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街に躍ねる

 左手に書かれた「国語びん」に気づいたとき、ぼくは商店街を走っていた。
 一瞬スピードをゆるめたが、家に戻るほどの時間もない。それにいまのところ、一度も信号に引っかかることなくここまで来ているのに、走りを止めるのはとてももったいない。ぼくはいま、稲荷いなり通りマラソンの新記録を狙っているのだ。稲荷通りマラソンとは、いま走っているこの「稲荷通り商店街」をルートとする、ぼくの家から学校までのマラソンだ。マラソンと言ってもたった二キロくらいなのだが、参加者はぼくだけなので、なんて呼ぼうが勝手である。家から三つの信号をクリアすると稲荷通り以降信号はないので、かなりの好記録が狙える
 タイムを確認しようと左手を見たとき、「国語びん」に気づいた。親指と人差し指の間の水かきみたいな部分に赤い水性ペンで書いた「国語びん」は、薄くなってはいるけれど、しっかりと皮膚にしみこんでにじんでいる。つぎの授業で必ず使うと言われた国語便覧、兄ちゃんが読むだろうと家に置きっぱなしにしている国語便覧を、ぼくはぜったいに忘れないようにとペンで書いたのだ。「手にペンで文字をかくと、癌になるらしいよ」という不吉な噂を聞いていたが、心を鬼にして書いた。文字が消えないように、昨日のお風呂ではそこだけ避けて洗い、湯船にも左手だけはいれなかった。忘れたとなると、残っている文字をみるだけで腹が立ってくる。めんどくさがって「びん」でやめずに「びんらん」まで書くべきだった。
 ランドセルがズシャズシャと重たく鳴る。いくら国語便覧を忘れたところで、ぼくのランドセルには教科書三冊にノート三冊、算数の問題集、理科の資料集と実験ファイル、とすでに九冊入っている。きょうは国語、理科、算数、算数、という地獄の時間割なのだ。時間割プリントが配られたときは、さすがにプリントのミスなのかと思った。ぼくは数多くある授業の中で国語と理科と算数だけが嫌いなのだ。だから少なくとも四時間目まである一日の授業の中に、ひとつはすきな教科が入る計算だった。
 プリントを見たとき、ぼくはギリギリまで先生に間違いがあることを指摘しようかと迷った。プリントミスを発見すると、その瞬間だけ先生より頭がいい存在になれる。それはとっても気持ちのいい瞬間である。しかし先生はプリントに書いてある時間割と同じものをわざわざ黒板にかいて、
「半年後には六年生になるみなさんに、たくさん勉強してもらおうと思う」と怒っているみたいな表情で言った。ぼくは指摘しなくて良かったと安心すると同時に、ひとつも面白くない時間割にため息をついた。周りを見回したが、この算数二連続に気づいている人はいなかった。ぼくはバレないように先生をちらちらと睨んだ。先生は勉強しなくていいから、そんな簡単につまらない時間割を作れるんだ。
 前から風が吹いて、朝のにおいがした。ぼくはしかたなく「びん」のことは考えないことにして、このにおいに触れた。朝のにおいは、とうめいだ。でもそこにしっかり「朝のにおい」というものがある。ぼくはこのにおいが好きだ。敷いたばかりの布団のようにぱりっとしていて、まだ誰にもなじんでいない。もっと多く触れるために両手を広げて走る。稲荷通りのお店はほとんどが九時オープンなので、まだ人通りが少ない。それにこの時間の商店街は、みんなが駅に向かって同じ方向に歩いているので走りやすい。
 両手を広げるぼくに向かって、キャンキャンと犬がほえた。チワワだろうか。ぼくはあまり犬には興味がないが、寒くもないのに犬に服を着させるのには反対だ。きょうは秋にしては暖かい日なのに、モコモコのかぼちゃのような服を着ている。飼い主のおばちゃんが「ミーちゃん、こら」とチワワに向かって言った。きっとミーちゃんはぼくが気持ちよさそうに走っているのをうらやましく思っているのだろう。暑いことも伝えられないなんて、かわいそうだ。
 前に同じクラスのシンジュが見える。いつも石を蹴りながら、石の飛ぶ方向に左右ぎざぎざに歩くので、遠くからでもよくわかる。
