第1章 夜の爪
赤黒い血液が染み込んだナプキンを、トイレの汚物入れに捨てた。最近は軽い腹痛を覚えることも多い。少量だが続いている不正出血は、胸に暗い影を落としていく。
ヒット曲を奏でるオルゴールの音を聞きながら、待合室のソファーに腰を下ろす。前回、足を運んだクリニックより清潔で落ち着いた雰囲気が漂っている。HIV検査を啓蒙するポスターを眺めたり、ラックに置かれた女性誌のページを捲ったりしながら順番が来るのを待った。
「十四番さん、二番診察室へどうぞ」
プライバシーに配慮してか、名前は呼ばれなかった。指定されたドアを開くと、女性医師が微笑みを浮かべている。
「こんにちは。今日はどうなさいました?」
穏やかな声が聞こえた。医師の薄い化粧の下には、健康的な肌の色が透けて見える。
「不正出血が続いてまして……他のクリニックも受診したんですが、少し不安で」
「最初のクリニックでは、何と言われました?」
「ホルモンバランスの変動が影響する、排卵期出血だろうって」
「なるほど。一時的な出血という見解だったんですね」
「漢方薬を処方されて、様子を見るよう言われたのですが……止まらないので」
先日受診したクリニックは、自宅から一番近いという理由だけで足を運んだが、完全にハズレだった。外観は古臭く、内部はどこも日陰のように湿っていて採光は最悪。私を担当した初老の男性医師は親身になって話を聞いてくれたとは言えず、痰が絡んだ咳を繰り返しながらカルテを見つめていた。
そんな失敗を踏まえ、今回は生活圏からは外れているが、ネットで評判のクリニックを選択していた。
「柳岡さんは、現在妊娠の可能性はあります?」
「いえ。未婚ですし、相手もいないので」
事前に記入した問診票と照らし合わせながら、既往歴や月経に関する質問が続く。
「直近の性交渉はどうですか?」
「五年前に彼氏と別れてからは、一度もないです」
「今日は子宮頸癌検診も希望しているようだけど、最後に受けたのはいつ頃ですかね?」
「確か、四年前です」
「自治体の葉書がないと自費診療になりますが、よろしいですか?」
子宮頸癌検診は地方自治体が費用を一部負担する公的検診もあるが、受診期限が決められている。少し高値になっても、この機会に全ての可能性を潰しておきたかった。
「はい、構いません」
「それなら、やっておいた方が良いですね。最近は若年層の罹患率が上昇してますし」
問診が終わり、検査室に移動した。内診を行うため、ズボンとパンツを脱ぐよう声が掛かる。狭い空間には、薄ピンクの内診台とエコー検査の機器が並んでいた。
内診台に腰を下ろした後、台座に乗せた両足が電動操作で左右に開いていく。股を大開きにした格好で身体を固定されると、頰が熱を帯びた。視界のすぐ先はカーテンで仕切られているため、医師と目が合うことはない。医療器具の触れ合う音だけが、微かに透けて聞こえた。
「膣鏡を挿入しますので、痛かったら教えて下さいね」
金属の冷たい感触を覚えながら、膣腔を検診する医療器具を脳裏に浮かべた。鳥の嘴に似た形をしていて、操作が下手な医師だと痛みを伴う。
「すぐ終わりますからね」
頭を空っぽにしながら、目前に垂れ下がるカーテンを見つめ続ける。しばらくして医師が小さく唸るような声が漏れ聞こえ、不安の欠片が胸を抉った。
「少し、ただれているように見える箇所がありますね。これから専用のブラシで細胞を採取しますよ」
柔らかい物体が、身体の奥の粘膜に触れる。白い天井を見つめながら、握った掌に爪を立てた。
十分もしないうちに全ての検査は終わった。再び診察室に戻ってから、医師に疑問を投げ掛ける。
「先生の見立てはどうでしょうか?」
「詳しくは細胞診の結果を見てからですね。二週間後辺りに、再診予約をお願いします」
医師の穏やかな口調は変わらなかったが、瞳の奥に暗い陰りが見えた。確定診断を下す前に、ネガティブなことは告げないタイプなのかもしれない。
