ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 試し読み一覧
  3. おしょりん

おしょりん

 明治三十七年 四月

「風が入ってくるな」
 夕飯の後片付けをしていると、五左衛門がふと顔を上げ食事場と奥の三畳間を仕切る襖に目をやった。襖の上のほうに模様付きの横格子があり、外からの風が入ってきている。四月なので風はさほど冷気を孕んではいなかったけれど、
「奥の座敷の障子が開いてるのかもしらんねえ。閉めてきましょう」
 とむめは返し、襖の間に体を滑らせる。三畳間の、庭に続く障子はやっぱり少し開いていて、手をかけると袂に風が流れてきた。たしかに少し冷たい風が脇の辺りに溜まる。
 むめは、五左衛門とふたりきりで過ごす気詰まりに、小さなため息を吐いた。ひと言ふた言話すだけでいつも会話が途切れてしまうのは夫のせいなのか、自分のせいなのか。この頃になって仲が冷えたのではなく結婚当初からのことなので、互いに口下手であることが影響しているのかもしれない。
 むめはもう一度、小さく息を吐き、八年前の婚礼の日のことを思い出す。五左衛門とのやりとりのなかで小さなひっかかりを感じるとすぐに記憶が遡り、むめにあの日と同じ落胆をもたらすのだ。
 十九歳の秋以降、むめは自分の婚礼の儀をまだかまだかと指折り数えて待っていた。両親が丹後から取り寄せてくれた黒地五つ紋付きの振袖を着ることも嬉しかったが、それよりもまたあの人に会えるのだということがむめをたとえようのない幸福に導いた。嫁ぐ日を指折り数えて心待ちにしている花嫁を誰もが「幸せ者や」と祝福し、むめ自身もなんて恵まれた婚礼なのだろうと胸をときめかせていた。
 だが婚礼を前に執り行われた結納の場に、あの人は現れなかった。自分の正面に座ったのは、記憶の中のあの人よりもずっと年嵩の、むめと目を合わせてもにこりともしない男だった。
 よほど放心していたのだろう。母がどうかしたのかと耳元で囁いてきた。むめは「この前にお会いした増永さんやない」と素直に打ち明けた。小声で話していたつもりが聞こえてしまい、増永夫婦が「先日お宅に遣わしたんは、五左衛門の弟の幸八やざ」とむめの勘違いに苦笑を返してきた。
「身丈より偉そうなことばかり申しますんでひねて見えたかもしれませんが、まだ高等小学校を出たばかりなんですわ。ほんの十五歳です」
 半笑いのまま増永の母が告げてくる言葉が、頭の中を上滑りしていった。
 まだほんの十五歳の、五左衛門の弟──。
 そういえば、あの日男は一度だって自分がむめの婚約者だとは口にしなかった。ただ家からの届け物を持ってきて、そして角原の景色を見て帰りたいと言っただけだ。それを自分が勝手に早とちりして……。
 増永の父母も、むめの両親も、にこやかな顔をしてその場で膝を突き合わせていた。むめがそこで「そうでしたか」と目を細め、口元を手で覆っておかしそうに身をくねらせればただの笑い話ですんだのだろう。だがむめの思考はその瞬間で止まってしまい、それから一言も、話せなくなってしまった。
 淡い木漏れ日に照らされた男の顔が頭に浮かぶ。怯えるむめの手を取って、その背に庇ってくれた時の心の昂ぶりは、日を追うごとに強くなっていて……。
 むめは目を見開き、泣き出しそうになるのを必死で耐えた。目の前で正座する五左衛門になんの罪もないことは知りながらも、その日は目を見ることすらできなかったのだ。
 奥の三畳間の障子を隙なく閉めて食事場に戻ると、五左衛門はまださっきと同じ姿勢のまま囲炉裏の前に座っていた。火箸を手に持ち、火が絶えないよう番をしている。
