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余命0日の僕が、死と隣り合わせの君と出会った話

 君の涙

 やけに蒸し暑い日曜日の深夜。僕は部屋の片隅にある扇風機のスイッチを入れ、勉強机に向かった。
 椅子に腰掛けてノートパソコンを起動し、映画やアニメなどを視聴できる動画配信サイトに飛び、僕に刺さりそうな物語を物色する。
 数分探してようやくよさげなタイトルが目に留まり、あらすじを確認してから再生をクリックする。レビューなどは一切見ずに勘で選んだ。
 再生速度を一・五倍速にしてヘッドホンを装着し、姿勢を正して物語に集中する。この作品は僕を殺してくれるのだろうかとドキドキしながら。
 全神経を目と耳に集中させ、作品の世界に入りこむ。こういった感動ものの映画を観るときは、いかに主人公に感情移入できるかですべてが決まる。
 主人公の性格や言動、立場や生い立ちなど、共感できる点はないかと必死に探す。
 僕と同じ高校二年生で、卑屈な性格もよく似ている。ミディアムショートの黒髪で、ちょっとくせっ毛なところもそっくりだ。
 冒頭で共通点をいくつか見つけ、ついに出会ってしまったかもしれないと胸が高鳴った。
 ──やっぱり今日もだめだった。約九十分後、僕はため息をつきながらヘッドホンを外す。タイトルやあらすじからして泣けそうな物語だったし、主人公の置かれている境遇も僕と酷似していたのに、少しもうるっとくることはなかった。中盤あたりで、なんかちがうかもと感じて視聴を中断しようかと思ったが、劇的な結末が待っている可能性もあると期待を込めて観た。しかし、結局なにも起こらなかった。
 無駄に時間を消費してしまい、がっくりと項垂れる。次はもっと早く見切りをつけようと反省してパソコンを閉じる。椅子から立ち上がって大きく伸びをして、扇風機のスイッチを切ってからベッドにダイブした。
 今日も死ねなかったな、と枕に顔を埋めて眠りについた。

 僕がるいしつびょうと診断されたのは、小学校に上がる前のことだった。涙を失うと書いて涙失病。その名のとおり涙を失うわけではないけれど、実際、生き延びるには涙を手放すしか方法はないらしい。
 涙を体外に排出することで発熱し、一度に小さじ一杯分の涙を失うと死に至る危険性がある。個人差はあるが、一般的に人が号泣したときに流れる涙の量が小さじ一杯分と言われているそうだ。
 通常、涙は弱アルカリ性であるが、涙失病患者の涙は共通して弱酸性で、未知の成分が含まれている。その特有の成分は解明されておらず、現状は打つ手がないという。
 涙失病は十代で発症する患者が多く、後天性の疾患である。世界でも発症が確認されているのは数百人程度で、まだまだわからないことが多い奇病らしい。ただ泣かなければ日常生活は問題なく送れるため、結果的に僕は涙を失う生活を強いられることとなった。
 涙失病患者の涙は青色で透きとおっているのが特徴的で、ブルーティア症候群とも呼ばれる。ひと粒では色のちがいはわからないが、涙を流していくと色は次第に濃くなっていき、その色が濃くなるにつれ、死に近づくと言われている。
 狙ったように十代の多感な時期に発症する厄介な病気で、涙失病患者にとっては涙を堪えることよりも、感情を押し殺す生活を強いられることが苦痛だった。
 病気が発覚したのは僕が六歳だった頃。父に叱られて涙したことがあった。なにをして叱られたのか今はもう覚えていないが、頰をぶたれた記憶だけはある。叱られた悲しみと左の頰の痛みで涙が込み上げてきたのだった。
 父の前では泣くまいといつも堪えていたのに、涙は止まってはくれなかった。
 泣いたら大人になれないだとか、お化けが出るだとか。泣き虫だったせいか、涙失病を発症する前から僕はそんな子どもだましの作り話を本気で信じていた。けれど幼かった僕は溢れ出る涙を制御する術を知らなかった。
 僕は、昔は涙脆い性分だったのだ。
