プロローグ
「ねえ、ほかの女と浮気してるでしょ」
仕事終わりに陽介を駅前のカフェに呼び出し、そう告げた。
交際を始めて四ヶ月。今までで最長記録だった。
陽介とは私が勤めているネイルサロンで知り合った。彼は私の常連客で、メンズネイルにハマっている二歳上の新米バーテンダー。
陽介が女とホテルから出てくるところを見たと、今朝先輩が教えてくれたのだ。ネイルケアの予約を入れていた彼は明日、来店予定だったが、私はどうしても真相を確かめたくてすぐに呼び出した。とはいえ、もう答えは出ているのだけれど、彼の口から直接聞きたかった。
「は? してないって。なんだよ急に。話ってそれかよ」
陽介の目が泳ぎ出す。なんてわかりやすいんだろう、と私は呆れ果てる。浮気をするならもっと上手にやってくれたらいいのに。
「陽介が女とホテルから出てくるとこ、見たって。先輩が」
「人ちがいだって。証拠でもあんのかよ」
あるよ、と即答して携帯の画面を彼に見せる。そこには陽介と髪の長い金髪の女が腕を組んで歩いている写真が数枚。先輩がとっさにいろんな角度から隠し撮りしてくれたおかげで、証拠は十分に揃っていた。
陽介は長い沈黙のあと、泣きながら謝ってきた。もうしない、俺が悪かったと。
「もう無理だから。私の店にも来ないで。明日の予約、キャンセルしとくから」
浮気は一回でもアウト。お互いに課した条件だったのに、こんなに早く破られるなんて思わなかった。
泣いて縋る彼を残して、私は店を出る。泣きたいのはこっちの方だ。被害者は私なのに、一瞬にして恋人と常連客、行きつけのバーを失ってしまった。
振ったのに振られた気分。さらには雨にまで降られる始末。急いで駅まで走り、改札口を抜けて電車に飛び乗った。
帰りの電車の中で、私は静かに泣いた。
また雨だ、と車窓を眺める。もう恋愛なんてうんざりだ。
そのときなにか既視感を覚え、すぐに思い至った。中学の頃にも同じようなことで恋人と別れ、泣きながら親友のところへ向かったことがあった。あのときもたしか、激しい雨が降っていた。
雨はいつだって私の人生の分岐点につきまとってくる。これで何回目かもわからない。雨と一緒に、私の瞳からも透明の液体がぽろぽろ零れ落ちる。
勤務中や彼を問い詰めている間は我慢できたのに、涙が溢れて止まってくれない。
浮かんでくるのは、楽しかった思い出ばかり。
彼の綺麗な爪にネイルを施したこと。彼が、バーで私のために甘いカクテルをつくってくれたこと。ふたりで夜景を見にいったけれど、その日も天気が悪くて台無しだったこと。
たった四ヶ月の恋なのに、心に負った傷は深かった。
やっぱり私は愛されない女なんだ。私の恋はいつだって長続きしない。
二年ぶりに人を好きになって、私も春奈と早坂に負けないくらいの大恋愛をしてやろうと意気ごんでいたところだったのに。
卑屈になりながら帰宅すると、鞄を投げ出して真っ先にベッドに倒れこんだ。
ベッドの上でまた少し泣いてから、携帯を開く。
カフェを飛び出して以降、一度も彼から連絡が来ていない。その事実がさらに私を深く傷つける。謝罪や復縁を迫るメッセージが来たとしても応じる気は微塵もないけれど、電話のひとつも寄越さないなんて信じられなかった。
「私のこと、本当に好きじゃなかったんだ……」
彼が私にかけてくれた数えきれないほどの愛の言葉は、全部噓だった。最後に見せた涙だって、本心かどうかも怪しい。そう思うとよりいっそう泣けてくる。
涙を拭って陽介の連絡先と彼が写っている写真を消して、すべてを終わらせた。
それから私は、携帯の画面を操作して久しぶりに春奈のブログサイトに飛んだ。開いたのはたぶん、一年ぶり。
春奈が書いた記事と、早坂がそこに残したコメントをじっくりと読みこんでいく。
数年前、大切なふたりと過ごした日々が、読み進めていくたびに鮮明に蘇ってくる。文字を目で追っていくとあの日に戻れたような気分にさえなってくる。
