序章
あちらの屋台からは、串打ちの肉を焼く煙。
こちらの蒸籠からは、ふかした饅頭の匂い。
威勢のいい呼びこみの声と、雑踏を包む喧噪。
大通りでも靴を踏まれず歩けないほど、幻国の市井はにぎわっている。
幻の王朝は、歴代でもっとも安寧とした百年を築いていた。
おかげで食文化は、かつてないほど豊かになっている。昔は一部の貴族しか口にできなかった「茶」ですらも、あまねく民に広がっていた。
人があふれる通りから静かなほうへ、路地を一本入る。
奥にこぢんまりした家があり、庭にひとりの童女が屈みこんでいた。
年頃はおよそ十歳。雪のように白い肌に、つややかに光を返す黒い髪。なかなかに顔立ちの整った童女だが、右目だけが兎を思わせる赤さだった。
童女は桃の枝で地面に絵を描き、ささやくような声で歌っている。
春夏秋冬 刻々 時々
人は死すれば冥へ去に 閻羅に功罪質される
裁きの末に十獄を 巡って再び世へ出ずる
恨み多きは鬼となり 現世に留まり呪詛を吐く
殺めど屠れど怨晴れず 積もり積もって城覆う
仙師は邪祟を打ち払い 王のお側に侍り死ぬ
戦士は色を好まじと また繰り返し世を生くる
春夏秋冬 刻々 時々
そこで童女は歌をやめ、ふっと顔を上げる。
「わあ、化け物がこっち見た!」
門の外から遠巻きに、ふたりの童子が童女を見ていた。
「逃げろ! 血眼に見られると呪われて死ぬぞ!」
駆けていく童子たちを見て、童女はぐすぐすと涙する。
そこへ十四、五の少年が、家屋の中からやってきた。
「泣くな、朱梨。きっとこの先、その目を好きになる人がたくさん現れる」
兄らしき少年が慰めても、朱梨と呼ばれた童女は泣き止まない。
「いたっ、いたたたた。兄ちゃん急に腹が痛くなった。いたたたた」
突然苦しみ始めた兄を見て、朱梨はおろおろした。
「もうだめだ。兄ちゃんは死ぬ。いたた。朱梨の歌を聞かないと死ぬ」
朱梨は慌てて、先ほどの童歌を口ずさむ。兄があんまり痛がるものだから、一生懸命に歌って泣くことも忘れていた。
「ありがとう。朱梨は兄ちゃんの命の恩人だ」
兄に頭を撫でられた朱梨は、照れたように笑う。
そして笑いつつ、ひくひくと鼻を動かした。
「どうしたんだ、朱梨」
兄に尋ねられても返事をせず、朱梨は立ち上がって家屋へ近づく。
そうしてひょいと背伸びをして、花模様の透かし窓をのぞきこんだ。
家の中には湯気が立ちこめ、夫婦らしき男女がたたずんでいるのが見える。
片手に茶杯を持った夫のほうが、茶を飲もうとしていた手を止めた。
その目が、ぎょろりと花窓に向く。
「雀舌を嗅ぎつけるとは、我が娘ながら鼻が利く。入ってきなさい」
にやりと口髭を動かすと、父らしき男は駆けてきた朱梨を抱き上げた。
「今上帝は先頃、麒麟児を授かったと聞いた。おまえも我が家の麒麟児か」
「あら、あなた。うちは茶館よ。そんなに偉くならなくていいわ」
妻と思しき女が言って、朱梨に優しい目を向ける。
そこへ遅れてきた兄も加わり、みながなごやかに銘茶を飲んだ。
血眼のせいで友の類はいないけれど、朱梨は家族の中で幸せだった。
それから八年──。
血眼のせいで、朱梨はすべてを失った。
第一章 茶博士の娘
一 朱梨、最後に鉄観音茶を入れる
清香茶館は茶館であって、茶房でも茶楼でもない。
ゆえに酒は出さない、芸妓もいない、大皿料理も供さない。
将棋や双六の遊具もなければ、音楽すらも聞こえない。
いまとなっては数少ない、茶を喫するためだけの店だった。
その赤い屋根に近づくと、日除けの先端には木札が数枚ぶら下がっている。木札に書かれた「雀舌」、「雪蕊」の文字は、すべて高級茶葉の銘柄だ。
店の中は天井が高く、奥の庭が一望できる。中央には長机や腰掛けで設えた客席が七、八あり、隅に帳場、そのそばに大きな水瓶が置いてあった。
いま客席の一卓の前で、朱梨は下を向いて立っている。
年頃をやや過ぎた十八歳。一般的な幻の民が着る旗袍を身につけていて、わずかに見える首は折れそうなほどに細い。肌の色も透けるような白さだ。
──体の豊かさが尊ばれる時代に、貧弱な見目は人を不安にさせる。
朱梨は自身をそう客観視していた。これで血眼まで見せてしまったらどうなるかわからないと、店主でありながら常に顔を伏せて接客している。
「……お茶を入れます」
かぼそい声で伝えると、やはり卓の客らは心許なげだ。
朱梨は素早く茶壺に茶葉を投じ、痩せた手で鉄瓶を握る。
鉄瓶を回しながら茶壺に満遍なく、なみなみと湯を注ぐ。
湯が茶壺から溢れだしたが、それでもしばらく注ぎ続けた。そうして茶葉が浮かんでくる寸前で、すぱりと湯を切るように茶壺に蓋をする。
すぐに蓋の上から、また湯を注いだ。
こうすることで、茶壺の内側と外側で温度を一定にできる。寒い時期は茶器を温めないと、すぐに茶の温度が下がってしまう。
朱梨はひと呼吸おいて、茶壺の茶を三人ぶんの茶杯に注いだ。残りの茶は、いったん茶海へ注いでおく。
次いで再び鉄瓶を持ち、茶壺に湯を注いで蓋をした。
先ほど茶海に移しておいた茶を、茶壺の蓋の上から回しかける。
