第一章 同室の変人
1
深い呼吸がなによりも大事だ。手も、足も、指先までしっかりと意識を集中させる。全身で呼吸をする。目の前の相手を見据える。
普段は生意気な瞬も、組手のときはいつだって真剣だ。猫を思わせる目は、睨むような鋭さでオレの顔を映している。
「はじめ!」という有岡さんの合図で、瞬が素早く右足を踏みこんできた。受け側のオレは一歩下がる。細身の身体に似合わないパワフルな突きが飛んできた。オレは左手で受けてから、すかさず反撃に移る。
攻撃側が繰り出す技に対して受け側が反撃する、基本一本組手だ。敵と闘う、という感覚ではない。むしろ相手と呼吸が重なるのを感じる。攻撃、防御、反撃というルーティンを繰り返していく。しかし惰性にならないように。
空手はやはりいい。今、この瞬間だけに集中できる。
「そこまで! 挨拶して集合!」
有岡さんのかけ声が道場に響いた。オレたちは「ありがとうございました」を交換する。瞬の瞳には、悪戯っぽい光が戻っていた。
部員たちが集合すると、有岡さんは全員を見回しながら告げる。
「いったん昼休憩にする。また四十分後に集合だ!」
空手部員一同は「押忍!」と声を張り上げて、三々五々散っていった。顔を洗おうと廊下に出たとき、オレは後ろから肩を叩かれた。
「雛太、お疲れ」
有岡さんだった。オレは背筋を伸ばして、ふたたび「押忍!」と叫ぶ。
「ははっ、おまえ相変わらず声でかいな。いいことだけどよ」
彼は苦笑しながら、タオルで汗を拭う。はだけた道着から見えている身体は、今日もほれぼれするほど逞しい。
「顔洗いに行くんだろ? 俺も行くわ」
尊敬すべき我らが大将から声をかけられるとは。嬉しくなってしまった。
道場のそばにある扉から外に出ると、風が強く吹きつけてきた。ざざっと音を立てて、桜の花びらが散る。四月になってすでに六日が経つ。枝に残っている桜はわずかだ。
「どうしたよ、雛太。今日はずいぶんとご機嫌じゃねえか」
顔を洗い終えた有岡さんが、こちらを覗きこみながら言った。オレは照れて頰を搔く。
「そんなに顔に出てましたか?」
「おまえはすぐ顔に出る。まあ、それもいいことだと思うがな」
我らが大将はなんでも褒めてくれる。この人のこういうところが好きだ。
「昨日、有岡さんが言ってたじゃないですか。うちの寮に新しいメンバーが加わるって」
「ああ。新入生と、二年の転入生がひとりずつな。昨日も言ったとおり、二年生のほうはおまえと同室だ。……それで機嫌がよかったのか?」
「だって、楽しみじゃないですか!」
こんなに浮かれるのは子供っぽいだろうか。しかし、楽しみなものは楽しみなのだ。
埼玉県北部の霧森町に建つこの私立霧森学院は、中高一貫の男子校でしかも全寮制。さらに、学院の周囲は森ばかりだ。それなりに楽しい日々だが、恐ろしいほどに変化のない生活である。転入生とルームメイトになるというのは、ちょっと胸躍る話ではないか。
「そうやって雛太が歓迎モードなのは、向こうにとってもありがたいことだろうよ。さてと、そろそろ戻るか」
オレたちは桜吹雪に押されるようにして、体育棟の中に入った。
「しかし早いもんだなあ。中等部から一緒の雛太も、もう明日から高校二年生とはな」
明日は始業式だ。長いようで短かった春休みも、今日で終わりとなる。
「俺も三年だから、いよいよこの学院での生活もラスト一年か。本当にあっというまだ。……っていうのはいいとして、雛太。一緒に昼飯食おうぜ」
大喜びで「押忍!」と答えたとき、誰かが後ろからオレの背中をぽんと叩いた。
「ふたりだけでずるいですよ。おれも交ぜてください」
馴れ馴れしく触れてきたのは、瞬のやつだった。
「おい、瞬。なんだよ急に。オレは有岡さんとだな」
「いいでしょ、ヒナ先輩。おれも『あすなろ組』になったんすから」
「そうだな。いいじゃねえか、雛太。瞬も一緒に食おうぜ」
オレたちは体育棟のロビーに座って、道着のまま昼食を食べた。他の空手部連中や、同じく昼休憩をしているバレー部の部員たちもそこここで輪を作っている。
「にしても『あすなろ組』だなんて、よく平然と言えるよな」
オレは、サンドイッチを食べている瞬に話しかける。
「言っとくけど、旧館に住んでるってだけで色眼鏡で見てくるやつはいるからな」
全寮制であるうちの学院において、生徒の大半は校舎の隣にある寮新館に住んでいる。オレや有岡さんが住んでいる旧館──「あすなろ館」は敷地の北のはずれに建っていて、十人に満たない生徒が暮らしている。
聞くところによると、あすなろ館は霧森学院内では最古の建物らしい。かつては同じ造りの寮が他にふたつあったが、中等部が別の敷地に移るのと同時に取り壊され、新館が建てられたのだとか。
