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君の余命が消えぬまに

 第一章 余命銀行の新入社員

 ロッカーに貼ってある【生内いけうち花菜はな】の名前が書かれた薄っぺらい磁石をはがすとき、胸はたしかに痛かった。
 三月二十四日、金曜日。最後の出勤日である今日、引き継ぎをしているうちにいつの間にか定時は過ぎていた。
 先週から少しずつ私物は持ち帰っていたし、ハンガーは置いていくことにしたので残りは歯磨きセットくらい。除菌シートで拭いてから扉を閉めた。
 フロアに戻るとさっき挨拶した上司はすでに帰ってしまったらしく、残業組も数人しかいない。
 定時前にフロアでの挨拶は終わっていて、同僚からもらった花束はポツンとデスクの上でユリのにおいをまき散らしている。
 そもそも、入れ替わりの激しい人材派遣業の営業職において、入社時こそ上司は歓迎ムードになるけれど、去っていく人には事務的な対応になる。この三年間、そういう光景を何度も見てきたはず。
 それなのに、なにを期待していたの?
 自分から退職を決めたくせにさみしくなるなんてお門違いもいいとこ。二十五歳にもなってこんな幼い自分をまだ変えられずにいる。ため息をみ込み、デスクの荷物を段ボールに詰めていく。
 新卒で入社して三年。営業職というのは名ばかりで、社員も少ない会社だからできることもできないこともやらざるを得なかった。急に休んだ派遣社員の穴埋めとして派遣先で働くこともあり、今自分がなにをしているのか混乱することもしばしば。
 それでも、疲労よりも大きなやりがいと充実を感じる日々だった。
「あーあ、ついに花菜ちゃんもあたしを置いていくのね」
 缶コーヒーを片手に、武藤むとうリカさんが隣の席にどすんと腰をおろした。
 武藤さんが入社したのは去年の二月ごろだったと思う。初日から気さくすぎる新人で、私のこともすぐ名前で呼ぶようになった。
 聞くところによるとこれまでも転職を繰り返してきたそうだ。『一年も続くなんてはじめてかも』なんて、誇らしげに上司に話していたっけ。
「武藤さん、お世話になりました」
「あたしなんて全然。いっつも花菜ちゃんに助けてもらってばっかりじゃない」
 今日も完璧なメイク、蛍光灯の下でさえも光る艶のある髪、爪の先まで気を遣っているのがわかる。『妖艶で魅力的な女性』が武藤さんなら、私は『地味で目立たない女性』というのがピッタリだろう。
 もちろんそれなりにメイクはしているけれど、それなりはそれなりだ。美容室なんて三カ月以上行けていない。
 ひょいと差し出された缶コーヒーをありがたく受け取る。まだ寒いのにアイスコーヒーというのが武藤さんらしい。
 武藤さんは居座るつもりらしく、デスクに乗せた両肘の上にアゴを置き、荷物をまとめる私を横目で見てくる。これは武藤さんがなにか話したいことがある合図だ。
「明日からどうするの? 次の仕事、本当は決まってるんじゃないの?」
 案の定探りを入れてくる武藤さんに、
「まさか。決まってたらこんな浮かない顔してませんって」
 と顔をしかめてみせる。
「有給は一週間しか残ってないの? ああ、先月はずいぶん休んでたもんね」
「そうなんですよ。検査入院とか親戚の不幸とか友達の結婚式が重なってしまって」
 検査入院は本当のことだけど、残りはすべて架空のこと。無意識に胸に当てていた手をさりげなくおろした。武藤さんは気づいた様子もなくフロアを見回し、近くに誰もいないことを確認すると顔を近づけてきた。
「ねえ、余命銀行のウワサって知ってる?」
 急な話題転換にポカンとしてしまう。
「余命銀行? ああ……中学のころに聞いたことはありますね」
 あれはたしか中学三年生のころ、余命を預けられる銀行のウワサが学校ではやったことがある。それ以来、何度か話題にのぼることはあったけれど、『トイレの花子さん』や『きさらぎ駅』みたいな創作だと認識している。
「花菜ちゃんはどんなふうに聞いてる?」
「……あれって、都市伝説ですよね?」
 いぶかしげな目をしても武藤さんは動じない。
「それでもいいから教えてよ」
