序――猫探し屋の娘
夏の初め。梅雨の気配はまだ遠く、気持ちのいい風が、茂った葉をさわさわと鳴らして過ぎていく、よく晴れた午。頰の辺りに幼さの残る女子と男子が、神田川に掛かる昌平橋を、北へ渡っていた。
年の頃はどちらも十三、四ほど。
町場の子なら、手習い塾へ通っているか、早い子ならばそろそろ奉公に出始める歳だ。
どこか遠慮がちな間合いを見るに、兄妹や幼馴染というような、気の置けない仲ではなさそうだ。
女子の方は、汚れてやせ細った、白地に茶色い縞模様のぶち猫を抱いている。色褪せ、擦り切れた山吹色の木綿の小袖から覗く白い腕には、あちこちに付けられた赤い引っかき傷が痛々しい。
対して、男子はそこそこ贅沢な身なりをしている。さしずめ、そこそこ羽振りのいい表店の息子、といったところだろうか。歩を進めながら、おっかなびっくり、女子に抱かれたやせっぽちの猫を覗いている。
「そいつ、嚙みつかないかい」
そろりと、男子が訊いた。
す、と女子は眼を細くした。
「さあ。わかんない」
つっけんどんな応えに、男子が気まずそうに口を噤んだ。
女子の名は、さよ 。住まいは八丁堀、同心の組屋敷内に建てられた長屋で、生業は「猫探し屋」だ。
世の猫は大概が町を好き勝手にほっつき歩いていて、飼い猫なら腹が減ったら飼い主の家へ戻ってくる。飼い主も好きにさせていて、一日二日、戻ってこないくらいで慌てはしないし、銭を払ってまで探そうともしない。
だが中には、家から出さず─その実、人間が寝静まった夜中に、猫達は出歩いているのだが─、箱入り娘の様に可愛がる金持ち猫飼いもいて、少し姿が見えないだけで、大騒ぎになる。
また、普段は放っておくような飼い主も、八日、十日と戻ってこないと、やはり心配をし出す者も多い。授からなかった、あるいは失くした子の代わりとして飼っている者もいるし、年中寝食を共にしていれば、たとえ鼠捕りの為に飼い始めた猫でも、情は湧く。
そんな人達を相手に、いなくなった猫を探して連れ戻し、手間賃をとる。
さよは幼い頃、猫だけが友だったこともあり、猫の「気持ち」が分かるし、仲良くできる。怯えている猫、怒っている猫の扱いにも慣れている。
何より、商売敵はせいぜいが「よろず屋」くらいだから、客には事欠かない。
ひとりで生きて行こうと決めたさよにとっては、うってつけの商いなのだ。
さよは、こちらの顔色と猫の機嫌を代わる代わる窺いながら、おっかなびっくり傍らを歩く男子の顔を、冷ややかに見つめた。
自分達は、大声を出したり水を掛けたり無造作に手を伸ばしたり、平気で猫の怖がることをする癖に、いざ、猫を目の前にすると、訳もなく嚙まれるんじゃないか、引っかかれるんじゃないかって、びくびくするのよ。大体、こんな弱ってる子が嚙みついたりできるわけないじゃない。本当、自分勝手。
口に出さず文句を連ねてから、切り捨てるように心の中で断じる。
だから、人間なんて嫌い、と。
それから、胸の中で渦巻く薄暗く淀んだものを、吐息と共に外へ押し出す。
嫌いとはいえ、せっかく見つけた「ゆずさんのお客」だから、無下にはできないわね。
さっと気持ちを切り替えて、隣を歩く男子に話しかける。
「ええと、信次郎さん」
「はい」と、男子─信次郎が応じる。
「ううん、ぴんとこないわね」と呟いてから、さよは「坊ちゃん」と呼び直した。
再び、はい、という律義な返事を待って、先刻の問い─猫が嚙みつかないか─に答える。
「この子は、弱っているから嚙みつく心配はないけど、この子のために触れたりしないで頂戴。怖がらせると余計弱っちゃうもの。それから、怯えている猫ほど、嚙んだり引っかいたりするから、道端の猫にも、やたらと手は出さないことね」
信次郎が、ぶるぶる、と頭を振った。
「この子にも、道端の猫にも、触るつもりはないよ」
「やっぱりね」
さよは不機嫌に応じた。
どうせ、汚い、怖い、と思ってるんでしょう、と心の中で毒づく。
金持ちは、いっつもそうだ。人間の中でも、取り分け自分勝手。
綺麗で愛らしい時は馬鹿みたいに可愛がっていた癖に、いざ、汚れて帰ってくると、嫌そうに手を引っ込める。
綺麗好きの猫がここまで汚れるってことは、それだけ大変な目に遭ったってことなのに。