あすなろ館が残されている理由は単純だ。経済的な事情から新館の居住費を払うのが難しい家庭への、救済措置である。ほとんどタダ同然で住めるのだ。オレも強豪の空手部に憧れて霧森学院中等部を受験したものの、親に経済的な負担を強いていることは承知していた。だから、高等部に上がるときには自分から「あすなろ入り」を志願した。
家賃が安いとなれば入寮希望者が殺到しそうなものだが、実態はその逆だ。あすなろ館はひどく人気がない。パンフレットを見ただけでわかる建物のボロさに恐れをなすためか、はたまた裕福な家庭が多いうちの学校のことだから、親が見栄を張るのか。おまけに、去年起きたあの事件のせいで、もともと少なかった生徒の多くが新館に移ってしまったし──。
という事情を知っているはずなのに、瞬のやつは平然と言う。
「ご忠告ありがとうございます。でも、おれは全然気にならないな」
こいつは、高等部に上がるに際して先週あすなろ館に越してきた。中等部からの持ち上がり組は、瞬以外の全員が新館に入居したという。ちなみに中等部の校舎と寮は、高地にあるこの高等部から町のほうへ五百メートルほど下ったところにある。
「なんでまたおまえは、わざわざウチに来たわけ?」
「そりゃあ、可愛いヒナ先輩と同じ屋根の下で暮らしたかったからっすよー」
「可愛いって……言うな!」
焼きそばパンを持つ反対の手で突きを繰り出したが、瞬は愉快そうにかわしやがった。
「わー、いきなり攻撃しないでくださいよ。こわいなー」
本当にこいつは、中学のときからオレを舐めくさっている。
幼く見える容姿は、オレも嫌というほど自覚している。昔からそうだ。よく目がでかいと言われるし、クラスの中でも常にいちばん背が低かった。幼稚園のころなんて、初対面では女の子だと思われることのほうが多かった。そんな自分を変えるために七歳のときから空手の稽古に打ちこんできたが、十六歳の今でも遺憾ながら「可愛い」と言われてしまうことが多い。兎川雛太という名前の字面のせいか、それとも百五十八センチしかない身長のせいか。この男子校においてはなにかにつけてオレを「姫」扱いしようとするやつもいるので、そのたびに空中に突きや蹴りを繰り出して黙らせることになる。
だが瞬は腕が立つだけに厄介だ。一学年下のくせに、オレと互角に渡り合える。中等部から上がってくる空手部員はこの春休みの稽古に参加させているが、中でも瞬は目に見えて力をつけていて、じつに気に食わない。
「おら、瞬。かわすな。先輩の突きをありがたく受けろ」
「嫌ですよー。パワハラ反対」
瞬に突きを繰り出し続けていると、有岡さんが肩を摑んでオレを制した。
「雛太、そのへんにしとけや。空手道二十訓にあるように『空手に先手なし』だ。そして瞬も先輩をからかうな。武道をやる者なら、目上の人間への敬意を忘れないように」
「『可愛い』は褒め言葉なんすけどね」
涼しい顔で道着の襟えりを直しながら、瞬は屁理屈を言った。
まったく、しようのない後輩だ。オレはため息をついて立ち上がる。
「ちょっとスポドリ買ってきます」
自販機がある本校舎へ向かう前に、更衣室でジャージに着替えた。制服か体操着以外で校舎を歩いてはいけない、という校則はわずらわしい。面倒くさいので靴下は履かずに上履きをつっかけて、体育棟を出た。
桜の木を眺めつつ、渡り廊下を通る。本校舎に入ると、陽が射しこむ廊下には人気がなかった。いつもこの時間は学食へ駆けこむ生徒たちで賑わうが、今は食堂も休業中だ。
オレは、その学食へと通じる渡り廊下のほうへ向かう。学院にはいくつか自販機があるが、オレの好きなスポーツドリンクはそこで売っているのだ。アセロラ味の赤いやつ。
売り切れてねえといいけど、と思いつつ廊下を曲がったとき、思わず足を止めた。
自販機の前に、ひとりの生徒が立っていた。
初めて見る生徒だ。前に会っていたらわかる。それくらい印象的な男だった。
身長に敏感なオレは、まず背の高さを見てとった。百八十センチは超えている。脚がすらりと長く、モデルみたいな体形だ。全学年共通の白い上履きは、やけにぴかぴかしている。新一年生なのだろう。
じつに目を引く顔立ちだった。すっと通った鼻筋や形のいい唇も目立つが、なにより瞳に存在感があった。長い睫毛に縁どられた切れ長の目は、すべてを見透かすような鋭い光を宿していた。ただ自販機を見ているだけなのに、えもいわれぬ迫力がある。
その目が不意に、こちらに向けられた。
「……なにか」
「あっ、いや、べつに。……あれっ?」
こちらを振り向いた彼を見て、オレは首をかしげた。皺ひとつないズボンも、校章のワッペンがついたブレザーも、ワイシャツもきちんと着こなしているのに──。
「あのさ、ネクタイは?」
問いかけると、相手はわずかに眉をひそめた。
「ネクタイしてないじゃんか。ブレザー着るときはしなきゃダメだろ。校則で決まってる」
