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一万回話しても、彼女には伝わらなかったこと

 滅亡しない日

 教室から近い、二階女子トイレ。鏡に向かいながら、荒れた唇に、新しいリップグロスを塗る。ドラッグストアで、口コミサイトで大人気だというようなことが書かれた派手なポップが添えられていたものだ。薄い赤に色づく。《ひと塗りでぷるっぷる》と、さっき捨てたばかりのパッケージには書かれていたけど、もちろんそんなことはない。皮がむけている箇所が気になる。
「どう? いい感じ?」
 右隣に立っているに聞かれたので、上唇と下唇をこすり合わせるようにしながら、んー、と声を出した。
「塗ったばっかじゃわかんないか。あたしにも貸してー」
「はい」
 あたしが手渡したグロスを、今度は真優が使う。正真正銘同じもののはずなのに、真優の唇のほうが、赤が強くなった気がする。
「ありがとー」
「ん」
 受け取ったグロスを、チャコールグレーのブレザーの右ポケットに入れる。手を入れるたびに、もっと深くすればいいのに、と思う浅いポケット。透明のリップクリームが同じ場所に入っているので、外目にも少しふくらんでいるのがわかるけど、別に誰も気に留めないだろう。
「やっぱいい感じだよ」
 グロスのことかと思いきや、視線によって、髪をほめてくれたのだと気づく。
「ありがと」
 本人に向かってというより、鏡の中であたしを見つめている真優に向かってお礼を言った。鏡越しだと、いつもと少しだけ顔が変わって見えるから変な気分。
 長い部分であごに並ぶくらいの前下がりのボブ、前髪は眉よりちょっと上、というのが昨日の夕方からのあたしの髪型だ。それまでは真優と同じように、鎖骨に重なるくらいの長さがあって、学校では一つにまとめていた。知らない誰かが作った規則を守るために。
 切りすぎたんじゃないかと思っていたけど、朝にあたしを見るなり、真優は「わいいー、似合うー」と繰り返してくれて、それが噓じゃない感じだったので、自分でも昨日よりはよっぽど気にいっている。こんなに切ったのは久しぶりだ。
「どこ行く?」
「んー、フードコートかな」
 たいてい質問をするのはあたしで、決めてくれるのは真優。フードコート、カラオケ、ファミレス、ファストフード、たまに買い物。もちろんどこも行かないときもある。家の用事で早く帰らなきゃいけないとか、疲れてるとか、お金がないとか。でもそういうときは、昼休みのうちにあらかじめ伝え合っているから、放課後にこうやって一緒にトイレに来ている時点で、帰りにどこかに寄ろうというのは暗黙のルールだ。
「久しぶりにクレープ食べようかな」
 フードコートの一角、クレープ店の甘い匂いを思い浮かべながら、あたしは言う。いちごかバナナか。
「あ、いいね。あたしも」
 教室に戻り、置いてあった紺の指定カバンを手にして、あたしたちは校舎の外、駐輪場を目指して歩いていく。

