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辺境の真珠と灼岩の狼

 序幕 蒼雪城の花嫁

 東方の真珠、と、人々は、その七歳の公女を呼んだ。
 リーサ・ダヴィアは、人の称賛を誘う美しい少女だった。真珠とは、東方の海沿いの商都出身であることと、月の光の色をした巻き髪の輝きに由来している。端整な顔立ちは神々にもなぞらえられ、明るいすみれ色の瞳は宝玉にたとえられた。
 リーサが、イェスデン王国の東方に位置するダヴィア公領から、国王の第四王子の婚約者としてはくきゅうに迎えられたのは、王暦二六五年の春のことである。
 ──エナ島における最古の史書は、およそ千年前に記された。
 とこはるの大陸から、遥か南海を渡りこの島に移住した人々は、あの手この手で先住民からあらゆるものを奪った。千年前には、ついに最後の純血の子供までも。
 偉大なるエナ島、を意味するラーエナ島と名を変えたのちも、侵略者同士の血まみれの歴史は続いた。
 ひしゃげた楕円形のラーエナ島には、記録がはじまった当初は五十の国があった。五百年の動乱、五年の平和、二百年の動乱、二十年の平和……と千年かけて交互に繰り返し、ついには五十年の動乱ののち、二百年余の比較的平和な時期に入っている。この安定は、島の四分の一を手にした建国王ジグルスのイェスデン王国成立によってもたらされた。
 一大強国の出現により、島全体の国の数は十四にまでとうされた。国同士の争いや、各国の内乱を経つつも、島は次第に豊かになっていく。半減した人口が増え始め、平和のありがたみを学んだ人々の間で、政略結婚が流行り出していた。時代の空気というものだ。
 イェスデン王国には、王都を囲む王領と、そのがいえんを包む外領がある。三十五ある外領の領主たちは、王国成立以前から土地の主であった者の子孫が多く、独立の気風が強い。彼らとの良好な関係は、王国の平和の要でもあった。
 海の民を祖とする、すいの地に紺のかいじゃの家章を掲げるダヴィア家の末娘・リーサが、琥珀宮で暮らすようになったのも、そうした流れの一環である。
 七歳のリーサと、六歳の第四王子ウルリク・オールステットの縁談は、トシュテン三世の王妃・カタリナの鶴の一声で決まった。滅びた古き血のまつえいとされる一族と、王族の縁談は、王国史上はじめてのことであった。
 リーサは王族として教育を受けるべく、碧の海に囲まれたぎょうじょうを離れ、内陸の琥珀宮へとやってきた。馬車から降りた愛らしい少女を見て、王妃カタリナが「東方から愛らしい真珠が来たわ!」と喜んだことが、史書に記されている。
 黒地に金の獅子を家章とするオールステット家の、第十六代国王であるトシュテン三世の最初の王妃は、三人の王子と一人の王女を産んだのち病没していた。二番目の王妃として、君臨したのが王妃カタリナである。このカタリナの唯一の実子がウルリクだ。彼は、とても愛らしい少年だった。オールステット家に多く見られる黄金色の髪と、太陽を思わせる瞳を、リーサはとても美しいと思った。
 リーサはウルリクを一目で好きになったし、彼も同じであることは見てわかった。
 互いの美しい瞳は輝き、頰は色に染まった。純粋な好意は、さらなる好意を呼ぶ。
 二人は毎日、ジクルス建国王と賢妃と名高いナーディア王妃の銅像の前で待ち合わせをし、庭を散歩した。春の花、初夏の緑、真夏の木陰。秋薔薇。冬の間は温室で。
「ずっと一緒にいよう。僕は、ずっとリーサのことを守るよ。約束する」
 リーサより一つ年下のウルリクは、未来の妻を守るべき存在だと思っていた。