彼は無言のままオレの顔を見つめてから、つっと自販機に向き直りボタンを押した。缶コーヒーを取り出してこちらに背を向けてから、やっと言葉を発する。
「……大きなお世話」
それだけ言い残すと、長い脚でさっさと廊下の向こうへ消えた。
「は……はああああ!?」
あんまりすぎる態度に呆あ つ気け に取られて、叫び声が出たのはしばらく経ってからだった。
2
「すみません、ヒナ先輩。そんなに怒んないでくださいよ」
「ああ? なんの話だよ、瞬」
午後の稽古が始まり、オレはふたたび瞬と手合わせしていた。急に謝られたが、なにに対する謝罪かわからなかった。
「蹴り技の殺意高すぎっす。もう可愛いとか言わないから許してほしいなー」
「あー……悪かったよ。おまえにキレてたわけじゃねえから」
オレが腹を立てていたのは、さっき廊下で会ったノーネクタイ野郎のことだ。まったく、ちょっと背が高いからって態度までデカくしていいという法はない。
「雛太、集中! 雑念が入ってるぞ」
背後から有岡さんに𠮟られた。「押忍!」と答えて、深呼吸する。集中、集中。
空手は精神を落ち着けてくれる。稽古が終わる夕方には、ノーネクタイ野郎に対する怒りなど自然と収まっていた。
六時を回ったとき、有岡さんが「そこまで!」と声を張り上げた。
部活終了時刻が近づき、いつもどおり部員一同は道場をモップがけする。それが済んでから、全員が有岡さんの前に整列した。彼はオレたちを見回しながら話す。
「明日は、新入生も見学に来る。遅刻は厳禁だ。霧森学院空手部として恥ずかしくない態度で新入りを迎えるためにも、今日は全員、早く休むように。──解散!」
押忍! とひときわ大きな声で、全員が唱えた。
それからオレたちは、更衣室で雑談しながら着替える。オレの横では瞬が着替えていた。憎たらしいことに、道着を脱いだ瞬の身体にはよく筋肉がついていて、空手家としての実力を示していた。とくに上腕二頭筋がいい。オレは筋肉がつきにくい自分の体質を呪う。
着替えを終えると、オレたち空手部員は道場を後にした。
体育棟から本校舎に渡ってからは、自然と寮の新館組と「あすなろ組」に分かれる。オレは、瞬と有岡さんとともに他のメンバーに別れを告げた。廊下をまっすぐ進み、校舎のはずれの裏口から外に出る。この裏口は、ほとんどあすなろ館に住む者しか使わない。ここを出るとすぐ、あすなろ館に通じる一本道になるのだ。ただし、そのすぐ手前に喫煙所があるから、ときどき裏口から出て煙草を吸いにくる教師もいる。
もう夕闇が迫っていて、遊歩道は薄暗かった。道の左右は林になっていて、木漏れ日だけが唯一の光だ。もうすぐ真っ暗になるだろう。
オレは前を歩く瞬の後頭部を見つめる。歩くたびに、束ねた髪がぴょこぴょこと揺れていた。校則が厳しめの霧森学院だが、なぜか頭髪に関する規定は緩い。オレも地毛の茶髪に文句をつけられたことはない。
「で? 昼は聞きそびれたけど、おまえがあすなろ館に来た本当の理由はなに?」
尋ねると、瞬は首をかしげるようにして振り向いた。
「んー、マジな話、普通に居住費が安いからっすよ。親孝行ってやつ。……まあ、ヒナ先輩がいるからっていうのもわりとマジですけど」
「ああ、そう」
話していると、東屋のところまで来ていた。この東屋が、本校舎とあすなろ館のちょうど真ん中にあたる。我らが旧館は、なんと校舎から四百メートルほども離れているのだ。
そこからさらに二百メートルほど歩いて、あすなろ館に辿り着く。夕陽の中で、くすんだ茶色の建物はシルエットになっている。
玄関に入ると、食堂のほうからいい匂いが漂ってきた。ビーフシチューだろうか。夕飯が待ち遠しくなる。有岡さんは「後でな」と言って、一階の自室に引っこんだ。オレと瞬は二階に上がって、それぞれの部屋に向かう。
早く夕飯食いてえな、と思いながら、いつもどおり自室の扉を開けた。すると──。
夕陽に染まった部屋の中に、ひとりの少年が立っていた。
窓辺に佇んで、外を見ている。例の転入生だ、と遅れて気づいた。
「あっ、わり。ノックもしない……で!?」
こちらを振り向いた彼の顔を見て、凍りついた。思わず、その顔に指を突きつけていた。
「転入生って、おまえかよ!」
昼間会ったノーネクタイ男だった。今もブレザーを着ているのに、やはりネクタイをしていない。彼は無感動な瞳をこちらに向けて「ああ」と呟いた。
「さっきはどうも」
「どうもって、おまえな……」
文句を言いかけたが、どうにか吞みこんだ。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。今日から一緒に寝起きするルームメイトなのだ。最初に衝突するのは避けたい。深呼吸をして、スポーツバッグを床に置いた。
「ま、まあいいや。転入生だよな? 今日からよろしく。オレは新二年の兎川雛太」
自制心を働かせて、手を差し出した。相手は、オレの掌をちらりと見下ろす。
