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つぎはぐ、さんかく

 甘くてからい。煮詰まる音はくつくつとかわいい。四国の醸造元から取り寄せた醬油にてんさい糖で甘みをつけて、弱火で焦がさないようゆっくりと煮詰めた。里芋にこのタレを絡めて、みんながすきな味にする。
 濃くておもい。味噌にぎゅっと濃く煮出した出汁だしを加えてごぼうと和え、最後に香り付けの七味唐辛子を振りかける。
 まろやかな、そしてどきどきするような酸味。卵とお酢をしっかり混ぜ、少しずつ油を加えて味を見ながら作るマヨネーズが、うちのポテトサラダには欠かせない。
 大きなバットにポテトサラダを山盛りにして、ショーケースの中で冷やしておく。照りが眩しいほど焼き上げたハニーマスタード味のチキンも、同じようにもりもり重ねて隣に並べた。盛り付け方はデパートの食品売り場を参考にした。お客さんから見て一番美しくおいしそうに見える盛り方を、まるでショーケースの中だけ時間の止まった別の国みたいに見えるように、慎重に整える。
 あとは根菜のサラダ、かぼちゃの煮つけ、さわらの味噌漬け、つくねのあんかけ。あんは酸っぱい味にしようか、甘辛くてごはんがほしくなるような味にしようか。
 業務用冷蔵庫の扉を引っ張ると、新鮮な卵が四パック、一番下の段にみっしりと詰まっていた。晴太はるたが朝一番に買ってきてくれる卵だ。にわとりを蹴散らして歩く養鶏場のおばあさんから、晴太は誰よりも早く卵を買い付ける。
 卵はデリの惣菜ではなく、ランチと自分たちの朝ごはんに使う。数を確かめてから冷蔵庫の扉を閉め、冷たいコンクリートの土間の上をぺたぺたとサンダルを鳴らしながら歩いた。
 土間の奥にある戸を開いて、思いっきり息を吸い込むと家の中の冷たい空気が心地よく身体に沁みていく。
あお、時間!」
 響くことなく声は廊下に吸い込まれた。しばらくして、おおーうと獣のようなけだるい呻き声が聞こえてきたものの、蒼は返事だけして一度では起きてこない。結局私が、サンダルを脱いで家に上がり、わざと音を立てて部屋の戸を開けて布団をめくり上げるまで、蒼は起きない。
 土間の一番太い柱に掛けた時計を確かめる。六時半だった。そろそろ晴太が店に出てくる。晴太は卵の買い付けのあと、店の前を掃除し、食材の在庫確認をしてから私の野菜の下処理を少しだけ手伝う。
 四十五分になったらもう一度蒼を起こすのを忘れないようにしなければと、自分に言い聞かせるように時計を睨んでから、調理器具を洗ってシンクを一度ぴかりと磨き上げた。
 がちゃん、と重たい金属音を立てて入り口のシャッターの鍵が回った。四つ足動物の足音みたいな低くひっかかる音とともにシャッターが昇っていき、ガラス扉を開けて晴太が入ってきた。トレーナーの袖を肘までめくり上げ、紺色のエプロンの端が白く汚れている。
「おはよ」
 白くて丸い頰は女の子のようだが、身長は私と蒼よりも十センチ以上高い。私ににっこり笑いかけると、足早にカウンターの内側へ回ってきた。
「蒼は?」
「まだ。これから二回目起こしに行くところ」
「おれ、起こしてくるよ」
「助かる」
 晴太は出し惜しみしない笑顔を見せて、手を洗ってから家に上がっていった。拭き上げたシンクに晴太の水しぶきが飛んで、ガラス扉から滲んだ朝日が、濡れたシンクをちらちらと光らせた。

 店は七時に開ける。晴太がオープンの看板を外に出した頃、家の二階で蒼ががたこんと何かを落としたり倒したりしながら学校へ行く準備をする音が聞こえてくる。
 看板を出し終えた晴太が「今日はあったかいよ、もうすっかり春だ」とほのぼのと言った。暖かいのは起きたときから知っていたし、たとえ真冬の雪降る日であっても、晴太の周りは年中ねんじゅう春みたいだった。日なたと勘違いした猫が晴太の足元に丸まるように、人も自然と寄ってくる。
