬくもりに、匂いに、安心する。……と、同時に、おかしい、と思った。こんなに幼い光輝なら、大人の私の体だったらすっぽり包み込めるはず。なのに、今私は、彼の小さな背中を妙に広く感じている。
 あれ……? そういえばさっきも、光輝の小さな手が私の額を覆っていたような。
 まさか、という思いで目を落とす。光輝の肩越しに見える自分の手は、光輝のそれよりさらに小さかった。
 な、なんで……!? 私まで、小さくなってる……!?
 驚きのあまり声も出ない私に、光輝は心配そうにたずねてきた。
「むつき、大丈夫か? 泣き止んだ?」
「あ……ええと、うん。大丈夫……」
 びっくりしすぎて、涙も止まったらしい。何が大丈夫なのかわからないまま小さく頷いて、彼の体を解放する。至近距離にいる光輝は何の迷いもなく「よかった!」とホッとしたように笑った。その表情を見ていると、胸が切なく締め付けられるようだ。
 光輝はこんな小さな頃からずっと、光輝だったんだな。いつでも私の体を心配してくれていた。初めてこの病院で出会った時からずっと。いつも私を気遣って、どんな時も『むつき、大丈夫?』って……。
 また、鼻の奥がツンとした。涙腺が壊れたみたいに、いくらでも涙が出てきそうだ。
 成長するにつれて曖昧になっていくばかりの子どもの頃の記憶が、小さな子どもに戻ってしまっている自分と光輝によって、鮮明に再現されているみたいだ。
 ああ、そっか。もしかするとこの状況は、光輝からの贈りものに舞い上がった私の心が見せている、夢なのかもしれない。現実があまりにも過酷だから、夢だけでも……幸せな頃に戻りたくて。
 もしこれが、夢でも。ううん、夢だからこそ。あの頃の私じゃ言えなかったことを、伝えるチャンスかもしれない。
 こんな言い訳じゃないはずだ。あの頃の光輝に……今の私が伝えたいことは。
「私ね、光輝が持ってきてくれるパンとかお菓子とか、いつもすごく楽しみにしてたんだ。これも、すごく嬉しいよ。光輝……私と友達になってくれて、本当にありがとう」
 私が小さな光輝に伝えたいのは、感謝の気持ちだった。
 ずいぶん昔のことではあるけれど、この頃の私には同年代の友達がまったくいなかった。東京から引っ越してくる前も後も、学校にはほとんど行けていなかったから、お見舞いに来てくれるような親しい友人関係を築くことなんて難しくて。でも病院で見かける子どもたちの輪に入っていくような勇気もなくて。
 普通の子と同じように過ごせない、両親や祖母としか触れ合うことのなかった自分は、他の子どもたちとは違うんだと感じていたのかもしれない。
 学校に行きたくても行けない。友達が欲しくても作れない。外に遊びに出かけたくても出られない。だから、いつもどこかで諦めるしかなくて、それでもやっぱり寂しくて。
 そんな時にたまたまこの病院で……光輝に出会った。
 私の人生で最大の幸運は、きっとあの瞬間に違いない。
「いつも……私のこと、大事にしてくれてありがとう。光輝に出会えて本当によかった。今、こうして光輝に会えて……めちゃくちゃ嬉しいよ……」
 涙と一緒に、ぽろぽろと言葉が零れ落ちた。もう会えないはずの光輝に会えた。元気に笑ってくれている。私を喜ばせようとお土産を持ってきてくれた。十分すぎるくらい、幸せな夢だ。
 それと同時に、また一つ、後悔が増えた。どうして過去の私はこの幸せを、もっと嚙みしめなかったんだろう。この瞬間がどれだけ貴重なことかわかっていたら、あんな噓、つけるはずもないのに。
 ……全然、わかっていなかった。自分のことで精一杯で、先のことなんて、何も考えられなかった。
「どうしたん、いきなり……」
 目の前にいる光輝は、少しだけ困惑したような……ううん、照れたような表情をしている。正面切って感謝を伝えた私の言葉が、むずがゆく感じたのかもしれない。
「本音だよ。光輝に出会えて、一緒にいられてよかったって、心から思ってるから」
 涙ぐみながらでも、笑ってみせる。私にしては素直すぎるし大胆だ。わかっていてもするすると言葉が零れ落ちるのは、きっと『夢のなかだから』。これが現実だったら、絶対に口には出せないと思う。
 今度こそ本当に赤くなってしまった光輝は、目を伏せて頭をかいた。
「……ほんまどうしたん、いつもとちゃう感じでなんか調子くるうわ」
「そうかな?」
「うん」
 頷いた後で、「でも」と言って私をまっすぐ見つめ返してきた。
「おれも、いっしょやからうれしい。おれと友達になってくれて、ありがとうな、むつき」
 普通の男の子だったらたぶん、こんなにストレートな返事はくれないだろうなって、今なら思う。ちょっと照れながらでも、目を逸らさずに伝えてくれる誠実さが懐かしくて、胸が勝手にときめいた。
 本当に……光輝はこんなに小さな頃から変わらない。まっすぐな気持ちにまっすぐ返してくれる。噓のない眼差しが魅力的で。だからいつも周りには人が集まるし、みんなに好かれるんだろう。
 今日だって、たくさんの人が光輝を見送りに訪れていた。それはすべて、彼の人柄のなせる業だと思う。
 ふいに、遠くから夕方五時を告げる音楽が聞こえてきた。ハッとしたように光輝が時計を見て、ランドセルを引き寄せる。
「あ、もう帰らな。みなみが待ってるし」
「みなみちゃん?」
 みなみちゃんは光輝の妹だ。光輝の出した名前の候補は採用されなかったけれど、参考にはしてもらったんだって力説していた、あの。今日見た彼女は制服姿で、ずいぶん大きくなっていた。
「うん。もう二歳やし、だいぶしゃべるで。おれのこと『にーに』って呼んでくれるし」
「……かわいいね」
「うん。めっちゃかわいい」
 ほわっと、光輝の表情が崩れる。そんな顔で接してもらえるみなみちゃんはきっと、幸せだろう。
 きっと昔の私だったら、羨ましくてたまらなかったはず。小さな嫉妬が芽生えていたかもしれない。だって、意識しなくても心の底では思っていたもの。光輝に、一番に思われたいって。
 昔を思い出して複雑な思いの私に、ランドセルを背負った彼は向き直ると……すっと、手を伸ばしてくる。その手の小指が、しっかりと立っていた。
「じゃあまたな、むつき。明日はみなみと遊ぶ約束してるから、あさってまた来るわ」
 指切りの、約束。懐かしさにめまいがする。夢のなかだからって、こんなことまで再現されるなんて。
 光輝はいつも帰る間際に必ずこうして私と指切りをしてくれた。もう光輝はここに来てくれないんじゃないか。私の独りよがりなんじゃないか。そんな、たった一人の友達を失う怖さに怯える私の気持ちを知っているかのように、しっかりと指を絡ませて。
 病気に負けてしまうんじゃないか。光輝にはもう、二度と会えないんじゃないか。そんな不安を吹き飛ばすかのように、ぎゅっと強く、私の小指を握ってくれた。
「うん……また」
 恐るおそる、あの頃の感覚を思い出しながら手を伸ばす。しっかりと絡んだ指と指が、ぎゅっと、意志を持って結ばれる。
「「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます、ゆびきった」」
 恒例になった音頭を二人でとって、光輝はニッと笑った。
「じゃあまたあさってな!」
 そう言って、彼は元気よく手を振りながら病室を出て行った。