すべての記事を読み終えた頃には、泣きじゃくっていた。
なんて素敵な純愛なんだろう。こんな素敵なふたりが、どうして今この世に存在していないのだろう、と。
たくさん泣いてすっきりしたのと、春奈と早坂の純愛に触れて淀んでいた心が浄化され、ふたりに励まされた気になった。
春奈が書いた記事の中でとくに思い出に残っているのは、三人で外出した秋の日の出来事。
私には忘れられない、大切な日の記憶──。
*
「早くしないと間に合わない」
涼しい季節にもかかわらず、早坂は車椅子を押して汗を垂らしながら声を上げた。
秋晴れの空は到着した頃にはすでに暮れ始めていて、夕日がいつ沈んでもおかしくない時間帯になっていた。
地面はアスファルトから砂利道に変わり、やがて砂になった。車椅子は進まず、春奈もハンドリムを回そうと試みるが車輪は砂に取られて一向に回らない。
「わたし、歩けるよ。ここまで運んでくれてありがと」
春奈はそう言って車椅子から立ち上がる。最近は寝たきりだった春奈が足元の悪い砂浜を歩くなんて、きっと簡単なことじゃない。手を貸そうとした私をやんわりと断った春奈は、数メートル進んだところで砂に足を取られ、転倒した。
「春奈、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ちょっと足がもつれただけだから」
車椅子のハンドルを握りしめたまま固まっていた早坂が、なにか思いついたように走り出し、春奈の前で背中を向けてしゃがんだ。
「もう時間がない。春奈、乗って」
どうやら早坂は春奈を背負って運ぶつもりらしい。春奈は少し躊躇ってから、「ありがとう」と涙ぐみ、早坂の背にそっと乗った。
「威勢がよかった割に全然進んでないじゃん。早くしないと太陽沈んじゃうよ」
つい、私はそう声をかけた。春奈を背負った早坂は亀のようにゆっくりとしか進まない。足元が砂浜だからしょうがないけれど、それにしても遅かった。
「うるさいな。今から本気出すんだよ」
そう言いつつも、歩く速度は変わらない。でも、やがて夕日が見えてきた。あの日春奈と見るはずだった夕日が、水平線の向こうに輝いている。
今日、私たち三人は春奈が行きたいと言った海に来ていた。
「わぁ、やっと見られた」
早坂の背で春奈は細い声で囁く。汗だくで息を切らしている早坂も顔を上げ、呼吸を整えながら沈んでいく太陽をじっと見つめる。
私の視線の先、遥か遠くに見える、燃えるように輝く落陽。それを反射して浮かび上がる、海面から一直線に伸びたオレンジ色の光の道。
春奈がスケッチブックに描いていた絵とリンクして、はっと息を呑んだ。
振り向くと、春奈の目元から夕日を反射した綺麗な涙が零れ落ちた。悔しいけれど、早坂は春奈にとって百点満点以上の男だった。
春奈をここに連れてきて、本当によかった。きっと私は今日のことを、そしてこの風光明媚な景色を一生忘れることはないだろう。このまま沈まずに、いつまでも私たちを照らし続けてくださいと願った。
夕日が沈むまでのほんのわずかな時間。私たち三人は誰も声を発さずに、ただ黙って水平線を眺め続けた。
余命半年の親友と、かけがえのない日々を過ごした話
ひとり親家庭で私は育った。母は十七歳で妊娠し、高校を中退してひとりで私を産んだ。父親は同級生の男子だったらしく、中退後は一度も顔を合わせていないそうで、私も会ったことがない。会いたいと思ったことすらなかった。
最初から母とふたりという環境で育ってきたから、父親がいなくて困ったことは一度もない。私にはそれが当たり前だったし、片親で不幸だと思ったこともなかった。
母は夜の仕事をしているので、私が眠ったあとに帰宅することが多かった。朝ご飯を自分でつくって食べてから学校へ行き、帰宅すると母は仕事へ向かう。一日に言葉を交わす回数はわずかだった。
