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横浜中華街! 桃源郷飯店へようこそ キョンシー事件の謎は晩餐で解決!?

 プロローグ

 運命の出会いは、時に驚くようなあじわいがあるものだ。
 たとえるなら……唐突に渡されたホカホカの肉まんのように。

 *

 雨の夕暮れ。
 倉庫整理のアルバイトを終えた俺は、トボトボと中華街を歩いていた。
 その日はなかなか不幸な一日だった。目一杯働いたあとで急にマネージャーに理不尽な説教をされ、泣いた仲間をかばったらお前はクビだと言い渡された。おまけに帰り道では暴走車に泥水をぶっかけられ、コンビニに寄ろうとしたら財布も見当たらなかった。
 こんなに不幸が重なる日があるだろうか。お腹も空いて、悲しくて、それでもじっと耐えて歩いているところへ、トドメとばかりに低い声が掛かった。 
「あんた、腹減ってんのか?」
 警戒しつつ顔を上げると、目の前には頰に大きな傷のあるお爺さんが立っている。くわえ煙草にビニールサンダル、着ている白い服からすると近くの中華料理店のコックだろうか。
「そんなショボくれた顔で、おまけに腹ペコだと辛いだろ。うちでメシでも食ってくか?」
 予想外の申し出に俺は目を丸くした。どう見ても怪しいし、何しろ今日は最悪の日なのだ。
「お申し出はありがたいんですけど、あの……」
 口ごもる俺に、お爺さんは気を悪くするどころかニカッと笑った。
「まあ急に声掛けられたらそうなるよな。じゃあせめて、これでも食って元気つけな。ほらよ!」
 差し出されたのは大きな紙袋。
 恐るおそる中を覗くと、驚くほどデッカい肉まんが入っていた。
 初対面の人にもらっていいのだろうか。だが顔を上げてみると、お爺さんの姿はもうなかった。周囲を見回してもそれらしき人影はないし、細い路地の奥は雨に煙ってよく見えない。周囲の中華料理店の扉も閉ざされ『準備中』の札ばかり。
 何が起きたのか理解できないまま、俺は迷う足でひとまず駅へと向かった。
 構内のベンチに座り、息をついてからしみじみと肉まんを眺めた。食べようか、どうしようか。迷ったのは一瞬で、結局は空腹に負けた。
 ぱかっと二つに割ると、その中身に驚いた。
 ウズラの卵、蝦えび、豚の角煮にタケノコにきくらげ……まるで宝船みたいにさまざまな具が溢れてくる。凄い、こんな肉まんは見たことがない。
 ジューシーな醬油系の匂いに、堪らずがぶりと嚙めば複雑な歯ごたえとしょっぱさが口の中に広がる。いろいろな食感と味が一体となり、滴るような汁気が何とも言えない。あまりに美味しくて、気付いたら夢中で食べきっていた。
 お腹だけでなく心まで満たされて、救われたような気持ちになった。
 後日、お礼を言おうと何度か中華街へ足を運んだけれど、不思議なことにあの路地の入り口も、お爺さんも見つからなかった。


 【第一餐】運命の出会い! 妖しい中華料理店でバイト始めました !?