返す刀で客用の茶杯に注いだ茶を、すべて茶盤に捨てた。
「瞬きをすると光景が変わる。並外れて迅速な洗茶よ。さすがは茶博士の娘」
客のひとりが、感心してうなった。
茶葉の種類にもよるが、茶は一杯目を飲まずに捨てることが多い。茶葉に付着した汚れを落とし、湯で葉を開かせるためだ。本当にうまい二杯目を入れるべく、一杯目は洗茶と茶器の温め、そして茶の香りを濃くするために使われる。
朱梨は客の言葉に頰を赤らめつつ、茶壺を頭上に掲げた。
高所から三つの茶杯を目がけ、順に茶を注いでいく。一気には満たさない。三杯の茶杯に三回に分けて注ぐことで、茶の濃度が均一に保たれる。
目にも留まらぬ朱梨の手さばきに、客は茶が飛び散らないかと息を呑んだ。
しかしただの一滴も茶は撥ねない。あたかも幻術のようにして、最後の一滴までが茶杯に吸いこまれていく。
「こんな細腕でかような茶芸ができるのは、茶博士甘徳のおかげであろう。茶博士が茶の普及に尽力したことで、茶壺は小さく扱いやすくなったからな」
客が得意気に話したことは事実だが、朱梨にも苦労がないわけではない。
されど客には関係ないと、茶杯の給仕に専念する。
「……鉄観音。青茶にございます」
圧巻の茶芸とは裏腹に、朱梨の声はぼそぼそと小さかった。
客たちはその落差に首を傾げつつ、茶杯を口へ運ぶ。
しかしみなひとくち飲むと、「ほう」と息を吐いて破顔した。
「舌に染み入るほのかな甘さ。香りは桂花の一片がごとく。これは実にうまい鉄観音茶だよ、茶博士の娘さん」
そう呼ばれるのは嫌ではないが、返す言葉にはいつも悩む。
「鉄観音は、幻でもっとも新しい茶です。その名の由来はさまざまに語られていますが、茶樹が観音さまのお告げで発見されたこと、及び茶葉が重く鈍く光っているためというのが一般的です。茶の効能は茶葉によって大差ないものの、鉄観音は特に血液の流れをよくすると言われています」
こんな風に茶話を語り、お茶を濁すのが朱梨の精一杯だ。
「然り然り。さすがは茶博士、甘徳の娘よ」
茶博士という言葉は、現在は朱梨のような茶を入れる職の者を指す。
しかし父甘徳の時代には、茶に長じた名人の尊称だった。
そんな客たちの賛辞を聞き、朱梨の頰にまた熱が灯る。
父と、父の遺した茶館をほめられることが、朱梨はなによりうれしかった。茶館を続けることだけが生きがいで、ほかはなにもいらないと思っている。
朱梨はひっそり微笑みかけた──が、突然の苦痛に口元を歪める。
「よかったわね、朱梨姉さん。お客さまにほめられて」
朱梨の前に、目つきの鋭い少女が立っていた。
その仕立てのよい裙子の膝が、少しだけ持ち上がっている。長い裾に隠れて見えないが、花盆底の靴が朱梨の足を踏んでいた。
「玉蘭さま……ようこそ、いらっしゃいませ」
足の痛みを堪えつつ、朱梨はそのまま一礼する。
本人が「姉さま」と言った通り、玉蘭は朱梨の妹だった。
しかしそれは戸籍上のことで、実際の立場は逆どころではない。
「いらっしゃいませだなんて、なにさまのつもりかしら。ここはあたしのお父さまの店。妾の娘が主人ぶらないで!」
玉蘭がぐっと体を前方に傾けてから、後ろへ一歩下がった。
朱梨は激痛に崩れ落ちそうだったが、どうにか耐えて頭を下げる。
「申し訳……ありません」
「いいわ。許してあげる。だってあなたは、今日でおしまいだから」
玉蘭が、にやりと口の端を歪めた。
「たしかにこの『清香茶館』は、元は茶博士の店だったわ。でも茶博士が死ぬと、その夫人があたしのお父さまに泣きついてきたの。お父さまは夫人が作った借金を引き受けて、その娘まで養った。そうよね、朱梨姉さん」
周囲の客に聞かせるように、玉蘭は機嫌よく語っている。
「はい。猪氏──旦那さまへの御恩は、忘れたことがありません」
父亡きあとに問題が相次ぎ、茶館の経営は立ちゆかなくなっていた。猪氏の経済的な援助がなければ、母子の生活も店の存続もなかっただろう。
「でもそんな優しいお父さまも、これ以上は店を続けられないの。だって儲からないから。みんないいかげん気づいたのよ。お茶なんてどれも同じだって」
我慢できないといった様子で、玉蘭が声を上げて笑いだす。
「みんな安い茶を買って、ひとつまみの茶葉で十杯以上も飲むのよ。出涸らしだっておかまいなし。茶は水の代わりでしかないからね」
幻国の大半の地において、水は煮沸しなければ飲めない。それが茶の普及した理由のひとつでもある。
「だから値の高い茶葉を使う茶館には、客がぜんぜんこないわ。きたとしても茶博士の名前にしか興味がない、一見の数奇者だけよ」
玉蘭が一瞥すると、客たちが一様に首をすくめた。
「早い話、茶館は酒楼に鞍替えするか、大衆向けの茶屋になるしかないわけ」
民の必需品は、米、脂、塩、そして茶だ。水は沸かさねば飲めないし、茶は薬にもなる。みな昼夜を問わず、日に何度も、茶屋を訪れて喉を潤す時代だ。
しかし清香茶館の茶は安くない。客は目に見えて減っている。社交場としても機能しなくなれば、羽振りのいい人間も去っていくだろう。