 困った。まだまだ話をする気満々の様子だけど、私は一刻も早く職場をあとにしたい。けれど、この一年の経験で武藤さんは満足するまで話を止めてくれないことは身に染みている。
「そうですね」と、宙を見て過去の記憶を呼び起こしてみる。
「自分の余命を誰かひとりだけに預けられる銀行、としか知りません」
 本当は、ほかにも知っている。余命を預けた本人は、その相手にあと一度だけしか会えないとか、余命をもらった期間は歳を取らないとか。
 おとぎ話みたいな設定に、友達の家田いえだ歌住実かすみと昔よく盛りあがったっけ……。今では現実世界で洗濯物のようにまれ洗われている私たちにとって、あのころがいちばん楽しかったのかもしれない。
 髪をかきあげた武藤さんからホワイトムスクがふわっと香った。
「あたし、花菜ちゃんより少し年上だけど、子どものころからそのウワサはずっと耳にしてきたの」
 五つも年上ですよね、と言いたい気持ちをぐっと我慢した。
「そりゃあたしだって、余命を預けられる銀行があるとは思ってなかったわよ。そんな銀行があったら大変な騒ぎになってるはずだから」
 かろうじてうなずく私に「でもね」と、武藤さんが声を潜めた。
「驚かないで聞いてよ。余命銀行は……実際にあるみたいなの」
「はいはい」
 武藤さんのウワサ好きは社内でも有名な話。芸能人のゴシップから普段は顔を見せない社長の話まで、ジャンルは幅広い。
 まあ、勘が鋭いのは認める。これまでも『栄転』という名目で支所に飛ばされた元上司の不倫や、元職員が同業他社のスパイであることを見抜いたりもしている。
 だけど、余命銀行の話は眉唾どころか、とうてい信じることはできない。
 気がつけばフロアには私たちしか残っていなかった。
「ここだけの話だけど、余命銀行で余命を預けたって人を知ってるの」
 耳をすり抜けた武藤さんの言葉が、一瞬でUターンして戻ってきた。
 思わず手を止めて武藤さんを見ると、声の明るさと反比例してその顔は真剣だった。
「そうなの、知ってるのよ。ただし、ルールで、余命を預けたことを他人に言ったら、その契約は無効になるの。だから、本人はいくら聞いても口を閉ざしてるけど、あたしの予想では確実に余命を預けてるわ」
 余命銀行が本当にあったなら、私はどうなるんだろう。暗闇でなにも見えなくなった世界に、一筋の光がしたように感じた。
なにも答えられない私に、武藤さんは静かに口を開いた。
「ここからが本題なんだけど、正直に答えてくれる?」
「……はい」
 イヤな予感がして、一筋の光もかき消えてしまった。
「会社を辞める理由、人事部には『母親の介護』って説明したらしいけどウソでしょう?」
「……本当です」
 ウソと見抜かれないためには相手の目を見て話さなくてはいけない。けれど、私を見る武藤さんの目が悲しみに包まれているようで、気づけば目を伏せていた。両膝を意味もなく見つめる私に、武藤さんは言った。
「花菜ちゃん、病気なんでしょう?」
 その言葉は、頭に浮かんだおとぎ話を一瞬で消し去るほどリアルだった。

 今思えば、予兆は半年前くらいからあった。
 少し走っただけで息があがったり、疲れが取れなかったり。当時は今よりももっと人手が足りない時期だったので、忙しさが原因だと思い込んでいたけれど、三カ月前あたりからは寝ていても胸が苦しくなることが増えてきた。
 健康診断の結果は心電図と血液で『再受診』になっていたけれど、忙しさにかまけてスルーしてしまった。
 いろんな言い訳をしながらなんとか過ごしてきたある夜、呼吸困難に陥った。水のなかにいるようにうまく酸素が吸えず、思わず救急車を呼んだ。
 そのまま先月入院し、精密検査をしたあと医師が告げたのは『拡張型心筋症の疑い』というよくわからない病名だった。
 私よりも疲れた顔をした医師は、丁寧にこの病気について説明してくれたけれど、なにを言われたのか記憶が曖昧だ。
 覚えているのは、拡張型心筋症の発症前の段階であること。発症すれば指定難病であるこの病の治療が必要になること。今はまだ疑いの段階だが、心不全などは起こりうるから予防治療を開始すると言われたことだった。
 でも、まだ疑いの段階だし……。
 なんとか自分を納得させていたとき、ギイと椅子を鳴らし医師がレントゲンを見あげた。