「……サトシくんって、何だか、お母さんみたいだよね」
「えっ!?」
 俺の声と同時に周囲の鳩がバサバサッと飛び立っていく。
 横浜港よこはまこう山下やました公園のど真ん中。
 大学生の春休み、憧れの大おお崎さきさんと初めてのデート? の最中。
 素敵なベンチに二人で座ってロマンティックな夕暮れの港を眺めていたはずなのに、突然お母さんとは。
「な、何で?」
「いや、待ち合わせの時からずっとそうだったじゃん。『冷たいもの飲んだらお腹冷えるよ』とか『お腹空いてるならお昼ちゃんと食べなきゃ』とか。優しいんだけど、さすがにお節介すぎ」
 大きなため息をついて彼女は立ち上がる。
「ごめん、急だけど、用事があるからここで失礼するね」
「で、でも一緒に夕飯食べようって話だったよね? 俺としては中華街で火鍋料理とかどうかなって思ってて」
「火鍋、ねえ」
 ──今日のニットワンピ、真っ白なんですけど。
 彼女は自分の服装をちらりと見てから、冷ややかな微笑を向けた。
「今日はちょっとやめておこうかな……また大学で仲よくしてね!」
 じゃあ、と手を振り、彼女はあっけなく人混みの向こうへ消えていった。
 俺は呆然と背中を見送ることしかできない。
 もしかして、またフラれた?
 中途半端に振っていた手を下ろし、深いため息をつく。初デートでフラれるのは大学に入ってから通算五度目。さすがに状況を呑み込むのも早くなってきたけど。
「む、難しい……」
 ガッカリする気持ちはあるが、何となくわかっていたことでもあった。
 だって彼女の気持ちは『読めていた』んだから。
 ──うーん、喉渇いたからアイスティでも買おっかな。ちょっと寒いけど。
 ──お昼抜いてきたからお腹減ったけど、サトシくんとディナーまで行くの、どうしよう。
 そんな気持ちが全部『読めた』からこそ気を遣っていろいろ言ってみたけれど、服に関してまでは配慮が足らず。なかなか上手くいかないもんだな。
「うわ、急に寒くなってきた」
 心の冷えは身体の冷え。俺は身震いして上着の前をかき合わせる。時刻は夕暮れ、二月の風はまだ冷たい。お腹もペコペコだし、このまま一人暮らしの下宿に帰るのはあまりにも寂しすぎた。
 せめて中華街で美味しいものでも食べて帰るか。
 俺は気を取り直し、冷えたベンチから立ち上がった。