「うちは茶博士甘徳の名前が使えるから、今後は茶商に専念するのよ。ここは明日から、仕入れた安い茶葉の置き場ですって。お父さまが言ってたわ」
「そんな……『清香茶館』は父が亡きあと、母が命をかけて守ったお店です。どうかお考え直しください」
朱梨はよろよろと歩き、玉蘭にすがりついた。
「近寄らないで、汚らわしい!」
払いのけられた拍子に、卓に朱梨の体がぶつかる。
熱い茶がうなじにかかり、思わず顔が跳ね上がった。
「ひっ……この娘、右目だけが血のごとく赤いぞ!」
「聞いたことがある。『血眼』だ。死を振りまく呪いの目だ!」
一見の客たちが身震いし、慌ただしく逃げ去っていった。
「ああ、いい気分。あんたは妾の娘の分際で、あたしよりも優れていると思っていたんでしょう。お父さまに店を任されて、いい気になっていたんでしょう。でも今日でおしまい。その不吉な目で見られなくなると思うと、清々するわ!」
玉蘭が高笑いする足下で、朱梨は激しく咳きこんでいた。
「ああ、そうだったわね。血眼の呪いは、あんた自身にも及んだのよね」
くつくつとおかしそうに笑う玉蘭に、朱梨はそれでもすがりつく。
「……私が、悪いなら、謝ります。死ねと、言われれば、死にます。だからこの店だけは……玉蘭さま、どうか……」
息苦しさを堪えつつ、濡れた床から玉蘭の裙子に手を伸ばした。
「本当に気味が悪い……やっぱり今日のうちに言ってしまってよかったわ」
玉蘭はよくわからない言葉をつぶやき、花盆底の靴を引きずって去っていく。
ひとり店に残された朱梨は、いまだ立ち上がれずにいた。
血眼の呪いで兄が死に、父が逝き、母が亡くなった。
悩みを分かつ友もなく、養母と義妹に疎んじられ、顔を上げれば道行く人から血眼の娘と蔑まれる。
朱梨にとって、唯一のなぐさめは茶を入れることだった。
生きていく意味は、清香茶館を守ることだった。
──この茶館を守れないなら、もう……。
朱梨は意を決して立ち上がり、足を引きずりながら猪氏の屋敷へと戻る。
「旦那さま。茶館廃業の件、どうかご再考願います」
主人一家がそろった食卓の前に跪き、朱梨は床に頭をつけた。
養子が養父に抗うことは、民が王に意見するに等しい。しかし朱梨にはもう失うものがなかった。
「いやあ、そうしたい。この猪苓も、ぜひともそうしたい。だって、もったいないからね。ああ、実にもったいない……」
猪氏は指についた肉の脂を舐めながら、ねぶるように朱梨を見つめた。
「だから言ったでしょう、玉蘭。今日は朱梨に告げるなと」
主人の向かいの席で、玫瑰夫人が嘲るように微笑む。
「でもお母さま。今日のうちに言わないと、この顔は二度と見られませんわ」
両親の間に座った玉蘭が、母と同じ顔で笑った。
「お願いです、旦那さま、奥さま。玉蘭さまから、茶館は利益が薄いとうかがいました。これからは茶にばかり目を向けず、商いにも工夫をいたします。ほかの仕事もなんでもいたします。ですから、どうか──」
言葉の途中で、玫瑰夫人が夜叉の形相になっていることに気づく。
しかしふっと邪気が抜けたように、夫人は穏やかに微笑んだ。
「わかったわ、朱梨。あなたの情熱に免じて、もう少し続けてみましょう。今日はもう遅いから、寝てしまいなさい」
「ああ……ああ……ありがとうございます……」
朱梨は滂沱の涙を流して喜んだ。
日頃の朱梨は、これほど多くしゃべらない。しゃべることを許されていない。主人への抗議は命がけだった。けれどこうして、捨て身の思いは受け入れられた。
明日からは不退転の気持ちで働こうと、朱梨は部屋を辞去して息をつく。
──喉が、渇いた……。
慣れない多弁を弄ろうしたからだろう。ひとまずは茶を飲んで一服したい。
多くの茶には眠気を覚ます効果があるので、夜に飲むべきではなかった。
しかし反対に、安眠を促してくれる茶もある。
たとえば夫人の名でもある玫瑰は、低木に咲く桃色の花だ。
その蕾を乾燥させて作った玫瑰茶は、湯を注げば花が美しく開く。香りは全身に気を巡らせ、心を落ち着かせてくれる。
──今夜のお礼に玫瑰茶を入れたら、奥さまにも喜ばれるかもしれない。
朱梨は厨房で湯を沸かし、自分の茶を飲みながら一家のぶんを用意した。
玫瑰茶を盆に載せて運び、主人の間へと赴おもむく。
「お母さま、本当に茶館を続ける気ですの」
扉の前で聞こえた玉蘭の声に、朱梨は思わず足を止めた。
「そんなわけないでしょう。どうせあの娘は、明日には後宮にいるんだから。あんたが廃業を教えてしまったから、適当にごまかしただけよ」
玫瑰夫人がつまらなそうに返し、朱梨は自分の耳を疑う。
「お母さまは本当に強欲ですわ。あらぬ借金を背負わせて店を乗っ取るだけでは飽き足らず、邪魔になった朱梨は後宮へ送る。傑女の選抜試験に受かれば給金を取り上げて、戻ってきたなら家名に泥を塗ったと放りだす。そのあと奸徒に連絡すれば、悪い評判も立たずに懐も潤う」
奸徒、すなわち人買いだ。
