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二木先生

「Aの図とBの図、『静けさ』を表しているのはどちらだと感じる?」
 担任で美術担当の二木にき良平りょうへいが、教室の生徒全員に問いかけた。美術室の黒板には、大きな白い紙に印刷された二枚のシンプルな図が、四隅をマグネットで留めて貼り出されている。どちらも縦長の長方形の枠の中に三つのマルが描いてあるが、「A」とあるほうの図は長方形の底の部分に三つの○が仲良く水平に並んでいる。対して「B」の図に描かれた三つの○は、左と真ん中の二つだけが底にあり、右端のひとつが、ほんの少し上に浮いている。
 Bだ、と田井中たいなか広一こういちは思った。
「Aだと思う人」
 二木の言葉に、周囲でばらばらと手が挙がる。広一は一瞬で自分が少数派であることを察した。沢山の手が挙がる中で、部分的にへこんでいるかのように挙手のない席があったが、時間をおいて、そこからも次々に手が伸びた。彼らが自分なりに考えた結果なのか、周りにならっただけなのかはわからない。広一は考えた。自分もここで手を挙げたほうがいいに決まっている。十六年間生きてきて、最近になってやっと、そういうことが薄々わかってきた。だが広一は手を挙げなかった。残された凹みは自分と、後ろの方に座っている二、三人だけだ。広一は制服のズボンの上に置いた手の平が汗で湿っていくのを感じた。
「では、Bだと思う人」
 さっきまで挙げられていた手が一斉に下がる。ここで手を挙げれば、間違いなく目立ってしまう。もしかしたら指名で何か意見を求められるかもしれない。まごまごしていると、広一がさっき手を挙げなかったことを知っている隣の席の女子が、お前はなんなんだよ、とでも言うように広一をにらんだ。手を挙げたら挙げたで馬鹿にするくせに。相手が俺以外の奴だったら絶対そんな目で見ないくせに。広一は彼女から目をらしながら、そう内心で毒づいた。
「A」に手を挙げなかった自分以外の数名は、さっき、ちらりと見たところ、クラスの中でヤンキー系に分類される奴らだった。挙手しなかったのは「B」を支持している訳ではなく、単に授業に参加する気がないだけなのだろう。自分も彼らと同じように、どちらにも手を挙げずにやり過ごせば、後悔せずに済むかもしれない。自分の気持ちに嘘をついて「A」に手を挙げた訳ではないのだから、それでいいじゃないか、と広一は思った。
 だが、胸の中には抑えようとしても湧き上がってくるうずうずとした欲求があった。
 こいつらはほとんど全員「A」だと思っている。動きのある「B」の図より、○が大人しく一列に並んだ「A」の絵こそが「静けさ」を表していると、馬鹿みたいに単純な感じ方をしている。自分が「B」に手を挙げた瞬間、こいつらはきっといつもの白けた目でこっちを見るだろうが、もし二木が、「B」を選んだ理由について自分に発言を求めたら、その内容を聞いた皆は、そんな見方もあるのか、と感心するかもしれない。もしその中に、本当は「B」に手を挙げたかったけれど、皆に合わせて「A」に手を挙げた生徒がいたとしたら、彼らは、周りに同調するしかできなかった自らを恥ずかしく思うと同時に、意見を曲げなかった自分のことを、少し見直すかもしれない。
 仮に生徒は誰一人そうは思わなかったとしても、美術教師である二木はきっと、自分のことを、感性の豊かな子供だ、と一目置くんじゃないだろうか。
 それにもし、このまま手を挙げずにいた場合、予想を裏切って後ろのヤンキーの中の誰かが手を挙げたら? そして自分の代わりに、皆の注目を集めるような意見を言われてしまったら? あいつらは語彙ごいが乏しいけれど、たまに簡単な言葉を駆使して鋭い発言をするときがある。そんなことになったら耐えられない。賞賛の眼差しを受けるのは自分だという焦りと欲求に急き立てられて、広一は気が付けば手を挙げていた。内心の激しさとは裏腹に、少しひじを曲げた遠慮がちな挙手だった。
 二木がまっすぐに広一を見た。彼の視線の動きから、どうやら結局手を挙げたのは自分だけのようだ。後ろを振り返って確認する勇気はなかった。前を向いている広一の視野いっぱいに、クラスメイトの冷たい表情が広がっていた。
「出たよ、田井中の自己アピール」
 男子生徒のその言葉で、あちこちからクスクスとあざけり笑いが起きた。
 二木が空中を手で押さえるような仕草をして、生徒たちを静めた。
「田井中、そう感じたのに理由があるなら、聞かせてもらえるか?」
「はい。えっと」
 広一の声が緊張と興奮で上ずる。
「お……僕が、Bのほうが静かだと思ったのは、『沈んでいる』という感じがするからです」
 二木が広一の言葉に理解を示すようにうなずいた。
「僕には、どっちの図も、川の底に石が沈んでるように見えます。Aは、水の底で、じっと沈んでる石のイメージです。それに対してBは、石だらけの川底に、新しい石がひとつ沈んできたところです。僕はBのほうに静けさを感じます」
「言ってることがおかしいよ。Aが川の底で沈んでるだけの石なら、Aのほうが静かじゃん」
 女子の一人が口を挟んだ。
「そうかな。誰かが投げた石なのかなんなのかは知らないけど、暗くて静かな川の底に石が沈んでいくんだよ。それってすごく静かな絵じゃないかな。それにBの図がなかったら、僕はAを水の底に沈んでる石だなんてイメージしなかったような気がする。Bのほうがメッセージ性が強いんだよ」
「うわ、田井中スイッチ入った。キモ」
 女子は吐き捨てるようにそう言うと、隣の席の女子に腕を絡めて身を震わせる仕草をした。身を寄せられた女子はおどけた半笑いの表情を浮かべながら、同じように震えてみせた。
 二木が言った。
「僕は、皆にどちらだと感じるか、と聞きました。感じ方に正解不正解はないよ。田井中の意見はおもしろいね。その状態に至る過程の方がよりメッセージ性が強い、っていうのは、あるかもね」
 二木がぐるりと教室内を見渡す。
「皆にこの質問をしたのは、これがデザインについての授業だからです。純粋なアートとは違って、デザインにおいては、どういったものの見方が多数派なのかを知っておかないといけない。自分の主観と一般的な感覚とのギャップを知ったうえで、より多くの人に狙った印象付けをする必要がある」
 ほら、道路標識とかに、あんまり解釈の余地があっても困るでしょ? と二木が言った。
 なんだ、そういう意図だったのかと広一は少し落胆した。「田井中の意見はおもしろい」と、一応はめられたが、狙いを理解しないまま持論をぶちかました自分が滑稽こっけいに思えて仕方がなかった。自分の意見を皆の前でしゃべらせる意味はあったのだろうか。広一は二木を憎らしく思った。二木は皆に背を向けると、黒板上の白い紙に置かれたマグネットへ手を掛けた。
「あの」
 声を発した広一に、教室中からうんざりした感情が押し寄せてくる。もういいって、と誰かがつぶやいた。二木は手を止め、振り返って広一を見た。
「先生はどう感じましたか?」
 二木は瞬きをした。二木の目は黒々としていて大きく、猫に似ている。大きいくせに一重ひとえまぶたという珍しい形の目は、爬虫類じみてもいるかもしれない。ネコトカゲニンゲン、と広一は心の中で呟いた。
「AかBか?」
「はい」
「この図、何回か授業で使ったからなあ。初めて見た時、僕どう思ったっけな……」
 二木はあごに手を添えて、黒板の図を眺めた。
 広一には、二木が口にする答えは絶対に「A」だという確信があった。こいつは絶対「A」だ。二木良平という男を説明するにおいて、これはとても便利な表現だ、と広一は思った。広一は二木の後頭部を見つめて、彼の短い焦げ茶色の髪のその下、頭蓋骨、さらにその内側で起こっていることを想像した。こいつはいつだって「A」の答えを口にする。少なくとも、口先では。
 二木が口を開いた。
「思い出した。僕はこれを初めて見た時、Bの図がまるでボールが床で弾んでいるように見えたんだ。だからどちらに静けさを感じたかと言われれば、Aだね」
 やっぱりな、と広一は内心でほくそ笑んだ。床で弾むボール。明るく正しい感受性を持つ人間の発言だ。二木の、美術教師の割には、絵筆を持ってキャンバスの前に立っているよりも、教壇に立って必修科目を教えている姿のほうがしっくり来る雰囲気にぴったりだ。だが広一はその答えに、アイドルが「好きな食べ物はイチゴのケーキ」と言っているようなあざとさを感じた。もっとも、二木のことをそんな風に斜めに見ているのは自分だけだろう。
「あ、ボールは俺も思ったわ」
「わかる。Bはなんか、ぽんぽん跳ねてる印象だよね。やっぱ静かなのはAだよ」
 生徒たちが次々に二木の意見に追従した。
「この質問は、まあほぼ絶対Aが多数派の結果に終わるんだけど、それでも毎回ちょっとは票が割れるんだよ。このクラスはキレイにAに軍配が上がったね」
 二木はそう言って、少し困ったような顔で笑った。
 