 *

 俺、安藤あんどうサトシはごく普通の大学三年生だ。
 一八〇センチというささやかな長身とそばかす以外、さして外見的な特徴はない。
 横浜の大学では工学部機械工学専攻。趣味は食べること、料理すること。食いしん坊でいつも腹を空かせている。美味しいものには目がなくて、片道三時間かけて名物ラーメンを食べに行ったこともある。
 が、趣味の料理に関しては……いまはお休み中かな。
 性格は『人がい』とか『お節介』らしいけれど、せいぜい駅前で募金をしたり、泣いている小学生を交番に連れて行ったり、地域猫に餌をあげたりと小市民的なレベルだと思う。でもちょっとお節介すぎるクセはあるかも。弟たちにも『しつこい』ってよく言われていたし。
 そんなごく普通の俺だけど、たった一つだけ、ささやかな異能というか特殊能力を持っている。
 それは『お腹が減っている人の、心の声が聞こえる』能力。
 有効範囲五メートルくらいで、誰が腹ペコなのか、ついでに何を考えているのか何となくわかってしまう。
 とはいえ、映画に出てくるような超能力ではなく、ちょっとポンコツな能力だけど。
「相変わらず人が多いなあ」
 山下公園を出て横断歩道を渡り、善隣門ぜんりんもんをくぐると周囲は一気に賑やかになる。
 横浜中華街。通りに沿って料理店や土産物店が軒を連ね、ひっきりなしに人が行き交う一大観光地だ。
 赤と金に彩られた町の中はいつでも華やかで騒々しい。
 スマートフォンで写真を撮りまくる旅行客。中年女性のグループは騒ぎながら中華料理店に吸い込まれていく。向こうでは二人組の女子高生が肉まんを食べながら動画撮影に勤しんでいる。
 午後五時という時間のせいもあり、中華街大通りは人でごった返していた。
 その喧騒を、美味しそうな匂いが包み込んでいる。店先につるされた子豚とアヒルの丸焼き。揚げたての春巻。客引きの声と共に漂ってくる香ばしい匂いは甘栗か。
 こんな匂いが漂っているんだから、そりゃあみんなもお腹を空かせているわけで。
 ──あの肉まん美味しそう! 向こうのフカヒレまんも! どっちにしようかな。
 ──予約したのはあの店だが向こうの店もうまそうだな。あれは北京ペキンダックかな。
 ──イチゴ飴も杏仁アンニンソフトも食べたいなあ。でも食べ放題予約してるし……美味しそうなものばっかりで迷っちゃう!
 周囲からさざ波のように囁き声が押し寄せる。腹ペコの人が一斉に独り言を喋っているみたいな状態だ。聞いているだけでこちらの空腹も加速してしまう。
 これ、普通の人には聞こえてないんだよな。
 俺の能力がポンコツだと思うのは『一方的に聞こえるだけ』という点だ。
 いわば家電量販店にずらりと並ぶテレビの音声みたいなもの。
 音量自体はBGMのレベルなんだけれど、お腹が空いている人が近くにいればいつでもノイズみたいに聞こえてくる。複数の声が重なったり、うっかり本音を読んでしまったり。残念ながらこちらから耳を塞ぐことはできない。
 この能力のせいで小さいころから地味に嫌な思いをしてきた。
 小学校の入学式で「校長先生おなかすいてる!」って叫んで大目玉を食らったり、給食の時、隣席の子の嫌いなものを食べてあげようとして「人の給食を取っちゃダメでしょ!」って先生に怒られたり。
 中学校ではメシの前になるとみんなの本音がダダ漏れで、聞きたくない真実まで知ってしまって毎日げっそりしていたっけ。
 成長するにつれて分別も忍耐力もついたし、他人の空腹や感情に深入りは無用だと自分に言い聞かせることもできるようになった。
 それでも、誰かが空腹のせいで辛いのを知ると、気になってしまう。
