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みつばの郵便屋さん

 春一番に飛ばされたものは

 本田さん。斎藤さん。水谷さん。小川さん。千葉さん。佐々木さん。中野さん。東さん。
 左に曲がって。
 若林さん。多田さん。児玉さん。長谷川さん。武藤さん。島さん。河合さん。大塚さん。
 配りつつ、走っている。赤と白、ツートンカラーのバイクで。強い風のなかを。
 立春後にその年初めて吹く風を春一番と言う。そんなことは、この仕事に就いていなければ、今も知らずにいただろう。別に季節や天気に興味があるわけではない。気にせざるを得ないのだ。何よりもまず空模様が、その日の仕事の大変さを決めるので。
 雨風はぼくらの敵だ。雨は郵便物を濡らすし、風は郵便物を飛ばす。また雨は路面を滑りやすくするし、風はバイクそのものをあおる。
 ともかく、ぼくはその強い風のなかを往く。二月下旬。まだまだ寒い。バイクライダーには真冬も同然だ。でも今日のこの風には、春の息吹ともとれそうな、かすかな温もりもある。そのためか、強く吹いてはいるものの、吹きすさぶというほどの荒々しさはない。これが春一番なのかどうかは知らないが、できればそうであってほしい。寒いのは、もういい。
 幸い、今日の配達区は住宅地のみつばで、いちどきにそう長く走ることもないから、寒さはさほどこたえない。ただ、土曜日なので、子どもたちには充分気をつけなければいけない。幼稚園児、小学生に中学生。彼らの辞書に『交通ルール』の文字はないのだ。
 移動の際に広い国道や県道でダンプやトラックにはねられるのもこわいが、配達の際に狭い道でこちらがはねてしまうのはもっとこわい。なかでも子どもの自転車。特にこんな住宅地はあぶない。左側通行の意識がないうえに恐怖心もない彼らは、曲がり角でも平気で突っこんでくるから、対処のしようがないのだ。だからぼくは絶対にバイクのスピードを出さないし、発進時や右左折時の安全確認も徹底する。
 だがそれでも、リスクをゼロにはできない。
 その人は、角を曲がって突っこんできた。ケータイの画面を見ていたため、ぼくに気づくのが遅れた。おそらくはぼくよりいくつか上。二十代後半、ジャケットにジーンズの男性。ぼくは時速十五キロぐらいで左側を走っていて、男性も同じ側を走っていた。急ブレーキをかけてバイクを停める。できることはそれだけで、あとは運を天に、ではなく男性に任せるしかなかった。
「わっ」と言い、男性は素早く左にステップを踏んだ。二、三歩進んだところでバランスを崩し、路面に片手を着く。が、どうにか体勢を立て直す。まさに、ぎりぎりセーフ。
「だいじょうぶですか?」と声をかけ、すぐにバイクから降りた。
「あ、平気、平気。申し訳ない。時間を見てたもんだから」
「おケガはありませんか?」
「うん。どこもぶつけてないし」
「いつも気をつけてはいるんですが」
「あ、いやいや。僕が前を見てなかっただけだから。で、あの、ごめん。ちょっと急ぐんだわ。次の電車に乗れないとマズいんで」
「あぁ、はい」
「ほんと、ひやっとさせて申し訳ない。じゃ」
 そして男性はみつば駅のほうへと走り去った。
 いやぁ。あぶなかった。こういうのは心臓によくない。だが年に一、二度は、やはりこんなことがある。どんなに気をつけていても、あるのだ。でも気をつけているから、これですむ。いやぁ。よかった。
 気持ちを落ちつけるためにゆっくりと深呼吸をし、バイクに乗って、配達を再開する。
