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余命100食

 星を見る度に、性懲りもなく考えてしまう。
 君が余命百食なんていう、悪魔のような病に侵されていなければ。
 自分たちには、もっと別な日々があったんだろうなって。
 人を振り回すのが生き甲斐の君は、腰が重い俺をいろいろな場所に誘うのだろう。水族館だったり、プラネタリウムだったり、映画だったり、近所の公園だったり。
 そして食事の度に、食べることが大好きな君は「おいしいね!」と俺に微笑みかけて。
 俺は照れくさくて、「うん」なんて短く返事をするのだ。
 そんな風に何年か毎日を過ごしてから、具体的にふたりの将来を考え始めて。子供は何人欲しいだの、名前はどうするかだの、くすぐったい感情を抱きながら幸せな会話をして。
 遠い未来、すっかり髪を白くして肩を並べる自分たちの姿をぼんやりと思い描くのだ。
 そう、自分たちの人生が今後数十年続くと信じて疑わない、世の中の大多数の恋人たちのように。
 しかし君が死神に魅入られていなかったとしても、そんな幸福は決して訪れなかったと思い出し、俺の現実逃避は無慈悲に終焉を迎える。
 もうすぐ死ぬ君と、死にぞこないの俺。
 そんなふたりじゃなければ、俺たちは決して出会うことなどなかったのだから。

 ──あの日、流星のように君が消えるのを、俺は見届ける運命だったのだ。


  あと九十二食

「お待たせしました、生しらす丼です」
 店員の女性が置いたどんぶりの中には、透き通った灰色のしらすがてんこ盛りになっていた。
 艶やかに輝くしらすの食感を想像しながら、俺は割り箸をふたつに割る。口に運んだ生しらすは、ぷりぷりとした歯ごたえがあり、少し苦みがあり、だけど甘かった。
 なるほど、これはなかなかない食感と味だ。休日にはこの生しらす丼を求めて行列が出来るという話も頷ける。
 十一月中旬のこの時期は、生しらすが獲れない日もあるとネットには書いてあったけれど。今日はラッキーな日だったらしい。
 窓の外の海を見ながら、ぼんやりと俺は思う。少し早めの夕食だったが、もう海面は橙色に染まっていた。
 いつの間にか日が落ちるのがとても早くなっている。俺のメンタルなどお構いなしに移りゆく季節に、ここ数か月間常に抱いている焦燥感が、さらに強くなった。
 三月に、俺はある事故に遭い、命にかかわる重傷を負った。それからもう八か月余り経ち、怪我は全快、後遺症もない。
 ……いや。心の方はまだまったく回復していなかった。
 事故がきっかけで俺はすっかり腑抜けになってしまったのだ。
 その結果、体を駆使する職だったにもかかわらず、汗すら流すことなく漫然と日々を過ごしている。
 このままではいけないと奮起することもあったが、次の瞬間には、死がすぐ側まで迫っていたあの時の感覚が鮮明に蘇る。
 そうなるともう、恐怖に全身が支配され、俺はまたいくじなしと化してしまうのだった。
 そんな風に魂が抜けた状態の俺の中に、ひとつだけ残っていたものがあった。それは、食べることへの楽しみ。
 体を動かしてばかりだったためか、小さい頃から食べることが大好きだった。小学生の頃には、すでに成人男性の二人前は軽く平らげていたと思う。
 その割に、身長は百六十七センチとそこまで伸びなかったし、体重も軽い方だが。まあたぶん、食事で得たエネルギーのほとんどを日々の練習で消費していたのだろう。
 習慣になってしまってどうしてもやめられない軽い筋トレとストレッチ以外は、ここ数か月間ほとんど体を動かしていない。