 美術の授業が終わり、広一が自分のクラスの教室に向かって廊下を歩いていると、誰かが追い越しざまに肩をぶつけてきた。広一が手に持っていたノートと筆入れが床に落ち、半開きだった筆入れのファスナーから飛び出したペンが数本、不規則に廊下の上を転がっていった。
 広一はしゃがみ込んで、床に散らばったものを拾い集めた。突き飛ばされたことよりも、そうして拾っているところを周りの人間に見られていることが苦痛だった。上から男子生徒の声が降ってくる。
「お前、教師相手だとめっちゃ喋るよなあ。しかも超早口」
「Bだと思います! Bのほうがより、川の底の石に近いです!」
 一人が広一の声色を真似たつもりなのか、甲高い声でからかった。
「そんな言い方はしてない」
 うつむいたまま、広一は低い声で反論した。
「え、キレるとこ、そこ?」
「田井中、自分は特別ですアピールも大概にしとけよ。イタいから」
 そう言って、男子生徒たちは笑いながら去っていった。黙って筆記用具を拾い集める広一の横を、何本もの脚が通り過ぎていく。紺色のソックスを履いた、女子生徒のむちむちとした太い脚。汚れたスニーカー。顔を上げなくても、自分を一瞥いちべつしていく沢山の目を背中の肌で感じた。隅の方に落ちているペンを拾いたいが、手を伸ばすと踏みつけられてしまいそうだ。広一はしゃがんだまま、筆入れをいじり回しているふりをしながら脚の行列が途切れるのを待った。
 やがて廊下が静かになり、広一は一人、床の上に転がっているペンを見つめた。
 帰りたい、と思った。こんな目に遭った時は、いつもぼんやりそう思う。今すぐ家に帰って、自分の部屋で布団にくるまって何も考えずに眠ってしまいたい。いったんそう考え始めると、どんどん眠くなってくる。だが家に帰れば母がいる。学校を途中で抜けて帰ってきた自分に、母は理由を問いただしてくるだろう。体調が悪いふりをして保健室で眠ろうか。家に帰るにしろ保健室で休むにしろ、この後の授業は欠席になる訳で、さっきちょっかいを掛けてきた奴らやそれを見ていたクラスメイトは、自分が教室にいないのを見てどう思うのだろう。きっと更に馬鹿にするに違いない。そう考えるとしゃくさわる。あいつらにされたことで落ち込んでいると思われたくはない。
 眠気で廊下に沈み込みそうになる体を奮い起こして、広一は教室に向かってのろのろと歩いた。こうして意地を張ったところで、なんの意味もないかもしれない。自分が授業を欠席したとしても、誰ひとり気にも留めない可能性もあるのだから。
 同級生から好かれていないのは確実だろうが、広一は決して激しいいじめを受けている訳ではなかった。さっきの授業のように、攻撃を受けることはあるが、基本的に同級生たちからは、ただただ軽んじられている。
 広一の頭の中で、男子生徒の言葉がリフレインした。
 自分は特別ですアピール。
 その途端、広一は反射的に「死ね」と吐き捨てていた。嫌な言葉が心の深い部分へ落ちてくる前に口から飛び出す悪態は、ウイルスから体を守るくしゃみに似ていると思った。
 お前は自分が特別だと思われたがっている。
 何も知らない奴が偉そうに。その手の言葉は、大嫌いだ。

 小学五年生の頃に両親が離婚してすぐ、都内から母の実家があるこのS県に越してきた。
 新しい小学校に転入して数か月が経ったある日、「委員長」と話した時のことを、広一は高校二年になった今でも覚えている。

「田井中くんって、どんな音楽聴くの?」
 一瞬、なぜそんなことを聞かれたのかと戸惑った。教室の床を掃き終えたほうきを掃除用具入れに仕舞い、ランドセルを手に教室を出ていこうとしている広一を、委員長が見つめていた。彼女の視線の先にある広一の上着のポケットからは、いつもひそかに持ち歩いているMP3プレイヤーのイヤホンが飛び出していた。広一は黙ったまま、ぶら下がっているイヤホンを仕舞った。学校に持ってきてはいけないものだ、ととがめられるのだろうかとも思ったが、委員長の顔には、好奇心しか浮かんでいないように見えた。
「ねえ、どんなの聴いてるの。見せてよ」
 そう言って委員長は広一に歩み寄り、ポケットに手を伸ばした。
「やめて」
 短く叫びながらポケットを手で押さえると、委員長が目を見開いた。
「喋った」
 驚きで引き上げられた眉毛が額にしわを作っていた。広一は苛立った。口がきけないと思っていた訳でもないだろう。極力、喋らないように努めていたとはいえ、授業中に当てられた時だとか、必要最低限の言葉は口にしていた。
「なんでいつも黙ってるの?」
 広一は無言で目を逸らした。
「そうやって黙ってたら、ずっと友達できないよ」
「別に、いい」
 言葉を返すと、委員長の顔に力がみなぎった。コミュニケーションが初めて成立したからだろう。クラス委員長をしていることからもわかる通りの、面倒見の良い女子だった。広一が転入してきた当初、彼女は、新しい転入生をクラスの人間関係に加えようと積極的に努力していたように思う。だが、誰とも会話をしようとしない広一がクラスで浮いていく様子を前にして、次第に彼女の働きかけは、広一に時折話しかける程度のものに変わっていった。とりあえず声をかけてみて、反応が返ってこなくても気にしないという、駅前でティッシュを配っている人たちに近い姿勢だった。
 委員長が広一の目を覗き込んだ。広一には彼女が、自分の眼力には目の前の大人しい相手を捕らえて逃がさない力があると知ったうえでそうしているように見えた。事実、広一はたじろいだ。そして嫌々ながらに言葉を口にした。
「話したら、宇宙人だってばれるから」
「何それ」
「知らない。前の学校で、ずっとそう呼ばれてた」
 ふーん、と言って、委員長が広一の全身を見回した。