 ほぼ均一の広さの土地に建てられた、和洋様々な住宅。といっても、瓦屋根が二割でそれ以外が八割だから、まあ、外見的にはほとんどが洋。ぼくはそれぞれの家の郵便受けに郵便物を入れていく。配達区の番地と名字は、すべて頭に入っている。
 まっすぐな道路で区画整理された住宅地の配達は単調だ。軒数が多いために、配達物数も多い。朝は、前の配達カバンにつめたハガキや封書などの定形郵便物の束と、後ろのキャリーボックスに積んだ大型の定形外郵便物とで、二人乗りをしているように感じられるほどバイクが重くなる。およそ五時間をかけてそのバイクを軽くしていくのが、ぼくの一日の仕事だ。
 このみつばは埋立地で、マンションも多いが、それらは三丁目と四丁目に集中している。ぼくがもつ二丁目までの一区には一つしかない。A‌B二棟建てのものが一つだ。でもアパートは六つある。
 マンションは、戸数にともなって物数も多いが、一階の集合ポストにまとめて配れるので、手間はかからない。アパートは、二階まで上らなければならないから、規模のわりに大変だ。四室ある二階にセールのお知らせハガキが一枚、などというときは、ツイてない、とつい思う。
 そして今日、二丁目五番地にあるカーサみつばの二階には、郵便物が一通もなかった。一階には一通あったが、二階はゼロだ。ツイている。
 スレート葺きの屋根と玄関のドアはダークグレーで、外壁はライトグレー。落ちついた色合いのカーサみつばは、いわゆるワンルームのアパートだ。一階二階に各四室で、計八室。二階の角部屋の二室にのみ、大きな出窓が付いている。
 一階への一通を玄関のドアポストに入れると、ぼくはすぐさまバイクに乗ってカーサみつばを離れ、続く戸建ての数軒をまわった。それから角を二度曲がって、また数軒。
 その後、カーサみつばの裏を一気に通りすぎようとしたとき、視界の隅で、何かが動いた。左上方。気づかなくてもおかしくはなかったが、気づいたからには目が追った。
 それはひらりと宙を舞い、アパートの敷地と道路とを区切る高さ一メートル五十センチほどの生け垣に落ちた。アパートの二階、こちらから見ると一番右の角部屋となる二〇一号室のベランダから風で飛ばされた洗たく物だった。
 五メートルほど先で、ぼくはブレーキをかけてバイクを停めた。大して考えずにその狭い道でUターンをし、洗たく物の落下点に戻る。
 そして、後悔した。その洗たく物は、明らかに女性の下着だったのだ。しかも、上に着けるほうではなく、下に穿くほう。色は薄いピンク。それがまた、陳列でもされているかのように、はっきりそうとわかる形で、生け垣の枝に引っかかっている。通行人は誰もが気づくだろうし、容易に手にもとれるだろう。
 これはちょっとよくないな、と思った。洗たく物の所有者にとってだけでなく、ぼくにとっても、よくない。気づかなければよかった。ターンもしなければよかった。だがもう遅い。ぼくは気づいてしまったし、ターンもしてしまったのだ。もちろん、再度ターンをしてここから走り去ることもできる。でも自分がそうしないことはわかっていた。
 ぼくは考えた。まずは、これを拾って届けるべきだろうか、と。
 自分が手を触れるべきでは、ないような気がした。今のこの場面を、どこかの窓から誰かに見られているかもしれない。その誰かは、このあとぼくがアパートの表にまわって住人にそれを届けるところまでは見てくれないかもしれない。というか、たぶん、見えない。そうなれば、ぼくは下着泥棒だ。とてもわかりやすい。ええ、見ましたよ! 犯人は郵便配達員です!