 しかし腑抜けてからまだ一年も経っていないせいか体はまだ衰えていないようで、以前と食べる量はほとんど変わっていなかった。
 だからなのか、事故の前と変わらず今日も飯はうまい。今の俺は、なにも生み出していない存在に成り下がってしまったというのに。
 まあ、スポーツで好成績を収めたからといって、なにかを生み出しているわけではないのかもしれないが。
 そういうわけで俺が唯一興味を失わなかった食だが、おいしい物を食べたいという気はあっても、自分でレベルの高いメニューが置いてある店を開拓するほどの気概はなかった。
 だから、ネットで見つけたグルメブログで紹介している店をただ巡っていた。『りーのおいしい日記』という、おそらく若い女性が記事を綴っているブログだ。
 検索して適当に選んだつもりのブログだったが、紹介された店を何軒か訪れたら、一店たりともはずれがなかった。
 よくよくブログ内の記事を見ると、写真の撮り方は鮮やかで料理はおいしそうに見えた。それにグルメブログにありがちな、俺にとっては余計な筆者のプライベートエピソードは一切綴られておらず、料理の特徴だけ書いてあってとても読みやすかった。
 いつの間にか、『りーのおいしい日記』は俺の最近の行動の指針になっていたのだ。
 そして、なによりこのブログのいいところは。
『あー、おいしかった。ごちそうさまでした』
 すべての記事が、その言葉で締めくくられているところだ。
 料理人に対するリスペクトと、筆者が心から料理を味わっていることが感じられて、とても気分のいい言葉だった。
 俺は昨日から、ブログ内で数か月前に紹介されていた『鎌倉のおいしい店ベスト3』を巡っていた。
 昨晩は三位の貝料理の店に。今日の昼食には、湘南バーガーというしらすとさつま揚げが入ったハンバーガーが人気の店に。
 そして今日の夕食に、生しらす丼が至高だとブログ内で一位に輝いていた店を訪れた俺だったのだが。
 ──また、あの女性がいる。
 昨晩の三位の店にも、そして昼食の二位の店にも、その女性はいた。つまり、俺と三食とも店が被っているということになる。
 年齢は俺と同じくらいだろう。抜けるような白い肌はとても滑らかそうで、すっと通った鼻筋は映画の中の女優のように美しい。また、猫を思わせる大きく切れ長な双眸は、好奇心旺盛そうに光っていた。
 静止画ならただの美人。しかし三位の店でも二位の店でも、そして今日ここでも、彼女は大口を開けて、満面の笑みを浮かべて料理を味わっている。そのため、動の彼女は快活で健康そうな印象が強かった。
 しかしとても綺麗な食べ方をするので、下品な印象はまったくない。まるで食品のCMでも見せられているかのような、小気味よさを覚える。
 ──俺と同じブログを見ているんだろうな。
 三回も店が被ったのだから、おそらくそうなのだろう。
 しかしあのブログには数十もの記事があったはずだ。その中のたったひとつの記事の店に同じタイミングで来店したとなると、なかなかの奇跡である。
 妙に気になって、生しらす丼を食べながらもつい彼女の方を見てしまう。
 俺が座っているテーブル席から、ひとつ無人のテーブルを挟んだ先に、彼女がいるテーブルがあった。昨日見かけた時と同様で、相変わらずおいしそうに彼女は生しらす丼を味わっていた。
 服装はオーバーサイズのパーカーにスキニーパンツ、ニット帽というカジュアルな恰好だった。しかしサイズ感が絶妙でこなれた印象があり、センスのよさを感じる。
 俺が食べ終わると、彼女もちょうど完食した。
「あー、おいしかった。ごちそうさまでした」