「はい。きっとですよ。私も、ウルリクをお守りします」
 リーサは、弟のような少年を守ってやりたいと思っていた。
 薔薇の咲き乱れる屋上庭園で、二人はそんな約束をしたのだった。
 ただ、この幸せな関係が無条件で成り立っていたわけではない。
 紫暁城から出る時に、母とした約束は常に守っていた。
 ──東方の話は、口にしてはいけませんよ。空の色、海の風、祈る神。どんなことも、なに一つとして。口にすれば、いかなる愛も過去のものになるでしょう。
 故郷の美しい海の話も、海の民が奉じる海の男神と月の女神の話も、決してしなかった。祈るのは、琥珀宮の中にある七角のしょうせいどうで、七つの天と数多の神々にだけ。
 家族を思い、夜に一人枕を濡らした日もあった。
 けれど、日を追うごとに悲しみは遠ざかっていく。父や母、兄弟姉妹から届く手紙は愛に溢れていたし、リーサはウルリクを、会う度に好きになったからだ。
 いずれ彼の妻となり、成年したのちは彼が王領に与えられる城で幸せに暮らす。なんの疑いもなく信じていた。その日まで──ずっと。

 ガタガタと馬車が揺れている。
 ガタン、ガガ、ゴン、と不躾なほどに不規則な揺れだ。
 窓の向こうに見えるのは、果てなく広がるいんうつな森であった。
 王暦二七一年九月九日。
 十三歳のリーサは、ぼんやりと馬車の窓の外を見ていた。
 人の姿は、人の境遇に関する情報を多く含んでいる、とリーサは思う。
 手を覆うレースの手袋。絹のドレス。顔を覆うベール。すべてが純白の装いは、誰の目にも花嫁に見えるだろう。レースに編み込まれたぎんや、伝統と流行を活かしたドレス全体に施された花のしゅう、それにベールのひだの多さ、首飾りの真珠はやや青みがかった大粒なもので、実家の裕福さもうかがえるはずだ。
 ガタガタと、馬車が揺れている。
 馬車での旅も、もう十二日目。王都から離れるにつれ、道は悪くなる一方だ。進みは格段に鈍くなっている。
 向かう先は、生まれ故郷どころか、琥珀宮からも遥か遠い北方であった。
 リーサの花嫁衣装は、辺境とも呼ばれるリンドブロム公領に向かうにしては、過ぎた豪華さの装束である。──嫁ぐ相手が、急に変わったせいだ。
「昼には着くと聞いておりましたから、間もなくですね、リーサ様」
 狭い馬車に同乗しているのは、黒い聖装束の、細身で面長なカルロ・デリル。つややかな黒髪を耳のあたりでぴしりと揃えているのは、彼が神官だからだ。簡素な木珠の首飾りは、三等神官の証。リーサの周囲にいる唯一の同郷出身者で、年齢は一歳上である。リーサが琥珀宮に移った時、修行を理由に同行して以来の仲であった。
 彼の漆黒の髪は、東方出身者の多くと同じだ。顔が青ざめているのは、彼の家族に起きた不幸を痛ましいまでに想像させた。
 リーサは、カルロの青い顔を見、それからすぐに窓の向こうを見る。
「……えぇ、そうね」
 自分も、同じだ。さぞ青い顔をしているだろう。
 不幸。我が身に起きた出来事は、まさしく不幸だ。
 ダヴィア家の領主の長男が、王家の内輪もめに巻き込まれ、騒乱罪で刑死。不服を申し立てた父も、同じ罪で刑死。母は、幼子を連れて海に身を投げた。紫暁城は焼かれ、一族も、しゅたちも多く命を落とした。その中には、カルロの父親もいたと聞いている。
 今、リーサは北へ向かう馬車に揺られていた。
 リーサの結い上げられた髪は、淡い金色だ。東方にいるほとんど──家族や旗主たちとも違っている。ダヴィア家が代々、王家との縁を求めるため、王都の貴族との婚姻を繰り返してきた結晶がリーサだからだ。だが、今、リーサは王都から離れている。カタリナ王妃が、ウルリクとの縁談をさせ、リンドブロム家に嫁ぐよう命じたからだ。