「よ」と言ってぼくはシンジュを走ってぬきさる。
「お」
 シンジュは蹴っていた石をパスするようにぼくの走る方向に飛ばした。ちょうどぼくの数歩先にその石は飛んできた。しかしぼくはいま、こう見えて家から学校までの記録を狙っているのだ。国語便覧も犠牲にして。だから石を蹴っている場合じゃない。ぼくはシンジュの石をあからさまに避けて、そのまま走りつづけた。シンジュには悪いけど、あとで説明すればいいや。
 校門につくと同時に、腕時計のストップウォッチを止めると、8分29秒だった。新記録だ。国語便覧と石を無視したかいがある。
「あれ、あき
 校門で待っているとシンジュがやってきた。ぼくが無視した石を手に持っていて、校門の横に隠すように置いた。
「新記録でた」
 ぼくは腕時計をシンジュにみせる。
「だから石よけたのかあ」シンジュは腕時計にぐっと顔をよせて言った。
「あ、ごめん。パスしたよね」
「そうだよ、見失うとこだった。けっこういい石なんだぜ、あれ」シンジュは、手でキツネをつくって、そいつに言わせた。
「ごめんよ」ぼくも両手でカエルをつくってあやまった。カエルをつくるまでに少し時間がかかって、シンジュは笑った。ぼくも一緒に笑ったけれど、石をよけるだけでなくて、振り返ってぺこりとでもすればよかったなと、さっきのことを反省した。
「晶、きょうも帰り、闘って帰ろうぜ」
「いいよ、でもきょう、荷物重いね」ズシャ、とぼくはランドセルを鳴らして言う。
「おれね、教科書ぜんぶ学校に置いてってる」
「え、隠すとこある? 先生すぐチェックするじゃん」
「まずお道具箱の下だろ、あとロッカーの給食袋の中と、体操着袋の中」
 教室に着くと、シンジュは「ほら」と隠していた教科書を見せてくれた。丸まった教科書が給食袋と体操着袋から一冊ずつでてきた。
「すげえ」
 シンジュは丸まるのを利用して教科書を机に立てて授業を受けていた。見にくそうではあったが、そのぶん机を広く使えている。ぼくもとなりの人に見せてもらっている国語便覧のはじを持ち上げて重さを量りながら、つぎからは学校に置いていこうかと考える。ぼくたちの教科書でいちばん分厚い国語便覧は四年生のときに配られたもので、「六年生まで使うからなくさないように」と言われている。三年分つまっているだけあって、とても重い。きょうの新記録は国語便覧を忘れたおかげも少しあるのかもしれない。
「なに、裏みたいの?」
 となりの席のごんちゃんがひそひそと言う。
「あ、ごめん、大丈夫」
坪内つぼうちくんが忘れ物なんて、めずらしいね」
「そうかな」
「うん。てゆか便覧、持って帰ってんの?」
「え、権ちゃんも置いてってるの?」
「当たり前じゃん」
「そうなの」
 権ちゃんは「当たり前」を使うのが好きだ。給食でぼくの苦手な牛乳プリンがでたとき、「食べる?」とたずねると「当たり前じゃん」と言って二口で食べたし、ぼくが女子の中で流行っている交換日記のメンバーに無理やり入れさせられたときは、「一日で次の人に回すのが、当たり前だから」とぼくに注意した。結局交換日記をぼくは三日かけて回し、次のターンでは回すこともできずにどこかになくしてしまった。
「でも毎回便覧持って帰るなんて、お勉強、すきなのね」
 権ちゃんは貴族みたいな口調でそう言った。
「まあね」
 ぼくは権ちゃんの「お勉強」という言い方が少し気になったし、お勉強など好きでもなんでもないが、それについては何も言わなかった。相手につっかかっても争いが生まれるだけだと、兄ちゃんに教えてもらったからだ。
 とは言いつつぼくの兄ちゃんは無口すぎると思う。ぼくに対してはぺらぺらしゃべるのだが、たとえばママに対してはほとんど何も言わないし、大家さんに会ったときなんてぶっきらぼうすぎて睨まれていた。ぼくに人との関わり方を教えるくらいなのだから、頭ではいろいろわかっているはずなのに、どうして実行しないのかはわからない。でも代わりにぼくの兄ちゃんは物知りで、とても絵がうまい。ぼくは兄ちゃんの知識も絵も好きで、国語便覧を持って帰っているのもそれが関係している。