 と、手を合わせて笑顔で彼女は言った。
 そういえば、二位の店でも三位の店でも同じことをやっていた覚えがある。連れもいないというのに。
 ──待てよ。その言葉って。
『りーのおいしい日記』の、記事の締めくくりの言葉じゃん……と俺が思っていると。
 はたと、彼女と目が合った。そしてなぜかそのまま、彼女は俺を観察するかのように目を細めてじっと見てくる。
 俺は気まずくなって目を逸らす。すると、なんと彼女は席を立ち、俺の方へとやってきたのだった。
「ねえねえ、お兄さん」
 声をかけられたので、仕方なく俺は再び彼女に顔を向ける。
 遠目で見ると美人だったが、近くで大きな瞳を直視すると、きれい系よりもかわいい系に思えた。
「……なに?」
「あのさ、もしかして『りーのおいしい日記』の『鎌倉ベスト3』の記事を見て、お店巡ってない?」
 初対面だというのに、人懐っこそうな笑みを浮かべて馴れ馴れしい感じで話してくる。しかし不思議と嫌な印象は受けなかった。
 初めて話す人間に対して、よくそんなに微笑みかけられるなあと俺は思った。
「……うん」
 俺が頷くと、彼女はパッと顔を輝かせた。まるで目の前で蕾が開いて花でも咲いたかのように、眩しかった。
「あ、やっぱり!? あは、嬉しいなー」
「なんで?」
「だってあれ書いてるの、私だから」
「……え。マジ?」
 驚いた。ブログの記事と同じ言葉を言っているとさっき気付いてはいたが、まさか本人だったとは。
 彼女は俺の向かいの席に座った。そして頰杖をついて、無遠慮に俺を見つめてくる。
「ね、何歳? 仕事は?」
「二十一歳。……無職」
 真っすぐに視線を重ねられた上で問われたので、スルー出来ずに答えてしまう俺。だが、咄嗟に適当な噓が出てしまった。
 スノーボードのハーフパイプでそこそこの成績を残している俺だが、一般的な知名度はそんなに高くない。ハーフパイプにはもっと有名な日本人選手がいるため、どうしてもメディアはその人中心の報道になるからだ。だから俺のことなんて知らない人の方が多い。
 俺の職業を尋ねてくるくらいだから、彼女は俺の素性は知らないはず。そんな相手に、わざわざ身分を明かしたくなかった。
 それに、飛べなくなったハーフパイプの選手なんて、無職と同じようなものだろうし。
「じゃあ私の一つ下だ。童顔だからもっと年下かもって思ってたんだけど。……って、無職なの!? やったー!」
「なんでそこで喜ぶの」
 まるで意味が分からない。
「だってその方が都合がよくってさ」
「どういうこと?」
「ね、私のブログを追ってくれてたんなら、きっとめっちゃ食の趣味が合うよね、私たち」
 俺の問いかけには答えず、前のめりになって少し興奮した様子で彼女は言う。人の話をあまり聞かない性質たちのようだ。
 ……苦手なタイプだ。
「まあ、そうかもね」
「しかもなんだか人畜無害そうな顔をしてるし。……君がいいなあ、やっぱり」
 相変わらず俺が無職なこと(本当は違うけれど)に喜んだ意味は分からなかったし、「君がいいなあ」もなんのことなのか見当もつかない。
 それはさておき、「人畜無害そう」というひと言は意外だった。競技をやっていた頃の俺は、目つきが鋭くて近寄りがたいとよく人に言われていたから。
 きっと俺は今、顔つきまで腑抜けになっているのだろう。
「……君がいいなあって、なんの話?」
「あ、うん。私の旅の連れにだよ。君、性格もドライそうだし、気楽に一緒にいられそうでいいなあって」
 俺の問いに今度はしっかり回答してくれたけれど、ますます頭が混乱した。
「旅の連れ?」
「うん。私とおいしい物を巡る旅に出ようよ。一緒にさ」
