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余命88日の僕が、同じ日に死ぬ君と出会った話

 プロローグ

 死神から凶報が届いたのは、彼にメッセージを送ってからおよそ二週間後のことだった。彼、なんて呼んでいるけれど、もしかすると彼女かもしれないし、死神なのだからそもそも性別はないのかもしれない。いや、今はそんなことはどうだっていい。大事なのは、その死神なる人物からの返信内容だ。そこに書いてあることが事実であるならば、どうやら俺はあと八十八日の命らしい。
 文面には、『この写真を撮った日から数えて八十八日後』とあるから、正確には残り二ヶ月と少し。ただのいたずらだと片づけることができなかったのは、この死神──ゼンゼンマンと名乗る人物の予言的中率は、某まとめサイトによると百パーセントという驚異的な数字を叩き出していたからというほかない。
 ゼンゼンマンとは、ドイツ語で死神を意味する言葉らしい。俺がドイツ語に精通しているわけではなくて、それもくだんのまとめサイトに記載されていた。
 ツイッターのフォロワー数は十万人以上。彼は過去に有名人の死を何度も的中させ、一時SNS界隈を騒然とさせた。興味本位で俺もゼンゼンマンのアカウントをフォローし、画面越しに傍観していたひとりだった。
『私はすべての人の寿命が見えるわけではありません。死期が近い人がわかるだけです。頭上が見えるように写真を送ってもらえれば、寿命が見えた人にだけ返信します。顔は隠しても構いません』
 そう綴られたツイートを目にしたが、くだらないと一笑に付して画面をスクロールした。
 それでも数日後に写真を送ってしまったのは、好奇心に負けたとしか言いようがない。もうひとつ理由を挙げるとするなら、先月行われた文化祭のときクラス全員で撮った写真が俺の携帯に送られてきたから、とするのはいささかこじつけが過ぎるだろうか。
 文化祭が終わったあと、お調子者の生徒が黒板付近にクラスメイトを集め、担任に携帯を預けて写真を撮ってもらったのだ。
 それが後日俺のもとに届き、ふとゼンゼンマンを思い出してクラスの中でもうすぐ死ぬやつがいたら面白いな、くらいの軽い気持ちで写真を添付してメッセージを送ったのが事の発端だ。
 それがまさか、である。
 でも俺は、幸いにも、「自分がいつ死ぬかなんて知らなきゃよかった」というおそらく多くの人が抱くであろう絶望感に苛まれることはなかった。俺には将来の夢もなければ人生の設計図もない。そこそこの大学に進学し、それなりの給料をもらえる会社に就職できればいいとしか考えていなかった。
 人は遅かれ早かれ皆平等に死ぬ。俺の場合はただほかの人より少し早かっただけ。むしろ死ぬことが決定しているなら早い方がよっぽどいいとさえ思っていた。
 間違いなく俺は、この世界に爪痕を残せるような人間にはなれない。勉強はあんまりだし、なにかの分野で他者と比較して突出した才能があるわけでもなかった。
 友達は少ないし、誰にも相談できない深刻な悩みも抱えている。まだ若いからこれからだと自分を宥める気にもなれず、割と早い段階で俺は人生に見切りをつけていた。
 だから八十八日後に死ぬと言われても、とりわけ不都合でもなければ錯乱することもなかった。でも、腑に落ちない点がなかったと言えば噓になる。
 ゼンゼンマンの返信には、俺ともうひとりの生徒の寿命についても明記されていたのだ。
『前列の右から二番目の方と、前から三列目の左端にいる方がこの写真を撮った日から数えて八十八日後に死にます』
 前列の右から二番目の、無表情で明後日の方向を見ている生徒は紛れもなく俺だ。
 そして三列目の左端の女子生徒。たしかクラス委員の浅海あさみ……下の名前は忘れてしまった。首元でまっすぐに切りそろえられた綺麗なショートボブが印象的な彼女は、顔を綻ばせて目一杯のピースサインをつくっていた。
 俺とはまったく接点のない彼女が、なぜ俺と同じ日に死ぬ運命なのか。
 べつに死ぬことは怖くないけれど、自分の死因だけはあらかじめ把握しておきたかった。俺と同じ日に死ぬ彼女のことを調べれば、もしかしたらなにかつかめるかもしれない。
 その日から俺は、ろくに話したこともないクラスメイトについて調べることにした。