  *

 まだ幼い彼の笑顔は、大人に一歩近づいた頃の彼と同じように、私に安心をくれた。
 指切り拳万、噓ついたら針千本飲ます、指切った……こうして成長してから聞くと怖いくらいの約束の重みを、光輝は知ってか知らでか、必ず守ってくれていた。それはこの後もずっと。私が悲しむことのないように、心を配ってくれていた。
 私たちにとって、指切りの約束は絶対で、特別だった。
 そして彼は、言えないことはあったかもしれないけれど、噓だけはつかなかった。なのに高校三年生の冬、私は光輝にたった一度、噓をついた。何度謝っても足りないくらい、残酷な噓を。
 光輝が出て行った後の病室を驚くほど冷たく感じる。長い間忘れていた孤独と恐怖がぶり返してくるかのようだ。
 私はもう二十歳を迎える大人で、健康で何不自由なく暮らしていて、もう怖いものなんてないはずなのに。それでもこのしんとした場所にいると、心細くて死にそうになる。
 どうして今更こんなことを思うんだろう。実際、小学生の頃は……何もかも平気な顔をして、笑っていたはずなのに。
 ふと、ベッドサイドに目をやった。そこにはコップや日用品の他に、なんとなく見覚えのある本が何冊か積まれている。そのなかに……夢で見た『おまじないの本』があった。
「うそっ……!」
 反射的に手を伸ばし、その本をつかんだ。上に積み重なっていた本が崩れて落ちたけれど、気にせずに本を開く。すぐに折り目がついたページがあることに気がついた。心臓が早鐘を打つ。外れようがない予感を胸に、私はそのページを開いた。
『こんぺいとうのおまじない』
 ポップな書体のタイトルが目に飛び込んでくる。
「夢じゃ……なかったんだ……!」
 なぜかぼやけてきた視界のなかで、おまじないのやり方が書かれた文章を必死に読む。
『願いごとをしながら、金平糖を一日一粒食べる。毎日欠かさず、一年間以上続けること』
 今朝の夢と相違ない。やっぱり、という思いと、どうして? という気持ちが同時に湧き上がってきた。
 願いを叶えるには少なくとも一年かかる。なのにどうして、光輝は私に一週間分の、七粒しか送ってくれなかったんだろう?
 くらっと、まためまいがしてベッドに倒れ込んだ。体の疲労じゃなくて、別の何かが働いたみたいな……ふっと力が抜けてしまうような感じだった。
 白い天井を見上げてから、そっと目を閉じる。胸にはおまじないの本を抱いたままだ。本の重みを感じながら、抗えない瞼の重さに身を任せた。
 夢のなかなのに眠ってしまいそうなんて、変なの。
 そこまで考えて思わず漏らした笑み。それが引き金になったのか、私のすべてだったこの白い世界に、光輝という鮮やかな光が飛び込んできた時のことを、また、思い出した。