『このままだと、おそらく八年くらいでしょうね』
 まるで天気の話でもするような口調で、命の期限を告げられた。

 高台に建つアパートに戻り、手すりのびた階段をのぼる。今日は、ロッカーで胸が痛くなったくらいであとは大丈夫だった。
 医師は病状が悪化するのはストレスも原因と言ったけれど、会社を辞めることが今の私にとっては最大のストレスだ。
 階段をのぼり終えると深く深呼吸をした。行動のあとに深呼吸をすることが心臓への負担を減らすと、病院で渡された『拡張型心筋症の疑いのある患者さんへ』と書かれた紙に書いてあったので守るようにしている。
 武藤さんの追及をなんとか逃れた自分を褒めてあげたい。明日からウワサされるのだけは避けたかったから。
 そこまで考えて、もう関係ないんだとさみしくなった。
 振り向くと、眼下にある住宅街のなかにオレンジの光がいくつか見える。その向こうには最寄り駅が白い光に包まれていた。
 二階のいちばん奥の部屋の薄っぺらいドアを開け、抱えた段ボールをようやくおろした。スーツもそのままに、右側にある寝室に入るとベッドに倒れ込む。
 1LDKのアパートは古いけれど、駅が近くて家賃も安い。会社までは電車を乗り継がなくてはいけなかったけれど、それも今日でおしまい。
「ああ」
 今日何十回目かのため息をつき、ゆっくりと体を起こす。
「あと八年……」
 この言葉も余命宣告をされて以来、何度も口にしている。
 実感がなかった自分の余命は、こうしている間にも確実に短くなっている。同じように、絶望感も日に日に強まっていて、まるで暗闇のなかにいるみたい。
 こんなことが自分の身に起きるなんて想像もしていなかった。
 暗い部屋の隅で、線香花火のように黄色く点滅しているのは……スマホだ。手を伸ばしてバッグを引き寄せると、スマホの画面に『家田歌住実』の名前が表示されている。
「もしもし」
「花菜、無事に仕事終わった? もう家? 体調は?」
 矢継ぎ早に質問してくる歌住実に、
「えっと、全部の答えがYESかな」
 と答えながらリビングへ向かう。テレビの前にあるローボードには、薬が陳列するように並べてある。
 ふう、と歌住実がホッと息をつく音が聞こえた。
「そっかあ、お疲れ様だったね」
 甘い声に、「うん」と答えてグラスに水を注ぐ。今はまだ三種類の薬だけど、これから徐々に増やしていくと説明を受けている。
「今度、お疲れ様会しようよ。ほら、新しくできたカオマンガイのお店、行きたいって言ってたでしょ」
 同じ中学校に通っていた歌住実とは、高校一年生で同じクラスになってからさらに仲良くなった。歌住実はずっと変わらない。かわいくて天然で、同じ大学に進んでからも男女問わず人気だった。インスタだって毎日のように更新し続けている、流行に敏感なおしゃれ女子だ。
 絨毯じゅうたんに座ると、少しだけ胸が痛い気がした。大丈夫、すぐに治まるはずだから……。
「ありがたいけど、まずは職探しをしなくっちゃね」
 大変だと感じていることを、なんでもないような口調で言うようになったのはいつからだろう。
「そんなのすぐに見つかるよ。なんだったら私の会社も募集してるよ」
「歌住実の会社って東京でしょ? いくらなんでも遠すぎるし、そもそもスキルがないって」
 歌住実は出版社で働いている。最初は販売部、今は編集部にいるそうだ。
「横浜からなら電車一本じゃないの。初心者でも安心。在宅ワークも多いからおすすめなんだけどなあ」
 はは、と軽く笑う歌住実の声が、歌っているように軽い。
「さすがに友達と同じ職場は気になるし」
「私は気にしないよ」
「私が気にするの」
 スマホの向こうで歌住実が不満げにうなっている。クスクス笑いながら、さっきの痛みが消えているのを確認した。
「しばらく実家に戻ったりするの?」
「ああ、それはないかな。しばらくはのんびりするよ」
 家族にさえ本当の病名は告げていない。歌住実には『過労』が退職の原因と伝えてある。
「また近いうちに会おうよ」
「うん。会おうね」
 電話の終わりには合言葉のようにこの言葉を言い合う。毎日のように会っていた歌住実とも、就職してからその機会は減り続けている。とくにこの二年間は数回しか会っていない。
