ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 試し読み一覧
  3. 環司先生の謎とき辞典 チカと文字禍とラブレター

環司先生の謎とき辞典 チカと文字禍とラブレター

 プロローグ
 私達は、多かれ少なかれ漢字を操り生きている。でも、ある人に言わせれば操られているのは私達人間の方らしい。
 漢字なんて、所詮は止め跳ね払いの集合体。それに一喜一憂する人間は、文字の精霊に弄ばれているに過ぎないのだそうだ。
 故に、人間が考えつくことの真相は全て漢和辞典に載っている。
 変わり者の先生は、今日も辞典に耳を傾けると嬉しそうにこう言い放つのだ。
「聞こえるか? 漢字が僕を呼んでいる」と。


 一話 見えない扉
 ゴールデンウィーク明け初日の朝の教室は、談笑に包まれていた。
 映画や旅行へ行ったという羨ましいものもあれば、徹夜でゲーム三昧だったという声も聞こえてくる。中には、中間テストへ向けて勉強していたなんて耳を覆いたくなる話もあった。
「おはよ〜、知華ちかぁ~」
 私が席につくなり、小学生時代からの友達が気怠そうな声で挨拶してきた。
「おはよう、明日香あすか
 挨拶を返しつつ、校内の自販機で買ったパックの牛乳をちゅーちゅーと啜る。紗東さとう明日香は、机に伏せていたポニーテール付きの栗色の頭をようやく起こした。とても眠そうな顔をしている。
「シャキッとしなよ。高二のゴールデンウィークはもう戻ってこないんだからさ」
「知華は元気そうだね」
「まあ、私は連休中も毎日部活に出てたから。今朝も朝練やってきたし」
 私は中学から陸上の短距離走をやっている。後輩もできたばかりなので、威厳を保てるように一層努力しなきゃいけない。
「髪も短くして正解だったよ。凄く走りやすい」
 明日香とお揃いだったポニーテールは、二年生に上がるのをきっかけに短く切った。私のショートヘアをポンポンと撫でると、明日香は「小さい体で、よく頑張るね」と嫌味混じりな褒め方をしてくる。
 明日香の言う通り、私の身長は同年代の女子と比べると低い。中学生に間違われることもしばしばで、毎朝欠かさず飲んでいる牛乳も、私の身長を伸ばすには力不足みたい。
 短距離走において、当然足は長い方が有利だ。せめて、明日香くらいの平均的な身長が欲しいものだけれど。欲を言えば、佐咲ささきさんくらい欲しい。
 同じクラスの佐咲瑠璃子るりこさんも、明日香と同じで小学生から高校まで一緒。モデルをやっていますと言われたら納得してしまいそうなルックスと長身に加えて、抜群のスタイルを持つパーフェクト女子。今も静かに文庫本を読んでいるだけなのに、放たれる大人の魅力には眩暈めまいすら覚える。
「また佐咲のこと眺めてる」と、明日香が怪訝な様子で指摘してきた。
「だって、憧れるじゃん」
「じゃあ、声かければ? 友達作りは知華の十八番おはこでしょ」
 自慢じゃないけれど、人に好かれる才能はあると思ってる。それにはこの小さく無害そうな見た目が一役買っているんだろうことも薄々気づいているから、悩ましいところだ。
 そんな私でも、佐咲さんとは友達になれていなかった。私にとって彼女は、高嶺の花だもん。友達なんて恐れ多い。それに、
「またそんなこと言って。明日香だって、わかってるでしょ?」
「……まあね」
 他にも、色々と理由があったりする。
「そういえばさ」と、明日香がついさっき思い出したかのように話題を振ってきた。
「今朝、車にあおられたの。珍しくすっきり目が覚めたから、いつもより早く家を出たらこれだよ。マジうんざり」
「それは災難だったね。どこで煽られたの?」
「ドラッグストアの脇から入る細い道」
 それだけの説明でピンとくる。私も毎朝通る道だ。
「ケガとかなかった?」
「大丈夫。でもめっちゃビビッたし、腹立つわ、あのおっさん」
 怒りをきっかけに、休みボケしていた明日香にいつもの調子が戻ってきたようだ。
 それにしても、煽り運転か。あれは車同士のトラブルのイメージが強いけれど、車と歩行者でも起こるんだ。明日香が無事でよかったけれど、私も腹が立ってくる。
「先生に言った方がいいんじゃない?」
 通学路で生徒が危険な目にあったんだから、何かしらのアクションはしてくれるだろう。だけど、明日香は首を横に振った。
「いいの。そのおっさん、もう警察に捕まってたし」
 なんと、解決済みらしい。
「そりゃあまた、スピード逮捕だったね」
「さすがに逮捕まではされてないだろうけど、呼び止められてキツく怒られてたのは間違いないね」
「警察の人が近くにいたってこと?」
「うん。知華はいつも朝早いから会ったことないかもしれないけど、あの道は通学時間、お巡りさんが立ってくれてる日があるの」
 この尾利おり高校は、私達の母校である小学校が隣接している。お巡りさんは、主にそちらの児童の交通安全のために立っているという。
「お巡りさんからも私が煽られてる様子はバッチリ見えてたみたい。だから、当然の結果だよね」
 明日香は「ざまーみろ」と嬉しそうだ。でも、何だか違和感が残る。
「……それって、変じゃない? お巡りさんから明日香達が見えていたなら、おっさんにもお巡りさんは見えていたはずでしょ? 捕まるのを承知で煽るなんて、おかしくない?」
「あー、たしかに変かも」
「目の前の女子高生に夢中で、奥にいるお巡りさんが見えなかったとか?」
 私の推測に、明日香は「気持ち悪いこと言わないでよ」と苦い顔をする。痴漢目的でないとすると、他にはどんな可能性があるだろう?
「トイレを我慢していて、明日香が邪魔だったとか? お巡りさんに呼び止められたその人、モジモジしてなかった?」
「車からは降りてたけど、ひたすら平謝りでそんな様子はなかったかなぁ」
「そのおっさんから理由とか聞かなかったの?」
「顔を覚えられても嫌だから、逃げてきちゃった」
 お茶目な顔で笑っているが、その判断は理解できる。毎朝その道を通るんだから、逆恨みでもされたら堪ったもんじゃない。
「あー、でも」
 明日香は思いついたという様子で、
「ちょっとくらい、お詫びの気持ちを貰ってもよかったかもね」
 明日香は右手の親指と人差し指で輪を作り、お金のジェスチャーをする。
 私は「出た」と呆れて見せた。この子は、自他共に認める守銭奴しゅせんど。私の親友はこういうところが玉に瑕きずだけれど、その逞しい性格はある意味尊敬できる。
 それにしても、お巡りさんが向かう先にいることを知りつつも歩行者を煽るなんて、そんなことがあるだろうか?
 理由は気になるけれど、どうやら知る術すべはなさそうだ。
「そんなことよりさ、今日の二限目って現国だよね?」
「そうだけど、それが何?」
「知華ったら惚けちゃって」
 明日香は私の肩をバシバシと叩きながら、うっとりとした表情を浮かべていた。