母は休日になると男と出かけることがほとんどだから、家族で遠出なんてしたことがない。
たまに恋人を家に連れてくることもあった。母の恋人は柄の悪そうな人ばっかりで、中には母に暴力を振るう人もいた。
「お母さんには綾香がいるんだから、あとはなんにもいらない」
母は失恋するたびに、私を抱きしめて泣きながらそんなことを口にする。たとえその場限りの言葉だとしても、母に必要とされるのは嬉しかった。だから私は、母には悪いけれど恋人ができるたびに早く振られないかな、と密かに願っていた。そうすれば私は母の一番になれる。その瞬間だけ自分の存在意義みたいなものを強く実感することができた。
そんな惨めな母のようにはなるまいと、小さい頃から自分に言い聞かせてきた。母の人生をひと言で表すなら、男に振り回されてばかりの憐れな人生。要するに男を見る目がないのだ。
しかし、反面教師となる人物が身近にいたのに、私の恋も散々なものだった。
中学生になった私は立て続けに男子に告白され、試しによさげな人と付き合ってみた。ひとつ年上の、同じ中学のサッカー部の先輩。けれど長続きはせず、すぐに破局した。
その後も何人かと交際をしてみたけれど、一ヶ月以内に別れてばかりでなかなかうまくいかなかった。
「学生の恋愛なんてそんなもんなのよ。気にするんじゃない」
失恋して落ちこんでいる私に、母はそう声をかけてくれる。自分だってろくな恋愛をしてきていないくせに、とは言えない。母のように長続きしない恋なんてするもんかと思っていたのに、血は争えなかった。
母は娘である私から見ても美人で、子どもの頃からちやほやされて育ったらしい。ぱっちりとした大きな二重まぶたや通った鼻筋。ほかにも男受けするスタイルのよさなどは母親似である私もささやかながら受け継いだ。そのおかげか、私に近寄ってくる男もそれなりに多かった。ろくでもない男ばかり寄ってくるところは受け継ぎたくなかったのに。
それでも中学二年の頃にひとりだけ長続きした人がいた。長続きといっても、交際期間はたったの三ヶ月弱。
今思えば短いけれど、当時の私にしては大きな進歩だった。
隣のクラスの木村慶司という男子生徒で、バスケ部に所属している学年一の人気者だった。慶司は私の幼馴染みの桜井春奈と同じクラスで、私は春奈に会いにいくついでに慶司ともよく話していて、やがて彼のことを好きになった。優しくて爽やかな笑顔が素敵でいつしか恋に落ちていたのだ。
春奈が体調を崩して入院してから隣のクラスに足を運ぶ回数は減ったけれど、慶司とは廊下ですれちがうたびに言葉を交わし、放課後にはバスケ部の練習を見にいったこともあった。慶司は女子から大人気で、私と同じく慶司目当てで部活を見に来ている子が何人もいた。ライバルは多かったけれど、負ける気はしなかった。
部活終わりにふたりで下校したり、休日は一緒に映画を観にいったり。何度かデートを重ねたあとに私から好きだと告げた。今までの告白は全部男子からだったけれど、追う側に回ったのは初めてだった。
本気で好きになった人と付き合ってこなかったから私の恋は短命だったのだ。それまでの失恋を踏まえ、私はそう結論づけた。だから慶司とは絶対にうまくいくと確信していた。
彼は首肯してくれて、私の初めての告白は無事に成功した。そして予感は的中して交際は順調に進んだ。今までの男は付き合って一週間の時点で嫌気がさしていたけれど、慶司にはそんな感情を抱かなかった。これが私の初恋なのだと確信するほどに。
「三浦さんって桜井さんと仲良かったよね。木村くんと付き合ってよかったの?」
慶司と付き合い始めて二週間が過ぎた頃、彼と同じクラスの女子にそう告げられた。私は言葉の意味がわからず、「それ、どういう意味?」と率直に聞き返した。
「やっぱり、知らなかったの? 桜井さんと木村くん、ちょっと前までいい感じだったんだよ」
それは初耳だった。私はその子に詳しく話を聞いた。