 むめは囲炉裏の上に吊られた鉄瓶を下ろして湯吞に茶を淹れ、胡坐をかく五左衛門の前に置いた。五左衛門はゆっくりと手を伸ばし、躊躇なく茶を口に含む。熱い茶をひと息に飲み下すなんて喉が焼けないんやろか、といつものように呆気にとられるが、夫の顔つきはなにひとつ変わらない。
「まだお休みにならんのですか」
 いつもなら亥の刻四つ──午後十時には寝間で休んでいる夫が、今日に限って夜更かしをしている。むめにしても夫が起きているのに自分が先に床に入るわけにもいかず、さっきから食事場と西隣にある六畳間を行ったり来たりしている。六畳間では五歳のつい、三歳のたかの、一歳になったばかりのみどりの三姉妹が並んで眠っており、眠りの浅いみどりが時々むめを求めてぐずついていた。
「先に休んできたらええ」
 お茶のおかわりを訊ねたむめに、五左衛門が言ってきた。手持ち無沙汰に立ったり座ったりしているのに気づいた様子で目線を上げる。
「はい、そうさせていただきます」
 むめは頷き、前掛けの紐を解いた。言葉数が少なく無愛想でも、五左衛門はけっして意地の悪い性格ではなかった。だから自分は、五左衛門の妻として生きることに苦痛を覚えてはいない。縁があって一緒になったのだから添い遂げるつもりでいる。婚礼の儀を終えた後は気持ちを立て直し、そしてこの八年間、増永家の嫁として恥ずかしくない振る舞いをしてきたはずだった。
「みどりが夜泣きしますんで、わたしは六畳間で休みます」
 だがどうしてだろう。五左衛門がそばにいない時のほうが心が軽い。
 増永の屋敷には土間や食事場の他に八畳間の寝間、十畳間の客間、三畳、四畳、六畳の間があるのだが、このところ寝間で夫婦並んで寝入ることはほとんどない。娘たちが生まれてからは、かつては幸八の部屋であった六畳間で娘たちを寝かしつけるのが自然になり、そしてその理由を五左衛門を充分に休ませるためだと伝えていた。
「火の用心、よろしくお願いします。おやすみなさい」
 むめは火消し壺を五左衛門の傍らに滑らせ、隣の六畳の間に続く襖に手をかけた。今日も何事もなく一日が終わる。
 六畳間は子供たちの高い体温で湿っていた。むめがその暗い室内に足を踏み出し、後ろ手で襖を閉めようとした時だった。
「むめ」
 五左衛門が自分を呼ぶ声に振り返る。
「はい」
「帰ってくるざ」
 五左衛門が手の中の火箸を、ゆるりとした動作で囲炉裏の灰の中に突き刺した。
「帰ってくる……どなたがですか」
 囲炉裏にはまだ炭が残っていて、焼けた断面が暗闇に浮かぶ。
「幸八が明日帰ってくるそうや。先週届いた便りに、そう書いてあった」
 再び火箸を手にすると、五左衛門が赤く焼けた炭を摘んだ。ひとつひとつ、まるで焼き場で骨を拾うように、火消し壺に集めていく。
「……そうですか。で、なにか用事でも?」
 四年前の大火事の時に五左衛門には会いに来たようだが、幸八が実家に戻ってくることはなかった。あの大きな炎は、自分の罪が形になったものかもしれない。自分の内にある危うい火種がまねいた災いかもしれないと、火事の影響で工場を閉めた際に幸八に文を出そうともしたけれど、そんな勇気は出ないまま歳月だけが流れていったのだ。
「新しい事業のことや。詳しいことは直接話すと書いてあったが、おまえはなにか聞いてるか」
 むめが首を横に振ると、
「そうか」
 と五左衛門が囲炉裏に残る最後ひとつの炭を拾い、薄暗かった食事場の灯りがすべて落ちる。