 第一章 三日間の惑乱

 自分の終わりの日が見えたからといって、俺を取り巻く世界は数日経った今も依然として変化を遂げることはなかった。
 外の景色がいつもとはちがって見えたり、これまで空費してきた日々を悔んだり、一分一秒を大切に生きたり。余命を宣告されたのだから俺の中でこれまで存在しなかった感情が芽生えたりするのだろうかとも思ったが、そんなありがちな心境の変化は俺には訪れなかった。
 変わったところを強いて挙げるなら、全教科で板書をノートに書き写すのを一切やめたことだろうか。来週の中間試験と、再来月に行われる期末試験の心配をしなくてもいいのは、唯一の救いと言えるかもしれなかった。
 ノートには板書の代わりに、とある女子生徒の情報がまとめてある。
 窓側の一番前の席に座っている、ちょうど今大きな欠伸をした女子だ。
 彼女の名前は浅海莉奈りな。ここ数日調べた情報によると彼女は帰宅部で、バイトもしていない。バス通学で登校時間は俺よりも早く、下校時間は日によって疎ら。友達は多く、勉強は苦手らしいが夏休みの補習には彼女の姿はなかったのでおそらく俺よりは上だろう。中学の頃は野球部のマネージャーをやっていたそうだ。なんでも想いを寄せる先輩が野球部にいたそうで、けれどその恋は実ることなく散ったらしい。
 決して彼女がモテないからではなく、気づいたときには彼に恋人がいたのだとか。友人は、浅海莉奈はクラスで一番かわいいと断言していたので、男子からの人気は割と手堅い。あくまで俺の印象だけれど、傍から見ている限り女子からも好かれていて敵は皆無。順風満帆な高校生活を送っていて、一見すると死の匂いは一切感じ取れない。だがノートの次のページをめくると、その印象は覆る。
 ページを一枚めくったとき、その日の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、俺の手は止まる。小さくため息をつき、すばやくノートを鞄に入れた。
崎本さきもとくん崎本くん。今日の情報は二百円だけど、どうする?」
 席を立とうと腰を浮かせると、隣の席の関川せきかわが半笑いで聞いてくる。小太りで眼鏡をかけているけれど決してダサいわけではなく、ダイエットをして眼鏡を外せばモテるタイプであろう、そこそこイケてる男子だ。
 いつも授業中に少年漫画を読んでいることが多い彼だが、成績はクラス一位。男女問わず誰にでも声をかけ、すぐに打ち解ける。俺にはないものをたくさん兼ね備えている生徒だ。
 十月に入り、大半の生徒は衣替えを済ませてブレザーを着ているが、彼はまだ夏服のままだった。
「いつもより高くないか? うーん、二百円かぁ……。よしわかった。買うよ」
「おし! 毎度!」
 渋々財布から百円玉を二枚取り出し、関川が差し出している右の手のひらに載せた。
 彼は浅海と同じ中学出身で、俺のノートに記載してある彼女の情報はすべて、関川から有料で入手したものだった。
 彼とは一年のときから同じクラスだったが、元々仲がいいわけではなかった。まさかこんなにせこいやつだなんて知らなかった。けれどこの厳しい世の中を生き抜いていくには、彼のような貪欲さが必要なのかもしれない。
「よし、じゃあ教えてやろう。ちょっと耳貸して」
 片手で口元を隠すように覆った関川に、俺は右耳を寄せる。
「浅海のやつ……処女らしいよ」
 ぜったい言うなよ、とにやけて唾を飛ばす関川を尻目に俺は席を立つ。やっぱり、二百円払うんじゃなかったと後悔しながら。
 今までで一番高額だったからと期待した俺が馬鹿だった。いつもは大体百円で、二番目に高かったのは浅海のその日の下着の色で、風が強い日の登校中に偶然見えたのだと関川は鼻息を荒くして言った。俺にとってはどうでもいい情報だったが、それは百八十円も取られた。
 一種のカツアゲだとも思うが、浅海のことを聞くには彼以外に適任者がいないのだ。一応口止め料も兼ねているのだから文句も言えない。浅海のことを嗅ぎまわっているとクラス中に知られたら、あらぬ疑いをかけられてしまうから。