 昔から、変わった子供だと言われ続けてきた。
 そう呼ばれることが、ずっと不思議で仕方がなかった。子供ながらに見る限り、自分のような子供は他にもいたからだ。子供同士で遊ぶよりも、本を読んだり、携帯ゲームに没頭したり、そうした一人遊びを好む、内向的な子供たちのことだ。広一が好きだったのは、本と、音楽と、空想だった。本を読み終えては物語の続きを想像して、音楽を聴いては、頭に浮かぶイメージを膨らませて物語にした。そして、その物語をノートに書いた。刑事や殺し屋が登場したり、子供にしてはハードボイルドな内容が多かったように思う。自宅の本棚にあった父の蔵書の影響だ。父はそうした娯楽小説が好きだった。離婚に伴い、小五の時以来会っていない父については、彼自身のことよりも、彼が読んでいた本の内容のほうをよく記憶している。刺激的な内容の本を子供の広一が読むのを、父も母も咎めなかった。母などはむしろ、広一が物語の続きをノートに書いたものを読んで喜んでいた覚えがある。
 元は推理小説なのに、広一が書くとSFみたい。そう言った母にSFとは何かと尋ねると、「すこしふしぎ」の略だと教えられた。それが有名な漫画家が提唱した言葉の受け売りで、本来はサイエンス・フィクションの略だと知ったのはもう少し成長してからのことだ。母はそんな風に広一の物語を評した後、ほとんど毎回、こう付け加えた。
「広一はユニークね。色々言われちゃうのは、周りのレベルが低いからよ。あんたはそのままで堂々としてればいいの」
 物心がついた時には、その台詞はすっかり母の決まり文句と化していた。両親の離婚後、都内から母の実家があるこの田舎町に越して来てからは、末尾に、田舎って嫌ね、という言葉が追加された。
 一拍の間。
 含みのある曖昧な笑顔。
 それが、広一が口をきいた時の周りの反応だった。大人も子供も変わりはなかった。他の内向的な子供たちには、大人しい、や、暗い、だとか、いい意味ではないながらもわかりやすい形容を使うのに対して、広一に与えられるのは、「変」という漠然とした言葉だった。
 自分がなぜそう呼ばれるのかは未だにわからない。内向きな性格だという自覚はあったが、自分が話すたびに皆が変な顔をしたり、静まり返ったり、笑う理由が謎だった。自分自身では当たり前の受け答えをしているつもりだからだ。
 唯一見当が付くのは、その理由がわからない、それこそが自分の「変」なのだということだった。

「私、田井中くんって面白い子だと思うけど」
 広一のこれまでの境遇を想像したのか、委員長がフォローのような言葉をかけた。
「話したこともなかったのに?」
 新しい学校ではできるだけ喋らない。越してくる前に、そう決意していたからだった。
「そうだね。でも直接喋らなくても見てたらわかるよ。なんか独特だから」
 腹の辺りで、どろりと不快感がとぐろを巻いて、広一は顔を背けた。そのまま背を向けて出ていこうとすると、委員長が、持っていた箒を広一の体の前に突き出して進路を妨げた。
「ちょっと待って。私、嫌なこと言った?」
「うん。でも気にしなくていいよ。だいたい皆、そういう感じだし」
「え?」
「昔からそうなんだ。普通にしてるつもりなのに、皆から『変わってる』とか『宇宙人』って言われる。僕は皆が、自分のどんなところをそんな風に言ってるのかがわからない」
「私は、宇宙人とまでは思わなかったけど。どんなことをした時にそういう風に言われてたの?」
「やめてよ」
 うんざりした。他人は、いつもそんな質問をする。自分が何をしたのか、いつだってそれを一番知りたかったのはこっちなのだ。
 委員長が箒を下ろした。
「よくわからないけど、それってそんなに嫌なことかな。個性的って意味でしょ」
「母さんも同じようなこと言うよ」
「いいお母さんだね」
「そうかな。無責任だと思うけど。とにかく、僕は何も喋りたくないんだ。悪いけど、もうほっといて」
「一生黙って過ごすつもり? そんなの無理だよ」
「それは違う。僕は今、地球人になる特訓をしてるんだ。誰からも変に思われない地球人になれたら、その時は喋るよ」
「特訓?」
 委員長が首を傾げた。広一は、ポケットの上から、中のMP3プレイヤーに触れた。どうして「特訓」をしているなんて言ってしまったのだろう、と後悔した。特訓の内容を人に知られるのは、とても恥ずかしいことに思えた。それなのに、不思議と、今ここで委員長に打ち明けてしまいたいとも考えていた。抱えているだけで自分を惨めに感じるような秘密なら、いっそ告白したい、そんな気持ちだったのかもしれない。
「……流行りの曲を、毎日聴いてるんだ。レンタル屋で、ランキングの上のほうのCDを借りてきて、プレイヤーに入れてる。小遣いはそんなに貰ってないから、毎月二枚ずつくらいしか借りれないけど……皆が好きな曲を、良いと思えるようになったら、僕は地球人に近付ける」
 口にすると、予想していた通り、恥ずかしさで傷付いた。
 委員長が呆気にとられた顔をした。訳がわからない、といった様子だった。
「昔の僕は、母さんが言う通りに、何も考えずに好きなように喋ってた。だけど周りから変って言われるのが嫌になって、考えてから喋るようにしたんだ。それでも、変って言われ続けて、思ったんだ。そう言われなくなるには、元から変じゃなくなるしかないって。普通の人は、たぶん、喋る時にそんなにややこしくは考えてないだろ。それって、なんか、音楽聴くときに似てる気がするんだ。うまく言えないけど……そういう部分で、皆と同じ感じ方ができるようになれたら、僕は地球人になれると思う」
「ねえ、なんでそんなに無理して皆と一緒になろうとするの? 友達がいなくてもいいって言ったのは、強がりなわけ」
「友達がいなくてもいいのは本当」
「嘘。友達がいないと、さびしいよ」
 その言葉に、ますます自分と他の人間との隔たりを感じた。他人が言う、さびしいといった気持ちが、昔から理解できなかった。一人の世界に満足していたからだ。
「友達はいなくても平気だけど、地球で生きていくには、地球人にならないと」
「どうして。宇宙人のままじゃ駄目なの?」
 広一は視線を床に落とした。
「そっちだって、火星で息はできないだろ」
 委員長が黙り込んだ。考えている様子だった。
 しばらくそうした後、彼女は顔を上げて、言った。
「だったらさ、私、田井中くんが地球人になれるように協力してあげるよ」
 広一は思わず彼女の顔をまじまじと見た。
「あのね、来週、私の誕生日なんだ。次の日曜日に私の家で誕生日会するんだけど、田井中くん、よかったら来ない?」
 ほんの少し期待したぶんだけ、気持ちが暗くなった。それのどこが地球人になれる方法なのだろう。
「今の話聞いて思ったんだけど、田井中くんがちょっと変わってるのって、そうやって一人でいるからだと思う。皆と遊べば、だんだん、皆と同じようになっていけるんじゃないかな」
 そんな考え方もあるのかと思いながらも、気の進む話ではなかった。人気者の彼女の誕生日会には、大勢のクラスメイトが集まるはずだ。今までの経験から言えば、きっとそこで何か宇宙人的な言動をしてしまって、嫌な思いをするに違いない。
 だが広一は、その時、顔をしかめながらも、彼女の提案にかすかな希望を抱き始めていた。
 委員長が言ったのは、つまりこういうことだ。変だから、一人なんじゃない。一人でいたから、変になった。
 正直なところ、一体どっちが先にあったのかは、自分には解けない謎に思えた。だが、自分の「変」が、後からそうなったものだと考えると、まだ救われる気がした。