北原きたはら白秋はくしゅうっていうのはいい名前だよな」
 おとといかその前の日、暇つぶしにぼくの国語便覧をみていた兄ちゃんが、北原さんらしき人の絵を描きながら言った。
「その人、きいたことある」
「たぶん授業でやったんだろ」
「なんの人?」
「あめんぼ あかいな あいうえおの人」
「はあん」
 ぼくは続きを言おうとしたが出てこなかった。なんとかなんとか、かきくけこ、の人。
「うきもに こえびも およいでる」兄ちゃんがそう言ったが、ぼくは何を言っているかわからなくて無視した。
「なんでいい名前なの?」
「白秋って名前は、五行思想からとってるんだろ」
「なにそれ」
「中国の昔の思想」
「どんな思想?」
「それは自分で調べろ」
「ええ、わかんないよ、ぼく」
「占いみたいなやつだよ。そうじゃなくて俺が言いたいのは、芥川龍之介の龍之介とは違って、白秋のプライベートを知らなくても、五行思想から名前つけたんだろうなーって予想できるだろ?」
「できないよ、ぼく五行わかんないから」
「白と秋がでてくるんだよ」
「ふうん。でも、龍之介はかっこいいからつけたんじゃない?」
「まあ、そうかもな」
「夏目漱石は、石がすきなのかも。ぼくも結晶の晶だから、気持ちわかる」
「そうだな。じゃあ、白秋のよさは忘れてくれ」
「ごめんごめん、調べるよ」
 パソコンで意味を調べても、兄ちゃんが言っていることはよくわからなかった。はてなをたくさん連れて兄ちゃんの部屋に戻ると、兄ちゃんは白秋らしき人のとなりに絵を描いて説明してくれた。ぼくはなんとなくだけど、方角の西や、色の白、季節の秋が同じグループに属しているのが五行思想、というとこまでわかった。ちゃんとわかったことは、方角にそれぞれ神様がいて、西の神様は白虎だということだ。
 白虎はかっこよかった。東の神様の青龍もかっこよかったが、白虎はもっとかっこいい。東西南北の神様の中でいちばん強そうだし、強さの中に謙虚さがあるというか、むやみに闘いをしなさそうな雰囲気さえある。第一、ホワイトタイガーはぼくのいちばん好きな動物だ。このグループからとった白秋は、たしかにいい名前ということになる。ぼくは便覧の北原白秋のページに折り目をつけた。ぼくがいまほかに折り目をつけていたのは、ほんとうに小さく「坪内つぼうち逍遥しょうよう」と書かれたページだけだった。これは家族以外の「坪内」を発見した興奮でつい折ってしまっただけなので、国語便覧の内容に興味をもってつけた折り目は、今回がはじめてだった。
 その翌日、兄ちゃんの絵を見せながら、東西南北に神が存在することをシンジュに説明した。ぼくは白虎にある模様みたいに、黒い三本のラインが入った服を選んで着ていた。シンジュは青龍のほうが強いと言って、それから西の神様と東の神様で闘いながら下校するのがぼくたちの流行りになった。空中戦では青龍が勝ったが(白虎は電気をためないと飛べない性質なので、長期戦になると落ちてしまう)、地上戦は白虎の圧勝で(青龍は地上を移動するスピードがとても遅いのだ)、いま一勝一敗だ。

 久々に国語便覧を使った授業の後、ぼくたちは約束通り闘いながら帰った。ぼくは少しでも荷物を軽くするため、持ってきたノート三冊をお道具箱の下に置いていった。今回は地上戦だけど青龍が勝った。たぶん次は空中戦でもぼくに勝たせてくれるのだろう。闘い終わるとシンジュはお腹がすいたと言って商店街にあるお菓子屋に入った。ぼくはつられてお菓子を買わないように、ポケットに手をつっこんで店に入った。

