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余命一年と宣告された君と、消えたいと願う僕が出会った話

 プロローグ

 僕が死んだあと、何事もなかったように世界が続いていくのが嫌だ。
 追いかけている漫画も、来年公開予定の楽しみにしていたアニメ映画も、僕だけが見られないなんて損した気分になる。だからといってこの苦しみを抱えたまま生きていくことも難しい。
 僕が死んだ瞬間ぷつんとなにかが途切れ、そこで世界も終わり。漫画の続きも映画の上映も全部なくなって、心残りなく安らかに死ぬ。
 できることなら、そうなってほしい。
 深いため息をついて黒のカーディガンを羽織り、気分転換に夜の散歩に出かける。今日から新学期が始まり、四月の上旬とはいえこの時間帯はまだ少し肌寒い。
 頭上には雲ひとつなく、北の空には北斗七星が輝いている。新月なのか、どこを探しても月は見当たらなかった。
 昔からこうやって夜な夜な散歩をするのが好きだ。そのとき僕が抱えている問題についてあれこれ思案しながら、一時間でも二時間でもあてもなく街を彷ほう徨こうするのだ。
 その方が考えがまとまり、答えにたどり着くのも早い。歩くことによって思考力や創造力が高まると聞くし、セロトニンが活性化して精神が安定するらしい。
 けれど僕が今歩きながら考えていることは、“どこでどのように死のうか”という新学期を迎えた日に到底ふさわしくない後ろ向きな内容だった。
 とある理由があって、ここ一年くらいずっとそればかり考えている。今日こそはと思いながらも、未だに実行に移せないでいる自分が情けなく、惨めだとさえ思えた。
 半年前に一度だけ、橋の上から川に飛びこもうとしたことがあった。しかし欄干に足をかけたところでランニング中の中年男性に肩を摑まれ、歩道に引き戻された。その後一時間の説教を食らい、中年男性が親に会おうと家にまでついて来そうになったところで半泣きのまま走って逃げたのだった。どうやら彼には不登校の中学生の娘がいるらしく、子を持つ親として看過できなかったのかもしれない。
 苦い記憶を思い出しながら、誰もいない静かな夜道を三十分近く歩いていると、前方に公園が見えてきた。
 住宅街の隅っこにある、飛び石に囲まれた広々とした街区公園。入口のそばには今時誰も使わないような古びた公衆電話がある。大きな滑り台にブランコ、鉄棒や雲梯など遊具は充実していて、砂場や小さな水遊び場も備わっている。
 昼間はそれなりに賑わっているが、夜になると雰囲気ががらりと変わる。
 樹齢百年と言われても納得してしまうほどの大樹があちこちにそびえ立っていて、なかでもやなぎの木が不気味な存在感を放っていた。
 そのせいか夜は近道として横切る者も少なく、当然ながらわざわざ夜に公園を利用する者もいない。たったひとりを除いては。
 気配を殺して園内に足を踏み入れると、今日もそこに彼女の姿があった。
 公園の中央にある屋根つきのベンチに腰掛ける、髪の長い少女。彼女はやなぎの葉が揺れる寒々とした園内で、ひとり寂しげに俯いてベンチの背もたれに体を預けている。なにをするでもなく、ただぼんやりとゆっくり流れる時間を満喫しているようでもあった。
 ここで初めて彼女を見かけたのはちょうど一年前。高校に入学してすぐ、夜の散歩をしているときのこと。
 初めて見たときは幽霊だと思って情けない声を発してしまった。彼女と目が合ったのはそのときの一回だけ。黒目がちの大きな瞳で僕をじっと見ていた。それ以降は僕が園内を横切ろうが一瞥もくれることはなかった。
 彼女は僕と同じ高校に通う二年生で、この春から同じクラスになった。名前はたしかふるかわさく。今朝の自己紹介で、彼女がそう名乗ったのを覚えている。
 とくに印象的だったのは、ほかの生徒が自己紹介をしている中、彼女がイヤホンをつけていたことだ。長い髪に隠れて担任は気づかなかったようだが、彼女の斜め後ろの席にいる僕はそれに気づいた。彼女はクラスメイトの名前など覚える気はさらさらないようで、全員の自己紹介が終わると気怠げにイヤホンを外した。
 一年のときはちがうクラスだったし、彼女のことをよく知らない僕は、まあこういうアンニュイなやつもクラスにひとりはいるだろうな、と大して気に留めなかった。
 そんなことよりも、いつもあの公園にいる怪しい女と同じクラスになってしまった、という気まずさの方が強かった。
 今日も僕は彼女を気にかけることなくベンチの前を横切る。そのとき視界の端に一瞬見えたのは、この公園に住み着く小さな黒猫と、彼女の涙だった。
 俯きがちにベンチに腰掛ける彼女の瞳から、ひと筋の涙が流れていた。そんな彼女を慰めるように、黒猫はベンチに飛び乗ってひと鳴きする。
 やけに絵になる光景だった。僕が珍しく立ち止まったからか、彼女は視線をこちらに向けた。目が合ったのは一年ぶりだ。彼女ははっとして涙を拭い、ぷいと視線を逸らした。なにか見てはいけないものを見た気がして、僕は急いで公園の外に出る。
 彼女の涙を見たのは、初めてではなかった。おそらく彼女も、僕と似たような悩みを抱え、夜の公園で黄昏たそがれているのかもしれない。
 気づけば僕の思考は、死ぬ方法ではなく、彼女のことに切り替わっていた。
 彼女が時折見せる涙の理由はなんなのか。
 どうしていつも夜の公園にいるのか。
 なぜいつもあんなに寂しそうにしているのか。
 彼女の沈んだ表情は、どことなく昨年亡くなった姉に似ている。
 ぐるぐると思考を巡らせながらさらに一時間歩き、日付が変わった頃に帰宅した。