 六畳間で泣き声をあげていたみどりを抱き起こすと、ついやたかのも目を覚まし、布団の上でもそもそと動き始めた。ついは目をこすり、たかのは抱っこをせがんでくる。「うちには女しか生まれんのか。女ばかりではどうにもならんわ」と舅や姑からは耳を塞ぎたくなるような文句も聞かされるが、むめにとっては愛しくてたまらない娘たちだ。
「みどりはおっぱいが欲しいんか。ついとたかのはゴロンしてねんねやよ」
 喉をひきつらせて泣くみどりを胸に抱きながら、長女と次女の髪を撫でてやる。シマは通いの手伝いなので夜はおらず、こんな日は夜通し起きて子供たちの世話をしなくてはならない。
 むめは着物の前をはだけて乳首をみどりの口に含ませた。泣き声がぴたりと止むと、ようやく姉たちも布団に横になる。泣き叫んでいたみどりの額に手をやり汗を拭い、むめは大きく息を吐く。
 可愛いけれど、子供を育てるには毎日くたくたになるまで力を尽くさなくてはならない。うちはまだ娘で、息子だとさらに力が必要だと人は言うけれど……。喉を鳴らし全身を使って乳を飲むみどりを見下ろし、すっかり母親になった自分のことを思う。娘たちが生まれてきてくれたおかげで居場所ができ、増永の嫁としてやってこれたが、娘たちが家を出てしまったらその先はどうして生きていこうか──。
 まだほんの乳飲み子を抱えながら、子供たちが巣立った後のことを憂う自分がおかしくて、むめは笑う。そんな先のことを考えていてもしかたがないのに。
 みどりを抱えたまま立ち上がり、手摺窓の障子を開ければ松の木の上に浮かぶ満月が見えた。そういえば幸八がこの家を出ていった夜も、美しい満月が庭の松の木を照らしていた。
「おかっちゃん」
 ついが薄い手のひらで、むめの膝小僧を撫でてくる。着物の裾が捲くれ上がって、むめのかさついた膝小僧が剝き出しになっている。
「おかっちゃん。みどりちゃん泣き止んだんやったら、お布団の上に寝かせたら? ずっと抱っこしていたら重いやろ」
 長女のついは、いつも母親を気遣ってくれる。姑はついの気の弱いところに不満があるようだが、この子は繊細で優しい心をもっているぶん、自分の思いを人に伝えられないところがあるだけだ。
「そうやな。みどりちゃん寝たみたいやしね」
 そぉっと、そぉっと……ついと声を合わせて、みどりを布団の上に下ろす。
「おかっちゃんの隣で寝てもいい?」
 みどりの口元に耳を近づけ、寝息を立てているのを確かめてから、ついが擦り寄ってきた。眠っているとばかり思っていたたかのまで寄ってきて、むめの両脇に添う。ふたりの頭の上に腕を伸ばし、小さな体を小脇に挟むような形で目を閉じた。幸八が帰ってくる──五左衛門のひと言に心を乱していた自分を戒めながら瞼を瞑った。

 翌日、幸八が増永の家にやって来たのは、もう日も暮れ始めた夕刻だった。
 夕餉の仕度は終えていたので、通いのシマを自宅に帰し庭先で娘たちとおはじきをしていると、
「お久しぶりです。幸八ですが、誰かおられますか」
 と懐かしい声が玄関先から聞こえてきた。そうとは口にせずとも朝から幸八の到着を待っていた様子の五左衛門は、半刻ほど前にしびれをきらして出かけていた。
「あ、お客さんや」
 たかのが手に持っていたおはじきを放り出して玄関先に駆けて行く。その後をついが追い、ひと月ほど前にようやく歩き始めたみどりまでもが、おぼつかない足取りでついていこうとする。
「あらあら、こんなほったらかしで……」
 だがむめ自身はあまりに緊張してしまい、すぐに声のほうへ向かうことができず、土の上に色とりどりに散らばったおはじきを牛乳瓶の中に拾い集める。
「おかっちゃん、お客さんがお土産持っきてくれたんや」
 最後のひとつ……空色に青い線の入ったおはじきを瓶の中に落とした時、
「ご無沙汰しています」
