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付き添うひと

 第一話 どうせあいつがやった

 男のスーツは、見るからにくたびれていた。
 背広は襟のあたりがほつれ、黒地のスラックスは表面がつるつるに擦り減っている。実際、彼が着ているものは高級品とは言えない。量販店のセールで購入した上下二万円の代物だ。買う金がないわけではない。服は着られれば十分、という信条のせいである。髪型も無造作で、太い眉や剃り残した髭からも、身なりに気を遣っているようには見えない。
 ただ、胸元で光るバッジだけはよく磨かれている。ひまわりと天秤がかたどられたバッジは、照明を反射してきらめいていた。
 四十がらみの男の顔には微笑が浮かんでいる。目尻は細められ、口元は緩やかなカーブを描いていた。
 彼がいるのは小さな面会室だ。デスクを挟んで、ジャージ姿の少年がパイプ椅子に腰かけている。鑑別所で支給された衣類だった。身長は一七〇センチくらいか。やせ型で、頰が少しこけている。目つきは鋭く、唇は固く閉じられていた。半端に伸びた短髪に染めた形跡はない。
 二人の他、室内には誰もいない。
「はじめまして。弁護士のオボロです」
 差し出した名刺には〈おぼろ太一たいち〉と記されている。少年はふてくされたような顔で、机上に置かれた名刺を眺めていた。
斎藤さいとうれんさんですね。十七歳」
 話しかけても少年は答えない。予想していた反応ではあった。
「ぼくはあなたの付添人つきそいにんです。大人の場合は弁護人と言いますが、未成年を担当する時は付添人と呼びます。知っていましたか?」
 答えはない。
 ──初回なら、こんなものだよな。
 オボロは内心でひとりごち、淡々と話を進めていく。
 部屋には留置場のようなアクリル板の仕切りはなかった。その代わり、オボロの手元には職員から渡されたブザーが置かれている。何かあればこれを使って人を呼べ、という意図だが、オボロはこれまで一度も使ったことがない。
「勾留中の先生から代わるけど、心配する必要はありませんよ。同じことをまた質問してしまうかもしれないけど、その点は許してください。午前中は心理検査だったでしょう。どうでした?」
 幾度呼びかけても蓮は微動だにしない。オボロは相手の顔から視線を外さない。目と目が合った瞬間、微笑みを消す。
「ぼくは、蓮さんの味方です。あなたのパートナーとして、権利を守り、代弁する立場です」
 蓮の視線が揺れる。わずかに戸惑いが見えた。
「これから蓮さんが話してくれる内容について、ぼくが無断で他人に話すことはありません。調査官にも、裁判官にも、あなたのご家族にも。ただ、あなたの人生を考えるうえで、知ってもらったほうがいい場合もある。そう判断した時は、他の人に伝えてもいいか、確認させてもらいます」
 蓮は落ち着かない様子で、視線を左右にさまよわせている。ささやかな手ごたえを感じた。本心は不明だが、とにかく反応を引き出すことができた。声は届いている。オボロは再び微笑した。
「ここがどこかはわかっていますか」
「……鑑別所」
 初めて蓮が言葉を発した。
 その返答の通り、二人が向き合っているのは少年鑑別所の一室である。
 逮捕された蓮は家庭裁判所へ送致後、観護措置が決定された。家裁が調査を行い、結論を出すまでの間、鑑別所で保護するよう指示されたのだ。運用上、最長四週間をここで過ごすことになる。
 この鑑別所では面会時の飲食が禁じられている。面会する少年にジュースをおごるのはオボロの常套じょうとう手段だが、ここではその手が使えない。
「そう。鑑別所です。どうしてここにいるか、説明できますか」
 沈黙が流れた。蓮は気まずそうに押し黙っている。つい発言を催促したくなるが、ぐっと我慢する。この質問は、自分の意思で口を開かせるのが目的だ。無理に話をさせたところで、会話にはならない。警察や検察と同じ取調べになるだけだ。
 少年との初めての面会前、予断を抱いてしまわぬよう、オボロはあえて事件記録に目を通さないことにしている。供述調書も結論だけ見ているが、経緯は読んでいない。つまり現時点では事件の全容がはっきりしない。