 行けども行けども、森ばかり。山、木々、時折見える川、谷。そして、森。木もれ日のさす琥珀宮の森とは違う。うっそうとして、湿っぽい。
 馬車は、ゆるやかな坂を上っていく。
(あぁ、着いてしまう。──終わってしまう)
 優しい夢の終わり。悪夢の終わり。あるいはこれまでの人生の終わり。判然とはしないが、たしかな境を感じる。
 窓の外の山の上に、明るい灰色の城が見えてきた。
 リンドブロム家の居城・そうせつじょう
 険しい峰々に囲まれ、陸の孤島とも言われているそうだ。
 険しい道、鬱蒼とした森、陸の孤島。姿がものの属性を決めるのならば、この土地も冷たく人を拒むのだろうか。
 ぎゅっと、レースで覆われた手を腿の上で握る。
 窓の外の風景は、城が近づいてきても陰鬱なままだ。
 平地が少ないせいか、民家はまばらで、荒地が多い。荒地の向こうは森。さらに向こうは険しい山々。吹く風は身を縮ませるほど冷たい。
 門を一つくぐり、城内に入る。馬専用の道の脇には、いちらしきものがまばらに立っているが、活気はない。天然の良港をようし、大陸やラーエナ島全域との貿易が盛んなダヴィア公領や、大きな劇場が三つもある王都で暮らしていたリーサの目には、廃墟同然に見える。二つ目の門をくぐり、三つ目の門をくぐったあと、馬車は止まった。
(もう戻れない。逃げ道はないんだわ)
 急遽結婚が決まったリンドブロム公は、四十一歳。妻とは二度死別。子供は育たず、ちゃくはいない。とくは、年の離れた実弟が継ぐ予定だと聞いている。ただ、東方が悲劇に見舞われてから、今日までの期間は一ヶ月程度。琥珀宮と蒼雪城は馬車で十日の距離であることを考えれば、即断に近かったのではないだろうか。実弟への継承を歓迎しているようには見えない。
 馬車のステップを下り、一歩、灰色の石畳を踏む。
 簡素な城は、城というよりもとりでを思わせた。きらびやかで色彩にあふれた紫暁城とも、伝統的で華やかな琥珀宮とも違っている。装飾のない、壁と円塔だけで構成されたような城だ。
 空が近いように感じるのは、雲が垂れこめているからか、ここが高地だからか。
「出迎えもなしとは……」
 ぽつり、とカルロが呟く。
 森や山が自分を拒んでいるかのようだ、という感覚はリーサの想像でしかないが、出迎えがないのには明確な意思を感じる。
 ぎょしゃたちは、三台分の馬車の荷をさっさと下ろすと帰ってしまった。
 馬車が走り出す音と重なるように、城の扉が開く。
(よかった。人が来た)
 出てきたのは、一人。使用人ではなかった。無造作に束ねた長髪は貴人らしからぬ様だが、堂々とした体軀だ。ラーエナ島にはいない赤い山猫の毛皮は、貴人でもなければ身につけはしないだろう。ぎょろりと大きな目が印象的な顔は、四十代には見えない。もっと若いはずだ。
 リーサは、膝を曲げて挨拶をした。
 ところが──
 あかやまねこの男は、花嫁衣装のリーサが目に入らなかったかのように、横をすり抜けた。
 のんびりとしたカルロが「無礼な」と抗議の声を上げたのは、男が乗った馬のひづめの音がしはじめたあとだった。
「あぁ、お出迎えもせず申し訳ありません!」
 門の方を見ていた目が、ふっと城の方に戻る。
 中から出てきたのは、太い眉と大きな目が特徴的な、明るい栗色の髪の青年だった。癖の強い髪を無造作にまとめている。東方でも王都でも、男性は短髪がほとんどなので、長髪は見慣れない。身なりから判断して、リンドブロム家の旗主の一族だろう。
「リーサ・ダヴィアです、卿」