 徐々に青みが増していく六歳の僕の涙を見て、父はぎょっとして目を丸くした。すぐにかかりつけの眼科に連れていかれ、近くの大学病院での受診を勧められて検査を受けた。
 いくつもの検査を経て告げられたのは、涙失病という聞きなじみのない病。
 泣いたら死ぬと知った僕は、怖くなってその日から涙を流すまいと事あるごとに込み上げてくる感情に抗った。
「悲しいときこそ笑いなさい」と母は言った。涙が零れそうになったとき、「泣くんじゃない」と父は声を荒らげた。
 愛犬のモコが亡くなったときは涙を必死に堪え、母の教えに従ってなんとか笑顔をつくりながら庭に遺骨を埋めた。その光景はさぞかし不気味だっただろう。近所の人に目撃されていたら噂になっていたと思う。
 泣くことを我慢する生活がしばらく続いたある日のこと。僕は禁じられていた涙を、ついに流してしまった。そのとき僕は小学四年生になっていた。
 母がのういっけつで亡くなったのだ。真冬の早朝、朝食をつくっていた母は前触れもなく台所で倒れた。そのまま一時間誰にも気づかれず、起きてきた父が発見して救急車を呼んだが、その日の夕方に母は息を引き取った。
 あまりにも急な別れに僕は困惑した。冷たくなった母を前にして、思わず号泣してしまった。視界が徐々にブルーに染まっていくのがわかった。
 それまで三年間我慢してきた涙が、母の死によって堰を切ったように止めどなく流れる。父が僕の顔の前でなにかを叫んだ。泣くなと、きっとそう言ったのだろう。でも涙は止まらなかった。
 すぐに症状は現れ、激しい頭痛とともに意識を手放した。
 そうして僕は数日間、生死の境を彷徨った。高熱が続き、一時は体温が四十二度まで上昇したが、幸いにも脳に後遺症は残らず、奇跡的に生還できた。
 早い段階で意識を失ったことで涙の生成を抑えられたのだと医師は話す。不幸中の幸いだったと。だが次は助かる保証はないと釘を刺した。
 しばらく入院した僕は、母の葬儀に参列できなかった。でもきっと、母の葬儀に出席していたらまた号泣していたと思う。父もそう思っていたのか、母の葬儀があったことすら教えてくれなかった。
 退院したあと、父は僕に謝罪した。母の遺体と対面させるべきではなかったと。父はあのとき気が動転していたようで、そこまで頭が回らなかったと深く反省していた。
 涙失病かどうかにかかわらず、人前で泣くことは恥ずべき行為だと父は言った。涙は人に見せるものではないのだとも。
 そのせいか、学校でクラスメイトが泣いている姿を目にすると、つい見入ってしまう癖がついた。なぜこの子は人前で泣くのか。泣くことは恥であるはずなのに、どうして人目をはばからず涙するのか。
 僕には理解ができなかった。泣いている同級生を目にするたびに、まるで珍獣を見ているかのようで。
 ふいに自室で母のことを思い出し、涙が溢れそうになったことは何度かあった。そのたびに僕は歯を食いしばって必死に涙を堪えた。学校で悲しいことがあっても母の言葉を思い出し、笑い飛ばして込み上げる悲しみをやり過ごした。
 それを繰り返しているうちに僕は、やがてなにを見ても心が動かなくなってしまった。

「めちゃくちゃ泣ける映画らしいから、やまも観にいかない?」
 中学に入学してすぐ、クラスメイトから映画に誘われたことがあった。彼とは数回しか話したことがないので面食らったが、平静を装って答える。
「泣ける映画かぁ。うーん、行ってみようかな」
 少し迷ったけれど、せっかくの誘いを断るのも気が引けて首肯した。そいつは中学生になって新しい友人をつくろうと張り切っており、ほかの生徒にも声をかけていた。
 次の休日に男女五人で当時泣けると話題になっていた映画を観にいったが、僕ひとりだけが泣けなかった。中高生に大人気の恋愛小説が原作の映画で、ヒロインが不治の病に侵されて死ぬといった、ありがちな物語だ。
 本当はそういったお涙頂戴ものの映画は観てはいけないと父から言われていたが、親に反発したい年頃だった僕は、ホラー映画を観にいくと噓をついた。