  *

「いまね、オカみちに寄ってきたんだけど」
 学校から帰るとすぐ、兄ちゃんの部屋に入るのはぼくのルーティンだ。机にむかってスケッチブックに絵を描く兄ちゃんは、ぼくが話しかけてはじめてぼくの存在に気づいたようだった。
 スケッチブックは、ボールペンや鉛筆でいろんな絵がページいっぱいに描かれていて、少し顔を離すと絨毯の模様のように複雑なひとつの記号にみえる。昼は日に日に短くなっているけれど、まだ窓からはあたたかい日が差していて、兄ちゃんの赤っぽい茶髪は光が当たるところだけ明るくなっていた。
「オカみち?」
「あれだよ。お菓子のみちしげ。稲荷通りのいちばん端っこにあるお菓子屋」
「俺らのときの略は、オカしげだった」
「それだと、おかしい、みたいじゃないか」
「だからそう呼んでた」
 兄ちゃんはぼくと話しながら、空白のページを探しはじめた。パラパラと何枚もスケッチブックをめくる。たぶん新しく絵を描こうとしてるのだろう。いつもテキトーに開いたページで描きはじめる兄ちゃんのスケッチブックは、どこに空白があるか、すぐにはわからない。何枚もめくっているうちに、小さな風がおきた。その風でぼくの前髪は少し揺れ、鼻には油絵具と木の匂いが届く。
 兄ちゃんは、本格的に絵を描いている。本格的というのは、プロとして仕事をしているというわけではなく、美術室にしかないような絵の道具を使って描いているということ。ほかにもぼくが持ってるHBや2B以外の鉛筆があって、しかもカッターで鉛筆を削るから机には厚みのあるカスが散らばっている。前にぼくは4Bの鉛筆を借りたことがあった。それを使って漢字の書きとりの宿題をしたら、右手の横のところが真っ黒になった。勉強したしるしが残ってとても満足だったが、ノートもかなり汚れてしまったので、それからは使ってない。
「なんにも買わないつもりだったんだけど、笛ラムネ買ったのね」
「うん」
「あ、そうだ兄ちゃん、ぼくの国語便覧もってる?」
「え?」
 兄ちゃんはぼくのほうを見向きもせず、見つけたスペースにオカみちの絵を描きはじめた。
「この前五行のやつ教えてくれたとき、読んでたやつ」
「あー、あのへんかも」
 兄ちゃんが指さした本棚に、ぼくの国語便覧は堂々とあった。草花の図鑑と「アンリ・ルソー」と書かれた本の間に挟まれて、かなり馴染んでいる。ぼくはとりあえず二センチくらい国語便覧を手前に出しておいた。
 兄ちゃんの描くオカみちは、すぐに形になっていった。「駄菓子」の「駄」という大きな字と、「みちしげ」の文字、それから電話番号。ぼくがさっき見てきた看板そのものだ。稲荷通り商店街でいちばん古いと言われているオカみちは、看板の下に黄ばんだ日よけのテントがついていて、そっちには手書きで「みちしげ」と書かれている。ヘビみたいな下手な字だから、ぼくより年下の子どもが書いたのかと思っていたが、店主のてる子さんが自分で書いたらしい。
 てる子さんは、なんでも自分で作ってしまう。お菓子の入れ物だって全部手作りの段ボールだし、値札もみんな手書きだ。値札には金額だけでなく、お菓子の特徴も書かれている。ぼくがさっき買った笛ラムネは「笛ラムネ 55円 鳴(な)ります」だ。
 兄ちゃんの絵には日よけテントの「みちしげ」もちゃんと描いてあった。兄ちゃんがスケッチブックに描く絵のほとんどは、図鑑にある写真や撮ってきた風景の写真、置物のデッサンだった。ぼくにはまったく区別がつかないけれど確実に名前があるだろう草や、ぼくが日光修学旅行のお土産であげた「見ざる」の置物も描かれている。ちなみに「言わざる」はママ、「聞かざる」は父ちゃんにあげた。もともと三個セットだったのをばらしてあげた。予算的にそうとしかできなかったのだ。見えるところに飾ってくれているのは兄ちゃんだけなのを考えると、全部兄ちゃんにあげればよかったと今では思う。
