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呪われ少将の交遊録

 一話 水晶

清川きよかわの尚成たかなり。おまえは、此度こたび衛門府えもんふ大尉たいじょうから右近衛うこんえ少将しょうしょうとなるぞ」
 尚成に昇進の話が舞い込んだのは、花の蕾かたい早春のことであった。
 雪の混じった、重い雨の降る日。春とはいえ、冬の名残が強い。帝のおひざ元である大内裏だいだいりにある、この武官詰所の床板からも、爪先に強く冷えを感じる。しかし、この青年、清川尚成には、胸の鼓動の高鳴り、そして熱くめぐる血潮が他のなにより勝っていた。
「この尚成、全身全霊をもって任を全うします」
 顔を上げる。頰が赤いのは、寒さのためではない。瞳が潤んでいるのは、悲しみのためではない。黒々とした眼に燃える熱誠ねっせいが、口元に溢れ出る若さが、尚成の顔を輝かせている。
 右近衛大将をつとめる藤原ふじわらの吉野よしのは、若く初々しい尚成の反応に、小さく微笑ほほえみを浮かべた。
 尚成の、薄く日に焼けた名残のあるおもて。生真面目さをたたえた眉宇びう。薄い唇は口角を締め、品のよく通った鼻筋は清潔感を漂わせている。これぞ前途洋々といった出で立ちの若者である──のだが。
「尚成よ。まこと頼もしいのだが、なんじは狩りにでも行った帰りか?」
 吉野がからかいまじりに言うと、尚成はきょとんと目を丸くした。
 吉野は軽く苦笑を浮かべて、己の冠のあたりを指した。
「枯葉が冠を彩っておるぞ」
 それに、肩や袖がわずかに湿っている。
 尚成は「あ」と目を見開いた。
「申し訳ありません。これは──その……」
「伯父上」
 答えに窮する尚成の言葉を遮る者があった。
「尚成は、女房にょうぼうに頼まれて御庭で失せ物を拾っておりました」
 部屋の角、壁際に男が一人座している。
 細く長い眉。切れ長の目元は伏せられ、うっすらと青く陰を帯びている。眼差し涼しく、落ち着いた美丈夫である。人形のように美しく、表情のない、絵にかいたように整った容貌は、しかしどこか酷薄な色を漂わせる。ほうの上からでも男の体格が良いのが分かるが、威圧感はなく、まるで置物のようにすっかり部屋の中に溶け込んでいる。
兼久かねひさ
 吉野は一度尚成から視線を外し、兼久と呼ばれた男を見た。
「責めてはおらん。ここまで、女房のかしましい悲鳴が届いておったのでな」
 この男、水落みずち兼久は藤原吉野の遠縁の親類であり、右近衛府うこんえふの官人である。尚成とは旧知の仲であり、またかつて衛門府での同僚でもあった。近衛府とは武器を帯びて宮中を警護し、行幸ぎょうこう供奉ぐぶして帝の身をお守りするものである。内裏を守る右近衛府、左近衛府のうち、兼久が属するのは右近衛府と呼ばれる役所であった。
 現在、尚成が籍を置いている衛門府は、官庁街である大内裏の守護、巡検、御幸の先駆けなどに当たる。職員は多く検非違使けびいしを兼任し、殺人、強盗、謀叛人むほんにんなどの逮捕、風俗の取り締まりなどの業務を担当した。
「おまえたち二人は衛門府の同僚であったな。内裏でのこと、よろしく頼んだぞ」
 そう大らかに、少し悪戯いたずらっぽく吉野は笑った。柔らかな声質は耳触りが良く、体の芯までよく染みる。尚成は深々と平伏した。
「助かったぞ、兼久」
 吉野の前から身を引いた尚成は、胸をなでおろしつつ、兼久に笑みを向けた。
「礼には及ばんさ」
 兼久の表情にも声にも愛想はないが、いやな気負いもない。
「どうにも、吉野様の前になると、身が強張るというか。緊張してしまってな」
