一章 黄昏の教室
いきなりだが石狩七穂はおこげが好きだ。
まず焼きおにぎりの味噌や醬油が、香ばしく焦げたところは最高だ。ちょっと高めの中華レストランにあるおこげにあんかけが載ってるやつ──あれ正式名称なんて言うんだっけ──も、見かけるとテンションが上がる。ちょっとお行儀が悪いが、カリカリに焼けた塩鮭の皮を、真っ先に剝いて食べるのも好きだ。鉄板の焼きそばやもんじゃは、いい感じにソースの焦げができていてこそだと思う。
そう頑なに信じる七穂は、ただいま台所で昼ご飯を製作中だ。
(そろそろいいかな……)
ここ我楽亭の台所は、敷地の北側に面しており、晴れた昼間でもどこかほんのり薄暗さが漂う。窓辺の空き瓶に挿した庭のツツジの枝だけが、五月という季節の明るさを主張している感じだ。
ガス台のコンロに、ずっしりとした鋳物でできたホーロー鍋がかかっている。さきほどまで蓋の隙間から盛んに蒸気が漏れていたが、火を切った今は中の水分を使い切ったのか、まったく出ていない。
「よし」
蒸らし時間は、充分にとったはずだ。七穂は鍋つかみを手に、蓋を開けてみた。
──お。なかなかいい感じではないか。
内側に閉じ込められていた蒸気がふわりとあがり、肉とごま油の香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。
鍋の中に入っているのは、塩とごま油で炊いたご飯を中心に、野菜は人参とニラと豆もやし。焼き肉のタレで下味をつけた牛肉も、一緒に入れて炊き込んでみた。さしずめ韓国の、ビビンバ風炊き込みご飯といったところだろうか。
このままでもおいしくいただけるが、どうせならもう一手間かけたい。七穂は冷蔵庫から卵を取ってくる。
(ご飯の真ん中にちょっと穴ぼこを開けて、二人前の卵黄をオンと)
すかさず蓋をし、止めていた火もつけ直す。
しばらくすると、鍋の中からパチパチと、線香花火のような音がし始めた。
これは鍋底でご飯が焼けて、素敵なおこげができる福音の響きなり。
炊飯器ではやりにくい追加の加熱も、直火OKの鍋なら自由自在だった。さらに分厚い鋳物のホーロー鍋は蓄熱性に優れ、匂いもつかず、蓋の重みも相まって圧力鍋なみにご飯がふっくら炊けるのだと最近知った。
仕上げの火入れを終えると、七穂は再び鍋つかみのミトンを両手にはめる。
このホーロー鍋、利点は多いが少々お高いことと、あととにかく重いことが難点なのだ。中身が入った状態の移動は、気合いがいる。
「たーかーし、君! そっち行くよー!」
廊下を挟んだ茶の間から、「いいよ、おいで七穂ちゃん」と返事がきた。
彼との出会いはもともとが幼少期だったせいもあり、呼び方だけはいまだに小学生のようだなと思う。今さら直すタイミングもないのだが。
七穂は鍋の取っ手をつかんで、早足に茶の間へ移動した。
「ぎゃー、ちゃみ様。そこですりすりしないで!」
わざとか。わざとなのか。
そしてこういう時にかぎって、日頃そっけない飼い猫が、足下にまとわりついてくるから勘弁してほしい。
隆司がちょろちょろする茶トラ猫の身柄を確保してくれなかったら、危うく鍋の中身ごと投擲するところだった。
「あ、ぶ、なー……ナイスだ隆司君」
「大丈夫?」
「平気。鍋も無事」
「七穂ちゃんに怪我ないならいいけどさ……」
あらためてちゃぶ台の鍋敷きの上に、熱い鍋を置いた。
同居人の結羽木隆司は、養子として結羽木家に引き取られたと聞いている。家系図で見れば七穂の母方の従兄にあたり、築八十年越えの古民家『我楽亭』の相続人だ。一応七穂の恋人でもある。
あまり余計な肉もつかず、日にも焼けない上品なタイプの美形で、世が世なら御簾の内側で詩作の一つもしていたような雰囲気がある。片や地黒で肉もつきやすく、じっともしていられない七穂とは正反対だ。
国内のいい大学からいい会社に入り、今は海外のIT企業でフルリモートの仕事をしていますと聞けば、羨ましがる人もいるかもしれない。どっこい七穂はこの従兄が小利口な坊ちゃん刈りだった頃も、ゴミ溜めで死んだ魚の目をしていた頃も知っているので、別段そのあたりに利点は感じていなかった。
ただどん底にいた彼が彼なりにあがいて這い上がって、同じ頃に悩んでいた七穂も家事代行という道を見つけることができて、一緒に穴から出られた喜びと愛情でもってこの家に暮らしているのだと思う。
同棲を始めたのは、彼が同僚追悼のための地球半周旅行を終えた去年の夏だ。今のところ二人と猫一匹の暮らしは、ひどく緩やかな時間が流れている。
「すごくいい匂いがしてたけど。ごま油?」
「お、鋭いね。今日は目指せ石焼きビビンバだから」
そしてそんな隆司に両脇に手を入れて持ち上げられたままのちゃみ様は、いつもより三割増し細長くなったフォルムで、つまらなそうに「にゃー」と鳴いた。
──とりあえずちゃみ様にはシニア用のカリカリを別途進呈し、七穂たちも昼ご飯にすることにした。