 と、まあ、そこまでは考えすぎにしても、仮にぼくが拾って届けた場合、二〇一号室の住人が不在であったときに困る。またここに戻り、生け垣の同じ位置にこれを置く? あるいは、ドアポストに入れてくる? どちらもマズいだろう。特に後者は、帰宅した住人からすればかなり気味の悪いことになるはずだ。ならば、事情を記したメモを一緒に入れておくか。いや、それでも気味は悪いだろう。無記名にしても、郵便配達員の名が記されていたにしても。自分の下着に手を触れられたことに変わりはないのだから。
 となると、選択肢は一つしかない。現物は持たずに、風で飛ばされたことをただ伝えにいく。住人が不在であったときは、しかたないがそのまま去る。おそらくはそれがベストだ。そうと決まれば、一刻も早く動かなければならない。飛ばされた下着を前にこうして考えこんでいることが、もうすでに不審と言えば不審なので。
 カーサみつばの二〇一号室には、二、三度、書留を配達したことがある。ワンルームのアパートの住人にしては珍しく、いつも在宅していた。ということは、逆に土曜日は不在の可能性もあるが、行ってみる価値がないこともないだろう。
 あまり時間をとられてもいけないので、ぼくはさっそくその案を実行した。アパートの表にまわり、四台分の駐車スペースのわきにバイクを駐める。建物の正面に横向きに付けられている鉄製の階段を静かに、でも急いで駆け上り、二〇一号室のインタホンのボタンを押す。
 ウィンウォ~ン。
「はい」
「あの、郵便配達の者ですけど」
 その時点で「あ、はい」と言われ、通話を打ち切られた。
 数秒後にドアが開き、二十代半ばと思われる女性が顔を出す。カーサみつば二〇一号室、三好たまきさん。ショートの黒髪に縁なしメガネ。予想どおり、手にはハンコを持っている。郵便受けに入りきらなかった定形外を手渡しするときなんかによく起こる勘ちがいだ。
「まぎらわしくてすいません。配達ではないんですよ」とまずは早口で説明する。「今日は郵便物はありません」
「はぁ」
 三好たまきさんが、ぼくの胸のあたりから顔へと視線を上げる。次いで、はっとする。ぼくにしてみれば、慣れっこになった反応だ。
「えーと、洗たく物が、飛ばされてしまったみたいですよ」
「洗たく物」
「ええ。裏の道を走ってて、見えたんですよ。たぶん、こちらのベランダから飛ばされたんじゃないかと」
 現物を持ってこなくてよかった。素直にそう思った。今ここでぼくがあれを彼女に手渡しするのは、お互いに、ちょっと無理だ。無下にはできないから、彼女も受けとるしかない。だがやはりいい気持ちはしないだろう。受けとったそれをそのまま洗たく機へと投げこむにちがいない。でなければ、裁ちバサミで切り刻んで捨ててしまうにちがいない。まあ、持ってこられなくても、見られたと思うだけで、そうしてしまうのかもしれないが。
「裏に生け垣がありますよね? 道路との境に」
「ええ。ありますね」
「そこに引っかかってます。今落ちたばかりだから、まだあると思います。ただ、風がすごく強いんで、すぐに拾ったほうがいいかもしれません」
「あぁ、そうですか。わかりました」
「余計なこととは思ったんですが、飛ばされるのを見てしまったんで、一応、お知らせしておこうかと。ではこれで失礼します」
「はぁ。どうも」
 彼女と二人でそこへ向かう形にならないよう、ぼくは軽く一礼し、足早に去った。階段を静かに、でも急いで駆け下り、バイクのエンジンをかけて、走りだす。
 予想外に負わされた、というよりは勝手に負った任務も、それにて終了だった。要した時間は約二分。その程度ならいいだろう。仕事の効率を常々口にする小松課長に知られたところで、文句は言われないと思う。これだって、広く見れば『お客様のため』だから。