 仕事が見つかったら、きちんと歌住実にも会おう。
 電話を切るころには、部屋を支配していた重い空気がマシになっている気がした。
 そうだよ、まずは自分でもできる職を探すことからはじめればいい。
 医療費は高額療養費制度というものがあることも医師に教えてもらった。最初に支払いをして、後日返還されるというシステムは厳しいけれど、趣味もない私だから貯金はそれなりにある。発症してしまったら、そのときは国の補助もあるそうだし、そこは心配しなくてよさそうだ。
 これからは体と向き合いながらのんびり暮らしていこう。
 人間なんて単純な生き物だ。安心したとたん、急に眠気が薄い毛布のように体を包み込んだ。
 ふと武藤さんが話していた余命銀行の話が頭をよぎったけれど、すぐに頭から追い出した。おとぎ話を信じている場合じゃない。
 安らかな気持ちはきっと明日の朝には消えている。この先に待っているのは平穏とは言えない厳しい現実なのだから。
「いい仕事が見つかりますように」
 リアルな願いごとを口にしてからカーテンを開けると、空には今にも折れそうな三日月が浮かんでいた。

 ハローワークは想像以上にいていた。
 会社から離職票が届いた水曜日の午後、はじめて訪れた建物はお世辞にもキレイとは言えず、薄緑の壁がところどころひび割れている。
 雇用保険受給の申請と求職申込の手続きをしている間も、フロア内はガランとしていた。
「あー、持病があるんですかあ」
 私が書いた求職票をじっと見つめながら、男性職員が頭に手をやった。カタカタとキーボードを弾くと、「ああ」とさっきよりも深いため息をつく。
「難病指定されている病気の疑いですか。なるほどなるほど。それではまた次回、ってことにしましょう」
 あっさり言うと、職員は私に求職申込の用紙を返してきた。さすがにムッとしそうになるのをこらえて首をかしげてみせた。
「次回……ですか?」
「新年度がはじまるこの時期は、あまりいい求人がないんですよ。心臓疾患をお持ちですと、なるべく穏やかで体を使わない仕事を探したほうがいいでしょう。身体障害者手帳はお持ちですか?」
「いえ。あの先生がおっしゃってたのは──」
「申請すれば四級か三級が出るかもしれません」
 その言葉に絶句する。それは医師からも言われたことだ。どうするかは来月の診察日まで保留にしてもらっている。
「さまざまな控除やスマホ代の割引も受けられます。なにより障害者雇用の枠で求職できるんですよ」
 先ほどと違い、スラスラと淀みなく説明をしたあと、職員ははじめて私の目をまっすぐに見た。
「お体を大切にしながら、体調に合う仕事を見つけていきましょうね」
 わずかばかりゆがんだ口元。ほほ笑んでいたのだとわかったのは、建物を出たあとだった。
 コートの前をギュッと合わせて歩けば、もうすぐ四月だというのに凍えるほどの冷たい風が攻撃してくる。
 職員の言うように申請をすればメリットも多いかもしれない。ただ、次の職場で持病についてオープンにすることにためらいを覚えてしまう。
 この数日、体調はとてもいい。息苦しさを感じることもないし、なによりよく眠れている。
「ストレスだったのかな……」
 会社を辞めたことで体調も安定しているのかもしれない。
 駅に続く古い商店街は、まばらにシャッターが閉まっていて歩いている人も少なかった。さっきのハローワークといい、まるで世界にひとり取り残された気分だ。
 横浜といえど、このあたりは田舎で栄えているのは駅前だけ。商店街を抜けると赤信号で止められた。この交差点を境に、徐々にビル街へとつながっていく。
 コンビニで買い物をし、無料の求人誌をもらって帰ろう。
 そんなことを考えていると「ねえ」と右側から声がした。最初は自分に話しかけられているとは思わなかった。
 チラッと確認すると、六十代くらいの上品そうな女性が私を見ていたので驚く。
「さっきは大変だったわね」
 心配そうな表情をしている女性の髪は白く、うしろでひとつに結んである。メイクは薄めで、おばあさんとおばさんの中間くらいの印象だ。
「……え?」
 私に話しかけているの?