  *
     
 予鈴ぴったりに、彼は教室の戸を開いた。途端にクラスの女子達は色めき立ち、男子達はどことなく不機嫌そうに眉根を寄せる。
 色褪せた朱色のカバーに包まれた小振りながらも分厚い漢和辞典を、教卓にドスンと置く。それを合図にして、クラス委員長が起立と礼、着席の号令を出した。
 出欠を取り終えると、先生は現国の教科書を広げる。
「授業を始める。今日は二十八ページからだ」
 面白みも何もない、ただただ堅苦しいだけの声がそう指示を出した。
「今日から『山月記』に入る。中間テストの肝になるから、よく頭に入れるように」
 そうして、生徒達による教科書の朗読が始まる。
 中島なかじまあつしの『山月記』。詳しくは覚えていないけれど、主人公が虎になってしまう話だということくらいは文学に疎い私でも知っていた。
 盛り上がりもなく淡々と進む、知識を植え付けるだけのつまらない授業。それなのに女子達を中心にこの授業が人気なのは、とても単純。
 現国のたまきつかさ先生の、顔がいいからだ。
 ややパーマがかった黒髪で、前髪の向こうには整えられた眉とくっきり二重の目。スラリと高い鼻筋に、桜色をした薄い唇。
 それらのパーツがシュッとした小顔の中に素晴らしいバランスで収まっており、背も百八十センチは優に超えている。細身の体型もあいって、教科書を片手に教鞭を執る姿は、まるでドラマのワンシーンのようだ。
「眼福だわぁ」と、前の席の明日香がとろけきった声を漏らした。
 環先生は、今年の春にこの尾利高校へと赴任してきた新任教師。訊いてもいないのに明日香が教えてくれた情報によると、年齢は二十二歳らしい。新卒ほやほやってわけだ。
 頭の中は小学生から大して成長していない同世代の男子達と比べれば、先生には落ち着いた大人の余裕がある。普段触れ合うことのない年代の男性ということもあり、華の女子高生達は過度に惹かれてしまうのかもしれない。
「知華さん」
「はっ、はいっ!」
 不意に先生から名前を呼ばれて、無駄に大きな返事をしてしまった。クラス中の視線が注がれている私の顔は、きっとリンゴのように真っ赤だろう。
 苗字の寿々木すずきではなく、名前の知華の方で呼んでくるのがまた心臓に悪い。でも、この先生は私に限らず、男女関係なく誰でも下の名前で呼ぶ。理由はよく知らないけれど、こだわりがあるんだろう。
 先生は、何事もなかったかのように私へ尋ねる。
「知華さん。キミはなぜ李徴りちょうが虎になってしまったのだと思う? キミなりの考え方を聞かせてくれ」
「あー……えっと」
 しまった。全然授業を聞いていなかった。
 主人公の李徴がなぜ虎という動物に変貌したかなんて、そんなの作者にしかわかりっこない。
 思考がぐるぐると渦巻いた末に、
「お、お酒を飲みすぎたせい……とか?」
 私は、そんな答えを口走っていた。
 教室がどっと笑いに包まれて、皆からの視線が痛い。先生だってきっと呆れていると、恐る恐る教壇の方を確認する。
 しかし、予想に反して彼は虚をかれたかのようにぽかんと口を開け、私のことを見つめていた。
 怒られるのかと身構えたが、次の瞬間、先生は教科書に視線を戻すと何事もなかったかのように授業を再開した。

