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ヨンケイ!!

 一走、受川星哉

「オン・ユア・マーク」
 二度、軽くジャンプしてから地面に手をつき、まず左足、それから右足を後ろのふみきりばんに乗せる。スターティング・ブロックのセッティングは足の長さで測るやつも多いけど、俺はメジャーを使ってる。スタートラインから、左踏切板の先端まではきっちり55・5センチ。それ以上でもそれ以下でもない。足の裏で押してみて、スタブロが慣れ親しんだ感触を返してくるのを確かめると、走るためのスイッチがオンになる。よしっ。
 目の前には赤い8レーンの400メートルトラック。
 春の名残なごりを薄くまとった、生ぬるい風が吹いている。
 海が近いせいか、少し潮の香りがして、なんとなくおおしまを思い出す。
 今日は比較的涼しいが、日差しはもう初夏のそれだ。空が青い。赤いトラックと対照的で、鮮やかに目に焼きついた。
 二走のあまの背中がうっすら見えている。黒いパンツに、濃紺のウェア。三走の先輩は遠い。四走のあさつき先輩からは、俺の背中が見えるはずだ。
 これから俺たちは、このトラックを一周走る。わずか400メートル。時間にして四十秒強。けれどこの道の先が、遠い八月のインターハイまで繫がっていくのだ。
 手首をかんさせるように三度ずつ振ってから、スタートラインの手前に手をついた。右手のバトンを、行先を示すように、まっすぐ前に向けて置く。クラウチング・スタートの「クラウチング」は、屈むという意味だ。その名の通り、前傾姿勢になり、合図を待つ。
「セット」
 腰を上げる。
 スタートラインの少し手前をぼんやり見つめる。
 耳は澄まさない。
 待っているのはピストルの音じゃない。
 そのごうほうが空気に落とすもんの、最初の一つ。
 それは聞くというよりも、振動を感知するイメージだ。
 感じた瞬間、俺は右足でブロックを強く蹴り、誰よりも早くトラックに一歩目を踏み出す。