 最初は関川に浅海のことを聞くべきか、躊躇ためらった。俺が浅海に好意を抱いているなどと誤解を与えてしまう恐れがあるからだ。しかし、ひとりでは調べようもなかった。こいつになら誤解されてもいいか、と開き直って浅海のことを聞いてみると、揶揄からかうことなくすんなり教えてくれた。しっかりと金は取られているのだが。
 たぶん、彼は金さえ手に入ればあとはどうでもいいのだろう。
 教室を出て昇降口に向かうと、浅海が靴を履き替えていた。靴箱に上靴を押しこめると、彼女は友人たちと一緒に外へ出る。
 俺は少しの距離を保ち、彼女らのあとを追っていく。いつもは自転車通学だが、今日は尾行しようと思ってバスで登校していた。
 しつこいようだが、俺は自分が死ぬことについてはすでに受け入れている。とにかく死因が気になっており、自分がどんな最期を遂げるのか知りたかった。
 ゼンゼンマンは情報伝達の基本的な要素である5W1Hのうち、半分しか俺に教えてくれなかった。
 いつ、どこで、誰が、なにを、なぜ、どのように。現時点で判明していることは、俺と浅海が七十一日後の十二月十五日に死ぬということだけ。どこで、なぜ、どのようにの三つが抜けている。
『死因を教えてください』とメッセージを送ったが、いまだに返事は来ない。
 ここ数日自分なりに考えてはみたものの、どのように俺は死ぬのか、皆目見当がつかなかった。病を患っているわけではないし、誰かの恨みを買った覚えもない。わずかに希死念慮を抱いてはいるけれど、今のところ自ら命を絶つ予定はないので、そうなると消去法で事故死だろうか。
 俺の死因を特定するには、やはり同じ日に死ぬという浅海莉奈を探るのが最善策だと考え、こうして彼女を尾行しているのだった。
 浅海は友人たちと別れ、バス停の列に並んだ。俺はバスを待つ人が増えてからなに食わぬ顔で列に並び、携帯をいじりながらバスの到着を待った。
 どこか寄り道をしてから帰宅するのか、それともまっすぐに帰宅するのか。ふと我に返り、俺はなにをやっているんだろうと自分に呆れたタイミングでバスがやってきた。
 今さら引き返すわけにもいかず、仕方なくステップに足をかける。浅海に気づかれないように俯きがちに通路を歩き、空いている後方の座席に腰掛けた。浅海は前方でバスの揺れに身を委ね、じっと窓の外を眺めていた。
 浅海が降車ボタンを押したのは乗車してから数分後。関川に彼女が住んでいる大体の場所は聞いていた(これは百五十円だった)が、降りるにはまだ早いはずだ。どこかに寄り道するのだろうか。俺も彼女に続いてバスを降りる。
 そこは市立病院前のバス停だった。浅海は俺に気づく様子もなく、迷いなく病院の出入口の方へ歩を進める。俺は鞄の中からノートを取り出し、彼女について綴られているページを開く。
 関川から八十円で買った情報によると、浅海は昔から病弱で頻繁に通院しているらしかった。どんな病気かは知らないけれど、昨年は二ヶ月ほど入院していて留年ギリギリだったという。
 裏を取るつもりはなかったけれど、彼女の行動をみるにどうやらその話は真実のようだ。そうなると彼女の死因は病死だろうか。さすがに病院の中までついていくのは躊躇われ、降りたばかりだが再びバス停に並んだ。
 今まで特に気にしていなかったので失念していたが、振り返ってみると浅海はよく体育の授業を見学していた気もする。
 普段から彼女を観察しているわけではないので断言はできないけれど、あと二ヶ月ちょっとで病死するような人間にはとても見えない。もう少し探りを入れる必要がありそうだが、こうやってこそこそ女の子を尾行したり、情報を買ったりというのはもうあまりしたくはなかった。
 正攻法と言えるか微妙なところだけれど、本来であれば彼女と仲良くなって事情を聞き出すのが一番だ。が、俺にはどうしてもそれができない理由があった。
 ちょうどそのとき、携帯が着信を告げた。バスを降りて間もなく自宅が見えてくるというタイミングで、画面に視線を落とすと『父』と表示されている。