 新学期が始まったこの日から毎晩のように出歩き、僕がついに自殺を決行したのは、それから六日後の夜のことだった。


 始まりの夜

 目を覚まし、体の節々の痛みでぼんやりした意識が覚醒していく。周囲を見回し、なぜ自分が病院のベッドの上で横になっているのか、すぐには思い出せなかった。体が痛むといっても致命傷ではないらしく、上体を起こすことはできた。
 そこは四人部屋で、僕のほかに三人の患者がベッドに横たわっている。壁にかけられた時計を見ると、時刻は十一時を回ったところ。窓の外が明るいので、どうやら今は昼の十一時らしい。
「ああ、そうか」
 数分ぼんやりしたあと、ようやく自分の身に起きたことに気がついた。身に起きたというか、自ら起こしたと言ってもいい。
 僕は夜の散歩中に赤信号の横断歩道を渡り、車に撥は ねられたのだった。いつものように夜の街を彷徨し、どうやって死のうか考え、ついに実行に移したのだ。
 その日を選んだのはただの偶然で、突発的な行動だった。信号を待っていると、そういえばここは姉が事故に遭った横断歩道だ、と気づいたのだ。
 姉はどんな気持ちで赤信号を渡ったんだろう。そう考え出したとき、無意識に足が前に進んでいた。
 同じ時間帯、同じ交差点だったというのに姉とはちがい、僕は死にきれなかった。そのうえ軽傷で済んだらしい。道路に飛び出した記憶はあるものの、ぶつかった瞬間はどうしても思い出せない。
 これはたしか、衝撃的な出来事による精神的なダメージから自身を守るために、脳が記憶の喪失を選択するのだとなにかの本で読んだことがある。耐えがたいほどの恐怖やストレスから身を守るために、記憶を消去するという便利な機能が人間の脳には備わっている。
 それが自分の意思でできるものなら、姉が事故に遭った夜の記憶も僕の頭から消し去りたい。あの日の出来事は、今なお消えずに僕を苦しめている。
 頭痛がして再び横になると、看護師が病室に入ってきたので僕は目を覚ましたことを告げた。
 すぐに両親が駆けつけ、父は険しい顔でなにがあったのか僕を詰問し、母はひたすら安堵の涙を流した。
 自殺しようとしていたことは伏せ、ふたりには、考え事をしていてうっかり赤信号を見落としてしまったと説明した。母は信じてくれたが、父は僕を疑っているようだった。
 よりによって姉が亡くなった交差点で起こった事故だ。父が疑うのも無理はない。ぶつかった車にはドライブレコーダーが搭載されており、再生するとまるでゾンビのように突然赤信号の国道にふらりと倒れこんできた僕の姿が記録されていたという。
 けれど僕は、父になにを言われようとも頑なに事故だったと主張した。姉弟揃って同じ場所で同じ事故に遭うなんていくらなんでも無理があったが、それでも僕は自分の意見を押し通した。
 その後僕は、数日間入院することになった。数カ所の打撲に加え、軽い脳震盪で済んだのは不幸中の幸いだったと医師は話した。
 入院生活は退屈なもので、次こそは事故に見せかけてうまく死ねる方法はないかな、と懲りずにそんなことばかり考える。携帯で楽な死に方を調べてみても、心の相談窓口や自殺を引き留めるようなサイトが多数表示されてげんなりした。
 友人からは僕を心配するメッセージが来ていたし、お見舞いに行くとの連絡もあったが、大丈夫だからと全部断った。

 退院日の前日、夜の公園に居座っている同じクラスの古河桜良を院内で見かけた。
 脳のCT検査を終えて検査室から出ると、彼女が脳神経内科の待合室にいたのだ。学校帰りに来たのか、ブレザーを着用している。
 彼女は僕に気づくことなく、無表情で手元の本に目を落としていた。ブックカバーがつけられているのでどんな本を読んでいるのかは確認できない。
 視線を感じたのか彼女がふっと顔を上げ、目が合ってしまった。
 上目遣いに僕を見る黒目がちの瞳と、大きな二重まぶたが印象的な少女。長い髪をハーフアップのお団子にしている。直視するのを躊躇ってしまうほど目力が強い。
 綺麗な姿勢で椅子に腰掛ける彼女は、場ちがいなくらい華やかでひと際目立っている。古河はクラスでは一、二を争う美人で、新学期早々男子に囲まれて質問攻めにあっていたのを思い出した。
「あ……どうも。あの、同じクラスのあお……」
「名乗らないで。私、人の名前覚えるの苦手だから」
 名乗る前に彼女が食い気味に言葉を被せた。相変わらずクラスメイトには興味がないらしい。どう返事をしていいかわからず、ふと視線を下げたとき、彼女が手にしている本の中身が見えた。
『記憶』の文字と、脳の図解。それからもうひとつ、見覚えのある病名が記されている。その文字を見て、頭が真っ白になった。
 彼女ははっとして本を閉じ、鞄の中に入れる。
「たしか、事故に遭ったとか」
 彼女の澄んだ声に我に返り、唾を飲みこんでから言葉を返す。
「あ、うん。怪我は大したことないんだけど、軽く車に撥ねられてさ」
「それはお気の毒」
「でも明日退院できるから、また学校に通えると思う。古河さんは……」
 彼女がなぜ脳神経内科にいるのか訊ねようとしたところで、「古河桜良さん」と看護師が彼女の名前を呼んだ。
「……はい」
 名前を呼ばれた彼女は、「それじゃ」とひと言残して診察室に消えていく。すらっと背が高く、歩き姿も綺麗だった。
 僕はそのまま踵を返して自分の病室へ向かう。
 彼女が読んでいた本は、おそらく自宅の僕の部屋にもある。人間の脳や記憶に関する本はひととおり読み漁ったことがあった。