話によると、春奈は入院する前、慶司の部活の練習を見にいったり、休日はふたりで出かけたりしたこともあったらしい。
春奈からそんな話は聞いたことがないし、正直、春奈が男子と仲良くしている姿なんて想像できなかった。春奈は学校を休みがちで、男子はおろか女子の友達もほとんどいなかった。
私は春奈に新しい恋人ができたことをまだ伝えていない。少し前に恋人と別れたとき、泣きながら春奈に抱きついて「私には春奈がいるから、彼氏なんていらない」と宣言したばかりだったから。
それに、私に恋人ができると、春奈は気を遣って私と距離を置くようになる。
「わたしが綾ちゃんのそばにいたら、彼氏さんに悪いから」
そんなことを気にする必要なんてないのに、春奈は放課後になるとひとりで下校する。寂しげなその背中を見送るのは辛かった。
慶司と付き合い始めて一ヶ月後、私は春奈の病室を訪れていた。一ヶ月以上交際が続いたら春奈に話そうと決めていたのだ。
少し前まで当たり前のようにほぼ毎日お見舞いに来ていたけれど、このところ間が空いてしまったのでその日は家を出たときから緊張していた。
慶司との交際を春奈に告げたら、私たちの関係は壊れてしまうんじゃないかと危惧したのだ。実際にそういう事例を目にしたことがあった。それまでは親友だったふたりが、同じ人を好きになってしまったばっかりに不仲になった、とか。
ドキドキしながら扉をノックして病室に入ると、春奈は体を起こして本を読んでいた。この頃の春奈は読書に夢中で、お見舞いにいくと本を読んでいることが多かった。入院前も休み時間になるたびに本を開き、クラスでは浮いた存在となっていた。
「春奈、久しぶり。最近あんまり来られなくてごめんね」
ひとり部屋の病室に足を踏み入れてそう声をかけると、春奈は本に栞を挟んで閉じ、顔を綻ばせた。
「ううん、大丈夫。先週テストだったんでしょ? 忙しいのにありがとね」
顔色はあまりよくなかったけれど、春奈は優しく微笑んでそう口にした。
私も春奈に微笑み返す。テスト週間だから忙しくて来られなかったわけではなく、本当は春奈に黙って慶司と交際していることに後ろめたさを感じて避けていたのだ。
なんだか申し訳ない気持ちになって私は春奈の目を見られなかった。
「今日はどんな本を読んでるの?」
言葉が見つからず、ふと目に留まったベッドテーブル上の文庫本を指さして聞いてみた。表紙には制服を着た涙目の女の子が描かれている。
「普通の恋愛小説だよ。読み終わったら綾ちゃんも読んでみる?」
「いや、私は大丈夫。活字苦手だから」
「そう言うと思った」
たしか以前読んでいた本も恋愛小説だった。春奈曰く、主人公に感情移入して恋愛を疑似体験できるから好きなのだという。昔から病弱で恋をできないでいるから、そういう小説を好んで読んでいるのかもしれない。
テストの出来はどうだったかとか、来月行われる文化祭の話などをして、私は本題に入った。
「実は私ね……」
そう言いかけて口ごもる。春奈は「うん?」と小首を傾げる。
「いや、その……。そういえば春奈ってさ、好きな人とかいるの?」
とっさにそんな言葉が口を衝つ いて、春奈はきょとんとする。慶司とのことを話すつもりだったのに、私は逃げてしまった。取り繕うように視線を彷徨わせて補足する。
「ほら、春奈って恋愛小説好きでしょ? フィクションもいいけど、春奈も頑張らないとさ」
「わたしにはそういうの向いてないから。それに、病気だからあんまり出かけたりできないし」
それを言われるとなにも言い返せない。春奈はことあるごとに「病気だから」のひと言で済ませることがよくあった。友達に遊びに誘われたり、お泊まり会に誘われたりしたときも、病気だから迷惑かけちゃうと思うから、といつも断っていた。
友達なんだから迷惑をかけてもいいし、そうやって壁をつくるのはよくないよと告げていたのに。
「でもさ、気になる人くらいいないの? 同じクラスの人とか」