「公女様、ようこそ、蒼雪城へ。私は、ヘルマン・エンダールと申します。よかった、間にあってなによりです。で──どちらに?」
 問いの意味がわからず、リーサはカルロの方を見た。
 じょはいない。王都からついてくる者はいなかった。護衛の兵士は、蒼雪城の手前で帰ってしまったし、荷もこれだけだ。
「なにをお探しですか?」
「持参金です」
 くらりと眩暈めまいがした。怒りよりも、絶望が強い。
 他人に尊重されない立場になった自覚はあった。ほんにんの子。そんな声がどこかから聞こえてくる。
「リンドブロム公に、直接お渡しいたします」
「そういうことでしたら、どうぞ、中へ。お急ぎを。さぁ、さぁ」
 ヘルマンは、リーサを落ち着きなく急かした。
 扉をくぐった先には、色の絨毯が敷かれた玄関ホールがある。
 壁には、瑠璃色の旗が飾られていた。瑠璃地にしろふくろう。リンドブロム家の家章旗だ。
(人の目をしている)
 梟の目にどこか気味の悪さを感じ、リーサはサッと目をそらした。
 ヘルマンは、玄関ホールから続く幅の広い階段を上ったあと、ゆるやかな螺旋階段をずんずんと上り出した。踊り場で左右に分かれ、右が男性の部屋、左が女性の部屋になっているのは、どこの城でも共通しているはずだ。問題は、その右側に、ヘルマンが誘導したことだ。男性の寝室がある場所に、未婚のリーサが入るわけにはいかない。
「エンダール卿。まだ婚姻式は終わっておりません」
 カルロは、ヘルマンを止めようとした。だが、ヘルマンは「それどころじゃないんですよ!」と言って歩みを止めなかった。
 その意味が、突き当たりの部屋の扉が開いた瞬間にわかった。
 リーサが、王都から来た花嫁にしか見えないように──その人は、命の終わりが近いように見えた。こけた頰、落ちくぼんだ目。浅く苦しそうな呼吸。ベッドの上に横たわる人は、老人のように見えた。少なくとも、四十歳には見えない。
 ヘルマンが「リンドブロム公、カール・リンドブロム様です」と紹介する。
 つまり、ここにいるのは瀕死の花婿と、王都から来た花嫁だ。
 カールは、手ぶりで人払いをする。
 ベッドの上のリンドブロム公と、リーサは二人きりになった。
 広く寒々とした部屋に飾られたはくせいの鹿が、主を見下ろしている。
「ご家族のこと、残念であったな。心より悼む」
 かすれた声で、カールは言った。顔色の割に口調はしっかりしていた。
「お気持ち、ありがたく存じます」
せんりょいっしつというものだ。トシュテン王は、己の弟だけを罰するべきであった」
 それだけ言うと、カールは手元の鈴を鳴らした。
 トシュテン王は、対立するぐんそうすいの弟・ランヴァルドの暴走を止められなかった。
 武力衝突の末、ランヴァルドは逃亡。それを匿ったとして、リーサの兄は処刑されたのだ。王と王弟の争いに、ダヴィア家は巻き込まれた。王弟は一切ダヴィア家を庇うことなく、国外へと逃れた。
 婚姻の相手から聞けた言葉に、わずかに救われた思いがする。
 コンコン、と扉が鳴り、入ってきたのは、ぴちりと切り揃えた黒髪の神官であった。黒い聖装束に、虹色をした玉珠の首飾りが光る。一等神官だ。
 神官は、この地にある北のだいせい殿でんの神官長であると名乗った。神官長は、
「リンドブロム公は、ご自身ではなく、公子様との婚姻をご提案なさっております」
 と感情のない声で告げた。
「公子……?」
 聞いていた話と違う。リンドブロム公は、跡継ぎがいないがために花嫁を求めていたはずだ。
「エルガー・リンドブロム様。御年七歳でございます」