 退院して自宅に戻った僕は、真っ先に自室の本棚を物色した。漫画本が大半を占めているが、医学書も何冊か紛れこんでいる。
 その中の一冊を手に取り、ページをめくった。
「あった。これだ」
 脳の病気に関する書籍の後半のページ。古河が脳神経内科の待合室で読んでいた箇所と一致した。
『虫喰い病』の記述があるページで、その文字を見て胸がズキズキ痛み出した。
 それは僕のよく知る病気。なぜ古河がこの本を読んでいたのか、嫌な考えが頭をよぎる。そんなわけはないと、浮かんだ思考を振り払う。
 虫喰い病は認知症の一種で、近年は新型アルツハイマー病とも言われている。
 虫喰い病は眠っている間に患者の頭の中にある言葉を破壊し、それに関する記憶を失わせてしまうという恐ろしい病気だ。一度失われた言葉は元には戻らず、新たに覚えようとしても記憶に残らない。
 虫喰い病患者は眠ると単語とそれに関する記憶を失ってしまうが、毎回ではないらしい。失う日もあれば、そうでない日もある。なにを失うかは無作為で、目を覚ますまで本人にもわからない。そもそも当の本人はなにを失ったかさえ認識できず、それが虫喰い病の一番厄介な点とも言える。
 まるで虫に喰われたように記憶がぽっかりと抜け落ちてしまうため、そう呼ばれるようになった。
 人間の脳は本来、睡眠中に記憶の中枢である海馬が活発に活動を続け、日中に体験したことなどを夢として追体験しながら記憶の定着と消去を行っている。必要な記憶は脳に固定化され、不要な記憶は消去される。
 しかし、虫喰い病患者は睡眠時に正常な記憶の整理が行われず、必要な記憶まで消去される現象が引き起こされてしまう。消去された言葉は二度と復元することができない。
 記憶とひと口に言っても様々な種類があり、大きく分けてふたつ。手続き記憶と陳述記憶がある。
 手続き記憶は自転車の乗り方や泳ぎ方など、体で覚える記憶だ。対して陳述記憶は、物の名前や漢字を暗記したり計算の仕方を覚えたりといった、頭で覚える記憶と言える。
 虫喰い病は後者が失われ、前者に関しては末期になるまでは比較的記憶を保つことができる。
 たとえば消しゴムという言葉を失うと、消しゴムだけでなく使い方も忘れてしまう。使い方を教わっても数時間後には忘れてしまい、それに関する知識は頭に残らない。
 消しゴムの貸し借りで仲良くなった友人がいたとしたら、そのエピソードすらもあやふやになってしまう。
 一方で、仮に自転車の記憶を失っても体が覚えているため、運転することは可能だ。歩いたり食べたりといった、もともと身についている日常の動作も失うことはない。
 虫喰い病は、病状が進行してもアルツハイマー病のように知的機能の減退や人格の変容は見られない。しかし末期にはアルツハイマー病と同様に体の動きを司る脳領域にまで病変が広がる。そのため手足を動かせなくなって寝たきりになり、全身の機能が低下して循環器や呼吸器疾患を起こしやすくなり死亡する。
 それが新型アルツハイマー病と呼ばれている所以でもあり、従来のそれよりも余命が短く、ほとんどの患者が三年以内に亡くなっている。
 アルツハイマー型認知症は進行が遅い認知症であるとされているが、虫喰い病はその中でも最も進行が速く、十代や二十代の患者が多いのが特徴らしい。とくに末期には症状が加速度的に進み、命が尽きる一ヶ月前にもなると意識が戻らなくなる患者が多い。
 なにを隠そう、ふたつ上の姉であるまいがまさしく虫喰い病だった。姉は発症してから約一年で亡くなった。当時十六歳という若さで不治の病にかかってしまった姉を支えようと、僕は関連書籍を片っ端から読み漁ったのだ。
 けれど僕は姉の力になることはできず、姉に忘れられたショックと怒りでむしろ冷たく当たってしまった。
 虫喰い病はものだけでなく、家族や友人、恋人を忘れてしまうこともある。発症してから数ヶ月後、姉は『青野ゆう』という言葉を失って僕のことが誰なのか認識できなくなった。そんな姉に失望し、僕は姉を避けるようになった。
 ──最終的に姉は、僕のせいで死んでしまったのだ。