自分で毛づくろいできないくらい、弱ってるって、ことなのに。
やせっぽち猫のごわついた毛並みをそっと撫でつけるさよの手を見ながら、信次郎は訊ねた。
「おさよさんの─」
「さよ、でいいわよ」
どうせ、貧乏者の猫探し屋ですから、お金持ちの坊ちゃん。
続けたかった皮肉を、さよはどうにか吞み込んだ。
これは、あたしの客じゃない。ちゃんと、「ゆずさん」のとこまで連れてかなきゃ。
もう一度、気短な自分に言い聞かせ、心を落ち着ける。
だって、あたしはただの「人嫌い」だけど、「ゆずさん」は、人に関心がないのだもの。
だから、始末に負えないと、さよは気を揉んでいる。
自分が客を見つけなければ、「ゆずさん」が営んでいる古道具屋は、潰れてしまうかもしれない。
真剣な顔で考え込んださよを、どう思ったか、信次郎は明るく言った。
「じゃあ、おさよちゃん、だ。その猫、おさよちゃんの腕の中で、随分安心しているようだね」
「そうじゃなきゃ、猫探し屋なんか務まらないでしょ」
つい、得意になった物言いに、信次郎が微笑んだが、すぐに顔を曇らせて心配そうに言う。
「けど、腕は引っかき傷だらけだよ。着物だって汚れてしまった」
さよは、改めて自分の形をしげしげと眺めた。小袖は、猫を探す時に着る古着だから、こんなものだ。腕は、確かに、女子の腕としては無残だと思う。
普段、好き勝手に表と家を行き来していても、迷子になる猫はいる。
うっかり、他の猫の縄張りに足を踏み入れ、追い立てられ、逃げ回り、を繰り返すうちに、自分がどこにいるのか、分からなくなってしまうのだ。
そんな具合で帰れなくなり、怯えている猫に手を出せば、どれほど気を付けても、嚙みつかれたり、引っかかれたりすることは、ある。勿論、人に慣れようとしない野良猫も嚙んだり引っかいたりしてくるが、人に頼らず、たくましく暮らしている野良猫に、さよが自分から手を伸ばすことはない。
迷子の猫を無事探し出しても、こんな風に汚れたままの猫を返すと、要らないといい出す客も中にはいる。だからいつも、さよは汚れた猫は綺麗にしてから返すのだが、大抵の猫は水嫌いで、洗うとなると、大暴れの大騒ぎになる。
痕になるような深い傷を付けられることは滅多にないが、生傷は絶えない。
けれど、これは自慢の傷だ。
ひとりで、食い扶持くらいは稼げている証。
家へ帰りたいのに帰れなくなった猫を探し出し、元の家に返してやった証。ひとりぼっちの自分を慰めてくれた猫達へ、恩返しが出来た証。
「これくらい、なんでもないわ」
信次郎は、胸を張ったさよを気遣わし気に眺めたが、「そう」と静かに答えるだけだった。
心配そうな顔しないでよ。坊ちゃんには関わりないじゃない。
居心地がどうにも悪くて、さよは強引に猫の話を終えた。
「坊ちゃんの探し物は、猫じゃないでしょう」
信次郎は、思い出したように「そうだった」と呟いた。
さよは足を止め、視線で目の前の店を指し、「ここよ」と告げる。
神田川に沿った往来から、一本北へ入った道の東角、湯島横町の小さな表店だ。
西隣は、「太田屋」という舂米屋 ─仲買から玄米を仕入れ、店で搗き、白米にして売る商いをしていて、仕入れている米が旨いのか、搗き方がいいのか、遠くから評判の料亭がわざわざ買いに来るほど羽振りが良く、店の片隅で「白米に合う菜」を売る煮売屋まで営んでいる。
角を南へ曲がった先には小さな稲荷を挟んで、さよが指した店と同じような小さな表店が並ぶ。
「太田屋」との境は、上等な黒板塀。東の往来、南の稲荷を隔てているのは、手入れが行き届いた銀木犀の生垣だ。
店の入り口は腰高障子だが、内から障子を張っていて、白木の格子がこちらを向いている。両脇の壁は、表戸よりも細かな縦格子で、こちらも内から張られた障子で、中が覗けない。暖簾は出ていないが、店先には切り株を輪切りにしたような板が下がっている。屋号は「おもかげ屋」。
小洒落れた店構えだが、古道具屋にしては風変わりだ。行燈でも出ていれば、小料理屋と間違える者もいるだろう。
そして、「おもかげ屋」の看板の下に、同じ造り、三分ほどの大きさの板が揺れている。そこには、「親看板」と同じ流麗な筆跡で、「迷い猫、探します」と書かれていた。