「……おれは、タカミヤ。同学年だ。よろしく」
ぶっきらぼうな言葉が返ってきた。握手してこないので、無理やり手を握ってやる。その掌は大きくて骨ばっていて、ひんやりと冷たかった。
「たかみや、なに?」
「なに、とは」
「下の名前」
タカミヤは迷惑そうに眉をひそめた。答える義務はない、とでも言いたげだ。かちんときたが、オレが口を開く前に彼は「エチカ」と答えた。
「えちか? どんな字書くんだ」
尋ねると、彼はオレの手を離して、胸ポケットから生徒手帳を抜いた。学生証になっている裏表紙には、「鷹宮絵愛」と記されていた。
「へえ、これでエチカって読むんだな。ちなみにオレの名前はウサギに川で兎川。雛太のヒナは鳥の雛な」
無言。鷹宮は、無表情でオレを見下ろしている。
「な、なんだよ。可愛い名前だとでも言いてえのかよ」
「いや。なんとも思っていない」
なんなんだ、こいつの態度は。だが、ここは大人の対応をせねば。
「えーと、鷹宮。寮の中、よければひととおり案内するけど?」
「それには及ばない。管理人から案内は受けた」
「……あっそ。ならいいけどさ。学院のこととか、なんか知りたいことあるか?」
「とくにない」
会話を続ける気がなさそうだ。オレはため息をついて、勉強机の前の椅子に座る。つっ立っていた鷹宮も、隣の机の前に座った。そのとき、オレは適切な話題を思いついた。
「……そうだ、部活! おまえ、前の高校ではなんか武道かスポーツやってた?」
「とくには」
「あ、そう。でもおまえタッパあるし、なんかやってみてもいいんじゃねーの? なんだったらウチに来るか? ちなみにオレは七歳のときから……」
「空手には興味がない」
「は!? てめえ、人がやってる部活を……」
言いかけて、ぴたりと言葉を止めた。
なんでこいつは、オレが空手部だと知っているのだ?
思わず、床に置いたスポーツバッグに目をやる。ぱんぱんに膨らんでいるが、中に入れた道着は見えていない。昼に会ったときも今も、着ているのは学校指定のジャージだ。
「どうして、オレが空手部だって」
「見ればわかる」
「おっ、そうか? へへへ……、オレも風格出てきちゃったかな」
「いや、べつに風格はない」
と言って、鷹宮はオレの足もとを指さした。思わず、自分の爪先を見つめる。
「昼に会ったとき、おまえは裸足だった。体育棟の方向から来たから、部活の休憩中に飲み物を買いに来たことは察しがついた。体育棟で裸足でやる部活なら武道だろ」
そういえばあのときは無精して、靴下を履かずに上履きをつっかけていた。
「さらに、さっきおれに『武道かスポーツ』をやっていたかと訊いた。ほとんどの高校生は『スポーツ』を先に言うか、それだけ言うかだろう。武道をやっている人間以外は」
「で、でも、なんで空手だと思ったんだよ。柔道か剣道かもしれないだろ」
「おまえは『七歳のときから』と言いかけた。そんなに長く柔道をやっていたら、程度の差こそあれ耳が特徴的な形になるはずだ。おまえの耳は綺麗な形をしている」
唐突に褒められて、オレはなんとなく自分の両耳に触れた。
「そのバッグを見れば、剣道でないこともわかる。防具一式を持ち運ぶには小さすぎる。逆に防具を入れていないなら、春休み中の練習でそんな大荷物にはならない」
だから空手の道着が入っていることがわかった、ということか──。
「す、すげーな……。なんかドラマの探偵みてえ」
「ちょっと観察すればわかる」
鷹宮は無愛想に視線を逸らした。
「で、えーと、なんの話だっけか。なんでもいいから、もうちょっと話そうぜ。同じ部屋に住むんだから、いろいろルールとか決めねえと」
「ルールなら、管理人から聞いた。夕食は七時集合。入浴時間は学年ごとに違って、おれたち二年生は八時半から九時半。消灯は十一時。起床は六時で、朝食は六時半」
「記憶力もすげえな……。いや、それはそれとして。オレたちの部屋でのルールだよ。あっ、そうだベッド。オレいま上のベッド使ってるんだけど、おまえ下でいい?」
「ああ。背が高いと天井にぶつかるから、おまえが上の段になるのが妥当だろう」
無表情のまま、さらりと言ってのけやがった。オレはさすがにぷつんと切れた。
「て、てんめえ! なんなんだよさっきから!」
椅子を蹴って立ち上がると、彼はうっとうしそうにこちらを見上げた。
「事実を言っただけだろ」
拳を震わせて睨みつけることしかできなかった。
同学年の生徒と同室になると聞いて、気の合う友達ができるかもしれないと期待してたのに。
逆立ちしてもこんなやつ、好きになれる気がしねえ。
3
オレは鷹宮を置き去りにして、先に食堂に向かった。
なんなんだよあいつ、と憤然としながら階段を下りると、ちょうど自室から有岡さんが出てきたところだった。
「おう、雛太。ルームメイトとはもう会ったのか」
「……押忍。いちおう」
