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大正もののけ闇祓い バッケ坂の怪異

 第一話 天風姤てんぷうこう

 昨夜の冷たい秋雨から一転。青く澄んだ空の下、停車場にはっの看板が立っている。
 東京の新興住宅地だとか宣伝され、小金持ちが居を移してくるようになったじろ界隈だが、駅前の景色は大根畑にすすき野という、明治のままの長閑のどかな田舎だ。
 そんな駅前に、珍しく人だかりができている。
 中学校の剣術指南へ向かうところだった宗一郎そういちろうは、興を引かれ、輪の外で立ち止まった。
 娘の手に虫眼鏡をかざす八卦見は、意外にも若い。宗一郎より幾つか年上程度、恐らくまだ二十代だろう。目鼻立ちの華やかな、唇を紅く染めれば女形でも似合いそうな、色香漂う男である。
 そのハッとするような美貌の持ち主は、帽子もかぶらず袴も穿かず、緩んだ襟から刺青いれずみを覗かせ、手首には二重に巻いた黒い数珠。適当に結わえたくせ毛は、猫の尾のように伸び放題の有り様だ。
 宗一郎は思わず、自分のシャツのぼたんと袴の腰を確かめた。刀を振るう動きで崩れぬようにしっかと帯を締めるのは、自分の勝手な好みだ。しかし、あの八卦見は寝起きのまま表に出てきたようなだらしのなさ。
 そのはだけた胸を、若い娘がちらちら眺めては、「あたし刺青なんて初めて見たわ、怖いわねぇ」「でも艶っぽくてちょっと素敵じゃない?」などと頰を染めてさえずり合っている。昼日中の往来に置いてはおけぬ、目に毒な風体だ。
「うんうん。今、とってもいい線が出ているよ。お相手の人柄も誠実で、食うに困ることもない。今度の縁談は、受けて吉だね」
 八卦見は客の小指のふくらみを指でたどり、不必要なまでに顔を近づける。すると客も「そぉう?」と満更でもないように身をよじる。
 頷いて男が浮かべた笑みは、いかにも己の見目の良さを知り尽くしているようである。彼はこうかばんを探ると、娘の鼻先に鈴の根付をぶら下げた。
「こいつはね、修験の行を修めたこの俺、あさひもんサマが特別なを込めたもんだ。お守りに肌身離さず持つといい。帯につけるのもお洒落だねェ。鑑定料と込み込みで、五十銭でいいよ」
「あたし、根付なんていらないわよ」
「なら未来の旦那の分もおまけしよう。合わせてぽっきり六十銭。天丼一杯でにこにこ円満、幸せ一杯の結婚生活を送れるんなら、お安いもんじゃないの」
「そんなら、未来の旦那と天丼を食べたかったわよ」
 娘は笑って財布を出し、野次馬も面白がって冷やかす。
 宗一郎は眉をひそめて身を引いた。くだらぬものに時間を取られてしまった。毎回一分一秒たがうことなく道場へ現れる師範を、生徒達が心配してしまう。
 腰の木刀が周りに当たらぬように、足を後ろにずり下げれば、
「あらぁ、やなぎ先生!」
 ちょうど真横に居た豆腐屋の細君が声を上げた。宗一郎は会釈をしたは良いが、それきり押し黙ってしまう。
 彼女の息子に剣術を教えたのは、この地にしんかんを開いた父の方だ。宗一郎が道場を継いだ時に彼は門下から抜けたので、豆腐屋に「先生」と呼ばれるのは筋違い。毎度応えあぐねてしまう。
「まさか先生も占いをなさるんです?」
「いいえ。興味がありません」
 無感情に返す宗一郎に、細君は「ですわよね」と笑い、そそくさ身を引く。すると周りも宗一郎に気付いて、これは、どうも、やぁなどと目を泳がせながら遠ざかってゆく。
 ──結果、八卦見との間に道が開けた。
「お次はあんたさん? おやおや、活劇に出演しそうな凜々しき美剣士じゃ──、」
 宗一郎が断る前に、相手の方が半端に言葉を止めた。八卦見は顎を撫でさすり、まじまじと宗一郎の顔を観察する。
「……参ったね。嫌なもん、、、、を見ちまった」
 人が変わったように低く呻くと、斜めに視線を外す。宗一郎はむっと唇を結んだ。
「他人を眺め回してその態度とは、いささか無礼が過ぎないか」
 父はご近所に愛される人だったが、皆、二代目の宗一郎には潮が引くように距離を取る。己がそういう嫌なもん、、、、らしいと自覚がある宗一郎は、痛む腹を突かれた気持ちで、ますます瞳が冷えてしまう。すると野次馬はおののき、ますます遠のいてゆく。
「そんなら、ご無礼ついでに申し上げましょうかね」
 男は立ち上がり、唐突に宗一郎の肩を摑んで引き寄せた。