 午後の配達はそれからも続いた。ぼくは何通もの郵便物をいくつもの郵便受けに入れ、書留がある家は直接訪問した。土曜であるためか、ほかの日よりは在宅率が高く、書留のはけはよかった。不在通知を入れるのは結構な手間になるので、とてもありがたい。
 配達中にふと、三好たまきさんはあの洗たく物を拾っただろうか、と思った。まあ、拾っただろう。ちょっとは恥ずかしい思いをしたかもしれない。何せ、ほかの人はともかく、ぼくにはあの『陳列』を見られているわけだから。では、おせっかいだと思われただろうか。まあ、思われただろう。でもその程度ならいい。あのままでは、彼女は下着が飛ばされたことに気づかなかったかもしれないのだ。推測くらいはしたにしても、あの下着がさらにどこかへ飛ばされたり誰かに持ち去られたりで、彼女のもとに戻らなかったということも考えられる。そうなると、例えば彼女が隣室の住人を疑っていた可能性だってあるのだ。
 隣室の二〇二号室の住人は、岩崎幸司さん。面識まではないかもしれないが、少しは聞こえてくるはずの声やくつ音から、男性であることくらいは三好たまきさんもわかっているだろう。だとすれば、疑ってもおかしくはない。
 そうなったら、それはもう、どちらにとっても深刻な事態だ。仮に三好たまきさんが岩崎幸司さんに、わたしの洗たく物をとりませんでしたか? と尋ねたとする。実際にとっていないのだから、岩崎幸司さんはもちろん否定する。三好たまきさんは、あぁ、そうですか、とそれを信じられるだろうか。岩崎幸司さんは、やってないと信じてもらえたと思えるだろうか。結果、壁一枚を隔てた両室にいやな空気が流れるだろう。いずれはどちらかが退去することにもなるだろう。
 だから考えすぎだって、と思い、バイクを走らせつつ、一人、苦笑する。
 時々、ぼくはそんなふうに、配達中に配達以外のことを考える。仕事に集中していないわけではない。バイクの安全確認はきちんとするし、郵便物を郵便受けに入れる直前の宛名確認もきちんとする。そのうえで、考える。これは何の仕事をしている人でもそうだろう。そもそも人間が、五時間も、目の前のことだけを考えていられるわけがないのだ。

     *     *

 クリーニング屋さんのわきにある自動販売機で温かい缶コーヒーを買い、近くのみつば第二公園に向かう。やはりどこで見られているかわからないので、出入口の前でエンジンを切り、バイクは押していく。そしてベンチの一つに座り、その微糖タイプのコーヒーを飲む。少しでも両手を温めるべく、左右から挟みこむように缶を握って。
 今は午後三時。まずまずのペースだ。このあと二丁目の残りをまわって、四時には支店に戻れるだろう。砂ぼこりをかぶったバイクを洗ったり、郵便物の転送や還付の処理をしたりして、ぴったり定時。そんな流れが見えた。
 風は相変わらず強い。バイクを降りた今もなお耳もとでピューピュー鳴っている。寒さのせいもあり、住宅地にぽつんと置き忘れられたかのようなその公園には、ぼく一人しかいない。まあ、寒くなくても、ここに人がいることは滅多にない。すべり台とブランコと三つのベンチがあるだけの狭い公園だから、子どもたちにはあまり魅力がないのだろう。ただ、こうした住宅地にはバイクを駐めてちょっと休める場所がほとんどないので、ぼくのような者にとってはありがたい存在でもある。
 買って間もないのに早くもぬるくなりつつある缶コーヒーを飲みながら、今一度、三好たまきさんのことを考える。ぼくの顔を見て、彼女は確かにはっとした。似てる、と思ったのだろう。春行に。
 普通、人は郵便配達員の顔をまじまじと見たりはしない。書留を手渡しする際も、いちいちヘルメットをとったりはしないから、気づかない人は気づかない。が、気づく人は気づく。なかには、つい、「うそ!」などと口走ってしまう人もいる。多くは女性だ。女性のほうが人の顔への関心が高いからかもしれないし、単純に、春行を好きな人には女性が多いというだけのことかもしれない。
