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二人のスタンプ ~『セゾン・サンカンシオン』&『藍色時刻の君たちは』コラボショートストーリー

このたび『藍色時刻の君たちは』(東京創元社)にて、第14回山田風太郎賞を受賞された前川ほまれさん。前川さんの最新文庫『セゾン・サンカンシオン』(ポプラ文庫)は、前川さんいわく受賞作と「ある意味対になっている作品」。受賞を記念して、両作品のコラボショートストーリーをお届けします!


  *

 男性医師が閉会の挨拶を終えると、参加者たちが次々と椅子を引く音が響いた。私は壇上に立ったまま、セミナー室から退出する多くの白衣を見送った。普段は依存症当事者たちや地域住民を対象に、啓蒙活動を行っている。しかし今日のように、医療従事者に向けての勉強会は初めてだった。嘘偽りなく私の依存症体験談を話せはしたが、途中で何度も言葉がつかえてしまった。それに、内容が迂遠し過ぎてしまった箇所もある。壇上から眺めた参加者の中には、欠伸を噛み殺す者がチラホラと目に映ったのを憶えている。最後の質疑応答にしても、活発な議論が展開されたとは言い難い。
「いやぁ、お疲れ様でした」
 声がした方を向くと、司会進行役の男性医師が表情を崩していた。彼は後退した生え際を摩りながら、弾んだ声で続ける。
「やはり回復した当事者の言葉は、胸に刺さりますな。ここにいた全員が、塩塚さんの話を真剣に聞いてましたもん」
 私は咄嗟に、首を横に振った。視界の隅に映るホワイトボードには、一枚のポスターが貼ってある。大きな文字で『生きづらさと、依存症。当事者からのメッセージ』と表記があり、その下には『講師・塩塚美咲』と私の名前が記載してある。『講師』という二文字が嫌に目に残り、今更になって恥ずかしさを覚えた。壇上で話した内容は拙く、参加者たちを退屈させてしまった自覚があるせいだろうか。
「正直、上手く喋れませんでした。緊張し過ぎて、手汗も酷かったですし」
「側から見たら、堂々としてましたけどね。参加したスタッフたちは、依存症の理解が深まったんじゃないかな」
 これ以上何か言っても謙遜していると勘違いされそうだったので、苦笑いだけを返す。この男性医師とは、セゾン・サンカンシオンで従事している他の生活指導員からの紹介で出会った。そして「是非、当院でも依存症当事者の『生の声』を届けてほしい」と、頭を下げられていた。この男性医師曰く、医療従事者だとしても依存症に偏見を持っていたり、症状の理解が足りなかったりする者が多いらしい。確かに、一理ある。依存症の治療は回復を目指す当事者同士の繋がりによって、発展してきた。正直今も、その現実は変わらない。
「塩塚さんは、帰りは電車ですか?」
 私は腕時計に目を落とし、僅かに頷いた。
「えぇ。そろそろ、お暇します。この病院からだと、セゾン・サンカンシオンまでは距離があるので」
「改めて、本日は遠いところからお越し頂き、ありがとうございました」
「いえ。こちらこそ拙い講義で、申し訳なかったです」
 私は壇上のパイプ椅子に掛けていたライダースジャケットに手を伸ばし、袖を通した。帰り支度を終えると、再び男性医師に向き直る。
「私がもし連続飲酒に陥ったら、この病院にお世話になるかもしれません。その時は、よろしくお願いします」
 男性医師は「そんなブラックジョークを」と笑っていたが、私は真剣な眼差しを向け続けた。
「依存症は、完治することはありませんから。回復し続けることは、可能ですけどね」
 最後に男性医師に一度頭を下げ、足早にセミナー室の出入り口に向かった。やはり、病院は苦手だ。過去の辛い入院経験を、嫌でも思い出してしまう。
「あのっ、すみません」
 リノリウム張りの廊下に踏み出した瞬間、誰かに呼び止められた。顔を向けると、白衣を着た女性が出入り口のドア横に立っていた。私より随分と若そうで、二十代前半に見える。どうしてか、彼女の表情は強張っていた。
「何か?」
「えっと……さっきまで、勉強会に参加していた者なんですけど……」
 女性の胸元には『織月小羽』と、表記されたネームプレートがぶら下がっている。白衣の右肩には『Fresh Nurse』と、刺繍されたワッペンが貼り付けられていた。多分、新人看護師なんだろう。
「さっきの講義の中で、依存症は別名『孤独の病』とも呼ばれてるって……おっしゃってましたよね?」