「なんだなんだ、顔が暗いな。昼までの歓迎モードはどうしたよ。もしかして、新入りは問題のあるやつだったのか?」
問題だらけのやつだが、オレはとっさにかぶりを振っていた。有岡さんは気づかわしげに眉をひそめている。無用の心配をさせたくない。
「新入りなら、べつにたいしたことないです! ちょっと変なやつではありますけど!」
オレが声を張り上げて強弁していると、有岡さんの隣の部屋の扉が開いた。
「なんや兎川、えらい騒がしいなあ」
志儀先輩が欠伸まじりに言った。眼鏡を持ち上げて目もとをこすっているところを見ると、寝起きなのだろう。ジャージの着こなしもだらしない。
「ほんまに声でかいな。新入りがどうとか言うてたけど、やらしいことでもされたんか」
「なに言ってんですか。怒りますよ。違いますから」
「ま、顔の可愛さにつられておまえに惚れても、本性を知ったら退散するやろ」
志儀先輩は笑いながら食堂に向かった。「可愛いって言わないでください」と念を押しつつ、オレは後を追う。
食堂にはまだ誰もいなかった。奥の厨房からは、鍋とお玉がぶつかる音がしている。
「平木さん、なにかやることありますか?」
有岡さんが厨房の暖簾を上げて呼びかけた。オレも中を覗いてみる。
大鍋のビーフシチューを混ぜていた管理人は、のっそりとこちらを振り返った。
「あー……、んじゃあ、食器並べておいて。あと、来てない連中も呼んできて」
平木さんは今日も無精髭が目立った。そのだるそうな顔を見ていると、あらためて不思議な人だ、と思う。いつもこの調子なのに、管理人としての仕事はきっちりとこなしている。とくに、朝夕作ってくれる料理は絶品だ。三十代にも四十代にも見える年齢不詳の顔だけれど、なかなかの美形だとも思う。康臣というファーストネームも、戦国武将っぽくてかっこいいし。しかし、全体的にはまだ謎の多い人だ。あの事件のせいで辞めた管理人の代わりに、今年の一月にやってきたばかりなのだから。
「じゃあ、俺は上のみんなを呼んでくるわ。食器頼むぞ、雛太」
有岡さんに仕事を振られたオレは「押忍」と返事をして、さっそく取りかかった。その間、志儀先輩は席に座ってくつろぎながら話しかけてきた。
「それにしても、新しい連中が入ってくるとなると、また顔を憶えなあかんな。記憶力には自信がないから、粗相をしてしまう気がするわ」
「妙なこと言いますね。志儀先輩、演劇部部長でしょ。劇の台詞憶えられるんだから記憶力すげーんじゃないですか」
「固有名詞になるとあかん。人の名前はよう憶えん。えーと、いま寮にいるメンバーをおさらいしてみようか」
彼は遠い目になって、指を折り始める。
「だいぶ人が出ていってもうたからな。三年はもう、俺と有岡だけか。寂しいこっちゃ」
「新一年もふたりだけですね。瞬と、今日新しく入ってきたってやつと」
「となると、いちばん層が厚いのは二年生やな。って言うても三人か? おまえと棗と、今日入ってきた新入りと」
「四人でしょう」オレは呆れて指摘した。「園部のこと忘れてます」
かわいそうな園部。まあ、どことなく影の薄いやつだから、忘れてしまう気持ちもわからなくはないが。
「せやったな。となると……一年がふたり、二年が四人、三年がふたり。寮生は全部で八人か。プラス、管理人の平木さん。たった九人の慎つつましやかな生活ね。そういう長閑さ、俺は好きやけど……潰されたりせんやろうな、このあすなろ館」
なきにしもあらずだ。オレは思わずうつむく。
「仕方ないでしょ、人が減っちまうのは……。あんなことが、あったんですから」
去年の秋に起きた、あの事件。
あれがきっかけで、生徒の半分ほどが新館に移ってしまった。事件は全国的に報道されたから、新入生も当然いわくつきの旧館は避けた。瞬のような変わり者は、例外中の例外だ。まだ見ぬ新一年生は、経済的な理由でやむなくあすなろ館を選んだのだろう。
「しかし、せっかく空き部屋が増えたんやから、どうせなら活用したらええのにな。二年と一年はいまだに相部屋やろ?」
不穏な話題を避けるように、志儀先輩が明るい声で言った。
「そうですね。いま空き部屋が五つありますから、ひとりひと部屋使えるんですけど」
この学院では、一、二年生は全員がふたり部屋だ。三年生は勉強に集中できるようひとり部屋。相部屋が強制されているのは「共同生活において助け合いの精神を学ぶため」とされている。だが、このあすなろ館で空き部屋を無駄にしてまでそのルールを貫いているのは、新館の生徒に不平等感を抱かせないためでしかない。学院内の孤島みたいな場所だから、ひとりひと部屋使っても外にバレはしないだろうが──有岡さんは、そういうズルが許せない人なのだ。
食器を並べ終えたとき、鷹宮が食堂に入ってきた。
「おう、おまえが新入りか。よろしゅうな」