 実際、春行とぼくは似ている。顔だけでなく、体つきまでもが似ているので、よく双子だと思われる。そして、性格的なことなのか何なのか、ぼくのほうが兄だと思われる。
 制服姿での配達中はさすがにないが、私服姿で街を歩いているときは、目ざとい女子高生たちに声をかけられたりもする。それがわずらわしいので、ぼくはその時々の春行とはなるべくちがう格好をするよう心がけている。春行がルーズな服装をしているときは、ジャケットを着てネクタイをするとか。春行がそうしていないときは、ダテメガネをかけるとか。仕事柄、毎日ヘルメットをかぶることもあって、髪は常に短くしている。サイドと後ろは刈りこみ、上はやや残すという感じ。だから、おととしあたり、春行がバッサリ髪を切ったときはあせった。急には伸ばせないよ、と思って。
 母に言わせれば、ぼくら兄弟の誕生の流れはこういうものになる。
 子どもは二人ほしかったの。でも、ほら、わたしも働いてたし、そのあとも働くつもりだったから、産むのは早くすませたかったのね。ほんとは春行と秋宏が双子でもよかったくらい。
 だから年子。母らしい。
 どうにか温かみが残っているうちにコーヒーを飲み干すと、ぼくはベンチから立ち上がった。そしてバイクを出入口まで押していき、あと四十五分で完了、との目標を立てて、配達を再開した。
 書留があった二軒がいずれも不在だったため、結局、完了までに四十七分かかってしまったが、そこは誤差の範囲ということで自分を納得させた。
 アパートに帰って見た夜のニュースで、ぼくは今日の風がやはり春一番であったことを知った。春かぁ、と思った。そうは言っても、バイクに乗る以上、あと二ヵ月は寒いんだよなぁ、と。

     *     *

 休み明けの月曜日も、ぼくは一区のみつばを担当した。
 もう風は吹かなかったが、気温は低く、春という感じはまるでなかった。それでも、すでに春一番は吹いたという事実が、ぼくの意識を春へと向かわせてはいた。それしきのことなのに、寒いけど春だ、春にしては寒いだけだ、との安心感があった。我ながら単純だと思う。
 月曜の午後の住宅地はとても静かだ。土曜の午後も静かだったが、静けさの質はややちがう。人の息遣いが伝わってこないのだ。実際に人が少ないから。降ろされた車庫のシャッター。窓の内側ですき間なくピシッと閉められたカーテン。人の不在感は、いたるところに表れる。
 日曜の配達がない分、月曜の配達物数は多いのが常だが、今日はそれほどでもなく、カーサみつばに差しかかったのはいつもの午後二時すぎだった。
 一階はゼロで二階は二通。ツイてない、と思いながらバイクを降り、階段に向かう。
「郵便屋さん」と後ろから声をかけられた。
「はい?」と振り向き、足を止める。「あっ」
「あっ」と相手も言う。
 見覚えのある男性。おととい、ぼくとぶつかりそうになったあの人だ。
「どうも」
「どうも」
「えーと、電車、間に合いました?」
「どうにか。もう、あそこからは猛ダッシュで。悪かったね、あのときは」
「いえ、こちらこそ。よかったです。おケガがなくて」
「いや、ちょっと反省したよ。郵便屋さん、あれで加害者にされちゃたまらないもんね。歩行者とバイクじゃ、どうしたってバイクのほうが悪いってことになっちゃうだろうし。で、あの、二〇二の岩崎ですけど、ウチ、ある?」
 何と、この人が岩崎さん! と思いつつ、幅広の輪ゴムをはめた束から薄い封書を抜きだして、渡す。
「えーと、今日は一通ですね」
 差出人を見ながら、その岩崎さんが言う。
「隣の分、もしあれば持ってくけど」
「はい?」
「二〇一。知り合いだから」
「あぁ。そうなんですか」
「郵便屋さんなら名前まで知ってるよね? 三好たまき、さん」
「ええ、まあ」
 正直、ちょっと困った。好意で言ってくれているだけに、かえって。
 岩崎さんは、ぼくのかすかな困惑とその理由に気づいたらしく、こんな情報を明かす。