  *

「なあ、ちょっと聞いてくれへん?」
 そんな風に、初めて声をかけてもらったのは入院していた病院の待合室でのことだった。
 もう何度も読み返して内容を覚えてしまっている絵本を何気なく開いていた私の横に、彼はすとんと座った。そして私の返事も聞かずに、「もうすぐ妹が生まれんねん」と嬉しさを隠しきれない様子で打ち明けてきた。
 お母さんの検診に付き添ってこの病院に来たという彼は、まだ見ぬ妹への期待感を爆発させた。
「生まれたら抱っこさせてもらうねん、楽しみやなあ」
「そうなんだ……」
 足を軽くパタパタさせながら話す彼は、ずっと笑顔だった。興奮が私にまで伝わってくるみたいで、何だかドキドキしたのを覚えている。
 正直に言うと、きょうだいのいない私にとって話の内容はピンとこなかった。でも初対面で、しかも同世代の男の子がこんなにも幸せそうな顔を見せてくれて、私に対してまるで親しい友達かのように話しかけてくれることが単純に嬉しかった。病院にこもりきりの生活が続いていた私には、彼のすべてが新鮮に映った。
「名前もな、おれが考えたやつになるかもしれへんねん。すごいやろ?」
「う、うん……すごいね」
 それなのに私ときたら、うまく返事ができない。こんなことじゃ、つまんないやつだって思われてしまう。せっかく話しかけてもらったのに……。そんな風に思って、でも何を言っていいかわからなくて、歯痒かった。
 彼はそんな私に気づいているのかいないのか、キラキラした目で会話を続けた。
「やろ!? あー、妹ってどんなんやろ。クラスの奴に聞いても『全然かわいない』とか言うんやで。信じられへんわ。おれ、絶対かわいがるのに」
「クラスって……学校の?」
「そやで。さかき坂小。自分は……って、名前何やったっけ?」
「きたの……むつき。あなたは?」
 自分に対して壁を作らずに話しかけてくれる男の子の存在が、嬉しかった。だから必死に話を聞いて、一生懸命会話が続くように頑張った。
 今なら、変に無理して頑張らなくても大丈夫だったと思える。だって彼はきっと、相手が私でも私じゃなくても、きっとこうして分け隔てなく接してくれたと思うから。
「おれ? はやせこうき! むつきは、さかき坂小ちゃうん?」
「そうだけど……全然行けてないから」
「何年何組?」
「三年。二組だったと思う」
「マジで!? おれ三年一組やで。同い年やん」
「本当だ、すごいぐうぜんだね」
 話しているうちに、やっと緊張がほぐれて、少しだけ笑えるようになった。そんななか、彼が……光輝が何かに気がついたように「あれ?」と言った。
「自分、関西弁ちゃうん?」
「あっ……!」
 夢中になって、忘れていたんだ。この頃の私がうまく他の子たちの輪に入れなかった理由を。
 それが、言葉の違いだった。初めて行った学校で、緊張しながらもクラスの子たちと話していたら、近くにいた男子たちがいきなり爆笑して、『こいつのしゃべり方めっちゃ変やー!』なんてからかってきて。そこからみんなと違うことが恥ずかしくてたまらなくなった。その後も数回登校したけれど、誰にも話しかけることができなかった。話しかけられても言葉が気になって何も言えなくなってしまう私に、クラスメイトはわかりやすくよそよそしくなっていった。
 そんな、苦い思い出が瞬時に甦ってきて、恥ずかしさのあまり両手で口を覆って俯いた。
 きっと変だって思われた。もうダメだ。絶望的な気分だった私に、落ちてきたのは優しい声。
「かっこいいしゃべり方やなあ」
「え……?」
「めっちゃいいやん! 芸能人みたいや!」
 たぶん光輝にとっては、何気ない一言だったんだろうと思う。誰にでも優しくて公平だった彼からすれば、当然のリアクションだ。
 でも、私が受けた衝撃は、計り知れなかった。
 顔を上げて彼を見る。光輝は私を気遣って噓をついたわけじゃなくて、心からそう思っているとわかる笑顔で私を見つめていた。その眼差しの優しさに、頑なになっていた心がほどける。
 まだ幼い私には、難しいことはわからなかった。それでも、心からホッとした。そしてただただ嬉しかった。それが受け入れられたと実感してのことだと理解したのは、もっと後のことだ。
 たった一度、出会ったばかりの男の子に、褒められた。
 それだけなのに、ずっと凝り固まっていたコンプレックスがこんなにも簡単に……すうっと自然に消えていくなんて、思いもしなかった。
 光輝。私にとって、誰よりも何よりも、大切だった男の子。
 失った今だからこそ、余計に実感する。最初に出会った時からきっと、彼は私にとって特別だったんだと。