「あんた、死相が出ているよ」

 吹き込まれた声に、耳を押さえた。男は真顔で宗一郎を見つめている。
「何を云う」
 風邪一つ引かぬ、すこぶる健康な身だ。日の出前のみずを日課とし、酒も呑まなければ日々の鍛錬も欠かさない暮らしを、歳と同じ二十三年ばかり。どこに死の影が迫る理由があろうか。
 ──だが。両親は急な病で、姉と自分を遺して突然に逝ってしまった。その夜を思い出すと、胸に黒い波が立つ。
「左門と云ったか。貴様、口が過ぎると身をほろぼす事になるぞ。さしずめ行者だ八卦見だという身分も偽りの、何処ぞから流れ着いた破落戸ごろつきだろう。僕は至心館が主、柳田宗一郎だ。この辺りで胡散臭い押し売りまがいの商売など、黙ってはおれない」
「何処ぞから流れてきたのは本当だけど、見立ての方も本当なんだよねェ。俺の占いは、残念ながら一度として外れたことがない」
 八卦見左門はへらへらと笑い、たもとから何かを抜き出した。それを宙へ放り上げると、奇術じみた鮮やかな手つきで、まとめて摑み取る。
 開いた手の平には、小さなさいが三つ。
 すごろく用の物と、他は占い用か、八面体に漢字が刻まれた見慣れぬ物だ。遠巻きになっていた観衆も、興味津々で顔を寄せてくる。
「『天風姤』のよんこう。女難の卦だよ、センセイ。今日は行きずりの悪い女に引っ掛かけられねぇよう、気を付けなすった方がいい」
「女難だと……!?」
「ちょっと占い師さん。妙な事を云うもんじゃないよ。柳田先生に限っちゃ、そんなの有り得ないんだよ。ねぇ、皆」
 身を仰け反った宗一郎に代わり、豆腐屋の細君が左門の袖を引く。水を向けられたご近所達はおっかなびっくり宗一郎を盗み見て、ばらばらに首を頷けた。
「僕は剣に一生を捧げると決めた身だ。女難を案じるべきは貴様自身だろう。手相にかこつけて嫁入り前の娘をやたらと触り、さらには押し売りまがいの商売とは、何たるいかがわしさ、何たるけいちょうはく。そこの警察署に突き出してやろうか」
「へぇ。こりゃまた時代錯誤の、岩みたいに硬てェ頭の御仁だな。時は大正、命短し恋せよ乙女の時代だよ? まぁいいや、今夜中はそのお硬い頭のまんま過ごすんだね。やぶへびにならんうち、俺はここいらで退散しましょ」
 左門は荷物を手早くまとめると、行李鞄と看板を小脇に、呼び止めた人力車へ乗り込んだ。
「近くてすまんけれど、この邸の方面へ頼むよ。それでは皆さん、御達者で」
 彼は片瞬きをして、宗一郎に何かを投げて寄こす。
 あれよと云う間、男は旋風のように搔き消えた。
 その痕跡は、ぬるんだ土に空いた椅子脚の穴ばかり。残された一同は啞然と互いを見つめ合う。
 何を渡されたのか、宗一郎が手を開くと、鈴の根付が澄んだ音を立てた。金の鈴に紫の組紐がついた、簡単な物である。受け取る義理もない上に、そこいらに捨てて行く訳にもいかぬ。
 しばらく立ち尽くしていた宗一郎は、鈴を懐に突っ込むと、中学校への道をのしのしと歩き出した。
(いよいよ生徒を待たせてしまう)
 去り行く背中に感じるのは、ご近所達が向ける好奇の視線だ。背中に目が無いのを良い事に、「あの堅物先生が、本日中に女難に遭うらしいわよ」などと云々。
 宗一郎はこれこそ災難だ、と独りごちて足を速める。
 あの八卦見は、まさか近衛公爵家の客でもあるまいし、付近の新興住宅地あたりにツテがあるのだろうか。もしも次に会ったら、女難など当たらなかったと証明した上で、詐欺行為について説教してくれる。
(まったく、こんなにも胸に波が立つのはいつ以来か)
 宗一郎は常の冷静を取り戻すべく、深々と息をつく。
 果たして、体育の授業には間に合った。
 しかし定刻に十分ばかり遅れてきた宗一郎に、生徒達は正座の足を痺れさせ、そのまま続いた稽古前の黙想のせいで、床から立ち上がれずに、手を突いて悶絶。可哀想に、まともな稽古にはならなかった。