「悠人、もう大丈夫なの? まだ体痛むんじゃない?」
 退院した日の翌朝。学校へ向かおうと玄関で靴を履いていると、母が心配そうに怪我の具合を聞いてきた。
「ほぼ治ったから大丈夫。いってきます」
 振り返らずに告げて外に出る。まだ怪我は完治していないし膝や肩に痣も残っているが、家にいると思い詰めてしまいそうで学校に行くことにした。両親にはなるべく自死を選択したと思われたくないので、少し時間を空けてほとぼりが冷めてからもう一度決行するつもりだ。
 自宅を出て自転車に乗って最寄り駅まで約十分。そこからさらに十五分電車に揺られて、降りてから十分歩くと高校に到着する。
 古河は僕と最寄り駅が同じで、たまに駅で鉢合わせすることがある。古河はいつも同じ高校に通う女友達と一緒に登校していて、彼女といるときだけ笑顔が見られる。しかしクラスでは誰とも話すことはなく、無表情以外の表情は今のところ一度も見たことがない。だから朝のこの時間は僕には新鮮で、つい彼女を目で追ってしまうのだ。
 とはいえ僕は新学期を迎えて一週間足らずで入院してしまったので、もしかすると古河はもうクラスに馴染んでいるかもしれない。
 この駅にはさらにもうひとり、よく鉢合わせする人物がいる。姉の元恋人であるふじなおだ。彼は最期まで姉に忘れられることはなかった。故に僕は彼が嫌いだった。
 姉の元カレという時点ですでに気まずいし、できることなら顔を合わせたくはない。しかし今日は偶然にも同じ車両に乗り合わせてしまい、「おはよう」と爽やかな笑顔とともに声をかけられた。
 いつも藤木対策としてイヤホンをつけているが、彼はおかまいなしに挨拶をしてくる。だから僕は仕方なく会釈だけ返して無難にやり過ごしていた。彼は亡くなった元カノの弟と顔を合わせて気まずくないのか、甚だ不思議でならなかった。
 藤木と姉は中学の頃の同級生で、僕も昔から彼とは顔見知りだった。いつから姉と付き合い始めたのか知らないし、興味もない。
 高校の最寄り駅で電車を降り通学路を歩く。桜並木に差しかかったが、入院中に見頃を迎えた桜はすでに葉桜に変わりつつあった。
「青野、車に轢かれたんだって?」
「よく生きてたな」
「走馬灯見えた?」
 約一週間ぶりの登校。どうやら車に轢かれて生還した男はクラスの男子たちにとって勇者に映るらしい。自分の席に座った途端、名前もよく覚えていないクラスメイトたちに囲まれた。
 僕は昔から友達は割と多い方で、自分から働きかけなくても気づけばどのクラスになっても上位グループに所属していた。上位グループとはいえ特段モテていたわけではなく、至って普通の男子高校生であると自己評価している。上位の連中にうまく溶けこみ、無難にやり過ごすのがうまいだけで、親友と呼べる友達はひとりもいない。
「俺、体幹強い方だから」
 面倒くさくて自分でもよくわからない理屈で答えて軽くあしらった。
 なんだよそれ、と軽く笑いが起こる。その後もしばらく質問攻めにあい、ようやく解放された頃に古河が教室に入ってきて、僕の斜め前にある自分の席に座った。ちょうど真ん中の列の、後方の席。
 着席するなり彼女はさっそくイヤホンをつけ、チャイムが鳴るまで自分の世界に入る。彼女の周りには新学期が始まってから数日間は男子が群がっていたが、今は近づこうとする者はいなかった。
 彼女の立ち居振る舞いと、頑なな自己とうかいに男子たちの心が折れてしまったにちがいない。もしくはあまりにも冷たい態度を取られるので、敬遠しているだけなのか。
 どちらにせよ僕が欠席していた一週間で、彼女は馴染むどころかクラスで孤立していた。新学期初日のあの人気は今や地に落ちてしまったらしい。
 僕は彼女の後ろ姿をじっと見つめる。彼女が脳神経内科にいた理由と、あの脳の病気に関する本を読んでいた理由が知りたかった。が、本人に直接聞くのは気が引けるし、クラスメイトたちがいる前では避けたい話題でもある。
 僕はその日からしばらくの間、古河桜良の言動を注意深く観察することにした。

 退院後、しばらくの間夜の散歩が禁止になった僕は、りょうな日々を過ごしていた。
 あれから一週間、二週間と古河の観察を続けたが、昼食後になにかの錠剤を飲んでいる点を除けば普通の女子高生らしく高校生活を送っていた。普通とはいっても、相変わらず友達をつくる気はないようで、彼女は学校では厳然とした態度を崩さない。
 古河は授業が終わると教科書やノートを手際よく鞄に詰め、誰よりも先に教室を出ていく。向かった先は五組の教室の前で、そこには彼女の唯一の友人であるよこやまかんがいた。ふたりは廊下でいくらか言葉を交わしたあと、階段を下りて昇降口へ向かっていく。帰る方向が同じなので、僕も彼女らのあとを追った。
 どこへも寄らずに真っ直ぐ帰ったり、カフェやショッピングモールに立ち寄ったりと、ふたりの行動は日によってまちまちだった。
 古河は週に一度は脳神経内科に通っているようだが、ただの頭痛持ちで通院している可能性もある。昼に服用している薬も頭痛薬かもしれない。
 彼女はもしや、姉と同じ病気を患っているのではないかと疑っていたが、僕の思い過ごしかもしれない。本を読んでいたのはただの興味本位か、頭痛に悩まされて読んでいた、と考えればしっくりくる。
 病院の待合室で言葉を交わしてからは一度も声をかけられず、僕にとっても彼女は近寄りがたい存在だった。