 誕生日会の当日、委員長の家に現れた広一を見て、同級生たちは驚いた顔をした。一気によそよそしくなった空気に、自宅へ引き返したくなったが、玄関先で自分を出迎えた委員長の笑顔を思い出して踏みとどまった。
 とは言っても、何をして過ごせばいいのかがわからなかった。ご馳走にケーキと、誕生日会の基本的なプログラムらしいものが行われている間はまだ良かった。目の前の食べ物を黙々と片付けることなら自分にもできた。困ったのは食事を終えた後、皆が好きに遊びだした時だ。菓子を食べながら、手帳に貼ったプリクラらしきものを眺めて喋っている女子たち。テレビの前で、ゴーカートのゲームで対戦している男子たちと、そのギャラリー。リビングの広い窓からは、庭でバドミントンをしている同級生たちの姿が見えた。頼みの綱の委員長もその中にいた。食事中も何度か話題を振ってくれていた委員長だが、主役の彼女は、広一ばかりに構っている訳にもいかないのだろう。
 どの遊びにも混じれず、広一は、リビングのラックに並んでいるCDを眺めていた。
 そこには、広一の好きな音楽アーティストのCDがあった。
 毎日「特訓」と称して聴いている流行りの曲ではなく、広一が本当に好きなアーティストのアルバムだった。委員長の親のものなのだろう。「普通」の子供の委員長が、このアーティストを好きだとは考えにくかった。このアーティストの曲が好きだということは、広一にとって、コンプレックスになり始めていた。これまで、人に言うと、大人は、どことなく含みのある曖昧な笑顔になって「ずいぶん渋い趣味だね」と言い、同年代の子供からは、大人のウケを狙っている、と言われてきたからだ。
「音楽、好きなんか?」
 頭上から声がした。
 委員長の父親が、缶ビールを片手に立っていた。浅黒く焼けた肌のがっしりとした体躯たいくに坊主頭で、いかにも昔スポーツか格闘技をやっていたような見た目をした彼は、関西出身らしい方言を使った。全部の特徴が、威圧感を放っていた。
 広一はぎこちなく頷いた。
「ここにあるやつな、全部おっちゃんのやねん。おっちゃん、昔ギター弾いててんで。意外やろ」
 父親はそう言って、広一の目の前で太くて短い指を広げてみせた。
「古いのばっかりやけど、なんか持っていきたいやつあったら貸したろか?」
 もう一度頷くには、ためらいがあった。その音楽を好きだということ自体が、正さなくてはいけない自分の「変」のひとつのような気がしていた。
 それでも本当は、貸して欲しいと言いたかった。昔は自分の家にもあったそのアルバムは、両親の離婚と共に、棚から姿を消した。実の父が持って行ったのか、父が残したものを母が棄てたのかはわからない。
 広一は迷ったあげく、ふたたび小さく頷いて、目の前にある一枚のアルバムを指さした。
「この歌手知ってるん?」
「はい」
「よう、こんなん知ってるなあ。でもこれ、おっちゃんもお気に入りやで。この曲とか最高にええよな」
 父親は、ラックからアルバムを引き抜いて、裏面の曲目に書かれた表題曲に人差し指を置いた。
「きみはどれが好きなん?」
 広一は曲目の二番目に書かれた曲を示した。指の先にあるタイトルを見て、父親が笑った。
「ませとるなあ。めっちゃ大人の恋愛の歌やで」
 その言葉に、首筋から顔をめがけて熱がのぼってくるのを感じた。
「違います」
 思わず口にした言葉は、反論というよりも、弁解だった。自分は決してませた子供ではない。この曲が好きなのは、他の理由だ。
「僕には、別のことを歌ってるように聴こえます。この曲を作った人にとって、歌詞にある『ダーリン』っていうのは、もしかしたら音楽のことなんじゃないかと思います。えっと、つまり、僕はこの曲が好きですけど、ませてるとかそんなんじゃないです」
 言いながら抱いた、自分は今、失敗をしているかもしれない、という予感は、言葉を結んだ瞬間に確信になった。目の前にいる父親が、奇妙なものに対する目でこっちを見ていたからだ。父親の意識が、今言ったことの内容を通り越して、自分という子供そのものへ何かの判定を下したのを感じ取った。
「きみ、変わっとるな。何かえらい、かしこ、、、な喋り方するし。子供らしくないわ」
 広一はうつむいた。またやってしまった、と思った。ただでさえ、普通になるために参加した誕生日会で、結局遊びに加われていないのだ。誘ってくれた委員長への申し訳なさも相まって、これまでに何度も周りから言われてきた類の言葉に、今まで以上に落ち込んだ。
 委員長の父親が、顎を掻きながらリビングを見渡した。
「CD、好きなん持っていき。返すとき、娘に渡してくれたらいいから。きみ名前なんて言うん?」
「……田井中広一です」
「そうか。広一くんなあ、せっかく来たんやから、一人でおらんと皆と遊ばなあかんで」
 父親はそう言うと、広一の手にCDを渡して、リビングで遊んでいる子供たちのほうへ向かった。そして、テレビゲームに興じる男子たちのうちの一人、コントローラーを握らず観戦していた子供の髪をいきなりぐしゃぐしゃとかきまわした。
 やめろよおっちゃん、と、声が上がる。それでもやめない父親に、髪を乱された男子は振り向いて、腹にパンチをした。
 拳をもらった父親はびくともせずに、おっ、やるか、と好戦的に言って、拳を繰り出した男子を軽々と肩の上に持ち上げると、そのまま回転した。空中で叫び声を上げる友人を助けるためなのか、別の男子が父親をぽかぽかと殴った。父親は笑っていた。そんな彼を倒そうと、また別の男子が加勢した。
 子供らしいとは、ああいうことだろうか。
 広一はソファに座ったままその光景を見つめていた。その場の全員が、目の前の戦いを笑って眺めていた。窓の外に目をやると、さっきまでバドミントンに夢中になっていた同級生たちも部屋の中を見て笑っていた。委員長も笑っていたが、広一と目が合うと、あっ、とうろたえたような顔をした。広一がひとりでソファに座っているのに気付いたことが理由らしかった。
 気付けば広一は、CDをソファに置いて立ち上がっていた。
 父親のもとへと歩み寄ると、少しためらった後、彼の尻をズボンの上からぺしん、と平手で叩いてみた。
 男子を肩に乗せて振り回していた父親が視線を下に向け、遊びに加わってきた広一を見て、にやりと笑った。広一はほっとした。先程「子供らしくない」と言われてしまったことを、少しは挽回できたような気がした。
「全然効かん!」
 父親が不敵に叫んで、肩に乗せていた男子を床に下ろすと、今度は別の男子を拾い上げて再び回り始めた。スイングから解放された男子はさっきの恨みと言わんばかりに、父親に殴りかかっていった。広一も負けじと、父親の腹を殴った。彼の身体は脂肪と固い筋肉に覆われていて、多少殴ったところで、何ともないようだった。広一は脛を強く蹴った。そこで初めて、父親はイテッと声を上げた。おどけた感じの声だった。広一は、心が自信で満たされていくのを感じた。自分だってこんな風に、子供らしくじゃれることができるのだ。広一は何度も同じ場所を蹴った後、後ろに回って、今度は膝の裏を蹴った。父親ががくんと膝を折り、バランスを崩した。
「危なっ」
 父親は短く叫ぶと、肩の上に乗せていた男子をかばうように体をひねって、彼を床へ下ろした。腰を屈めたために、髭面の顔が広一の手の届く距離に降りてきた。
 広一はすかさず手を振り上げ、平手で頬を打った。
 ぱしん、という音がリビングに響き渡り、それまで喧噪けんそうに満ちていた部屋が、一気に静まり返った。
 打たれた方向に向いている父親の横顔は、さっきまでとは打って変わってとても冷たかった。周りのクラスメイトたちも凍り付いていた。広一は自分がふたたび間違いを犯してしまったのだと察した。
 父親はしばらく同じ表情のまま無言だったが、やがて、呆れたように笑った。
「きみなあ、今のはあかんやろ」
 そう言って広一の頬をぴたぴたと叩いた。
「顔はあかんで。皆が見てる前で頬っぺた叩かれたら、嫌やろ?」
「ごめんなさい」
 萎縮のせいか、いじけたような声になった。父親が笑顔で、わかったならええよ、と言った。広一は小さな声で何度も謝った。父親が許しの言葉を口にした後も、場は静かなままだった。その中に、窓の向こうからこっちを見ている委員長の硬い表情を見た時、広一はこの場に来たことを心底後悔した。