   ※

「先生、本日もご指導をありがとうございました」
「お疲れ様でした。明後日の授業に、また来ます」
 立礼を交わして身を返す。
 が、とたんに響いた重たい音に振り向くと、生徒達がくずおれている。慌てて立ち上がろうとしても、足が萎えてしまって、まるで生まれたばかりの子鹿の群れだ。
「……今日はゆっくり休んで下さい」
「有難うございます!」
 健気な子鹿達に暇を告げ、少々張り切りすぎてしまったかと反省しながら、黄昏たそがれ色に染まり変わった空の下を歩く。
 習慣のままに目白停車場方面へ大回りをし、山手電車の線路を眺めながら帰ろうとしたのだが。道の先、並木の向こうに駅舎の屋根が見えたところで、下駄を鳴らして足を止めた。
 昼、あの八卦見の居た現場が、すぐそこだ。
 木刀を無心に振ってようやく静まった胸に、また微かな波が立つ。
(女難とは、この柳田宗一郎を相手に、如何にも馬鹿らしい事を云う)
 女色にたんできすれば己を滅ぼす。宗一郎は剣の道のみを行き、修養に明け暮らす日々だ。行き会った婦人と女難を案じる仲になどという事態が、起ころうはずもない。盗人や暴漢に襲われると予言された方がずっとマシだ。
 息をつき、現場の手前で通りを折れた。
 あのていの輩は既におらずとも、噂を聞きつけたご近所達が、〝柳田先生〟が女難に遭うのを目撃しようと、物見遊山に集まっていそうだ。見世物にされるのは御免である。
 こちらの道は鬱蒼とした陰気な林を抜けるせいか、不人気で人通りがほとんどない。この先、神社と神社に挟まれた静かな一帯を下る坂は、子どもらに「オバケ坂」、あるいは「バッケ坂」などと呼ばれていて、柳田家も至心館も、まさにその坂の終点にあるのだ。
 宗一郎がからこの地に移って来たのは、じんじょう小学校に入る前だったか。
 姉はもう十を越えていたのに、「オバケの坂のお終いなんて、えらい所に住む事になったね」と身を震わせ、父に「ひさは怖がりだねぇ。オバケなんてものはこの世に無い。妙なものが見えたとしたら、それは怖いと思う心が生んだまやかし、、、、だよ」と笑われていた。
 実は単に、すぐそこの妙正寺川沿いに延々と続く崖を、この辺りの言葉で「バッケ」と呼ぶから、「バッケから上がる坂」が、いつか「オバケ坂」になったのだとは、後で知った。
 騒々しいのが苦手な宗一郎には、人の多い四ツ谷の町よりも、この大人しい村の方がずっと好ましかった。かつて幕府の禁猟地だった御禁止おとめやまに建てられた武家屋敷など、名家の大屋敷が点在する他は、田畑と川と民家ばかり。商店は少なくても、電車で神楽かぐらざかや新宿の繁華街へも簡単に出られる。
 程よく都会で程よく田舎。近頃は文化人が移住を始めていると聞くが、落ち着いた暮らしを望む者達が集まってくるのも、さもありなんだ。宗一郎も、ご近所との距離は縮まらないながらも、この村を愛している。
 しかし自宅と道場は、四ツ谷の家とは比べようもない程に小さくなった。武家の血筋の柳田家だが、先祖の土地を手放さねばならなくなったのは、その侍の血ゆえ。
 祖父が世話になったかつての同僚が、慣れない商売で家を傾けた。その世話を焼くうちに、気付けば柳田家の道場も家屋も借金の抵当に入り、とうとう屋敷に住めなくなった。父は家紋入りのよろいかぶとや正絹の着物を三越デパートの即売会で売り払い、その金で、目白は落合の地に至心館を建てたのである。
 ここでの暮らしも、当初はせきひんだった。
 有り金を叩いて道場を開いたものの、近所で子に剣術をやらせたい家は無い。とは云え、剣術以外に商売にできるものも無し。父は頼もしく陽気な人だったから、「なぁに、そのうちそのうち」と笑い、そして本当にそのうち門弟を増やしてくれた。
 初めは父と宗一郎、二人きりの稽古だったのが、庭を覗き込んできた子らに竹刀を持たせてその気にさせ、翌日には友を連れて来させ、一度剣を握ってみたかったという親まで巻き込んで──。