「お前よく泣かなかったな。皆泣いてるのに」
「なんでそんなに平然としてるの?」
「もしかして寝てた?」
 立て続けに僕を責めるような言葉を浴びせられ、どう返事をすればいいか悩んだ。
 面白い映画だったとは思う。けれど涙腺を刺激されることはなかった。号泣していたクラスメイトたちは呆れ果てた目で「瀬山は冷酷人間なんだな」と僕を評した。
 泣けないのだから仕方がないと僕は反論したし、涙は強要されて流せるものでもない。思わずそこで、泣いたら死ぬ可能性があることも伝えたが信じてもらえなかった。その一件があってからクラスメイトたちと距離を取るようになり、人と関わるのを極力やめた。
 中学の卒業式も、僕は泣いている生徒を冷ややかな目で見ていた。なぜこんなことで泣けるのか、内心では小馬鹿にしていたが、実を言うと少しだけ羨ましくもあった。
 高校に進学しても、僕は友人をつくらずに身を潜めるようにして過ごしていた。ただ、泣くことに関しては心境の変化があった。
 この世の中には、多種多様な涙がそこら中に溢れている。号泣必至と銘打った映画やアニメ、小説などはよく目にするし、実際にそれらを観て感動の涙を流す人を何人も見てきた。
 学校では部活動の試合に負けて流す悔し涙。推しのライブチケットに当選して流す嬉し涙。好きな人に告白して、振られたときに流す悲しみの涙。あるいは告白に成功して流す喜びの涙。
 どれもこれも僕にとっては憧憬の的で、ただ遠くからその姿をじっと見ていることしかできなかった。
 いつか僕も、あんなふうに泣いてみたいと強く思うようになった。

 僕は、かれこれ七年間涙を流していなかった。涙失病の研究は進んでおらず、治療法も特効薬も未だに見つかっていない。泣くことだけでなく、最後に心から笑ったのはいつだったかも思い出せない。人と関わることをやめた影響か、喜怒哀楽の感情も失われつつあった。
 感情を押し殺す生活に嫌気がさした僕は、ここ最近は泣ける映画やドラマ、漫画や小説などを進んで観たり読んだりするようになった。僕の心を動かしてくれるなにかに出会って死ねるなら本望だと思ったし、この先ずっと涙を流せないのなら、いっそのこと僕を殺してくれるなにかを、いやむしろ僕のことを救ってくれるなにかを日々求めていた。
 高校生活が始まってから一年が経過したが、どこか物足りなさを感じていた。もちろん要因は、僕自身が普通の高校生のように感動したり悲しんだりといった、誰もが当たり前にできることを制御しているからだ。
 死ぬまでそんな生活を強いられるのかと思うと、心底うんざりした。涙なんか気にせずに、僕も青春を謳歌してみたかった。
 でも、僕にはそれができない。それどころかこの先どんなに嬉しいことや悲しいことがあっても、感情を押し殺して生きていかなくてはならないのだ。
 そんな人生なんて、まっぴらだった。だから僕は、一年以内になんとしてでも自分を泣かせ、この辛い毎日に終止符を打とうと決意した。

 高二に進級して二ヶ月が過ぎた蒸し暑い初夏の放課後。僕は図書室に寄って、いわゆる泣ける本を物色していた。そういった本や映画を求めるようになったけれど、僕の琴線に触れる作品は未だ見つかっていない。
 静かな図書室に入ると、さっそく携帯を片手に本棚へと視線を走らせる。昼休みにネットで調べた泣ける漫画を探していた。蔵書数は決して多いとは言えないけれど、無料で貸し出してくれるのは魅力だ。小遣いが少ない上にバイトもしていない貧乏学生にはありがたく、よく利用している。
 しばらく歩き回って探してみたが、お目当ての本は見つからなかった。
 諦めて図書室を出ようとしたとき、すすり泣く声が耳に届いて足を止める。
 振り返ると、視線の先にいたのはクラスメイトのほしすずだった。華奢な肩を震わせ、その大きな瞳からは涙がひと筋流れている。少し痩せすぎではないかと心配になるほど細い体軀だが、ぷっくりとした涙袋が印象的なかわいらしい顔立ちの少女。