「もしもし」
「あ、悪いひかる。今日残業で遅くなるから、飯いらないわ」
「そっか、わかった」
 ほんの十秒足らずで電話を切り、携帯をポケットにしまう。まだ自宅まで距離はあったが、反対のポケットから家の鍵を取り出して左の手の中に収めた。
 中学一年の秋頃、親が離婚してから父とふたりで暮らしている。一軒家にふたりというのは少し寂しい気もするが、母と離婚してくれてよかったと心の底から思う。あのまま三人で暮らしていたら、きっと俺はもっと早く死んでいたにちがいないから。
 鍵を開けて誰もいない自宅へ入る。「ただいま」とぼそりと呟いても、返ってくるのは静寂だけで余計に寂しくなった。今日はカレーにしようと思っていたけれど、父の分を用意しなくていいのならカップラーメンで済ませることにする。
 両親が離婚してから家事は俺が担当している。最初は苦戦した料理も、今となっては大抵のものはレシピを見なくてもつくれるようになった。
 離婚の原因は母による父へのDⅤ、それから俺に対する虐待やネグレクトだった。世間一般ではDⅤと言えば男性から女性へ、という認識が強いと思うが、うちの場合は逆だった。が、弁護士の話では決して珍しいことではないらしい。
 特に多かったのは精神的な暴力で、身体的なものもなくはなかったが、どちらかと言えば前者の方が辛かった。
 母は看護師で中小企業の平社員である父よりも収入が多く、うちは昔から女性優位の家庭だったのだ。元来気の弱い父は母に頭が上がらず、母は職業柄ストレスが溜まりやすいのか家にいるときはいつも機嫌が悪かった。
 俺に対する暴言がとりわけ酷く、テストの成績が悪かったり、帰りが少し遅くなったり、とにかく母の気に障ることをすれば罵られる。少しでも反論しようものなら手が出るし、あの頃の俺は日々怯えながら過ごしていた。
「お前みたいな頭の悪い子どもは、私の子じゃない」
「生きる価値ないね、あんた」
「どうせあんたも父親みたいな能なしにしかなれないのよ」
 そんな言葉を浴びせられて俺は育った。母の言うように、本当に俺は生きる価値がなく将来はまともな大人になれないのだと信じ、子どもながらに深く傷ついた。友達と遊びに行きたくても部屋に閉じこめられて強制的に勉強させられたり、またある日は俺のご飯を用意してくれなかったりと、散々な毎日で病んだことも多々あった。
 放課後は家に帰りたくないと何度も思ったし、母が仕事から帰ってくる時間になるとストレスと恐怖で嘔吐したこともある。
 やがて俺は、母からの虐待の影響で女性恐怖症になってしまったのだった。両親が離婚した今も、俺は女という生き物が怖い。
 中学のときは特に酷く、クラスの女子に話しかけられると大量に発汗し、挙動不審になってまともに会話すらできなかった。肩に触れられたときに思わず突き飛ばしてしまい、クラス中の女子を敵に回したこともある。
 当時、唯一仲のいい男友達にだけ女性恐怖症のことを話していて、彼が必死に弁明してくれたが逆効果となり、恐怖症を面白がって揶揄われるようになった。
 高校は男子校に通いたかったが近場にはなくて断念した。俺が生きることにあまり積極的ではない理由の大半は、その恐怖症が原因と言える。
 以前、俺は女性恐怖症についてネットで調べたことがある。主な原因は女子からのいじめや恋人の裏切り行為、そして俺のように母親からの虐待など、人によってさまざまだった。
 中学時代の友人に克服しようと背中を押され、一度だけ男女四人で遊びに行ったことがあった。しかし俺は耐えきれなくなって、三十分も経たないうちに無断で立ち去った。
 女性を好きになることなどないと思っているし、恋なんて興味もない。ただ女性恐怖症に関しては生きていく上では当然克服するべきだと思っていたが、なかなかうまくいかずに今に至っている。
 だから俺は浅海莉奈を知るために関川に対価を支払い、こんなに回りくどいやり方で情報収集していたのだった。