 友達ができないタチの宗一郎は、正直、父と二人きりがいつまでも続けば良いのにと思っていたが、道場に人が増えるほどに、家族は笑顔が多くなる。となれば宗一郎にも云うべきことはなかった。
 真冬の帰り道、凍えながら暗いバッケ坂を降りていくと、道場のしとみから漏れる光や、石油ランプの油臭い匂い、中から聞こえる門弟や家族の笑い声に、不思議と体が温もった。
 今は両親は逝き、姉は品川の酒屋に嫁いで、どんなに寒い夜でも、坂の上から望む我が家は闇に沈んだまま。自分でランプに火を入れねばならない。
「そう云えば、石油の買い置きはまだ残っていただろうか」
 宗一郎が柳田家に一人になってからは、隣の家のきくが家事に通ってくれているが、彼女は随分と腰が曲がって、骨の折れる仕事はしないで下さいと頼んである。
 明日は中学の授業が休みだ。午前の道場を終えたら、すぐ店に向かうか。
(菊代さんに、足りないものを聞いておかねば)
 しかし下手に宗一郎が尋ねると、彼女は覚束ない足を引きずって買いに行ってしまう。自分がもう少しでも話術が得意だったならば、長年世話になっている彼女に余計な苦労をかけずに済むのだろう。あの八卦見ほど調子が良くなる必要はないとしても……と考えたとたん、だらしのない笑顔が、頭の中で「女難」と囁く。宗一郎はむっとして首を振った。
「修行が足りん」
 些末な出来事にいつまでも囚われているのは、まさしく未熟の証拠ではないか。頭に漂う、無駄にきらきらしい面を一刀両断したところで、件のバッケ坂へ差し掛かった。
 すると、坂の入り口に、ぽつねんと女が立っている。
 薄闇に浮かび上がる、白い顔。
 近づけば近づく程に、吹けば霞となって散り消えてしまいそうな、頼りない風情だ。バッケ坂のオバケ──と、肝の小さい人間なら腰を抜かしたかもしれない。
 女は夫の帰りでも待っているのか、じっとこちらの方角を見つめている。
 ──女難の卦。
 再び八卦見の声が蘇ったが、他人様に濡れ衣の視線を向けるのも無礼であろう。
 会釈をして通り過ぎようとした、その時だ。
 あ、と、女が細切れの声を漏らした。宗一郎はとっさに一歩戻り、倒れ込んできた体を、危ういところで受け止めた。
 軽い。腕の中でうなれた首は、血管が薄青く透けて見える。
「どうされました」
「……気分が、すこし……」
 絞り出した声は、酷く掠れて弱々しい。
「それはいけません。……ええと、そうだ。茶でも飲みますか」
 慎重に女をしゃがませて、竹の水筒を手渡した。女は頭を下げると、両手で竹筒を持ち上げて喉を潤す。
「ご親切を、ありがとうございます」
 水筒を戻してきた女は、まだ桃割れのまげを結っていても良さそうな、あどけない瞳で宗一郎を見上げた。しかし頰はげっそりとこけて、その不均衡のせいで歳の頃が分からない。これは病みやつれであろうか。
「もう暗くなって来ました。早くお帰りなさい」
「はい……。すみません、休んでから戻ります」
「歩けそうにありませんか」
 女は弱々しく頷く。身を支えようと地べたに突いた手も、紙より白い。
「家はどちらです」
「すぐ、そこですわ。呉服問屋のいけの世話になっております、あけと申します」
「三池」
 宗一郎は女──あけ乃の視線の先に目を移す。坂を下る道は、まさしく柳田家への道だが、苗字に聞き覚えすらない。げんに思うが、病人にしつこくただす訳にもいくまい。
「ちょうど僕もそちらへ帰るところです。送りましょう」
「重ねて申し訳ありません」
 しゃがんで背中を向けてやると、あけ乃は遠慮がちに腕を回してきた。おぶい上げてみても、骨と肉が備わっているのかと疑いたくなるような軽さだ。
 背中の案内に従って、宗一郎は急ぎ足で坂を下っていく。
 柳田家を過ぎ、神社の通りに出る。妙正寺川沿いに連なるバッケの手前まで歩くと、慎ましやかな二階建ての格子戸に、確かに「三池」の表札を見つけた。呉服問屋の邸宅には地味な門構えからして、その三池のしょうたくらしい。
(近所でも、まだまだ知らぬ事はあるものだ)