「旅……?」
「うん。期間は一か月くらいで。私と一緒に、おいしい物をひたすら食べに行ってくれない?」
「……え。意味が分からない。普通に無理だけど」
 目を輝かせて提案してくる彼女だったけれど、俺は眉をひそめてにべもなく言い放つ。
 本当に意味が分からなかった。なんで初対面の俺にそんなことを頼んでくるのだ。そもそも俺は余計なことを考えたくなくて、ただブログに紹介された店を巡っている。
 静かにぼんやりと、過ごしたいのだ。テンションが高そうなこんな女性との旅なんて正直御免である。ってか、新手の詐欺なんじゃないかと疑ってしまった。
 すると彼女は眉尻を下げて、とても情けない顔をした。
「えー、そんな簡単に断らないでよ! ね、ちょっとでいいから私の話聞いて〜」
 俺に手を伸ばして、食い下がってくる。正直、わりと見た目は好みだったし、女の子にお願いされるのも悪い気はしない。
 だけど無理なものは無理だ。
「……もう店出るから」
 これ以上懇願されても、決意は変わらない。さっさと撒きたくて、俺は立ち上がろうとした。
「わーわー、お願いだからちょっとだけ。ちょっとだけだから! このあとの私の話を聞いてそれでも断るんなら、もう諦めるからっ」
 そこまで言うのなら、話を聞くくらいいいか……と、俺は立ち上がりかけたのをやめた。もちろん、こんなよく分からない頼みなど拒否する気しかなかったけれど。
「よかったー! 話は聞いてくれるんだね」
「聞くだけだけど」
 短く俺が言うと、彼女はにんまりと笑う。
「ふふ。でも君が簡単に断れなくなっちゃうこと、間違いなしだよ」
「そういうのいいから、もう早く言って」
「せっかちだなあ。分かったよもう。私さ、余命百食なんだ」
「……え」
 元気そうな彼女のイメージからはかけ離れた、「余命」という単語がその口から飛び出してきて、俺は固まってしまった。
「だからさ、あと百回……あ、もう九十二回か。あと九十二回食事をしたら、私死んじゃうんだよね」
 のほほんと、相変わらず笑みを浮かべたまま言う。死という言葉を放った顔とは思えないほどに能天気そうに。
 ──余命百食。
 詳しくは俺も知らない。だけど近年発見された新種の奇病とかで、度々ニュースで取りざたされていた記憶はある。
 たしか食事をするたびに、余命指数とかいう俗称がつけられた体内の値が減っていき、それがゼロになると体の機能が停止して死に至るという、妙な病。
 治療法は今のところないらしく、患者はただ食事をして死を待つしかないんだとか。
 患者が初期症状を訴えてから検査をし、病気が発覚した頃には大体もう残り百食程度しか食事が出来ないタイミングらしいから、「余命百食」という俗称になったとどこかで聞いた気はする。
 余命百食になってしまったら残りの食事でなにを食べるか──。余命百食を患って亡くなった著名人がいた時に、そんな話題がSNSに溢れていた覚えもある。
「あ、噓だろって思ってるでしょ?」
「……うん」
 俺は頷く。
 だって、あまりにも彼女は快活で、まるで死の影がない。あと百食しか食事が出来ない人間が、こんなに元気なはずがあるだろうか。
 ──死ぬのは怖いことだ。俺は死んだことはないけれど、もうすぐ死ぬところだった。だから他の人よりもそれに対する恐怖心が強いはずだ。
 そしてその結果、俺はなにも出来なくなってしまった。それまで人生のすべてをかけて挑んでいた、スノーボードですら。
「残念ながら噓じゃないんだな。これが証拠です」
 彼女は持っていたリュックの中から、クリアファイルを取り出した。