 根気強く待っていると、唐突に蓮が口を開いた。
「人を、殴ったから」
 ちぎって捨てるような言い方だった。
「いつ頃ですか」
「先月。二、三週間前」
「相手は」
「ホームレスのおっさん」
 どこかで意識が切り替わったのか、愛想のない口ぶりではあったが、蓮は質問に答えを返すようになった。オボロは要所でメモを取りながら質問を続ける。
「どうして殴ったの」
「ムカつくから。目につく場所に汚いやつらが住んでて、うっとうしい」
「腹が立ったから、殴ったんだ」
「そう言ってんじゃん」
 投げやりだった口調に憤りが混ざる。徐々に感情がこもってきた。
「どうやって殴った? 道具は」
「金槌で。なんか、おっさんの家に落ちてたから」
「用意していたわけではないんだ」
「当たり前だろ。そんな、わざわざ殴りに行く相手じゃない」
 苛立ちが露わになってくる。触れたくない話題に近づいている時、多くの少年は同じように、あからさまに不機嫌さを伝えようとする。だが仲間内ならともかく、警察官や裁判官、弁護士にそれは通用しない。
「時間は何時頃だったのかな」
「知らない。夜」
「わざわざ、夜に河川敷にいたのはどうして」
「普通に、ふらふらしてた。別に目的とかない」
 蓮は先ほど、わざわざ殴りに行く相手じゃない、と証言した。つまり〈ホームレスのおっさん〉を殴ったのは計画外であり、そのために河川敷へ出向いたわけではないということらしい。
 しかしそうなると、夜の河川敷に足を運ぶ目的がわからない。無目的に歩いて、たまたま河川敷に辿り着く可能性がどの程度あるのだろうか。
 ──まだ、整理できていないか。
 少年の発言に一貫性がないからといって、意図的に噓をついているとは限らない。本人もまだ混乱している可能性がある。いきなり正面から矛盾を突けば、激昂げっこうして心を閉ざされてしまうかもしれない。
「では、殴った相手がどうなったか確認した?」
 質問の角度を変えてみる。
「血は出てなかった。殴ったらうつぶせに倒れて、動かなくなった」
 蓮は急に、嚙みしめるような、ゆっくりとした口調になった。慎重に記憶を掘り起こしているようにも、失態を演じないため注意しているようにも聞こえる。
 取調べで厳しい応対を受けたのが、ちょっとしたトラウマになっているのかもしれない。蓮には補導の過去もない。警察官とまともに話したのは、事件後が初めてだったはずだ。緊張も感じられる。
「ぼくは味方だから。失言を恐れる必要はないよ。正直に答えてくれればいい」
「もういいって。何回も話したから」
 懐柔かいじゅうするような言い方が余計気にさわったのか、蓮の姿勢は頑なになっていく。いったんは対話に向かいかけたが、再び殻にこもろうとしている。オボロが次の手を思案していると、蓮が舌打ちをした。
「ヘラヘラすんなよ。大人のくせに」
 なじられても、オボロの微笑は揺るがない。長年の訓練の賜物だ。
 この微笑みは、少年事件を扱っているうち自然と身に付いた。どんな少年少女でも、受け入れ、味方であることを態度で示すための武器。同時に、オボロの心を守るためのよろいでもある。どんな表情をすればいいかわからない時でも、微笑していれば心の余裕を保つのに少しは役立つ。
「悪いね。元からこういう顔で」
「バカだろ」
 吐き捨てた蓮はあさっての方角を見ている。
 その後もオボロは根気強く質問を重ねたが、まともな答えはほとんど返ってこなかった。
 最初の面会でいきなり心を開いてくれることは少ない。言い訳をしたり、噓をついたりするのはまだましだ。一応は対話の意思が感じられる。だからオボロにとっては、沈黙を決め込まれるのが一番辛い。
 ──これは骨が折れるな。
 一時間強の面会は、オボロの一方的な投げかけに終始した。
「また来るよ。これからよろしく」
 パイプ椅子から立ち上がったオボロに、蓮は「ねえ」と声をかけた。反応があったことに驚きつつ「どうしたの」と身を乗り出す。蓮はその目をじっと見て、ゆっくりと言う。
「何のためにここまで来たの」
 暗に、付添人など不要だと言わんばかりだった。オボロは笑みを深める。
「あなたと話すために」