気さくに声をかけた志儀先輩に頭を下げて、鷹宮は隅の席に腰を下ろした。
「あ! そこオレの席っ」
思わず叫ぶと、彼はうるさそうにこちらを見上げた。
「席が決まっているのか?」
「そういうわけじゃねーけど、なんとなく『いつもの席』ってのがあんだよ」
「『なんとなく』ならどこでもいいだろ」
鷹宮は目を閉じた。オレがぐぬぬと歯を食いしばるのを、志儀先輩は面白そうに眺めている。
勝手な転入生になんと言ってやろうか考えていたとき、有岡さんが戻ってきた。後ろには瞬と、知らない生徒がいる。彼が新一年生だろう。
「ん? 有岡、二年のふたりは来ぇへんのか。棗と園部」
「棗は、購買のパン食ったから夕食はいらないとさ。園部のやつは、さっきスマホを見たら『遅れて戻ります』って連絡が来てた。部活が忙しいようだ」
「ふうん。演劇部の俺が言うのもアレやけど、文化部でそんなに忙しいもんかね。生物部ってなにするんや? 怪しげな解剖実験でもしてるんやないやろな」
オレの隣の席で、鷹宮が「生物部」と小さく呟いた。気味の悪いやつだ。
「まあ、真面目な園部はともかく、棗のやつは絶対女子と電話でもしてるんやろ。ほんまにチャラついた男やわ」
志儀先輩の想像は当たっているだろう。棗は、一年のときから他校の女子と付き合っている。と言っても、相手は何度か替わっているようだが。男子校生としては羨うらやましい限りだが、棗の魅力の賜物だから仕方ない。オレも女子なら恋人に立候補したくなる格好良さなのだ。
「仕方ねえから六人で夕食にしよう。さ、サオトメも座りな」
有岡さんが、新入生の肩を軽く叩いた。華奢な男子、という第一印象だった。色白で小柄な子だ。どちらかと言えば垂れ目で、瞳は大きい。ワイシャツから覗く手首はとても細かった。
オレは思わず立ち上がって、彼に歩み寄る。
「おまえ、身長いくつだ?」
尋ねると、新入生は狐につままれたような顔で「百六十です」と答えた。オレはがっくりと肩を落とす。こちらよりもわずかに背が高い。
敗北にうなだれるオレを、有岡さんが小突く。
「こら、雛太。新入生を困らせるなよ。……さあ、みんな。ご飯をもらおう」
平木さんが厨房からワゴンを運んできた。各自、炊飯器からご飯を盛り付けて、平木さんにビーフシチューをよそってもらった。配膳を終えると、平木さんは厨房へと引っこむ。あの人は、オレたちと一緒には食事を摂らない。
皆が席につくと、有岡さんが口を開いた。
「残念ながら二年生がふたりいねえが、新しい入寮者には自己紹介をしてもらおうか。まずは、サオトメからな」
華奢な少年は「はいっ」と口を開く。
「今日からこの寮で生活させていただく、一年のサオトメです。五月の女、って書くほうの『五月女』です」
「名は体を表すとはこのことやな。見た目を裏切らない、可愛らしい名前やないの。なあ、ウサギの兎川?」
志儀先輩がからかってきた。オレが反論する前に、瞬がテーブル越しに身を乗り出してくる。
「ヒナ先輩、やばいっすね。小動物枠をユイに取られちゃいますよ」
「そんな枠狙ってねえよ。てか、ユイって?」
疑問を呈すと、五月女の下の名前は「唯哉」なのだと瞬が答えた。こちらも、なんとなく響きが可愛らしい。
「おまえ、もう渾名つけたのかよ」
「そりゃ、同室なわけですし。まあ、ユイは性格も穏やかで礼儀正しいので、ヒナ先輩とはキャラ被りの心配はないかなー」
「おめーはおそろしく礼儀を欠いてるがな」
身を乗り出している瞬に、デコピンを食らわせてやった。有岡さんはオレたちをじろりと睨んで黙らせてから、司会進行を続ける。
「さ、次は君だ」
有岡さんの視線を受けた鷹宮は、だるそうに顔を上げた。
「二年の鷹宮絵愛。転入生です。よろしくお願いします」
愛想はないが、文句もつけられない平凡な挨拶だ。さっきはもっと無礼だったくせに。
「よし、挨拶も済んだところで食事にしよう。俺たちの自己紹介は、食事をしながら少しずつ。じゃあ──いただきます」
有岡さんに合わせて、いただきますを唱和した。無愛想な鷹宮も、このときばかりはちゃんとしていた。こいつ、猫を被っていやがるな。
食べ始めてからは、有岡さんから順に、鷹宮と五月女に自己紹介をしていった。
「俺は有岡優介。三年で、寮長をやらせてもらっている。空手部の部長だ。空手部には、こっちの雛太と瞬も入っている。一年だけの付き合いになるが、よろしく頼む」
「お次は俺か。志儀稔、副寮長や。ま、書類にだけ書かれる役職やな。ちなみに演劇部の部長ね。新入りのおふたり、興味があったら入部よろしゅうな」
次はオレの番だった。鷹宮にはさっき名乗ったので、五月女に顔を向けて喋る。
「兎川雛太、二年生だ。有岡さんが言ったとおり、部活は空手部。ちなみに五月女は、興味のある部活とかあるか?」
「えっと、中学のときは吹奏楽部だったので、高校でもそうするつもりです」