  *

 とりあえず一回走ってみんべ、って話になって、土曜日に大島町陸上競技場を借りてちゃんとした400メートルトラックで走ってみることになった。
 俺の100メートルベストタイムは、追い風で11・50秒。運がよければ、支部の予選を抜けられる程度のタイムだ。
 雨夜はベストが11・20秒だけど、長いことスランプとかで11秒前半で走ってるのは見たことがない。
 脊尾先輩は、専門400って言ってたけど、100でも11秒台出せるらしい。確か80くらいって言ってたか。
 朝月先輩は11・00秒の持ちタイムがある、俊足のスプリンター。ここ一年は安定して11秒前半を出してるけど、今年は10秒台も狙ってるだろう。
 確かに、慢性的に人数不足なうちの陸上部としては、奇跡的なくらいに走力は揃ってる。個々人の走力ってのは簡単には向上しない。ショート・スプリントという種目は、うんざりするようなトレーニングの積み重ねで0・01秒を縮めていく競技だ。いくらバトンパスが上手くても、個々人の走力が低いせいで勝てないレースが、この世にはたくさんあるんだろう。
 単純に、四人のベストタイムを合計すると46秒弱。支部予選を抜けるには43秒くらい欲しいから、バトンで3秒縮める必要がある。これはたぶん現実的な数字だ。バトンも走りもハマれば42秒台だって夢じゃない。でも都大会を抜けるためにはおそらく41秒台が必要で……サトセンはバトンが最高に上手くいけばいけるとか言ってたな、本当かよって思う。たぶんみんな思ってる。走力の向上は前提だろうな。少なくとも一人は10秒台で走れないと……まあ、あとは走ってみないとわからないな。
 スタートからの30メートル程度を、一次加速という。スタブロ(スターティング・ブロック)を蹴った勢いのまま、上体を起こさないようにゼロからスピードを一気に上げていく。そこから60メートル付近までが二次加速、体を徐々に起こしながらトップスピードに達する。このトップスピードを維持したまま、いかに残りの距離を走り切るかというのが100メートル走の難しいところだ。
 で、リレーの場合、速度が落ちてくるタイミングでバトンを渡すことになるので、そのへんを見極めて、次走者が全力で加速できる、かつ前走者が追いつける〝距離〟を調整する。足で測ることが多いので〝そくちょう〟と言ったりもする。止まってもらったって別にルール違反じゃないけど、そうなると一切加速できないから、当然スピードは落ちる。後ろの選手は走ってくる選手を信じてスタートし、逆に前の選手はその信頼に応えなくちゃならない、とサトセンは言う。チームワークが大事だ、と。
 チームワーク、か。あんまり得意じゃない言葉だ。そもそも陸上競技は個人競技が多く、人数の少ないうちの部じゃ、なおさら縁もなかった。
「イチニツイテ」
 サトセンの合図。地面に手をつき、踏切板に足を乗せる。
「ヨーイ」
 腰を上げる。スタブロがしっかりと足の裏を押し返してくる感触にスイッチが入る。
「ド」
 ン、が聞こえる前にスタブロを蹴った。
 前傾姿勢のまま一次加速。一歩二歩三歩としっかり地面を押して力をもらう。
 腕を大きく振りながら少しずつ上体を起こし、二次加速。
 50メートル付近で体がまっすぐになる。
 トップスピード。雨夜の背中が見えて、マーカーを越えた。
 雨夜が出る。
 右足がテイク・オーバー・ゾーンをまたぐと、その背中はもう目前だ。
 たぶん、まだ80メートルくらいしか走ってないなと思いつつ、
「ハイッ」
 雨夜の左手が上がる。
 レーンのぎりぎり内側を切り込むように走りながら、俺は右手を伸ばす。
 雨夜の左手がバトンの正面にきていなくて、体を左にねじりながら押し込んだ。
 つかんだか? わからない。
 雨夜が振り向いたので、やべっと思って放した。
 バトンを受け取った雨夜が遠ざかっていく。あしの回転が速い。小柄な分、ピッチで稼ぐタイプのスプリンターだ。確かに速い。けど、11秒前半の走りじゃない。
 マーカーを越え、脊尾先輩がスタート。雨夜は後半だいぶ失速して、バトンがなかなか渡らない。脊尾先輩が後ろを振り向き、雨夜が「すみません」とか叫びながら叩きつけるようにバトンを渡した。
 脊尾先輩は、走り出すと「おっ」となる走りだった。フォームが綺麗だ。無駄がない。力みがない。ついでに、も感じない。
 朝月先輩は脊尾先輩がマーカーを越えて、さらに一拍置いてから出たように見えた。脊尾先輩のスピード感のなさを、朝月先輩も感じたに違いない。バトンはほとんど止まってもらったようだった。加速してトップスピードに乗り、減速を最小限に留めてフィニッシュ。朝月先輩個人の走りとしては綺麗だけど、あれじゃあただの100メートル走……。
 終わってから、三走の脊尾先輩が苦笑いしているのが見えた。朝月先輩は難しい顔をしている。雨夜がちらりと見てきたけど無視して、俺はため息をついた。
「45・55秒です」
 サトセンが単調な声で告げた。オフシーズンだってことを差し引いても、遅ェ……。