「おもかげ屋」の店先を、気圧されたような顔で眺めている信次郎に、さよは溜息交じりで告げた。
「驚かないでね」
「本当に、古道具屋なんですか。値の張るものしか扱っていない骨董屋では、とても─」
「そっちは、大丈夫よ。まあ、高いものも置いてるけど、二束三文の古道具も売ってるから。驚かないでって言ったのは、別のこと」
信次郎が、戸惑いの目をさよへ向けた。
「それじゃあ、驚くことって、どんな」
さよは、暫く黙ってから、ぽつりと告げた。
「会えば、分かるわ」
さよが腰高障子を少し開けた途端、ひょこっと、子猫が顔を出した。
まだ怪我が治りきっていない子猫が外へ出てしまう─。
さよが慌てる間もなく、
やーう。
と、中から、妙に迫力のある猫の鳴き声がした。途端に、子猫がさっと首を引っ込めた。
「師匠が、くろを?ってくれたみたいね」
ほっとして、戸を大きく開け放った。
店の中はがらんとしていて、帳場格子があるのみ。先刻の子猫の影も、主の姿もない。
「上がって」
さよは、戸惑う信次郎を促してから、さっさと店の奥へ向かった。信次郎は慌てた様子で後を追ってきたが、ふと、怯えた風に足を止めた。
板戸で店と隔てられた奥から、怪しげな話し声が漏れ聞こえてくる。
『綺麗な刃をしているねぇ、お前。おや、こんなところが欠けている。可哀想に、痛かったろう。安心おし、少し研げば、元通りの器量よしだよ。おっと、だめじゃあないか、こんなところに転がり出てきちゃあ。うっかり割ってしまうよ。あはは、お前は、余程気に入られて、遊んで貰ったんだねぇ。巴模様がこんなに剝げちまって。そりゃあそうだ、大層いい音がする。そうかい、私に褒められて上機嫌かい。それはよかった』
調子のいいでんでん太鼓の音に、楽し気な若い男の笑い声が聞こえるに至って、信次郎は二歩、後ずさった。すっかり、腰が引けている。
さよは、苦い、苦い溜息を吐いた。
「まったく、いくら言っても懲りないんだから」
独り言のように吐き捨ててから、信次郎に小声で告げる。
「驚くなって言ったの、これ。ここの主の『妙な癖』のことよ。ちょっと変わってる人だけど、嚙みつきはしないから安心して」
信次郎が、戸惑いつつも小さく頷いたのを確かめ、いささか乱暴に板戸を開ける。
簞笥や文机、値の張りそうな壺に掛け軸、古ぼけた茶碗に子供の玩具。
散らかり放題の物置の中、古道具に埋もれた若い男が、こちらに背を向けて座っている。
さよは、思い切り息を吸い、その勢いのまま、怒鳴りつけた。
「ゆずさん、今すぐ、その『妙な癖』を止めて頂戴。お客さんが怖がってるじゃないのっ」
散らかっている道具の陰や隙間、あちらこちらから、猫達がぴょこん、と跳ねて出て、別の道具の陰に隠れた。
ただ一匹、落ち着き払ったおばあちゃん三毛猫が、欅の長火鉢─勿論、火は入っていない─の中から、呆れたような目をこちらへ向けている。
少し間を置いて、隠れた猫達も「なぁんだ、おさよちゃんか」とばかりに、ひょこひょこと、顔を出した。
この猫達の動きも、「おもかげ屋」お決まりの眺めである。
そうして、いつもの通り、背を向けていた「ゆずさん」─「おもかげ屋」主、柚之助がゆったりと振り返った。
見慣れたはずの「花の顔」に、どきん、と胸が高鳴る。
気持ちを落ち着けるために、さよは心中で文句を言った。
ほんと、心の臓に悪いわ、この無駄にいい顔。
柚之助は十八の若者だが、「その辺の小町よりも美人だ」と噂される、なよやかで優し気に整った色白の顔は、むしろ女が嫉妬する造作だ。
その顔に無垢な童のごとき笑みを湛え、柚之助がさよに、おっとりと問いかけた。
「やあ、おさよちゃん。お客さんって、おさよちゃんのかい、それとも私のかい」
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続きは発売中の『古道具おもかげ屋』でぜひお楽しみください!!
Profile
田牧大和
1966年東京都生まれ。2007年「色には出でじ 風に牽牛」(『花合せ』)で小説現代長編新人賞を受賞。
著作に「鯖猫長屋ふしぎ草子」シリーズ、「藍千堂菓子噺」シリーズのほか、『大福三つ巴 宝来道 うまいもん番付』『恋糸ほぐし』『紅きゆめみし』など多数。