 せめて身近な人だけでも何とかしてあげたい。そう思って俺なりに気遣った結果が今日の大崎さんとの結末だもんな。
 映画の中の超能力ヒーロー、とまではいかなくても、もうちょっと上手く困った人をサポートできればいいんだけど。
 そう、あの時会ったお爺さんみたいに。
 ちょうど一年ほど前。倉庫バイトからの帰り道、腹ペコで中華街を通った、あの日。
 空腹と疲労でフラフラしていた俺は、まさにこのあたりで謎のお爺さんに声を掛けられて……。
 そこまで思い出したところで俺は動きを止めた。
 通り過ぎた細い路地で、ちらりと何かが動いた気がする。
 あれ、あの時の路地に似てないか。お爺さんと出会った時の道。まさかね。
 だが次の瞬間、強烈な空腹の声が俺の心を串刺しにした。
 ──ハラヘッタ、ハラヘッタ、ハラヘッタ。ナニカ、食ワセロ、オマエデモ!
 いったい誰の叫びだろう。耳元で急に怒鳴られた時みたいに頭がクラクラする。これはもはや空腹というより飢えだ。あまりにも暗く、鋭い。
 それに『お前でも』ってどういうこと? まさか、誰かを食うのか!?
 空腹の声は確かに路地の方から聞こえてくる。
「こんなに腹ペコの人を……放ってはおけない、よな」
 なけなしの勇気とお節介に背を押され、俺は小走りにそちらへと駆け出した。
 薄暗い路地は人気ひとけがなく、両脇は古い建物に囲まれている。宵闇に沈みそうな景色の中、枯れた鉢植えの草が換気扇の空気に揺れていた。
 ああ、この感じ、覚えている。この路地の入り口で、俺はお爺さんに肉まんをもらったのだ。
 だが、いまはそこに、違う影が二つ。
 薄暗い道の先で、一人が腕を振り上げ、もう一人に襲い掛かっている!?
「ちょ、ちょっと、何してるんですか!」
 二人が同時にこちらを見た。
 襲い掛かっている方は髪の毛がぼさぼさ、パジャマみたいな服を着たご老人だ。
 お婆さんだと思うけれど、髪も短いし肌も緑色でよくわからない。
 緑色? 二度見してもやっぱり緑だ。
 おまけに目も光っている。もしかして薬物依存症とかだろうか。
 そしてもう一人、襲われている方は、びっくりするほど綺麗な女性だった。
 あまりに美しいので、俺はまたしても二度見してしまった。
 切れ長の目、赤い唇。左目の下にあるほくろが肌の白さを際立たせている。
 年齢は俺と同じか、少し上くらい。中華風の不思議な白い着物を着ていた。
 黒く長い髪は一部に白いメッシュが入っており、服も映画の衣装というかコスプレっぽく見える。
 向こうもびっくりしたようにこっちを見つめているけれど、もしかして映画の撮影だろうか? 邪魔しちゃったかな?
 でも、どこにもカメラはない。
「あの、どうしたんですか? 何かわからないけど、ひとまず話を」
 俺はぎこちない動作で二人の方へ歩いていった。緑色のお婆さんが顔を上げてギロリとにらむ。
 怯んだその瞬間、お婆さんが俺の方へ飛んできた。
 文字通り、カッ飛んできたのだ。
 呆気にとられた一瞬で俺はお婆さんに肩をつかまれ、腕に嚙みつかれていた。
「いって!!」
 ウソだろ、人間にこんなに強く嚙まれることってある!?
 いやちょっと待て。緑色の顔、歯も尖っているし、相手はもしかして人間じゃないのかも……っていうか痛い、痛いってば!
「お前っ、余計なことを!」
 そう怒鳴ったのは美女だった。あ、声が低い。男性だったのか。
 彼は鋭く舌打ちすると、身を翻して高くジャンプした。俺の頭上を軽々飛び越え、華麗に空中で回転してから中国雑技団みたいに着地する。