 ガラス扉が開き、日村ひむらさんがのっそりと店に入ってきた。
「おはようございます」
 私の挨拶に唇をひき結んだまま頷いた日村さんは、カウンターの隅にある椅子に腰を下ろした。
「コーヒー、まだ挽いていないんです。晴太の手が空くまで待ってもらえますか」
 日村さんはわずかに頷き、眠り込むように腕を組んで深くうつむいた。
 もうすぐ通勤する人たちがお惣菜を買いに来る。百グラムと二百グラムの空パックをそれぞれ積み重ね、炊き立てのごはんをふっかりと詰めていく。熱い温度がパックを支える左手に沁みて、私はそれがいつも嬉しい。
 やがて、晴太の心地いい「おはようございまーす」の声が聞こえて、一度に三人ものお客さんがやってきた。ここの最寄り駅から毎日電車で通勤するOLさんたちだ。
 彼女たちは常に三人そろって週に何度か訪れる。白米は家から持参なのか、それとも食べないのか、買うのは惣菜だけだ。今日もひよどりのように顔を寄せ合ってショーケースの中を覗き込むと、美しく光って尖る爪でおかずを指差した。
「鰆とかぼちゃですね。はいちょうどいただきます。ありがとうございます」
 きゃらきゃらと笑い合いながら、彼女たちはおかずを受け取る。店を出ていくとき、ちょうど倉庫から回ってきた晴太と彼女たちがすれ違った。
「ありがとうございました」
 丸い頰を高くして笑う晴太に、彼女たちは一様に「ありがとうございまーす」と返し、顔を見合わせて笑いながら店を出て行った。晴太は埃っぽいエプロンを外してカウンターの内側に回ると、別のエプロンに付け替えて、小柄な日村さんの白髪頭を覗き込んだ。
「日村さん、おまたせしました。いつものでいいです?」
 日村さんが重々しく頷く。晴太も頷く。いつものと言っても、うちにコーヒーは一種類しかない。晴太が豆を挽くがるがるという音が転がりだした頃、一度どんっと二階の床が鳴り、それから短距離走のスタートを切ったような鋭い足音とともに、家に続く木製の古い扉が開いた。蒼が土間のコンクリートに靴を投げ出し、足を突っ込む。
「今日朝練って言ったろ」
「起こしたよ。六時半に私が」
「七時前におれが」
 くそー、と蒼は学ランのボタンをぐちゃぐちゃと留めながら、「ヒロ、めし!」と声をあげた。すかさず晴太がカウンターから長い腕を伸ばし、蒼の頭をはたく。
「お客さんがいるんだから静かにしなさい」
「客ったって、日村のじーさんだけだろ」
 よっす、と蒼が友達にするように手を上げると、日村さんは私たちに頷いたのと同じようにまた、蒼にも頷きを返した。
 用意していた特大のお弁当を冷蔵庫から取り出し、蒼の前に突き出す。蒼はそれを慌ててエナメルバッグに詰め込んで、続けて私が投げたこれまた特大のおにぎりを三つ、器用にキャッチした。さっそく一つのラップを剝いて、おもいきりかじり付いている。
「うまい」
「ほら、ちゃんと着ろ」
 晴太がめくれ上がった蒼の制服のえりを直してやる。
「ん、もうおっけ、サンキュー」
 蒼が窮屈そうに晴太から後ずさり、「んじゃ行ってきまーす」とおにぎりを手に持ったまま店の入り口から走り出ていった。私たちの行ってらっしゃいの声はきっと届いていない。蒼と入れ替わりに、ぴしりとセンタープレスの入ったスーツを着こなした高遠たかとおさんが店に入ってきた。
「おはようヒロちゃん」
「おはようございます」
 高遠さんのスーツのズボンに入ったまっすぐ縦の線を見ると、いつもさっぱりした気持ちになる。ショーケースを覗き込む高遠さんの頭上から、「今日はチキンが新作なんですけど、ポテトサラダも上手くできて」と説明する自分の声がついはずむ。この近くの会社に勤めている高遠さんは、ほとんど毎日やってくる。のんびりと草をはむ草食動物のようなまなざしで惣菜を見つめる目が好きだ。私の説明をうんうんと聞いて、翌日には味の感想を伝えてくれる律儀さも。