 クラス替えをしてから約二ヶ月、大半の生徒の名前を覚えていない僕だが、彼女の名前だけは知っている。彼女の存在は一年のときから、いや、実を言うと入学前から一方的に認識していた。
 あれは、この高校の合格発表の日。昇降口前に設置されたホワイトボードに合格者番号が貼り出されると、自分の番号を見つけたらしいポニーテールの女子生徒が号泣したのだ。友人と抱き合い、大粒の涙を流しながらどこかに電話をかけて「合格したよ」と告げていた。
 声を上げて喜びを爆発させる生徒は何人か見受けられたが、泣いている生徒は彼女ひとりだけ。人の涙に敏感な僕は、名前も知らない彼女に釘付けになった。
 入学してからは彼女の存在などすっかり忘れていたが、五月に行われた体育祭でまたも彼女の涙を目にした。彼女のクラスである一年四組は全種目で好成績を修め、見事に優勝を果たして生徒たちは喜びを分かち合っていた。その中にぼろぼろ涙を零しているポニーテールの女子生徒がひとり。彼女を見て、合格発表の日に泣いていた子だ、とすぐに思い出した。
 その後も僕は彼女──星野が泣いている姿をたびたび見かけた。文化祭で二年生がやっていたシンデレラの劇を観たとき、彼女は薄闇に包まれた体育館で人知れず泣いていた。シンデレラのどこに泣けるポイントがあるのか僕にはわからない。でも、たしかに彼女の瞳から雫が落ちたのが見えた。
 またある日には廊下で友人とふたりで涙ぐんでいる姿を目にしたこともある。どうやらその友人は恋人に振られたようで、星野はもらい泣きをしていたらしかった。むしろその友人よりも星野の方が激しく泣いていた気もする。
 そして僕と星野は二年になって同じクラスになった。以前から〝よく泣くやつ〟だと彼女のことを認識していた僕は、自己紹介で彼女が名乗った名前を覚えていたのだ。
 閲覧席に座ってハンカチで目元を押さえながら本を読んでいる星野に歩み寄り、背後からそっと声をかける。彼女は今日もポニーテールだった。
「それ、なに読んでるの?」
 突然声をかけられて驚いたのか、星野の肩がびくりと跳ねる。涙に濡れた瞳で僕を見上げると、「これ」と涙声で表紙を見せてくれた。
 そのタイトルを見て目を見開く。星野が読んでいたのは、まさに先ほど僕が探していたものだった。それは、高校生の女子ふたりが夢を追う物語で、泣けると話題になっていた一巻完結の青春漫画だ。どうりで見つからないわけだ。残りのページ数は三分の一くらい。僕は彼女の隣の椅子に腰掛けた。
「そんなに泣けるの? その漫画」
 動揺を悟られないように僕がそう訊ねると、彼女は即答する。
「めちゃくちゃ泣けるよ。まだ途中だけど、もうかなりきてる。やばい」
「そうなんだ。ちょうどそういう本を探してたんだ。そんなに感動するなら読み終わったら貸して」
「うん、いいよ。もうすぐ読み終わるから待ってて」
 星野はそう言うと、ポケットティッシュではなをかんでから漫画の続きを読み始めた。
 これが星野涼菜との初めての会話だった。
 高校に入ってから自分から誰かに声をかけたのは、もしかすると今が初めてかもしれない。彼女に興味があったからか、意外とすんなり会話ができて自分でも驚いている。遠くから見ている限り、なんとなく性格がよさそうな気はしていたので、無視されることはないだろうと思っていた。
〝涙脆い人=心優しい〟。僕の勝手なイメージだけれど、彼女とのやり取りからするとおそらく当たっているだろう。
 静かに漫画を読んでいる星野の隣で、僕は携帯をポケットから取り出してその漫画をもう一度検索してみた。
 僕が読む本や映画を決めるとき、いつも最も参考にしているのはその作品のレビューだ。高評価と低評価をくまなくチェックし、この作品は果たして僕を殺して(救って)くれるのか、じっくりと吟味するのだ。その際はネタバレだけは目に入れないように細心の注意を払う。『泣ける』と帯にでかでかと書かれた本でも、人によっては泣けないこともある。帯に騙されないように、僕は念入りにレビューを確認するようにしている。