「古河桜良? ああ、あの子かわいいよな。青野お前、もしかして狙ってんのか?」
 大型連休が終わって少し経った頃、僕はしびれを切らして聞きこみを開始した。目の前の男子生徒は一年の頃僕と同じクラスで、古河と同じ中学出身だということを思い出して訊ねてみたのだ。
「あー、うん。まあそんなとこ。で、古河ってどんな人なの?」
 説明するのも面倒で、適当に話を合わせる。すると彼は思いもよらない言葉を口にした。
「中二の頃同じクラスだったけど、古河はクラスでは一番の人気者だったよ。バレー部のキャプテンやってたし友達も多くて、たしか学級委員も務めてたな」
 そんなわけないだろう、と思わず声に出してしまった。彼が話しているのは、同姓同名の古河桜良ではないのかと。
「えっと、ごめん。誰の話をしてんの?」
「だから、古河桜良だろ。……ああ、青野の言いたいことはわかるよ。彼女、高校に入って人付き合いをやめたのか知らないけど、なんか変わったって同じ中学だったやつら皆噂してるよ。まるで別人だってな」
 逆高校デビューかよ、と彼は声を上げて笑う。古河について詳しく知りたかったのに、ますます彼女のことがわからなくなった。
「そっか、ありがとう」
「本当にどうしちまったんだろうな、古河のやつ。俺も中学の頃好きだった時期あったけど、今の古河はちょっとな。まあ、頑張れよ」
 誤解している様子の彼は僕の肩を叩いて去っていく。
 冷静になって考えてみると、彼女がもし虫喰い病だったとしたら、人との関わりを避けたいと思うかもしれない。新しい友達をつくっても、すぐに忘れてしまう可能性があるから。
 そう考えると辻褄が合ってくる。ただの頭痛持ちだと思っていたが、それだけで毎週病院に通うものなのだろうか。僕の姉は週に一度は通院していたし、やはり古河も同じ病を患っているのだろうか。
 僕の疑念をさらに深めたのは、それから一週間が過ぎた木曜日の五時間目の出来事だった。
「じゃあこの問題……古河さん。解いてくれるかしら」
 数学の授業中、初老の教師の気まぐれで古河が当てられた。彼女は「はい」と凜とした声で返事をしてから席を立ち、黒板の前で立ち止まる。
 出されている問題は数学が苦手な僕でも答えられるような簡単なものだ。しかし、成績優秀なはずの彼女は黒板の前で立ち止まったまま、一歩も動こうとしない。
 教室内がざわつき始める。自信満々に見えたけれど、直前で頭が真っ白になってしまったのだろうか。少なくとも一分以上、彼女はその場で固まっていた。
「……古河さん?」
 教師が訝しげに彼女の顔を覗く。古河は震える声で聞き返した。
「あの……書くものは?」
「はい? そこのチョーク入れの中に入っているでしょ」
 自分専用のチョークなのか、教科担任が手にしているホルダー入りのそれを貸すつもりはないらしい。
「チョーク?」
 古河はさらに聞き返して、まるでびっくり箱を開けるように恐るおそるチョーク入れを開き、中から一本手に取った。
「……ああ、これですね。失礼しました」
 古河は取り繕うように言ってから問題を解き始める。力を入れすぎたのか途中でチョークが折れてしまい、彼女の手が止まる。
「あの……これ、折れちゃったんですけど、大丈夫ですか?」
「チョークなんだから折れることもあるでしょう。大丈夫だから、そのまま書きなさい」
 まるで初めてそれに触れるような言い方だった。いつも淡々としている彼女とは明らかに様子が異なり、どこか怯えながら黒板に数字を書いている。
 その姿を目にして、僕の抱いた疑いはますます深まっていく。
「今の古河さん、ちょっとかわいかったな」
 どこかの席からそんな言葉が飛んでくる。もし僕の考えていることが当たっているとしたら、かわいいなんて言葉で済む問題じゃない。
 席に戻った古河は胸に手を当て、ひと仕事を終えたかのように大きく息を吐き出していた。

「ねえ古河さん。昨日のあれ、なんだったの? もしかして、かわいいって言われるの期待してた?」
 翌朝、古河が登校してくるとどうはすが栗色の長い髪の毛を揺らして彼女の席に詰め寄った。くるくると巻かれた毛先が、歩くたびに軽く弾んでいる。工藤の背後には気の強そうな取り巻きの女子がふたり。
 このクラスの女子のボス的存在である工藤が、以前から古河を快く思っていない生徒のひとりだということを僕は薄々知っていた。
 容姿端麗でクラスの誰とも馴染もうとしない孤高の存在の古河が気に入らないのだろう。工藤は常日頃から古河のいないところで陰口を叩いているのだ。工藤も古河に引けを取らない美人だが、そのきつい性格故に、古河とは別の理由で男女問わず近寄りがたい存在となっていた。
 古河はイヤホンを外してから工藤を見上げ、「ごめん、なにか言った?」と質問を返した。騒がしかった教室内はしんと静まり返り、緊張が走る。
「だからさぁ、昨日の数学の時間に、チョークどこぉ? ってぶりっ子してたじゃん」
 工藤は握った両の拳を顎に当て、誇張したモノマネを披露する。取り巻きの女子たちは「ウケる」「蓮美、それめっちゃ似てる」と工藤を持て囃した。
「……チョーク?」
 古河は小首を傾げる。
「は? また言ってるよ、こいつ」
「あんま調子に乗んなよ、お前」
 彼女らはさらに容赦ない言葉を古河に投げかける。しかし古河はノーダメージだったらしく、怯むことなくその大きな瞳を工藤に向けている。
「私、そんなこと言ったかな。あんまり覚えてないんだけど」
 そう言いながら、古河は再びイヤホンを耳に挿した。なんて心臓の強い子なのだろうと、僕はひやひやした。
「まだ話終わってないんだけど」
 工藤がハスキーな声でどすを利かせたが、直後にチャイムが鳴って古河は解放された。途端に教室内の空気は弛緩する。
「校則はきっちり守る工藤」
 どこかの席から男子の声が飛んできて、思わずクスッと笑ってしまった。古河は何事もなかったように頰杖をついて携帯をいじっている。
 工藤と古河の一連のやり取りを見て、この数週間抱いてきた僕の疑念は、ほぼ確信に変わっていた。