「じゃあそのチキンとポテトサラダと、ごはんは普通で。味噌汁もある?」
「ごめんなさい、今日は中華スープなんです」
 そうか、と一瞬悩む仕草を見せた高遠さんに、晴太が挽いた豆をさらさらと落としながら助け船を出した。
「スープ、昨日の夕飯に食ったんだけど、かなりうまいですよ」
「それじゃあ、スープも」
 思わずにやっとしてしまう。プラスチックのカップにスープを注いできつく蓋をした。おかずたちを受け取って、高遠さんは丁寧に「ありがとう」と言った。
 こぽ、と火にかけていたケトルが子どもの声みたいな音を立てて沸いたので、火を止めて晴太に手渡した。熱い湯に触れたコーヒーの粉が、はっとするほど華やかな薫香くんこうを湯気と共に吹き上がらせる。店はおいしい香りの箱になり、扉が開くと溢れる香りに釣られたように、ぽつりぽつりとお客さんが店に入ってきた。

 店の名前は「△」。三人だから「さんかく」。看板には三角形のマークが一つあるだけで、蒼が学校の授業で使う油絵の具で乱暴に、力強くそのマークを描いた。
 朝は晴太が淹れるコーヒーと、私が作る惣菜を店先のカウンターで売っている。カウンターの外側、コンクリートの土間に小さなテーブルが二つ、カウンターの隅に椅子が一つ。ここは朝だけ、日村さん専用になっている。
 お昼は朝のメニューに加えて、メインで日替わりのランチセットも出している。
 調理専門の私はずっとカウンターの内側にいて、晴太はコーヒーを淹れるときだけ私の隣に立つが、お昼時はだいたい外側で料理を運んだりお皿を片づけたりしている。店の経理や食材などの在庫管理も、晴太の仕事だ。
 土日で学校が休み、かつ、部活のないときは蒼も配膳を手伝ってくれるのだが、わざとやっているんじゃないかと勘繰ってしまうくらいなにもかもが雑で、皿は割るし料理はこぼすしと散々で、あまり戦力にはなっていない。
 店は去年の暮れあたりからやっと軌道に乗ってきた。思えば、日村さんが毎朝平日通って来てくれるようになってからだ。それまでは、まだ子どものような三人が突然開いた店を不審そうに、遠巻きに眺める人がいるだけで、敷居を跨いでくれる人は少なかった。何日もお客さんが来ない日だってあった。それがやがて近所の人たちが立ち寄ってくれるようになったのは、いつでも春みたいに朗らかな晴太と、進級して早々クラス中の男子を有無を言わさず友達にしてしまった蒼のキャラクターのおかげだと思う。現にさっきのOLさんたちのように晴太の笑顔を目当てに来る女性客や、蒼の同級生のお母さんたちが買いに来てくれるのだ。
 私たちはずっと三人で暮らしている。晴太と私、そして末っ子の中学三年生、蒼。
 三階建ての縦に細長い我が家は四六時中騒々しいが、ときおりふっとどこかへ音が吸い込まれたみたいな静けさが生まれる。そういうときは決まって三人ともが空腹で、お腹が空いた、と同時に気付く。ごはんを食べよう、と思う瞬間、どこかに吸い込まれていた音は戻ってくる。

 十八時すぎに蒼が帰って来たとき、二階でちょうどおでんの仕込みを終えたところだった。鍋を食卓の真ん中にどんと置けば夕食の準備は完了する。「ただいま」より先に「腹減った」と言って部屋に入ってきた蒼を「ただいまは」と睨むと、蒼は「ただいま腹減った」と気のない声で言って犬のように鼻をひくつかせた。
「出汁のにおいがする。おでんだ」
「そう。晴太が帰ったらすぐ出せるから手を洗って、洗濯物出して」
 四月なのにおでん~、と文句なのか喜んでいるのかわからない調子で歌って、蒼はばたばたと洗面所に歩いていく。最近特に蒼の足音はうるさい。いつか床が蒼の足の形に抜けてしまいそうだ。
 制服から着替えてきた蒼は、食卓にぺらりと一枚紙を置き、何を言うでもなくリビングの床に座ってテレビを見始めた。その様子を目の端に留めて、私は「なにそれ」と声をあげた。