 羽織袴に鳥打帽を被った幸八が、ゆったりとした動作で庭を歩いてきた。草履ではなく下駄を履いていたが、初めて会った時のように背に籠を担ぎ、左手には、あれが鞄というものだろうか──栗色の四角い箱を提げている。幸八の後ろに広がる茜色の空に気圧されて、むめはその場に立ち尽くした。
「ご無沙汰しています」
 幸八は繰り返し、むめの顔を正面から見つめてきた。過去の記憶といまのむめを見比べでもしているのか、頭の先から襟元まで丁寧に視線をめぐらせるのでいたたまれなくなり、むめは視線を外した。目を伏せて「お久しいですね」と口にはしたが、一晩かけて考えた挨拶の言葉は忘れてしまった。
 この人はいくつになったのだろう。わたしより五つ年下だから──二十三。頰の肉が削げ落ち顎の骨が目立つようになり、以前よりずっと大人びて見える。
「おんちゃん、お土産は?」
 もじもじと膝を擦り合わせているついの隣で、たかのが甘ったるい声を上げた。小柄で気弱なついに比べて、体格も良く気の強いたかのは人見知りをしない。幸八の手にする鞄に両方の手のひらをぺたりとつけてねだるたかのを、ついが「あかんよ」と𠮟っている。
「この辺りは昔と全然変わりませんね」
 背から籠を下ろし、膝を折って中の品物を取り出しながら幸八が口にする。
「大土呂の駅で汽車を降りて、ここまで一里ほど歩いてきたんです。駅から人力車が出てたからそれに乗ろうと思うたんですが、兄さんに𠮟られそうでやめました」
 縁側に色鮮やかなものが次々と並べられ、娘たちが食い入るように眺めている。
「これはビスケット、こっちがマシマローというお菓子です。この黄色の麺棒みたいな形をしているのは果物で、外来語でばななと呼ばれるもんです。台湾からの輸入物で珍しいのを手に入れたものですから」
 籠の中身はほとんど土産物で埋まっているのか、品物を取り出す幸八の手は止まらない。ついとたかのは幸八が広げた絵双六に手を伸ばし、さっそく遊び始める。
「食べ物ばかりでもないんですよ。これは子供たちの髪飾り。まだ少し先ですが、七五三のお祝いや」
 たかのたちのはしゃぐ声を聞きながら、むめは礼儀を知らない子供のように色鮮やかな品々をぼんやりと眺めていた。
「それから、これはあなたに」
 幸八が藤色の箱を籠の中から取り出し、差し出してくる。「あなた」と呼ばれたことに胸を衝かれ、むめが黙ったまま手を出さずにいると、幸八が箱の蓋を取り外した。
「ガラスの風鈴です。前に欲しがっていたんを思い出して」
 長崎の行商人が大阪に売りにきていたものに、知り合いの絵付師が色をつけてくれたのだ、と幸八が微笑む。
 むめは「風鈴が欲しい」と口にした時のことを思い出していた。
 幸八が増永の家を出て、東京へ行くと聞いた時のことだ。自分が嫁いできた翌年の、正月のことだった。
 風鈴が欲しい──。「次に帰ってくる時、土産はなにがいいか」と訊かれてそう答えた自分の気持ちはきっと、幸八には伝わっていない。自分の中ではまだ、初めて顔を合わせた夏の終わりの一日が過ぎさってはいない──。そんな切ない想いを、その時のむめは知ってほしかった。
「気に入りませんか」
「いえ……」
「いや……ぼくも初めは簪かなんかにしよう思うたんです」
「ええ」
「そうですよね。ガラスの風鈴が欲しいておねえさんが言うてたのはずいぶん前のことやのに、なんで今頃になって土産にしよう思うたんやろ」
 むめの反応が薄いからか、幸八が早口になる。困った時の幸八の癖だった。自分の頭に浮かんだことを早口でひたすら話し続ける、自分のよく知る癖はまだ残っている。
「ありがとうございます。あとふた月もすれば夏がきますから軒下に吊るしておきますね」