「うーん……いないことはないけど」
「……誰?」
慶司以外の名前が出てくれれば、と願った。
「木村くんだよ。ほら、綾ちゃんもよく喋ってる木村慶司くん」
「……ああ、あの人ね。好きなんだ? 木村くんのこと」
「わかんない。でも優しいよね、木村くん。早く退院して会いたいなとは思う」
にっこりと笑みを浮かべて春奈は言う。こんなことになるなら最初に素直に打ち明ければよかった。話が進むほど切り出せなくなっていく。
「そうなんだ。でも木村くん、モテるからね。もしかしたらもう彼女いるかも」
春奈の顔は見ずに、俯きがちに私は言った。本当のことを話すべきか黙っているべきか、どちらが春奈のためになるのかわからなかった。
「いたらいたでしょうがないよ。わたしみたいな病弱な女より、あちこち遊びにいったりできる人の方がいいに決まってるし」
春奈はまた、自分を卑下する言葉を放つ。きっとその言葉を使うことで自身を守っているのだ。私はこうだから、仕方がない。そうやって決めつけて何事も諦める春奈は好きじゃなかった。
結局私は、春奈に慶司と交際していることを伝えられなかった。だからもし退院して彼と一緒にいるところを春奈に見られたら、と思うと怖かった。
その後も私は、春奈に内緒で慶司と交際を続けた。毎日が幸せで、月並みな表現だけれど彼と付き合い始めてからは、モノクロだった日常の景色が色づいた。
それはまちがいなく、私にとっての初恋だった。今まで何人かの男と付き合ってきたけれど、あれはノーカン。ちゃんと胸を張って好きだったとは言えないし、向こうだって本当に私のことを好きだったのかさえわからない。
そんな子どもじみた屁理屈を並べ立て、私は強引に慶司を初恋の相手だと思いこんだ。
彼と交際していた数ヶ月間は、まるで少女漫画のヒロインになったかのように私は輝いていたと思う。
「綾ちゃん聞いて。わたし、退院したら木村くんとデートするかも」
夏休み初日。春奈の病室で、たった今慶司から届いたメッセージに返信を打っているタイミングで、春奈が耳を疑う言葉を口にした。一瞬にして、私の指と思考は停止する。
「綾ちゃん? 聞いてる?」
「え? ああ、うん。木村くんって、木村慶司くん……のこと?」
恐る恐る、私は訊ねる。春奈は顔を紅潮させてこくりと頷いた。
同姓同名であってほしいと願った。でも、交友関係の狭い春奈が彼とは別のキムラケイジくんと知り合いだなんて考えづらいし、いくらなんでも無理がある。
「木村くん、この前お見舞いに来てくれてね、退院したらデートしようって言ってくれたんだ」
春奈は頰を赤らめて視線を落としたまま、もじもじしながら言った。
「そ、そうなんだ。……よかったね」
私は動揺を隠して声を絞り出す。冷や汗とともに、涙まで込み上げてきそうだった。
「なんかね、観たい映画があるんだって。わたしたぶん夏休み明けには退院できると思うって言ったら、一緒に観にいこうって」
「そういえば木村くん、たしか彼女いたと思うよ」
春奈が言い終わる前に、思わずそんな言葉が口を衝く。「えっ」と言って春奈は顔を上げた。
「でもこの前話したときは、木村くん、彼女いないって言ってたよ」
「え……あ、そうなんだ。じゃあ、私の聞きまちがいかな……」
瞬時に表情を曇らせた春奈を傷つけまいと、私は真実を伝えなかった。ちがう。私が傷ついてしまうから、それ以上はなにも言えなかった、という方が正しい。
「ごめん春奈。私、用事思い出したから今日はもう帰るね。また来るね」
いたたまれなくなって春奈の返事を待たずに病室を出る。その場に留まっていたら、泣いちゃいそうだったから。
その数日後に慶司と海に行く約束があったけれど、私は断って家に引きこもっていた。彼からメッセージが何通も届いたが、返事はしなかった。
「ねえ慶司。春奈をデートに誘ったって、本当なの?」