「あの、ちょっといい?」
 その日の放課後。
 唯一の友人である横山柑奈と下校した古河のあとをつけた僕は、駅舎を出てふたりが別れたあとに思い切って横山に声をかけた。
「青野? どうしたの?」
 横山は僕を振り返る。綺麗に切り揃えられたショートボブが印象的で、彼女も古河に負けないくらい顔が整っている。小柄な横山は古河とタイプはちがうが、彼女も男子から人気のある女子生徒のひとりだ。たしか他校の生徒と交際していると聞いたことがある。
 一年のとき、横山と僕は同じクラスだった。とはいえ話したことは数回程度しかなく、僕から声をかけたのはこれが初めてだ。
「ちょっと古河のことを聞きたいんだけど」
「桜良のこと? 桜良がどうかした?」
 住宅街に囲まれた道路のど真ん中。僕は周囲に人がいないことを確認してから、声を潜めて彼女に問いかける。
「古河ってさ、記憶障害的な病気というか、なんかそういうのだったりしない?」
 直接的な言葉は避け、婉曲的に訊ねた。ある意味直球ではあるけれど、あの忌々しい病名は出したくなかったのだ。
 次の瞬間、横山の顔色が変わったのが見て取れた。彼女は僕を睨みつけるように目を細める。
「は? 青野、なに言ってるの? そんなわけないじゃん」
 横山は不機嫌そうに顔をしかめてから僕に背を向け、先を歩いていく。僕は慌てて彼女の背中を追った。
「本当に? でも古河、ちょっと様子がおかしかったんだけど」
「どんなふうにおかしかったの?」
 こちらに顔を向けず、早歩きしつつ横山は聞いてくる。
「なんか、チョークのことがわからないみたいでさ。ど忘れとか、そんなレベルじゃなかった。それでクラスの女子と少し揉めてて……」
 そこまで話すと横山の足が止まる。彼女は思案顔で俯き、「チョークか……」と意味深に呟いた。
「やっぱり、なにかの……」
「ちがうから! 桜良、たまに天然なところがあってさ、それが出ただけだよ、きっと」
 僕が言い終わる前に、彼女は語気を強めて言葉を返した。天然のひと言で納得できるような問題ではなかった。横山は再び僕から距離を取るように早歩きで先に進んでいく。
 僕はそれでも引き下がらなかった。
「じゃあさ、古河って中学のときは友達がたくさんいて人気者だったって聞いたんだけど、それは本当なの? 今の古河を見てると、どうしてもそうは思えなくてさ」
 横山は足を止めず、「青野には関係ないでしょ」と僕を突き放すのだった。
 たしかに僕には関係のないことだ。でも、もし古河が姉の舞香と同じ病気だったとしたら、放っておくことはできない。僕はその病気に関して、ある程度の知識と理解がある。姉を苦しめたあの病が、また別の誰かを苦しめているのだと思うと見て見ぬふりはできなかった。
 横山は早歩きから小走りに変わり、さらに僕から距離を取ろうとする。僕も負けじと走って彼女を追いかける。
 必死に逃げる横山と、必死に追いかける僕。
 傍から見ればさながらストーカーのようで勘弁してほしい。同じクラスのやつらに目撃でもされたら一大事だ。
 横山はようやく速度を落としたが、僕が追いつく前に彼女は洋風のしょうしゃな一軒家の門をくぐり、玄関の前で立ち止まった。表札には『横山』とあった。
 僕は門扉の前で呼吸を整えつつ、その一軒家を見上げる。三階建てで、白を基調とした豪華な家屋。庭には植木や花壇が充実していて、ちょっとしたお城のようだった。二世帯住宅なのか、扉がふたつある。
 横山は慌てているのか鍵の解錠に手こずっているようで、まだ僕の声が届く距離にいる。
 背後を気にしつつ解錠に成功した横山は玄関の扉を開ける。僕はその扉が閉まる前に、少し躊躇ってから声を張り上げた。
「姉が虫喰い病だったんだ。去年死んじゃったんだけど、もし古河が姉と同じ病気なら、なにか力になりたいと思ってさ……」
 張り上げた声は次第に小さくなっていく。横山はすでに玄関に入ったあとだったが扉は半開きのままで、どうやら僕の声は届いたらしい。しかし反応はなかった。
 もしも僕の思い過ごしだとしたら、彼女らにとってこれほど迷惑な話はない。でも、今日までの古河の奇怪な言動や横山の露骨すぎる拒絶が余計に僕の疑いを深めている。
 できることなら思い過ごしであってほしい。けれど次の瞬間、横山は閉じかけた扉からちょこんと顔を出し、僕を手招きした。
「あたしの部屋で話そう」
 彼女に招かれるまま、僕はその洋館のような家に足を踏み入れた。
「横山の家、広いんだな。部屋の数も多いし」
 横山の部屋に通されると、僕は丸いクッションの上に腰を下ろした。僕の部屋よりも広く、けれど室内はこざっぱりとしている。家具も必要なもの以外は置かれていない。
「あたしんち、五人兄弟だからね。おじいちゃんおばあちゃんは一階に住んでるから、そんなに広くもないよ」
 五人兄弟で二世帯住宅。一年間同じクラスだったとはいえ、そこまでは知らなかった。
「そんなことより」と横山は勉強机の引き出しから一冊の手帳とペンを取り出し、「桜良、チョークを忘れたのね?」と僕にペンの先を向けた。
「あ、うん。授業中に先生に当てられたんだけど、チョークがわからなかったみたいで」
「そう。わかった」
 横山は表情を曇らせて手帳にペンを走らせる。そして書き終わると、その手帳を僕に手渡した。
 そこにはいくつもの言葉が羅列してあった。
「これは?」
「桜良が、今までに失った言葉だよ」
 ため息交じりに額を押さえる横山。僕はそのひと言にどきりとしつつ、もう一度手帳に目を落とす。