 即座に帰宅したい気持ちをこらえて、皆の意識が散るのを見計らってから、広一は荷物を手に取った。母に言われてプレゼント用に買ったレターセットも、もう、渡す勇気がなかった。父親の顔を叩いた自分の贈り物は受け取ってもらえない気がした。だが、帰る前にせめてもう一言、彼女の父親には謝りたかった。後から考えれば考えるほど、彼の言う通り、皆が見ている前で人の顔を叩いたのはひどいことだと感じていた。それに、彼はある意味で、広一にとって初めての人間だった。これまで他人は、広一にただ曖昧な顔を向けるだけで、さっきの、顔を叩いては駄目だ、という言葉のように、何が間違っていたのかを具体的に教える人間はいなかったからだ。父親の姿はリビングにはなかった。キッチンに目をやると、委員長の母親が片付け物をしながら横を向いて話していたので、広一は皆に見られないよう、静かにキッチンへと歩み寄った。
「まあ、なあ」
 缶を潰してゴミ箱に放る音がした。姿の見えない父親に話しかけようとした直後に、広一は口をつぐんだ。
「でもあれ、だいぶ変わっとるで」
「まだ子供だからよ。ああやって周りがちゃんと教えてあげれば、わかるようになるわ」
「よその子供を注意できん大人が多いから、今までわからんかったんかもな」
「サッカークラブ誘ったら? 団体スポーツって自然と協調性身に付くし」
「せやな。でもな」
 缶のプルタブを起こす音が聞こえた。
「ああいうのは、運動神経みたいなもんで」
 中身を飲んでいるのか、間があった。
「結局は感性っていうか、センスやから、変わりもんはずっと変わりもんやで。うちに来る若い職人の中にもおるやろ」
「子供相手に、ちょっとキツ過ぎるんじゃない。それとね、ほんの少し接しただけでそんなに相手のことがわかるなら、すぐ飛ぶ人雇わないで」
「まあとにかく、クラブはナシの方向で。入っても、本人がしんどい思いするだけちゃうかな。こっちもちょっと自信ないわ。さっき顔はたかれた時、一瞬しばいたろかと思ってもうたしな」
 直後にした音が、自分の肩から鞄が床にずり落ちたことによるものなのだと気付いたのは、委員長の母が振り向き、父親が食器棚の後ろから顔を出した時だった。広一は肩ひもを握ったまま、言葉を口にした。
「あの、これ」
 取り繕うような表情を浮かべている委員長の両親を交互に見ながら、鞄の中を掻きまわした。
「島崎さんに、プレゼント、あの、僕、もう家、帰らないと、渡しておいてください」
 なぜか、するつもりもなかった頼みごとをとっさにこしらえていた。広一は包装紙に包んだレターセットを電話の脇に置くと、玄関へ向かった。
 スニーカーに足を突っ込んだ瞬間、何かが緩んで、涙がこぼれた。
「ちょっと待ち」
 後ろから父親の声がした。袖で涙を拭ってから、広一は振り向いた。
「顔叩いて、本当に、ごめんなさい」
 父親は廊下の少し離れた場所に立って、項うな垂だ れる広一をまっすぐ見つめていた。
「子供らしく、皆みたいにしないとと思って調子に乗り過ぎました。すみません。おじさんに、子供らしくないって言われたのが嫌で、ムキになりました」
「うん。それはもう、ええよ。これからはせんかったらええ。なあ、広一くんやったっけ。あのな、おっちゃん大人やけど、人間やから、叩かれたら嫌な思いもするねん。さっきみたいに変なことも言うし。サッカーも、きみが入りたかったらおいで。でもな広一くん、きみは確かに、子供らしくないで」
 父親が気遣うように笑った。
「さっき聞いてもうた話は気にせんとき。おっちゃんが間違ってたんかもしれへん。きみはもしかしたら、他の子と違う感じに振る舞って、自分の方、見てもらおうとしてるだけなんかもな。そんなことせんと、思ったままのこと言って自然にしてたらええんやで。そしたら周りとも、うまくやれるわ」
 父親は広一に歩み寄ると、頭の上に優しく手を置いた。
「子供は子供らしくな」
 頭のてっぺんに置かれた掌は、大きく、力強く、温かかった。その温かみを感じながら、広一は、この人の言う子供に自分は含まれないのだな、と思った。

 変わり者はずっと変わり者。
 どうやったって、普通にはなれない。
 そのことを受け入れて、劣等感を持ったまま過ごしていくのは耐えられなかったのだろう。地球人になるのを、諦めることはできなかった。あの父親が言ったように、原因が運動神経と同じくセンスのような部分にあるのなら、普通になる方法は、やはりひとつだ。
 広一はその日からより一層、元の自分を消す努力をした。
 好きな音楽や本を楽しむことは一切やめた。自分の「変」が感性に由来しているというのなら、一度まっさらにしなくてはいけない。歪んだ土台へ何を積んでも歪みはさらに大きくなるだけだ。自分が少しでも好きだと感じてしまうものは全て絶って、ヒット曲を聴き続けた。
 続けるうちに、少しずつ、自分が本当は何が好きだったのかがわからなくなっていった。それでいい、と思った。こうして元の自分が消えてしまえば、きっともう少し息がしやすくなる。
 それでも、中学に入り、卒業する頃になっても、空気は薄いままだった。
 ある日、ネットで一件のブログ記事を見つけた。
 昔の自分が好きだったアーティストのファンが書いたものだった。そこには、例の誕生会の日に、解釈を語って委員長の父親に鼻白まれた曲の和訳と、ブログの筆者が綴った文章があった。
「ロクに相手もせず放ったらかしていた恋人が、部屋の片隅からこっちを見ている。関係はすっかりこじれている。疎ましくすら感じているくせに、彼女が他の男のもとへ行くのは許せない。結局のところ彼は、彼女を幸せにできない自分にすねているのだ。この彼女というのはもしかすると、○○○○が自らの楽才を擬人化した存在なのかもしれない」
 記事には沢山の「いいね」が付いていた。
 それを見た瞬間の感情がどんなものだったのかは思い出せず、記憶のブランクになっているが、少し遅れてやってきたのが、むなしさだったことは覚えている。
 ところ変われば、自分の意見はこうして支持される。特訓と称して続けてきた努力は、一体なんだったのだろう。
 むなしさは次第に、その場にあるものをすべて壁へ叩きつけたくなるほどの腹立たしさへと変わった。うねる気持ちに滑り込んできたのは、昔から聞かされ続けてきた母の言葉だった。
 ──広一はユニークね。色々言われちゃうのは、周りのレベルが低いからよ。あんたはそのままで堂々としてればいいの。
 その日以来、広一は特訓をしなくなった。

 十六歳になった今の広一は、何かを思いついた時に、口に出すのを我慢できない。
 さっきの美術の授業がいい例だ。黙ってさえいれば少なくとも叩かれはしないはずなのに、空気を読んで自分を殺すということができない。誰かに意見を横取りされるのではという焦燥感に駆られて、我先にと前に出てしまう。
 ずっと、「変」な自分が嫌いだった。
 変、というのは、相対的なものなのだろうと、今では思う。
 言い換えれば、それは「特別」ということだ。
 いつからか、「特別」というのが、自分を唯一肯定できる言葉になっていた。
 そんな意識を持って振る舞い始めたせいか、周囲の人間はだんだんと、広一にきつく当たるようになった。確かに疎まれても仕方がないと思う。周りからすれば、単純に鬱陶うっとうしいうえに、見下されているような気がして不快になるのかもしれない。現に自分はクラスメイトを見下している。だが同時に、自分より、周りの人間の方がはるかに上等だとも感じている。皆には友達がいて、自分にはいない。それが、自分と違って皆が地球に向いている証拠のひとつだ。自分が人を見下してしまうのは、そうしないと自分自身の心が守れないからだと、きちんと気付けている部分だけは、自分を褒めたかった。人を見下して心をなだめる自らを蔑む気持ちと、その心理を知っているという自負、そうした自意識がキャベツやレタスのように層になって、心をひだだらけにしていた。