 同時に腰から細い棒のような物を引き抜き、お婆さんの額をピシリと叩いた。お婆さんが身体をのけぞらせ、その拍子に俺の腕が自由になる。
 ひい、助かった。間髪を容れず、美人、いや美青年はお婆さんの口の中へ白く丸い物を突っ込んだ。
桃仙符とうせんふ呪霊じゅれい食術しょくじゅつ──桃饅ももまん縛縄陣ばくじょうじん!」
 呪文? ももまん!?
 一瞬、白い物の表面が光ったかと思うと、雷に打たれたようにお婆さんがビクンと震えた。上を向き、手を前に突き出して棒立ちになったまま固まる。
 手を前に突き出し、どこかズレたような姿勢で浮かぶ姿──これは、キョンシー!
 そうか、中華街でキョンシー映画の撮影をしているのに巻き込まれたんだ。
 美青年はため息をつき、それから俺のことをにらんだ。
「この傻⼦シャーズ! いや、大莫迦おおばか者ものめ! 腕を見せてみろ!」
「えっと、大バカって俺のこと?」
「他に誰がいる!」
 棒を手早くベルトに納め、俺の手をぐいと引っ張る。途端に鋭い痛みが走った。
「いててて、ガッチリ嚙まれたから、傷が」
 その時ようやく、嚙まれた所から血が出ていることに気付いた。
 お婆さん、凄い力だったんだな。そういや人間の口腔細菌ってヤバいんじゃなかったっけ? おまけに、何で傷口から出てくる俺の血まで緑色なんだ!?
 だがもっと驚いたのは、次の瞬間、美青年が傷口に唇を押し当てたことだった。
「えっ、何を!?」
 動揺する俺に構いもせず、彼は傷口を強く吸うと、路上に向けて勢いよく緑色の血を吐き出した。一度、二度。
 呆然と眺めながら俺は確信する。
「こ、これ映画の撮影ですかね? 俺、無関係なんですけど、巻き込まれてます?」
 はあ、と口を拭ってから美青年は俺をにらみ付ける。
「何をわからないことを言っている。巻き込まれに来たのはお前の方だろうが!」
「だって、あなたを助けないと、と思って」
 彼はわずかに目を見開いたが、すぐに元の表情に戻った。
「……まずは傷の処置からだ」
 懐からハンカチを取り出し、美青年はこちらの傷口を固く縛ってくれた。その所作一つひとつが上品というか、美しいというか。
「よし、いいだろう。あとは店で」
 ふう、と息を吐いて彼は俺の方を見た。その瞳は純粋な黒ではない。深い菫色だ。見つめられるとドキッとするような妖艶さと清らかさがある。
「おい鶏婆小鬼おせっかいこぞう、二つ言っておく。まず一つ、これは映画などではない。現実だ。そしてもう一つ」
 彼はビシリと俺に指を突きつけた。
「いまから私について来い。来なければ、お前は殭屍キョンシーになって死ぬ」
「俺が、キョンシーになって……死ぬ!?」
 素っ頓狂な声を上げている間に、美青年はパチンと指を弾き、細い路地の奥へと歩き出した。
 そのあとをキョンシーお婆さんがピョンピョンと飛び跳ねながらついていく。
 手を上げた姿、棒立ちの身体、浮いている姿勢。
 どれをとっても古い映画やアニメ、漫画で見たあのキョンシーだ。
 だが彼女の心からは、さきほどと同じ声が聞こえ続けている。
 ──オナカ、スイタ、ダレカ、タベモノ。
 弱々しくなっているが、こちらの胸が痛くなるほど切実な飢えだ。なるほど、これなら俺の腕をかじったとしても仕方がないか。それにしても死んでまでお腹を空かせているなんてかわいそうだな。
 そしてもう一つ。重なるようにして、悲しいほどに空腹な音が流れてくる。声にならない呻き声のような、泣き声のような。
 ──空腹など、私には……。
 ああ、この美青年も空腹なのか。
「どうした、死にたいのか!?」
「あ、行く、行くからっ」
 我に返った俺は、返事もそこそこに彼の後ろをついていった。