 蓮はオボロの顔を凝視したまま、固まった。意外な切り返しだったらしい。いい意味か悪い意味かは読めないが、ともかく印象を残すことはできたようだ。
 室外にいる職員に面会終了を伝えると、蓮は部屋から連れ帰られた。
 選任の手続きを済ませ、鑑別所から出ると、晩秋の風が首筋を吹き抜けた。曇天の淡い灰色が、肌寒さをいや増す。歩きながらスケジュールを振り返る。
 家裁の審判期日まで残り三週間。それまでに、斎藤蓮のパートナーとして、彼の権利を代弁できるようにならないといけない。通常、期日までの面会は三回程度だが、もう少し頻度を上げたほうがよさそうだ。
 財布に入ったICカードをかざし、駅の改札を抜けた。
 手のなかの財布には、少年の心を開かせるための切り札が入っている。だが、この切り札は諸刃の剣だ。うまくいく時は効果絶大だが、相手によってはさらに心を閉ざしてしまう。使いどころは慎重に選ばないといけない。
 蓮との面会は上首尾に終わったとは言えない。だが、味方だと伝えた時、確かに蓮の視線は揺れた。少なからず心が動いたはずだ。
 大丈夫、対話の余地はある。
 オボロはそう自分を鼓舞して、事務所への帰路を歩いた。

「いやいや、ご無沙汰ですね。半年ぶりですか」
 家庭裁判所調査官の浦井うらいは小太りの身体を揺すって笑う。面白くて笑っているのではなく、とにかく笑顔を見せることが彼なりの処世術なのだろう。笑い方の派手さは違うが、要するにオボロと変わらない。
「浦井さんはお変わりないようで」
「それが太っちゃって。この間健診だったんだけど。一年で二キロ増えてました」
 裁判所の会議室に、浦井の笑い声が響く。
 少年事件では、成人事件と違い、検察官は一定の例外を除いて起訴しなければならない。事件は家庭裁判所へと送られ、検察から家裁へとバトンタッチされる。成人のように公開裁判が開かれることもなく、非公開の審判が行われる。
 その審判で重要な役割を果たすのが、調査官だ。
 オボロの職務上、調査官は最も接する機会が多い職種の一つである。裁判所の職員である調査官は、少年事件など、家庭裁判所での審判に必要な調査を担当している。今回の事案については浦井が担当の調査官だった。
 調査官がまとめる調査報告やそこに付された意見は、家庭裁判所に提出される。また、付添人はそれとは別に意見書を提出する。家裁の裁判官はそれらの書類を吟味して審判を下すが、その結論が調査官と同一になるケースは少なくない。
 そのため付添人のオボロとしては、処遇ができるだけ軽くなるよう下調べや準備をしつつ、蓮が納得できる結論を導くよう調査官に求める必要がある。
「えーと、斎藤蓮さん。ああ、はいはい。路上生活者への暴行事件だ」
 浦井は手元のファイルを繰りながら、改めて書面に目を通す。朗らかな表情から一転、厳しい顔つきになった。心証が顔に出ている。
「調査はもうはじめていますか」
「まだですが……でもこれ、どうせ逆送でしょ?」
 裁判官が刑事処分相当と認めた場合、事件は検察官に送致され、成人と同様に起訴、刑事裁判という流れが待っている。その場合は公判も開かれる。家裁に送られた事件が戻されることから、検察への送致は〈逆送〉と呼ばれていた。特に重大事件については逆送となることが多い。
「それは調査結果にもよりますよ」
 オボロは反射的に反論していた。路上生活者への襲撃を認めている蓮はこのままいけば逆送となる可能性が高いが、調査の前から決めつけるような言い方は受け入れがたい。保護観察への道だって残されているはずだ。
「そうかなあ。いや、結論が決まっているからって手を抜くわけではないですよ。調査はきちんとやります。でもねえ。本人も認めているし、後追いになるだけじゃないかな。進行協議はやるんでしたっけ?」
「申し入れはしたんですが、必要性はないと」
「ならしょうがない」
 期日までの進行に関する裁判官との打ち合わせを進行協議と呼ぶ。重大事件や、複数の期日を設定すべき事件では進行協議を行うことが多い。オボロとしては蓮に不利な心証を形成されないため、進行協議で裁判官に釘を刺しておきたかったが、裁判官の側から不要と判断された。