 翌週の月曜日から、二学期の中間試験が行われた。いつもなら試験の一週間前から赤点を取らない程度にテスト対策を講じていたが、今回は手をつけなかった。
 ゼンゼンマンの予言的中率は百パーセントとはいえ、それはあくまで公表している予言に限ってのことだ。俺や浅海のような一般人にもおそらく余命宣告をしていると思うけれど、非公表の的中率までは調べきれない。もし死ななければ勉強しなかったことを悔むかもしれないが、それは大した問題ではなかった。
 俺は、いずれは死のうと考えていたのだ。不慮の事故やじわじわと病に蝕まれて苦しんで死ぬより、この日と決めて自らの意思で人生に終止符を打ちたいと思っていた。そのときはなるべく苦しまない方法で、誰にも迷惑をかけることなくひっそりと逝こうと。
 だからもし予言が外れたとしても、ほんの少し寿命が延びるだけの話でどちらに転んでも構わないと思った。
「あ、崎本くん。今日は百五十円の情報を仕入れたんだけど、買うかい?」
 その日の試験が終わって帰り支度をしていると、関川がにっこりと笑って親指と人差し指で輪をつくり、聞いてきた。
 俺は一瞬迷ったのち、「百二十円に負けてくれ」と値切った。
 今回だけだよ、と渋い顔をする関川に百二十円を支払うと、彼はそっと耳打ちしてくる。
「浅海の好きなタイプは……真面目な人らしいよ」
 そう言って関川は満足そうに頷き、教室を出ていく。薄々勘づいていたけれど、おそらく彼は俺が浅海に好意を抱いていて、彼女のことを知るために情報を買っていると勘違いしている。だから浅海の好きなタイプだとか、下着の色や処女であるだとか俗っぽい話は値段を高く設定しているのだ。
 彼が勘違いするのは無理もないが、今度からは安いものだけ買い取ることにしようと心に決めて、俺も教室を出る。そもそもどこ情報だよ、とぶつぶつ文句を垂れながら。
 今日は朝から大雨が降っていたため、バスで下校する。多少の雨なら自転車で登校するのだが、この日は台風の影響で雨足が強くて諦めた。
 バス停にはすでにたくさんの生徒が並んでいて、俺は存在を消して最後尾についた。前方に目を向けると、浅海がひとりで並んでいる。
 俺と彼女はまるっきり接点がないわけではなく、彼女が寄り道をせず、なおかつ雨の日だけという条件付きで一緒のバスに乗ることが何度かあった。ただ、俺の持つ恐怖症のせいで話したことは一度もない。いつもなるべく彼女から遠い席に座るようにしているため、向こうから話しかけてきたこともなかった。
 数分後にやってきたバスに乗りこみ、吊革に摑まるとバスは重たそうに車体をゆっくり発車させる。その直後、背後から届いた声に俺の体は硬直した。
「崎本くん。ここ、座れるよ」
 のろのろと発車したバスよりも緩慢な動きで振り返ると、浅海がにこりと笑ってふたり掛けのシートの隣の空席をぽんぽん、と叩いていた。
 一瞬だけ目が合い、すぐに視線を逸らす。彼女に話しかけられたのだと思うと、全身からぶわっと汗がにじみ出てきた。
「座らないの?」と彼女は追い打ちをかけるように聞いてくる。予想もしていなかった事態に戸惑い、とっさに声が出てこない。
「あ……いや……」
「ん?」
「その……大丈夫……です」
 蚊の鳴くような声で告げると、浅海は「そっか」とだけ呟いて、イヤホンを耳に挿した。
 ちらりと彼女の顔を盗み見てから再び背を向けて吊革を握り直し、深く息をついた。
 胸に手を当てなくても心臓の鼓動が加速しているのがわかる。吊革を持つ手が汗で滑り、もう一度しっかりと握り直す。反対の手でポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭う。
 中学の頃と比べると幾分ましにはなったけれど、女子と言葉を交わすと決まってこうなる。浅海は母のように俺を侮蔑したり、暴力を振るったりしないことなど当然わかっている。それでも相手が女性というだけで体はこうやって拒絶反応を示すのだ。
 女性恐怖症は人によって症状がさまざまらしく、俺の場合は発汗が酷かった。
 数年前までは発汗に加え手足の震えやパニック状態に陥るなど、日常生活に支障を来すほどだった。今は症状は軽くなったものの、完全に克服するのはたぶん無理だと思っている。
 汗が引いてきた頃に窓の外に目を向けると、バスは浅海が通院している病院の停留所を通過していた。浅海は今日は病院に寄らないらしく、イヤホンを挿したまま外の景色を眺めている。
 いくらか車内が空いてきたので、俺は前方の空席に腰掛けた。
「じゃあね崎本くん」
「うわっ」
「あはは。驚きすぎ!」
 うとうとしていると背後から浅海に肩を叩かれ、ビクッと体が跳ねた。バスは駅前に停車していて、どうやら浅海は降りるついでに俺の肩を叩いたらしい。
 俺の反応がそんなに可笑しかったのか、彼女は「ナイスリアクション!」と俺を指さし、けらけらと笑いながらステップを降りていった。
 引いていた汗が再び波のように押し寄せ、俺の体を瞬く間に濡らしていく。今日は車内が混雑していたせいで浅海の射程圏内に入ってしまったのがまずかった。いじりがいのあるクラスメイトとして認識されたら厄介なことになる。そうならないことを願いながら、俺は湿ったハンカチで汗を拭う。
 バスが発車してから窓の外に目を向けると、浅海が俺に手を振っている姿が見えた。
 そういえば明日の天気も雨だった気がする。明日は土砂降りでも自転車で学校へ行こうと決意して、頰を伝った汗をハンカチで拭き取った。
 帰宅して湿ったワイシャツを脱ぎ捨て、部屋着に着替えてひと息ついた。まさか浅海に話しかけられるとは思わなくて、今思い出しただけでもまた汗が出てくる。
 シャワーを浴びようと浴室へ向かうと、携帯がメッセージを受信した。
『今日優子ゆうこさんとご飯食べて帰るから、晩飯はいらないよ』
 父から届いたメッセージに既読だけつけて携帯をポケットに入れた。優子さんは、一年ほど前から父と交際している女性だ。
 およそ二ヶ月前、父から「話がある」と切り出され、「再婚を考えている女性がいる」と面と向かって言われたのだ。夏休み初日の、夕食前のことだった。
 実際に会ったのはその一週間後。学校の補習の帰り、近所のファミリーレストランで初めて父の交際相手と顔を合わせた。
 結果から言うと、俺は注文したハンバーグ定食を半分以上残して席を立った。優子さんは決して悪い人ではなく、むしろ悪いのは俺の方だった。
 終始無言の俺に対し彼女は優しく声をかけてくれたが、うまく受け答えができなかった。優子さんは母より五つ若かったけれど、俺にとっては同じようなもので、中年の女性に対する恐怖心は未だ強かった。
「再婚するなら、俺は家を出ていくから」
 帰宅した父にそう告げ、以来二ヶ月間この件について話をしていない。
 俺が死ねば父と優子さんの関係を妨げるものは消え去り、ふたりは幸せに暮らせてめでたしめでたしだ。
 やっぱり俺は死ぬべき人間なのだと、つくづく思った。