 神官に名を呼ばれるのが合図だったのか、背に隠れていた少年が、聖装束の後ろから顔を出す。服装は庶民のそれで、栗色の巻き毛はボサボサ。公子らしい姿はしていない。
 十三歳のリーサにも、少年が平民の母を持った庶子で、領主の急病にあたって急ぎ──恐らく今日になって──公子として迎えられたであろうことは想像できた。
「エルガーと申します、リーサ公女」
 七歳の少年のぎこちない礼に、リーサは優雅な礼を返す。
(先ほどの赤山猫の方が、弟君のオットー様だったのね。リンドブロム公は、実の弟ではなく、庶子を迎えて後継者にするおつもりなんだわ)
 カールの弟のオットーは、次期領主となる資格を失ったのだろう。これも急な話であったであろうことは、先ほどの礼を失した態度からも察せられる。
 答えを出さねばならなかった。それも、すぐに。
 リーサには、帰る場所がない。
 実家の城は焼かれ、家族はほとんど死に絶えた。
 足場が、必要だ。ダヴィア家は滅び、仕えていた旗主やその家族は路頭に迷うだろう。国内各地の縁者を頼るはずだ。一人でも自分を頼る者がいれば、保護したい。
(力が、欲しい)
 今日まで平民として暮らしていたであろう七歳の領主の妻になり、よそ者のリーサが力を得られるだろうか? 幼い子供同士の婚姻は、ままごと遊びでしかない。
 力が、要る。我と我が身を、そして心を守るために。
「予定どおり、婚姻式を行いましょう。私は、カール・リンドブロム公の妻になります。エルガー公子は、私が責任をもってお育てし、彼が成年になりましたら領主の座をお譲りします。それまで、私も決して夫は迎えません」
 前領主の未亡人。代理公。次期後継者の養育者。リーサが出した答えは、それらを兼ねることであった。
 王暦二七一年九月九日、リーサ・ダヴィアはリンドブロム公の妻となり、同年同月十二日、リーサ・リンドブロムは、未亡人となった。

 間に合ってよかった──と酒に酔ったヘルマン・エンダールは、ひつぎの前でそう言った。
 琥珀宮内の小聖堂では神官が常駐していたが、蒼雪城では違うらしい。各地方に一つある大聖殿は、北方においてはリンドブロム公領内にある。神官たちはそちらを拠点としており、城へは必要に応じて移動してくるそうだ。
 聖堂の造りは、東方の大聖殿も、琥珀宮の小聖堂も、すべて同じだ。カップの底に当たる部分が七角のとう台になっており、カップの壁にあたる部分は、七つの柱で区切られた七つの面に、階段と座席が並ぶ。
 城の使用人たちは、座席の清掃を黙々と続けていた。神官は数人いて、香の入った丸い炉をつけた杖を振りながら、祈禱場をぐるぐる回っている。視界が悪くなるほどの煙だ。
「奥様の持参金のお陰で、棺が買えました。リンドブロム公とは、棺の手配まではするというお約束だったんです。義理は果たしました。──では、ご機嫌よう、奥様」
 喪服を着たリーサに優雅な礼をして、平服のままのヘルマンは主の棺に背を向ける。
 七角の内の一面の階段を上っていくヘルマンの背を、リーサは追った。
「お待ちになって、エンダール卿」
 しかし、ヘルマンは足を止めない。
「勘弁してください。私は、美味い飯と美味いエールが生き甲斐なんです。もう拳ほどもないパンと薄いスープだけの毎日は御免だ。冷や飯食いでも、実家の方がまだマシでしょうよ。むしろ称賛していただきたい。リンドブロム公への忠誠を理由に、こんな暮らしに八年耐えました」
 太い眉を八の字にして、ヘルマンは身振り手振りを交えて訴えた。
 最後に「これからは、ゆっくりとエールが飲みたいんです」とつけ加えて。