「高校は中退……学校への照会はかけてもいいですよね」
 オボロは頷く。
 少年が学生の場合、在籍する学校への照会を避けてもらうこともある。照会によって非行事実が学校に知られてしまうせいだ。重大でない案件では、意外と、学校は非行事実を把握していない場合がある。裁判所から事実が知られ、事実確認の前に退学や停学などの処分が下るのは避けなければならない。
 ただし蓮は昨年、高校を退学している。そのため学校照会を止める理由はなかった。
「保護者への聞き取りは、先生も同席しますか」
「いえ、こちらの予定はお構いなく。浦井さんもお忙しいでしょうから」
「そうしてもらえると助かるな」
 蓮は母子家庭で育っている。父母は十三年前に離婚しており、父親との交流は皆無。きょうだいはいない。
「しかしまあ、金槌で殴るとはね」
 浦井は口をへの字に曲げ、供述調書に目を通している。少なくとも、同情の念を抱いているようには見えない。
「えー、被害者の男性は、当初は全治二週間程度の怪我と見られていたが、その後、殴打の影響で急性きゅうせい硬膜下こうまくか血腫けっしゅとなったことが判明、手足の麻痺まひや記憶力の低下が見られる、と」
 被害者男性には事件直前の記憶がなかった。倒れていたのは自分の住む小屋であったが、犯人を招き入れたのか、いきなり襲撃されたのかも定かでない。当然、犯人の顔など覚えていなかった。
「この子も何を考えて、金槌で人の頭を殴ったのかね」
 オボロは慌てて「待ってください」と割り込んだ。
「彼の単独犯と決まったわけではありません」
「いやいや、目撃者もいるしその線は無理がある」
 犯行時刻の前後、河川敷周辺の路上で蓮を見たという目撃証言があった。目撃者はアルバイト帰りの元同級生で、街灯の下の横顔まではっきり見えたという。何より、蓮自身が自分一人の犯行だと認めている。
 だが、オボロはその筋書きをすんなり吞み込むことができなかった。
 とりわけ、河川敷にいた理由が気になる。
 蓮との面会後、改めて事件記録に目を通したが、当夜の行動については取調べでも「ふらふらしていた」とだけ証言していた。しかし事件現場は蓮の自宅アパートから一〇キロも離れている。徒歩で移動していた蓮が偶然辿り着くにしては遠すぎる。それに、当該の河川敷には立ち寄る理由などない。あるものと言えば、路上生活者の段ボールハウスくらいだ。
「彼はまだ事実を話していない気がするんです」
 オボロが本音を漏らすと、浦井は露骨に顔をしかめた。
「まさか、非行事実を争うつもりですか」
「場合によっては」
「本人が認めているのに?」
「ですから、場合によっては」
 正直に言えば、今後の戦略についてはまったくの未知数だった。事実を争う余地があるかすらわからない。だが、全面降伏するつもりもなかった。
 納得しかねる、と言いたげに浦井は腕を組んで瞑目した。
「うーん……付添人として、少年に有利な情報を集めることは結構ですがね。でも先生、勘だけで意見書は書けませんよ」
 もっともである。現時点で、蓮の非行事実を争える材料は何一つない。根拠はオボロ個人の違和感だけであり、そんなものを裁判官が認めるはずがなかった。
「これは老婆心から言いますがね。裁判官が心証形成する前に、さっさと意見書出したほうがいいんじゃないですか」
「しかし……」
「ほら、ここ見てください」
 浦井が事件記録に添付された写真を指さす。凶器の金槌が写っていた。
「金槌の柄を拭った跡があります。おそらく指紋を消したのでしょう。斎藤蓮が証拠隠滅を図った証拠じゃないですか。裁判官は悪意をもって犯行に及んだと判断しますよ。深く突っこまれないうちに、意見書をまとめたほうがいい」
「それだけでは彼の犯行とは言えません。それに、共犯者がいたのかも」
「先生」
 浦井はうんざりした顔でオボロを見やる。
「あんまり入れ込みすぎないほうがいいですよ」
「少年が頼れるのは付添人しかいません」
 諭すような口調は浦井なりの心配の表れだろうが、オボロもすんなり引き下がることはできない。浦井はうつむき、人差し指で額を搔いた。