縁側に面した障子とガラス戸を開け放つと、椿に囲まれた庭から風が入ってくる。日光浴中の隆司の盆栽鉢と、池の周りに入り浸る外猫たちを愛でながらのランチタイムだ。
ちゃぶ台の上で鍋の蓋を開けると、隆司が目を丸くするからちょっと嬉しい。
「え、何。焼き肉屋?」
はっはっは。もっと褒めてくれ褒めてくれ。
ビビンバに割り入れた卵黄も、ほどよく半熟になっており、底の方にしゃもじを入れたら、狙い通りに綺麗なおこげができていた。そうよこれよと快哉をあげたくなった。
取り皿にそれぞれサーブして、鶏ガラスープで作ったわかめスープも付ければできあがりだ。
「キムチとコチュジャンあるから、好きにトッピングして食べて」
「ありがとう。貰うね」
「いただきまーす」
真っ昼間からキムチもりもりでランチが食べられるのも、今日の七穂が全面オフの日で、隆司の仕事が在宅のフルリモートだからだろう。
スプーンで半熟の卵黄を適度に崩しながら、大口開けてビビンバを食べる贅沢よ。
(うん、いい味だいい味だ)
ワンディッシュながら肉も野菜も沢山とれるし、粒がたったご飯に味もよく染み、おこげの香ばしさもちょうどよいアクセントになっていた。
「やっぱこの鍋でご飯炊くと、おいしいわ。おこげ万歳」
「ごめん七穂ちゃん、俺に鍋で炊飯は厳しいよ……」
「いや、別に隆司君にやってもらうつもりはないよ。今日はたまたま時間あっただけだし」
弱気を見せる隆司に対し、七穂は慌てて説明した。
お坊ちゃん育ちの上に、前職を鬱の疑いで休職経験あり。家事スキルゼロに等しかった隆司だが、今は炊飯器でご飯を炊き、冷凍食品やレトルトを温められるところまでは問題なくできる。七穂が仕事に出ている時の炊飯当番もやってもらっているが、こんな無茶ぶりを勧めるつもりは毛頭なかった。
「もともとビビンバって、炊き込むものでもないしね」
「そうなの? そういえばそうだったね」
本来のビビンバなら、炊いた白いご飯に各種のナムルや焼き肉を後のせすればすむ話だった。今回たまたま作り置きのナムルが切れていたので、どうせなら一緒に炊き込んでしまえと味付き肉とナムルの元になる野菜を放り込んでしまったのである。
ついでにおこげなども欲しかったので、炊飯器ではなくこの鋳物ホーロー鍋にした。結果的に石焼きビビンバに近しい味になったが、いつもいつもやる手ではないのはわかっている。
ただでさえ鋳物の鍋は重くて取り回しづらいし、ガスで炊くのは火加減や水加減もシビアだし、炊飯器と違って火の側から離れられないのも面倒だ。
ようするに時間と気力が有り余っている時にしか、取れない選択肢なわけだ。七穂は納得して汁椀に手をのばした。
本日の汁物は、簡単に作ったわかめスープだ。鶏ガラスープをお湯で溶いて、刻みネギと乾燥わかめ、塩コショウで味を調えた。最後にさっと一回しした、香ばしいごま油も利いていると思う。
お椀を持って口をつけたら、どこからか声が聞こえた気がした。
──ねえ石狩さん。あなたってどんな料理を作る人なの?
ボリュームは小さかったが、近くにいればよく聞こえたし、聞き取りやすい話し方をする人だった。人に合わせることを知った上で、自分の好みと軸を持つのが、彼女の知恵であり美学だった。
(私は……今も勉強中です)
──陶器より軽くて、金属より口当たりが優しい。だから漆器が好きなの。
よく覚えている。この漆のお椀も重い鋳物の鍋も、みな彼女の家にあったのだから。
「……まだ悲しい?」
黒塗りの椀に顔を映して黙りこむ七穂を、隆司が案じて声をかけてきた。
一回粉みじんに壊れた男は、他人のへこみに優しいのだ。いつまでも湿っぽくて申し訳なかった。七穂は首を横に振った。
「そういうわけじゃないの。そういうわけじゃないんだけどね」
ただあの時間が、あの人の話を聞く機会が、もっと続けばいいとは思っていた。叶わないことを知る今は、なおさらやりとりの一つ一つが貴重だった。
七穂は縁側の向こうにある庭に目を向けた。
光が──明るい。
敷地の中でひときわ背の高い庭木は、桜だ。新緑の若い葉を盛んに茂らせている。最初は向こうの桜もこちらの桜も固いつぼみで、空は冷たい雲に覆われていた。
そこから一つの花の季節を駆け抜けて、低木のサツキやツツジが咲く今になってこんな気持ちを抱えることになるとは思わなかった。
私は本気でした。
だからこそ本当に残念でならないです、師匠──。
*
続きは発売中の『石狩七穂のつくりおき 猫は仲間を募集中』で、ぜひお楽しみください。
■ 著者プロフィール
竹岡葉月(たけおか・はづき)
1999年度ノベル大賞佳作受賞を経てコバルト文庫よりデビュー。以降、少女小説、ライトノベル、漫画原作など多方面で活躍する。著書に、「おいしいベランダ。」「谷中びんづめカフェ竹善」「犬飼いちゃんと猫飼い先生」「石狩七穂のつくりおき」などの各シリーズ、『恋するアクアリウム。』『つばめ館ポットラック〜謎か料理をご持参ください〜』『音無橋、たもと屋の純情 旅立つ人への天津飯』など多数。最新刊は『旦那の同僚がエルフかもしれません』。