 拳ほどもない硬いパンと薄いスープは経験済みだ。豊かな食事に囲まれ、いくつものデザートから好みの一つを選ぶ生活とは、まったく異なる世界がこの城にはあった。
「リーサ様!」
 ヘルマンが開けた扉の向こうで、カルロが瑠璃色の玄関ホールの階段を駆け上がってくるのが見えた。
「どうしたの、カルロ?」
「ダヴィア家の旗主たちが、城門の前まで来ております!」
 旗主とは、領主に仕える騎士の内、砦を預かる騎士のことだ。
 彼らは東方での暮らしを奪われ、リーサを頼ってここまで来たのだ。
(私がこの領に着いてから、四日しか経ってない。きっと姉上のいるロイド公領を頼ろうとして……断られたんだわ)
 東方の最北に位置するロイド公領には、リーサの姉のラウィラが公子に嫁いでいる。そこで受け入れを断られたのでもなければ、嫁いだばかりのリーサを頼りはしないはずだ。
 東方から、遥か北の辺境へ。旅は過酷なものだったろう。
「エンダール卿、話の続きをいたしましょう。──こちらへ」
「話の残りは、退職金のご相談くらいです」
 リーサは「ついてきて」と言ってから、玄関ホールの階段を下りず、ろうに続く扉を開けた。外の階段を駆け上がり、見晴らしのいい歩廊に出る。
 風が、強く吹いた。
 どこまでも広がる鬱蒼とした森。蒼雪城が陸の孤島ならば、森はさながら海である。リーサがこれから生きていくのは、この場所なのだ。
 孤島たる城の前庭につながる門に、旅装の人垣が見えた。
 驚いたのは、彼らの集団の数だ。一人、二人という人数を想定していたが、五十人以上はいる。
「……こんなに?」
「彼らの家族が、あとから到着するそうです。二百名に近い数かと。恐らく、今後はもっと数が増えます」
 横にいたカルロが、リーサにこそりと伝える。
「無理ですよ。養えやしません」
 ヘルマンも、こそりと囁く。
 硬いパンと、薄いスープ。自分の食事を分けたところで、全員に行き渡るはずもない。十日もすれば自分が餓死する。
 リーサ・ダヴィアは、豊かな領の公女として生まれ、なに不自由なく、のびのびと育てられた。美しい城、美しい音楽、美しいドレス、美しい装飾品。趣向をこらした、四季折々の食事、芝居、庭の花々。琥珀宮に移ってからも、教育こそ厳しかったが、優しい婚約者や、父母や兄弟姉妹からの手紙、東方の真珠と誉めそやす人々が周囲を満たしていた。
 性格は穏やかで、東方出身らしくのんびりとはしていたように思う。呑気だ、とは何度も言われた記憶があった。
 だが、もう、のんびりとはしていられない。幼さを理由にして、判断を他人に委ねることはできなかった。
(私は、彼らの命を背負っている)
 しかし、十三歳の娘の手は、決して大きくはない。
 手が、腕が、必要だ。さしあたり、この領に詳しいであろうカールの右腕が。
 カタリナの教えだ。現状に不満を持つ賢者の手は、千ザンの金貨を積んでも逃してはならない、と。
「エンダール卿」
「引き留めても無駄ですよ」
「貴方を、エールの海でできさせてさしあげます」
「はぁ?」
 ヘルマンは、すっとんきょうな声を上げ、リーサを珍獣でも見るような目で見た。
「ですから、五年だけ力を貸してください」
「溺れ死ぬのは困ります。──いや、そうじゃないですよ。実家に帰らせてください」
「遠慮なさらず、存分に溺れてください。いつでも、私より豊かな食事をお約束しましょう。ですから、それが可能になる政策の提言をお願いします」
 むぅ、とうなって、ヘルマンは口をへの字に曲げた。
 彼は、迷っている。きっと人がいいのだろう。硬いパンと薄いスープに耐えながらも、義理は果たしたと宣言せずには立ち去れない人なのだから。
「これまでなにを言ったって、聞き入れられやしませんでした」