 フリーズする私に少し近づくと、女性は目じりのシワを深くしてほほ笑んだ。
内藤ないとうくんって思ったことをズバズバ言っちゃうの。私も閉口しちゃうときがあるからわかるわ。室長にもしょっちゅう怒られてるみたいだけど、なかなか変わらないのよね」
 さっきの職員さんは内藤という名前なんだ。そういえば名札にそう書いてあったっけ……。
「でもね、やさしいところもあるのよ。ちゃんと仕事を探す人を応援したいって気持ちはあるの」
 それは……わかる気がする。私の体調も気遣ってくれたし、最後は笑みも見せてくれた。
 うなずきかけて、ようやく我に返った。
「あの……」
 戸惑う私に、女性はパッと両手を顔に当てた。
「イヤだ。自己紹介もしないでごめんなさい。私、鈴本すずもと朋子ともこです」
 どこかで会ったことがある人だろうか。人材派遣会社で働いていると登録者に街で偶然会うことも多いけれど、何百人も担当しているから思い出せない。
「どこかでお会いしたことがありますか?」
「初対面よ。さっきハローワークにいたら話が聞こえちゃって。なんだか落ち込んでいるように見えたから、つい話しかけちゃったの」
 肘にかかっている黒いバッグから書類が顔を出している。ハローワークの求人票ということは、女性も仕事を探しているのだろう。
「そうでしたか。私は──」
「花菜ちゃんでしょ? 苗字は聞き取れなかったから教えてくれる?」
「生内です」
「生内花菜ちゃんね。私のことは朋子さん、って呼んでくれるとうれしいわ」
 ふふふ、と笑う朋子さんにどうしていいのかわからずにうなずく。
「聞こえちゃったんだけど、持病があるそうね?」
 信号が青になり歩き出す。
「まだ疑いの段階なんですけど、あまり心臓に負担のかかる仕事はできなくって……」
 どうして初対面の人にこんな話をしているのだろう。冷静に考えれば、いきなり自己紹介をして病気について尋ねてくるなんて怪しすぎる。
 それだけ朋子さんが話しやすい人ってことなのだろうけれど、なんだか魔法にかけられているみたい。ううん、これはまるで催眠術だ、ペラペラとしゃべる口を止められない。
 横断歩道を渡り終えると朋子さんが足を止めたので、私もそれに倣った。
「花菜ちゃんのエントリーシート、見せてほしいな」
「エントリーシート?」
 初耳の言葉にキョトンとするが、すぐにさっき記入した求職の申込用紙だと思い当たった。
 個人情報のオンパレードの用紙を、普通なら絶対に見せないはず。なのに朋子さんがあまりにも堂々と右手をパーの形で差し出すから渡してしまった。
 朋子さんは用紙をじっと見ると、何度かうなずいたあと返してくれた。
「前職は人材派遣の営業。だから、接遇がしっかりしているのね」
「見掛け倒しです。営業といっても事務の仕事から現場までなんでもこなしましたから」
 つい先日まで働いていた職場がなぜかキラキラとした思い出になっている。もう戻れないから過去を美化してしまうのだろうか。
「仕事、辞めたくなかったのね?」
 静かにそう言う朋子さんに、思わず唇をかんでいた。そうしないと心にしまったはずの本音がこぼれそうだったから。
 誰もが『忙しい』しか言わない大変な仕事だったけれど、私は好きだった。次から次へと生まれるトラブルをひとつずつ解決していくのも今思えば充実していた。
 だからこそ病気が発覚した瞬間に、退職を決意した。見捨てられる前に逃げたかったから……。
 感情を出さないようこらえる私の手を朋子さんが両手で握った。びっくりするほど温かい手に、不覚にも涙がこぼれそうになる。