 質問の意図が分からなかったが、曖昧に頷いた。彼女は少し目を伏せて、再び口を開いた。
「依存症の発症には、意思の弱さや本人のだらしなさが原因ではなくて……その人の寂しさや不安が、関係してるんじゃないかとも」
 言葉を区切った彼女の喉が、微かに上下した。密かに、唾を飲み込んだのかもしれない。
「私も生きていて……寂しさや不安を感じることが沢山あります」
 彼女が一瞬、遠い眼差しを浮かべた。大きくて澄んだ両目には、仄かな影が差している。その目元を見ただけで、彼女には彼女なりの痛みや孤独があることを察した。誰だって、何かを色々と抱えて生きている。そんな当然のことを実感しつつ、今度は私から短く質問した。
「それで?」
「えっと、なんていうか……依存症は誰にでも発症する病なんだってことを、今日の講義で改めて理解できました。ありがとうございます」
 新人看護師が、深々と頭を下げた。気付くと、身体の深部で柔らかな熱が滲んでいる。私の言葉は、ちゃんと彼女には伝わっていたようだ。
「こちらこそ、講義を聞いてくれてありがとね」
 そこで会話は途切れたが、彼女はその場から動こうとしなかった。何か他にも、私に言いたい事があるのだろうか。それとなく、水を向けてみる。
「今日は勤務を抜け出して、参加してくれたの?」
 彼女は、慌てた様子で首を横に振った。話を聞くと、これから夜勤が控えているらしい。それも、病棟で一番厳しい先輩と一緒に。彼女の表情が硬い理由が、なんとなく理解できた。
「もし良かったら……私にも、スタンプを押してくれませんか? 講義で見せてくれた」
 スタンプと聞いて、一瞬だけ宙に視線を向ける。確かに講義の中で、あのスタンプに関しても喋っていた。セゾン・サンカンシオンで生活している依存症当事者たちの手に、私が偶に押しているスタンプ。依存対象への渇望が高まらないように願いながら押してはいるが、気休めにもならない代物。
「別に良いけど、勤務中に手を洗ったら簡単に消えちゃうと思うけど」
「構いません。少しでも気持ちが落ち着けば、それで良いので」
 新人看護師の瞳には、真剣さと少しの怯えが滲んでいた。それほど、今日夜勤を共にする先輩看護師は怖いのかもしれない。私は少しだけ同情しつつ、ライダースジャケットのポケットから例のスタンプを取り出した。
「それじゃ、あなたの手を貸して」
 差し出された手の甲に、優しくスタンプを押しつける。新人看護師の色白の肌に『お大事に』と、朱色の文字が刻まれた。
「うわぁ、ありがとうございます」
 想像以上に喜ぶ姿を見つめながら、ふと微かな不安が過った。彼女に同情している暇なんて、本当はないのかもしれない。私は明日、いや今日にだって、飲酒をしてしまう可能性はあるのだ。数時間後に、素面を保っている保証なんてない。帰り道の途中にあるコンビニに寄れば、簡単にお酒は手に入る。
 目を伏せたリノリウムの廊下には、二つの影が伸びている。私の影だけが異様に濃い色に変わっていくような錯覚を覚え、何度か瞬きを繰り返した。再び顔を上げると、思わずある提案が口から零れ落ちる。
「ねぇ、私にもスタンプ押してくれない?」
 今度は彼女に、スタンプを手渡した。「えっ、良いんですか?」という問いに、無言で頷く。私は今も、回復の途中だ。この命が終わるまで、これからもずっと。
 少しだけくすぐったい感触の後、私の手の甲にも朱色の文字が刻まれた。
「これで、小羽さんとお揃いね」
 親しみを込めて彼女の名を呼んでから、ソッと自分の手の甲に息を吹きかけた。せめてセゾン・サンカンシオンに帰り着くまでは、朱色の文字が滲まないように祈りを込めて。


  *

本編の『セゾン・サンカンシオン』(ポプラ文庫)は、好評発売中!

■著者プロフィール
前川ほまれ(まえかわ・ほまれ)
1986年生まれ、宮城県出身。看護師として働くかたわら、小説を書き始める。2017年、「跡を消す」で、第7回ポプラ社小説新人賞を受賞し、翌年デビュー。2020年、第二作『シークレット・ペイン』で第22回大藪春彦賞にノーミネートされる。2023年、『藍色時刻の君たちは』(東京創元社)にて、第14回山田風太郎賞を受賞。他の著書に『セゾン・サンカンシオン』がある。

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