「朱梨には感謝してほしいくらいよ。うちの人が朱梨を見る目、あの子の母親を見るときとそっくりだったんだから。本当にろくでもない夫」
「これでようやく気が晴れましたわ。不気味な血眼がそばにいるせいで、あたしにはいい縁談がちっともこないんですもの」
朱梨は泣きも叫びもせず、放心してその場にへたりこんだ。
二 朱梨、宮城にて玉蘭と邂逅する
朝になると、朝廷から迎えの馬車がきた。
玫瑰夫人から後宮に向かえと命じられ、朱梨は粛々と応じた。
逆らう気力もなかったためだが、夫人も玉蘭も不思議そうにしていた。
──もう、生きる意味がない……。
馬車に揺られながら、ぼんやりとこれまでの人生を振り返る。
朱梨が生まれたのは、いつも茶の匂いがする小さな家だった。
父は清香茶館を営み、仕事には厳しかったが娘には優しかった。
母も娘に愛を注いでくれたが、体が弱く頻繁に床に臥せっていた。
仕事が軌道に乗っていた父は、後継者の育成を考えた。朱梨も母に似て病弱だったため、父は茶農家の四男坊を養子に迎えた。
義兄は朱梨よりも五歳上で、母やその娘とは違い壮健だった。心根も優しく、血眼を持つ妹を毛嫌いしなかった。よく働いて父を支え、臥せる母の代わりに家事をこなし、朱梨が泣いているといつも笑わせようとしてくれた。
朱梨は兄が大好きだった。だから兄が流行病で早世したときは、赤い瞳で天をにらんでいる。どうして軟弱な自分ではなく、健康な兄を連れていくのかと──。
「到着いたしました。あちらにお並びください」
御者の声で、朱梨は幼い頃の記憶から引き戻される。
馬車を降りると、街よりはるかに大きいと言われる建物が見えた。
──ここが、幽玄城……。
幻王朝の栄華が如実にわかる、豪奢できらびやかな宮門。
その前には、城に負けじと絢爛な衣服の子女が並んでいた。
城内には皇帝陛下が住まう後宮がある。後宮には世継ぎを産む妃妾たちと、その世話をする宮女たちが暮らしていた。かつて「後宮佳麗三千人」と謳われた頃からは減っているが、いまなお千人以上の女性が宮中にいる。
今日は三年に一度の「傑女」、すなわち陛下の妃候補を選ぶ日らしい。
また、年に一度の宮女選抜も同時に開催されるという。宮女は妃ではなく下働きの者なので、朱梨が受けさせられるのはこちらだろう。
朱梨は辺りを見回した。
宮門で逃げ帰る子女も多いらしく、辺りには宦官や宮女が目を光らせている。
──逃げたところで、行く当てもない……。
玫瑰夫人のもとに戻っても、人買いに売られるだけだ。
朱梨は無気力なまま宮女候補者の列に並び、手続きをすませた。
門をくぐって広場に入ると、美しく着飾った子女たちが居並んでいる。妃候補はもちろんだが、宮女の受験者も相応に容貌が優れていた。
周囲の会話によれば、本来は事前に審査があるらしい。
養父たる猪氏の身分は一介の商人だし、朱梨は人目をはばかる血眼だ。おそらくは玫瑰夫人がよからぬ手を使い、厄介な養女をねじこんだのだろう。
場違いゆえの居心地の悪さに、朱梨は広場の隅へと移動した。
そしてふと気づく。茶館を失ったいま、自分が居心地のいい場所などどこにもないのだと。
喪失感から、涙が石の床に落ちた。
──もう、私にはなにもない……。
そこで足下になにかあることに気づく。細工の凝った高価そうな手鏡だ。候補者の誰かが落としたのだろう。係の宦官に渡そうか。
そう思って拾い上げると、鏡に自分の顔が映った。
触れれば冷えそうなほどに肌は白く、右の瞳だけが血を吸ったように赤い。
先ほど聞いた周囲の会話では、宮女であっても家柄や容貌が必要だという。それらがなくとも、財か才かでどうにかなる者もいるらしい。
しかし朱梨の身分は低く、血眼で、財など言うに及ばない。宮女に求められる才も刺繡や詩歌の能であり、朱梨にできるのは茶を入れることだけだ。
自分が宮女に選ばれることはありえない。この先は玫瑰夫人の元に戻され、人買いに売られ、奴隷かそれ以下の扱いになるだろう。
──それでも、かまわない……。
朱梨が気力を失っているのは、血眼の呪いが周囲に死を振りまくからだ。
兄と父、そして母をも殺した呪いの瞳は、義妹の玉蘭が言ったように朱梨自身にも向いていた。病弱だった母と同じ症状で、朱梨も肺の病に冒されている。
一度だけ診てもらった医者によれば、菌が徐々に肺を蝕んでいるらしい。流行病のように人にこそ伝染しないが、幻で治療できる者はいないという。
実際に朱梨は咳をするたび、命の灯火が揺らぐ気配を感じていた。そう遠くないうちに、この火は消えると確信している。
すでに不幸な結末が決まっているのだから、降りかかる災いも他人事くらいにしか感じない。奴隷暮らしで死期が早まるのなら、朱梨にはむしろ望ましいことだ。父の茶館を失ったいま、心残りなどなにもない。
──でも、まだ自分の「お茶」を見つけていない……。
唯一の気がかりがあるとすれば、それは父の遺言だった。
茶の道を邁進した父は、死の淵で生涯を振り返ってこう言っている。
