第一話 甘くって酸っぱくて、しっとり爽やかな満月のウイークエンド
住宅地に凜とたたずむ、その洋菓子店には、ストーリーテラーと美しいシェフがいる。
◇ ◇ ◇
疲れた、もう会社辞めたい。
岡野七子(三十三歳)は、冷房でむくんで重くなった足を引きずるようにして、夕暮れの陸橋をとぼとぼ歩いていた。
七子はレンタルルームの貸し出し業務をしている会社で、働いている。正社員ではなくパートで、今年で勤続十年になる。七子が大学を卒業した年はどこの会社も景気が悪く、就職できなかった。
正社員として入社するまでの腰掛けのつもりで働いていたら、そのままずるずる居着いてしまったという、我ながら情けないパターンだ。
当然、仕事に愛着もやりがいも持てず、特に今日はしつこいクレーム客の対応をして、ぐったりしている。
ブレーカーが何度も落ちて、せっかくのパーティーがしらけまくりだった、レンタル料を返せというのだが、話を聞いてみたら、あらかじめ決められた電力量を超える音楽機材を持ち込んでいて、そりゃあ落ちるわ、とげんなりした。
電力量は表示してあったはずですと説明しても、いいや、ブレーカーが落ちる可能性についての説明はなかった、不親切だ、怠慢だと、終業間際に電話で延々と文句を言われて、あんたじゃ話にならんから、上司を出せとわめかれ、本当にもううんざりだった。
せっかくの金曜日なのに誰とも会う予定はなく、お洒落なカフェやショッピングを楽しむ気力もない。そもそもそんな贅沢をするお金もない。
パートとはいえ、都心勤めのためそこそこ収入は安定している。それでも同じ歳で正社員として勤務している女性と比べたら、年収ははるかに少ない。ボーナスもないし住宅手当も出ない。
転職しようかな……と、仕事で嫌なことがあるたびに思うものの、できるものならとっくにしている。
資格もなく特技もない三十過ぎの一人暮らしの女など、七子が望む企業は雇ってくれないだろう。
なら、結婚でもするか……。
これまたお決まりの妄想をするが、彼氏らしき男性は、さして売れているわけでもないフリーランスのデザイナーという、将来にまったく希望の持てない相手だ。彼と結婚するには、彼が無収入のときに七子が養うくらいの覚悟がなければならない。
しかも不規則な仕事のためすれ違いが多く、もう一ヶ月も会っていないし、連絡もとっていない。
とっくに彼氏ではないのかも。
「はーっ、夕飯作りたくない。なんか買って帰ろう」
そういえば、この先にケーキ屋さんがあったっけ。
住宅地のはずれにひっそりと建っている、まったく繁盛していなそうな、しょぼくれた店で、ここケーキ屋なんだ……と、何度も前を通っているのに気づかなかったほど存在感が薄い。
以前、試しに入店してみたら、ケースに地味な茶色の焼き菓子が、色気も素っ気もなくぞろぞろ並んでいた。
奥が厨房のようで、そこから、いかにも伸びっぱなしといった感じの黒い髪を後ろにゴムでひとつにしばって、黒ぶちの分厚い眼鏡をかけた、薄汚れたしわしわのコックコートの女性が、おずおず出てきた。
猫背でうつむきかげんで、なんというか、この世の不運を一身に背負っているような、じめじめした暗い空気をまとったこの女性が、製造と販売を一人でやっているようだった。
多分客がほとんど来なくて、一人でじゅうぶんなのだろうけれど。どう見ても接客に向いているとは思えず、いらっしゃいませ……という声も、ぼそぼそしていてよく聞き取れない。七子が品物を選んでいるあいだ、ケースの向こうに人形のように立ったまま、伏し目がちにじーっと七子を見て沈黙しているのも不気味だった。
なにも買わずに帰りたかったけれど、それが許されない雰囲気で、仕方なくカット売りのシンプルなパウンドケーキと、栗を焼き込んだタルトを買ったのだった。
なんだか……焦げていてまずそう……と思って食べた焼き菓子は、意外なことにどちらも悪くない味だった。
素朴でほっとするというか。
あれ? 美味しい。
でも、やっぱり地味で。
値段も安かったし、また行ってもいいかなぁ、と思いつつ、あの暗い店員や、じめじめした店内や、華やかさのかけらもない茶色いショーケースを思い出すと、いまひとつ足が向かなかった。
なんだか、行ったら不幸になりそうで。
「けどまぁ、今日はもうじゅうぶん不幸だし、久々に行ってみるか」
週末の金曜日の夕方でも、あのしょぼくれたケーキ屋なら、たくさん売れ残っていそうだし。
しょぼい自分には、正社員の素敵女子たちがインスタにアップするような、きらきらしたお高いケーキよりも、地味な茶色いケーキのほうがお似合いだろう。
そんな自虐的なことを考えながら、ケーキ屋があるほうへ歩いてゆく。
そういえば、店の名前はなんといったっけ?