『コーヒー』『クロワッサン』『タバスコ』『ひまわり』『スリッパ』など、百を超える量の言葉の数々がそこにはあった。ほかには有名人の名前やクラスメイトの名前、そして新たに書き加えられた『チョーク』の文字も。
「確認できたものだけまとめてあるから、実際はもっと多くの言葉を失っているんだと思う」
 横山の口から、また深いため息が零れた。
「そっか。古河、やっぱり虫喰い病だったんだ……」
「うん。このことは絶対に誰にも言わないでね。桜良、あんまり病気のこと周りに知られたくないみたいだから」
「それはかまわないけど、でも、いずれ気づかれるんじゃ……」
「気づかれそうになったら自分から話すって。だからそれまでは、内緒にしてあげて」
 思えば姉もそうだった。虫喰い病だと告げられても、姉は病気のことを隠して学校に通い続けた。自覚症状はなく、体はどこも痛くないし不調なところもない。その歳で記憶障害だなんて、姉は信じたくなかったのかもしれない。
 病気のことを同情されたり揶揄われたりするのも嫌だと言っていた。親友にも黙っていたそうで、病気のことは家族以外では恋人である藤木直樹と担任の先生しか知らなかった。
「青野のお姉さんも虫喰い病だったって、本当なの?」
「本当だよ。約一年間の闘病の末、車に轢かれて亡くなった。たぶん、赤信号を失ってたんだと思う」
「……そうだったんだ。青野も大変だったんだね」
 重たい沈黙が落ちる。
 ──姉が亡くなった本当の理由は、実はそうじゃない。姉は僕のせいで死んだ。でも、横山にそこまで話す気にはなれなかった。
「桜良はね、さっき青野が言ったように、本当はあんな子じゃないの。中学の頃は友達が多かったし、明るくて誰とでも仲良くなれる子だった」
 中学時代の古河は、話に聞いていたとおり快活な少女だったらしい。彼女が変わってしまった理由は、容易に想像ができた。
「新しく友達ができても、忘れちゃうのが怖いんだって。相手のことも、過ごした時間や思い出だって失うから。高校に入ったら友達はつくらないって決めてたらしいんだけど、本当は寂しい思いをしてるんだよ、あの子」
 姉もそうだったのだろうかと、話を聞けば聞くほどやりきれない思いが込み上げる。古河も姉も、どんな気持ちで日々を過ごしていたのだろう。新学期の自己紹介の時間に、古河がイヤホンをしていた理由がわかった気がした。
 きっと生徒たちの名前を知りたくなかったのだ。知らなければ忘れることもないし、それによって自分も相手も傷つくことはない。知らないことは忘れようがない。病院の待合室で、僕に名乗らないでと彼女が言った理由にも合点がいった。
「桜良、いつかあたしのことも忘れちゃうのかな……」
 横山はぽつりと呟き、物憂げに俯いた。
 弟である僕のことや親友を忘れてしまった姉を思うと、横山を無責任に慰められなかった。
 その後僕は古河の病気のことやふたりの関係などを聞いて、外が暗くなってきた頃に横山宅をあとにした。
「青野に話を聞いてもらってちょっと楽になったかも。誰にも相談できなくてあたしも正直辛かったから。病気のこと、理解してくれる人が同じクラスにいるなら安心した。青野さえよかったら桜良と友達になってあげてくれないかな? 週明けにあたしから桜良に言っておくからさ。あと、青野の連絡先を教えて」
 わかった、と返事をして玄関先まで送ってくれた横山と連絡先を交換した。
 その夜、ベッドに横になり、横山に聞いた話を頭の中で反芻した。ふたりは小学生の頃から仲が良かったそうで、中学では同じバレー部に所属していたらしい。
 古河がキャプテンで、横山が副キャプテンを務めていたという。高校に進学してもバレーを続けようとふたりは話していたそうだが、中学三年の冬、古河の病気が発覚した。
 古河はしばらくの間塞ぎこんでいたそうだが、病気を受け入れ、治療を続けながら高校に通う決意をした。
 虫喰い病はアルツハイマー病と同様に根治は難しく、薬を服用して進行を遅らせることしかできない不治の病と言われている。そんな病気を患っても平然と登校し続ける古河は強い人なのだと思った。僕の姉は学校を休みがちで最終的には通えなくなって、散々なものだったというのに。
 横山は高校に進学してから古河を支えるべく、バレー部に入るのは諦めたらしい。古河には入部を勧められたそうだが、勉強に専念したいからと噓をついて入部を断念したのだと彼女は話していた。恋人との時間よりも古河を優先するあまり、最近は彼氏と喧嘩が絶えないと嘆いてもいた。
 それらを桜良に告げたら殴ると脅されたけれど、さすがに古河も横山の噓には薄々勘づいているだろう。申し訳ないと思いつつも、横山の優しさに甘えているのかもしれない。
 古河は虫喰い病を発病してから一年以上経っている。未だに問題なく学校に通えていること自体奇跡なのだ。
 今後病状がさらに悪化したら、きっと隠し通すのは難しくなるだろう。それまでの間なら、古河の力になってもいい。姉を死なせてしまった贖罪も兼ねて自分の死を延期して、彼女を支えようと思った。古河と同じクラスでなかったら、そして夜の公園で見かけていなかったら、こんな気持ちは抱かなかったかもしれない。
 彼女との繫がりはクラスメイトという小さなものだが、自分から踏みこんでおきながらなにもしないわけにはいかなかった。
 考え事をするなら歩きながらの方が捗る。ベッドから飛び起きて、僕は両親の目を
盗んで夜の散歩に出かけることにした。