「何ていうかさ、要するに、カノジョなんだよ」
「あぁ。そう、ですか」
 さらに困惑した。三好たまきさんが岩崎幸司さんのカノジョであることを疑うわけではない。だがその言葉を鵜呑みにして郵便物を渡すわけにもいかない。それで渡すようなら、何でもありになってしまう。郵便配達員を家の手前で待ちかまえ、そこの住人だからと声をかけて郵便物を搾取する。そんなことが可能になってしまう。
 本当なら、岩崎さんに彼自身宛の郵便物を渡すべきですらなかったのだ。例えばの話、この人は岩崎幸司さん本人ではなく、顔がそっくりな年子の弟かもしれないのだから。話しぶりから本人だとの確信があったので、ぼくは自身の責任において郵便物を渡した。が、厳密には、やはり二階まで行ってドアポストに入れるか、ドアのカギを開けてなかに入る彼に渡すかするべきだったろう。
 やんわり断るべく口を開きかけたが、岩崎さんが先んじてくれた。
「と、そう言われたからって、渡せないか。それで簡単に渡すようじゃマズいよね。たまきがほんとに僕のカノジョだとしても、渡しちゃマズい」
「ええ」ほっとしながら言う。「そう思います」
「すいませんね、余計なことを」
「いえ、そんな」
 というわけで、岩崎幸司さんに続いて、アパートの階段を上った。二〇二号室の前で立ち止まった彼に「では」と言い、二〇一号室の前に行く。そして三好たまきさん宛のハガキ一枚をドアポストに入れる。
 ドアが閉まった二〇二号室の前を再び通って階段を下り、バイクに乗ろうとしたところで、今度は二階から声がかかった。
「郵便屋さん、ちょっと」
 パタパタと音を立てて、岩崎さんが階段を駆け下りてくる。履き物がくつからサンダルに替わったらしい。
「はい。これ、飲んで。寒いのに冷たいもので悪いけど。でも冷蔵庫に入れてたわけじゃないから」
 差しだされたのは、ペットボトルのお茶だった。
「いえ、でも」
「いいからいいから。もう持ってきちゃったし」
「じゃあ、すいません。いただきます」とありがたく受けとる。
 こんなときに必要以上の遠慮はしないと決めている。ただし、それが食べ物や飲み物なら、との条件付きで。前に一度、人のいいおばあちゃんに、いつもごくろうさんね、といきなり千円札を差しだされたことがある。さすがにそれは受けとらなかった。あ、いえいえ、仕事ですし、お気持ちだけで結構ですから、と言って。
 ぼくはペットボトルのお茶をバイクのキャリーボックスに入れた。もらって一番たすかるのは、やはりペットボトル飲料だ。それだと何度かに分けて飲めるから。
「あのさ、君が、たまきに洗たく物が飛ばされたことを伝えてくれた人なんだよね?」
「えーと、そうですね」
「だろうと思ったよ。あの春行とかいうタレントに似てるってたまきが言ってたから。でもほんと、似てるね。ぶつかりそうになったときは、あわててたんで気づかなかったけど」
「よく言われますよ」
 そう。よく言われる。そこまでは認める。だがそこ止まり。その先の、ぼくらが兄弟であるという事実を自分から明かしたりはしない。それがいつものやり方だ。
「ちょうど飛ばされたとこを見たんだって?」
「ええ」
「かなり強く吹いてたもんね、風」
「ですね。バイクに乗るのがこわいくらいでした。あちこちでビニール袋なんかが舞い上がってましたし、空き缶もコロコロ転がってましたよ」
「そうそう。電車もかなり遅れてた」
「あ、やっぱりそうなんですか」
「うん。だから間に合ったんだよ、あのとき。時間的にはアウトだったんだけど、一本前の電車が、うまいタイミングで来てくれたんだ」
 洗たく物の件を知っているということは、この岩崎幸司さんはまちがいなく三好たまきさんのカレシなのだろう。となれば、ぼくが伝えなくても、三好たまきさんが岩崎さんを下着泥棒ではと疑うようなこともなかったわけだ。
 世間話としてはそろそろ切りあげどきだったが、岩崎さんは続けた。