「……こういうこと、言っちゃいけないんでしょうけど。私たちがどれだけ奔走したところで、彼らが変わるとは限らないじゃないですか。先生も、それなりに経験あるんだしわかるでしょう? 家裁に送られた子のうち、何割が立ち直ったんです」
 浦井の言葉から、オボロは直感した。
 ──この人は、ぼくの過去を知らない。
 裁判官や調査官は二、三年の周期で転勤するため、最近知り合った関係者のなかには、オボロの過去を知らない者も少なくない。浦井がこの家裁に来たのは昨年。知らないのも無理はない。
 オボロにとっては、そのほうが仕事はやりやすい。駆け出しだった頃は、少年や保護者だけでなく一部の調査官からも白い目で見られた。その一方、弁護士として少年保護事件を手がけるオボロを激励してくれる関係者もいた。
 よくも悪くも過去は風化する。
「何割だとしても、やるしかないです」
 心配する浦井に、オボロは曖昧な笑みを見せた。

 雨上がりの路上には、ほんのりと土臭さが漂っている。
 傘を畳んだオボロは、スマートフォンの地図を頼りに目的の団地へ向かっていた。近づいているはずだが、路地が入り組んでおりなかなか到着しない。約束の午前十一時が刻々と近づいていた。少し足を速める。
 狭い路地で、自転車に二人乗りした少年とすれ違う。平日の午前中、まだ学校の授業がある時間のはずだ。後ろに乗った金髪の少年が無遠慮な視線をオボロに投げかけた。民家の窓から顔を出した中年の女性が、けだるそうに煙草の煙を吐いている。シャッターの降りた商店の軒先で、日に焼けた男性が缶チューハイを飲んでいた。
 オボロが育ったのもよく似た町だった。日本中に存在する、ありふれた下町。
 平屋のアパートの一角で、七歳から十四歳まで過ごした。それ以前は祖父母のもとで過ごしていたようだが、詳しいことは覚えていない。両親とはとうに縁を切っている。
 小さな公園の角を曲がると、行く手に巨大な灰色の直方体が現れた。コンクリート造りの団地棟だ。
 近づくと、各戸のベランダの様子まで目に入る。そのすべてにエアコンの室外機が据えられていた。中身が一杯のビニール袋や使われなくなった家具が放置され、ゴミ捨て場のようになったベランダもある。干しっぱなしの洗濯物が風に揺れていた。
 斎藤蓮の自宅は4号棟2階にある。人気ひとけのない敷地を横切って、目当ての部屋を探し当てた。ドアの前に立つとにわかに緊張が高まる。
 インターホンを押すが、扉は開かなかった。
「こんにちは。弁護士のオボロです」
 ドア越しに声をかけるが反応はない。嫌な予感がした。
 訪問することはあらかじめ母親に伝えている。渋々ではあったが、一応了解は得たはずだ。土壇場で逃げたのか。これまでにも、そういう経験がないではなかった。
「斎藤さん。オボロです。いらっしゃいますか」
 執拗しつようにノックすると、ようやく内側からドアが開いた。髪を褐色に染めた女性が、うとましそうにオボロをにらむ。歳は四十前後と見えた。化粧はしていないが、眉だけは描いてある。
「やめてください……うるさい」
 彼女の名は、斎藤亜衣子あいこ。蓮の実母である。オボロは微笑を浮かべる。
「失礼しました。不在だったらどうしようと思って」
「いないわけないでしょう。約束したんだから」
 亜衣子の案内で、オボロは足を踏み入れる。玄関にはラベンダーの香りが充満していた。ふと見れば、靴箱の上に真新しい芳香剤が置かれている。廊下にはほこりや毛髪が落ちていた。
「あまりじろじろ見ないでください」
 亜衣子に眉をひそめられながら、オボロは密かに室内を観察する。間取りは2K。正面にはリビングがあり、右手の部屋の扉は閉ざされている。溜まったゴミ袋か何かを、急いでその部屋に移したのだろう。廊下にところどころ埃が積もっていない場所があるのは、さっきまでゴミが放置されていたせいだ。綺麗にしているとは言い難いが、とりわけ汚いわけでもない。人を呼ぶ時にゴミを片付け、臭い消しを置いておく気配りはできる。
 オボロはリビングに通された。六畳の洋間に小さな台所が付いている。台所には汚れがこびりついていたが、シンクに洗い物は残っていない。隅には畳まれた洗濯物が重ねられていた。