  *
     
「知華さん。放課後、僕のところまで来るように」
 環先生にそう言われたのは、現国の授業が終わってすぐのことだった。先生が教室を出て戸が閉まるなり、女子達が私の周りを囲んでキャアキャアと騒ぎ出す。
「いいなー、知華。環様と放課後に会えるなんて」
「環様って……」
 すっかり心酔しきっている明日香に、私は苦笑いしか返せない。
「ていうか、授業で変な答え言っちゃってからの呼び出しだよ? お説教に決まってるじゃん」
「それはそれで、環様ならアリじゃない?」
「意味わかんないんだけど」
 口ではそう言いつつも、私も内心ドキドキしていた。イケメン教師と放課後の特別授業……なんて、少女漫画みたいだ。
 期待と不安が入り混じりカフェオレのようになった気持ちで放課後を迎えた私は、部活に遅れることを同じ陸上部の友達に伝えると、緊張しながら職員室へ向かった。
 コンコンと二度ノックしてから、「失礼します」と職員室の戸を開く。先生達の視線が一時的に私へと集まるこの瞬間は、入学して一年経った今でもちょっと苦手。
 だけど、その興味はすぐに逸れて各々の業務へと戻っていく。
「待っていたぞ」
 そう声をかけてきたのは、私を呼び出した環先生だった。先生の席は出入り口から比較的近い位置にあり、片手には魚偏の漢字がびっしり書いてあるお寿司屋さんにあるような湯呑を持っている。彼はそれを机に置くと、私の元へと歩み寄ってきた。
 こうして面と向かうと、改めて先生が長身なのがよくわかる。背の低い私は、先生の顔を見上げる形になっていた。
「場所を変えて、座って話そうか」
 私の首を心配してくれたんだろうか。先生はそう提案すると、職員室を出て右に曲がり、突き当たりにある裏口のドアを開ける。
 そこには剝き出しの木造軀体に屋根だけが載った小さなスペースがあり、三人掛けくらいの長さの古びた木製ベンチが一つだけぽつんと置かれている。
「ここ、何する場所なんですか?」
「数年前までは、教員用の喫煙所だったらしい」
 時代の流れを受けて、使われなくなった場所ということか。そう言われると、腐りかけのベンチが何だか寂しそうにも見えてきた。
「それは?」
 私が下ろした通学鞄を見ながら、先生が尋ねてくる。どうやら、鞄につけているキーホルダーが気になるみたいだ。
「これは『ムキうさ』です!」
「ムキうさ?」
「知らないですか? ムキムキうさぎ! 略してムキうさ! 可愛いウサギの頭と筋骨隆々なボディとのギャップが堪らない、最高にキュートなキャラクターなんですっ!」
 鞄につけているのは、筋トレシリーズのダンベルバージョンのキーホルダー。ムキうさは、私が小学生の時から大好きなキャラクターだ。
 でも、活動歴が長い割にはあまり人気がないみたい。明日香を始めとする友達に勧めても、大体引き攣った笑顔を返されるだけで終わってしまう。
 先生はムキうさを興味深そうに凝視すると「まあ、いいのではないか」と曖昧な感想を落としてベンチに座り、隣に自前のチェック柄のハンカチを出して敷いた。
「さあ、座るといい」
 この先生、結構紳士みたい。ハンカチの上に腰を下ろし、これから何を言われるんだろうかと視線をやると、先生は鉄仮面のような無表情のまま黙っている。やっぱり、叱られるのかな。
「知華さん」
「はっ、はいっ!」
「わかっているよ」
 先生は、一転ニカッと白い歯を見せる。
「好きなんだろう?」
 自分の頰が熱を持つのがわかり、赤らんだ顔を見られまいと私は視線を逸らす。
 いきなりなんて質問をするんだ、この人は! そりゃあ、周囲の女子達のアイドル的存在だ。授業中に目で追ってしまうことが、ないわけじゃない。
 でも、その気持ちは『好き』というよりは『憧れ』なわけで。それ以前に、私達は生徒と先生なんだから、恋愛関係なんて無理に決まってる。