 中間試験が終わってすぐに、職場体験学習のワークシートが配布された。そういえば前に希望する職種をアンケート用紙に記入したな、と思い出した。俺は迷うことなく、第一志望に『水族館の飼育員』と記入した。
 俺はこの世のあらゆるものに興味を抱かない人間だが、ひとつだけ惹かれるものがあった。それは海の生物で、水族館は俺にとって心のオアシスだった。
 特に好きなのはクラゲで、家にはクラゲ図鑑が数冊、ぬいぐるみやクラゲの卓上アクアリウムも飾ってある。学校指定の鞄にもよく行くサンライズ水族館で購入したクラゲのキーホルダーがついている。
 以前、自分で飼育することも考えたが、管理が難しく断念した。水温を常に一定に保つ必要があるし、種類によっても適正水温が変わってくる。
 クラゲは自分で泳ぐ力が弱いため、水流ポンプも必須だ。水流が強すぎると水槽に激突して傷つくし、弱すぎると水槽の底に沈んでしまう。その微調整も大変だし、なによりクラゲは寿命が短い。種類によって長生きできる個体もあるが、基本的には一年から二年。素人が飼育する場合は数週間から数ヶ月程度とも言われている。
 それ以外にも専用の水槽を買ったり海水を用意したり、とにかく手間とお金がかかる。クラゲは体が脆くて弱いため、水質の悪化や少しの衝撃で傷を負うと、あっという間に死んでしまうこともあるらしい。生き物を飼育したことのない俺がいきなりクラゲに挑戦するのはハードルが高かった。
 自宅からサンライズ水族館まで自転車で三十分以上かかるが、その程度であれば俺の行動範囲内だ。そこは漁港のすぐそばにあり、幼い頃から何度も訪れ、今は年間パスポートを所持している。
 中一の頃は母と顔を合わせるのが苦痛で家に帰りたくなくて、放課後になると足繁く通っていた。水族館は俺の弱った心を癒し、励ましてくれる場所でもある。
 短期のアルバイトでもいいからあそこで働いてみたいと以前から思っていた。高校に入り、二年生になると職場体験があると知って、ひとり歓喜した。怒られるかもしれないが第二、第三希望の欄にも水族館の飼育員と記入した。
 ワークシートとは別に、配布された職場体験学習のしおりを眺める。そこには体験先の職場に行った際のマナーや注意事項などが記載されていて、さらに一枚めくると誰がどの職場に行くのか、グループ分けされているページがあった。少ないところはひとり、多いところでも五人と、いい具合にばらけている。
 自動車整備工場や出版社、ケーキ屋に幼稚園など、職種もさまざまで面白い。関川はどこに行くのだろうと探してみると、彼は情報屋ではなくラーメン店を選択していた。飲食店は無料でご飯が食べられるから、という理由で人気のジャンルらしかった。関川も例に漏れず、そんな魂胆にちがいない。
 次のページをめくった瞬間、飛びこんできた文字に俺の思考は停止した。