 勧められるまま座布団に腰を下ろす。名刺を渡すと、亜衣子は顔をしかめた。
「蓮さんの付添人のオボロです。よろしくお願いします」
 はあ、と言葉にならない相槌を打ち、亜衣子は名刺をローテーブルに置いた。うつむいたその顔は、よく見れば蓮と似ている。
「今日はお母さんに色々訊きたくてお邪魔しました」
「あの子、警察で全部話したんじゃないんですか」
 亜衣子は退屈そうな表情で手元を見ていた。少なくとも表面上、息子が逮捕されたことへの動揺は見られない。
「だいたい、弁護士さんに付いてもらう必要ありません。あの子が自分で落とし前をつければいい。それに、うちお金ないですから」
「国選の付添人ですから、斎藤さんに費用を負担していただく必要はありません」
「ああ、そう。でもあの子、自白してるんでしょう。少年院じゃないんですか」
「いいえ。蓮さんがどんな処分になるかはまだわかりません」
 亜衣子は首をかしげている。
「逮捕されたからといって、必ず少年院に送致されるわけではないんです。蓮さんの処遇は、家庭裁判所の結論で決まります」
「……少年院じゃないなら、刑務所ですか」
「少年刑務所というのもありますが、それ以外にも色々あるんです。たとえば、保護観察。自宅や職場で生活を送りながら、指導を受けるんです。再非行の危険がないと認められれば、不処分になることもあります」
「でも、蓮はもう不処分にはならないでしょう?」
「今の段階では何もわかりません。ですから、蓮さんの今後を考えるため、お母さんには確認したいことがたくさんあります」
 まだ納得しきれない様子だったが、それ以上は反論しなかった。とりあえず、抵抗は諦めたらしい。
「まずはご職業を教えてください」
 その問いに、亜衣子は失笑して見せた。
「調べてないんですか。生花店の事務。店番もやってるけど」
 オボロはメモを取りながら話を進める。
「いつからそこで働いているんです」
「五年くらい前かな。よく覚えてない」
「その前は?」
「キャスト。キャバクラね。年齢的にキツくなって、店クビになったの。路頭に迷いかけたんだけど、出入りの花屋で事務の人が辞めたからそこにうまいこと入れた。簿記なんかできないけど、商業高校出だから」
 過去を語る亜衣子の表情は真剣だった。
「蓮さんの生活態度を伺いたいんですが」
「ちょっと、吸ってもいいですか」
「どうぞ」
 亜衣子はいったん席を立ち、台所の換気扇を動かしてから加熱式煙草を吸いはじめた。
「えーと、それで……蓮のことか。最近は、何やってたかよくわからないですね。小学生までは近所のゲーセンとか、ハンバーガー屋でつるむくらいだったと思う。中学に入った頃から、夜出歩くようになったみたい。うちの花屋、夜も営業してるから、私も家帰るのが遅くなるんです。十二時とかに帰っても家にいないことが多かったなぁ」
 一人息子について話しているというのに、まるで他人事ひとごとだった。
「じゃあ蓮さんは、お小遣いで遊んでいた?」
「どうかな。花屋になって給料も下がって、小遣いなんかほとんど渡してなかったけど。私も私で、生活カツカツでしたから。あの子の面倒まで見る余裕ないっていうか。中学生なら、一人で生きていける年齢でしょう」
 ひどく投げやりだ。オボロは小指で額を搔いた。
「高校を中退したのは、同級生への暴力行為が原因ですか」
 ここへ来る前に、高校には問い合わせていた。校内暴力でたびたび騒動を起こしており、最後は本人の意思で退学した、というのが学校側の言い分であった。
「たぶん。中学から、ヤンキーっぽくなったみたいですけど。大した小遣い渡してなかったのに、知らない服着てたり、髪染めてたりしたから、あぁ、どこかで金ぶんどってきたんだな、とは思ってました」
 聞き逃せない発言である。オボロが「詳しく教えてください」と言うと、亜衣子はいかにも面倒くさそうに片頰を歪めた。
「そんな覚えてないけど……三年前だから、あの子が中学二年の時か。いきなり髪を赤く染めてきたんですよ。頭どうしたのか訊いたら、美容院でやった、って返ってきて。美容院なんか通ってるのかよ、と思ったから覚えてます。カラーリングしたらそれなりに金もかかるし。その時、他にも気がついて。ピアスとか、変なサングラスとか。なんか服も見覚えないやつで。それで察したんですよね。こいつ金せびってんな、って」