 あたしたちの家は離れている。フードコートが入っているショッピングモールは、どちらかといえばあたしの家寄り。学校からは自転車で十分くらいの距離なので、しょっちゅう二人で利用している。もっとも、あたしたちだけにかぎったことではなくて、同じ制服の生徒や、違う高校の生徒も、夕方にはよく見かける。今日も同じ学年の女子四人がいるのがわかったので、離れた席に座った。話したこともないくらいだから、別に嫌っているとかじゃなくって、なんとなくの決まり。
「これさ、おいしいんだけど、結構すぐ飽きるんだよね」
 真優が言い、あたしは思わず笑った。
「いっつもそれ言うじゃん。はい、交代で食べていいよ」
 向かい合う真優にバナナチョコ生クリームクレープを渡し、苺カスタードクレープを受け取った。とはいえあたしも実は、バナナチョコ生クリームに飽きつつあったので、こうやって食べるほうがありがたい。自分が頼まなかったクレープのほうがおいしい気がしてしまう。いつも。
あやの行ってる美容室ってどこなんだっけ?」
「シエルってところだよ。駅のわりと近く」
「どのあたり?」
「えーっとね、行列できるラーメン屋さんあるじゃん? あの角の。あそこの並びの二軒隣くらい」
「あ、わかったかも。ガラス張りのところだよね?」
「そうそう、そこ」
 持っているクレープをまた交換する。
「あたしも髪切ろうかなあ。でも彩葉は小顔だし、顎のラインがシャープだもんね。あたし、顔丸いしでかいからなあ」
「でかくないよ」
「えー、でかい」
「でかくないって」
 あたしの否定の言葉は、あまり届かないようだ。
 真優はコンプレックスが多く、それをよく口にする。背が低いとか、胸が離れてるとか、足首が太いとか。どれもさほど当てはまらないし、当てはまる場合でも標準よりわずかにというくらいなんだけど、本人にとってはわずかではないらしい。
 クレープを食べ終えた真優は、ここに着いてからほどいた髪の毛先を触り、口をとがらせている。悩んでいるみたいだ。その様子を見ながら、あたしもクレープを食べ終える。思い出して、たずねた。
「美容師さんと仲いいって言ってなかった? 子どものときから通ってるんでしょ?」
「そうなんだけど、美容師さん辞めちゃってさあ。子どもできたんだって。ママも同じところ通ってて、担当の美容師さんは別の人なんだけど、その人に頼むのも、なんかねえ」
 母親と同じ美容師さんに担当してもらうというのは、確かに、なんとなくいやかもしれない。あたしは、そうなんだー、と相づちを打った。
「仲いい美容師さん、三十代後半くらいで、結婚してわりと経つんだけど、全然子どもできないから、そういう体質なのかもー、ってあきらめてたんだって。彩葉はさー、子ども欲しい?」
 美容師さんの話から、いきなり方向転換したので、あたしはすぐに答えることができない。えー、わかんない、と正直に言った。いつか子どもを産むのかもしれないとは思うけど、そもそも誰とも付き合ったことすらないのだ。
「そっかー。あたしは絶対女の子が欲しいんだけど、しゅうせいは男の子がいいんだって。一緒にサッカーやりたいって言ってる」
「もうそんな話までしてるんだ」
「まあ、いつかだけどね、いつか」
 修成くんというのは真優の今の彼氏だ。別の高校に通っている。コンプレックスの多い真優だけど、あたしよりよっぽど可愛いし、中学時代から彼氏がいたという。
 修成くんと真優が、去年の冬に彼の部屋で初体験を済ませたということも、事細かに聞いた。あたしにはまだ遠い、別の惑星の話みたいに感じられる。セックスについては、ある程度知っているつもりでいるけど、自分の身体からだに男の人のあれが入ってくるなんて信じられない。気持ち悪いとすら思ってしまうので、具体的には想像しないようにしている。
「仲いいね」
 あたしはそう言ってから、なんだか話を終わらせたがってるみたいになってし
まった気がして、いいなー、うらやましいよ、と付け足した。
「彩葉も彼氏作ればいいのに」
 パンがなければケーキを食べればいいのに、と言ったマリー・アントワネットも、こんな感じだったのかもしれない。
「相手がいないもん」
 当たり前のことを言ってるな、と我ながら思う。
 恋愛のことが話題にのぼると、なんだか緊張してしまう。寂しさやしっとは別だ。たとえるなら、偉い人の前でフランス料理を食べる、みたいな気持ちだろうか。あたしにはマナーというものがわからない。どうすれば変に思われないのか。
 中学時代も、あまり浮かない程度に頑張って周囲と恋愛話を合わせていた。特に好きでもない男子のことを、気になるということにしてみたり。
「修成のサッカー部の友だちとかなら紹介するけど、彩葉、好み厳しいからなあ」
「厳しくはないけど」
「じゃあ聞いてみるよ」
 修成くんとはほぼ毎晩電話しているのだという。メッセージのやりとりはもっと頻繁なはずだ。
「いいよいいよ。なんか恥ずかしいし。彼氏欲しくなったらお願いするけど」
「もったいないなー」
 もったいないというのはどういうことなんだろうと思う。人生の中でごくわずかな女子高生という時間を、彼氏なしで過ごすのは、もったいないことなんだろうか。とはいえ真優も深く考えて言っているわけではなさそうだから、別にかない。
 彼氏といる時間は、友だちが経験していないともったいないと感じるほど、いいものなのだろうか。クレープを食べるよりも。だとしたら味わってみたい気もするけど。
「それより、美容室、もし紹介するなら、あたし言っておくよ。でもあたしも、まだ二回くらい行っただけなんだけど。友だち紹介の割引クーポンとかもらえるかも」
「えー、どうしよっかな。なんか他のところ行ったことないから緊張する。もう十年以上通ってたからさー」
「長いね」
 確かに前に聞いたエピソードもそんな感じだった。幼い頃から通っているせいで、変な習慣がついて、いまだに帰りに飴あ めやらチョコレートやらを渡されるのだと話していた。
 真優の子どものときの話を聞くのが、なんとなく好きだ。中でもあたしが特に気に入っているのは、工場の話。
 真優の家の近くには工場があり、何を作っているか知らなかったのだが、小学校低学年くらいのあるとき、親の車で通りかかった際に、看板の一部が見えて、そこには、「なかやま工場」という文字があった。中山はそのあたりの地名だったのだけど、同じクラスに中山という苗字の男子がいたこともあって、真優はしばらくの間、その工場では人間を作り出しているのだと信じこんで、勝手に恐れていたのだという。話を聞いたのはずいぶん前だけど、いまだに一人で思い出し笑いしてしまうことがあるくらい。
「あったかいもの飲みたくなっちゃった」
「あたしも」
 あたしたちは同時に席を立つ。あたしはカフェオレを、真優はミルクティーを買って戻ってくるだろう。いつもそうだから。そしてまたお互いのものを味見し合うのだ。


 *

続きは12月5日(火)発売の『一万回話しても、彼女には伝わらなかったこと』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
加藤千恵(かとう・ちえ)
1983年北海道生まれ。立教大学文学部卒業。2001年、短歌集『ハッピーアイスクリーム』で高校生歌人としてデビュー。現在は、小説、詩、エッセイなど、様々な分野に活躍の幅を広げている。著書に『ハニー ビター ハニー』『誕生日のできごと』『春へつづく』『あかねさす――新古今恋物語』『点をつなぐ』『そして旅にいる』『この場所であなたの名前を呼んだ』『マッチング!』など多数。

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