「何置いたの、今。学校のおたよりでしょ」
「そう。見といて」
「授業参観?」
「一、二年のときもなかったのに、中三になっていまさら授業参観なんかねぇよ」
 それきり蒼はぷいとテレビからも視線を逸らして、私に後頭部を見せた。
「なに機嫌悪くしてんの」
「悪くねぇし」
「学校の物品壊した請求書とかだったら、ぶっとばすからね」
 私は濡れた手を拭いて、蒼の置いた書類を手に取った。ちょうどそのとき、からからと店と住居の間の戸が開き、ととんととんと軽やかな足音と共に晴太が二階に上がってきた。
「ただいま」
「三者面談?」
 晴太と私の声が重なり、オウム返しに晴太が「三者面談?」と繰り返した。
「なに? 蒼の?」
「うん。なんだ、こそこそしてるから何やらかしたのかと思った。三者面談なら去年も行ったでしょ」
 紙には、三者面談の候補日と、保護者の都合を第一希望から第三希望まで記入する欄が記されていた。私は書類を汚さないようリビングの机に置いてリモコンで留め、もう一時間は温めているおでんの土鍋を取りにコンロへと戻った。浮いているさつまあげをつつくと、かわいらしくゆらゆらとして出汁の香りが立ちのぼった。
「今年も晴太に行ってもらえばいいよね。晴太、また書いといて」
「ほい」
 晴太は仕事用のエプロンを取り去り、手を洗いにひたひたと洗面所の方へと歩いて行った。戻ってきて蒼とそっくりに鼻をひくつかせると、「出汁のにおいがする。おでんだ」とまったく同じことを言うので笑ってしまう。晴太にも言われる前にと、「四月なのにおでんです」と先に言ってやる。
 五合炊きの炊飯器で目盛いっぱい炊いたごはんを、どんぶりのようなお茶碗に盛り、温まって濃くなったおでんのにおいに釣られてやってきた蒼に運ばせる。土鍋は晴太が食卓に運んでくれた。
 蒼が器に大根を移した拍子にぽちゃんと出汁が跳ねた。おたまを受け取った晴太が口を開く。
「蒼、お前の都合はないのかよ。部活とか、委員会とかあるだろ」
「なに?」
「三者面談だよ。おれが決めていいのか」
 んー、と低くうなり、蒼は音を立てて出汁を飲んだ。顔を器に沈めたまま、「つーか」と呟く。
「晴太は予定合うのかよ。年中無休じゃん、店」
「そんなの」
 言いかけて、晴太が私の顔を見た。私も見つめ返し、そう言えばそうだと思う。店を始めて十か月ほど経ったが、まだ一度も休んだことがなかった。正月でさえ、いつもと同じ七時に店を開けた。
「じゃあ初めての休店日だ」
 私が言うと、そうだな、と晴太も頷きおたまを手に取った。晴太の隣に座る蒼が、呆れたように私たちを交互に見る。
「そこまですることねーだろ」
「そこまですることだろ。お前、あわよくば来なきゃいいのにとか思ってないか」
 ぐうと蒼が唇を嚙んだので、あまりのわかりやすさに私は笑ってしまう。
「店休むなら、私も行こうかな」
「はぁ?」
 おお、いいなと晴太が顔を上げた。やだよそんなの、と蒼はぶつぶつ呟きながらばしゃばしゃおでんをよそった。冗談半分、半ば本気でそれも楽しそうだなと私はのんきに想像する。蒼の担任は、去年と同じ四十代くらいの女性教師だ。私は覚えていなかったが晴太は覚えていて、「おれらのときにもいただろ」と言うのだがちっとも思い出せなかった。
 おでんは気持ちよくカラになり、柔らかい大根のくずやはんぺんの切れ端が浮いた鍋の中身を別の小鍋に移す。明日はここにカレールーを放り込んでカレーうどんにしよう。
 五合炊いた米も、蒼の夜食分を残してなくなってしまった。夜食分も、先に取り分けておにぎりにしておかなければ何も考えていない蒼に食べ尽くされてしまう。思えば晴太も高校生くらいまで、どんなに食べても「腹いっぱいになったことなんてない」と言っていた。