 *

 細い道を進むと、すぐに行き止まりになった。
 そこには異様な建物がそびえている。
「中華風のビル?」
 六階建てで、四隅が反り上がった屋根に赤い提灯飾り。大通りにある中華料理店と同じ系統のデザインだが、妖しげな気迫を感じるのは気のせい、それとも夜が迫っているせいか。
 入り口の上には大きな看板が掲げてある。
万福招来まんぷくしょうらい 中華料理 桃源郷とうげんきょう飯店はんてん
 金色の文字はライトアップされ、夕暮れの闇の中に浮かび上がって見えた。
 あの時も、お爺さんは確かにこの路地から出てきた。ということは。
「お前、何をキョロキョロしている? もしや来たことがあるのか?」
 美青年ににらまれ、俺は慌てて頷いた。
「いや、実は……この店から出てきたお爺さんに助けられたことがあるんです。朗らかなお爺さんで、頰に大きな傷が」
 急に相手の表情が変わった。
「それはいつのことだ!? 最近か?」
「いや、一年ほど前かな。雨の日に」
「……そうか」
 美青年はすぐに元の表情に戻ると、小さくひとつ、咳払いをした。
「それはうちの店長だ。いまは不在だが、そういうことをする人だった。……これも何かの縁だろう、ついてこい」
 彼はそのまま、キョンシーお婆さんを引き連れて店の入り口をくぐっていく。
 そうか、あのお爺さんはここの店長さんだったのか。あの時は雨が降っていたし、ずぶ濡れだったから、路地の奥までよく見ていなかった。
 でも店長が不在って? この美青年は店員なのだろうか?
「おい、遅れるなと言っているだろう!」
「は、はいっ」
 俺は慌ててお婆さんに続いた。
 店内に入って目を丸くする。
「うわ、高級レストランだ!」
 黒を基調とした室内は赤と金の装飾が鮮やかだ。天井から下げられた中華ランタンが美しいシャンデリアのよう。
 赤い絨毯じゅうたんの上にはいくつものテーブルが置かれていて、中央にはひときわ大きな円卓が衝立に囲まれて鎮座していた。
 だが、俺たちの他に客の姿はない。
 ディナー営業が始まっていてもおかしくない時間帯なのに、がらんとした室内には人影がまったくないのだ。
 俺はゴクリと息を呑んだ。まさか、『服をお脱ぎください』『バターをお塗りください』とか言われていくタイプの料理店では……。
「何をしている。こっちだ」
 気付けば美青年はフロアの中央に立っていた。
 傍らには大きな円卓があり、キョンシーお婆さんがすでにちょこんと座っている。さきほどとは違ってやけに大人しい。
「あれ、大人しくなった?」
「さきほど食べさせた小桃こもも饅頭まんじゅうに掛けた符食術が効いているのだ。静かになっている間に本格的に気のねじれを浄化する。この殭屍的老奶奶おばあさんを元に戻すのが本日の当店の仕事であり、嚙まれたお前もついでに浄化してやる」
「ありがとう……でも……フショク……? きのねじれ……? よくわからないんだけど」
 控えめな俺の疑問に彼はため息をついた。
無知者無畏むちなものほどおそれない。とにかく、この食事には殭屍を浄化する特別な術が施してあり、お前たちが食べれば元に戻ることができるということだ。死にたくなかったら座れ」
 そう言われたら座るしかない。俺はおずおずと、これまた豪華な椅子の一つに腰を下ろした。
 さて、と美青年が改まった様子で俺たちを見る。
「万福招来、我が桃源郷飯店へようこそ。ここは軽食から正式な晩餐ばんさんコースまで、多彩な美味しさを提供する中華料理店であり、私は副支配人を務めている。以後お見知りおきを」
 深々と頭を下げる仕草は丁寧かつちょっとだけ尊大だ。
「当店は広東カントン料理をベースに日式中華の味付けを意識している。本日の晩餐は桃源郷飯店特製、桃仙符呪霊軽食宴。言葉通り軽めのコース料理であり、前菜は決まっているが、主菜メインはこちらから選ぶことができる」
 言葉が終わると同時にスッと二人の少女が現れた。桃色の美しいチャイナ服を着て、副支配人と同じような美しさ……って同じ顔!?
 驚いている間に少女たちは俺たちの前に黒い冊子を置いた。
 恐るおそる見たがいたって普通のメニューだ。表紙に金押しで『菜単 menu』とあり、桃と店名を組み合わせたロゴらしきマークも描かれている。
 開くと美味しそうな料理写真がずらり。