 あけ乃を下ろそうとすると、首に巻き付いた冷たい腕が、力を入れてそれを押し留めた。
「まだ、立てそうにありませんの……。鍵は開いております」
「しかし、家の人が留守なのではありませんか」
 すり硝子の向こうは暗く人気が無い。宗一郎は俗事にはとんと疎いが、女一人の家に若い男が上がりこむなど、道に外れている事は確かだ。まさしく女難の入り口ではないか。
「中まで運んで下さいませ」
「しかし」
「後生ですから」
 おうのうした末、細い声で頼まれてしまってはと、仕方なしに引き戸を開けた。
 中は懐かしいような間取りだ。通り土間の脇に六畳。暗がりの奥には布団の敷かれた四畳と階段が覗いている。万年床とはと驚いたが、やはり何かの病で畳む間もなく伏しているのだろう。
(だのに、そんな身で旦那の帰りを待って、外の風に吹き晒されていたとは)
 なんといじらしい大和やまとなでしよと感心はするが、首に回された腕の冷たさに、宗一郎は両親の最期に握りしめた、二人の手の感触を思い出してしまう。
「あけ乃さん。もう白露も間近、秋の最中です。調子が優れないのに、日が落ちてから外になど──」
 説教しながら敷居を跨ぐと、唐突に、ぬるり、、、と泥に顔を突っ込んだような感触があった。
(なんだ、今のは)
 思わず後ろを振り向いたが、あけ乃は動じた風もない。
「おっしゃるとおりですわ。すみません、そちらの座敷へ……」
「はい」
 土間を行き、小さな体を座敷へ下ろした。自由になった手ですぐさま自分の頰を撫でてみるも、無論、泥などついていない。
 今はもう何も感じないが、気のせいか。しかしやけに空気の澱んだ家だと、宗一郎は部屋を見回す。
 あけ乃はにずり這って、おきを付け木に移す。あんどんに火が灯ると、横顔がますます白く浮き上がって見える。
 背後に照らし出された桐の階段簞笥は、見るからに上等の品。奥の布団も分厚い綿の良い物に見えるが、灯りだけは未だに行燈とは、何かこだわりがあるのだろうか。
 訝しさに思わず眺めてしまった宗一郎だが、我に返って頭を下げた。
「では、これにて」
「お茶をいれますわ。何の御礼もせずにお帰しするなんて」
「困ります。帰ります」
 即答すれば、あけ乃の正気を疑うような視線が、宗一郎と布団の間を行き来した。
「……でも、主人はずっと帰りませんの。今夜も、当たり前に」
「そうですか。それならますます、外で待ち惚けはおやめなさい。全くの徒労、無駄骨ではないですか」
 釘を刺し、これでもう安心とばかりに踵を返した。しかし引き戸に手をかけたところで、ふと動きを止める。木戸がぴったりと閉ざされている。
(僕はさっき、閉めたろうか)
 そんな覚えはないが、ならばあけ乃が後ろ手に閉めていたのか。
 ともかく戸を開け──、宗一郎は絶句した。
 また、部屋の中だ。
 それも今出て来た部屋と全く同じ、通り土間に六畳。そして奥に四畳。背後に残して来たはずのあけ乃が、宗一郎が向かう先の土間で、平然としててつびんに水を汲んでいる。
「な……っ!?」
 首を後ろに向ければ、なぜか、今開けた戸が閉まっている。敷居の手前に立っていた足も、いつの間にか敷居を踏み越えているではないか。
「お茶をいれますわ。何の御礼もせずにお帰しするなんて」
 あけ乃はさっきと同じことを云い、薄く微笑む。
 風もないのに行燈の灯芯がジジッと音を立て、白い面を妖しく揺らめかせた。


   *

続きは発売中の『大正もののけ闇祓い バッケ坂の怪異』で、ぜひお楽しみください !

著者プロフィール】
あさばみゆき
第12回角川ビーンズ小説大賞奨励賞、第2回角川つばさ文庫小説賞一般部門金賞を受賞。著書に「いみちぇん!」 シリーズ、「星にねがいを!」シリーズ、「サバイバー!!」シリーズ(すべて角川つばさ文庫)、「歴史ゴーストバスターズ」シリーズ(ポプラキミノベル)などがある。

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