 みなみちゃんが生まれてから数日間、まるでそれが日課のように、私たちは待合室で話をしていた。実際は、私の方がこっそり光輝を待ち伏せしていたのだけれど。
「えっ、むつき友達おらんの?」
「そ、そんなはっきり言わないでよ!」
 子どもだからこその直接的なもの言いに、泣き出しそうになった。
「今は調子がいいからここまで来られるけど、それまではベッドから下りちゃダメって言われてたんだもん。こっちに来てすぐ入院になっちゃったし、病院からはもちろん出ちゃダメだし、学校もほとんど行けないし……友達つくるなんて無理だったんだもん」
 言い訳しながら口を尖らせる私に、光輝は言った。
「じゃあおれと友達になったらいいやん!」
「えっ」
 誰にも言われたことのない申し出に、私は固まるしかなかった。
「むつきは病院から出られへんのやろ? じゃあおれがむつきのとこ来たらいいだけやし。ここ、学校から帰るとちゅうやから全然いけるわ」
 昔、もっと小さい頃に東京で遊んでいた子たちは、お母さんに連れられて『また来るね』と言ってはくれても本当に来てくれることはなかった。『友達』といっても、そう深いものではなかったのかもしれない。
「友達になろ、むつき。おれじゃあかん?」
 この人は、どうだろう。
 みんなが気を遣って次の約束の噓をつく。でもこの人は、毎日のように待合室で私を見つけてくれる。声をかけてくれる。話してくれる。笑ってくれる。この人は……きっと、噓をつかない。
「……あかんく、ない」
 ようやく吐き出したのは、光輝の関西弁に影響された、変な答えだった。素直に『私も友達になりたい』って言えるような自分だったら苦労しない。
 それでも光輝は大きく息を吐き出して、「よかったあー」なんて本当にホッとしたような顔をしてくれた。
 光輝も緊張していたのかもしれない。それなのにあんな風に言ってくれた。体が弱くても、みんなと同じように遊べなくても、それでも友達になってくれるって。そんなことがあるなんて。
「あれ? むつき、泣いてる?」
「っ、……泣いて、ないもん……」
「ええー!? なんで泣くん、おれ何かした!?」
「何も……してない……っ、ぐすっ……」
「やっぱ泣いてるやんか!」
 焦っておたおたしているこの時の光輝は、私の涙の意味を知らない。
 ずっと欲しかった、友達。それが、こんな形で。いとも簡単に、彼は私の一番弱いところを包んでくれた。
 私はいつも不安だったんだ。病気について本当のことを言わない両親にも、義務みたいに来てくれた『友達』にも、かわいそうにって感じの目を向けてくる周囲にも。本当の気持ちなんて一度だって言えなかった。
 誰もいないところに逃げたいって思うことだってあった。でもできなかったのは、本当はまだ……きっと全然、何もかも諦めきれていなかったからだ。
 光輝と出会って友達になれたことで、初めて自分の素直な気持ちを、知ったんだ。


  *

続きは6月5日ごろ発売の『僕と君の最後の7日間』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
松崎真帆(まつさき・まほ)
大阪在住。好きなことは書くこと、飲むこと、食べること。広告制作会社に勤務しながら、小説を執筆。「溺れる獣と甘い罠」(主婦の友社)でデビュー。エブリスタにて活動中。

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