「私はこれまで骨身を砕き、茶の普及に努めた。そのかいあってか、茶は大衆のものとなった。この人生に後悔はない。だが朱梨よ。おまえの人生は、私のようにならなくていい。おまえは自分が入れたい茶を入れなさい」
これまで朱梨は茶館を守るのに精一杯で、「自分が入れたい茶」というものに考えを巡らせたことがなかった。
それを探る時間がもうないことだけは、少し残念に思う。
「玉蘭さま、鏡がありましたわ」
ふいに聞こえた義妹の名前に、朱梨は思わず身を硬くした。
「あなた、さっさと返しなさい。さあどうぞ、玉蘭さま」
妃候補らしい娘が駆けてきて、朱梨の手から鏡を奪い取る。
「ありがとう、あなたが拾ってくれたのね。わたくしは玉蘭。お名前は」
鏡を受け取った玉蘭は、義理の妹ではなかった。
雅な薄紫の旗袍に、高貴な顔立ちを飾り立てる耳飾りとかんざし。肌も艶やかできめが細かく、仕事で荒れがちな朱梨とは手の美しさからして違う。
「ねえ、ちょっと。あれにいるお方、李家の玉蘭さまよ」
近くにいた候補者たちが、ざわめいていた。李家は過去に何人も妃妾を後宮に送っている、名家中の名家らしい。
「あなたは宮女の候補者ね。どうか恐れないで。わたくしはお礼を言いたいの」
なにも言えず立ちつくしている朱梨に、玉蘭が微笑みかけてくる。
その美しさにますますたじろぐも、朱梨はどうにか礼を返した。
「朱梨と申します。お目にかかれて光栄です、玉蘭さま」
「あら、素敵なお名前。わたくしなんて、知りあいに同じ名前が三人もいるわ」
玉蘭が気さくに言い、取り巻きの候補者たちがくすくすと笑う。
どこか殺伐としている広場で、玉蘭のいる空間はなごやかで優雅だった。朱梨がよく知る同じ名前の人物とは、気品がまるで違う。
「……いえ、待って。朱梨という名前、どこかで聞き覚えがあるわ……もしかしてあなた、姓が『甘』だったりするかしら」
現在の朱梨は養父の「猪」姓だが、それ以前はもちろん父と同じ「甘」だ。
朱梨が驚いて固まっていると、玉蘭がしょんぼりと眉を下げる。
「違うのかしら……茶博士甘徳の娘ではないのね。あの清香茶館の……」
「い、いえ、私は甘朱梨でした。玉蘭さまは、私をご存じなのですか」
「もちろん! 李家の女は、本物を知っているからね」
にやりと訳知り顔をして、玉蘭が続ける。
「茶博士甘徳が亡くなってからも、清香茶館の味は落ちていなかったの。それで驚いて調べさせたら、夫人と娘が茶の選定をしているってわかったわ」
「はい。母と私でやっていましたが、母が亡くなってからは私が」
「それは……辛かったわね」
玉蘭の同情が本心であることは、その鼻声でわかった。
「でも変よ。なんで茶博士の娘が、宮女選抜の場になんているの」
その問いかけに、朱梨は口ごもってますますうつむく。
「事情がありそうね。いいわ。あなたにはぜひとも、入宮してもらわないと」
玉蘭が自分の胸に当てていた手で、朱梨の手を握った。
久方ぶりに人に触れられ、胸の鼓動が速まる。
「わたくしに後悔があるとするなら、それは清香茶館に行けなかったこと。いつも人をやって茶葉を買わせていただけなの。いい、朱梨。まずは顔を上げて」
ふいをつかれて、あごを持ち上げられた。
「まあ……」
玉蘭が目を見開いて声を失ったため、朱梨はすぐに下を向く。
「目をそらさないで、朱梨。右が紅玉、左が琥珀。こんなにきれいな瞳は、世にふたつとないわ。羨ましい」
「そんな……卜占では、血眼は凶兆の相です。私の右目は死を振りまきます。どうか玉蘭さまも、目を見ないでください」
最初に大好きだった兄、次いで父が逝き、とうとう母も亡くなった。朱梨の右目は人の血を吸っているから赤い。見つめられれば死を被る。
「なによ血眼って。千年前の感性ね。本当に朱梨の目が人を殺すなら、いま頃は外海の戦場でこき使われてるわよ」
「ですが……」
ありえないことでも、朱梨はずっとそう聞かされ続けてきた。
実際に一番大切な家族たちも、朱梨の前からいなくなっている。
「占いなんて、いいことだけ信じればいいの。それにね、朱梨。あなた顔立ちだって悪くないわよ。きっと選抜に受かるわ。そう思うでしょう」
玉蘭が振り返り、傑女の候補者らしいふたりに尋ねた。
「私にはなんとも。選抜で大事なのは家柄でしょうし」
痩せたほうは、顔をしかめて朱梨から目を背けている。
「そうですわ。あるいは刺繡に長じているか、歴史書を通読しているか。なにかしらの能がなければ、欠点の相殺は無理かと」
ふくよかなほうは言葉で遠ざけつつも、目は物珍しそうに朱梨を見ている。
「欠点なんて失礼ね。でもたしかに能は必要よ。茶器は持参しているかしら」
玉蘭に問われ、朱梨はおずおずとうなずいた。一応は出立に際し、最低限の茶器だけは持たせてもらっている。
「さすがに無理ですよ、玉蘭さま。たかが茶では」
痩せた候補者が鼻で笑うと、ふくよかなほうも続いた。
「無礼だと罰されるやも。玉蘭さまも、関わらないほうがよいですわ」
そこへ宦官がやってきて、選抜の儀が始まると告げる。
「わたくしは朱梨を信じるわ。だって茶博士の娘ですもの。朱梨も自分を信じて。また見えましょう。約束よ」