 お風呂から出てきた蒼が目の前を横切る。ふっと慣れた浴室の香りがして、真っ黒な濡れた髪からぽたんと床に水が落ちた。その水を足で踏んで、靴下に吸わせた。冷たい、と思ってから、「蒼、ちゃんと髪を拭いて」と抗議の声をあげた。
 日村さんが晴太のコーヒーをすすりながら、持参の新聞紙をめくる。他のお客さんがショーケースの前に立つと、新聞紙を狭く畳んで、じっと動かなくなる。
「日村さん、落ち着かないですよね。あっちのテーブル空いてるからよかったら」
 日村さんはじろっと私を見上げ、首を横に振り、隣に立っていたお客さんが立ち去ったのを確かめてからまた新聞紙を広げるのだった。
 奥側のテーブル席に座っていた女性が、ごちそうさま、と言って席を立った。時間は十時近くで、会社勤めの人ならとっくに仕事を始めているだろう。手荷物の少なさから、これから仕事に向かう雰囲気もない。家に帰るのだろうか。
 店には、当たり前にいろんな人がやってくる。一日のどんな時間をうちの店で過ごしてくれているのか、私はその都度想像する。
 晴太が「ありがとうございました」と笑いかけると、女性も薄緑のストールで口元を隠したまま目元で笑って、店を出て行った。
「さて」と日村さんが呟く。今日初めて声を聞いた。ゆっくりと、それはもう時の歩みさえ日村さんの動きに合わせて遅くなりそうな速度で腰を上げ、新聞紙を畳み、私を見上げた。
「三百五十円です」
 カーキ色のジャンパーのポケットから同じ色の小銭入れを取り出し、代金分の小銭をぽろぽろっとカウンターに置いた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございましたー、また明日」
 晴太がさっきまで女性のいたテーブルを拭きながら、顔だけこちらに向けて日村さんに笑いかける。日村さんは私と晴太に向かって一度だけ頷き、店を出て行った。その背中を見送っていたら、また新たなお客さんが、日村さんが店と歩道の間の敷居を跨ぐのを待ってから、店に入ってきた。
 今日は朝昼のピークの間にお客さんが多いな、と私は布巾をぎゅっと絞って日村さんのいた席を拭く。空のコーヒーカップを摑み上げながら顔を上げたら、外の光がまぶしくて、その人の周りだけがずんと暗く見えた。春にしては重たい印象のグレーのスーツが、四角い肩を包んで、その人を妙に大きく見せていた。
 不意にその人が手を動かした。たばこを吸っていたらしく、口先のそれをつまんで、胸ポケットから出した携帯灰皿に緩慢な仕草で潰して捨てた。
「禁煙だよな」
 息がかかるほど近くにいるわけでもないのに、その人が口を開いた瞬間、甘ったるくてつんと苦いたばこの香りが届いた。
「あ、はい、すみません」
「コーヒー」
「はい」
「ここで飲める」
 まるで断定するような口ぶりに一瞬戸惑い、訊かれているのだと気付いて慌てて「はいっ」と教師に指された生徒のように答えた。
「じゃあ、一つ」
「ありがとうございます。晴太」
 食器を洗っていた晴太が、愛想よく「ありがとうございます」と応えてコーヒー豆の入った袋を手に取った。
 その人はカウンターの奥に視線をえたまま、日村さんがいたカウンターの隅の席に腰を下ろした。
「あの、よければあちら空いてますので。二人掛けでも四人掛けでもお好きな方を」
 テーブル席の方を指差すと、男性は短く「いや」と答え、「ここでいい」と長い足を組んだ。さっきたばこを消したばかりの指が、こころもとなそうに胸ポケットをまさぐる。そして、思い出したように動きを止めてゆっくりと膝へと落ちた。
「ごめんなさい、外に灰皿も置いてなくて」
「いや、いい」
 その人が唇をぎゅっと引き結ぶように、口元に力を込めた。笑ったのだと気付いたのは、あまり見ていたら悪いと思って顔を背けたあとだった。