夏休み終盤の雨が降った日。いつまでもはっきりさせないのは気持ちが悪くて、慶司をカフェに呼び出して単刀直入に聞いた。開口一番にそんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。彼は虚を衝かれたようにわかりやすく動揺した。
「え? いや、そんなわけないじゃん。俺、綾香と付き合ってるんだから、ほかの子とデートなんかしないって」
「彼女いないって春奈に言ったでしょ。全部聞いたから噓つくのはやめて」
私がぴしゃりと冷たく言い放つと、慶司は肩をすぼめて俯く。口論になるのを覚悟してきただけに、怒りを発散できずに焦燥感だけが募っていく。
「ねえ、聞いてるの? ほかにも隠してることあるでしょ?」
テーブルを叩いて問い詰める。慶司の肩がびくっと跳ねる。その言葉に根拠はなくて、私はただかまをかけただけだった。
しかし慶司は、予想に反してとんでもないことを白状した。
「……ごめん。実は、ほかにも付き合ってる人がいるんだ」
「……え?」
頭が真っ白になった。慶司の口から、まさかそんな台詞が飛び出してくるなんて微塵も思っていなかったから。そして彼は、無情にも私にとどめをさす。
「綾香のほかに……三人」
でも聞いてほしい、と続けた彼の言葉はもう耳に入ってこなかった。私はただ、春奈とのことを問い詰めただけなのに。
「こういうの、やっぱりだめだよなって思ったから、ほかの子とは別れるつもりだったんだ」
慶司は必死に取り繕うように身を乗り出して言ったが、信じることなんてできない。もう顔も見たくなかった。
「ごめん、無理」
注文したミルクティーをひと口も飲まずに、私は席を立って店を出た。
店を出てすぐ、傘を忘れてしまったことに気がついた。でも戻る気になれなくて、私は雨が降りしきる中を走った。
しばらく走ったあとにふと顔を上げると、目の前のバス停にバスが止まっていた。
ドアが閉まる前にステップを駆け上がり、最後部の座席に腰掛けると、堪えていた涙がぽろりと零れた。
声を押し殺し、ほかの乗客に気づかれないように顔を伏せて涙を流し続けた。
これはまちがいなく私の初恋であり、初めての失恋でもあった。今まで何度か恋人ができて、別れも経験してきた。けれど、やっぱりどれも本気の恋じゃなかったのだ。
この胸を締めつけるような痛みがそれを証明していた。
呼吸すらままならず、「大丈夫?」と前の座席の赤ん坊を抱いた女性に声をかけられてしまう。
「だい……じょうぶです」
と私は声を振り絞った。かわいらしいニット帽を被った赤ん坊が、泣きじゃくる私を不思議そうに見つめている。
なんて惨めなんだろうと、余計に悲しくなった。
「綾ちゃん、どうしたの? なんで泣いてるの?」
病院前のバス停で下車した私は、めそめそしたまま春奈の病室に立ち寄った。春奈はベッドから下りて、なにも答えない私をぎゅっと抱きしめて一緒に泣いてくれた。
「なんで春奈まで泣いてるの?」
「だって、綾ちゃんが泣いてるところ初めて見たから。よっぽど悲しいことがあったんだろうなって」
溢れる涙を手の甲で拭い、声を震わせて春奈は言う。言われてみれば春奈の前で泣いたのは、この日が初めてだった。私は春奈の涙を何度も見てきたのに。思えば春奈の前だけでなく、私はつい先ほどまで人前で泣いた例がなかった。
いつの間にか立場が逆転し、今度は私が春奈を慰める。そして春奈が泣きやむと、私はすべてを打ち明けた。
慶司と交際していたこと。彼に四股をかけられていたこと。付き合ったときは春奈と慶司の仲が良いとは知らず、いつか春奈に謝ろうと思っていたけれど、仲がこじれてしまうのが怖くて言えなかったこと。
止まっていた涙を再び流しながら説明を終えると、春奈もまた目を潤ませ、やがて落涙した。
「そうだったんだね。そんなことで綾ちゃんを嫌いになるわけないよ。話してくれてありがとう」
春奈は私を咎めることなく笑ってくれて、また一緒に泣いてくれた。