 本日主菜
 紅燒乾鮑魚 干しアワビの姿煮
 蠣油牛肉  牛肉とキノコのオイスターソース炒め
 乾燒大蝦球 大蝦のチリソース
 北京片皮鴨 北京ペキンダック

 どれも高級中華だ。こんな状況じゃなければテンションも爆上がりなのに。
 どうしよう、やっぱりボッタクリ店なのだろうか。それとも最終的に俺が食べられてしまうのか。
 だが迷う前に俺のお腹が、ぐうう、と正直な音を出した。副支配人の口元が少しだけ緩む。
「空腹のようだな」
「今日は昼飯抜きだったからさ」
 もうここまで来たんだし、せっかくだから豪華中華料理を食べよう。俺は腹をくくるとメニューの一つを指さした。
「えっとあの、蝦チリで」
「了承した。では、老奶奶ラオナイナイは……まだ話せないか」
 お婆さんは緑色の肌のまま、虚ろな目で副支配人を見上げた。何か言いたいようだが、口が上手く動かせないようだ。だがその心はしっかり伝わってくる。
 ──北京ダック、北京ダックを……。
「北京ダックって言ってますね」
 副支配人は驚いた顔でこちらを見た。
「何故わかる?」
「うーん、こればかりは納得してもらうしかないんだけど」
 ぽりぽりと頰を搔いてから何となく笑う。
「俺、生まれつき腹ペコの人の声がわかるんです。腹ペコの人の気持ちが聞こえてくるっていうか」
「気持ち? 心が読める、ということか?」
「ほんとに腹ペコの人限定ですけどね。ちょっとでもお腹が満たされている人の心は読めないんですが……お婆さんはいま最高にお腹を空かせていて、北京ダックが食べたいって」
 副支配人は疑わしげに考え込んだ。
 まあそりゃそうだよな、俺だって突然そんなことを言われたら疑う。
 あれ、そういえば彼の心の声が聞こえなくなっている。
「副支配人さん、もしかして心を隠しませんでしたか?」
 彼はあからさまに眉をひそめた。
「そういったこともわかるのか?」
「ふわっと、ですけど。あ、でもプライバシー侵害ですよね、スミマセン、実は能力の制御ができなくて」
 恐縮する俺の前で彼は眉間のシワを深くする。
 ヤバい、怒られるかも。
 だがそこで、キョンシーお婆さんがフルフルと震える指でメニュー表を指さした。北京ダックの写真だ。
「……了解した。少しだけお待ちいただけるとありがたい」
 丁寧に答えた彼の声に俺は首を傾げる。
「何だかお婆さんにだけ丁寧に対応してませんか? 俺には厳しめなのに?」
「こちらは正式なお客様、お前は招かれざる客だ」
 ツン、とした表情で冷たい視線を注いでくる。顔が綺麗なだけに視線もグサッと突き刺さる。
「あの、俺たちはこれから、中華料理を食べるんですよね?」
「そうだ、さっきも言っただろう」
「それは、フショクジュツとやらが掛かった食事なんですか? あの光ったやつ。あれはいったい何ですか?」
「それをお前に言う必要があるか?」
 彼はじろりとこちらを見たが、さすがに引き下がれない。
「俺もこれから食べるのなら、ちょっと知っておきたいな、と思いまして。病院に掛かった時だって自分が飲む薬の詳細は知りたいでしょ?」
「……一理あるな。仕方ない」
 軽く息をつき、副支配人は腰からさきほどの棒を取り出した。よく見たらスプーンだ。金色の凄く細長い杓で、持ち手には細やかな飾りが彫られている。
「桃仙符呪霊食術──痛散白花水つうさんびやつかすい
 彼はテーブルに置かれていたコップの水面に杓の先で何かを描いた。
 軌跡が、ぽうっと白い光を放って浮かび上がる。まるで漢字が花開いたかのような美しい紋様だった。
「符食術、正確には桃仙符呪霊食術という。特殊な文字と図形を組み合わせた呪紋を食事に描き、それを食べさせることでさまざまな効能を発揮させる」
 やがて光っていた紋様は水に溶け、今度は水全体がうっすらと光を帯びる。
「飲んでみろ」
 俺はコップを持ち上げ、恐るおそる口を付ける。と……ただの水のはずなのにすうっと、腕の傷から痛みが引いた。
「痛みがなくなった!?」
「さきほど描いた符呪は痛み止めだ。肉体に作用するのは短い間だが、経絡や霊力に対しての効果は抜群」
 ふっと息を吐いて彼はこちらを見た。