 目を凝らすと艶やかなガラスに描かれているのが、アザミの花だということがわかる。
 目の高さまで風鈴を掲げ、風を待ってちりりんと一度鳴らすと、
「それからこれも」
 幸八がまた別の包みを差し出してくる。「これはねっくれすというもので、洋装をした時に襟元を飾るもんです。知り合いに翡翠輝石を分けてもらったもんで」
 翡翠輝石というものを初めて目にした。山の色とも海の色ともいえない、青と黄の中間のような明るい緑色に、むめは見惚れてしまった。翡翠輝石は金色の枠に嵌めこまれ、同じ金色の鎖で首にかけられるようにしてある。
「着けてみますか」
 幸八が金色の鎖に手をかけ、ねっくれすを手に取る。その美しい輝きに吸い寄せられるように足が自然に半歩、前に出た。
「なんですか」
「いえ……。幸八さんは背が伸びましたか」
「自分ではようわからんけど、伸びたかもしれませんね」
 首飾りなど、生まれて初めて身に着けた。高価な簪や帯留めは嫁入りの際に両親が持たせてくれたが、村の女が身を飾る場などそうそうありはしない。
「幸八さんは都会に出て、すっかり西洋にかぶれたんやね。こんな、ねっくれすやなんて」
「かぶれてなんていませんよ。都会の女の人はねっくれすくらいはみんな持っていますよ」
「そんなこと、わたしは田舎から一歩も出ない人間やでわからんわ」
 自分のために風鈴や首飾りを選んでくれた幸八の気遣いがただ素直に嬉しくて、口が滑らかになってくる。母以外の誰かに贈り物をされることなんて、これまで一度もなかった。
「ああ、できたな。なかなかええな」
 一歩後ずさるようにして体を離すと、幸八が顎に手をやりながら満足気に頷く。幸八のそんな表情にむめも心浮き立ち、
「ちょっと鏡を見てきます」
 草履を脱いで縁側に跳ね上がる。襖を開けた先の四畳間には鏡台があるので、翡翠輝石を身に着けた姿を映してみるつもりだった。大袈裟だけれど結婚してからこれまで、これほど華やいだ気持ちになるのは初めてだ。
 だが襖に手をかけたその時、縁側の先に五左衛門の姿を見た。気難しい顔が、こちらに向かってくる。近づくと夫の視線が自分の襟元に注がれていることに気づき、むめは翡翠輝石を手で隠すようにして下を向いた。
「幸八は着いたんか」
「兄さん、お久しぶりです」
 むめが返事をする代わりに、幸八が応える。
「わしもいま出先から戻ってきたところや。玄関から上がって客間に来いや」
 五左衛門は縁側に並べられたいくつもの土産物を一瞥した後、障子を開けて客間へと入っていった。

 六年ぶりに実家に戻ってきた幸八は、五左衛門の命で客間に通された。帰省を聞きつけた姑が母家から十間ほど向こうの離れからやって来て夕餉の用意を始めていたが、ひとまずふたりきりで話をすると五左衛門が言ったからだ。
 揃って食事をするものとばかり思っていたのでなにを話しているのだろうかと気になり、むめはさっきから用事を見つけては何度も客間に足を運んでいる。茶を出したり、空気を入れ換えるふりをして障子を開けてみたり。だが座卓を挟んで向き合うふたりの会話は重々しく細切れで、肝心なところはすっぽりと抜けてしまう。
 姑に頼まれたのを口実に、幸八の着替えを客間に持って入ろうとした時だった。
「おまえは四年前の大火事の時に、たった数日戻ってきただけで、すぐに大阪へ帰って行ったんやざ。そんな奴の話に耳を貸せる思うんか。どこまで気楽な人間なんや」
 五左衛門の苦々しい声が襖越しに響いてきた。むめは慌てて膝をつき、両手で襖を開けて顔をのぞかせる。
「工場を閉めてからの苦労を知らんおまえが、ようまたそんなことを言えたもんや」