春奈はそういう子だ。誰よりも友達思いで、自分のことはいつだって二の次で。
私は春奈に思いを打ち明けて、彼のことを忘れた。たぶん、彼のことは本当に好きじゃなかったんだと無理やり思いこむことにして、前に進んだ。
春奈の優しさに触れ、傷ついた心は次第に癒えていった。
「私には春奈がいるから、彼氏なんていらない」
破局したあとのお決まりの台詞を吐いて私は春奈に抱きついた。これじゃあお母さんとやってること同じだな、なんて思いながら。
その後退院した春奈は、休みがちではあったけれどまた学校に来るようになって、私は毎朝彼女の家まで迎えにいって一緒に登校した。
「いい? 慶司に話しかけられても、無視するんだよ。あいつは女たらしなんだから、絶対近寄っちゃだめ。もし好きな人ができたら、私がそいつのことを調べるから教えてね」
過保護すぎるくらい、私は春奈に近づこうとする男子を警戒した。時々春奈の教室に行くと男子に話しかけられているところを何度か見かけた。ただ単に滅多に登校しない春奈を珍しがっているだけかもしれないけれど、春奈はすごくかわいいから好意を寄せている男子も少なくないと思う。
春奈には、私のように傷ついてほしくなかった。私とは正反対の、少女漫画のヒロインのようなキラキラとした恋愛をしてほしかった。
「ねえ、気安く春奈に話しかけないでくれる? ていうか、あなたは春奈に近づかないで」
この言葉をかけたのは、彼で三人目。その三人目の人物は、慶司だった。放課後に春奈と話し終えた彼のあとを追って、私はそう宣告したのだ。
「話すくらいいいじゃん。遊びに誘ったりはしないからさ」
「誘っても無駄だよ。慶司が四股してたこと、春奈知ってるから」
まじか、と彼は呟いてがっくりと肩を落とす。この期に及んでもまだ春奈を狙っていたなんて呆れる。
「もう春奈のことは諦めな」
彼にそう言い捨てて、春奈が待つ昇降口へと向かう。春奈は優しいから、慶司に話しかけられても無視できなかったのだろう。
その日も私は春奈を自宅まで送り届けてから帰宅した。
それから一ヶ月後の日曜日。私は変装してひとりで大型商業施設内にあるファストフード店に来ていた。
目線の先には男女四人のグループ。ぱっと見はダブルデートのよう。その中のひとりは、私の親友である春奈だった。
「日曜日、クラスの子たちと四人で遊びにいくことになったの! こういうの初めてだから嬉しい!」
金曜日の放課後、目を爛々とさせて春奈は私にそう告げた。春奈が私以外の子と遊ぶなんて今までほとんどなかったはずなので、私も嬉しくなって春奈と一緒に喜んだ。
「よかったじゃん! どこに遊びにいくの?」
「駅前のデパート! 四人で映画を観にいくの」
念のためメンバーを聞くと、男子ふたり女子ふたりだというので、私の過保護センサーが働いて彼女を詰問した。
四人の内訳は春奈、歩美 、航、蒼汰で、歩美と航はどうやら付き合っているらしかった。その話を聞いて私の妄想は膨らんでいく。
蒼汰が春奈のことが好きで、ほかのふたりは春奈と蒼汰をくっつけたくて遊びに誘ったのだろうと私は結論づけた。
ちなみに蒼汰は、以前私が「気安く春奈に話しかけないでくれる?」と忠告したうちのひとりだった。
といっても誰彼かまわず告げているのではなく、チャラい雰囲気で春奈に近づいてくるような人に言っているだけ。
本当は月曜日に春奈に話を聞こうと思っていたけれど、急に心配になり、いてもたってもいられなくなって家を飛び出してきてしまった。
もし途中で具合が悪くなっても、春奈はクラスメイトたちに気を遣って無理をするかもしれない。せっかく退院して学校に通えるようになったのに、また入院生活に逆戻りしたら嫌だ。
そう考え出すと止まらなくなって、じっとしていられなかった。