「何かわかったら、ストレートに告知して下さい。一応、看護師なので」
「わかりました。看護師さんということは、夜勤もあって生活リズムが崩れやすいでしょう?」
「実は今日、夜勤明けなんです」
言葉にすると、忘れ掛けていた睡魔の気配が急に強くなり瞼が重くなった。
「毎日患者と接しているせいか、身体のことに関しては悪い方、悪い方に考えてしまって」
「柳岡さんだけではなく、どんな医療従事者もそんな感覚ってあると思いますよ」
「嫌な職業病ですよね」
顔の皮膚は干し肉のように硬くなっていて、強張った笑みしか浮かばない。内診台の温かみのない感触が、太腿辺りにまだ残っていた。
自宅の最寄り駅に着いてから、コンビニの自動ドアを通った。瞼を擦りながら陳列された商品を見つめる。春に差し掛かっているせいか、苺いちごや桜味のスイーツが多い。少し迷ってから、いつも通りコンソメ味のポテトチップスとビーフジャーキーを選択した。最後に冷えた缶ビール二本をカゴに入れて、レジに向かう。勤務中は、患者に対して食事指導をすることも多い。改めて選んだ商品を覗き込み、水菜のサラダを一つ追加した。
マンションに帰ってからの過ごし方は、既に決まっている。映画を観ながらソファーで眠り、目が覚める頃には陽が沈んでいる。そんな日々を積み重ねているうちに、先月二十代は終わりを告げた。
熱いシャワーを浴びてから、看護学生の頃から着ているフリースに着替えた。最近ボブに変えた髪にドライヤーを当てながら鏡を見つめる。この髪型にしたのは失敗だった。一つに結べない長さでは、オムツ交換の際に髪が目に入って酷く邪魔だ。特定の恋人を意識する前に、患者の姿が思い出される。自然と苦笑いが浮かんだ。
ビールの黄金をグラスに満たしてから、換気扇の下でメンソールの紫煙を吐き出した。ちょうど一缶目を飲み切ったタイミングで、スマホが鳴った。
画面に『公衆電話』と表示されているのを見て、自然と舌打ちが漏れてしまう。しばらく放置したが、着信音が鳴り止む気配はない。夜勤で疲れ切った頭が、更に痺れていく。
「……もしもし」
「あっ、やっと出た。何やってたのよ」
母の声がノイズ混じりに耳に届く。大げさな溜息を漏らしながら、冷たい声を出した。
「夜勤終わり。今から寝るところ」
「ちょっと、まだ切らないでよね。貴重な一回なんだから」
現在、閉鎖病棟に入院中の母は、一日三回までしか電話を掛けることができない。入院初期は回数制限がなかったが、面会時にお酒を持ち込むよう哀願する着信が四六時中続き、治療的視点からそのような制限が設けられた。それ以来、無茶苦茶な内容の電話は減った。それでも毎日、病棟に設置された公衆電話から、どうでもいい近況報告は続いている。
「千明は帰ってから、何食べたの?」
「別に何でもいいでしょ」
「教えてよ。こっちは不味い病院食で我慢してるんだから」
「お菓子にビーフジャーキー。それとビール」
私の返答を聞いて、回線の奥で唾を飲み込む音が響いた。
「うわっ、あんたも意地悪いわね。あたしが飲めないと知ってて、そんなこと言うんだから」
「聞いたのは、そっちじゃん。正直に答えただけ」
陰湿な攻撃を、もっともらしい言い訳で誤魔化した。今まで私が被った数々の迷惑を考えれば、痛くも痒くもないに決まってる。
「病棟スタッフの皆様とは、上手くやってるんでしょうね?」
「勿論。品行方正で、患者の鑑でございます」
「ふざけないでよ! どれだけ私が入院中に謝ったか!」
思わず声を荒らげてしまう。入院初期の母は、問題行動ばかりを起こしていた。外出が許可されている患者に哀願し、お酒を買ってきてもらったり、処方された薬の内服を頑なに拒否したり、仕舞いにはアルコール成分が入った消毒液を隠れて飲もうとしたらしい。その都度病院から連絡があり、私はスマホを片手に情けない声で謝っている。