 今星野が読んでいる漫画にも、一定数の低評価レビューがついていた。
『シンプルに泣けなかった。買って損した』
『これを読んで泣けるのは中高生くらい。でも面白かった』
『あと一歩のところで泣けなかった。残念』
『泣けると話題になっていたけど、大したことなかったです』
 人気作のレビューにはたいていこういった心ない言葉も散見されるが、泣けないからといって決してその作品がつまらないわけではなく、いい作品も中にはたくさんある。ただ、僕が求めているのは純粋に泣ける作品なのだ。
 この漫画は低評価よりも圧倒的に高評価が多いので、それを信じて読んでみたい。改めてそう思った僕は携帯の画面を閉じ、彼女が読み終わるのを待つ。
 隣で黙々と漫画を読み進めている星野は、再び涙を流していた。
 不思議な気持ちだった。目の前で誰かが泣いている姿を見るのはずいぶん久しぶりのことで、いつもは遠くから見ているだけだったが、隣で泣かれると直視していいものか戸惑った。
 残りのページ数はあとわずか。僕は横目でちらりと彼女の顔を覗く。彼女の瞳から、透明の液体が頰を伝ってスカートの上にぽたりと落ちた。その光景はやけに美しく、僕にはなぜだか神々しくさえ見えた。ずっと見ていられるなと思ったが、ちょうど読み終わったのか彼女はそっと本を閉じて机の上に置いた。
「どうだった?」
 聞くまでもなかったが、僕は声を殺して泣いている星野に訊ねた。
「よがっだ」と彼女は声を絞り出し、「全人類に読んでほしい」と絶賛した。
 そこまで言うか、と僕は声に出さず驚き、星野がたった今読み終えたばかりの漫画本に手を伸ばす。そしてドキドキしながら最初のページをめくる。
 今まさに読み終えたばかりの人の生の声を聞き、この作品が僕を救ってくれるかもしれないと淡い期待を抱いて読み始める。
 表紙を見たときから思っていたが、絵のタッチが僕好みで早くも期待が高まる。これはきっと感情移入しやすいぞ、とわくわくしながら読み進めていく。
 星野はすぐに帰るだろうと思っていたが、別の本を棚から持ってきて読み始めた。おそらく僕が読み終わったあと、感想を語り合いたいのだな、となんとなく察した。
「瀬山くん、読み終わったら感想聞かせてね」
 案の定、泣きやんで幾分落ち着いた星野は、僕の顔を覗きこんで言った。僕の目が潤んでいないか確認したのだ。が、今のところはまだ泣きポイントに到達していない。それよりも彼女が僕の名前を覚えていてくれたことに驚いて、集中力が切れてしまう。
「わかった」と僕はページに視線を落としたまま返事をした。
 やがて物語は終盤に差しかかったが、依然として僕の瞳はカラカラで、嫌な予感がする。ここまで読み進めるとある程度オチがわかってしまう。僕の予想どおりの展開が待ち受けていたとしたら、たぶん泣けない。星野はもうじき僕が泣くであろうとさっきからしきりに視線を向けてくるが、残念ながらご期待に沿えそうになかった。
 最後のページを読み終えて、ぱたりと本を閉じる。たしかにいい話ではあった。でも約束されたような予定調和の結末で、やっぱり泣けなかった。
「あれ……最後まで読んだ?」
 星野は懐疑的な目で机の上の漫画と僕を交互に見て訊ねてくる。まだなにか言いたそうにしているが、僕は言下に答える。
「読んだよ。面白かった」
「……それだけ?」
「えっと、最後親友が死んじゃったのは悲しかった」
「…………それだけ?」
 率直な感想を述べたつもりだったが、彼女は物足りないといった表情でさらに訊ねてくる。面白かった、悲しかった、それだけで十分伝わると思うのに、ほかになんと答えれば彼女は満足してくれるのか、正解がわからない。
「泣ける話だとは思う」
「いや、泣いてないじゃん。え? ちゃんと読んだ?」
「ちゃんと読んだけど、泣けるほどじゃなかったかな。いい話ではあったけど」