玉蘭は力強く言い、朱梨に手を振り去っていった。
三 朱梨、皇子に壽眉茶を献じる
北門に向かって広場の西に妃妾の候補者、東に宮女候補者たちが並んでいる。
門前には長机と豪勢な玉座、それよりもやや簡素な椅子が設置されていた。
「皇后陛下の、御成り」
宦官が節をつけて声を張ると同時に、北門が開く。
従者たちが担ぐ神輿に乗った女性に、場の一同が跪拝した。
「みなさん、楽にしてちょうだいね。これから傑女と宮女の選抜を始めます。陛下はご多忙なので、ご臨席はされません。代理で第一皇子が出席します」
皇后陛下が下手の席を見やったが、第一皇子はまだ顔を見せていない。
「さすが、菊皇后はおきれいね」
朱梨の周囲で、宮女候補者たちがひそひそとしゃべっている。
「でも心中は複雑でしょうね。自分の夫の側女を選ぶんだから」
「不敬がすぎるわ。そもそも帝はご高齢。お世継ぎにも恵まれているし、お渡りはなさらないんじゃないかしら」
「じゃあ西に並んだ妃妾の候補者たちは、入内してからなにをするの」
「次期陛下たる、皇太子殿下の気を引くのよ。ほら、いらっしゃった」
門の向こうから、ひとりの男性が颯爽と歩いてくる。
すらりとした身の丈に、皇族らしからぬ質素な袍。袖からのぞく腕には筋肉が盛り上がり、意外にもたくましい。
「すまない、遅くなった。それでは始めよう」
皇子は頭に翼善冠も戴かず、髪もまとめずに垂らしていた。それでいながら目鼻は描いたように美しく、知性と気品にあふれている。
茶館にくる客は朱梨を妓女として扱ったり、酔って暴れたりもした。そもそも人間自体が苦手だが、男という性はことさらに怖く感じる。
にもかかわらず、朱梨は皇子の見目に惹きつけられていた。
──きれいな人……人ではないのかも……。
皇帝陛下は天子というくらいで、子息も人間離れした美しさだと思う。それでいて義兄のような雄々しさもあり、いよいよ神仙を見た気分だ。
「ため息が出るような美丈夫ね。あの皇子が即位した暁には、今日の候補者たちからご自分の妃を選ぶのかしら」
宮女の候補者たちが、またおしゃべりを始める。
「伯飛殿下は皇太子じゃないわ。立太子したのは第二皇子の伯金殿下。あなた選抜に参加しているくせに、そんなことも知らないの」
「わ、私の父は統督よ。絶対に選ばれるから問題ないわ。それにしても、もったいないわね。伯飛殿下、さぞ美しい帝になったでしょうに」
「そうなのよ。文武両道で眉目秀麗。童の頃から麒麟児と称され、皇帝陛下の信頼も厚い。だからいまも後宮に居を構えているんですって。なのに皇太子に冊立されていないのは、目を呪われているかららしいわ」
はっとなった朱梨は、門前に座る伯飛皇子を見上げた。
その尊顔はたしかに麗しいが、瞳は左右どちらも黒々としている。
「ちょっと。呪われているって、どういうこと」
「皇子は夜な夜な後宮を徘徊して、醜女の閨にばかり忍びこむんですって。その目を呪われているから、相手の美醜がわからないそうよ」
宮女候補者たちの忍び笑いを聞き、朱梨の体から力が抜ける。一瞬でも自分と同類かと思ったことが、無性に情けなかった。
それからしばらくの間、朱梨は妃妾の候補者たちが門を抜けて入内したり、金子を賜って引き返していくのを、ぼんやりと眺めていた。
しかし門前に呼ばれた五人の中に玉蘭を見つけると、さすがに注目する。
朱梨は物心がついた頃から、友がいたという経験がない。血眼を見ても去らなかった人間は、のちに家族となった兄だけだ。
玉蘭のように、朱梨と向きあってくれた他人はいない。だからつかの間でも言葉を交わせたこと自体、この先も忘れられない歓びになると思う。
──せめてもの恩返しに、玉蘭さまの入内を祈ろう。
そう思って手をあわせたところで、伯飛皇子が玉蘭の舞いを止めた。
「李家のご息女、玉蘭よ。あなたの舞いは、きっとこの先に何度も見る。今日は時間を節約させてくれ」
すわ落選かと肝が冷えたが、玉蘭は宦官から花を賜り門へ向かった。
ところが中途で振り返り、こちらに向かって小さく手を動かす。
──まさか、私に……。
うれしさと困惑で、頭がぼうっとなってしまった。
気がつけば、選抜の順番がすぐ目前に迫っている。
直前の宮女候補者たちは、家柄もよく見目も相応に麗しかった。その上で笛を奏でたり詩歌を諳んじたりと、能も存分に示している。
「──領主にて茶商、猪苓が養女。朱梨」
宦官に名前を呼ばれ、朱梨は先の四人をまねて御前に跪いた。
「領主はともかく、茶商の娘が嫡子ではないのか。妙なものだな」
先ほど宦官は猪氏を領主と言ったが、そんな事実はない。玫瑰夫人が裏で手を回した小細工も、見る人が見ればすぐにわかる。
「動揺した様子はないな。諦観なのか、肝が据わっているのか。朱梨だったか」
皇子の問いに、朱梨は「はい」とだけ答えた。
「その名は茶の縁。となると実父も茶の関係者か」
朱梨が驚いていると、菊皇后が我が子に問いかける。
「伯飛。どういう意味か、母にも説明なさい」