 がるがるがる、と小気味よく豆が転がり粗く削れてゆく音は、カウンターをへだてて座る彼にもまっすぐ届いたのだろう。耳を澄ますように目を伏せていた。
 そろそろお昼の準備をしなければならない。副菜二品はショーケースの中の惣菜を使えばいいが、メインは注文が入ってから火を通すので、ランチの時間帯はたった二席のテーブルとカウンターの一席しかないのに私も晴太もてんてこまいになる。お弁当の注文が意外と多いのだ。
 鮭の切り身に塩とハーブを擦りこんで小麦粉をはたいていたら、晴太が背後の狭いスペースを通り抜け、カウンターに座るその人にコーヒーを差し出した。
「いい天気ですね」
 にこやかに、日村さんにそうするように晴太が話しかけるので、ぎょっとして二人に視線を走らせた。
「あぁ」
 その人は顔を上げずにコーヒーに口をつけ、小さく飲み下した。その喉の動きに一瞬目を奪われる。
「でも外はまだ寒いですか」
「あぁ」
「四月なのになぁ」
 晴太は満足げに勝手に話を切り上げると、私の方を振り向き腰をかがめ、何をいまさらと言いたくなる小声で「裏で玉ねぎ剝いてくる」と私の耳元にささやいた。
「すみません、あの」
 晴太の人を選ばない接客は、時にひやりとする。肩をすぼめて小さく頭を下げると、顔を上げたその人はまたさっきと同じように口元に力を込め、苦笑したように見えた。
 カウンターの中心に戻り、下味をつけた鮭をバットに並べてラップをした。あまり置くと水分が出てしまうから、早く火を通さなければと気が焦る。予約した炊飯器のタイマーを何度も確かめ、スープの味を調整した。
 ランチの時間より少し前に二人組が来店し、ようやくフライパンに鮭を二切れ並べたとき、ふと視線を感じて左側を振り向いた。私の横顔に刺さっていた視線と真正面からぶつかって、思わずわっと声をあげそうになる。
 その人が私を見ていた。視線が妙に鋭いので、私の手は強張り、フライ返しがフライパンにあたってカツンと音を立てた。
「あの」と声を絞り出す。じゅうじゅうと鮭が焼ける。
「昼飯もここで食べられるんだな」
「はい、一応」
「夜は」
「十六時までです、店は」
 ふーん、とその人は訊いたくせに興味のなさそうな相槌あいづちを打つ。関節と関節の間が長い指が胸ポケットをまさぐって、今度はためらうことなくたばこを取り出して慣れた仕草で火をつけた。
 きんえん、と喉元まで出かかったが、なぜだか言えなかった。怖かったわけじゃない。一連の仕草があまりに自然で、息を詰めて見入ってしまった。
「コーヒー、いくら」
「三百五十円、です」
 その人は咥えたばこでジャケットのポケットから財布を取り出し、小銭をカウンターに置いた。
「ごちそうさん。コーヒー、うまかったって旦那さんにも」
「あ、ありがとうございました」
 頭を下げて、上げた頃にはその人はとっくに店の外に出ていて、ジャケットの裾がちらりと見えただけだった。
 焼けた鮭を皿に取り出してその他のおかずでプレートを整え、男女二人組の席へ運ぶと、女の子がそうするのがきまりだとでもいうように手を合わせて「わぁ」と声をあげた。
 料理をつつきながら絶えず話す女の子の声が、遠くに聞こえる。コーヒーカップを洗っていたら、あの人の言う旦那というのが晴太のことだったのだと不意に思い至って、もういるはずはないのに思わず訂正したくなり入り口の方を振り返った。


  *

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著者プロフィール
菰野江名(こもの・えな)
一九九三年生まれ。三重県出身、東京都在住。
『つぎはぐ△』にて第十一回ポプラ社小説新人賞を受賞、同作(『つぎはぐ、さんかく』に改題)にてデビュー。

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