第一話
月のメロンが優しく香る、たおやかな生クリームとカスタードのWクリームに震えるショートケーキ
「──私は己の浅慮と傲慢を深く恥じているのです」
語部がうなだれて言う。
うーん、困ったなぁ……と、麦は眉根を寄せた。
喧騒とは無縁の、のどかな住宅地の片隅に、洋菓子店『月と私』はある。
語部九十九はお店の名物ストーリーテラーだ。すらりとした長身を執事のような黒い燕尾服に包み、腰を低く屈めてお客さまを出迎え、艶やかな声でお菓子から魅力的なストーリーを引き出し、多彩な言葉によって輝かせる。
販売以外にも、企画、経理、人事、営業、総務とほぼ一人でこなす超人で、お店になくてはならない人だ。
どんなときもゆったり微笑み、巧みな話術で相手の心の霧を払い晴れやかにする。
その頼りになる大人の〝カタリベさん〟が、高校生の麦に恋愛相談をしている!
場所は隣の古いマンションで、二階にお店の事務所とロッカールームがある。
「麦さん、少し良いでしょうか。お姉さんのことなのですが……」
閉店後、お店を手伝っていた麦が自宅に戻ろうとしたら、語部が暗い顔で話しかけてきたのだった。
『月と私』のオーナーパティシエである姉の糖花と語部のあいだになにかあったらしいことは、麦も察していた。なぜなら母の日の閉店後、お店の上にある自宅に帰ってきた姉はひどく青ざめていて、どうしましょう……。そんなことって。語部さんがそんな。でも……ああ、どうしましょうと、いつにも増してか細い声でつぶやいていたから。
あれから数日経つが、やっぱりぼーっとしたり、泣きそうな顔で首をぷるぷる横に振ったりしている。
さらに仕事で語部と話しているときも、微妙に目をそらしていて、語部の言葉にびくっとしたり、身を引いたり、ささっと離れていったりする。
仕事でのミスも増え、ケーキのデコレーションをやり直したり、焼き時間を間違えて涙目になったりしている。
──お姉ちゃん、母の日にカタリベさんとなにかあった?
夕飯のとき訊いてみたら、わかりやすく動揺し、まだ熱いなめこのお味噌汁を飲もうとして『!』と身を震わせ、テーブルに少しこぼしてしまった。それを半べそでティッシュで拭きながら、尋ね返してきた。
──な、ななな、なんで、そう思うの。
──だって、今日はカタリベさんも夕飯を一緒に食べるはずだったのに、来ないし。
麦と糖花は、お店の二階と三階にある自宅で暮らしている。両親が事故で他界してから、ずっと姉と二人で食べていたが、語部がお店に来てからは三人で食べることが多くなった。語部は隣のマンションの三階に居住していて、よく姉の部屋のベランダと語部の部屋の窓越しに話している。
本人たちは月しか聞いていないつもりだろうが、隣の部屋にいる麦がうっかり窓を開けたりすると丸聞こえで、それはもう、麦が顔を赤らめてしまいそうな甘い会話を交わしていた。
──か、語部さんは……その、お仕事がまだ残っているみたい。
糖花は目をあちこち移動させ、味噌汁のお椀を持った手を小さく震わせてそう言った。
この時点で麦は、二人のあいだに事件があったことを確信していたのだ。
……カタリベさんがお姉ちゃんに告白したっていうのは、びっくりだけど。
語部の言葉によると、母の日の閉店後に厨房で糖花と二人で、亡き母のことなど話していたら、つい気持ちが高まって、秘めていた想いを告げてしまったのだと。
「糖花さんを愛していますと」
「ええええっ!」
「いいえ、実際にそう口にしたわけではなく、以前、熱に浮かされて言ったことは間違いではなく、私の本心だったとお伝えしたわけですが……」
カタリベさん、お姉ちゃんに、やっと言ったんだ。
正直『おめでとう』とクラッカーのひとつも鳴らしてあげたい。
姉と語部は誰がどう見ても両想いで、なのに姉はうじうじと、語部はぐだぐだと理由や理屈を並べて距離を保っていたので、麦はやきもきしていたのだ。
けど、語部の表情は暗く、肩もがくんと落ちていて、とても『よかったね、お姉ちゃんのことよろしくね!』と祝福できる雰囲気ではない。
告白されて幸せの絶頂であるはずの姉も、語部を露骨に避けているし……。
語部の愚痴はもう一時間も続いている。
「──糖花さんも同じ気持ちでいてくださると信じ込んでいたのです。麦さんに『糖花さんは男性の好意に免疫がないので、私が気のある素振りをしたら私のことを好きになってしまうではありませんか』などと言ったこの口を、ケーキナイフで削ぎ落としてやりたいほどです」
「あー……うん、そんなこと言ってたね。カタリベさんがお姉ちゃんに首ったけだと知られたら、お姉ちゃんもカタリベさんのことを好きになっちゃうから困るとか……」
「くっ」
「お姉ちゃんへの気持ちを職場に持ち込むことは、絶対しないとか」
「っ──」
「もしお姉ちゃんが、カタリベさんに恋しちゃって告白してきたら、情け容赦なく振らせていただきます、とか」
「……」
語部の過去の発言を麦が口にするたび、気品のある顔に苦悩が刻まれてゆく。最後は両手で耳をふさいで、
「……私はこの世で一番卑怯で愚かな……恥ずべき人間です」
などと言い出して。
ああ、これは本当にカタリベさんはダメそうだ。普段は有能すぎるほど有能な完璧超人なのに、お姉ちゃんのことになるとポンコツだからなぁ……。
あたしが取り持つしかないか。