「母上もご存じでしょう。梨には朱梨と青梨がある。茶畑がある高地の山には朱梨が多く、農夫を労うように茶摘みの時期に花を咲かせるのですよ」
皇子はやれやれといった様子で、菊皇后に説明した。
「はたしてその通りですか、猪朱梨」
皇后の問いに、朱梨は平伏して答える。
「畏れながら申し上げます。殿下のご推察通り、父は茶館の主人でした」
「ふん。親を失い、店を乗っ取られ、最後に厄介払いされたというところか。領主の身分も、おおかた買い叩いたものだろう」
皇子は憐れみも笑いもせず、ただつまらなそうな顔をしている。
「さあ、どうする朱梨。おまえに門をくぐれる望みはない。このまま金子を受け取って帰るか。それとも……足搔いてみるか」
皇子の目線は、朱梨が持参した茶器に向いていた。
これは皇子の慈悲なのか。あるいは単なる気まぐれか。
どちらにせよ、八方塞がりの朱梨に初めて見えた光明だった。
──玉蘭さまは、私を信じると言ってくれた。
きっと茶を入れたところで花は賜れない。自身の行く末もどうでもいい。
けれど玉蘭との約束を、自ら反故にすることだけはしたくない。
「皇后陛下と皇子殿下に、お茶を献じさせていただきたく存じます」
気がつくと、朱梨は低頭していた。
猪氏のときと同じで、失うものがなくなると人は大胆になれると知る。無口なはずの朱梨が、今日だけで茶館の十日ぶんはしゃべっていた。
「そんな無礼が許されるものか! 毒味役もいないのだぞ!」
宦官の長が割って入ってくる。
「……そうね。伯飛、控えなさい。これは宮女の選抜です」
菊皇后はなぜか不本意そうに、我が子を諫めた。
「たしかに太監の言う通りだな。毒味もなしに皇后陛下に茶を出すのは、さすがにまずい。だが私だけならかまわんだろう。どうせ呪われた皇子だ」
にやりと笑った皇子の提案を、太監はまだ認めない。
「畏れながら、伯飛殿下に申し上げます。選抜の儀はまだ半ば。あともつかえておりますゆえ、戯れよりも裁定を願います」
「だが喉も渇き、一服したい頃あいだ。私がここで飽いてしまったら、それこそのちの裁定に影響が出るぞ」
太監は苦渋を満面に浮かべつつ、「火と水、卓を持て」と配下に命じた。
やってきた宦官たちが、炭筐から燃える炭を出して涼炉に投じる。
炉の上には鉄瓶ではなく、砂銚が置かれていた。砂銚は言うならば大型の茶壺のようなもので、湯が沸くのは遅いが鉄臭さがしない。
朱梨は持参した行李を卓の上に置き、茶器を並べていく。
「美しい蓋椀だな。それで飲ませてくれるか」
全面に淡い蓮が描かれた七宝焼きの椀は、朱梨が父から譲られた品だ。かつて高貴な人物から賜ったものらしく、大切な客に使っていたのを覚えている。
さすが皇子はお目が高いと思う一方、朱梨は悩むことになった。
蓋椀は茶杯と違い、茶葉を直接椀に入れて飲む。
そのため鉄観音のように高温で入れる茶は、飲む際に唇を火傷しやすい。茶葉も椀に入れたままになるので、渋みが出やすい黒茶や烏茶は適さない。
持ちあわせた茶が限られる中、さらに選択肢が減ってしまった。
しかし迷ってはいられない。茶を入れるのはただでさえ時間がかかる。
朱梨は素早く蓋椀に茶葉を投じ、高所から砂銚の湯を注いだ。
すぐに蓋をして、手を触れたまま目を閉じる。
やや間を置いて蓋をずらすと、一杯目を茶盤に捨てた。
「手際もいいが、所作が美しいな。見ていて飽きない」
皇子がほうと、感心している。
口が達者でないのなら、「動」と「静」の姿勢で客を楽しまる。それが茶博士だった父のやり方で、朱梨の性にもあっていた。
「壽眉。白茶にございます」
二杯目の茶が蒸らし終わり、朱梨は蓋椀を太監に差しだす。
「白茶か。なるほど、蓋椀に適した茶だな」
太監から椀を受け取り皇子が言った。
白茶は枯淡ですっきりした味わいで、中でも壽眉は飲み口が軽い。長い間しゃべっている皇子が渇きを癒やすのに、ちょうどよいはずだ。
「いい香りだ。春の田畑のような、力強さを感じる。かすかに香る甘い匂いは、遠い果樹園から吹く風のようだ。だが……残念だな」
蓋を開けて香りを楽しんでいた皇子が、落胆の息を吐く。
「ときどき、いるんだ。『濡れた茶葉は口当たりが悪い。皇子に飲ませるわけにはいかない』と、わざわざ茶葉を除く者が。なんのための蓋椀か」
蓋で押さえていても、茶葉が口に入ることはある。皇子の従者はそれを避けようとしたのかもしれないが、朱梨が茶葉を除いたのには別の理由があった。
「私が茶葉を除いたのは、壽眉が『葉』を摘む茶葉だからです」
朱梨の言葉に、伯飛が眉を上げて「続けよ」と短く返す。
「白茶は渋みが出にくく、蓋椀に適した茶です。それは白茶の多くが、『芽』を摘んで製造するため。しかし私が持参した壽眉は、『葉』を多く含む茶です」
ゆえに長く蒸らせば、面積のぶんだけ渋みが出やすい。一番うまみを感じる濃度で茶を飲んでもらうには、茶葉を除くしかない。
「そして葉を使うぶん、壽眉は香りが強く出ます。茶葉を除いても十分に」
「なるほど、奥深いな。私が早とちりしたようだ。すまなかった」