「いや、実はさ、ちょっと不審に思ってたんだよね。たまきから話を聞いて、何だよそれって。だって、ほら、飛ばされたのが下着だっていうから」
「あぁ」
「今、こわいでしょ? いろいろと。誰に、どこで、どんなふうに目をつけられるか、わかんないから。もう、この職業の人だから安心ていうのもないし」
「そうですね」
「二階とはいえベランダに下着なんか干さないほうがいいっていつも言うんだけどね、自分が部屋にいるときはだいじょうぶだからって、たまきは干しちゃうんだ。女の一人暮らしだとわからないよう、せめて僕のも一緒に干してくれればいいんだけど」
「あぁ。そんなふうにしてる人も、いるみたいですね」
「ただ、風にやられるとは思わなかった。そこはノーマークだったね。まあ、あの風のなかで干してたたまきもたまきだけど。『その分、早く乾くと思ったの』って、それはないよね」
「ない、んですかね」
「けど、あれだ。たまきの部屋に来たのが君だとわかって安心したよ」
「え?」まさに『え?』だ。話の落ちつきどころが見えない。「どうしてですか?」
「僕とぶつかりそうになったこととタレントに似てるってこと以外、君のことは何も知らないんだけどさ、でもさっきのやりとりで、何となくわかったよ。あぁ、この人はだいじょうぶだって」
「やりとりというほどのことを、しましたっけ」
「ほら、たまきのとこにきた郵便物を僕に渡さなかったでしょ? あれ、ほかの郵便屋さんなら、たぶん、すぐに渡してたよ。親切で言ってやってるのに何だって、僕が怒りだしてもおかしくないわけだし。でも君は渡そうとしなかった。そのこととおとといのことを考え合わせて、勝手に思ったんだよ。そうか、この人はやることをきちんとやる人なんだなって。大げさに聞こえるかもしれないけど、僕はそういう読みは外さないからね」
「でも、ぼくが実はおかしな人で、三好さんの郵便物を誰にも渡したくなかっただけかもしれないですよね?」
「たまきのストーカーみたいな人ってこと?」
「ええ」
「だったら驚きだね。初めての、読みの大外しになるよ。もしそうなら、今あげたお茶は、至急返してもらわなきゃいけない。まさか返してもらう必要は、ないよね?」と岩崎さんは笑った。
「ないです」とぼくも笑う。
「まあ、そりゃそうか。君がストーカーなら、飛ばされた下着は自分のものにしてたはずだし」
「あぁ。そういえばそうですね」
「君さ、飛ばされたのが、例えばタオルとかハンカチだったら、伝えるんじゃなく、そのものをたまきに届けてくれたでしょ。ちがう?」
「ちが、わないです」
「つまり君は、すごく慎重に、すごく遠まわしに、たまきに気をつかってくれたわけだよね?」
「それもあるにはあるでしょうけど。でもやっぱり自分のためっていうほうが大きいです。なるべくあやしまれないようにしたかったというか」
「人によっては、きょとんとしちゃうだろうね。君がしてくれたことの意味がわからなくて」
「かもしれません」
「でもたまきはわかったよ。まあ、僕に言われてわかったようなとこもあるけど。だからさ、安心してよ。あやしまれたりは、まったくしてないから」
 なるほど。話はそこへ落ちつくのか。
「ならよかったです」
 本当に、よかった。おもしろいものだ。別に不安がっていたわけではないのに、そう言ってもらえると安心できるんだから。
 岩崎さんが、濃淡のグレーで統一されたカーサみつばの建物を見て、それからもう一度ぼくを見る。
「今さ、このアパート、八部屋あるのに四人しか入ってないでしょ?」
「そうみたいですね」
 一階に一人、二階に三人で、四人だ。
「どうしてか知ってる?」
「いえ」
「いずれ取り壊すらしいんだよね」
「そうなんですか。そんなに古くは、ないですよね?」