「それで、笛ラムネを買った話は?」
「ああ、買ったのはそれだけなんだけどね、お店を出ようとしたら、入口にいた知らないおじさんに、ランドセルのまま寄り道するんじゃない! って怒られたんだ。急にだよ」
「まぁ、言いたいことはわかる」
「でも、校則でそんなこと書いてないし、あとてる子さんは怒ったこと、ないじゃん」
「そうなんだ」
「うん。言わない。でね、そのおじさん、カバンも持ってないのに、手ににんじんのお菓子だけ持ってたんだ。あるだろ、あの、にんじんの形でお米みたいなのが入ってるお菓子。ぼくはあんまり食べないんだけど。で、なんかそれがすごい怖くて、ぼく、シンジュと走って逃げた」
「ふうん」
 兄ちゃんはそれだけ言った。もっと、「怖かったね」とか「散々だったね」という相づちがあればいいんだけど、兄ちゃんはそういうことを言わない。代わりにお店の横に、にんじんの絵を描いた。
「笛ラムネを買ったあとでよかったよ。おじさん、にんじん握りつぶしてたけど、買ったあとなのかなぁ。心配になってきた」
「にんじんのポン菓子を、茶碗にいれて食べたことはある?」
「ポン菓子?」
「その米みたいなお菓子を、ポン菓子と呼ぶ」
「ふうん。ないよ」
「あれは茶碗にいれて食べるとおいしいんだ」
「そうなの?」
「ときどきそれを、平たいお皿にしてピラフに見立ててもいい」
「へぇ」
「豪華に、スプーン使って食べるんだ。お惣菜をパックのまま食べるより、お皿に移してから食べるほうがおいしく思えるのと同じだ」
 たしかにちょっと試してみる価値はあった。てる子さんの説明だと「にんじん 35円 モソモソぽりぽり」だから全然おいしそうに思えないのだ。
「今度やってみる。あと、そうだ。きょう8分29秒だった」
 ぼくは止めたままにした腕時計のストップウォッチを見せた。
「なに?」
「家から学校まで」
「ほお」
 兄ちゃんは「はやい」とつぶやいてまた絵のつづきを描いた。満足したぼくはポケットにいれていた笛ラムネをくわえ、兄ちゃんの部屋を出た。ぷぅーと笛を吹く。ぼくが吹く笛の音はなんだかいつも鈍い。
「あー、またごはん食べられなくなる!」
 忙しそうな音を立ててママが帰ってきた。笛ラムネのどこが腹の足しになるというのだろう。そもそもいつもそうやって怒られるから、オカみちでいちばんお腹にたまらないものを選んだのだ。
「あれ? 洗濯物干してない! とおるどこ?」
「部屋ー」
「達! 洗濯物は!」
 ママはキーキー言ってないのに、言っているみたいに聞こえる。たしかに今朝、ママは兄ちゃんに洗濯物を干すように頼んでいたが、干された形跡はない。んもう、なんでさあ、とぶつぶつ言いながらもママは録画していた朝ドラを再生しはじめた。ママは帰ってきてすぐ、十五分だけ朝ドラを観ながら休んで、それから夜ごはんを作る。いつも朝ドラが始まる前に仕事に出なきゃいけないママは、帰ってきてからのこの時間をいちばん楽しみにしていて、ぼくもこの十五分間はほとんど話しかけない。はあ、もう、いつも、とぶつぶつ言いながら、急いで沸かした白湯を片手に観ている。
 こういうふうにママが兄ちゃんに対して怒ることは、よくある。畳んだ洗濯物をいつまでたっても自分の部屋に持っていかないとか、お風呂が最後だったのに栓を抜いていないとか。ぼくはママが怒らないように、気づいたところは兄ちゃんの代わりにやってあげることもある。まあでも、完全に兄ちゃんが悪いのは確かだけど、毎回期待するママもちょっといけない、と思う。  


  *

続きは発売中の『街に躍ねる』で、ぜひお楽しみください !

著者プロフィール
川上 佐都(かわかみ・さと)
今作で第11回ポプラ社小説新人賞特別賞を受賞しデビュー。

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