 風ひとつない、静かな夜だった。遠くの方で車の走る音が聞こえるだけで、すれち
がう人もいない。思索に耽るには最適だ。
 浮かんでくるのは古河と姉のことばかり。姉になにもしてやれなかった僕が、果た
して古河の力になれるのだろうか。横山には虚勢を張って協力すると言ってしまった
けれど、実際なにをすればいいかまでは考えていなかった。
 そのまま思案を重ねて数十分歩き続け、前方に見覚えのある公園が見えてきた。
 今日もいるだろうかと、公園の中央に視線を向ける。
「あ、やっぱりいた」
 屋根つきのベンチにひとりの少女が座っていた。きっと病気のことで思い悩み、僕のようにひとり静かな場所で物思いに耽りたいのだろう。
 邪魔をしてはいけないと僕は公園を避け、進路を変える。
 しかしすぐに足を止め、踵を返して園内へ進んでいく。週明けに横山が僕のことを話すと言っていたが、大事なことだから自分から告げるべきだと思ったのだ。
 古河はL字のベンチの隅に腰掛けていた。薄手のカーディガンを羽織り、膝の上に乗っている黒猫の背を優しく撫でている。
 さらに数メートル歩み寄ると、古河は顔を上げて射竦めるように僕を見た。
「こんばんは」
 第一声を考えていなかった僕は、無難に夜の挨拶を投げかけた。古河の目が警戒の色に変わる。目力が強くて一瞬怯んでしまった。
「青野くん……だっけ」
 彼女の透き通った声が耳朶を打つ。まさか僕の名前を覚えてくれているとは思わなかった。
「うん。そこ、座っていい?」
 L字形ベンチの空いている方に指をさすと、「うん、いいけど」と警戒したまま古河は言った。警戒しているのは彼女の膝の上にいる黒猫も同じようで、僕が近づくとぴょんと飛び跳ねてそこから脱出した。
「あっ」
 古河は寂しげな声を漏らす。「ごめん」と僕はひと言謝る。黒猫はそのまま草陰に消えていった。
 次の言葉がなかなか浮かばず、気まずい沈黙が流れる。古河は携帯をいじりだし、僕のことなど気にしていない様子だった。
「あの……」
 掠れた声を発すると、「なに?」と古河は携帯をポケットに入れて聞き返した。
「古河の病気のこと、横山から聞いた。そうなんじゃないかって前からずっと思ってて、問い詰めたら教えてくれたんだ」
 ひと息に言うと、息を呑む気配がわずかに感じられた。公園の街灯は近くにあるが、屋根があるため光は遮られ、彼女の表情をはっきりとは確認できない。けれど、僕を睨んでいるのだけは薄らと見えた。
「柑奈、話したんだ。私のこと」
 抑揚のない、冷たい声に背筋が伸びる。言葉足らずだったと慌てて補足する。
「話したというか、俺が無理やり家まで押しかけて聞き出したような感じだったから、横山は悪くないよ」
「……それで? 私の病気のことを知って、どうするつもりなの?」
 てきがいしんむき出しの声音に肝を冷やしたが、怯むことなくはっきりと告げる。
「古河の力になりたいって思ったんだ」
 言いながら汗が頰を伝い、膝元に零れ落ちる。古河はなにも言わず、ただ僕の目をじっと見つめている。沈黙に耐えられず逃げ出したくなったが、ややあってから古河は俯きがちに言った。
「私の問題なんだから、青野くんには関係ないでしょ」
「たしかにそうだと思う。でも、どうしても放っておけなくて……」
 どうして、と古河が発した声に被せるように、僕は強く主張する。
「姉が古河と同じ病気だったんだ。だから、少しは役に立てると思ったから……」
 古河の目の色が警戒から驚きの色に変わった。身を乗り出していた彼女は、ふっと力が抜けたように背もたれに寄りかかった。
 返事がないので、僕はそのまま続ける。
「姉は弟の俺のことや親友のことも忘れてさ、ほかにも大切なものを次々と失って……。それなのに俺は姉になにもしてやれなかった」
 目の奥が熱い。姉のことになるとすぐに涙腺が緩くなる。
 思えば姉が亡くなった夜も、今日みたいな静謐な夜だった。僕がなにもしなかったせいで、姉は死んでしまったのだ。
 古河は相槌も打たず、黙って僕の話を聞いている。
「だから、少しでもいいから力になりたかった。ただそれだけだよ。迷惑ならこのことは忘れる」
 最後のひと言は、古河の前では言うべきではなかったと自分の無神経さに辟易した。
 いくら待っても返事がなく、いたたまれなくなって僕は腰を上げた。
「待って」
 去ろうとした僕を古河が呼び止める。振り返ると、彼女は切実な目で僕に訴えかけた。
「お姉さんの話、よかったら聞かせてくれない?」
 驚きつつ、僕はもう一度ベンチに腰を下ろす。どこから話せばいいか、と頭の中で順序を組み立てて、姉の身に起きた悲劇を古河に打ち明けた。


  *

続きは5月8日ごろ発売の『余命一年と宣告された君と、消えたいと願う僕が出会った話』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
森田碧(もりた・あお)
北海道出身。2020年、LINEノベル「第2回ショートストーリーコンテスト」にて「死神の制度」が大賞を受賞。2021年に『余命一年と宣告された僕が、余命半年の君と出会った話』(ポプラ社)でデビューし、2022年には「第17回 うさぎや大賞」入賞。「よめぼく」シリーズは累計50万部を突破し、2024年にNetflixにて映画化が決定している。

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