  *

 敷地ばかり広いだけで、手入れの行き届いていないグラウンド。でこぼこだし、毎年雑草もじゃんじゃん生えてくる。グラウンドっていうか、広い空き地って感じ。島の反対側まで行けば、400メートルのきちんとした陸上競技場があるけど、学校からはちょっと遠いんで、平日は行けない。無料だけど要予約、なにより使用時間が十七時までなので、放課後に行ったところでアップだけで終わっちまう。
 とうきょうとうしょ部に属する俺たちの住む島は、大島と呼ばれている。しょとうの中では都心から最も近く、かつ最大面積を誇り、七千人強の人が暮らしている。いい島だけど、個人的に高校はサイアク。なぎさだい高校は、大島に二つある高校のうちの一つで、生徒数は三学年合わせても百人程度しかいなくて、使う人数が少ないせいな
のか校庭はいつも荒れっぱなしだ。
 ボロっちいラインカーをガタガタ引きずって歩いていた俺はふと振り返り、十メートルほど前から線が引かれていないことに気づいて舌打ちした。石せつ灰かいにまみれ、元の色もよくわからないラインカーのふたを開けると、小さくはくえんが立ち上る。中身は案の定空っぽだ。
「早いな、うけがわ
「ちわっす」
 肩を回しながら歩いてきた朝月先輩に、目も合わさずあいさつしてから、ちらっと顔を上げた。腕を伸ばしつつ、薄い灰色の空を難しい顔で見つめる朝月先輩は、少し寒そうだった。年が明けたばかりのこの時期、大島の平均気温は本州より少し高いけど、ニシだかナライだか、時折強い西風が吹く。朝月先輩のジャージがバタバタとはためいていて、自分の方が前からグラウンドにいたはずなのに急に寒気を覚えた。
 石灰を補充するために倉庫に向かうと、途中で雨夜とすれ違った。相変わらず中学生みたいな顔をうつむかせて、のろのろと歩いている。向こうが何も言ってこないので、俺も挨拶しない。グラウンドの中ほどで、トレーニング用のハードルを引きずっていたさかが俺に気づき、わざとらしく内股になった。
「あ、セイヤくーん。手伝ってぇー」
 夏の名残を未だに残した、小麦色のニヤニヤ顔は、同学年の男子の間じゃ某モデルに似てるとかでちょっと有名だ。とはいえ普段、大概男っぽい口しかきかない酒井の猫なで声は、悪寒がすごい。
「気色ワリィ声出すな。今ライン引き中」
 酒井は嫌そうな顔をしたが、俺の表情も似たようなもんだと思う。
 倉庫に着いて、袋から直にじゃかじゃかスコップで石灰を入れて戻ると、いつのまにかもんとうが来ていた。陸上部顧問にはとても見えない、小枝みたいな脚。冴えない眼鏡めがねとぼろいジャージ。けれど陸上経験者らしくて、指導は結構しっかりしてるんで、部員からは一定の信頼を勝ち得ている。部員からはだいたいサトセンって呼ばれてる、笑わない数学教師。
「全員揃ってますね」
 サトセンは淡々と部員を見回した。周囲には俺、朝月先輩、雨夜、酒井の四人。手についた石灰を神経質に落としていると、酒井にこそこそかれる。
「あれ、誰だろう」
「さあ……」
 素っ気なく答えつつ、俺も気になっていたそいつに目をやった。
 サトセンの後ろに、見知らぬ男子生徒が佇たたずんでいた。まず目が行くのは茶髪だった。結構明るくて、整った顔立ちも相まって目立つ。こんなやつ、校内で一度見たら絶対覚えてるけど記憶にない。肌は焼けてるし、サトセンが連れてきたってことは陸上部なんだろう。曇り空一歩手前みたいな、なんだか冴えない空色のジャージも一応様にはなっている。ただ、なんというかサッカー部っぽい感じだ。
 どこ見てんだ、と思って目線を追うと、隣の野球グラウンドの練習をぼーっと眺めているようだった。上の空、という言葉がぽっと頭に浮かぶ。
「紹介します。新入部員の脊尾くんです」
 サトセンがそう紹介すると、脊尾クンは目を合わせるのがめんどくさい、とでも言いたげに深々と頭を下げた。
「脊尾あきらです。よろしく」
 感情のない声。顔を上げても、視線は上がらない。
「脊尾くんは東京から来た転校生です。まだ慣れないことも多いと思うので、部活以外でも色々教えてあげてください。朝月くんは同じクラスでしたね、クラスでも仲良くしてあげてください」
「はい」
 朝月先輩がしっかり返事をすると、脊尾クン改め脊尾先輩が微妙に顔を強張らせた。なんか迷惑そうな顔だな、とぼんやり思う。
大島ここだって東京だよ、先生」
 酒井がちょう気味に笑う。
「失礼。本州という意味です」
 サトセンが言い直す。
「種目は?」
 朝月先輩がたずねた。
「……専門は400」
 400メートル走の陸上競技的な分類は短距離走になる。渚台高校陸上部は、酒井以外は全員短距離走を専門としてるからそっちのお仲間だ。とはいえ400ってのは微妙な距離で、200を専門としてる俺が100を走ったり、100を得意としてる雨夜と朝月先輩が200を走るのとは、ワケが違う。ショート・スプリントに対し、ロング・スプリントと呼び分けされる距離──それが400。
「じゃあ、短距離だな」
 朝月先輩はうなずいて、俺と雨夜を手で指し示した。
「雨夜と受川が同じ短距離だ。二人とも一年だけど、部のことはだいたいわかってるから。俺がいないときに何かあったらこいつらに訊き いてくれ」
 俺は一瞬雨夜の方をちらっと見た。雨夜がぎこちなくしゃくしていたので、それにならっておく。
「あ、仲間外れにしないでくださいよー。私とも仲良くしてください。酒井はる、専門は100メートルハードルです。島とか学校のことなら色々教えられますんで」
 酒井が女子だからか、それとも一番人懐こそうに聞こえたからか、脊尾先輩はようやく少しだけ笑って、うなずいた。それでなんとなく歓迎ムードが出て、自己紹介は無事に終わったことになった。
「それでは脊尾くん、今日からよろしくお願いします」
 サトセンがやはり淡々とうなずいた。
「さて、脊尾くんが入部したことで、短距離のメンバーに一つ提案があります」
 朝月先輩。雨夜。俺。そして脊尾先輩。
 俺たち四人をじゅんりに見据えるサトセンの目は、珍しく鋭い光を宿しているように見えた。
「リレーをやってみませんか」