 藤原吉野は、藤原式家しきけ、参議藤原ふじわらの綱継つなつぐの長男であり、若くして大学で学び天皇に仕え、国司こくしとして頭角を現した。性格は寛大であり、人によく学びよく教え、人を分け隔てなかった。まさに尚成の理想とし、また手本とすべき御仁でもある。
 兼久は尚成の耳元に指を寄せ、冠から伸びた顎紐あごひもにかかる枯葉をひとつ摘んで見せた。
「そのわりには、だな」
 身なりの無頓着むとんちゃくさを指摘され、尚成は言葉を詰まらせた。
 ──目の前で人が困っていたのだから、助けるほか仕方ないではないか。とは思うものの、確かに上官であり憧れの人である藤原吉野その人の前に、枯葉を頭につけたまま出てしまったというのは失礼であったと深く反省している。
「俺だって自分で嫌になっている。もう言ってくれるな」
 気恥ずかしさとばつの悪さの入り混じった気持ちで枯葉をはたき落とし、意地の悪い兼久から顔を背けたところで、ろうの角、ひさしの下に女房とみずらの少年がいるのが目に入った。
 そのうちの女房は先ほど、廊で長持ながもちをぶちまけてしまった者だ。
「どうした?」
 あらぬ方角を見て固まった尚成に、兼久が尋ねる。尚成はついと女房たちを指さして、
「さきほどの件の女房だよ」
 と、兼久に視線を戻した。
 彼女がぶちまけ、御庭に散らばった品々を通りがかった尚成が拾い集めてやっていたのだ。みぞれに打たれ、袍が汚れることも厭わず、植栽に頭を突っ込んで長持の中身を拾い集めた尚成に女房は感謝していたが、その後、枯葉まみれで詰所に行く姿を案じていたのだろう。
 大丈夫だったぞ。そう込めて尚成が片手を上げると、女房は心底ほっとした顔で、深々こうべを垂れて礼をした。
「それはそうとして、あれは?」
 兼久が、鬟の男子を顎でしゃくる。尚成は笑顔で女房に手を振りながら、軽く首を傾げた。
「先ほどは見当たらなかったのだが、鬟のうちに大内裏ここにいるくらいなのだから、お偉方の御子息なのかもしれんな」
 鬟とは元服前の男児の髪型で、まだ冠を頭に載せたことがない証でもある。遠目だが、白い面にすっきりとした顔周りの美童らしい。血色よく、髪も艶がある。直衣のうし下袴したばかまという着物から見ても、おそらく貴族の中でも良い所の子息なのだろう。
 少年は女房の袖の下から、尚成をまさに穿つように見ていたが、サッと身を翻してしまった。側の女房が、慌てて後に続く。女房は落ち着きなく一礼し、少年の後を追って去っていった。
「あの鬟の小僧、おまえを睨んでいるようだったが」
「そうだったか?」
 兼久の言葉に尚成は再び首を傾げる。
「高貴なお方の御子息ならば、きっと人見知りなのだろう」
 あるいは己の女房に絡まれて嫉妬でもしているか。どちらにせよ、可愛いものではないか。尚成が思ったことをそのまま口にすると、耳の後ろで静かに微笑む気配がした。
「おまえのそういうところは、好ましいところだ」
 それは微笑みと呼んでいいものかどうか、見逃してしまいそうなほどささやかなものだった。
 日頃、なかなか表情を顔に浮かべない男であるが、時折こうやって柔らかい面を見せる。その時、その目の奥には温もりが見え隠れするのだ。尚成は、その眼差しの先に自分が在ることが、嬉しくなった。
「おう、俺も兼久のそういうところが好きだぞ」
「そういうところ?」
「普段仏頂面ぶっちょうづらだから、笑うと分かりやすい」
「なんだ、それは」
「ともかく、おまえに追いついたぞ」
 兼久の方が一足早く昇進し、今は中将だ。尚成はこの度、少将となった。未だ一歩及ばないでいるが、それでも尚成には兼久の背が見えるところに来られたことが、嬉しい。