「次はどういう仕事を探すつもりなの?」
「まだわかりませ……ん」
「せ」のところで、あっけなく涙は頰にこぼれた。
「あの……正社員がダメなら、それこそ派遣でもいいかなと思っています。いくつかの現場も経験していますから、座りながら作業のできる工場とかもわかっていますし」
「今は派遣でも社会保険に入れるっていうものね」
 朋子さんが握っていた手を離した隙にコートの袖で涙を拭う。久しぶりに泣いたのがはじめて会った人の前だなんて、どうかしている。
 なんとか話題を変えなくちゃ。
「あの、朋子さんはどういう仕事を探しているんですか?」
 涙声にならないように意識して声を張った。朋子さんは目を丸くしたあと、なぜか目じりのシワを深くしてクスクス笑った。
「そうねえ。正社員で週休三日、ボーナスも多くて大型連休も多いところかな。もっと言うと、外出はたまにあるけど受付業務がメインの仕事」
「……そんなところあるんですか?」
 きょとんとする私に、朋子さんは今渡ってきた交差点の向こうを指さした。
「じゃあ今から一緒に行ってみましょう。私、花菜ちゃんもそこに就職すべきだと思うの」
 驚きのあまり声が出せずにいる私の向こうで、信号が再び青色に変わった。

 自動ドアの向こうには小さなオフィスが広がっていた。
 ここは……いったいなんの会社だろう?
 三列に置かれたソファの向こう側にはカウンターがあり、奥が事務スペースのようだ。カウンターを境にして手前が、壁紙も床もソファも白で統一されているせいで、宙に浮かんでいるみたいな錯覚を覚える。反して、奥側は机も壁紙も黒系のものばかり。突き当たりには大きな窓があり、高い建物がないせいか春の空が大きく広がっている。従業員入り口と思われる裏口のドアは半分開いたままだ。
 まるでオセロみたいなオフィスだけど、どこかで見たことがある気もする。
「じゃあ花菜ちゃんはそこに座って見学してね」
 あっさりと言う朋子さんに、ギョッとしてしまう。
「見学? だって朋子さんも求職中なんですよね?」
「ああ」と笑ったあと、朋子さんはバッグから求人票を取り出した。
「実は私、スパイなの」
「…………」
 さすがに催眠術も解けたらしく、急に朋子さんが怪しく思えてきた。ひょっとしたら高利貸しのような仕事だったりして……。
 のこのこついてきてしまったことを後悔しつつ、求人票に目を落とすと、質屋や学習塾のものだった。所在地はどれもここから遠い。
 よほど顔をこわばらせていたのだろう、朋子さんは「やだ!」と手を口に当てた。
「冗談よ、冗談。支店長に同業他社の情報を探ってこい、って言われて行ってみたの。残念ながら情報は手に入らなかったけど、代わりに花菜ちゃんを見つけられたのよ」
「ひょっとして朋子さんは、ここで働かれているのですか?」
「そうなのよ。パート勤務だけどね。うちも人手不足で困ってたところだったの」
 うれしそうに笑っているけれど、まったく状況が理解できない。
 とにかく今は逃げ出したほうが良さそう。足先を自動ドアのほうへ向けるのと同じタイミングで、朋子さんが肩に手を置いた。
「興味がなかったら帰ってくれてもいいから、ね?」
 朋子さんはいちばんうしろのソファに私を座らせ、カウンターの内側に入っていく。
 頭のなかで警告音がしている。今すぐここを逃げ出さないと──。
「遅かったな」
 低い声に顔を向けると、奥にあるドアから若い男性が出てきたところだった。なにか黒い物を胸に抱えている。あれは……猫?
