これは、たかしくんがななほちゃんやお友達と遊んだ、ながい人生のなかの、ちょっとだけながい、おやすみの記録である──。
一章 鬱、ときどき休職当番
突然だが石狩七穂は肉じゃがが好きだ。
まず芋が好きだ。そして肉も好きだ。この二つが合わさって味が染み染みになる、肉じゃがとは素晴らしい料理だと思っている。
これは七穂が物心ついた時から二十四歳になった今でも変わらぬ嗜好で、「えー、肉じゃが? 炭水化物ばっかでおかずにならないじゃん」と言われようが、「あたし家庭的ですうってアピールっすかー?」と邪推されようが、弁当に夕飯の残りの肉じゃがは必ず入れたし、ライブの打ち上げや飲み会の席でだし巻きと一緒にこいつを頼まない日はなかった。まったくおいしいのに変なストーリーや属性がついて可哀想なやつだ、肉じゃが。
今日も七穂が夕食当番だったので、台所に立って家族三人分の肉じゃがを作っていた。
(……そろそろ煮えてきたかな)
落とし蓋がわりのアルミホイルを、ちょろりとめくってみる。
芋はほくほく感重視の、男爵一択。肉は日によって牛、豚、鶏と変化するが、今日はスーパーで牛の切り落としが特売だったので、これを使ってみた。大ぶりに切ったじゃがいもと、そこそこ脂身もあるお安い牛切り落とし肉が、玉ネギや白滝と一緒にぐつぐつと煮えている。七穂にとっては、多幸感で口元がゆるむ光景だ。
味付けは醬油とみりんに、酒と砂糖。なんとなくカレー粉も入れて、カレー肉じゃがにしてみた。じゃがいもも玉ネギも白滝も、煮汁の色を吸っていい感じのターメリック色になっている。あとは彩り用の絹さやをぱらりと放り込み、汁気が半分に減るまで煮込めば完成だ。
(肉じゃがは、これでよし。お父さんはこれじゃご飯が減らないって言うかもしれないから、シシャモでも焼くかな。おひたしと味噌汁がつけば、文句はないでしょ)
用がすんだアルミホイルを、鍋から菜箸でつまみあげたその時だった。
「ええっ、休職? 鬱で?」
──いったい何事だと思うだろう。
カニ歩きでリビングの方をうかがえば、七穂の母親、恵実子が自分のスマホを握って話し込んでいた。若い頃は原田知世に似ていたと言い張る顔を曇らせ、「そう、そうなの……」と何度も相づちを打っている。
通話が終わると、その恵実子が言った。
「大変よ七穂。たかし君が鬱で休職ですって」
へえ。たかし君が。鬱で休職。大変だね。
「……って、どこの誰よ、たかし君って」
「やだ、あなた。たかし君って言ったらたかし君よ。ほら、千登世おばさんとこの」
「あー……隆司君」
やっと思い出してきた。
「薄情ねえ。よく遊んでもらったのに」
「って言われても、最後に会ったのだいぶ前だよ」
七穂にとっては、母方のいとこだ。
フルネームは結羽木隆司。確か年は、七穂の二つ上だったはずだ。
母親同士が仲のいい姉妹で、妹の千登世が名家の玉の輿にのった縁で、ご当主の別荘だか別宅だかに招かれていた時期があったのだ。息子の隆司はボストン生まれの帰国子女で、その時初めて顔を合わせた。
訪問自体は、先方の塾通いが忙しくなると同時に終了していた。以降は恵実子・千登世の母親ネットワーク経由で、やれ中学受験で私立御三家に受かっただの、大学は旧帝大だの、就職先は理系就職人気ランキング十年連続ベスト3のアウルテックだの、絵に描いたようなエリートコースをたどっているらしいのを、へーほーふーんで聞いていたぐらいだ。
「ほんとにねー、お上品で賢い子だったわよね、たかし君。お祖父様の前でショパン弾いてるとこなんて、どこの王子様かって感じだったわ。あんたも習わせたのに、すぐ辞めちゃって」
「……悪かったですね」
結羽木隆司の話になると、とばっちりでこちらにお鉢が回ってくるのが嫌なのだ。
残念ながら七穂の習い事は長続きせず、その後の進路もぱっとしないまま迷走中だ。
「それがここに来て休職なんて、千登世ちゃんも想定外でしょうね。心配だわ」
「まあね……」
「でもね、七穂。あたしはたまに忠告していたのよ。いくらたかし君が結羽木家の跡取りだからって、あんまり教育ママしてプレッシャーかけちゃ駄目よって。ねえ、言わんこっちゃない」
年の近い親戚の身に起きたことは、七穂としても同情申し上げる。ただ、そういう身内の不幸をゴシップのように訳知り顔で語る親の姿を見るのは、あまり気持ちのいいことではなかった。たぶん本人は無意識だろうとしてもだ。
ふだんは気のいいところもある母だが、自分の正義や倫理に反することには、ことさら容赦がないのが玉に瑕なのだ。
「ほらお母さん。肉じゃができたから、夕飯にするよ」
「……なによ、七穂。怒ってるの?」