 中に挟まれていたのは、難病指定やら検査結果やらがタイトルの、びっしりと文字で埋まっている書類だった。
 医療のことはまったく詳しくないが、小難しいことが書かれている上に大学病院の角印が捺された紙は、とてもリアルだった。
「この病気にかかったからにはさ。あと百食、私はおいしい物だけを食べて死のうって決めたんだ。あー、おいしかった、もう悔いはないって思って死にたいの」
 愕然としてなにも言葉を発せられない俺に向かって、彼女は相変わらず気楽に言う。
「……なるほど」
 やっとのことでそれだけ言えた俺。
 理屈では分かる。
 ……分かるけど。
 百回食事をしたあとに死ぬと分かっているのに、普通そんな風に楽しもうという思考になれるだろうか。
「でもさ、ひとりで食べててもなんだかつまんなくてさ。誰かと感想とか言い合いたいじゃん、やっぱり。『これおいしいね』って。だから、旅のお供が欲しかったんだ」
「……なんでそれが見知らぬ俺なの。家族とか、友達とかは」
 やっぱりまだ彼女の話は信じられない。余命百食がそもそも本当なのかどうかすら。
 それに、もし本当だとして最後の旅なのだから、気心の知れた人間と共にするのが普通なんじゃないか、と思う。
「だって、家族とか友達とかがこのことを知ったら悲しんじゃうじゃん。そんな人とはおいしく食事が出来ないよ。だから今まで関わりがなかった人がいいの。私に思い入れがない人がさ」
 納得出来るような出来ないような。俺だったら最後は家族とか友達とか……恋人といたいと思うが。
 今は恋人なんていないけれど。
「……いや。正直、初対面の俺が背負うには重すぎる」
 素直に思ったことを俺は言う。
 今はたしかに彼女の名前も知らないし、変な奴だな以外なんの感情もない。もし明日彼女が死んだところで、少し胸が痛むくらいだろう。
 だけどもし、一緒に旅に出たとしたら。いくら気が合わなかったとしても、何日も一緒に時を過ごした人間が死んだら、やっぱりそれなりに悲しく思うはずだ。
「だからべつになにも背負わなくていいよ。ただ私と一緒においしい物食べてくれればさー。死ぬ時一緒にいるのがきついって話なら、残り三食くらいになったらお別れしてくれればいいし?」
 明るい声音で無茶なことを言う。
 そんな簡単に割り切れるわけないだろ。
「いや。たくさん一緒に食事した子が死んじゃうなんて、引きずるからマジ」
「そこをなんとか! 死にゆく可憐な乙女の最後の頼みだよ!?」
「……ごめんやっぱ無理」
 俺が断ったら彼女は孤独に死んでいくのだろうか。……と、気にならなかったわけではない。
 だけどやっぱり、会ったばかりの俺が彼女の最後の旅に付き合う義理はどう考えてもない。
 俺が断ったあと、彼女は顔をしかめて不愉快さを露にした。
 ──そして。
「ちぇっ。つまんないの」
 頰を膨らませて、無邪気に毒づく。まるでねだったおもちゃを買ってもらえなかった子供のように。とても残念そうな、面持ちで。
 その顔を見た瞬間、俺の感情が動かされた。
 相変わらず、彼女からはまったく死の香りがしない。
 彼女の今の表情は「あーあ。おいしい物を誰かと共有出来なくて残念だなあ」と思っているようにしか、見えなかった。
 ──そもそも、余命百食ってこと自体が虚偽なのかもしれない。
 その可能性はもちろん残っているけれど。もし、本当だったとしたら。本当にあと九十二回食事をしたら彼女が死ぬんだとしたら。
 なぜそんな顔をしていられるのだろう。最後なんだから食事を楽しもうという前向きな気持ちになれるのだろう。
 ──死ぬのが怖くないのか? どうして恐怖心を抱かずにいられる?