 廊下に佇む広一の脳裏に、ふと、あの男の顔がよぎった。
 二木良平。
 このところの広一は、自分のことについて考えるたびに、内心で彼のことを引き合いに出していた。
 自分がどこかズレた人間なら、あいつの頭の中はさらにとんでもない。にもかかわらず、まったく普通の顔をして、口先で「A」の答えを並べ立て、周りをうまくだましている。二木は特別に生徒から人気のある教師という訳ではないが、彼のある種すごいところは、どんな教師にも大抵ついて回るアンチの存在がないことだった。広一は学校で孤立しているので、あくまでも観察した限りではあるが、二木が馬鹿にされたり悪く言われたりするのを聞いたことがない。そして、二木の周りに誰かがいるとき、男子も女子も関係なく、彼との距離が近い。体の距離がという意味だ。好意を持たれてそうなっているというよりは、草をもしゃもしゃ食べている草食動物の頭や背に小鳥がとまっているようなイメージだ。二木は顔付きこそ猫やトカゲに似ているが、全体的な雰囲気は大型の草食獣なのだ。まるでファンタジー作品に出てくる合成獣キメラだ、と広一は感じていた。彼に生徒が身を寄せている光景を見るたび広一は、自分だったら絶対に、二木の半径一メートル内には入らない、と思う。もし彼らが二木の正体を知ったら、小鳥がのんびり休んでいたところへいきなり銃声が響いた時のように、パニック状態で一斉に飛び立っていくだろう。それどころか、二木はもう色んな意味で終わりだ。
 自分だけが二木の頭の中身を知っている。
 今日こそ、学校が終わったらあそこへ行こう──そう広一は思った。発売日からもう四日も経っている。ずっと気になっていたのだが、なんとなく、勇気の出ない日が続いて先延ばしにしていた。
 さっきまでの、今すぐ家に帰って眠りの世界に逃げ込みたいという気持ちはいつの間にか消えていた。心臓がどきどきと高鳴って、そのときめきを胸に、残りの授業も頑張ってやり過ごせそうだった。広一は廊下をふたたび歩き出しながら、たった今決めた放課後の予定に思いを馳せた。
 二木は、世の中でもっとも気持ち悪い存在なのだ。

 自宅に帰るやいなや、広一は制服からTシャツとジーンズに着替えた。
「あれ? どっか行くの?」
 自分の部屋がある二階から階段を降りてくる広一の姿をみとめて、母が声をかけた。広一は家の中で過ごすときはジーンズを穿かない。
 母は寝間着姿だった。看護師として勤めている病院の勤務シフトが夜勤の日なので、今から出勤前まで眠るのだ。
「ちょっと本屋」
「あ、じゃあさ、テレビジャン買っといてよ」
 スリッパの音を鳴らしてリビングに引っ込み、財布から一万円札を取り出して母が戻ってくる。
「テレビオーじゃなくて、テレビジャンよ。間違えないでね」
 広一は一万円札を受け取った。
「番組ガイドなんてどれも同じじゃないの」
「酒井さんのエッセイが読みたいのよ」
「お釣り、使ってもいい」
「駄目。自分の本は月のお小遣いで買って」
「パシらされるのに小遣いもなしかよ」
「ついででしょ」
 広一は諦めて靴を履いた。
「晩御飯、おばあちゃんちで食べてね」
「了解」
 三和土たたきでスニーカーの爪先をトントンと整えていると、背後から母の視線を感じた。振り返ると、母は階段下の柱に寄りかかって、腕組み姿でこちらを見つめていた。
「何」
「すぐ帰ってくる?」
「いや、立ち読みとかするから遅くなるよ」
「……気を付けてね。あんまり暗くなると、危ないし」
「チャリで行くし、俺は男だから大丈夫」
「男の子でも危ないかも。それに自転車に乗ってても、悪い奴は平気でさらうわよ」
 後ろから車で軽くぶつけて、転んだところを車に引きずり込むんだから、と母が言う。広一は自分が誘拐される対象だとみなされたことに鼻白んだ。身長が低くて、幼く見えるほうだとはいえ自分は高二なのだ。高二にもなって、変質者に狙われる「男の子」はないだろう。
「大丈夫、大丈夫。でも気を付けるよ」
 広一は手をひらひらと振って家を出た。
 自転車にまたがって、ゆっくりと漕こぎ出す。曲がり角の手前にある家の前を通るとき、室外機から吐き出される熱風が顔を直撃した。ただでさえ暑いのに、と顔を歪めたが、角を曲がり、左右に田んぼが広がる開けた道を走り出すと、風が全身を撫でて気持ちがよかった。目的の本屋は国道沿いにある。国道に出てからもしばらく走らないといけない程の距離だ。ここでは全てが遠い。自動車が運転できないのはもちろんのこと、原付も持っていない広一はどこへ行くにも時間がかかったが、自転車に乗りながら考え事をするのが好きなので特に苦にはしていなかった。
 