 やがて日が暮れた。
 雨はすでに止んでいる。勤務を終え、刺すような寒さの中、暮れなずむ空を見上げつつ、尚成は家路を急ぐ。
 大内裏を守る朱雀門すざくもんを抜け、大路に差し掛かる。
 舎人とねりを引き連れた牛車ぎっしゃや、かごを担いで歩く市井の人々、あるいは尚成のように独り歩きをする男たちが、薄く夕闇迫る中、家路についている。
 ──今日は父上と母上に、よい報告ができる。
 尚成の足取りは軽かった。濡れた砂利を踏む音が耳に心地よい。きっと母は笑顔で祝ってくれるだろう。父は言葉の少ない性質だが、それでも内心で喜んでくれる。
 今でこそ武官に属するほど壮健で、武芸を磨いてはいるけれど、幼少期は体の弱い子どもであった。よく熱を出し、咳をし、外の遊びもなかなかできなかった。そんな自分が、今では若くして右近衛少将だ。あの、、藤原吉野様の下につくのだ。尚成自身でさえこんなに感慨深いのだから、赤子のころから気を揉むことの多かった両親は尚更だろう。
 ふいに尚成は足を止めた。ちょうど、橋の中ごろだ。
 薄い闇の中、視界の端に、なにか白い影が河原に揺れた──気がした。
 橋を渡る人々は気にもしていない、というよりは、視界に入ってもいないようで、先を急いでいる。
 誘われるように手すりに指をかける。滑らかな木肌は、昼の雨を吸って冷たく湿っていた。
 河川敷かせんしきを覗きこむ。
 尚成は一瞬、息を吞んだ。
 ──幽鬼ゆうきがいる、と思った。
 冷え冷えとした蒼い闇に包まれ、川のせせらぎが寂しくしじまを打つ中に、男が一人、ぼんやり立ち尽くしている。
 帽子もなく、水干も袴も穿かず、黒い無地の羽織の下に、真っ白な長着を着ている。
 まったく、奇妙な出で立ちだ。
 帽子も袴も得られないほどに貧しいのかといえばそういったようではなく、羽織や長着は、遠目でも分かるほど品のよい生地を使った、上等の物に見える。男は成人しているようであるが、髪は結い上げず、肩で緩く一束にまとめただけである。寝間着姿で病床から抜け出てきたのだろうか。それにしては背筋に芯が通っている。
 尚成の不躾ぶしつけな視線に気が付いたのか、男は顔を上げた。色の抜け落ちた、真っ白な面だ。その白さといえば、ほのかに光を発しているように見えた。
 幽鬼の目が、尚成の姿を捉える。視線と視線が音を立ててかち合った。その瞬間、尚成は心の臓が止まった気がした。思わず後退あとずさる。
 尚成は大急ぎで足を進めた。
 見てはならぬものを見た。この世のものでないものを見た。
 なんの不思議があろう。今は逢魔おうまが時ではないか。昼と夜が入り混じり、人と魔とが交錯する。すれ違う者が人か魔物か定かではない。だからみな、家路を急ぐのだ。
 見てはならぬものに見られた。この世のものでないものに見られた。
 背筋に冷たいものが走る。尚成は隠れるように人波に紛れ、足を急がせた。
 屋敷に着くころにはとっぷりと日は暮れていて、天に月が昇っていた。門前に使用人を呼び出し、塩を振って身を清める。橋で見た幽鬼の影を、家の中に持ち込まないためだ。
「父上と母上にお話ししたいことがあるのだが、どこかな」
 尚成の言葉に、使用人の男は目をしばたいた。
「縁側でお話しされておりますよ。何かいいことでも?」
「分かるか?」
「昔から尚成さまがご両親にお話があると言う時は、嬉しいことがあった時ですからね」
 それだのに塩をまけだなんてと、塩壺を腕に抱いて首を傾げる男に、尚成は何も返さなかった。
 七つの年頃、体が病弱であったため、両親をはじめ家の者たちは病魔やら鬼やらというものに大げさすぎるほど敏感なのだ。しかしそれもこれも尚成可愛さ故なのだと思えば、多少煩わしくとも無下にもできず、となれば、もはや口をつぐむほかない。
「本当になにもないんですね?」
 念押しして凄む男の目に、猜疑さいぎの色が浮いている。その深奥には尚成に対する労りや慈しみが見え隠れするものだから、やはり冷淡には扱えなかった。
「家に帰る道すがら、猫の死骸と出くわしてしまってな。凶事を持ち込んではいけないと思っただけだよ」
 見たのは猫の死骸ではなく幽鬼だが、不吉なものには変わりない。身を清め終わると、さっそく父母のいる縁側に向かう。
 二人はちょうど並んで月を眺め、母はそうを奏でているところであった。尚成の姿を見つけると、母は爪を止め、笑顔で手招きした。
「ただいま戻りました」
 尚成が頭を下げ、膝を進める。