・サンライズ水族館 二年三組 崎本光 浅海莉奈 二名

 水族館を選ぶやつなんて、俺くらいしかいないと思っていた。
 ちょっと前に念のため仲のいい飼育員のおじさんに確認してみたが、ここ数年で体験学習に来た生徒はひとりだと言っていたのに。しかもよりによってもうひとりの生徒はまさかの浅海だ。汗がじわりとにじむ。
 ふと視線を感じ、そちらに目を向けると浅海が遠くの席から俺を見ていた。
 よろしくね、と彼女の唇が動いた。俺は小さく頭を下げて、もしやと思った。彼女はクラス委員だから、ひょっとすると前もって俺と一緒の職場に出向くことを知っていたのかもしれない。だからあのとき、バスの中で話しかけてきたのだろうか。
 どちらにしても来週、女子とふたりという地獄の三日間が始まることが決定した。休むのもありだなと思いつつ、でも俺はずっと前からこの行事を楽しみにしていたのだ。普段覗くことのできない水族館の裏側を見てみたいという渇望も捨てきれなかった。
 さてどうしたものかと頭を抱えていると、隣の席の関川がにやにやした顔でこっちを見ていた。
「よかったじゃん崎本くん。浅海と同じ職場で」
「べつに。できればひとりがよかったし」
「そんな照れなくてもいいじゃんか。たぶんだけど、告ったらOKされると思うよ」
「そんなわけないだろ、ほとんど話したこともないんだから。適当なこと言って楽しんでんだろ、お前」
 冷たく言い放つと、「怒んなって〜」と関川は憎たらしく笑う。
「あ、それより今日は百三十円だけど、どうする?」
 関川はそう言って指でお金を表現する。
 高い。でも今回こそは有益な情報を得られるかもしれないという誘惑に負け、百円玉と五十円玉を彼に渡し、おつりの二十円を受け取る。
「浅海の行きたいデートスポットは……水族館らしいよ」
「……だろうな。てか、それもっと早く教えてほしかった」
 がははっと関川が笑うとチャイムが鳴り、彼は帰り支度を始める。
 さてどうしたものかと、俺は再び頭を抱えた。


  *

続きは発売中の『余命88日の僕が、同じ日に死ぬ君と出会った話』で、ぜひお楽しみください!

「よめぼく」シリーズ第1巻『余命一年と宣告された僕が、余命半年の君と出会った話』

第2巻『余命99日の僕が、死の見える君と出会った話』も大好評発売中!

著者:森田碧(もりた・あお)
北海道出身。2020年、LINEノベル「第2回ショートストーリーコンテスト」にて「死神の制度」が大賞を受賞。
2021年に『余命一年と宣告された僕が、余命半年の君と出会った話』(ポプラ社)でデビューし、2022年には「第17回 うさぎや大賞」入賞。二作目の『余命99日の僕が、死の見える君と出会った話』と合わせ、シリーズ累計21万部を突破した。

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