 田舎特有の、無駄に広い駐車場の片隅に自転車を停めた。店の看板には漢字一つで大きく「本」と書かれていて、その横にはそれよりも小さい文字で「ゲーム・ホビー」とある。二階建ての大型書店だった。
 自動ドアをくぐると、中は冷房が効いていて、肌の表面の汗が冷えて一気に涼しくなった。店内の客足はまばらだ。広一はまず雑誌のコーナーに向かい、母に頼まれた番組ガイドを探した。同ジャンルで似たような名前をした雑誌が複数あったが、言われた通りの名前の雑誌を手に取った。表紙では次のクールから始まるドラマの主演女優が、オレンジを手に持って笑っている。この雑誌の表紙はどうしていつも人物がオレンジを持っているのだろう。表紙に必ずオレンジが、という印象があったのでこの雑誌で合っているはずだが、前に間違えて別の雑誌を買って帰った時には母からまあまあしつこく文句を言われた記憶があるので、一応、目次を開いて確認してみる。下部に、母がこの雑誌を買う目的としている連載エッセイのタイトルがあった。この雑誌で間違いない。母は、このエッセイを執筆している俳優のファンなのだ。
 広一は番組ガイドを小脇に抱えると、漫画のコーナーに向かい、それとなく眺めるふりをしながら本棚の間を歩いた。宣伝ポップのついた話題の漫画を手に取ったりしつつ、店の奥へと進んでいく。同時に、近くにいる客の中に知り合いがいないかも目を走らせて確認した。そして、目的のコーナー付近へ辿り着くと、ごく自然にそのスペースに入っていった。
 目の前に並ぶ表紙の毛色が一気に変わる。成人向け雑誌のコーナーだ。レンタルビデオ店のアダルトコーナーのように暖簾で隔離されている訳ではないが、囲い込むように本棚を配置して、他の客からの目を避けるようなつくりになっている。
 広一の他にその場所にいる客は中年男性の一人だけだった。背中を向けているが、明らかに知っている人間ではない。広一が入ってきたことに気付いているのかどうかはわからないが、エロ本を物色する後ろ姿からは他人を拒絶するオーラが立ち上っていた。広一は彼を横目に、目当ての本棚の前に立った。並んでいる表紙の色彩が全体的にピンク色と肌色だらけなのはそのコーナーの他の本棚と変わりがないが、そこに並ぶ女性はすべて、実写ではなくイラストで描かれていた。いわゆるエロ漫画だ。その中に、ひとつだけ色彩の違う表紙の雑誌があった。他のエロ漫画雑誌の表紙の女性が、ピンク色を基調にあしらったデザインを背景に、露出した肌にとろみのある質感の液体を滴らせたりしているのに対して、その雑誌は真っ青な空に入道雲が浮いた真夏の空の下で、白いシャツを着たポニーテールの女の子がアイスを手に持って眩しそうに空を仰いでいた。とても爽やかな一枚絵で、いやらしさは感じられない。唯一少しだけ性的と言えば性的なのは、女の子の首筋に流れている一粒の汗だ。だが、このイラストだけを見てエロを感じる人間はほとんどいないだろう。
 広一はその雑誌を手に取った。右斜め上の壁に監視カメラがあるのは知っている。その角度からは一冊だけ手にしたように見えただろうが、実際には二冊重ねて本棚から持ち上げていた。そのまま別の本棚の前に移動する。中年男性と背中合わせになるかたちになった。この書店の監視カメラは、どこを監視しているかわからないドーム型のものではなく、監視方向がわかるボックス型のカメラだ。広一はそこがカメラの死角だということをチェック済みだった。
 広一は素早く、Tシャツをまくり上げて二冊のうちの一冊をジーンズの隙間に挟んだ。背筋を伸ばして立てば腹のあたりがいやにまっすぐなのでバレてしまうだろうが、Tシャツが大きめのサイズだから、いつも通りの猫背気味で歩けば見た目にはわからない。手元に残った一冊の方を本棚に戻すと、広一は成人雑誌のコーナーを出た。真面目に監視カメラをチェックしている人間がいるのかどうかは疑問だが、傍から見れば出来心でエロ本を手に取った少年が、成人コーナーをうろついたあげく、結局その本を本棚に戻したようにしか見えないはずだ。 
 広一はまた何気なく漫画を眺めるふりをしながら、店のトイレへと向かった。
 トイレの前には「商品を持ち込まないでください」という張り紙がしてある。広一は小脇に抱えていた番組ガイドを、とりあえず一旦といった仕草でトイレの前の本棚に置いてから、中へ入った。トイレは無人だった。広一は奥にある小窓の前に立った。換気のためなのか、跳ね上げ式の窓の下部が開いている。窓の向こうは、隣接する倉庫らしき建物の壁だ。広一はTシャツの下から雑誌を取り出して、窓の隙間から外へと落とした。ついでなので小便器で用を足し、手を洗ってトイレを後にした。本棚に置いておいた番組ガイドを手に取ると、レジへ向かう。その途中ではたと、自分用の本も何か一冊買っておくべきだと気が付いた。母に買って帰るこの雑誌があるから店員に対するカモフラージュは問題ないだろうが、母が万が一レシートを欲しがった場合、自分が頼んだものしか記載されていないレシートを見て彼女はどう思うだろうか。本屋に行くと言って出ていった息子がわざわざ遠い距離を自転車で走って、結局何も買わずに帰ってくるというのは少し不自然かもしれない。自分の買い物は小遣いで済ませろとは言われたが、親子の買い物でわざわざレシートを別にするのも変な話だろう。自分用の本を何も買わずに帰ってきたことに対しては「立ち読みだけして店を出た」で済むし、レシートに母のための雑誌しか載っていないことは「釣銭を返すことを考えて会計を別にした」で説明が付くだろう。だが、何とでも言い訳ができるにしても、不自然なことは避けたい。盗みを働いたことなんて自分自身の頭からも追いやって、全く普段通りに買い物を済ませることが万引きのコツだと広一は思っている。とは言っても他のものを盗んだことはなく、万引きの癖自体があるわけではなかったが。未成年の自分が成人向け雑誌を店頭で買うことはできないし、通販で自宅にエロ雑誌を届けてもらう訳にもいかない。この雑誌を手に入れるには、こんな方法しかないのだ。
 広一は少し考えたあと、漫画のコーナーを抜けて小説コーナーへ行った。表紙を表にして陳列されてある新刊の中から、緑色の文庫本を取った。正確にはその本の装丁自体が緑色をしている訳ではない。ただ、タイトルや帯に書かれた文章から、全体的に「緑色」という印象のする本だった。広一は、文字や数字を見ると、いつもそうした感覚を抱いた。字に色が付いて見えるのだ。その字が実際は何色をしているかは関係ない。
 緑色っぽい本を選んだのは、単に緑色を選びたい気分だったからだ。内容はよく知らないし、どうでもいい。ただ、漫画よりは小説の方が好きだ。漫画は一瞬で読み終わってしまうが、小説だと一冊で数日は暇をつぶせる。
 レジへ行く。二十歳くらいの男の店員が、低いテンションで応対をした。会計を済ませると、二冊の本が入った黒いビニール袋を持って、入口の防犯ゲートを抜ける。当たり前だが警報は鳴らない。広一は駐車場へ行き、倉庫付近に止めておいた自分の自転車に近付いて、周りを見回したあと、こっそり店と倉庫の隙間に入った。さっき窓から落とした雑誌を店のビニール袋に入れ、物陰から駐車場にまだ誰も来ていないことを確認して隙間から出た。
 自転車の前かごに袋を入れ、走り出す。国道に出て、店内で冷やされた体で外のぬるい風をくぐった時、広一はまるで徒競走のゴールテープを切ったかのような気分だった。はあっと息を吐き、普段より大きく脈打つ鼓動を感じながら、広一はペダルを漕ぐ速度を速めて次の目的地へと向かった。