 400メートルリレー。つまり、100メートル×4リレー。いわゆるヨンケイ
 日本のお家芸なんて言われて、世界陸上とかオリンピックなんかじゃ注目されてるけど、慢性的に人数不足なこの部でその名を聞く日がくるとは思わなかった。
 渚台高校の歴史はそこそこ長いし、陸上部だって伝統ある部活動らしいが、ここ数年その部員数はおおむね五人前後だ。短距離といえば陸上の花形、いつだって人は多い方らしいけど、それでもなかなか同性のきっすいのスプリンターが四人揃うってことはない。まあ、酒井がもし男子だったら、あいつも加えて走るっていうのはありだったかもしれないが。
「えー、ずるいなあ。私もリレー走りたい」
 りながらハードルを並べに行く酒井を尻目に、俺たちは体育座りでサトセンからオーダーを聞く。リレーをやるという提案自体に対し、とりあえず反対意見は、今のところ出ていなかった。
「誰がどの区間を走るかは、これからしっかり決めていくつもりですが、ひとまずざんていてきに、これでやってみようと考えてきました──まず一走、受川くん」
 俺はぴくりと眉を動かした。返事をせずにいると、そのままサトセンが二走の名を告げる。
「二走は、雨夜くん」
「え……はい」
 おびえた様子で返事する雨夜の横顔を、俺はじろりとにらむ。
「脊尾くんは、三走です」
「はあ」
 と、脊尾先輩が気の抜けた返事をした。またぼーっと野球部の方を見ていたようだ。
「アンカーは朝月くん、君に走ってもらいたいです」
 朝月先輩はしんみょうにうなずいた。
「インターハイ予選が四月末と考えると四ヶ月弱しかありませんが、個々人の走力は申し分ありません。まずは東京支部予選突破。僕の見込みでは、バトンが最高に上手くいけば、都大会を抜けて関東までは狙えるはずです」
「んな馬鹿な……」
 思わず俺はぼやいてしまい、横で雨夜も失笑した。脊尾先輩にいたっては話を聞いていない。朝月先輩が気づいて、そっちを睨んでいる。サトセンは部員たちのいまいちなリアクションに気づいているのかいないのか、珍しくその能面を崩して眉間にしわを寄せた。
「ただ、ちょっと今バトンを捜していましてね。数年前に、受川くんのお兄さんがリレーに出ているんですが……」
 俺は顔をしかめる。自分が一走、雨夜が二走だと聞いたあたりから、ちょうど兄の影が頭をちらついていたところだった。
「あのときに使ったバトンがどこかにあるはずなんです。それは僕が捜しておきます。練習は後日始めますので、心づもりだけしておいてください」
 では、あとはよろしく、とサトセンは朝月先輩にうなずいてみせ、自分はバトンを捜すのか倉庫へ向かってスタスタと歩いていった。

 練習が始まる前に、俺は「石灰補充してきます」と噓をついて、重たいラインカーを引きずって倉庫まで戻った。中をのぞき込むと、数学教師の細い背中がきょろきょろと棚を見回している。
「先生」
 俺が声をかけると、石灰で眼鏡を曇らせたサトセンが振り返った。
「どうしましたか? 練習は?」
「石灰の補充っす。まだライン引いてないんで」
 俺はぽんぽんとラインカーの蓋を叩いたが、中身はもちろん満タンだ。
「あとたぶん、バトンここにはないっすよ。少し前に掃除したけど見なかったんで」
「そうなんですか」
 サトセンが「困りましたね」と無表情につぶやくのを聞き流し、俺はラインカーの蓋を開けて、石灰を入れるふりをする。
「……先生」
 スコップを動かしながら、自らの背中越しに訊ねる。
「なんで雨夜が二走なんですか?」
 別にリレーにそこまでの思い入れがあるわけじゃない。俺の専門は200、関東大会行くならそっちの方がまだ現実的だし、気持ちだって。
 ただ、リレーにおいて二走ってのは特別だ。エース区間だ。かつて兄が、関東の舞台で走ったように。今の雨夜なんかに務まるとは、思えない。それだけ。
「雨夜くん、このところ調子悪そうですからね。どうしようかとは思ったのですが」
 と、前置きしたうえで、サトセンは言った。
「ただ、本来の力が発揮できれば雨夜くんがベストだと思っています。元々100を走っていて、純粋な走力は非常に高い。そういう意味だと朝月くんも二走向きですが、り合いでの勝負強さを考えると彼の方がアンカー向きかと考えました。でも、そのあたりは実際走ってみてですかね。受川くんはどう思いますか?」
 サトセンには、「朝月先輩を二走にすべきでは?」とでも聞こえたのだろうか。
 そうじゃねえ、と思ったけどそんなこと言ったって仕方なくて、俺は投げやりに「そうっすね」と答えた。

