横浜湊高校を卒業し大学に進学したその夏、内田輝は、野沢温泉村にいた。
今年から、横浜湊は夏合宿を、長野県の北東部にある野沢温泉で行うことになった。
多忙な海老原先生の代わりに、卒業と同時に、今までお世話になっていた柳田さんからコーチを引き継いだ輝が、前乗りして体育館を管理している役場やお世話になる宿舎との細かな打ち合わせをするためだ。
同行者は、菱川真一さん。
同じく横浜湊のコーチで、輝よりは三学年上のバドミントン部の先輩にあたる。
輝が入部した時にはすでに卒業していたので、輝にとっては、先輩というより、頼もしくもあり、厳しくもあるコーチのイメージが強いが。
今まで横浜湊高校バドミントン部は、夏合宿を学校内の施設でやっていた。
しかし、年々、夏の暑さは厳しさを増し、猛暑がもはや定番になってきている。
他の部活も合宿を行うため、合宿の日程調整も困難をともなう。
そこで思い切って、少しでも涼しく合宿できる場所を、輝は春先から探していた。
その日も、後輩たちの練習を見た後、食堂を借りてパソコンで色々と候補地を調べていると、それをのぞき込んだ菱川さんがニッと笑って言った。
「野沢温泉にしない?」
「野沢温泉……なぜですか?」
「早教大さ、毎年そこなの。合宿所があるから。うちのOB連中くらいならいっしょに泊まれるし、宿代も浮くだろ? っていうか、俺と水嶋はついでに、いや、うまくやれば合同練習もできるじゃん? 最後の試合形式の練習あたりでさ」
輝はパソコンで野沢温泉を調べる。
体育館や学生の合宿に慣れた宿もたくさんありそうだ。
アクセスもそう悪くない。
「それにさ、来年のインハイって長野だよね? 気候や環境に慣れておくのも悪くないんじゃない?」
「確かに。それは、ありがたいですね」
「だろ?」
「野沢温泉で、今から予約できる宿があるかどうか、体育館の使用が可能かどうか確認してみます」
「体育館は、最悪早教大と重なってもいいさ。格上との合同合宿、いいだろ? 宿は、俺らが昼の弁当をよく頼んでいるところが民宿もやってるから、部員たちにはそこどうかな?」
宿の名前も教えてもらい、調べる。
評判はいい。それにとてもリーズナブルだ。
「善は急げ。……電話してみたら?」
自分のチーム合宿と横浜湊でのコーチ業をスムーズにこなしたい菱川さんにうまく丸め込まれた感はあるが、海老原先生の了解をとり、輝は、野沢温泉での夏合宿の準備を進めた。
宿はすぐに確保できた。
体育館は、早教大の前二日が空いていたのでそこを押さえ、残りの二日は、菱川さんのお言葉に甘え、早教大との合同合宿となった。
そして今日、現地に前乗りした。
菱川さんと、部員たちが泊まる宿舎に二泊し、みんながやってきた後は、人数の都合もあり、輝は、早教大の合宿所にお世話になる予定だ。
宿の女将さんと朝昼晩の食事の内容を打ち合わせたり、部屋割りやお風呂、洗濯の時間割なども、事前に決めてきたもので大丈夫なのかチェックしたりする。
緊急時の病院の場所や、車の手配なども確認する。
体育館までの道も歩く。
部員たちは、朝夕ここをランニングしていくはずだ。
結構な急坂になっているので、帰りは疲れた体に厳しい道のりになるかもしれない。
「こんくらいやれなきゃ、合宿に来る意味ねえだろ」
菱川さんは笑うが、同じ口で、「ちょい休憩しようぜ」と坂道の途中でおしゃれなカフェに入っていくのはどうなんだろうか、と輝は思う。
しかしまあ、輝も喉が渇いていたので、背中に続く。
「輝さあ、お前……凄いよな」
水を飲みながら菱川さんが言う。
「は? え? なにがですか?」
「しんどかったろ? 高校で初めてラケット握って、あの練習に耐え抜いて、部長になって。……とんでもないプレッシャーの中で連覇とか。ある意味、初優勝より連覇の方が圧強いしな」
「まあ、そうですね」
「その上、天下の東大に一発合格。凄い以外に言葉が見つからねえし」
「ありがとうございます。でも、ちっとも凄くなんかないですよ。……どれもこれも、支えてくれる人がいたからだし。……でも、まあしんどかったですね。やっぱり」
飲み物が運ばれてきた。
「アイスコーヒーは?」
「あ、俺です」
右手を軽く上げてから菱川さんが立ち上がる。
「早教大四年バドミントン部元部長、菱川です」
そういえば、菱川さんは、部長を引き継いだばかりだった。社会人チームへの入部が決まっているので、この合宿を最後に、そちらの練習に参加すると聞いている。
「えっ。あ、はい」
スタッフさんは驚きながらも、菱川さんの席にアイスコーヒーを置く。
そして、レモネードを輝の前に。
「ちょっと待った!」
「は?」「え?」
輝とスタッフさんの声が重なる。
「輝も、やれ。自己紹介」
「なんでですか? こちらにも迷惑ですよ」
「練習、練習。輝ちょいカタイじゃん。緩いところもあった方が、コーチとして幅ができるしな」
練習……これが? 意味がわからない。けどやらないと収まらないんだろうな。
仕方なく、輝は立ち上がる。
「大学一年生。内田です。バドミントンやってます」
スタッフさんは苦笑いだ。輝は申し訳なくて、頭を下げる。
いえいえ、と言いながら、スタッフさんは少し早足でカウンターに戻っていった。
「これ、俺、周さん、お前の兄さんに能見台のカフェでやらされたんだ……」
菱川さんが遠い目になる。
「……それは申し訳なかったです」
「周さん、元気かな? 今カナダだっけ?」
「はい。元気に楽しくやってるみたいです」
「あの人、いっつも楽しそうにあれこれ企んでて。まあ俺もよく引っ張り込まれたんだけど。……人たらしだよね、あの人」
「そうですね。でも、勘弁して欲しい時もありますよね」
輝が言うと、菱川さんは「だよね」と言って、ストローに口をつける。
輝もレモネードを飲む。
冷たさに酸味と苦みが混じり合い、喉をスッと通り過ぎる。
なんともいえない感情が湧き上がってくる。
カフェの壁には、美しい信州の山々の写真や絵画が飾ってある。それを何とはなしに眺めていたからかもしれない。
高い山を遠目に見ているのはこんなに美しく心が癒されるのに。……いざ登るとなると、厳しく苦しい道のりが延々と続いていく。
だけど、登り切った者だけが見られる景色は、この写真や絵に負けないほどの煌めきがある。
そう、僕はそれを見ることができたんだ。あの仲間たちといっしょに。
輝は思い返す、あの永遠とも感じた、短い輝かしい日々を。
*
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小瀬木麻美
京都府出身。奈良女子大学卒業。『何度でも君に温かいココアを』(ポプラ社)でデビュー。人気を博した『ラブオールプレー』シリーズが好評発売中。