「お前とそちらの老婆には現在、殭屍となる呪いが掛けられている。それを解くため、これから浄化効果を付与した食事を食べてもらうというわけだ」
 キョンシーとなる呪い。浄化。どこから突っ込んだらいいのかわからない。
 考えている間に他の店員が前菜を運んできた。
「ほらよ、三種の前菜の盛り合わせだ。クラゲ、棒棒鶏バンバンジー、焼き豚だぜ」
 白い皿に載った三品はどれも美味しそう。他の中華料理店でも見たことがあるメニューだ。皿がテーブルに載った時、またほんのりと光って模様が浮き上がった。これも術なのだろうか。
 そういやさっき水を飲み干しちゃったから、一杯もらおう。そう思ってヒョイと店員さんを見た俺は、思わず叫び声をあげそうになった。
「あ、あ、頭がないけど!?」
 実際に、首から上が綺麗にないのだ。
 胴体はなだらかな肩から始まって、ちょうど乳首のあたりに目が、その下に鼻が、へそのあたりには口があった。そう、福笑いの顔に似ている。
 こちらの派手なリアクションに胴体男は目を瞬かせた。
「あれ、お前キョンシーじゃねえの? 副支配人、こいつ人間ですかい? このフロアに入れていいんですか?」
「殭屍に嚙まれているので仕方ない措置だ。あとで記憶を消せば問題はないだろう」
 へえ、と言ってから胴体男が笑いかけた。
「桃源郷飯店へようこそ! ま、ゆっくりして行きなよ!」
 そのまま悠々と去っていく。俺は呆然とその背中を眺めた。
「どうした、食べないのか? 腹が減っているんだろう?」
 副支配人の声に促され、俺は慌てて箸を取り上げた。いろいろと疑問はありすぎるけれど、まずは料理が先だ。
 最初にクラゲを一口。
「うまいっ!」
 歯ざわりはコリコリ、程よい酸味としょっぱさが堪らない。隣の棒々鶏はしっとり胡麻味、焼き豚は皮のところがサクサクだった。どれも少量しか載っていないからすぐに食べ終えてしまう。
 やっぱり自分で作る料理とは全然違うよな。俺もレシピを見ながらクラゲサラダを作ったことがあるけれど、一味足りない感じがして満足できなかった。
 だがこの店の味は本物だ。豊かであじわい深い、プロの腕を感じる。
「こちらはタケノコとフカヒレ、玉子のスープになりマス。お熱いのでお気を付けてご賞味くださいマセ」
 次はスープか。さきほどの美少女がやってきてお椀をそっと置く。
 それにしても綺麗な子だな。ぎこちない喋り方に、透明感のある肌。顔は副支配人とそっくりだが、こちらは人形みたいに無表情だ。見ているだけでドキドキする。
 おまけに同じ顔の女の子が向こうにも、さらに厨房の方にも一人ずついるのだ。
 さっきの胴体男といい、副支配人や少女たちといい。本当に、この店はいったい何なんだろう。俺は何に巻き込まれているんだろう。
 まあでも……ここまで来たら腹を決めるしかない。
 俺はスープを取り上げ、ふうふうと冷ましてからレンゲに口を付けた。温かさが口を流れ、喉を伝って腹に染みこんでいく。タケノコとフカヒレの歯ごたえ、間に入ってくるのは玉子と金華ハムだろうか。ふんわりしたあじわいに、包まれるような安堵感さえ覚える。
「はいよ、お次は点心だ!」
 再び現れた胴体男は両手に蒸籠せいろを掲げていた。テーブルに置き、パカッと蓋を開けた瞬間、白い湯気が湧き上がる。中にはしっとりした金魚の形の餃子ギョーザが二つ、小籠包ショウロンポウが一つ。
翡翠ひすい餃子と蝦蒸餃子、それに小籠包だ。この刑天けいてん様の心を込めた手作り品だぜ!」
「ありがとう! お腹ペコペコだったから嬉しいよ……うわ、餃子の形も凝ってるし、凄く丁寧だね。このヒダの部分とかどうやってるの!?」
 おっ、と彼は腹の顔に笑みを浮かべた。


  *

続きは発売中の『横浜中華街! 桃源郷飯店へようこそ キョンシー事件の謎は晩餐で解決⁉』で、ぜひお楽しみください!

夏目桐緒

2014年、別ジャンルにて作家デビュー。2022年、本作にてライト文芸ジャンルの活動を開始。好きな中華料理はエビチリ。

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