 顔を上気させた五左衛門はその場で立ち上がり、両目で射るようにして幸八を見下ろしている。
「無理な話や。あの一件でわしは経営者としての自分の無能さを思い知ったんやざ。たったの三十六戸しかないこの集落の無力さも、生野を含めた周辺の村の脆弱さもや。これ以上つまらんことを口にするならもう帰ってくれ」
 幸八は無言のまま座卓の一点を見つめていた。
 五左衛門はなにをそんなに怒っているのだろう。頑固ではあるが短気ではない夫がこれほど憤っているのだから、幸八はよほど無粋なことを口にしたのだろうか。むめは自分がなにをしに客間まで足を運んだのかを忘れ、下座に控えたまま動けずにいた。
「兄さん」
「なんや」
「四年前の一件については、時流やったんやとぼくは思うてます」
 たしかに増永の工場は歴史的な大火事の余波で倒産した。あの大火で二千戸におよぶ民家が犠牲になり、いまだに再起できずほったて小屋で暮らす民も大勢いると聞いている。だが火事が起こる前にはもうすでに、うちの羽二重工場の経営は行き詰まっていた。明治三十三年に日本全体を襲った恐慌で、福井の織物業者の多くが傾いたことを憶えているかと幸八は五左衛門を見上げる。
「あの恐慌のせいで、地元福井の士族が出資して営んでいた第九十二銀行が大きな損害を被りました。それが事の発端や」
 銀行が深刻な事態に陥った煽りを受け、織物経営を支えてきた生糸商の資金繰りが危うくなった。そのせいでそれまで成立していたこの土地の商い──機業家に対して生糸売却代金の後払いを認める、といった貸付の方法が成り立たなくなったのだ。恐慌までは品物を売った儲けで原料の生糸代を後払いすることができた。ところが生糸商の体力がなくなったことで支払いを後に待ってもらえなくなり、増永の工場も資金繰りに行き詰まったということだ。もともと潤沢な資金があって始めた工場経営ではなかったのだから、不況の煽りを食うのはもはやしかたがないことだったと幸八は続ける。
「経営者としての能力うんぬんや、村が無力などの話ではなかったんやとぼくは思うてます。もちろん、うちがどれほどの損失を出したかということは想像できますが……」
「想像か。やっぱり気楽やざ、末弟は」
「いえ、家を出た末弟やからといって、ぼくはこの村のことを遠くに考えているわけやありません」
 十六で故郷を出てからは、東京の帽子屋で数年間、住み込みをしてきた。
『半髪頭をたたいて見れば因循姑息の音がする 総髪頭をたたいて見れば王政復古の音がする ジャンギリ頭をたたいて見れば文明開化の音がする』
 明治の四年に散髪脱刀令が出され、六年に天皇その方が髪を短くされてからは男性の短髪が当然となり、そのせいで帽子の需要が著しく伸びてきた。時代の流行に沿うというのがどういうことなのか、自分は帽子屋の丁稚をしながら学んできた。あるいは歯科医院で医師の助手をしたこともある。麻生津村で、医療器具を生産することはできないだろうかと模索してのことだった。羽二重に失敗してからの四年間、自分はあちらこちらで修業して、この村に持ち帰る産業を探していたのだと幸八は切実に訴える。
「その行脚の行き着いた先が、めがねか」
「はい。まだ途上の産業なので、参入する価値はある思います。もちろんもうすでにめがねを作っている工場はいくつもあります。十年ほど前から一山式いうて、金属で作った二つの丸にレンズを嵌めこんだめがねが、市場には出回ってます。でもそれは日本人の顔の形には合わんらしく、掛けてるとずり落ちてきたり頭が痛うなったりするんやそうです。ほやで七年くらい前からめがねの輸入が始まって、鼻頭をばねでつまむみたいにして掛ける舶来品の人気が出てきたいう話や。つまり、どこよりも先に舶来品のええところを真似て作ったら、売れるいうことやないでしょうか」