確かケーキ屋らしくない変わった店名で……。
と、そのとき、爽やかな水色にレモンイエローの円を組み合わせた立て看板が、目に留まった。
『ストーリーテラーのいる洋菓子店
月と私は、こちらです』
「ん?」
とっさに立ち止まる。
看板の矢印は、あの地味でしょぼいケーキ屋があったほうを指している。
『月と私』──そうだ、店名もそんなふうだった。
でも、こんな看板あったっけ?
それに、ストーリーテラーとは?
昔々あるところに、とかお話を聞かせる人? なんでケーキ屋にそんな人が?
そもそもこの看板、インスタ女子たちが好みそうなお洒落感を漂わせていて、あのしょぼい店とのギャップがありすぎだけど、リニューアルしたんだろうか?
もしくは店名はそのままで、別の店に変わったとか?
あの不幸を一身にまとった暗い女性店員や、地味な茶色いケースが、ちょっと外観を変えたくらいでどうにかなるものではないと思うのだが。
とりあえず、ここまで来たので進んでみる。
すると、住宅地の隅に埋もれそうになっていた地味で目立たない店の代わりに、綺麗な空色の壁が現れた。
満月のように丸いレモンイエローの表札がかけてあって、そこに『月と私』と青い字で、お洒落に表記されている。
あのしょぼくれた店は、一体どこに? と困惑しながら、ぴかぴかに磨かれたガラスのドアを開けて店内に入る。
とたんに、深みのある声が朗々と響いた。
「いらっしゃいませ。ストーリーテラーのいる洋菓子店へようこそ」
わ!
七子はのけぞりそうになった。
目の前に、黒い燕尾服に身を包んだ長身の男性が立っている。年齢は三十前後で、七子と同年齢くらいだろうか?
黒髪をオールバックにしていて、彫りが非常に深い。
美形だ!
そして執事だ!
「どうぞごゆっくり、お買い物をお楽しみくださいませ」
気品あふれる物腰で、深々と頭を下げられて、七子はますます困惑した。
「あの、こ、ここってケーキ屋さん、でしたよね」
「はい、今現在も、洋菓子を販売させていただいております」
店内を見渡すと、前に来たときは地味な茶色のケーキがぎっしり並んでいた古めかしいショーケースの代わりに、宝石店にあるような上からのぞき込めるタイプのケースが設置され、そこにホールケーキがひとつと、小さいケーキが二つ、美術品のように並んでいる。えらくお洒落なやつで、茶色くない!