「吹奏楽! ユイはすげーなあ、楽器できるって憧れる。……あ、おれの自己紹介?」
五月女に話しかけていた瞬は、鷹宮のほうを向いた。
「一年の元村瞬っす。中等部から上がってきたばっかなんで、おれもまだ新入りっすよ。ちなみに鷹宮先輩、なんか渾名で呼んでいいっすか? おれ、仲を深めるためにはまず渾名をつける主義なんで」
「ご随意に」
鷹宮は、他人事のように言って水を飲んだ。志儀先輩が、くくっと喉の奥で笑う。
「元村、おまえ馴れ馴れしいなあ。だいたい、おまえの命名の法則からすると、鷹宮絵愛は『エッチ先輩』になってまうんやないか」
「それでいいですよ」
「ええんかい」
志儀先輩の突っこみが冴え渡ったが、鷹宮のリアクションは薄かった。黙々とビーフシチューを食らい続けている。
ちょっとは他人に興味を持てよな、と呆れながら、オレもスプーンを口に運んだ。
4
夕食が終わって、部屋でしばらく勉強に励んだ。
鷹宮に何度か雑談を振ってみたが、彼は文庫本を読みながら生返事するばかりだった。オレも諦めて、耳にイヤホンを突っこんだ。
時刻が八時半を回ったとき、オレは勉強を中断して机を離れた。
「鷹宮、風呂の時間。行こうぜ」
声をかけると、鷹宮は横目でちらりとこちらを見た。
「おれは後でいい」
「あー、そう。わかったよ。じゃあな」
オレは着替えだけ持って、さっさと部屋を出た。だが、廊下を歩きだしてすぐ忘れ物に気づく。スポーツバッグに入れっぱなしの道着を洗濯しなくては。
慌てて引き返して、扉を開けた。──そのとき。
ベッドのそばに膝をついていた鷹宮が、弾かれたように立ち上がった。
「なんだ」
「わ、忘れ物取りに来たんだけど」
「……そうか」
彼はごまかすようにそっぽを向いて、二の腕をさする。オレが道着を引っ張り出して部屋を出るまで、ずっとそうしていた。変なやつ、と思いつつ部屋を出て階段を下りた。
まずは脱衣所で、今日着たものをすべて洗濯機に突っこむ。スイッチを入れてから、浴室に入った。誰もいない。
身を清めて湯に浸かってしばらくしても、誰も来なかった。二年生はいちばん人数が多いというのに。鷹宮はもちろん、棗も園部も現れない。まあ、入浴時間は一時間あるから、ゆっくりと来るつもりなのだろう。
浴槽は十平米ほどの広さで、シャワーは四つもある。だだっ広く感じるが、このあすなろ館がもっと賑やかだった去年はちょうどよかった気がする。
しばらく待つとはなしに待ってみたが、鷹宮は現れなかった。さすがにのぼせそうになったので風呂を出て、洗濯物を回収する。脱衣所とカーテンで隔てられた乾燥室にそれらを干してから、自室に戻った。今度はノックしてから扉を開ける。
「鷹宮、風呂お先。あと三十分だから急げよ」
本を読んでいた鷹宮は、無言で頷いて椅子から立ち上がった。ベッドに置いてあった着替えを摑んで、さっさと部屋を出ていく。まるでオレを避けているかのようだ。
「ったく、なんだよあいつ」
扉が閉まると、悪態が口をついて出た。なんとも言えず気に食わない。机に向かって勉強を再開したものの、いまいちやる気が出なかった。気分転換したくて部屋を出る。歯を磨くために、洗面所へ向かった。
旧三年生が先月卒業して、本当にあすなろ館は寂しくなった。風呂もトイレも空いていて快適ではあるのだが、それでもこのがらんとした雰囲気は好きになれない。ないものねだりというやつかもしれないが。
歯を磨き終え、部屋に戻る。スマホで時刻を確認すると、九時半になるところだった。鷹宮のやつがちゃんとルールを守れば、まもなく部屋に帰ってくる頃合いだ。
そのとき──ふと、さっき見た鷹宮の様子が脳裏に浮かんだ。
道着を忘れたオレが部屋に戻ったとき、ベッドのそばでなにかこそこそしていたが……。
「はーん」
オレはさっきの鷹宮と同じく、ベッドのそばに膝をついた。あいつはきっとなにか、ベッドの下に隠している。オレは推理を働かせて、ここに隠されているのは十中八九エッチな本だという結論に達した。根拠は場所と、鷹宮も結局は男子高校生だという事実だ。
他人の秘密を暴くのは普段なら気が引けるが、相手はあの鷹宮だ。後から入居しておいて、とんでもない態度を取るあの男だ。ちょっとくらい恥ずかしいところを見てもバチは当たらない。案外、秘密を共有すれば仲良くなれるかもしれないし……。
という理屈を頭の中で並べながら、ベッドのシーツをめくって覗きこんだ。すると。
目が合った。ハリネズミと。
「うわあああっ」
オレが叫んだとき、部屋の扉が開けられた。入ってきた鷹宮はめくられたシーツに気づくと、猛然と駆け寄ってきてオレをベッドから引きはがした。
「ぎゃっ」
「へっくんに触るな!」
きっとオレを睨みつけて、ベッドの下から優しくガラスケースを引っ張り出した。中で丸まっているハリネズミに向かって、打って変わって笑顔で語りかける。