 葬式にでも出るような黒いスーツの男性は、スラリとした身長。フワッとした髪形で前髪が目にかかっている。黒縁メガネの向こうにある目は鋭く、笑顔が想像しにくい。
「遅くありません。これでも苦労して似たような職種を見つけてきたんですからね」
 バッグから求人票を取り出す朋子さん。受け取る男性の胸元に、さっきの黒猫らしき動物はいなかった。
「学習塾? 全然銀行業務と違うだろ」
「銀行なんて引く手あまた。ハローワークに求人票が出てるわけないでしょう。支店長は世間を知らなすぎです」
 怖そうな男性にも動じない朋子さん。ふたりはまるで親子みたい。ううん、おばあちゃんと孫のようにも見える。
 あれ……? 今、銀行って言わなかった?
「そっか……」
 見覚えがあると感じたのもそのはず。ここは私が普段利用している銀行と似たような造りをしている。でも、銀行にしてはあまりにも小さい。
 ふと、視線を感じた。支店長と呼ばれた男性が私をじっと見ている。いや、前髪とメガネのせいでその瞳は見えないけれど、顔がこっちを向いている。
 笑みもなく一文字に結んだ口に拒絶されている気分になった。
 やっぱりついてくるんじゃなかった。帰ろう、と腰を浮かしかけたとき、音もなく自動ドアが開き一組の老夫婦が入ってきた。
 年齢は八十代ほどだろうか。おじいさんは杖をついているけれど胸を張り、一直線にカウンターに向かう。おばあさんのほうは若干腰が曲がっていて、少し遅れてカウンターにたどり着いた。
「いらっしゃいませ」
 いそいそとカウンターに座る朋子さんと目が合うと、ウインクをしてくる。『見ていて』ということだろうか……。
 ソファに再び腰をおろすと、支店長は奥にあるデスクについたらしく私からは見えなくなった。
「ご来店ありがとうございます。お預け入れでしょうか?」
 よそ行きの声で尋ねる朋子さん。
 ああ、やっぱりここは銀行だったんだ……。派遣業務でも銀行の受付の仕事はあるし、実際何度か人手が足りず自分がヘルプに入ったこともある。
 でも、正社員で週休三日制なんて銀行は聞いたことがない。そもそも普通の銀行なら、壁にキャンペーンポスターが貼ってあったり、預貯金をする際に必要な書類の案内などがあったりするはずなのに見当たらない。
 ゆっくりと閉まる自動ドアの向こうは歩道につながっているし、そういえばATMもない……。そう、とにかくここは物が圧倒的に少ないのだ。
 じっと考え込んでいると、おじいさんが「なあ」と朋子さんに顔を近づけるのが見えた。
「ここは余命銀行なのか?」
 ──ヨメイギンコウ。
 ヨメイギンコウ、ヨメイ銀行……。
「えっ!?」
 無意識に漏れた声に反応したのは朋子さんだけだった。私を見て小さくうなずいている。
 待って。ここは……あの余命銀行ってこと?