「隠すことはない。僕も好きなんだ」
 ……あわわわわわわ!
「冗談……ですよね?」
「いいや、大真面目だ。キミは好きじゃないのか?」
 問う彼の瞳は、真面目そのもの。
「えっ、いや、その……好きとか嫌いとか、まだあんまり経験がなくてわからないというか何というか。でもその……嫌いではないです」
「そう言って貰えて嬉しいよ」
 先生ははにかむと、立ち上がり、着ている白いワイシャツのボタンに手をかけた。そしてなんと、おもむろに一つ一つ外していく。
「ちょっ、先生っ! それはいくら何でもまだ早すぎますって!」
 口ではそう言いつつも、顔を覆った手の指の隙間からチラ見していた私は──言葉を失った。
 シャツを豪快に脱いだ環先生は、インナーのTシャツ姿になっていた。それは当然なんだけれども、問題はそのシャツのデザイン。
「いいだろう、コレ」
 自慢げにポーズを決める先生のTシャツのど真ん中には、デカデカと書かれた『侍』という一文字。
 私は今まで、どんな服でもイケメンや美女が着れば様になるものだと思っていた。だが、そうでもないらしい。
「どうだい知華さん。かっこいいだろう?」
 正直に答える。
「……超ダサいです」
 人の顔が青ざめていく過程を、初めて見た。先生は大袈裟に身振り手振りを交えながら、私に訴えてくる。
「ええっ! 何で!? 何が駄目だと言うのだ!」
「そのシャツが似合うのは、日本に来て浮かれてる外国人観光客くらいですよ」
 不意に視界の端で捉えたのは、私がお尻の下に敷いている先生のハンカチ。よくよく見てみると、チェック柄に見えたのはびっしりと印刷された漢字だった。
 思わず「ひっ!」と小さな悲鳴を上げて飛び退く。
「般若心経ハンカチは、お気に召さないか?」
「気に入るわけないでしょ! 気持ち悪い!」
「きっ、気持ち悪い!? キミのムキうさの方がずっと気持ち悪いではないか!」
「はぁ!? ムキうさのこと馬鹿にしないでっ!」
 お互いにショックを受けた私達は、しばらくの間睨み合う。やがて、先生が恐る恐る尋ねてきた。
「だって知華さん。キミは僕と同じで漢字が好き、、、、、なのだろう?」
 こうして私は、先生の一風変わった趣味と、今まで自分がしていた恥ずかしい勘違いにようやく気づくのだった。
 訪れたのは、沈黙の時間。
 遠くからは、ランニングをする野球部のかけ声が聞こえてくる。あー、私も今すぐ走り出したい。
「えーっと、その……べつに漢字とか好きじゃないです」
 自分の考えを述べたのだけれど、先生は「隠さなくてもいい」と食い下がる。その確信は、一体どこから来ているのか。
「そもそも先生は、何で私が漢字好きだと思ったんですか?」
「李徴が虎になった理由だ」
 今日の現国の授業で習った『山月記』。私は先生に李徴が虎へと姿を変えてしまった理由を尋ねられて、わからないなりに『お酒を飲みすぎたせい』と答えた。まさか、それが原因?
「虎という漢字には、『酔っ払い』という意味がある。キミはそのことを知っていたから、あの解答を述べたのだろう?」
「そうですけど、どこかでたまたま見聞きした知識を思い出しただけです。それだけで漢字好きと判断するのは、さすがに早すぎるでしょ」
 突き放すような私の態度で、先生はようやく自分の早とちりだったことを受け入れたようだった。
 投げ捨てたワイシャツを手に取ると、砂を払っていそいそと袖を通す。寂しそうな背中を見ていると、何だか悪いことをしたような気持ちになってきた。仕方なく、私は口を開く。
「……虎の漢字にそんな意味がある理由までは知りません。教えてくれませんか?」
 待ってましたと言わんばかりに、先生は嬉々とした表情を見せた。
 数分前までたしかに私の目の前にいたクールなイケメンはどこへやら。先生は一体どこに隠し持っていたのか、いきなり漢和辞典を取り出すと黄色く変色している小口に親指を差し込む。