 父、清川きよかわの貴嗣たかつぐは無言のまま頷き、尚成に目をやった。引き締まった口元に、思慮深い眼差し。寡黙だが、黒々とした瞳には、誠実さと芯の強さが溢れている。この眼の前に出たら、誰も噓を吐くことができなくなるのだ。小鼻の横にうっすらと溝の浮く年頃ではあるが、肌にも姿勢にも、心の張りが現れていた。
「今日は月が冴え冴えとしているわねぇ」
 母は月を見て感嘆する。名を治子はるこというおっとりとした女性で、音曲や歌をたしなみ、花鳥風月を楽しみ、愛した。
 尚成も顔を上げ、夜空を仰ぐ。昼の雨に洗われたのか、月は皓々こうこうと冴えていた。星々の瞬きを遮るほどに厚い雲を、切れ間から明るく照り返している。
「はい。良い月でございます」
 尚成が頷くと、母は眼差しを細めて目じりに皺を作った。
「一曲、願えるかしら」
 治子は爪を尚成に差し出す。尚成はそれを慣れた手つきで指にはめ、月夜にちなんだ曲を奏でた。
「お見事。箏やしょう、笛を友の代わりとして育っただけのことはあります」
「ありがとうございます。しかし、俺はあまり、そのころのことは覚えていないのですが」
 尚成が恥ずかしげにそう言うと、母は「おまえは覚えていなくとも、そうなのですよ」と、愛おしいような、困ったような笑みを浮かべた。
「風が吹けば咳をして、雨に打たれれば熱を出し……それが七つのころ、山で姿を晦ませてから病気のひとつもしなくなって。きっと山の神様のお慈悲を受けたのでしょうね」
 いつもの台詞だ。
 正直な所、尚成に十歳以前の記憶は遠いものだった。ありありと思い出せるのは十歳を迎えてからのものばかりで、よく寝込んで咳をしたと言われても、分からないのだ。七歳のころに山で迷子になったらしいが、やはりそのことも思い出せなかった。
「男子は女子より病に弱いものだ。尚成も、そのころにようやく体ができあがったということだろう」
いつも父が口にする返しだ。
 母は尚成が山での一件以降、病気がちでなくなったことを「山の神様のお慈悲があった」と常々口にしているが、父の見解は違うようである。
「父上。母上。ご報告したいことがあります」
 尚成が切り出すと、二人は同時に尚成を見た。
 天皇の居住区である内裏を警護する、近衛府。右近衛少将への抜擢は、二十五に満たぬ尚成の若さからすれば異例のものであろう。六衛府の中で最も天皇に近く、最も格式高い所。
 これまで衛門府として大内裏の警護に就き、その勤勉さから上官の覚えが良かったこともあるが、それにしても清川家という中流貴族の出自であることを考えると、類を見ない昇進の速さである。
「そうか」
 貴嗣はたった一言、そう返しただけであった。しかし、その眼差しは熱く、重たいものが含まれている。それは尚成に責任の重さ、そして自覚を問う厳しいものであり、微かな誇らしさを含んだ温かなものであった。
 母は尚成の頰を柔らかな手のひらで包み込むと、「おまえは誰に似たんだろうねぇ」と、まなじりをそっと湿らせた。
「こちらからも、おまえに話があるのだ」
 貴嗣が、改まって尚成に向き直る。
「おまえに結婚の話が持ち上がった」
 面食らった。結婚だと。
「おまえ、弓矢やら舞やら楽器やらは上手でも、肝心の歌の方はからっきしでしょう。相手は鶴姫つるひめというお方でね。おまえの御父上さまの同輩の姪御にあたる姫君よ。無礼があれば破談になるんですからね。今のうちに歌の上手な御人に稽古をつけてもらおうかしら」
 ねえ、と治子は貴嗣に相槌を求めている。それ以上のことは尚成の耳に入ってこなかった。
 鶴姫。どんな姫だろう。
 脳裏に、雪のような肌をした黒髪の娘が浮かぶ。
 胸が鳴った。昼間、詰所で感じた高揚とまた少し違っている。ふわふわと、まるで酔った時のようだ。仕事一途、今まで女人とのかかわりの薄い尚成である。それが今宵、ふっと花の種の気配を胸に感じたのである。
(俺は幸せ者だ)
 衛門府から憧れの近衛府に移り、無骨なばかりの俺のもとに結婚の話が舞い込んだ。
 ──俺にとって、今がまさにこの世の春だ。
 歓喜に打ち震える尚成は、逢魔が時に出会った幽鬼のことなど、すっかり忘れてしまっていた。
 しかし幽鬼は凶事を運ぶもの。いつの間にか、冴え冴えとした白い月に叢雲むらくもが懸かっていた。

  *

続きは発売中の『呪われ少将の交遊録』で、ぜひお楽しみください!

プロフィール
著者:相田美紅(あいだ・みく)
講談社X文庫ホワイトハート新人賞(2014年下期)を受賞し、デビュー。本作にて第11回ポプラ社小説新人賞奨励賞を受賞。

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