けど、麦から糖花に話そうにも、『カタリベさんが……』と口にしたとたん、『ご、ごめんなさい、ちょっと急ぎのお仕事が』と後ずさりながら離れていってしまう始末で。この前は後ずさりすぎて壁に頭をぶつけて涙ぐんでいた。
お姉ちゃんも絶対にカタリベさんのこと、好きなはずなんだけどな……。
あれこれ思案して、麦は頭に思い浮かんだ人物に協力をお願いすることにした。
◇ ◇ ◇
「って、なんでおれが」
桐生時彦は端整な顔をしかめた。
二年前に六本木に建設された新しい商業ビルには、今話題のラグジュアリーな店が集まっている。その高層階の一角に、この夏『オルロージュ』がリニューアルオープンする。
パティシエが目の前でケーキを作り上げてゆくカウンターデセール専門店で、シェフを務める時彦はフランスで修業を積んだ実力派のパティシエだ。
リニューアル前は華やかな容貌のほうに注目が集まり、タレントとの恋愛報道やユーチューバーとのトラブルで炎上し、オーナーと喧嘩したあげく閉店した。
一年の時を経て、新しいオーナーのもと最高の環境に場を移しての再始動が決まり、時彦も気合が入っているのだろう。
金髪に染めていた髪が、黒くなっている。以前はチャラいホストのようだったのが、もともと育ちがいいこともあり、白いコックコートに身を包んだ姿は、気品と実力を兼ねそなえた一流のパティシエに見える。
……時彦さん、前は流行りもの好きのインスタギャルに大人気だったけど、今度はお金持ちのマダムとかに人気が出そうだな。
リニューアル準備中のがらんとした店内で、麦はカウンターで時彦が作ってくれたパリブレストを食べている。
リング状のシュー生地はカリカリしたアーモンドがちりばめられていて、バターとナッツの香りがただよう。目の前で絞り出された茶色のプラリネクリームはしっかりと甘くてコクがあり、バリッとしたシュー生地と一緒に食べると、めちゃくちゃ美味しい!
やっぱり時彦さんは、カタリベさんが認めるだけあって腕は確かだな。
麦が褒めると、時彦は「だろ!」と嬉しそうに顔をゆるめた。
が、姉と語部のことをざっくり打ち明けると、最初はニヤニヤしながら、
「へぇ、カタリベさん、ついにお姉さんに告白したんだ。で、お姉さんに避けられてると、ほー、なるほど……そりゃイイ気味……いや、お気の毒で」
などと言い、
「まぁ恋愛ってのは、両想いだから即つきあえるってわけでもないからなぁ。逆に両想いだからこそ、こじれることもあるし……」
と大人の恋愛上級者っぽくドヤ顔まじりのすまし顔で、語っていたのだが。
麦が力を貸してほしいとお願いすると、とたんにわずらわしそうな表情を浮かべたのだった。
「そもそもおれは麦ちゃんちのストーリーテラーには貸ししかない。そりゃま再オープンのことで世話にはなったが……。おれより先にちゃっかりアルとの商談をまとめたことは、はっきり言って根に持ってる」
フランス人の実業家アルベール・デュボア氏は時彦の昔なじみで、いつか彼に認められて一緒に仕事をしたいと時彦は望んでいたという。
それがいろいろあって、アルベールが『月と私』のお菓子を気に入り、パリで新しくオープンさせるお菓子のチェーン店の商品の開発と監修を『月と私』が任されることになったのだ。
──時兄ぃは、まだすねてたよ。
と、時彦の親戚で『月と私』で修業中の、麦と同い年のパティシエ見習いの郁斗は言っていた。仕方ないよね〜と笑いながら。
「けど、時彦さんは、あたしには借りがあるよね」
麦がそう言うと、
「それはまぁ……そう、だな」
時彦は急に歯切れが悪くなり、わかりやすく申し訳なさそうな表情になった。
こういうところは、カタリベさんが言ってたように素直なんだよね。
四月にアルベールの一件でどたばたした際、麦は時彦に頭を下げられ彼の恋人を演じたのだ。しかも途中から郁斗も加わり、三人でつきあっているという設定になり、ぐだぐだだった。
それを出されると、時彦も麦の頼みを断れないのだろう。
弱みにつけこむようで申し訳ないけど、お姉ちゃんとカタリベさんのことで協力を仰ぐとしたら時彦さんしかいない。
お店のパートさんたちに相談したら、みんな一度にあれこれ意見し出して混乱しちゃいそうだし。郁斗くんは面白がって、余計にややこしくしそうだし。
ならば麦の同級生はどうかと考えると、子供のころから姉に恋をしている令二は論外だし、春からめでたくおつきあい(?)がはじまった爽馬は、恋愛映画の上映中に爆睡してしまう男の子なので無理そうだし……。
やっぱりカタリベさんとお姉ちゃんが認めるパティシエで、二人のもだもだした関係を実際に見て知っていて、それなりに恋愛経験がありそうな時彦さんが最適だ。
麦にカウンタ越しにじーっと見上げられて、時彦はあきらめたように肩をすくめた。
「で、おれはなにをすればいい?」
*
続きは10月8日発売の『ものがたり洋菓子店 月と私 いつとせの夢』で、ぜひお楽しみください!

■ 著者プロフィール
野村美月(のむら・みづき)
福島県出身。『赤城山卓球場に歌声は響く』で、第3回えんため大賞小説部門最優秀賞を受賞。著書に、「文学少女」「ヒカルが地球にいたころ……」「むすぶと本。」「世々と海くんの図書館デート」「三途の川のおらんだ書房」の各シリーズのほか、『記憶書店うたかた堂の淡々』『ビストロ・ベーテへようこそ』など多数。子供のころからスイーツが大好きで、Instagram(ID:harunoasitaha)で情報発信している。