「次、何かやったら親子の縁を切るから」
「大丈夫、大丈夫。もう退院日は決まりそうだし。消化試合みたいなもんよ」
「前回の入院の時も、退院間近で飲酒したじゃない」
母がアルコール依存症の治療で、入院したのは計三回。全て屋外で飲酒中、酩酊後に転倒したのが切っ掛けだ。意識がない状態で倒れているのを近隣住民に発見され、一般病院に救急搬送されている。そこで最低限の身体的加療を受けた後、アルコール依存症の治療のため精神科病院へ転院となるお決まりのコースだ。
「今日、千明に連絡したのは、あの件のこと」
「あの件?」
「回復施設の見学よ。最近膝の調子も悪いし、代わりに行ってくれって頼んだでしょ」
母は退院後、セゾン・サンカンシオンという治療共同体に入居予定となっている。担当のソーシャルワーカー曰く、依存症の民間回復施設のような場所らしい。最近長距離を歩くと膝が痛む母に代わって、私が一度見学に行くよう連絡を受けていた。
「誰かさんと違って、私は約束を守る人だから。一週間後に見学の予約入れてる」
「偉いじゃん、ちゃんと覚えてたのね」
「忘れるわけないでしょ。お母さんは、独りで生活できそうにないんだから」
母の肝機能に関する採血データが脳裏を過よ ぎる。AST、ALT、γ ─ GTPは見たこともない異常値を弾き出していた。
「もう、寝るから。おやすみ」
「待ってよ、今日の病棟レクリエーションでね、塗り絵をやったんだけど……」
一方的に電話を切った。冷蔵庫から二本目のビールを取り出し、今度は缶のまま口を付けた。
転居に備え、母の荷物は既に別室にまとめていた。テレビボードの上に何か母の私物を飾っていたような気がするが、それが写真だったのか、ちょっとした小物だったのか、もう思い出せない。
曇りがちな空の下では、ベージュのトレンチコートが良く映えた。小ぶりなサコッシュを肩に掛け、三分咲きの桜並木を進む。スマホの画面に映し出された乗り換え案内には、見知らぬ駅が表示されていた。カードに二千円分だけチャージして、先を急ぐ。
池袋と寄居を結ぶ東武東上線には、初めて乗車した。事前に受け取っていた細長いパンフレットを見る限り『夕霧台』という駅が最寄りらしい。
モケット生地のシートに腰を下ろして車窓を見つめた。私の自宅から一時間ちょっとで着く距離なのに、酷く遠い場所に向かっているような気がする。車窓に映る見知らぬ街並みに目を細めていると、午後の日差しが微睡みを誘った。
準急列車に乗車し、三十分程度で夕霧台駅に到着した。改札を抜けて東口に降り立つと、小さなロータリーがあった。セゾン・サンカンシオンまでタクシーで向かおうと思い辺りを探ったが、高齢者をデイサービスに運ぶバスしか停まってはいなかった。
仕方なくパンフレットに記載された地図を眺めながら歩みを進める。都心から三十分程度の距離とはいえ、意外と長閑な街だ。先ほど目にした畑には野菜の直売所もあり、駅から離れ始めると人通りも少ない。既に二十分以上歩き続けた身体は、最寄り駅の定義を見失い始めていた。
住宅地を抜けた先には、広大な田んぼが広がっていた。すぐ近くに小高い林も見え、地図はその中を指し示している。
タイヤ跡が残る曲がりくねった林道を進んで行く。周りに民家は見当たらない。この道で合っているのか不安を覚え始めた時、二階建ての建物が小さく目に映り始めた。
*
続きは発売中の『セゾン・サンカンシオン』で、ぜひお楽しみください。
■著者プロフィール
前川ほまれ(まえかわ・ほまれ)
1986年、宮城県出身。看護師として働くかたわら、小説を書き始める。2017年、「跡を消す」で、第7回ポプラ社小説新人賞を受賞し、翌年デビュー。他の著書に、第22回大藪春彦賞の候補となった『シークレット・ペイン 夜去医療刑務所・南病舎』がある。