 俺はどうしても、それが知りたくなってしまった。
「分かった。いいよ」
「……え?」
 終始お断りの方向だった俺が急に受け入れたことに、彼女は気持ちがついていっていないようだった。虚を衝かれたような面持ちをしている。
「だから、いいよって。おいしい物を食べる旅、俺が付き合う」
「えー、ほんと!? めっちゃ嫌がってたのになんで!?」
「……べつに、なんとなく」
「なんとなく!? ま、いっか! やったー」
 両手を突き上げて、大喜びをする彼女。そして満面の笑みを浮かべてこう言った。
「そういえば自己紹介してなかったね。私はさきむら。よろしく!」
「俺はむろさきとう
 うっかり本名を言ってしまい、しまったと思った。
 しかし彼女──梨依は俺の名前に心当たりがないらしく「凍夜くんね!」と明るい声で言う。あまりスポーツには興味のない人のようで、俺は安堵した。
 しかし本当に、我ながらなにをしているんだと思う。
 スノーボードのことしか考えていない頃の俺だったら、得体の知れないこんな女性と関わるなんてありえないことだ。
 生まれながらの陽キャである双子の弟、ゆきならともかく、俺は元々そんなに人付き合いのいい方でもないし。
 それにもしかしたら、やっぱり詐欺なのかもしれない。手の込んだ美人局つつもたせ的な。
 ──だけど俺はどうしても気になってしまったのだ。もし詐欺だったとしても、それならそれでもはや構わない。もし彼女の話が本当だったら──という可能性に賭けたかったのだ。
 確実な死が約束されているにもかかわらず、なぜそんな風に楽しみを見出せるのか。むしろ死があるからこそ、吹っ切れるのだろうか。
 俺は九死に一生を得てからというもの、死ぬのが怖くてたまらない。梨依のように死が約束されたわけでもないのに、いまだにあの瞬間を思い出すたびに血の気が引いてしまう。
 しかしスポンサーとの契約もあるし、俺はもうすぐ始まる今シーズン中には復帰しなくてはならなかった。
 だけどどうしても恐ろしくて、スノーボードのことを考えたくなかった。後回しにしていた。
 ──だから、知りたかった。
 君を見ていれば、俺がこの恐怖心を克服するためのなにかが分かるんじゃないかって思った。
 俺は藁にでも縋る思いで、余命百食の彼女の笑顔に、自分の今後のすべてを託したのだ。

 生しらす丼の店で梨依と別れたあと、俺は鎌倉駅近くをうろつきながら、今晩泊まるホテルを捜していた。
 余命間近だと言い張る梨依と出会った影響だろうか。歩き回る頭の中には、人生の中でもっとも自分の命が危うかった、あの時の出来事が鮮明に蘇っていた。
 そう。あれは今年の三月のことだ。

  *

 スノーボードという競技には、転倒がつきものだ。
 だから今回だってその例に漏れない。言葉を話すよりも前からスノーボードで滑っていた俺が、何百回も経験済みのよくある転び方だ。
 着地に失敗し、背中からハーフパイプの底面、ボトムへと落下した俺は、単純にそう思った。
 まだ三回あるうちの二回目のRUNの途中だった。すぐに起き上がって苦笑いでも浮かべ、パイプの下まで滑降して三回目のRUNのことでも考えようとした。
 ──だけど。
 起き上がれない。体に力が入らない。そういえば、いつもよりも背中に感じた衝撃が重かった気がする。右足がじわじわと痛んできた。
 それでも必死に立とうとしたら、ゴホッという重い咳が出た。すると、横向きになっていた俺の顔の近くの雪が深紅に彩られた。なんでそんな色になっているのか、瞬時には理解出来ない。
「Bring a stretcher!(担架を持ってこい!)」
「Call an ambulance!(救急車を呼んで!)」
 そんな英語が、俺の近くを飛び交っていた。英語がそんなに得意なわけではないけれど、さすがにその意味くらいはすぐに分かった。
 ──おい待てよ。そんなんじゃないって。もうすぐ起き上がるから、みんな落ち着いてくれよ。
 そう言いたいけれど、なぜかうまく口が回らない。
 そもそも、ここはアメリカのコロラド州だ。ハーフパイプのXゲームズという国際大会が行われている、極寒の雪山。
 日本語でそんなことを言ってもなにも意味がない。……とはいっても、俺の英語力じゃそんな英文はすぐに思いつかなかった。
「凍夜っ……」
 俺と一緒に出場していた弟の雪翔が、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