 リレーの練習は、冬休み明けから始まった。バトンは結局見つかってなくて、暫定的に体育祭で使うプラスチック製のバトンで代用することになった。太さがちょっと足りないし、なんか軽い気がする。競技用は確かアルミ製だ。
 とりあえずその場でバトン渡し、という初歩中の初歩から始めることになった。なんせ今までリレーなんかやろうと思ったこともない。四人で四走を先頭に間隔を空けて並ぶ。一走の俺は最後尾だ。その俺から、手だけ動かしてバトンを雨夜に渡す。雨夜は脊尾先輩に渡し、脊尾先輩は朝月先輩に渡す。それを繰り返す。走ってないからミスりようもないが、バトンの感覚と距離感をつかむための練習だとサトセンは言っていた。
 ヨンケイ、なんて言うと、なんだか大げさに聞こえそうだけど、やることは運動会とかでやるリレーと何も変わらない。バトンをもらって、走って、渡す。それだけ。
 でもオリンピックとか、いやインターハイでもいい、とにかくガチのリレーを間近で見たらわかる。全然別モノだって。そのレベルだと選手の走りが綺麗だっていうのもあるけど、とにかくスピード感が段違いだ。
 ヨンケイの高校記録って、40秒を切ってる。四人で割ったら、一人当たり10秒以下だ。一方で、100メートルの記録は10秒を切れていない。単純計算だと同じ距離当たりのスピードはリレーの方が速いってことになる。これは世界記録を見てもそうだ。
 これが意味するのは、リレーはバトンワーク次第でタイムが縮められる、ってこと。もたもたバトンを渡せばタイムは悪くなるし、逆にバトンパスなんかなかったみたいに自然に渡せれば、しっかり加速して走り出せるから通常の100メートルよりも速く走れる。
 いかに減速せずスムーズにバトンを渡せるか。これはリレーにおける永遠のめいだいだ。走力で世界におとる日本がリレーで強いのは、このバトンワークによるところが大きいと言われてる。だから俺たちも、リレー練習をするとなったら、やることは一にも二にもバトンというわけ。
 ある程度感覚をつかんだら、今度は軽く走りながらやるバトンパス──〝バトンジョグ〟をやる。こういった練習メニューはサトセンが考えていて、「練習として何をするか、なぜその練習が必要なのか」まではわりと丁寧に教えてくれる。でも、実際にやり始めると、じっと俺たちを見ているだけ……やる気があるんだかないんだか。どっちかっていうと朝月先輩の方が、あれこれアドバイスしてる。
 オフシーズンって、そんなガツガツ走るような練習はしないもんだけど、残り四ヶ月からのリレーチーム発足……やっぱり結構練習しないとだめなのか。正直、俺はあんまりリレーに対するやる気が湧いてこない。
 一走はもらうことは考えなくていい。スタートは得意だし、リレーの一走はカーブ区間だけど、200メートル走もスタートはカーブだから慣れてる。要するにいつも通りのスタートをして、ペース配分だけ100メートルにシフトして、あとは雨夜に渡せばいいだけ……理論上は。

 で、実際に陸上競技場で走ってみたら、散々だったというわけ。


  *

続きは発売中の『ヨンケイ!!』で、ぜひお楽しみください!

著者プロフィール
天沢夏月(あまさわ・なつき)
1990年生まれ、東京都出身。『サマー・ランサー』にて第19回電撃小説大賞〈選考委員奨励賞〉を受賞し、デビュー。著書に『DOUBLES!! ‐ダブルス‐』シリーズ、『八月の終わりは、きっと世界の終わりに似ている。』『17歳のラリー』『青の刀匠』など。

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