想像以上にぶっきらぼうな声が出たようで、七穂はごまかすために冷蔵庫を開けた。
時々思い出す。ある日招待されたその屋敷は、幼い七穂の目から見ても、風格があって立派な姿をしていた。
隆司の祖父にあたる結羽木茂が、隠居目的で購入した元豪農の居宅だそうで、周囲は椿の生け垣に囲われ、瓦葺きの屋根に長い縁側がついた伝統的な母屋に、納屋を潰して建て増しした洋館部分もあった。どちらも築八十年はたっているのよと教えてくれたのは、七穂たち親子を招いてくれた叔母の千登世だ。
「お義父様はここを、『我楽亭』と名付けたの。我が楽しむ場所だと」
「素敵なご趣味ね」
母は古民家などのアンティーク趣味があったので、招かれた先で見るもの全てがたまらなかったようだ。屋敷の持ち主である茂氏もやってきて、途中から歓談の輪に加わっていた。氏は家電メーカーの老舗、ユーキ電器の会長でありながら、東西の文化に通じ雑誌に寄稿もしていたらしい。真っ白な髪を後ろになでつけ、麻の着物を粋に着こなす、趣味人の極みのような老人だった。
大人たちが朗らかに歓談する一方、連れてこられた七穂は、ただひたすらに退屈だった。だってそうだろう。就学前の保育園児に和洋折衷の美や、客間の床柱に使われた黒柿の素晴らしさを説いたところで、わかるはずもないのだ。
「恵実子姉さん、今S市でしょう? こっちの方が成城の本家に来るより近いし、これからは気軽に遊びましょうね」
「本当? 悪いわ」
「悪いものか。孫の隆司も、まだ日本の暮らしには慣れていないのです。遊び相手がいてくれた方が喜びます」
彼らが母屋の中に消えてからも、七穂は庭に居残って池の鯉や、ひなたぼっこ中の亀などを眺めていた。
覚えているのは、帽子をかぶっていても暑かった気温。絶え間ないツクツクボウシの合唱。そう、今思えば夏休みも後半戦だった。
(イチジクだ)
頰をつたい落ちてくる汗をぬぐうと、庭木の一つに実がなっているのが見えた。
幼い七穂は、それが食べられる実であることを知っていた。家の近くに同じ木が生えていたし、スーパーでパック入りのイチジクを買ってもらって食べたこともあるのだ。あれはとても瑞々しくて、おいしいものだと記憶されていた。
高さとしては我楽亭の屋根ぐらいまではあり、近所のイチジクより幹もしっかりして登りやすそうで、がんばれば実に手が届きそうな気がする。
そこに山があれば人は登るように、七穂は木の幹に取りついていた。
(ちょっと、ちょっとだけ……)
近づけば漂う甘い匂い。前夜に無人島でサバイバルするテレビ番組を、かぶりつきで視聴していたのもまずかったのかもしれない。夏空に向かって何本も枝分かれしていく木の股に、運動靴の足をかけ、次の枝へと手を伸ばす。
思ったよりも揺れるなと──樹上でバランスを取っていた時だった。
母屋の縁側を通りかかった人と、目と目が合った。
(あ)
年の頃は、恐らく小学校に入ったばかりぐらいの男の子だ。
その子はとても色が白くて、さらさらの髪を坊ちゃん刈りにして、アイロンのきいたシャツから半ズボン、ワンポイントのハイソックスにいたるまで、身につけるものは全て馬のブランドマークで統一されていた。手には当時人気だったトレーディングカードゲームの、キャラクター図鑑を抱えていた。
対する七穂は日に焼けて真っ黒で、よそ行きのワンピースで木登りを敢行する姿はまるで野猿のようであったろう。
「あ、あの、あのあの、ごめんな」
縁側で固まる少年は、次の瞬間、声のかぎりに叫んだ。
「ママ──っ! 見てよ見てよ、いけないんだよ──っ! 登っちゃダメなのに登ってるよ──っ! ねえママ──っ!」
七穂は、それはもう驚いた。慌てふためいて両手を離し、真っ逆さまに落ちてパンツが丸見えになった。
「どうしたの隆司ちゃん──あらまあ!」
「七穂!!」
脳裏に響く大人たちの悲鳴。
庭のイチジクに手を出そうとしたことがばれ、七穂は母親にこっぴどく叱られた。それを一歩離れたところで見ていたのが、例のいとこ──結羽木隆司だったわけである。
あれは絶対に『ざまーみろ』の目だった。
*
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■著者プロフィール
竹岡葉月(たけおか・はづき)
1999年度ノベル大賞佳作受賞を経てコバルト文庫よりデビュー。以降、少女小説、ライトノベル、漫画原作など多方面で活躍する。著書に、「おいしいベランダ。」「谷中びんづめカフェ竹善」「犬飼いちゃんと猫飼い先生」などの各シリーズ、『恋するアクアリウム。』『つばめ館ポットラック〜謎か料理をご持参ください〜』『音無橋、たもと屋の純情 旅立つ人への天津飯』など多数。