 林道の脇に、鉄の棒が立っている。この棒がなんなのかは、初めて見た時からの広一の謎だ。標識でもないし、夜道を照らすランプでもない。林道を少し入ったところから、人の歩く部分と草木が生い茂る林との境界を示すように等間隔に立っている。田舎には謎が多い、と思う。棒の中で、いま目の前にある一本だけが過去にここで事故でもあったかのように、腰の高さの位置でひしゃげている。それが目印だった。広一は林の奥に分け入った。ジーンズの裾から虫が侵入してこないかと気にしながら進んでいくと、黒いワンボックスカーの車体が見えた。林の奥は入口と比べて草が少ない。代わりに背の高い木が多く、まだ日がある時間帯にもかかわらず薄暗かった。車の横に立ち、半開きのドアに手を掛ける。きしむ音を立てながらドアを開けた。直射日光の当たる場所ではないから、夏の車内の暴力的な暑さではなかったが、それでも随分むわっとしていた。
 この、打ち棄てられた車の存在を知ったのは広一が高校に上がったばかりの頃だった。
 ひとり、自転車であちこちを散策していてこの林道を通りかかったとき、ひしゃげた棒の横に冷蔵庫が捨ててあるのを見つけた。近付いて見てみると、林のさらに奥に別の何かが捨てられているのが見えた。興味を引かれて広一は林へ踏み込んだ。捨ててあるのはテレビだった。冷蔵庫もテレビも、捨てられている割には綺麗な見た目をしていて、まだ使えそうだった。もっと他に捨てられているものがあるかもしれない。冷蔵庫とテレビは自転車で持って帰れないし、そもそも要らないが、ちょうどいい大きさのスピーカーなんかが捨ててあったらラッキーだ。そう考えて奥へと進むと、車を発見した。土埃や枯れ葉を被ってはいたが、手前にあった家電同様、そこそこ綺麗だった。振り返って今来た道を改めてよく見ると、伸びた草木に隠されてはいたが、かすかにその車のものらしいわだちの形跡があった。
 木が映り込んでいる窓から車内を覗き込み、中に不穏なものがないことを確認してからドアを引いてみた。ロックはかかっていなかった。ざっと車内を観察して好奇心を満たすと、広一は何も持ち去らずに林を後にした。家電二つと車の他には、捨てられている物はなかった。その後、何度かその道を通ったが、冷蔵庫とテレビはいつの間にか消えていた。車も同様に撤去されたのだろうかと思い、棄てられていた場所をチェックしてみると、その黒いボックスカーだけはなぜか変わらずそこにあった。やはり田舎には謎が多い。
 しばらくの間、その車の存在は頭の片隅にあるだけだったのだが、広一に今現在の趣味、、ができて以来、車は格好の隠し場所となった。
 ちょっとした心霊スポットとなっている廃屋や、めったに人が来ない神社など、隠し場所の候補は他にもあったが、そういう場所は大抵、不良の溜まり場になっている。消去法で考えた結果、この場所になった。今では割と気に入っている。薄暗いので、雑誌を眺めていると目が疲れるのが難点だが。
 広一は運転席に滑り込むと、助手席のシートの上に雑誌の入ったビニール袋を置いた。ダッシュボードを開く。これまで集めた雑誌は、ちゃんとそこにあった。ダッシュボードを閉めると、ビニール袋から雑誌を取り出し、ハンドルの上に載せた。表紙を眺める。女の子の日常のワンシーンを切り取ったそのイラストは、改めて、エロというよりは、夏の日の切なさのようなものが感じられて、本当にエロ本には見えない。この雑誌はいつもこんな雰囲気の表紙だ。中身はそこらへんのエロ本よりも、ある意味かなりどぎついのに。まるで、あいつみたいだ。そう考えた瞬間、広一はその符合に小さく笑った。
 ページをぱらぱらとめくる。「がじぞう」先生の見慣れた絵柄を発見して、そこで手を止めた。今回は、雑誌のやや先頭に近いページに掲載されていた。たまにしか載らないのに、結構人気があるな、と思った。
 今回のヒロインは、髪の毛を二つくくりにした女の子だった。スクール水着を着ていて、肌には日焼けを表すトーンが貼られている。いつも通り、女の子の年齢をぼかすような描写をされているが、平らな胸や尻、水着の種類からして、どう見ても小学生だ。市民プールで遊ぶその女の子は、そこに連れてきてくれた親戚の「お兄ちゃん」に恋をしているらしい。彼女はお兄ちゃんに幼児体型をからかわれ、頬をぷうっと膨らませてむくれていた。少女のスクール水着姿をきわどいアングルでこれでもかと描ききって、プールの場面は終わった。二人は家に帰る。少女は夏の間だけ、お兄ちゃんの家に泊まりに来ているらしい。彼の両親は、今夜は帰ってこないようだ。少女は、日焼けがひりついて痛いと言い、顔を赤らめながらお兄ちゃんの前で服を脱いだ。彼はドギマギしながら、少女の身体に軟膏のようなものを塗り広げる。やがて、彼の手が少女の胸に伸びてきて──
 日焼けあとの部分だけトーンを白く切り取られた裸の少女が、お兄ちゃんに背後から激しく揺さぶられているシーンを眺めながら、広一は、相変わらず凄い展開だな、と思っていた。一見まともそうなお兄ちゃんが親戚の少女に対してぽんと一線を越えてしまうことも、こんな小さな女の子が誘ってくることも、いくら虚構にしたって非現実的な気がしたが、ほとんどをエロ描写に使いつつも少ないコマと台詞数でそれなりに説得力のある理由付けがなされていたので、広一はその手腕に妙な感心を抱いた。漫画は、駅のホームで、抜けるような夏の青空と自分の住む場所へと帰る電車をバックに、少女が「次の休みにまた来るからね」とお兄ちゃんに笑顔で約束するシーンで終わった。何、いい感じで終わってるんだよ、と広一は思った。
 自分の下半身を確認するまでもなく、広一は勃起していなかった。お兄ちゃんの指が女の子の肌をねちねちといたぶっているさまは、なんとなく変な気分にならないでもなかったが、これは「がじぞう」先生が女の子をこんな風に触りたいという願望をそのまま漫画にしているのだろうか、と思うと、エロ本を見るというよりは、ファーブルが昆虫を観察するような目線になってしまって、変な気分はどこかへ行った。それに、こんな、明らかに小学生くらいの女の子で興奮するなんて自分には無理だ。小さい女の子が男に乗っかられていると、セックスというより暴力に見えて、性的な反応は一切起こらない。
 これが普通の感覚だ、と広一は思った。自分は周りから変だ変だと言われているが、人として、男として、絶対にやってはいけないことはきちんとわかっている。万引きはしたが、こんなことを考えている奴に比べたら、ずっとマシだろう。
 小さな女の子を見て興奮するなんて奴は、壊れている。地獄行きだ。
 しかも、この雑誌に載っている漫画はまだ内容がかわいらしいほうだ。「がじぞう」の作品情報はネットでチェックしている。それによると、「がじぞう」はこうした商業誌に単発で作品が時折掲載されるほかに、年に一度ぐらいのペースで同人誌を発行している。過去に発行した同人誌は、同人イベントか通販で購入するしか方法がない。こんな漫画を好きな奴らが集まるイベントに行くなんてまっぴらだし、そもそも見るからに未成年の自分がR ─ 18 の本を買うことはできない。おまけに最大の理由として、本人に会いたくない。同人誌の販売イベントというものに果たして本人が来るのかどうか、その辺の事情はわからないが。
 通販という選択肢もありえない。年齢を誤魔化して注文できたとしても、自宅にこんな雑誌が届いて、母にバレたら自分は死ぬ。普通のエロ本を見られた場合でもきっと死にたくなるのに、こんな罪深いものを見られた日には、地球が爆発するのを願うだろう。
 同人誌を購入することはできなかったが、検索すると、わざわざ購入せずとも「がじぞう」の同人誌を無許可でネットに上げている人間がいた。どうやら同人誌というものがそうして勝手にアップされるのはよくあることらしい。広一が拍子抜けしながらクリックすると、その内容は、商業誌に掲載されているものとは比べ物にならないくらい、生々しいものだった。商業誌と違って同人誌は、おそらくだが、完全に趣味の世界なのだろう。だとすると、あれが「がじぞう」の本当の欲望なのだ。正直に言って、読むのが苦痛だった。幼い女の子とセックスする、というファンタジーを、よりリアルにしたかったのか、執拗なほど現実的な描写がされていた。現実の少女は、大人の欲望を笑顔ですんなり受け入れたりはしない。つまりは、そういう内容だった。少女が男とセックスせざるを得ないような状況に理詰めで追い込んでいく、エロ本にしてはやけに整合性のあるストーリーに広一はおののいた。吐き気がした。だが、もう嫌だ、と思いながらも、次のページをクリックする手を止められなかった。すべて読んだあと、広一はネットの閲覧履歴を削除した。
 検索バーに「が」と打てば「がじぞう」と出てきてしまうので、ブラウザの検索履歴も同様に削除した。パソコンの前で放心しながら、広一は考えた。こんなに壊れているのに、どうしてあいつは、あんなに普通の振る舞いができるのだろう。
 そして今も、同じことを考えている。
 広一はハンドルの上で雑誌を閉じた。目をつむる。林の木々が擦れ合う音が聞こえてくる。肌はまた、じっとりと汗ばんでいた。ドアを半開きにしているが、蒸し暑い。夏だ。夏だから、あいつはスクール水着の少女を題材に選んだ。
 こんなに気持ち悪い奴が、自分のすぐ近くにいる。
 広一は目を開いて、ページを気だるく捲った。色んな作者の漫画が載っているが、どれも少女モノだ。あ、この女の子はいいな、と広一は手を止めた。開いたページの女の子は、小柄で幼い顔だちではあるが、その容姿には似つかわしくないほど胸が大きかった。ロリコンにも色んな趣味の奴がいるらしい。これだと、大人に見えないこともない──
 ゆっくりとページを読み進めつつ、広一はジーンズのボタンを外した。下着をずり下げながら、この埃っぽい車を触った手でしたら、病気になるかもな、と、ぼんやり思った。


  *  

この続きは、9月6日の『二木先生』でぜひお楽しみください。

夏木志朋

1989年大阪府生まれ。大阪市立第二工芸高校卒。2019年、本作にて第9回ポプラ社小説新人賞受賞、単行本タイトル『ニキ』で作家デビュー。

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