 えええ、と彼女は信じられないといった顔で僕を見る。その反応には慣れているので、とくに気にならない。むしろこの程度で泣けるなんて、羨ましい限りだ。
「なんでこれを読んで泣かないの? 私なんてあらすじを読んだだけでちょっとうるっときたよ。最後の方とか、今思い出しただけでもう一回泣けちゃう」
 それは君の涙腺がおかしいんじゃないのか、と指摘したかったけれど言葉を呑みこむ。総合的に見ると、たぶんおかしいのは僕だ。レビューを見ても大多数の読者がこの漫画を絶賛し、涙しているのだ。彼女の言葉は概ね正しい。
「泣きのツボって人それぞれだから、この作品に対する評価や感想はいろんな意見があっていいと思う。その方が議論してて楽しいし、皆が同じ感想だと逆につまらないって」
 正論を口にしたつもりだったが、彼女は釈然としない様子で僕を見ている。僕は再び本を手に取ってぱらぱらページをめくった。損ねてしまった彼女の機嫌を取るために、この本の美点を探す。
「じゃあさ、瀬山くんはどんなお話なら泣けるの?」
「それがわからないからいろいろ探してる」
 ページをめくる手を止めてそう答える。「もう七年くらい泣いてない」と付け加えると、星野はその大きな目を見開いた。いちいちリアクションが大きい。
「え? そんな人いるの? 私なんてたぶん週五で泣いてるよ。七年なんてさすがに噓でしょ?」
「いや、本当に。泣いたら死ぬ病気なんだ。だから七年間泣かないようにしてたんだけど、今はもうそんなのどうでもよくて。自分を殺してくれる物語を探してる」
 先ほどまで不満げだった星野の表情は、途端にきょとんとしたものに変わる。その理由はなんとなくわかっていた。
「瀬山くんさ、泣くことを恥ずかしいと思ってるんでしょ。泣いたら死ぬとか、そうやってごまかさなくていいよ。瀬山くんは知らないかもだけど、泣くってすごく体にいいことなんだよ」
 思っていたとおり、信じてもらえなかった。涙失病は認知度が極めて低い病気で、こうやって打ち明けたとしても理解されないことが多い。
 中学の頃、男女五人で映画を観にいってやはり泣けずに非難されたときも、僕は正直に「泣いたら死ぬんだ」と友人たちに告げた。だがそのときも信じてもらえず、「そんなわけねーだろ」と一蹴されたのだった。
 とはいえもし僕が涙失病患者ではなく、その病気の存在を知らなければ「泣いたら死ぬ」なんて言われても、素直にそうですかとは言えないだろう。だから当時のクラスメイトたちや星野が信じないのも無理はなかった。
「知ってる? 泣くとストレスが軽減されたり、自律神経が整ったりするらしいよ。涙を流すと心のデトックス効果があって、週に一回泣くだけで効果が一週間持続するって説もあるんだって。すごいよね、涙って。免疫力を高める効果もあるみたいで、私は昔から涙脆いから風邪引いたことないんだよ。ねえ、すごくない?」
 星野は得意げにそう話した。彼女が口にした涙の効果は、僕も聞いたことがあった。涙には睡眠と同じリラックス効果があるそうで、泣くと幸せホルモンと呼ばれるセロトニンが増加する。
 星野が今言ったようにストレスが軽減されたり、自律神経が整ったりするため、うつ病の予防にもなるらしい。ただ、玉ねぎを切ったときに流す涙ではそういった効果は得られない。
 すべてどうやったら泣けるのかをネットで調べたときに得た情報だ。
「涙には三種類あるって知ってた? 目の潤いを保ってくれる『基礎分泌の涙』と、目にゴミが入ったときに出る『防御反射の涙』。あとはさっき私が本を読んで流した『情動の涙』。この『情動の涙』は人間特有のものらしいよ」
 彼女は誇らしげに涙について雄弁に語る。まるでつい先ほど流した自分の涙を肯定するかのように。
「だから瀬山くんは、どっちかというと動物に近い人間なんだね」
 僕が黙りこんでいると、星野はくすくす笑いながら言った。僕はなにも言い返せず、
「そうかもしれない」と真面目に同調した。