「よしよし、へっくん、大丈夫だった? 知らないお兄ちゃんに覗かれて怖かったね」
「おめーが怖いわ!」
オレはどきどきと脈打つ心臓を押さえながら起き上がる。
「なんなんだよ、ヘックンって!」
「彼の名前だ。ヨツユビハリネズミの『へっくん』。ハリネズミの英名『ヘッジホッグ』に由来している」
「どうでもいいわ! そんなことを訊いてんじゃねーよ」
「大声出さないでくれ、ハリネズミはとても神経が細いんだ。おまえががなり立てるたびに彼の儚い命がおびやかされる」
さらに声を荒らげたくなったが、へっくんがおが屑みたいなマットにもぞもぞと隠れたのを見てためらった。たしかにこいつは怯えているらしい。声を抑えて、冷静に話す。
「いつからいたんだ、そいつ。どうやって連れてきた」
「……裏門から荷物を運びこむとき、段ボールのひとつに隠しておいた」
「おまえ、この寮はペット禁止だぞ。実家に置いとけ」
「『実家』なんてない。半年前に父が死んでから、親戚の家に仮住まいしていたんだ」
父親が死んだ、と突然言われて戸惑った。潮が引くように怒りが消えていく。
「父が死ぬ前はほとんど話したこともない親戚なんだ。家族なんて関係じゃない。このガラスケースから出さないという約束でへっくんを飼い続けることは許してくれたが……飼育を頼めるような間柄じゃなかった」
「いや、餌やるだけだろ?」
「ハリネズミを飼うには、リター──パルプのマットを定期的に取り替えなきゃいけないんだ。フンをするからな。与える餌も、なるべく生のミルワームが望ましい。とても親戚には任せられない。おれが面倒を見るしかないんだ」
「だからって……」
「頼む。見逃してくれ」
鷹宮はまっすぐにオレを見た。瞳には、ひどく切実な色が滲んでいた。
「……わあったよ」
「助かる」
心底ほっとしたように、彼の唇が緩んだ。もっとも、へっくんに向けた笑顔と比べるとゼロに等しい微笑みだったが。
「今夜は見逃すけど、いつまでもってわけにはいかねーからな。どうにかしろよ」
「わかってる」
拗ねたように視線を逸らす。ようやく人間らしい面が見えてきた。
「なんなら、寮の玄関にでも置いてもらうか? 有岡さんに頼んでもいいけど」
マットの隙間から顔を覗かせているハリネズミのつぶらな瞳を見たら同情心が湧いてきて、オレは言った。
「それには及ばない。騒がしい場所や眩しい場所はハリネズミには厳禁なんだ。モグラの仲間だから、目はほとんど見えない。今も刺激が強すぎると思う」
言いながら、鷹宮はベッドの下にケースをしまった。
「ふーん。んじゃあ、一週間な。それくらいがオレも限度だぞ。そんな繊細な生き物と一緒に暮らすなんて気ぃ遣うし」
鷹宮はおとなしく頷いた。
それから消灯までの間、オレは机に向かって勉強を続けた。その間、ずっと鷹宮は隣の机で本を読んでいた。
「なあ、おまえ勉強しねーの?」
十一時が近づき、予習を終えたときに尋ねてみた。彼は文庫本を閉じて、簡潔に答える。
「しない。もともとできるから」
「おーおー、大した自信だな。でも、霧森はこれでも進学校だぞ。前にどこにいたか知らねーけど、ついてくのはけっこう……」
「前にいたのは、創桜大学付属高校だ」
「そ、そーおー!?」
全国でも三本の指に入る、東京の名門高校ではないか。
「え、なに。レベル高すぎたから霧森に転入してきたのか?」
「失礼なやつだな」おまえが言うな。「霧森に来たのは、寮があるからだ。親戚の家は居心地が悪かったからな。創桜でも普通に成績は一位だった」
普通に成績は一位だった……? キテレツな日本語すぎる。
「ホラじゃねーだろうな」
「噓をつくメリットないだろ。信じなくてもいいが。それより、消灯の時間だ」
「そ、そうだな……」
オレはベッドの上によじ登って、ルームメイトを見下ろした。彼は床に腹這いになって、「おやすみ、へっくん」と甘い声でペットに呼びかけていた。
鷹宮は名残惜しそうに立ち上がると、オレを振り返って電気を消した。
室内が常夜灯のオレンジ色に染め変えられる。
「……鷹宮」
少しだけためらってから、呼びかけた。薄闇の中「なんだ」という低い声がする。
「おやすみ」
五秒くらいの沈黙。シカトかこの野郎、と思って身を起こしたら、
「……おやすみ」
と、かぼそい声が返ってきた。オレは布団を引っかぶって、長いため息をついた。
変なやつと同室になっちまったな──と、心の底から思った。
*
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■ 著者プロフィール
楠谷佑(くすたに・たすく)
富山県生まれ、埼玉県在住。高校在学中に、『無気力探偵 ~面倒な事件、お断り~』(マイナビ出版刊)でデビュー。著作に『家政夫くんは名探偵』シリーズ、『案山子の村の殺人』など。ミステリ業界期待の新星。