「そんな甘いもんやないやろ。どこよりも先に言うても、大阪や東京ではもうすでに舶来品に近いもんを作ってるんやろう」
「いや、そうでもありませんよ。ちょうど一年前に大阪で『内国勧業博覧会』があったんです。ぼくはその博覧会に参加して、その時に出展されていためがねをこの目で見てきました。あぁ、この博覧会いうんは政府が主催して明治十年に東京で始まったもんですが、ぼくが出向いた第五回は、アメリカやイギリス、ドイツ、フランス、ロシアといった外国の製品と日本全国から集められたいろいろな製品が陳列されてました」
 大阪の天王寺今宮に設営された会場には農業や工業といった産業別に、製品が展示されていた。夜間も入場できるようにと電灯が灯され、噴水といって水を扇状に噴き出させる装置なども置いてあり、電力を使ったさまざまな娯楽施設が参加者の度肝を抜いたのだ。
 自分は十数日間に分けてこの博覧会をくまなく見て回り、そして工業館に陳列されていためがねの前で足を止めた。製品が素晴らしかったからではない。むしろその逆で技術的にまだまだ改良の余地があると思ったからだ。
「全国有数の二十二のめがね会社からの出展がありましたが、舶来品にはまったく及ばずという感じでした。後から耳にした国産めがねに関する政府の評価も散々なものやったんや。ほやからこれやったらまだまだ後追いできるんやないかと確信したんです」
 真剣な面持ちで訴える幸八を、感情のこもらない目で五左衛門が見つめ返す。
 この村でめがねを作る──むめもまた、幸八の話を自分とは遠くかけ離れた世界のことのように聴いていた。
 羽二重産業に踏み出した時には、すでに福井では多くの織物会社が成功を収めていたためにそれをなぞる形でよかった。だがめがねを作っている工場など聞いたこともない。それよりもめがねを掛けている人が、この周辺にどれだけいるというのか。対座する夫と幸八の顔を、むめは交互に見つめていた。怒鳴り合いよりもむしろ息が詰まり、どちらが口を開いても、そこから相手を傷つける言葉が漏れ出してしまいそうだった。
「もうええ」
 五左衛門のほうが先にしびれをきらし、乱暴な手つきで襖を開け放ち部屋を出ていく。
「怒らしたざ……」
 幸八が苦笑いを浮かべて急須に手を伸ばすのを、むめはそっと制し、空になった湯吞に緑茶を注いでやる。幸八は湯吞を口元にもっていき、ふうふうと息を吹きかけながらそろりと下唇をつける。
「ああなったら兄さんは、これ以上の話は聞いてくれんのや」
 首をぐるりとめぐらし、小枝が折れるような軽やかな音をさせて幸八が言った。
「旦那さまは頑固やから」
「さあこの難関をどう突破すればええもんか。絶体絶命ってやつや」
 言葉ほどの深刻さもなく、幸八が脚絆を外した。そういえば姑から着替えの着物を渡すよう言われていたのだ。ふたりのやりとりを眺めているうちにすっかり忘れて傍らに置いていた紺色の絣を、むめは幸八に差し出す。
「羽二重工場があのまま順調に伸びていけば、村も安泰やったんや。他の村のようにそれで生き残れたはずやったんやが」