「うん。まだ築十何年てとこだろうね。理由まではよくわからないけど、大家さんが土地を手放すんだって。といっても、すぐにってことではないから、新しい居住者は入れないで、今いる人たちが出ていくのを待ってるわけ。半年くらい前かな、部屋のエアコンを付け替えてもらったときに、大家さん自身がそんなことを言ってたよ。でも急いで出ていかなくていいですからねって。そう言うと反対の意味に聞こえるかもしれないけど、ほんとにいいですからねって。だからさ、このアパートに関しては、今より配達先が増えることはないよ」
「あぁ。そうですか」
「君は、国道の向こうの四葉なんかも配達するの? あの高台のほう」
「しますね」
「大家さん、そこに住んでるよ。イマイさんて人。わかる?」
「ごく普通の字の今井さん、ですよね? 今現在の今に、井戸の井の」
「そう」
「ならわかります」
「へぇ、すごいな。ほんとにわかるんだ?」
「ええ、一応。四葉に今井さんは一軒だけですし」
「そうか。そうだよね。わからなきゃ、配達できないもんね。あ、でも今のこれ、個人情報を洩らしたことになっちゃうのかな。いいよね? 郵便屋さんだし」
「だいじょうぶだと思います。同じことをぼくが言っちゃうのはマズいですけど」
「何か悪いね、仕事中に邪魔しちゃって」
「いえ。お茶、ありがとうございました。あとでいただきます」
「いやいや。こっちもお礼を言うよ。自分のカノジョの下着をさらされなくてよかった。ありがとう。それじゃ」
 岩崎幸司さんはパタパタとサンダルの音を立てて階段を上っていき、ぼくはバイクに乗った。岩崎さんのほうを見て、軽く頭を下げる。岩崎さんも、同じく頭を下げてくれた。
 ワンルームのアパートで隣人同士がカレシカノジョになるなんてことがあるんだな。そんなことを思いながら、カギをまわしてエンジンをかける。あるいはカレシカノジョになったあとで隣人同士にもなったのかな。いや、それはないか。だったら、二部屋のところに二人で住めばいいんだし。
 ぼくは右手でアクセルをまわす。バイクがカーサみつばから離れる。配達は続く。戸建ての数軒をまわり、角を二度曲がって、また数軒。
 カーサみつばの裏を通りすぎたとき、ぼくが配達に来たあのタイミングで岩崎幸司さんが帰ってこなければぼくらがあんな会話をすることはなかったのだな、と気づいた。岩崎さんも、そのためにわざわざぼくと会う機会をつくろうとまではしなかっただろう。今日、あのタイミングでぼくが現れたからこそ、彼はあんなことを言う気になったのだ。
 ぼくらは毎日、配達区にあるすべての家をまわる。そんなことをくり返していると、稀に、町に空いた小さな穴を目にすることがある。熟練した配達員は、その穴をあえて見過ごす。だがぼくのような未熟な配達員は、その穴にいちいち目を向けてしまう。
 町は生きている。もしかすると、感情のようなものもある。だから、風に洗たく物を飛ばさせたりして、ぼくにイタズラを仕掛ける。時々、そんなふうに思う。いくらかは、本気で。


  *

続きは発売中の『みつばの郵便屋さん』で、ぜひお楽しみください!

シリーズ第2~7巻も大好評発売中!
そして、シリーズ最終巻『みつばの郵便屋さん そして明日も地球はまわる』は12月6日発売です!

著者:小野寺史宜(おのでら・ふみのり)
千葉県生まれ。2006年『裏へ走り蹴り込め』でオール讀物新人賞を受賞。2008年、『ROCKER』でポプラ社小説大賞優秀賞を受賞。著書に『みつばの郵便屋さん』シリーズ、『東京放浪』、『太郎とさくら』、『ライフ』、『天使と悪魔のシネマ』(以上、ポプラ社)、『とにもかくにもごはん』(講談社)、『タクジョ!』(実業之日本社)、『片見里荒川コネクション』(幻冬舎)、『食っちゃ寝て書いて』(KADOKAWA)、『今夜』(新潮社)、『ひと』(2019年本屋大賞2位)、『まち』、『いえ』(祥伝社)などがある。

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