「えっと、あの、執事喫茶になったとか?」
「いいえ、私は執事ではございません。当店のヴァンドゥール──販売員であり、ストーリーテラーでございます」
「ストーリーテラーって、具体的になにをする人のことなんですか?」
まだ混乱を引きずったまま尋ねると、店員はかしこまって答えた。
「商品のご説明や、それにまつわる物語を語らせていただき、お客さまのお買い物のお手伝いをいたします」
「物語……ですか?」
「はい。当店では甘いお菓子と一緒に、ストーリーをお持ち帰りいただきたいと考えております」
「ストーリーって、持ち帰れるものなんですか?」
「はい、たとえばこちらのケースをご覧ください。大変申し訳ないことに本日はお客さまが大勢いらして、この見本分の三品しか残っておりません。まずは三日月の形をしたこちらは、ムラング・シャンティをアレンジしたお品でございます」
店員が長い指をひらりと上に向けて示したのは、三日月の形をした白いケーキだった。品名は『レモンのムラング・シャンティ』とある。
「こちらは、さくさくと軽いメレンゲのあいだに、刻んだレモンピールを混ぜたミルク味の生クリームをたっぷりサンドしたものでございます。甘いメレンゲと爽やかなクリームのハーモニーに、それは優雅な気持ちになれる一品でございます」
「美味しそう……」
品名と形だけでは、どんなケーキなのかわからなかったものが、店員の流れるような説明を聴いていると、メレンゲのさくさくした食感やレモンピールの爽やかさが伝わってきて、セレブな気分になった。
「続いて、半月の形をしたこちら──タルト・オ・シトロンのご紹介をさせていただきます」
店員が、今度は半円形のタルトを示す。先端に焦げ目のついた丸いクリームがぽこぽこのっているのが可愛い。
「当店では、ほろりと崩れる薄いパートシュクレに、アーモンドクリームを流して焼き上げ、その上にキュンと酸っぱい、酸味強めのレモンクリームを重ね、ふわふわと軽い無糖のメレンゲを丸く絞り、先端にバーナーで焼き色をつけて仕上げております。容赦のない酸味とアーモンドクリームの甘みがお互いを引き立て合い、無糖のメレンゲが両者をまとめあげます。ムラング・シャンティのさくさくしたメレンゲと、こちらの雲のようなふんわりしたメレンゲの食べ比べも一興でございます」
「うぅ……これも美味しそう」
口の中にレモンのキュンとした酸味が広がってゆくようで、つばがわいてくる。
「最後は、とっておきのお品です」
と店員が示したのは、直径十二センチほどのサイズの、丸いホールケーキだった。白い砂糖衣で包まれていて、三つの中では一番シンプルだ。
「満月をかたどったこちらは、ウイークエンドと申します。しっとりと焼き上げた素朴なバターケーキに、グラスアローといって、甘酸っぱいレモンの薄い砂糖衣をまとわせております。お口に入れていただいた瞬間、砂糖の衣がレモンの酸味と香りをただよわせながら、シャリッ、と儚く鳴るような食感は格別です。当店のスペシャリテとして、おすすめさせていただいているお品でございます」
スペシャリテ!
艶やかな声で発音されたその言葉には、特別な魔法の響きがあるように感じられて、ドキドキしてしまった。
「でも、ちょっと大きいかも」
そうつぶやくと、店員はにこやかに続けた。
「お客さま、こちらは一週間程度お日持ちいたします。三日目からはますますしっとりし、お味の変化をお楽しみいただけます。また、このウイークエンドには週末に大切な人と分け合ってめしあがっていただくケーキ、という意味も込められているのですよ」
「週末、大切な人と?」
「はい。本日はまさに週末金曜日でございます。本日お持ち帰りいただくのに、ふさわしいお品かと存じます」
大切な人と週末に分け合って食べる、甘酸っぱいレモンのケーキだなんて素敵だ。
分け合う相手が、目の前で優雅な微笑みを浮かべているこんな美形だったら、なお最高で天国だろう。
うっとりしかけて、現実に戻る。
「あはは、でもわたし一人暮らしだし、そういう相手もいないし」
一ヶ月音信不通の彼氏が、いるにはいるけれど。
もう彼氏じゃないかもだし。
胸がズキッとし、余計なことを言ってしまったことを後悔していると、店員はやわらかな口調で言った。
「それならなおのこと、お客さまにこそおすすめしたく存じます。お客さま、当店のウイークエンドには大切な人を引き寄せる、魔法がかかっているのでございます」
*
続きは発売中の『ものがたり洋菓子店 月と私 ひとさじの魔法』で、ぜひお楽しみください!
■著者プロフィール
野村美月(のむら・みづき)
福島県出身。『赤城山卓球場に歌声は響く』で、第3回えんため大賞小説部門最優秀賞を受賞。著書に、「”文学少女“」「ヒカルが地球にいたころ……」「むすぶと本。」「世々と海くんの図書館デート」「三途の川のおらんだ書房」の各シリーズのほか、『記憶書店うたかた堂の淡々』など多数。子供のころからスイーツが大好きで、Instagram(ID:harunoasitaha)で情報発信している。