 ──おい、雪翔。お前の滑走順、次じゃん。パイプの中なんかに入ってきて大丈夫なの。
 そんなことを思いつつも、俺は雪翔にこう言った。
「……大丈夫。もう一回、滑……る……」
 その自分の声が、とても掠れていてあまりにも脆弱で。俺は驚いてしまった。
 その時初めて俺は、自分が救急車で運ばれるほどの重傷で、血をそこら中に撒き散らしていることに気付いたのだった。
 同時に、視界がどんどん黒ずんでくる。俺の名を呼ぶ雪翔の声が遠くなっていった。五感のすべてが徐々に失われていく。
 そこでふとぼんやりと、俺は気付いた。ああ。きっと俺は今から死ぬのだな、と。

 しかし、俺は死ななかった。二日後に目覚めた俺に告げられたのは、内臓と右ひざの靱帯の損傷という、全治二か月の重傷を負ったことだった。
 俺を診察したアメリカ人の医師は、俺にこう告げた。
「打ち所が悪ければ、内臓が破裂して死んでたよ。君はとんでもないラッキーガイだ」
 ──なにがラッキーだよ。今シーズンを全部ふいにするような怪我を負ったっていうのに。
 Xゲームズが行われたのは一月の中旬で、スノーボードでいえばまだシーズンの序盤だった。
 全治二か月ということは、リハビリ期間を考えると少なくとも三か月は競技には復帰出来ない。
 三月末まで大会が詰まっているのに、俺はそのすべてに出場出来なくなってしまったのだ。
 だが腐っていても仕方がない。俺は医者も驚くほどの驚異的なスピードで怪我を治し、調子をみながら懸命にリハビリにも取り組んだ。
 そして、あの転倒から二か月が経ち、「無理しない程度なら練習してOK」という医者の許可をもらった。三月末の大会になんとか出場したかった俺は、焦燥感に駆られながら久しぶりにハーフパイプへとやってきた。
 パイプの頂上の水平部分──デッキに立ち、スノーボードのバインディングを取り付ける。
 ──二か月ぶりだし、まずは軽く流して滑ろう。
 そう思って、俺はスノーボードを滑らせてパイプの縁──リップからドロップインしようとした。
 しかし。
 リップからパイプの底面が見えた瞬間、心臓が誰かに握りつぶされたかのように激しく痛んだ。背筋が凍りつく。腹の底から強い吐き気が込み上げてきた。
 ドロップインする直前に、俺はその場で尻もちをついてしまった。足が、手が、小刻みに震えている。
 その時頭に蘇ったのは、あの時の感覚だった。──ああ。きっと俺は今から死ぬのだなと悟った時の、五感が失われていくあの感覚。
「凍夜……?」
 一緒に滑りに来ていた雪翔が、俺の様子に気付いて心配そうな声を漏らす。
 俺が怪我を治している間、当然ながら雪翔は大会に出場し続けていた。しかも、去年よりも好成績を収めていた。
 嫉妬や悔しさといった、負の感情を俺は雪翔に抱いていた。遅れた分なんてすぐに取り返してやると意気込んでいた。
 ──そう、たった一瞬前までは。
 そんな不屈の精神は今の俺にはない。代わりに俺を支配していたのは、死へ向かいそうになっていたあの時の感覚。死に対する底知れない恐怖心。
「……ごめん。今日は調子悪い。やっぱ帰るわ」
 そんな怯懦な自分を雪翔に悟られないように、俺はすっくと立ち上がると、必死に平静を装ってそう言った。
「え、実はまだ怪我が治ってないとか?」
「そんなんじゃないけど。……気分の問題」
 そう言うと俺は、スノーボードを脱いで抱え、雪翔に背を向けて歩き出した。まだ雪翔は俺になにかを尋ねていたが、聞こえないふりをして足を進めた。
 そのシーズン、俺はついにスキー場には行かなかった。……いや、行けなかったのだ。
 飛ぶことの出来なくなってしまったハーフパイプのライダーが、そんな場所に行ってもなんの意味もないのだから。


  *

続きは発売中の『余命100食』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
湊祥(みなと・しょう)
宮城県出身、都内在住。「一生に一度の恋」小説コンテストで最優秀賞を受賞した『あの時からずっと、君は俺の好きな人。』(野いちご文庫)でデビュー。以降、各出版社で次々と作品を刊行し、2023年には本作がポプラ社小説新人賞ピュアフル部門賞を受賞。

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