「私は違います」
 ヘルマンの厚い唇が、への字に曲がる。
「ご苦労なさいますよ? 頑固な旗主たちが黙っちゃいない」
「構いません。すべてカール公のご遺志、として乗り切ります。私の到着した日を前にずらし、亡くなられた日を後ろに延ばして、看病によって愛と敬意が育まれたかのように見せかけましょう」
 リーサは淡い菫色の瞳で、ヘルマンの太い、驚きのせいでおかしな形に曲がった眉を見つめていた。
 天を仰ぎ、なにかに耐えるような彼の表情に、これまでの日々の苦労がうかがえる。
「つまり、カール公のご遺志で、私の策が容れられるわけですか……」
「そうです。最初の五年は、基本の方針をすべてお任せします」
 ヘルマンは、天に向かって、ははは、と乾いた笑い声を上げた。
 そして、しばし感慨にふけったかと思えば、快活な笑みを浮かべて手を差し出してきた。髪の色よりやや明るい、栗色の瞳は輝いている。
「面白い。俄然、面白くなってきたじゃありませんか」
 差し出された手を取れば、ヘルマンはその手の甲に口づけをした。
「面白くでもなければ、こんな人生やってられません」
 見渡す限りの鬱蒼とした森。
 名のとおり、陰鬱に青みがかった活気のない城。
 ここで泣きながら、粗食を嚙みしめつつ死ぬまで暮らすなど真っ平ごめんだ。
「人が要りますよ。この貧乏領は十五年で人がめっきり減りました。暗黒の十年、なんて言い出す者もおりましたが、それが続いて十五年目です」
「これから、集まります。ひとまず、あちらに」
 リーサは、城門の前に集まる東方から来た人々を見てから、ヘルマンを見た。
 ヘルマンは、ニッと歯を見せて笑う。
「エールの女神に、五年に限りお仕えいたします」
「エールの賢臣の忠誠に、感謝します」
 階段を駆け下りたリーサは、門の前に立った。
「彼らを中に入れてください」
 門番は「しかし──」と渋るそぶりを見せる。
「彼らはちょうもん客です。拒むのは人の道に外れましょう」
 門の前にいた、ダヴィア家の旧臣たちの間から「リーサ様!」と声が上がる。
 七歳の頃に領を去ったとはいえ、彼らはリーサのことを覚えているようだ。
「『とうに種をく』──五百年前、海を捨て陸に上がったダヴィア家の祖は、凍土をも耕す気概で家をおこしました。これから我らは、海蛇の子として、それを繰り返すことになります。──長い旅をご苦労様でした。一日も早く、そして皆の命が尽きる日まで、安堵してベッドで眠れる夜が送れるよう、力を尽くすとここに誓います」
 強く、生きねばならない。父のように、領主として。
 ダヴィア家の旧臣たちを招き入れる途中、城の窓から泣き声が聞こえた。「嫌だ」「家に帰る」きっと公子のエルガーの声だ。
 父のように──そして、母のように。
 幼いエルガーを守り、彼を立派な領主に育てることもまた、リーサの役目だ。
 リーサ・リンドブロムの闘いは、この時はじまったのである。

  *

続きは9月4日ごろ発売の『辺境の真珠と灼岩の狼』で、ぜひお楽しみください!

■ 著者プロフィール
喜咲冬子(きさき・とうこ)

函館生まれ、札幌在住。第3回富士見ラノベ文芸大賞審査員特別賞受賞。2019年ノベル大賞佳作受賞。著書に『流転の貴妃 或いは塞外の女王』『竜愛づる騎士の誓約』『やり直し悪女は国を傾けない〜かくも愛しき茘枝〜』(集英社オレンジ文庫)、「黎明国花伝」シリーズ、「華仙公主夜話」シリーズ(富士見L文庫)などがある。

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