伯飛は皇子でありながらあっさり謝罪し、ためらいなく蓋椀に口をつける。
「茶はみんなそうだが、これもまた苦いな」
顔をしかめた皇子を見て、朱梨は再び兄を連想した。しかし今度はその体つきではなく、兄の今際の記憶がよみがえっている。
「皇子はもしや、お体が悪いのではないですか……も、申し訳ありません」
思わず口に出してしまい、己の失言をすぐに詫びた。
「なぜそう思う」
薄く笑っていた皇子の目つきが、一変して鋭くなった。
「壽眉という茶は、肉体が壮健であればほの甘く感じます。ですが病に冒され衰えている場合、苦く感じると言います。兄がそうでした」
病弱な母や自分でなく、頑強な兄だけが疫病で落命した。兄が最期に言った「白茶が苦い」という言葉が、朱梨はずっと忘れられない。
「無礼な! 皇子殿下を病人呼ばわりなど、万死に値するぞ!」
太監の怒号に、朱梨はただちに平伏した。
「申し訳ありません。どんな罰でもお受けいたします」
「なるほど。命に頓着せぬ性質か。だが白茶を苦いと感じる理由は、病だけではあるまい。自分が入れ損なったと考えぬなら、開き直るだけ見苦しいぞ」
先ほどまでの飄々とした態度と異なり、皇子に感情が見える。
しかし失敗だけはありえない。朱梨はこれまでに何万杯と茶を入れている。自分で入れた茶の味は飲まずともわかった。
朱梨はただ頭を下げ、皇子の決断をじっと待つ。
「皇子、お願いがあります」
その声を上げたのは、門の向こうから戻ってきた玉蘭だった。
「もう一度だけ、朱梨にお茶を入れさせてください。それでも苦いと感じたなら、わたくしが賜った花を返却しますわ」
「無礼な! すでに傑女に選ばれたからと言って──」
太監が息巻くのを、皇子が「待て」と制した。
「傑女に選ばれたなら、すでに陛下の妃がひとりだ。その意見に耳を傾けねば、我らが罰を賜るぞ」
伯飛皇子は、くつくつとおかしそうに笑っている。
「李家の息女は、美食に目がないらしい。朱梨の入宮が望みとしても、自らの進退をかけるとは恐れ入った。次はしくじるなよ、朱梨」
朱梨はうつむいたまま考える。
玉蘭のおかげで首がつながったが、再び茶を入れても結果は変わらないだろう。
ではどうすればと心の内に耳を傾けると、聞こえてきたのは父の声だった。
朱梨は懐から匂い袋を取りだし、その香を嗅いで心を落ち着ける。
そうして再び湯を沸かし、茶を蒸らし、頃あいを見て太監に蓋椀を差しだした。
太監はふんと鼻を鳴らし、伯飛皇子へ椀を献上する。
「今度は、茶葉があるな」
伯飛皇子は椀の蓋をずらし、口をつけてから露骨に顔をしかめた。
「朱梨。この白茶は、先ほどよりもさらに苦いぞ」
「こちらは白茶ではございません。持ちあわせている茶葉を組みあわせ、薬茶をこしらえました。誰であっても苦く感じると思われます」
なぜそんなことをと、皇子が視線で尋ねてくる。
父は朱梨に、自分の入れたい茶を入れよと言った。それがなにかはわからない。けれど皇子の体力が衰えていることだけは、はっきりとわかる。
朱梨が持参した茶葉の多くには、血行促進、悪寒予防、疲労回復、消毒、殺菌などの効能があった。茶に漢方薬を組みあわせたものは「八宝茶」と呼ばれる。漢方薬の持ちあわせがなくとも、茶だけでも薬に近いものはできる。
「先ほど入れた壽眉茶に、手抜かりがあったとは思いません。幸運にも再び茶を入れる機会をいただいたので、玉体に少しでも滋養をと考えました」
苦みの真偽などどうでもいい。自分の入れたい茶もよくわからない。
ただ気がついたときには、手が薬茶を入れていた。
「かくも苦いのに、飲み干してしまった。体が欲していたのかもな」
伯飛皇子がくっくと笑い、席を立って近づいてくる。
「次はうまい茶を飲みたいものだ。朱梨、顔を上げよ」
命令とあらば逆らえない。朱梨はうつむいていた顔を上げた。
「これは……」
皇子は朱梨の血眼を見て、声を失っている。
朱梨もまた、皇子の顔に見入っていた。
──澄んだ目。まるで赤子のよう。
瞳に自分が映る距離で人の顔を見るのは、ほとんど初めての経験だった。
「皇子、裁定を」
太監に催促され、伯飛皇子が席へ戻っていく。
「伯飛、わかっていますね。これは傑女の選抜。茶の能は関係ありませんよ」
皇后が戒めると、皇子はほくそ笑んだ。
「承知していますよ、母上。ただ、この組は優秀でした」
幻国の第一皇子が、その名において居並ぶ五人の候補者に告げる。
「猪苓が養女、朱梨……以外の四人に花を授ける」
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■著者プロフィール
鳩見すた(はとみ・すた)
第21回電撃小説大賞《大賞》を受賞してデビュー。『アリクイのいんぼう』(KADOKAWA)や『こぐまねこ軒』(マイナビ出版)など、動物を中心としたあたたかい物語が読者の支持を受けている。近年は『水の後宮』シリーズ(KADOKAWA)などの中華風ファンタジー作品も手掛ける。