 生野でも羽二重の生産を始めてみてはどうかと五左衛門に持ちかけたのも、もとはといえば幸八で、明治三十一年のことだった。羽二重を織る最新の織機、バッタン機の扱いを京都で学んだ職人が福井市にいるらしい。その技術が広まれば、これからは福井で羽二重が盛んになるで。吉田郡、今立郡なんかの新興産地では、十人から二十人ほどの職工を抱える手織工場が十年も前からあちらこちらに出始め、百人近い従業員を雇う大規模な工場も現れたと聞いた。いまや急成長の産業の筆頭となった羽二重生産の技術を学んで、うちの村も時流に乗ってみてはどうだろうか──。まだ十七歳だった幸八が修業先の東京からいったん故郷へ戻り、五左衛門に話を切り出した。畑仕事のできない冬季にできる仕事を探していた五左衛門は、幸八の助言を受け入れ資産を投じて工場を起こしたのだ。
「羽二重のことで、おねえさんもぼくを恨んでいますか」
 いつも大胆に構えている幸八の中にある弱気が、小さなため息となってふと現れる。むめはしばらく考えた後で、
「いいえ」
 と返した。「うちの工場が動いていた二年間、機の音が響いていたこの村は活気に溢れてましたわ。幸八さんが言うたようにあのまま恐慌さえなければきっと、村を支える産業になったとわたしも思うてます」
 ──羽二重工場を建てようと思うんやが、おまえはどう思う。
 いつもなら妻に意見を求めることなどしない五左衛門が、工場を建設する前にそう訊ねてきた。羽二重とは生糸を二本糊付けして一本の経糸とし、これを筬おさの細かい目の中に通すことで織りなす平織りの生地のことだと丁寧な説明もしてくれた。筬は経糸の位置を整え緯糸を打ち込むのに用いる織機の付属具だが、五左衛門はその筬を手にしながら、機織りの動作を目の前でやってみせた。福井の市街地では十年ほど前から外貨を獲得できる商品として取り扱われている、おまえはこの村でできると思うか──。
「あの時旦那さまから訊ねられて、わたしは『やってみたらどうですか』と応えました。織物やったらわたしも習えばできるかもしれんって。なあ幸八さん。うちの工場で作ってた羽二重は、着物の裏地に使われるものやったんよ。一時はほんまにたくさんの注文があって……」
 羽二重は生糸を緻密に織り込んでいくので、光沢のある肌触りのよい布地だった。きっと上等の着物の裏地にされるのだろう。生野で作った織物をどんな人たちが着ているのかと想像してみると、自分の心もどこかよそへ飛んでいけるような気持ちになった。だから恨んでなどいない。
「話がすんだんやったらみんなで夕餉をとりましょう。お義母さんが朝から待ちくたびれてますわ。早う着替えてね」
 むめは畳に置かれていた新しい着物を幸八の膝の上に移してから、盆の上に空いた湯吞を載せた。
「今夜は鶏を一羽つぶしたから、すき焼きやわ。都会みたいに美味しくはできませんけど」
 鞠を投げるようにむめが言葉を放てば、
「やった。そら早う行かんと」
 目尻を下げ口端を持ち上げる、幸八らしい笑みが返ってくる。自分のよく知るその笑顔がいまも在ることが嬉しくて、着替えをする幸八を残し早足で客間を出た。弾む心を誰にも気づかれないように、部屋を出てからはわざと強張った顔を作ってみるがどうにも緩んできて、頰の肉を内側から強く嚙んだ。


   *

続きは発売中の『おしょりん』で、ぜひお楽しみください。

■著者プロフィール
藤岡陽子(ふじおか・ようこ)
1971年京都府生まれ。同志社大学文学部卒業。
報知新聞社を経て、タンザニア・ダルエスサラーム大学留学。慈恵看護専門学校卒業。
2006年「結い言」が、宮本輝氏選考の北日本文学賞の選奨を受ける。09年『いつまでも白い羽根』でデビュー。著書に『てのひらの音符』『トライアウト』『晴れたらいいね』『満天のゴール』『跳べ、暁!』『きのうのオレンジ』『金の角持つ子どもたち』『空にピース』などがある。

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す