 オボロは手帳にペンを走らせる。家裁で閲覧した記録には、蓮が素行不良である旨は記されていたが、具体的な行為には言及されていなかった。
「金をせびっていた相手はわかりますか」
「さぁ。カツアゲでしょ」
「学校の同級生や後輩ということですかね」
「さぁ」
 亜衣子は薄い煙を吐きながら、同じ台詞を繰り返した。
「お母さんは、学校から呼び出しを受けなかったんですか」
「呼ばれましたよ。学校には何回も行きました。最初は中学上がってすぐだったかな。喧嘩で怪我させたか何かで。呼ばれたのなんて初めてだったんで、相手の親のところへ、菓子折り持って謝罪に行ったりしました。蓮のことも𠮟りました。でもねぇ、同じことがしょっちゅう続くと、こっちももう諦めますよ。先生のほうも呆れて、見放していたし。そのうちこっちが無視するようになりました」
 述懐する横顔には徒労感がにじんでいる。亜衣子なりに、蓮を育てようという意思はあったのだろう。かつては。
「高校を中退してからはどう過ごしていましたか」
「ガソリンスタンドで働いてたけど、一年もせずに辞めました。あとは知りません」
「仲のよかった友達は誰でしたか」
「すみません、一切知らないんです」
「最近様子がおかしいとか、なかったですか」
「わかりません」
 オボロは食い下がるが、亜衣子の返答はそっけない。固い殻にこもってしまったような空気を感じる。
「何でもいいんです。蓮さんに関することなら」
「私には、蓮のことはわからないから」
 こういう態度の保護者と接するのは、初めてではない。子どもに関心を持たない親、子育てを諦めてしまった親はいる。そういう家庭で育った子どもたちが皆、非行に走るわけではないが、親の無関心は肌でわかってしまうものだ。手を差し伸べられていないと感じる子どもが立ち直るのは容易ではない。
「そもそも母親になったのが、間違いだった」
 亜衣子の視線はベランダに面したガラス戸へ向けられていた。まるで、そこに映った半透明の彼女自身へ語りかけているようだった。
「なりゆきで妊娠して産んだだけで、覚悟とかなかったし。血がつながってても、結局は他人じゃないですか。他人の考えてることなんてわからない。家族だから理解するべきだなんて、傲慢ごうまんだと思いません?」
 その問いに、オボロは答えられなかった。
 蓮の付添人として、否定すべきだとわかっている。だが朧太一という人間の思想は、むしろ亜衣子に共鳴していた。親だから、子だからといって、相手を想い尊重する義務はない。血のつながりは愛の裏付けにならない。
 七歳から十四歳まで過ごしたあのアパートが、目の前の光景と重なる。平屋の汚くて狭い部屋。湿った空気に充満した、けだるさと不穏さ。
 深夜、母は不機嫌そうに金の勘定をしている。父は部屋の隅で所在なげに煙草を吸っている。小学生のオボロは二人の間で膝を抱えていた。夜更かしをとがめる者はいない。それどころか、寝付いていたオボロを叩き起こしたのはこの両親だ。
 ──ぼくは両親を愛していたのだろうか。
 確かなことが一つだけある。両親は、オボロを愛してはいなかった。愛していたなら、あんなことはさせなかったはずだ。
「……そういう考え方も、あるでしょうね」
 賛同の言葉を喉元で吞み込み、そう答えるのが精一杯だった。


 *


続きは発売中の『付き添うひと』で、ぜひお楽しみください。

岩井圭也

1987年大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年「永遠についての証明」で第9回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。著書に『夏の陰』『文身』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』がある。

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