 まさかそんなはずはない。あんなの、ただの都市伝説のはず。
「孫のために俺たちの余命を預けたいと思っててな。まさか、こんな家のそばにあるとは思わなかったな」
「本当ですね。いつも通っているのに気づきませんでした」
 うれしそうに語る老夫婦に、ドッキリ企画に参加させられている気分が抜けない。こんな非現実なことを簡単に受け入れられるほど子供じゃないし……。
「それではおふたりの身分証明書を確認させていただきます」
 朋子さんの言葉に、おばあさんが財布から保険証のような物を取り出した。
「ありがとうございます」と受け取った朋子さんの顔が、にわかに曇る。
吉川よしかわ健太郎けんたろう様と、吉川美代みよ様ですね。今回は、どなたに余命をお預けになる予定ですか?」
「ひ孫が生まれたんだよ。その祝いに、この老いぼれふたりの余命を贈ってやりたくてなあ」
「では、おふたりとも預け入れを希望されているのですか?」
 会話に耳を澄ましていると、ふと足になにか触れた気がした。見ると、黒猫がちょこんと座って私を見あげている。
 美しい毛並みは艶やかに光っていて、大きな瞳は毛よりももっと濃い色に見えた。触れようとする手からするりと抜けて、黒猫はまた私に目をやった。赤い首輪に添えられた鈴が、ちりんと音を立てた。
「残念ながら、健太郎様はお預けいただくことができません」
 その声に顔をあげた。
「は? どういうことだ。なんで俺だけ預けられないんだ」
「健太郎様は現在八十四歳。余命をお預けいただける年齢を越えております」
「バカ言うな! うちは女房のほうが年上なんだ。こいつのほうが越えてるはずだろうが」
 大きな声に怒りがにじんでいる。お客様と呼ばれる人たちは、ちょっとしたきっかけでクレーマーになってしまう。
 派遣のときもそうだ。理不尽なクレームを受けたスタッフが翌日から出社しなくなってしまったことも何度かあった。
「ご説明いたします。こちらをご覧ください」
 朋子さんがタブレットを渡そうとするが、健太郎さんはすぐさま突き返した。
「こんな小さな文字は見えん」
「失礼いたしました。それではこちらを」
 今度は大きなパネルを取り出した朋子さんが、説明をし出した。吉川夫婦が顔を近づけたせいで、話している声がうまく聞き取れない。
「わかるか?」
 急に隣でした声に、文字どおり飛びあがってしまった。
「え……?」
 見ると右側に、さっき支店長と呼ばれた男性が座っていた。両腕を組み、まっすぐ前を見ている。
 いつの間に隣に来たのだろう……。
 まさかさっきの猫が支店長に? 慌てて姿を捜すと、猫はさっきの位置で目を細めて私を見つめている。
 咄嗟とっさに声を出せない私に、支店長はアゴを動かし老夫婦を指した。
「じいさんのほうが年下。なのに、余命を預けられない。理由は?」
 近くで見るとメガネ越しの瞳が見える。鋭く射るような目、高い鼻に薄い唇。黒いスーツのせいで映画に出てくる殺し屋をイメージさせる。
「え……あの……」
 喉がカラカラに渇いてしまい、かすれた声になってしまう。ぐっとお腹に力を入れ、支店長のほうへ体ごと向いた。
「ここは、本当に余命銀行なのですか?」
 チラッと私を見ると、支店長は長い足を組んだ。
「質問しているのは俺のほうだ。余命をじいさんよりも年上であるばあさんしか預けられないのはなぜだ?」
「それは……」
 考えろ、と脳に指令を出しても全然ダメだった。支店長の言葉がまるで外国語のように聞こえる。
「ヒントを出そう。今じゃ男女平等と言われているが、この銀行のシステム上、男性が不利なのは致し方ない」
 もう一度老夫婦を見る。ワーワーと文句を言う健太郎さんを、美代さんが必死でなだめている。
 ここが余命銀行だったとして、どうして男性が不利になるのだろう?
 最近は『シルバー人材』と呼ばれる高齢者も派遣に登録することがある。登録しているのは女性が多く、私が担当していた人のなかには八十歳を超えている人もざらだった。
「あ……」
 ふと浮かんだ考えは、冷たい支店長の視線にかき消えてしまった。でも、ひょっとしたら……。
「寿命の問題でしょうか?」
 おそるおそる口にすると、支店長は「ほう」と短く言った。
「もっと詳しく」
「その……平均寿命は女性のほうが高いと聞きます」
 カウンターに立つふたりに聞こえないよう、声を潜めた。


  *

続きは発売中の『君の余命が消えぬまに』で、ぜひお楽しみください !

著者プロフィール
いぬじゅん
奈良県出身、静岡県在住。2014年、「いつか、眠りにつく日」(スターツ出版)で毎日新聞社&スターツ出版共催の第8回日本ケータイ小説大賞を受賞し、デビュー。「奈良まちはじまり朝ごはん」シリーズ(スターツ出版)や「この恋が、かなうなら」(集英社)ほかヒット作を多数手がける。「この冬、いなくなる君へ」をはじめ4作の「冬」シリーズ(いずれもポプラ社)は累計25万部を突破した。

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