「とにかく僕は泣ける本を探してるから、ほかにもそういう本を知ってたら教えてくれない? 本じゃなくても、映画とかドラマとか、アニメでもいいし」
 星野にそう依頼したタイミングで下校時間を告げるチャイムが鳴った。星野は「うん、今度ね」と言いながら席を立ち、僕が読み終えたばかりの漫画を手に取って小走りで受付カウンターへ向かった。
 どうやらその本を借りるつもりらしい。すぐに貸し出しの手続きを済ませて彼女は僕のもとへ戻ってきた。
「それ、今読んだのになんで借りるの?」
 借りてきた漫画を鞄に入れて、帰り支度を始めた星野に訊ねる。僕は基本的に一度読んだ本は再読しないし、映画だって再視聴はしない。結末がわかっていては楽しめないからだ。
「もう一回読みたいくらい好きだから。私、好きな本は繰り返し、何度も読むタイプだし」
 ふうん、と呆れながら僕も席を立つ。たしかにそういう人もいるよなと思ったから、軽く受け流した。
 僕と星野は一緒に図書室を出て、昇降口へと向かう。誰かとふたりで廊下を歩くのは久しぶりのことで、落ち着かなかった。
「ねえ瀬山くん。そんなに泣きたいならさ、うちの部活入る?」
 先を歩く僕の背中に星野の声が降ってきた。僕は振り返って答える。
「部活? 星野って何部?」
「映画研究部。最初は感涙部だったんだけど、入部者が増えないから最近名前変更したばかりなんだ」
「……活動内容は?」
「放課後に、泣ける映画とかアニメを皆で観るだけだよ。そのあとに感想を話し合ったりとかしてる。活動日は不定期で、ほかの部活より自由だから入部してくれたら嬉しいんだけど、どう?」
 星野は目を輝かせて言った。そんな部活があったなんて知らなかったし、活動内容を聞いた限り今の僕にはうってつけの部だと思った。
「部員はほかに何人いるの?」
「私と三年生の先輩のふたりで活動してる。もともと四人いたんだけど、ふたりやめちゃって部員を募集してるんだ。ただ映画を観るだけの楽な部活なんだから、皆もっと興味持ってくれたらいいのにね」
 部員は意外と少ない。人との交流をなるべく避けたい僕にはこの上なく好都合だ。
「わかった。入部する」
「え、ほんとに? いいの?」
「うん」
 星野の表情がぱあっと明るくなる。泣いたり笑ったり、忙しいやつだなと僕は苦笑する。彼女は鞄の中を漁り、クリアファイルを取り出して一枚の紙切れを僕に渡した。
『入部届』と表に書かれている。
「じゃあこれ、明日までに書いてきてもらってもいい? 保護者が書く欄もあるから、印鑑押してもらってね」
 語尾に音符がつきそうなくらい星野はご機嫌だが、あまりの用意周到さに僕は面食らってしまう。
 もしかして彼女が図書室で本を読んで泣いていたのは、勧誘活動の一環だったのではないかと邪推する。つい彼女の涙につられてまんまと入部してしまった、なんてさすがに考えすぎだなと自己完結して、僕は入部届を鞄にしまった。
「また明日ね。気が変わって入部するのやめたとかなしだよ!」
 校門の前で連絡先を交換したあと、自転車に乗って大きく手を振る星野と別れた。僕は電車通学なので、歩いて最寄り駅まで向かう。学校でこんなに誰かと会話をしたのは初めてのことで、不思議な高揚感に包まれながら通学路を歩いた。
 人と関わるのも案外悪くないなと思いながら、僕は放課後の出来事を頭の中で反芻した。


  *

続きは発売中の『余命0日の僕が、死と隣り合わせの君と出会った話』で、ぜひお楽しみください !

■著者プロフィール
森田碧(もりた・あお)
北海道出身。2020年、LINEノベル「第2回ショートストーリーコンテスト」にて「死神の制度」が大賞を受賞。2021年に『余命一年と宣告された僕が、余命半年の君と出会った話』(ポプラ社)でデビューし、2022年には「第17回 うさぎや大賞」入賞。「よめぼく」シリーズは累計30万部を突破した。

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