眼鏡をかけて帽子を目深に被り、マスクまでしているから私だとは気づかれないだろう。和気あいあいと談笑している四人を観察しながらハンバーガーを頰張る。さすがに会話の内容は聞こえないが、春奈も楽しそうに笑っているのでひとまず安心した。でも、蒼汰の馴れ馴れしさに少しイラッとした。
四人はハンバーガーを食べ終わると、エレベーターに乗りこんで最上階にある映画館へ向かっていった。私も別のエレベーターに乗って映画館に行き、彼らと同じチケットを購入して近くの座席で映画を鑑賞した。
定番の恋愛もので、内容はそれなりに面白かった。
映画館を出ると四人は解散し、私は帽子と眼鏡を外してから偶然を装って春奈に声をかけた。
「あれ、春奈じゃん。ひとりでなにしてるの?」
ちょっと臭い演技になった。むしろ私の方が言われるべき台詞だった。
「わっ! びっくりした! 綾ちゃんも来てたんだ。わたしはほら、この前クラスメイトの子たちに遊びに誘われたって話したでしょ。それだよ」
「ああ、そういえばそんなこと言ってたね。それで、どうだった?」
白々しく訊ねると、疑うこともなく春奈は声を弾ませる。
「楽しかったよ。今度また四人で出かけることになった!」
ふうん、と私は軽く嫉妬しながら蒼汰について春奈から聞き出しつつ、彼女を家まで送り届けた。
翌日から私は蒼汰のことを嗅ぎ回った。彼と仲の良い子に話を聞いたり、廊下ですれちがうと観察してみたり。
蒼汰はサッカー部に所属しており、成績はそこそこ。顔は整っているし性格も悪くないらしい。春奈に彼のことをどう思っているか聞いたところ、「いい人だよ」と評価していたので私は口出しせずに見守ることにした。
「春奈、大丈夫? なんか顔色悪いよ。蒼汰くんたちと遊ぶの、今度にしたら?」
春奈が蒼汰たちと遊ぶ日の前日。下校中に春奈が急に座りたいと言ったので、私は近くにあった公園のベンチに春奈を座らせた。
十月に入り、気温はそんなに高くないのに春奈はずいぶん汗をかいていた。
「大丈夫。こんなのいつものことだから」
春奈は白い歯を覗かせて笑ってみせる。それは春奈が無理をしているときに見せる笑顔だ。付き合いの長い私にはわかる。
「病気のこと、ちゃんとあの三人に話したの?」
「話してない。たぶんもう治ってると思ってるんじゃないかな、クラスの皆も」
蒼汰も歩美も航も一年の頃は春奈とちがうクラスだったし、小学校も別だ。きっと、春奈の病気のことを詳しくは知らない。
「話した方がいいと思う。言いづらいんだったら、私から言っておくよ」
「言わないで。せっかく友達ができたんだから、嫌われたくない」
「なに言ってんの。そのくらいで誰も嫌いになるわけないじゃん」
「でも、病気だって知ったら、皆わたしから離れていくんだよ。気を遣ってさ。きっともう、遊びにだって誘われなくなる」
目を伏せて力なく言った春奈に、かける言葉が見つからなかった。思えば一年のときも、小学校のときもそうだった。皆必要以上に春奈に気を遣って遊びに誘わなかったり、距離を置いたりしていた。
積極的に春奈と仲良くなろうとする子は、今までほとんどいなかった。
そうなることを知っているから、春奈は病気のことを隠したいのだろう。
「今度四人で勉強しようって約束もしたんだよ。だから今は、わたしも健康な女の子でいたい」
「……そっか。わかった」
帰ろっか、と春奈は微笑んで立ち上がる。私は春奈の意思を尊重して、あの三人には黙っていることにした。
*
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■著者プロフィール
森田碧(もりた・あお)
北海道出身。2020年、LINEノベル「第2回ショートストーリーコンテスト」にて「死神の制度」が大賞を受賞。2021年に『余命一年と宣告された僕が、余命半年の君と出会った話』(ポプラ社)でデビューし、2022年には「第17回 うさぎや大賞」入賞。「よめぼく」シリーズは累計30万部を突破した。