 そうして開かれたページには──『虎』の項目が載っていた。
「……えっ?」
 千ページはくだらない辞典の中から、一発で目的のページを引き当てる。付箋やドッグイヤーは見当たらないし、偶然だろうか? それにしては、本人に驚きも何もないようだけれど。
 私の衝撃などどこ吹く風で、先生は辞典の『虎』の漢字を指で示しながら解説する。
「酔っ払いは酷く酔うと四つん這いになり、周囲に当たり散らして手がつけられなくなることから虎にたとえられた。他の説としては、酒を『ささ』とも呼ぶことから、水墨画などによく見られる笹と虎の組み合わせを連想したというものもある」
 力説されたその内容は、辞典に書かれているわけじゃないみたい。つまり、先生の頭の中にある知識。漢字好きを自称するだけのことはある。
「どうだい? 漢字は面白いだろう」
 辞典をパタンと閉じた先生は、満足そうにニコニコしていた。それが何だか子どもみたいで、私は笑いを必死に堪える。
「まあ、雑学としては面白かったですよ」
「ならば、もっと教えてあげよう。たとえばそうだな」
「私、部活があるので失礼します!」
 話が長くなりそうなのは明らかだったので、さっさと退散させて貰うことにした──つもりだったのだけれど。
「少しくらいいいじゃないか」
 先生は、私の手を摑み引き留めた。
 漢字好きという変わった趣味を語る場になかなか恵まれないのはわかるけど、趣味がバレたからといって私相手に発散されても困る。
 いくらイケメンでも、眼光ギラギラで鼻息を荒くしながら女子高生に迫るその姿は、変態以外にしっくりくる言葉が見つからない。
 早口で自己満足のためだけに語り始める先生。最初はただただ困っていたけれど、段々と腹が立ってきた。
 そして、
「いい加減にしてください! 私は漢字なんて嫌いですッ!」
 ハッキリと、大声で、先生の好きなものを真っ向から否定した。
 これにはさすがの漢字オタクも言葉を止める。
 怒らせてしまったかと思ったが、先生は不思議そうに首を捻っていた。
「漢字が嫌い? 常日頃から漢字を使っているのだから、そんなわけがないだろう」
 私はべつに、先生の趣味を全否定するためだけに漢字を非難したわけじゃない。
 先生の言いたいことはわかる。漢字は中国から流れて来たものとはいえ、現代では立派な日本語だ。日本から突然漢字が消えたら大パニックは免れないだろうし、生きるうえで欠かせない便利なものということはよくわかっている。
 それでも私は、漢字が──文字というものが、あまり好きになれない。
「だって画数多いし、覚えにくいし、覚えても使わないのもたくさんあるし、最悪ひらがなやカタカナで十分伝わるし。それに、時代はデジタルです。知らない漢字は一発で変換できるし、手書きの機会がそもそも少ない。それなのに、貴重な学習時間を漢字に割かなきゃいけないし!」
 言った。言ってやった。いや、言ってしまった。今度こそ、先生は怒っているだろうか?
 顔を見るのも怖くなった私は、鞄を引っ摑み裏口から校舎内へと逃げ込む。幸い、追ってくる足音は聞こえてこなかった。

  *

続きは発売中の『環司先生の謎とき辞典 チカと文字禍とラブレター』で、ぜひお楽しみください !

著者プロフィール
皆藤黒助(かいとう・くろすけ)
鳥取県境港市出身。エブリスタ電子書籍大賞2013にて毎日新聞社賞、スマホ小説大賞2014にて角川文庫賞と讀賣テレビ放送賞をダブル受賞。『ようするに、怪異ではない。』にはじまる「よう怪」シリーズで人気を集める。近著に『あやかし民宿の愉怪なおもてなし』(全て角川文庫)、『ことのはロジック』(講談社タイガ)など。

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す